筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)
笠間市に「筑波山に向けヨウソロー!」の掛け声が響き「鬼の谷田部に蛇の筑波」と言われ、厳しい訓練で知られた筑波海軍航空隊(筑波海軍航空基地)がありました。

▲資料館として保存されている航空隊本部庁舎
【探索日時】
平成27(2015)年3月28日、10月11日

大正3(1914)年7月24日、第一次世界大戦が勃発、羊毛の輸入が困難になった事から、大正7(1918)年4月、農商務省は牧羊奨励のため「緬羊百萬頭増殖計畫」を策定、農務局に緬羊課を新設し、7月6日、西茨城郡宍戸町の官有林に友部種羊場を開場(ほか全国4ヶ所)、羊1,205頭の飼育を開始します。
しかし、大戦後の所謂戦後恐慌の影響から、大正13(1924)年12月15日、友部種羊場は閉鎖され、昭和2(1927)年2月1日、種羊場跡地の一部58町148歩に農商務省から貸し下げを受け日本國民高等學校(大正15年5月15日認可の農本主義に基づいた労農青年学校)が開校、さらに平坦地が広がる跡地は昭和3(1928)年頃より所澤陸軍飛行學校が使用、昭和6(1931)年4月、霞ヶ浦海軍航空隊の陸上練習機が離発着訓練に、また氣球隊(所沢)が実地研究に使用します。
昭和9(1934)年1月、海軍航空本部(以下「海航本」)は霞ヶ浦海軍航空隊が計画も含め複数の航空隊が混在し教育に支障が出る様になった事から陸上班の一部(初歩練習)移設を検討、近隣の種羊場跡地一帯を新設航空基地用地として選定し、1月下旬、海航本の筒井技師以下3名が種羊場跡地60町歩、隣接する日本國民高等學校耕作地30町歩を測量、必要用地は海軍省に移管されます(学校は昭和10年4月、内原に移転開始、昭和13年、主力、昭和17年5月、全部の移転完了)。
海軍省建築局は新設航空基地の具体的計画を立案、3月5日、同局山田技師は荒井書記を伴い宍戸町を訪問、村上治平町長と会談し現地を視察、友部駅-基地間の軍道1㎞を海軍が設営する事を伝達、町は橋爪(射撃場)-基地間1㎞の道路献納を約し(4月22日、町道新設費4,400円が議決)、また送電に関し東都電力㈱と契約します。
※筑波海軍航空基地の所要経費は総額2,825,582円でした。
20日、横須賀海軍建築部の監督、三井商事㈱、㈱大林組の指揮のもと労務者400名により基礎工事を着工、鉄道輸送された建築資材(鉄骨800t、セメント200t、砂2,000t、割石1,000t)が搬入され、27日、基礎工事用の運搬台車、軌条、牽引車が到着します。
8月、本部庁舎、兵舎、病舎、衛兵所、格納庫8棟が竣工し霞空より先発隊が到着、11日、分遣隊主力が自動貨車で、また三式陸上初歩練習機が空輸されます。
15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊の隊内開隊式が挙行され、軍艦旗掲揚ののち練習機18機による祝賀飛行が行われ、9月1日、第二十六期操縦練習生が入隊します。

▲友部分遣隊開隊当時の隊門(後の裏門)
9月29日、町内全体が祝賀に湧くなか第五格納庫において横須賀鎭守府司令長官・永野修身中将、横須賀海軍航空隊司令・大西次郎大佐、海航本技術部長兼総務部長・佐藤三郎少将、海軍省軍務局長・吉田善吾少将、陸軍航空本部総務部長・小笠原数夫少将、阿部嘉七・茨城県知事、天谷丑之助・茨城県議会議長ほか県会議員、町村長、町村議会議員ら200名参列のもと隊外開隊式が挙行され、霞空の艦攻5、艦偵9、陸練9、水偵13、水練7機による観閲飛行が行われます。
昭和10(1935)年5月27日、海軍記念日を記念し航空基地が開放され航空機の展示、隣接町村尋常小学校対抗運動会、隊員相撲大会、仮装大会などが開催、9月1日、開隊記念日には観閲飛行、曲芸飛行などが行われます(以降毎年)。
昭和13(1938)年、周辺官有林を移管し敷地を拡張(合計175町歩)するとともにコンクリート造の本部庁舎を新築、12月25日、霞空友部分遣隊は筑波海軍航空隊として独立、霞空百里原分遣隊が筑波空に移管されます(昭和14年12月1日、百里原海軍航空隊として独立)。

▲現存の新庁舎(迷彩を施し屋上に防空監視哨を建てた昭和20年頃)

▲九三式中間練習機が配備された筑波空
昭和19(1944)年3月15日、筑波空は飛練教程から実用機教程に転換します。

▲複座の零式練習戦闘機が配備された筑波空
9月中旬、コンクリート舗装滑走路の設営を開始、11月中旬、800×30、500×30、700×40mの3本が完成します。

