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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

諫早海軍航空隊 居住地区

諫早市に所在した諫早海軍航空基地の南西に諫早海軍航空隊 居住地区がありました。

当航空基地は先に逓信省航空局 長崎地方航空機乗員養成所の付属飛行場として設営、海軍に移管され大村海軍航空隊 諫早分遣隊(のち諫早海軍航空隊)が開隊します。
Fb 本部庁舎 北東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲民家に転用されている本部庁舎の一部

【探索日時】
平成27(2015)年9月28日





諫早海軍航空隊 居住地区 概略
昭和15(1940)年、逓信省は有明湾の干拓地で広大な平野が広がり、かつ近隣に障害物の無い北高来郡諫早市大字小野島 (現小野島町) 一帯の農地に飛行場用地を選定、町の協力のもと農地を買収、5月、飛行場の設営を開始します。

昭和17(1942)年4月21日、設備は未完成ながら海軍系の逓信省航空局 長崎地方航空機乗員養成所(以下「長養」と略)が開所しますが、同所は干拓地の水田を埋め立てて設営、海面より土地が低く水はけが悪く降雨時は滑走路が泥濘と化し使用不能になったため飛行機操縦生は基礎教育、初練教育修了ののち大村海軍航空隊を間借りし教育を受けました。

昭和18(1943)年12月1日、長養付属飛行場は海軍省に移管され、諫早海軍航空基地として佐世保海軍施設部第二〇二部隊が進出、東側隣接農地を買収し、地元勤労奉仕隊、学校報国隊の協力を得て拡張を開始します。
格納庫を増設するとともに東側拡張用地にコンクリート敷滑走路、工場地区を、航空基地南西に居住地区を設営、飛行場地区は降雨時に使用不能になるため金比羅山から土砂を採取、木造の陸橋により運搬し滑走面を嵩上げします(昭和19年10月、改修完了)。
※逓信省、海軍省による用地買収の経緯、金額、設営状況は資料が無く詳細不明です。

昭和19(1944)年3月15日、諫早海軍航空基地に大村海軍航空隊 諫早分遣隊が開隊、昭和20(1945)年3月1日、大村海軍航空隊 諫早分遣隊は諫早海軍航空隊に改編され、中練特攻隊を編成し錬成にあたるなか8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

21日、軍令部は大海令第五十一號により24日1800以降の一切の飛行を禁止、諫早所在の零戦3、九三中練81、白菊2、九六水偵5はプロペラを外し格納庫に入庫保管されます。
同日、海軍大臣より軍人の解員(9月1日付)が示達され、残務整理班を残置しその他は給料、退職金を支給し即日復員、23日、長養も解散します。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により諫早海軍航空基地の海軍省用地は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。

9月17日、米第5水陸両用軍団隷下の第2海兵団第3大隊800名が大村市に進駐を開始、24日、諫早海軍航空基地は接収され、12月、航空機ほか兵器、軍需品の処分ののち、昭和21(1946)年9月、内務省を通じ大蔵省に返還、大村財務局(のち長崎市内に移転し長崎財務局)の管理下に置かれ諫早市に管理委託されます。

居住地区西側は主に満洲國方面からの引揚者住宅として転用、本部庁舎、兵舎など長屋状の建物が大半のため1世帯2間程が割り当てられ分割して払い下げられます。
また東側は戦災復興資材として解体され払下げられ、定住者の農地として払い下げられます。

昭和32(1957)年7月25日~28日、諫早豪雨に際し床上浸水、及び暴風により屋根が破損し雨漏りが発生、一部の世帯が転居し空家は解体され更地化していきます。

現在は遺った部分も増改築されていますが、一部は当時の面影を残しています。
またかつては退避壕が数基あったそうですが、現在は全て撤去されてしまいました。

遺構について
諫早海軍航空隊の居住地区は航空基地からやや離れた場所に設けられます。
諫早空全体 nasi 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲諫早海軍航空基地 配置図
①諫早海軍航空基地 飛行場地区(元逓信省飛行場)
②諫早海軍航空基地(拡張部)
③長崎地方航空機乗員養成所
④諫早海軍航空隊 居住地区
⑤諫早海軍航空隊 工場地区
⑥着陸演習機場
⑦地下施設
※緑文字が当記事にて紹介施設

④諫早海軍航空隊 居住地区
諫早海軍航空隊 居住地区は戦後、引揚者住宅として転用、一部は戦災復興資材として解体され払下げ、その他の空地は農地に転用されます。
住宅に転用された下記の建物が遺ります。
居住地区 諫早海軍航空隊(長崎諫早)②
▲見取図

A 兵舎
11軒に分割され増改築されていますが奇跡的に当時のままの規模で遺ります。
A 兵舎 北東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北東から