▲筑波空配備の戦闘機
昭和20(1945)年2月20日、神風特別攻撃隊「筑波隊」が編成され、4月5日から沖縄に前進します。
4月20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ、実施航空隊に改編、5月5日、麾下に戦闘第四〇二、四〇三飛行隊が配属、6月20日、奥羽海軍航空隊が神町において編成され奥羽空 筑波基地隊が航空基地の管理、防衛を担当します。
7月20日、筑波空は姫路海軍航空基地に移駐、下旬、元山海軍航空隊が筑波に進出、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。
9月2日1100、横浜港に米第8軍第1騎兵師団が上陸を開始、3日、軍主力が上陸し横濱税関ビルに司令部を開設します。
11日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)附・ポール技術大尉以下8名が輸送機にて霞ヶ浦海軍航空基地に着陸、次いで県内の軍事施設を調査、20日、米第8軍第133航空警備隊200名(ランカン少尉)が土浦海軍水上機基地を接収、10月1日、同第11軍団第43歩兵師団先遣隊・ワード大佐以下20名が霞ヶ浦海軍航空基地を接収します。
5日、同師団隷下支隊(カイザー代将、4個大隊)が水戸教導航空通信師團(吉田)を本部兼宿舎として、㈱日立製作所 鮎川工場(日立)、古河地方航空機乗員養成所(岡郷)を宿舎として接収、吉田の同師団第82化学砲兵大隊(カーライル少佐以下730名)が水戸市、東茨城郡、西〃、那珂郡の軍施設に進駐を開始、筑波海軍航空基地(以下「基地」と略)も接収され航空機、軍需品の処理が行われたのち(昭和21年2月まで)内務省を通じ大蔵省に返還されます。
昭和20年11月3日、GHQは各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、接収中の各陸軍飛行場、海軍航空基地52ヶ所の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。
昭和20年11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農創設特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、各地の国有地、旧軍用地は入植希望者を募集し払下げが始まります。
昭和20年12月、基地の飛行場地区199町歩が友部開拓地に指定され、戦闘指揮所に開拓事務所を開設、昭和21(1946)年4月、戦災者・復員者計65戸、引揚者19戸により友部開拓団が結成され各戸1.5町歩(のち2町歩に増反)が払い下げられ開墾されます。
昭和21(1946)年5月、昭和20年8月2日の水戸大空襲で校舎、昭和21年2月16日、失火で寄宿舎を焼失した水戸高等学校が東原町から基地の居住地区に移転して来ますが、またも失火により校舎に転用した第一士官舎が焼失、昭和22(1947)年10月、旧校地及び歩兵第二聯隊跡に転出します。
昭和23(1948)年9月23日、文部省は官立高等教育機関の新制大学への移行を予定するなか、位置的に孤立していた茨城青年師範学校を常磐沿線に設置すべく上郷村から基地の居住地区に移転させます。
昭和24(1949)年5月31日、『国立大学設置法』施行を受け茨城大学が発足、基地の居住地区は同校教育学部友部教場となりますが、大学整備計画により昭和30(1955)年3月31日、東原教場(水戸市)に転出します。
昭和32(1957)年4月、防衛庁は筑波海軍航空基地の居住地区を高射学校用地候補として選定、町商工会も地域活性化に繋がるとして賛同しますが、病院誘致による不要地払下げを希望する開拓団の反対により、元々敷地が狭隘だった事、反対運動が激化している百里基地建設を最優先課題とする防衛庁の方針もあり計画は消滅します。
昭和34(1959)年4月、旅客機の安全航行のため格納庫地区が運輸省に移管され、東京航空局友部航空無線通信所が開所、昭和35(1960)年10月、竣工します。
昭和34年2月、旧満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所付属病院にあった県立内原精神病院(昭和25年、開院)の施設老朽化、敷地狭隘、病床不足に伴う移転先として、基地居住地区が茨城県に払い下げられ第1期工事を開始、昭和35(1960)年8月、本館、病棟、サービス棟への改装が完了し、県立友部病院として開院、昭和39(1964)年9月、第2期、第3期工事が完了し患者、機能全部の移転が完了します。
平成20(2008)年2月、県は病院整備基本計画を発表、平成21(2009)年10月、敷地内に新病棟の新築工事を着工、平成23(2011)年4月、病棟竣工、移転に伴い茨城県立こころの医療センターに改称し現在に至ります。
<遺構について>
筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)
上記の様に筑波海軍航空基地は居住地区が病院、格納庫地区が無線通信所、飛行場地区が開墾地から住宅、工業地に転換され、唯一コンクリート造だった本部庁舎を中心に僅かながら遺構が遺ります。

▲筑波海軍航空基地の配置
① 筑波海軍航空基地 居住地区
② 〃 格納庫地区
③ 〃 飛行場地区
① 居住地区
A 本部庁舎
病院本館として使用された後、平成24(2012)年6月、映画『永遠の0』が撮影され、平成25(2013)年12月、老朽化による解体を前に期間限定で「筑波海軍航空隊記念館」として一般公開が行われます。
公開が延長されるなか解体反対の要望を受け、平成29(2017)年、県は本部庁舎の保存、資料館の継続を決定、笠間市に管理移管されます。
平成30(2018)年6月3日、市の指定管理を受け「筑波海軍航空隊記念館」として改修開館、市指定文化財に指定されます。
公式も含め巷間では「司令部庁舎」と言われていますが航空隊の長は司令で参謀は置かれないので“本部”、司令部はその上級組織で参謀が置かれる“戰隊”以上の呼称になるので明確な誤りです。
遺構の情報発信をする側として正確な呼称を心がけたいところです。

▲正面

▲斜め前から

▲正面入口
車寄せは戦後、改修されています

▲海軍時代

▲裏側

▲西側にある謎の換気塔?

▲露台から見た飛行場地区方向
-屋内-

▲1階廊下
ほぼ当時のままと思われます

▲2階への階段
正面階段はなぜか撮り忘れました・・・

▲2階廊下
こちらもほぼ当時のままと思われます

▲司令室
何度も言いますが航空隊の長は“司令”であり“司令官”ではありません

▲司令室隣室
副長、飛行隊長、飛行長などの部屋でしょうか?

▲大部屋
映画「永遠の0」で病室として使用されました

▲大部屋

▲3階への階段
-展示品-
本部庁舎屋内は資料館になっており筑波海軍航空隊、航空基地、航空機、海軍などを中心に展示してあります。

▲筑波空の略史

▲神風特別攻撃隊 筑波隊

▲筑波空で使用されていた椅子

▲収納棚

▲軍装品

▲モーリス・ファルマン、ハンザ、九三中練のプロペラ

▲天山の風防枠、零戦の増槽

▲零戦の尾翼付近

▲九三中練の車輪と椅子

▲櫻花の翼部品
ア 隊門
昭和9(1934)年8月15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊として開隊時の隊門は後に裏門になるイにありました。
昭和13(1938)年、現在地に新たに隊門が造られます。
病院入口はさらに南側に移動し現在は閉鎖されています。

▲現在の隊門

▲見えにくいですが海軍時代の隊門

▲近影

▲北側

▲門灯内部
イ 裏門
友部分遣隊の開隊時は隊門でした。
昭和13(1938)年、隊門が南西に移ったため、裏門として使用されますが、その際に門柱は造り変えられた様です。

▲全景

▲西側
開口部は門灯の跡
ウ 号令台
海軍航空隊には必ずある設備です。

▲本部庁舎とともに
本部庁舎右側の建物は戦後のもの

▲裏側
号令台の内部は物入れになっています
エ 防火水槽?

オ 筑波神社基礎
隊内神社の基壇だけ遺ります。


▲海軍時代の筑波神社
奥に社が見えます
巷間では“筑波神社辺りに特別攻撃隊隊員の宿舎「神風舎」があった”と言われますが、昭和22(1947)年、昭和23(1948)年の空撮を見る限り本来の航空隊の建物以外の建物があった痕跡が無く、昭和20(1945)年9月30日、米軍に提出された『List of Contents, Tsukuba Air Base』(引渡目録)にも記載はありません。
恐らくこ神社周辺にあった講堂ないしは操縦員地上訓練所を転用したものと思われます。
昭和20(1945)年2月20日、志願者から選抜された特攻要員64名(のち20名追加され「神風特別攻撃隊 筑波隊」に)は神風舎で起居しますが、全員が飛行科予備学生出身という事もあり娑婆っ気も多く空気が良かったと言われます。
カ 供養塔
初代司令・古瀬貴季中佐(昭和13年12月15日~昭和14年10月14日)により殉職した飛行練習生供養のため建立されました。
場所的に移設されたと思われ、ますが、元々どこにあったものか不明です。

キ・ク・ケ 柵柱
同航空基地の外周はを囲っていた板塀の柵柱です。

▲キ 裏門付近
もちろんですがブロック塀は戦後の物

▲ク 航空基地北端

▲ケ 隊門付近
コ コンクリート構造物
当時の構造物に良く見られる棒金が入っていますが、詳細不明です。

② 格納庫地区
ス 発動機試運転用足場
発動機試運転場内にあった足場?が2基遺ります。

▲奥にシ防火水槽があります

▲当時の写真
試運転台(棚)の間にある台が遺ります

▲南側
鉄筋泥棒に襲撃され?破損しています

▲北側
鉄筋が入っていない事が分かり放置された様です
セ 休憩所基礎
この辺りに充電所、休憩所、便所があった様ですが、位置的に休憩所の基礎と思われます。


▲国交省敷地内に散在する格納庫の基礎
タ 筑波海軍航空隊ここにありき
平成11(1999)年6月3日、私有地の提供を受け筑波海軍航空隊関係者有志により建立されました。

③ 飛行場地区
当航空基地にはコンクリート敷滑走路800×30、500×30、700×40mの3本がありました。
筑波空は練習航空隊のため元々海軍省建築局の計画にコンクリート敷滑走路は無く、練習中の事故が多かった事から時の司令・中野忠次郎大佐の発案で設営された珍しいものです。
残念ながら戦後、全て剥がされ道路として区画が遺るのみです。
a 戦闘準備線

b 滑走路700×40m

d 滑走路30×500m

e 滑走路800×30m

⑤ 射撃場
用地14,718坪、予算6,222円で設営され航空隊員の小銃射的、及び戦闘機の射線整合に使われました。
大東亜戦争停戦に伴い、昭和20(1945)年8月28日、射撃場は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和20年11月9日、『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定により、25日、星山開拓団に払下げがられ農地として開墾されます。
遺構としては北側民家の地下に監的壕が遺っているそうです。

<供用部隊>
筑波海軍航空隊
大正11(1923)年11月1日、「飛行隊十七隊充實計畫」(大正7年8月1日、成立)に基づき我が国3番目の航空隊として霞ヶ浦海軍航空隊(田尻唯二少将)が開隊、横須賀鎭守府に所属し水偵1、水練1/3隊が配備(昭和9年4月1日時点の編制表は陸練2.5、水練2.5、水偵1、研究0.5隊の6.5隊)され、航空術教育を横須賀空より移管されます。
※航空隊1隊=常用・補用各8機
昭和5(1930)年6月27日、軍令部は「ロンドン海軍軍縮会議」に対応すべく海軍省と戦備増勢の商議を開始、艦船は巡洋艦4、駆逐艦12、潜水艦9、ほか14隻新造、航空隊14隊新設(昭和11年度12、昭和13年度2隊完成)を盛り込んだ「第一次軍備補充計畫」(通称「マル一計画」)が承認され、昭和6(1931)年3月28日、第五十九回帝國議會において成立します。
昭和6(1931)年3月28日、「マル一計画」により霞空に艦戦0.5、艦攻0.5隊が追加されます。
9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和7(1932)年1月28日、上海事変が勃発、昭和8(1933)年3月27日、満洲国を巡る軋轢から我が国は国際連盟を脱退するなど国際情勢の進展に伴い、昭和7(1932)年9月3日、裁可公布の予算(第六十三回帝國議會)において航空隊増勢は昭和11年度完成に繰り上げられます。
昭和7(1932)年8月17日、軍令部は緊張する東亜情勢に鑑み、来たるべき危急困難を克服し時局を安定化させるべく海軍省と戦備増勢を商議ののち政府に提出され大蔵省と折衝、昭和9(1934)年3月、艦船は空母2、軽巡2、駆逐艦14、潜水艦4、水上機母艦3、ほか23隻の新造、航空隊8隊の新設(昭和9年度以降11年度まで、及びマル一計画の継続年度を11年度まで)を盛り込んだ「第二次軍備補充計畫」(マル二計画)が成立します。
昭和9(1934)年8月15日、西茨木郡宍戸町、北川根村に新設された筑波海軍航空基地に霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊(三木森彦中佐)が開隊、陸上班の一部、三式陸上初歩練習機が移管、9月1日、操縦練習生(下士官兵の希望者から選抜)が入隊し操縦教育を開始します。