A 兵舎 北西から パノラマ写真 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北西から

A 兵舎 南東から パノラマ写真 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南東から

A 兵舎 南西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南西から

A 兵舎南側の煉瓦・コンクリート基礎 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲便所基礎
 A兵舎南側の駐車場に遺ります


B 兵舎
同じく11軒に分割され西端2軒は建て替えられています。
B 兵舎 南東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南東から

B 兵舎 南から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南西から

B 兵舎 北東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北東から

B 兵舎 東端の最状態良部分 南から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲当時の物と思われる外壁


C 兵舎
こちらは10軒に分割されていたようです。
残念ながら東側の半分は滅失しています。
C 兵舎 南から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南から

C 兵舎 北西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北西から

C 兵舎 北東から パノラマ写真 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲東側の切断面


D 兵舎
C兵舎と同じ規格ですが残存部の所有者が住民退去に伴い全て購入、必要部分を除き解体してしまったため西端しか遺されていません。
D 兵舎 西端 パノラマ写真 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲西端
 当時の物と思われる外壁が遺ります

D 兵舎 南西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南西から

D 兵舎 南東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲東側の切断面

D 兵舎 内部(天井板張られるも梁が僅かに見える) 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲内部はほぼ当時のまま遺ります
 所有者の方に見させて頂きました


F 本部庁舎
諫早空居住地区で最大の建物でした。
現存部分の分割状況から他の兵舎の様に等分では無かった様です。
現在、空家や滅失で寸断され3分割されています。
Fa・b・c 本部庁舎 南東から パノラマ写真 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲全景

Fa 西端部分
Fa 本部庁舎 北西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北西から
 当時の物と思われる外壁が遺ります

Fa 本部庁舎 南東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南東から

Fb 中央部分
Fb 本部庁舎 北東から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北東から

Fb 本部庁舎 南から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南から

Fc 東端部分
半分は空家になり倒壊寸前です。
Fc 本部庁舎 北西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北西から

Fc 本部庁舎 西端 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲断面
 昭和19(1944)年築ですが非常に頑丈に造られています

Fc 本部庁舎 西端内部 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲屋根の洋小屋組

Fc 本部庁舎 西端付近の残骸 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲西端付近に散乱する便所に物と思われる基礎


G 第一士官舎
もはや原型は無く中央付近が遺る程度です。
G 士官舎 北西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲北西から
正面側は当時の物と思われる外壁が遺ります

G 士官舎 南西から 諫早海軍航空隊(長崎諫早)
▲南西から


供用部隊
諫早海軍航空隊
昭和17(1942)年6月7日、ミッドウェー海戦の結果(戦訓)を受けた軍令部は従前の軍備計画、及び実行中の第五次軍備充實計畫(マル五計畫)を改定、航空兵力の急速かつ画期的な増勢(実用航空隊132隊から347隊へ増加(1隊=常用4・補用2))、航空母艦の緊急増勢、潜水艦の増勢を骨子とし、6月30日、海軍大臣と商議、9月、「改マル五計畫」が策定され随時実行されます。
同計画では昭和21(1946)年までに内外地併せ作戦航空基地47、空母搭載機補充基地11、及び戦時実用航空隊配備基地65(予定7含む)の整備、水上24個の整備、大型機搭乗員組2倍、その他1.5倍、搭乗員養成能力は昭和20(1945)年以降毎年10,000名を計画します。

同計画を受け将来の航空機搭乗員たる飛行豫科練習生(甲乙種のみ)の採用は
昭和17(1942)年
5月1日、乙種飛行豫科練習生(以下「乙飛」、他種も同様略)十八期 1,475名
10月1日、甲飛十一期 1,191名
12月1日、乙飛十九期 1,963名

昭和18(1943)年
4月1日、6月1日、8月1日、甲飛十二期 3,215名
5月1日、乙飛二十期 2,951名
10月1日、12月1日、甲飛十三期 28,501名
12月1日、乙飛二十一期 3,948名
※人数は資料により差異あり
と推移します。

昭和18(1943)年10月1日、松山海軍航空基地に隣接し松山海軍航空隊(中村忍大佐)が開隊、甲種飛行豫科練習生 第十三期生(前期)3,275名が入隊し飛行豫科練習生教育を開始します。

昭和19(1944)年3月15日、大村海軍航空隊 諫早分遣隊(藤瀬勝大佐)が開隊、大村空は練習聯合航空總隊(海軍大臣麾下)麾下第十二聯合航空隊に配属され教育、警戒、攻撃を任務とし、諫早分遣隊は陸上練習機による操縦訓練に従事します。
諫早分遣隊長は長崎地方航空機乗員養成所所長を兼務します。