▲三木森彦中佐(海兵四十)
第一期航空術学生出身で仏留学を始め航空教育に定評がありました
昭和11(1936)年10月1日、艦務実習を終え霞空に入隊した操縦専修者(第四期豫科練習生)の友部分遣隊に入隊、初歩練習を修業します(修業後、霞空の中間練習教程へ)。
昭和13(1938)年10月31日、海軍甲種飛行豫科練習生第一期生248名が豫科練教程を修了、11月1日、第一期甲種飛行練習生として友部分遣隊に入隊、初歩練習を修業します。
12月15日、横須賀鎭守府所管の常設航空隊として霞空友部分遣隊は筑波海軍航空隊(古瀬貴季中佐)に改編独立、第十一聯合航空隊(横鎭所属)に編入、練習航空隊に指定され引続き陸上機操縦教育を担当します。
また、東茨城郡に百里原分遣隊が開隊します。
昭和14(1939)年10月15日、新司令・藤吉直四郎大佐が佐世保空司令、横鎭出仕から着任します。
5月30日、甲飛二期生247名が豫科練教程を修了、6月1日、操縦専修者(陸上機操縦)84名は飛行練習生として筑波空に入隊、初歩練習を修業します。
昭和15(1940)年10月15日、新司令・内田市太郎大佐が宇佐空司令より着任します。
3月31日、甲飛三期生253名が豫科練教程を修了、4月1日、操縦専修者(陸上機)は第一期飛行練習生として筑波空に入隊、初歩練習を修業します。
11月30日、乙飛九期生が豫科練教程を修了、12月1日、操縦専修者84名が第十期飛行練習生として筑波空、谷田部空に入隊します。
昭和16(1941)年1月14日、丙飛二期生225名が豫科練教程を修了、15日、第十二期飛行練習生として筑波空、百里原空に入隊します。
3月15日、新司令・加藤尚雄大佐が上海在勤武官府、横鎭出仕から着任します。
4月28日、丙飛三期生が豫科練教程を修了、29日、第十七期飛行練習生として操縦専修者474名が、7月31日、丙飛四期生が豫科練教程を修了、8月1日、第十八期飛行練習生として筑波空、谷田部空、百里原空に入隊します。
9月20日、新司令・野元為輝大佐が空母「瑞鳳」艦長より着任します。
30日、甲飛六期生245名が豫科練教程を修了、10月1日、操縦専修者(陸上機)は第二十一期飛行練習生として50名が筑波空に入隊します。
12月6日、隊は第十一聯合航空隊、横鎭部隊航空部隊(横鎭司令長官指揮)に部署され、教育及び特に指定される海面の見張り、警戒、攻撃を下令されます。
8日、大東亜戦争が開戦、開戦時の保有機は陸上練習機108機でした。
昭和17(1942)年1月29日、丙飛七期生が豫科練教程を修了、30日、第二十四期飛行練習生として操縦専修者259名が筑波空、谷田部空、北浦空に入隊します。
1月31日(操縦専修)、3月31日(偵察専修)、甲飛七期生312名が豫科練教程を修了、2月1日、操縦専修者(陸上機)は第二十四期飛行練習生として筑波空に入隊します。
4月10日、横鎭部隊航空部隊の敵艦船攻撃及び防空の兵力部署において、隊の艦攻2、艦爆2機は第五次攻撃隊に部署、第十一聯合航空隊所定の指揮官指揮下に攻撃に従事します。
5月27日、丙飛十期生が豫科練教程を修了、28日、第二十六期飛行練習生として操縦専修者380名は筑波空、谷田部空、百里原空、北浦空に、7月25日、丙飛十一期生が豫科練教程を修了、第二十七期飛行練習生として操縦専修者385名は筑波空、谷田部空、霞空東京分遣隊、百里原空、高雄空、鹿島空、北浦空に入隊します。
6月5日、新司令・横川市平大佐が空母「瑞鶴」艦長から着任します。
7月25日、乙飛十四期生が豫科練教程を修了、8月1日、操縦専修者(陸上機操縦)は第二十七期飛行練習生として筑波空に入隊します。
9月25日、丙飛十二・丙飛特十一期生が豫科練教程を修了、26日、第二十八期飛行練習生として操縦専修者330名は筑波空、谷田部空、霞空東京分遣隊、高雄空、大津空、北浦空に入隊します。
10月6日、木次森之助二等整備兵曹、箱田利暢飛行兵曹長が事故で殉職してしまいます。
11月21日、丙飛十三期生が豫科練教程を修了、22日、第二十九期飛行練習生として操縦専修者158名は筑波空、百里原空、名古屋空に入隊します。
11月25日、乙飛十五期生450名(操縦専修)が豫科練教程を修了(8月3日、偵察専修150名が修了)、26日、第二十九期飛行練習生として筑波空、谷田部空、百里原空、鹿島空、北浦空に入隊します。
12月10日、新司令・菅原正雄大佐が七〇五空司令、横鎭出仕から着任します(昭和18年7月1日から百里原空司令兼務)。
昭和18(1943)年1月25日、甲飛九期生(第三十期偵察、陸上操縦練習生)が豫科練教程を修了、26日、50名が飛行練習生として筑波空に入隊します。
1月25日、丙飛十四期生が豫科練教程を修了、26日、第三十期飛行練習生として操縦専修者238名は筑波空、谷田部空に入隊します。
2月1日、十一聯空は新設された練習聯合航空總隊(海軍大臣に隷属)の指揮下に編入されます(所属、作戦、部署は変更なし)。
3月26日、丙飛十五期生が豫科練教程を修了、27日、第三十一期飛行練習生として操縦専修者426名は筑波空、谷田部空、大津空、北浦空に入隊します。
5月22日、大本營海軍部は各練習航空隊に1日1回日施哨戒で対潜哨戒、船団護衛には1直1機以内で実施を指示します。
26日、丙飛十六期生が豫科練教程を修了、27日、第三十二期飛行術練習生(昭和18年5月22日、『海軍練習航空隊規則』改正により飛行練習生から改称)として操縦専修者399名は筑波空、百里原空、谷田部空、名古屋空、鹿島空に入隊します。
9月21日、特乙一期生が豫科練教程を修了、22日、第三十四期飛行術練習生として操縦専修者971名は筑波空、谷田部空、名古屋空、出水空、高雄空(台中分遣隊含む)、黄流空、大津空、北浦空、博多空に入隊します。
10月22日、柳澤種道飛行兵長、藤本雅雄整備兵長が殉職してしまいます。
11月15日、新司令・荒木保大佐が谷田部空司令より着任します。
昭和19(1944)年3月15日、筑波空は全陸上練習機、飛行術練習生を築城空に移管、大分空の全戦闘機隊と第四十期飛行学生、海軍飛行科第十三期予備学生を受け入れ、戦闘機実用機教育に転換、司令・荒木大佐は築城空司令に転任、新司令・藤吉直四郎大佐が十二聯空司令官兼大分空司令から着任します。
17日、司令・藤吉大佐は兼務を免じられ、新司令・高次貫一大佐が五五三空司令兼副長から着任します。
6月2日、飛行学生・工藤典男、13日、同田村茂、29日、平野房司、30日、井ノ口保規各予備飛行少尉が事故で殉職してしまいます。
7月10日、新司令・中野忠次郎大佐が二〇一空司令兼副長から着任します。

▲中野忠次郎大佐(海兵五十一)
8月10日、飛行学生・川口詩吉、25日、鈴木武両予備飛行少尉が事故で殉職してしまいます。
9月1日、第四十二期飛行学生(海兵七十三)の艦戦班100名は霞空での教程を修了、筑波空に入隊します。
9月中旬、筑波海軍航空基地の飛行場地区は芝張りで凹凸が多く殉職を含む事故が多発したため、司令・中野大佐は飛行長・横山保少佐、内務長・寺島大尉と相談、寺島大尉を工事主任として横須賀海軍施設部より指導員、同人事部より定員外300名の派遣を受け航空隊、基地隊員によりコンクリート舗装滑走路の設営を開始、この間実用機教程は練習聯合航空總隊司令部の認可を受け中野大佐直率のもと部隊不在の三澤海軍航空基地を借用して実施します。
9月28日、海軍第一期飛行専修予備生徒が入隊します。
10月末、在隊の飛行学生等の教練を停止し防空壕、航空機用掩体など航空基地防護作業にあたります(昭和20年1月、飛行作業を再開)。
11月1日、マリアナ諸島から初のB29爆撃機(偵察型のF13)が飛来、練習聯合航空總隊司令部は筑波空に警戒のため霞ヶ浦への移動を下令、2日、中野大佐は零戦24機とともに霞ヶ浦に進出、11月中旬、筑波海軍航空基地のコンクリート敷滑走路(800×30、500×30、700×40m)3本が完成したため三澤から霞ヶ浦から復帰し、教官(尉官以上)、教員(同以下)により臨時防空隊を編成(隊長:分隊長兼教官・近間幸治大尉)します。
11月18日、第五基地航空部隊(第一航空艦隊)指揮官・大西瀧治郎中将はフィリピン戦線の戦況報告のため帰国、軍令部に特攻機300機配備を要請、19日、軍令部、海軍省は協議の結果、練習航空隊より150機の抽出を決定、大村空、元山空、筑波空、谷田部空、臺南空、高雄空に教官、教員により特攻隊編成を下令、筑波空より附兼教官・丸山隆、大森茂、神正也、川越重比古各中尉、同・綿引芳男、星野政巳予備飛行少尉、附・増田脩、高杉英彦、加藤米男、櫻井幹男各予備飛行少尉以下25名が銓衡され、二〇一空に転属します(「神風特別攻撃隊 金剛隊」として12名、「神風特別攻撃隊 大義隊」として1名、空戦で6名、陸戦で1名が散華)。

▲25名の寄せ書き
11月24日1354、B29爆撃機62機が中島飛行機㈱武蔵製作所に来襲、筑波空臨時防空隊は邀撃しますが、高高度を飛来する敵機に到達できず戦果はあがりませんでした。
12月20日、海軍飛行科第十四期予備学生が入隊します。
昭和20(1945)年1月9日1354、1505、B29爆撃機が中島飛行機㈱武蔵製作所、2月10日、B29爆撃機84機が中島飛行機㈱太田製作所に来襲、筑波空臨時防空隊は邀撃しますが、またも高高度を飛来する敵機に到達できず戦果はあがりませんでした。
1月25日、飛行学生・折井俊男予備飛行少尉が編隊飛行中に事故で殉職してしまいます。
2月8日、筑波空に神風特別攻撃隊編成の内示があり、司令・中野大佐は飛行長・横山保少佐に邀撃要員を除き、且つ志願者である事、家族構成、身体状況を考慮し志願者銓衡を指示、10日、横山少佐は志願者を募り個別面談のうえ第十三・第十四期予備学生を中心に64名を選抜します。
16日、敵は硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく機動部隊3群(銚子南方200㎞、銚子南東250㎞、八丈島西方150㎞)により関東地区の航空基地を空襲、F6F、F4U、SB2C、TBFが7:15~8:05、第1波90機、8:10~8:45、第2波90機、第3波100機、10:35~11:45、第4波100機、12:30~13:10、第5波90機、14:15~15:40、第6・7波450機が来襲します。
筑波空は零戦48、紫電11機で他隊と邀撃、6機撃墜、6機撃破しますが、12機が撃墜、6機が被弾、小林幸三 大尉、山下格、池田秀親、秋山武男、福島俊一、岸雪雄、斎藤敏郎 各中尉、古内秀二 飛曹、米山六彌、上田重二 上飛曹、結城七郎 一飛曹、中山秀二 二飛曹の12名が散華してしまいます。
16日、第十一聯合航空隊司令官・城島高次少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員60名、戦闘機実用機錬成員(邀撃要員)50名の選抜と錬成を下令され、20日、中野大佐は機密筑空命令第七号により小林巳代次大尉を指揮官として、22日~4月末まで錬成を下令します。
17日0750、F6F艦戦70~180機が6波に分かれ関東地区の航空基地に来襲、筑波空は零戦14機、延べ26機で他隊と邀撃、2機撃墜、2機撃破しますが、1機が撃墜、1機が被弾、藤森親海 大尉が散華、また零練戦を郡山に退避させるべく離陸した緒方賢二 中尉・久下谷正 二飛曹、古賀信夫 一飛曹・谷口顕一 二整曹が散華してしまいます。
25日0825、F6F艦戦600機が2波に分かれ中島飛行機㈱小泉製作所、関東北部に来襲、筑波空は零戦14機で邀撃、4機撃墜、1機撃破しますが、4機が撃墜、1機未帰還、1機不時着、木原俊秀 大尉、上田重三 上飛曹、阿部満徳 上飛曹が散華してしまいます。
28日、第四十二期飛行学生の教育は中止され、各部隊に転属します。
3月1日、練習聯合航空總隊は復帰、第十航空艦隊(前田稔中将、霞ヶ浦:聯合艦隊所属)に改編され、十一聯空は十航艦に編入、第八基地航空部隊(十航艦司令長官指揮)に部署され特攻要員の訓練にあたります。
17日、聯合艦隊司令部は天一號作戰要領を発令、第八基地航空部隊指揮官は指揮下にある作戦可能全力のうち、鈴鹿山脈以東の航空隊を第七基地航空部隊(三航艦指揮)指揮官(寺岡謹平中将)の作戦指揮下への編入、及び第七基地航空部隊指揮官は早急に西方への移転準備を下令します。
26日、聯合艦隊司令部は天一號作戰を発動します。
※以下「・」印は「神風特別攻撃隊 筑波隊」の事蹟
・28日、特攻要員に海兵出身者、下士官計20名を加え、中野大佐により特別攻撃隊の搭乗割が発表、「神風特別攻撃隊 筑波隊」(13隊84名)と命名されます(機密筑空命令第十五号)。

▲神風特別攻撃隊 筑波隊84名
3月下旬、筑波空の戦闘機隊(零戦20機)は出水海軍航空基地に進出、制空にあたります(4月下旬、筑波に復帰)。
この間、4月12日、分隊長兼教官・高橋正夫大尉が九州西南洋上、28日、附兼教官・伊藤叡中尉が伊江島付近で敵機と交戦し散華してしまいます。
・4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始、3日、第八基地航空部隊指揮官は筑波空に特別攻撃隊の鹿屋海軍航空基地への前進と5日出撃予定を下令、5日、第一~第五筑波隊は鹿屋に前進します。

▲鹿屋に向け筑波を後にする筑波隊第一陣
神風特別攻撃隊 筑波隊
第一筑波隊
石田寛 中尉(隊長)★
福島正次 少尉★
斎藤勇 少尉★
松本知恵三 一飛曹★
第二筑波隊
末吉實 中尉(隊長)★
大田博英 少尉★
山口人久 少尉★
村山周三 二飛曹★