5月15日、松山空を卒業した甲飛十三期生のうち180名が第三十八期 飛行術練習生として隊に転属、飛練教程を開始します。

7月初旬、降雨により滑走路が浸水したため佐世保海軍航空基地に移駐、8月初旬、神崎国民学校を宿舎として間借りし、目達原陸軍飛行場の半分を借り教程を実施、10月初旬、改修が完了した諫早海軍航空基地に復帰します。

10月10日、第四十一期 飛行術練習生64名が三重空奈良分遣隊から隊に転属し飛練教程を開始します。

12月28日、飛練三十八期生は飛練教程を修了、戦闘機専修者84名は諫早空に残留、その他は霞ヶ浦(艦攻専修、特別空挺隊)、宇佐(艦攻専修)、百里原(艦攻専修)、神之池(櫻花)各海軍航空隊に夫々転隊します。

昭和20(1945)年1月15日、新分遣隊長・竹中正雄中佐が八〇一空司令兼副長から着任します。

2月5日、第四十二期 飛行術練習生88名が三重空奈良分遣隊から隊に転属し飛練教程を開始します。

16日、練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将は第十二聯合航空隊司令官・原忠一少将に18日以降、大村空に特攻訓練60名、戦闘機訓練50名、諫早分遣隊に特攻訓練40名の要員選抜と4月末までに既成を目指し錬成の実施を下令します(機密第一六二二三〇番電)。

18日、分遣隊長・竹中中佐は教官、第三十八期 飛練生、第四十一期 飛練生より特攻要員60名を銓衡、暗緑色に塗装され後部座席の操縦機器を取り外し偵察員席とし25番模擬爆弾を懸吊できるように改造された中練により飛行訓練を開始します。
また、特攻要員以外は金比羅山北端に地下兵舎、自力発電所なの設営を開始します。

3月1日、練習聯合航空總隊は復帰、第十航空艦隊に改編され、第十二聯合航空隊は同航空艦隊麾下に編入され、第八基地航空部隊(第十航空艦隊)第十二聯合航空隊に部署、練度の高い者は対機動作戦に、低い者は特攻作戦の錬成を実施、3月末までに完了する様に下達され急速な戦力化を図ります。

同日、大村海軍航空隊 諫早分遣隊は呉鎭守府所管の諫早海軍航空隊(竹中正雄中佐)に改編、第十二聯合航空隊に編入、練習航空隊に指定され陸上練習機の操縦訓練に従事します。
隊は第八基地航空部隊第十二聯合航空隊に部署され、引続き特攻訓練に従事します。
諫早空司令は長崎地方航空機乗員養成所所長を兼務します。

20日、隊は第一機動基地航空部隊(五航艦司令長官指揮)第十二聯空部隊に部署され、1隊20機の特攻隊の編成と待機訓練を下令され、隊は神風特別攻撃隊 緋櫻隊を編成します。

26日0900、米軍が慶良間列島に上陸を開始、1100、聯合艦隊司令部は天一號作戰を発動します。

4月15日、16日、連日米艦上機100機が南九州一帯に来襲します。

5月5日、第十二聯合航空隊は復帰、隊は練習航空隊を解かれ、第十二航空戰隊(五航艦所属)に編入、第一機動基地航空部隊(五航艦)練習機特攻戰隊(十二航戰司令官指揮)に部署され特攻訓練と待機を下令されます。

6月6日、海軍總隊司令部は決號作戦(本土決戦)における練習機特攻隊の展開配備について第一配備は南九州、第二配備は四国沿岸とし兵力温存を下令します。

7月29日、司令・竹中中佐は神風特別攻撃隊 緋櫻隊とともに鹿屋に前進、8月15日0400に出撃が下令されますが、0500、出撃は中止されます。
19日、竹中中佐は緋櫻隊隊員に15日に渙発された『大東亞戰爭終結ノ詔書』に関する訓示ののち直接復員を希望する者を送り出し、残りの隊員を率い諫早空に復帰します。

21日、軍令部は大海令第五十一號により24日1800以降の一切の飛行を禁止、諫早所在の零戦3、九三中練81、白菊2、九六水偵5はプロペラを外し格納庫に入庫保管されます。
同日、海軍大臣より軍人の解員(9月1日付)が示達され、諫早海軍航空隊残務整理班(竹中中佐以下5名)を残置しその他は給料、退職金を支給し即日復員します。

9月24日、米軍により諫早海軍航空基地は接収され、12月末、航空機ほか兵器、軍需品の処分が完了ののち、昭和21(1946)年9月、接収が解除され残務整理班は復員します。


主要参考文献
『諫早海軍航空隊史』(平成24年5月 諫早市海友会)

『長崎地方航空機乗員養成所』(昭和53年3月 古瀬孝 長養鵬会)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)

アジア歴史資料センター各史料
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Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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