▲第一・第二筑波隊
第三筑波隊
福寺薫 中尉(隊長)★
鷲尾侃 少尉★
一ノ関貞雄 少尉★
河村祐夫 二飛曹★
第四筑波隊
石橋申雄 中尉(隊長)★
金井正夫 少尉★
金子保 中尉★
安田善二 二飛曹★
第五筑波隊
熊倉高敬中尉(隊長)★
伊達實 少尉★
椎木鐡幸 少尉★
新井利夫 二飛曹★
第六筑波隊
中村英正 中尉(隊長)★
由井勲 少尉(小隊長)★
石井敏晴 少尉★
西野實 少尉△★
兼森武文 少尉★
岡本眞二 少尉★
山縣康治 少尉★
栗井俊夫 少尉★
第七筑波隊
米加田節雄 中尉(隊長)★
大塚章 少尉(小隊長)★
石部富治 少尉
細井享 少尉
片山秀男 少尉★
折口明 少尉△★
山崎幸雄 少尉★
麻生摂郎 少尉★
第八筑波隊
西田高光 中尉(隊長)△★
大木偉央 少尉(小隊長)△★
石丸進一 少尉△★
本田耕一 少尉△★
吉田信 少尉△★
桑野實 少尉△★
町田道教 少尉△★
諸井國弘 少尉△★
第九筑波隊
木名瀬信也 中尉(隊長)
岡部幸夫 中尉(小隊長)△★
伊藤祥夫 少尉△☆
時岡鶴夫 少尉★
中村邦春 少尉★
黒崎英之助 少尉△★
福田喬 少尉△★
森史郎 少尉△★
第十筑波隊
富安俊助 中尉(隊長)△★
大喜田久男 少尉(小隊長)△★
原口鈴夫 少尉△
後藤尚平 少尉△
高山重三 少尉△★
柳井和臣 少尉△
藤田暢明 少尉★
荒木弘 少尉△★
第十一筑波隊
川口光男 中尉(隊長)△☆
佐藤武 少尉(小隊長)△
林静馬 少尉
川崎一精 少尉△
中村恒二 少尉△★
山口正憲 少尉△
小山精一 少尉△★
佐々木章夫 少尉
第十二筑波隊
加美山茂 少尉(隊長)△
秋元重徳 少尉(小隊長)△
橋本義雄 少尉
笠間照雄 少尉△
内山聿郎 少尉△
矢定清九郎 少尉△
青戸広二 少尉△
佐藤國三郎 少尉△
第十三筑波隊
橋本利一 少尉(隊長)
高橋英生 少尉(小隊長)△☆
西牧寛徳 少尉△
河晴彦 少尉△☆
織田徳三郎 少尉△
山根恒 少尉△
有吉一馬 少尉
溝口幸次郎 少尉△☆
※★筑波隊・☆第一神雷爆戦隊として突入散華
※△4月26日、七二一空戦闘第三〇六飛行隊附に転属
各隊と当日の状況により度々編成替えが行われます。
出撃時の兵装は零戦二一型、零練戦が25番1発、零戦五二型、同六二型が50番1発を懸吊、機銃弾100発、燃料満載、区隊長機のみ三式空一号無線電話機を装備しました。
・6日1200、沖縄方面根拠地隊は戦艦9、巡洋艦12隻を基幹とする敵輸送船団を発見、聯合艦隊司令部は菊水一號作戦を発動、1455~1610、第一筑波隊18名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(2機発進中止/他隊と計46機)、1703、石橋中尉は「敵戦闘機見ユ」を発進、沖縄周辺海域の敵輸送船団に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第一筑波隊(散華者は聯合艦隊告示第九十九号)
⑦石田寛 中尉 14:55 発進
⑦斎藤勇 少尉 〃
⑦松本知恵三 一飛曹 〃
⑧山口人久 少尉 15:10
⑧大田博英 少尉 〃
⑧村山周三 二飛曹 〃
⑨福寺薫 中尉 15:25
⑨鷲尾侃 少尉 〃
⑨安田善二 二飛曹 〃
⑩石橋申雄 中尉 〃
⑩河村祐夫 二飛曹 〃
⑫熊倉高敬 中尉・・・爆弾架故障により爆弾脱落、発進中止
⑫椎木鐡幸 少尉 15:40
⑫伊達實 少尉 〃
⑫新井利夫 二飛曹・・・爆弾架故障により爆弾脱落、発進中止
⑭末吉實 中尉 16:10
⑭福島正次 少尉 〃
⑭金子保 中尉 〃
⑭金井正夫 少尉 〃
※○数字は区隊番号、上から機番号順
当日の総合戦果
駆逐艦ブッシュ 2機命中 沈没
掃海駆逐艦コルフウン 3機命中 沈没
エモンズ 3機命中 沈没
戦車揚陸船447号 1機命中 沈没
給弾艦ローガンビクトリア 1機命中 沈没
〃ホップスビクトリア 1機命中 沈没
軽空母サン・ハーシント 1機至近 小破
駆逐艦モリス 1機命中 大破
〃ハッチングス 1機至近 小破
〃ロイツエ 1機命中 大破
〃マラニー 1機命中 大破
〃ハリスン 1機至近 小破
〃ニューコム 3機命中 甚大
〃ホーワース 1機命中 大破
〃ヘインスワース 1機命中 大破
〃ハイマン 1機命中 大破
護衛駆逐艦ウイッター 1機命中

▲第十四区隊一番機 末吉實中尉
高松商業高等学校(現、香川大学)から第十三期予学

▲同三番機 金子保中尉
名古屋大学から第十三期予学

▲同二番機 福島正次少尉
盛岡高等工業学校(現、岩手大学)から第十三期予学
「己が身は 君の御楯と散らうとも 折々は帰る 母の夢路に」(御母堂への遺書)

▲同四番機 金井正夫少尉
仙台高等工業専門学校(現、東北大学)から第十三期予学

▲金井少尉から文通相手の○○トシさんに送られたペンダントトップ
200通を超える文通の最後に届いたもので、B29の風防で削り出され片方は両者のイニシャル「M」と「T」を図案化しています
9日、特別攻撃隊の戦闘機隊は鹿屋配属に指定されます。
12日、菊水二號作戦が発動、1130、第二筑波隊3名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(他隊と計21機)、徳之島東方海上の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第二筑波隊(聯合艦隊告示第百号)
熊倉高敬 中尉 11:30 発進
一ノ関貞雄 少尉
新井利夫 二飛曹

▲熊倉高敬中尉
専修大学から第十三期予学
「行け若鷲、必殺必中の意気に燃えて!」(出撃直前に遺した日記の最後)
・16日、菊水三號作戦が発動、1206~1211、第三筑波隊10名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(3機引き返す/他隊と計38機)、1327、由井少尉は「敵機動部隊見ユ」、1330、「ワレ空母ニ必中、突入中」を発信、喜界島南東50浬の、1346、中村中尉は「ワレ敵空母ニ突入ス」を発信、同島南方100浬の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第三筑波隊(聯合艦隊告示第百七号)
①中村英正 中尉 12:06 発進
①栗井俊夫 少尉 12:07
①岡本眞二 少尉 〃
①?・・・搭乗機故障で引返す
②由井勲 少尉 12:10
②兼森武文 少尉 〃
②山縣康治 少尉 〃
②石井敏晴 少尉 12:11
③?・・・搭乗機故障で引返す
③?・・・搭乗機故障で引返す
戦果
戦車揚陸船407号 1機命中 大破
歩兵上陸艇16号 大破

▲第一区隊一番機 中村英正中尉
海兵七十三期
20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ作戦部隊に改編、十一聯空から除かれ、第三航空艦隊に編入、第七基地航空部隊東一空襲部隊(三航艦司令長官指揮)に部署され関東方面の制空にあたります。
・4月6日~25日、第六~第十三筑波隊は逐次、富高海軍航空基地に進出の後、鹿屋に前進します。
・26日、待機中の筑波隊隊員の大半(上記搭乗割△印)は戦闘第三〇六飛行隊(七二一空所属)に転属します。
・29日、菊水四號作戦が発動、1413、第四筑波隊7名が零戦二一型(米加田中尉)・零練戦に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(1機発進中止、1機引き返し/他隊と計33機)、1558、片山少尉は「ワレ敵艦ニ必中、突入中」を発信、沖縄北端120°60浬、90°70浬の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第四筑波隊(聯合艦隊告示第百九号)
①米加田節雄 中尉 14:13 発進
①?・・・搭乗機故障で引返す
①片山秀男 少尉 14:13
①?・・・発動機不調、発進中止
②大塚章 少尉 14:14 ・・・1700、喜界島上空においてF6F艦戦6機と交戦散華
②麻生摂郎 少尉 〃
②山崎幸雄 少尉 14:15 ・・・1700、喜界島上空においてF6F艦戦6機と交戦散華
戦果
駆逐艦ヘーズルウッド 1機命中 大破
駆逐艦ハッガード 1機命中 大破
敷設駆逐艦シャノン 損傷

▲第一区隊一番機 米加田節雄中尉
海兵七十三期
・5月11日、菊水六號作戦が発動、0650~0703、第五筑波隊16名が零戦五二型に50番1発を懸吊し鹿屋を発進(2機発進中止、3機引き返し/他隊と計26機)、1008、西田中尉は「敵艦ヲ認メズ、ワレ慶良間ニ行ク」、1013、「敵艦見ユ、ワレ突入ス」を発信、沖縄周辺の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第五筑波隊(聯合艦隊告示第百十二号)
⑤西田高光 中尉 6:55 発進
⑤?・・・発動機不調、発進中止
⑤石丸進一 少尉 6:55
⑤吉田信 少尉 6:56
⑥?・・・発動機不調、発進中止
⑥諸井國弘 少尉 6:57
⑥?・・・搭乗機故障で引返す
⑥町田道教 少尉 6:57
⑦岡部幸夫 中尉 6:50
⑦森史郎 少尉 7:00
⑦?・・・発動機不調、発進中止
⑦福田喬 少尉 7:01
⑧?・・・搭乗機故障で引返す
⑧・・・発動機不調、発進中止
⑧中村邦春 少尉 7:03
⑧?・・・発動機不調、発進中止
戦果
空母バンカー・ヒル 2機命中 大破
駆逐艦エヴァンス 4機命中 大破
駆逐艦ヒュー・W・ハッドリー 2機命中 桜花至近 大破

▲第五区隊一番機 西田高光中尉
大分師範学校から第十三期予学
「そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、(中略)われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに」(出撃直前、山岡荘八の問いへの返答)

▲同三番機 石丸進一少尉
名古屋軍(現、中日ドラゴンズ)で職業野球選手をしつつ日本大学夜間部から第十四期予学
プロ野球選手唯一の特攻散華者で戦前最後のノーヒットノーラン(昭和18年10月12日、対大和軍)を達成した事で知られます
司令訓示ののち、本田耕一少尉(4月14日、散華)を相手にボールを10球投げ込み「よし!ストライク10本!これで思い残す事は無い!報道班員、さようなら!」と告げ出撃、辞世は「葉隠精神 敢闘精神 日本野球ハ」

▲同四番機 吉田信少尉
東京大学から第十四期予学

▲第七区隊一番機 岡部幸夫中尉(右)(左は木名瀬信也中尉)
早稲田大学専門部工科から第十三期予学
・14日、0527~0530、第六筑波隊20名が零戦五二型、同六二型に50番1発を懸吊し鹿屋を発進(他隊と計28機)、0713、黒崎少尉は「敵空母見ユ」、0745、「敵戦闘機見ユ」、0724、大喜田少尉は「敵戦闘機見ユ」、0801、「敵部隊見ユ」、0804、「敵空母見ユ、ワレ敵空母ニ必中突入中」、0801、荒木少尉は「敵部隊見ユ」、0804、「敵空母見ユ、ワレ敵空母ニ必中突入中」、0816、折口少尉は「敵空母見ユ」をそれぞれ発信、種子島東方の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第六筑波隊(聯合艦隊告示第百十三号)
③富安俊助 中尉 5:30 発進
③藤田暢明 少尉 5:31
③折口明 少尉 5:33
③高山重三 少尉 5:32
④大木偉央 少尉 5:29
④本田耕一 少尉 5:27
④?・・・発進中止?故障で引返す
④?・・・発進中止?故障で引返す
⑤?・・・発進中止?故障で引返す
⑤小山精一 少尉 6:19
⑤中村恒二 少尉 〃
⑦黒崎英之助 少尉 6:31
⑦時岡鶴夫 少尉 6:29
⑦?・・・発進中止?故障で引返す
⑦西野實 少尉 6:30
⑧大喜田久男 少尉 6:25
⑧?・・・発進中止?故障で引返す
⑧荒木弘 少尉 6:26
⑧?・・・発進中止?故障で引返す
(聯合艦隊告示第二百三十四号)
桑野實 少尉 5:30
戦果
空母エンタープライズ 富安中尉機命中 大破

▲第三区隊一番機 富安俊助中尉
早稲田大学から第十四期予学
卓越した操縦技術、強靭な精神力でエンタープライズを撃破する殊勲を挙げます

▲中尉は0700頃、エンタープライズに触接、空母が回頭した一瞬の隙きを突いて降下、低空で対空砲火を交わしつつ接近、艦尾付近で急上昇し宙返り(航空隊記念館展示の模型)

▲敵空母直上から逆落とし(突入する富安機)

▲前部昇降機付近に突入し撃破(命中した瞬間(吹き飛ぶ昇降機が見えます))
※富安中尉の最期の様子は映画「永遠の0」の最後で主人公・宮部久蔵が空母ハンコックに突入する場面の元になっています

▲第五区隊二番機 小山清一少尉
中央大学商学部から第十四期予学
・6月22日、第一神雷爆戦隊8名が零戦五二型に50番1発を懸吊し、第十神雷櫻花特別攻撃隊神雷部隊(櫻花6機懸吊)とともに鹿屋を発進(1機引き返し/他隊と計28機)、沖縄周辺の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第一神雷爆戦隊(聯合艦隊告示第二百九号)
①川口光男 中尉
①伊藤祥夫 少尉
①石塚隆三 少尉
①河晴彦 少尉
②高橋英生 中尉
②溝口幸次郎 少尉
②金子照男 少尉
②?・・・搭乗機故障で引返す
戦果
掃海駆逐艦エリンス 損傷
戦車揚陸船534号 損傷
7月7日、七二一空の爆戦隊は天航空部隊機動部隊攻撃隊(五航艦司令長官指揮)に部署、鹿屋において敵機の邀撃にあたります。
筑波空本隊
昭和20(1945)年5月5日、筑波空に戦闘第四〇二飛行隊(藤田怡與藏大尉)が六〇一空から転属、新編された戦闘第四〇三飛行隊(三森一正大尉)が配属され、筑波空の練習機、戦闘機隊、人員は他隊に転属します。
特設飛行隊定数はともに甲戦(紫電)48(内補用12)機になります。
戦四〇三は香取海軍航空基地に移駐し錬成を兼ねて敵機邀撃、哨戒、射撃訓練を実施、26日、筑波に復帰します。
29日0827~1040、B29爆撃機473機、P51戦闘機100機が関東地区に来襲、筑波空は他隊と邀撃、2機撃墜します。
6月5日、筑波空は新編された第七十一航空戰隊(山本榮少将、横須賀、三航艦所属)に編入、三航艦司令長官は七十一航戰を横須賀鎭守府司令長官の作戦指揮下に編入、横鎭司令長官は防空指揮所の所要機能を七十一航戰に任務移譲します。
三航艦は東部方面(鈴鹿山脈、関ヶ原以東)所在の戦闘機兵力を横鎭司令長官指揮下に編入、横鎭司令長官は七十一航戰に統一指揮を下令します。
隊は東一空襲部隊筑波部隊の部署を解かれます。
6月21日、大本營海軍部は決號作戦(本土決戦)に向け航空戦力の温存を方針とします。
7月8日1220~1330、P51戦闘機150機が関東地区に来襲、筑波空は他隊と邀撃、4機撃墜しますが、1機が撃墜、1機が被弾、朝倉上飛曹が散華してしまいます。
15日、新司令・五十嵐周正中佐が七二二空副長から着任します。
7月20日、戦四〇二は福知山海軍航空基地(京都)、戦四〇三は姫路海軍航空基地(兵庫)に、本部は姫路海軍航空基地に移駐します。
隊は戦力温存を下令され、福知山、姫路において錬成、及び4機編隊による四国方面の哨戒にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
21日、戦四〇三は可動全機27機で惜別飛行を実施、30日、戦四〇二(福知山)の紫電全機が姫路に集結、9月3日、筑波空は復員完結します。
奥羽海軍航空隊
昭和20(1945)年6月20日、横須賀鎭守府所管の乙航空隊として神町海軍航空基地(山形県北村山郡)において開隊(関郁乎少将)、第十航空艦隊(聯合艦隊所属)に編入、第八基地航空部隊(十航艦)に部署され関東北部から東北に所在の十航艦所属各航空隊の航空基地の管理、防衛を担当します。
隊は性格上、司令官、参謀(副長兼・仲繁雄大佐、高澤秀夫大佐、杉田忠滋大佐)が置かれます。
23日、敵戦闘機75機が茨城県下に来襲します。
7月3日、B29爆撃機8機が東北地区を偵察、4日、同3機が船川港に機雷を投下します。
5日、P51戦闘機100機が茨城、栃木、千葉各県下、同90機が埼玉県下、8日、P51戦闘機150機が茨城、千葉両県下、京浜地区、10日、B29爆撃機70機が仙台、艦上機1,200機が関東地区、12日、B29爆撃機140機が宇都宮市、15日、艦上機1,300機が青森地区、17日、同180機、18日、同500機が関東地区に来襲します。
25日、定員充足し百里原、谷田部、筑波、霞ヶ浦、松島各航空基地の管理、防衛体制が整備されます。
28日、P51戦闘機240機、B29爆撃機240機が東北から東海各地区、30日、艦上機700機が関東、静岡地区に来襲します。
8月3日、P51戦闘機100機が関東地区の各航空基地、5日、P51戦闘機78機、6日、同120機が関東地区、9日、艦上機1,700機が神町、松島、八戸、10日、同1,600機が霞ヶ浦、千葉県下、13日、同800機、15日、同250機が関東地区に来襲します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
停戦に伴い隊は各航空基地の残務整理を実施、連合軍の進駐に対応し逐次復員します。
<主要参考文献>
『友部町史』(平成2年3月 友部町史編さん委員会 友部町)
『新笠間市の歴史』(平成23年3月 笠間市史編さん専門委員会 笠間市教育委員会)
『友部町百年史』(昭和46年1月 友部町百年史編集委員会 友部町町役場 友部町商工会)
『筑波海軍航空隊-青春の証-』(平成12年10月 友部町教育委員会生涯学習課)
『水戸市史 下巻3』(平成10年5月 水戸市史編さん近現代専門部会 水戸市)
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(一)』 (平成21年3月 渡辺博史 楽學庵)
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)
『神風特別攻撃隊』 (平成7年11月 ㈱モデルアート)
『神雷部隊始末記』 (平成21年11月 加藤浩 ㈱学研パブリッシング)
『南溟の果に』(昭和35年4月 安延多計夫 自由アジア社)
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▲資料館として保存されている航空隊本部庁舎
【探索日時】
平成27(2015)年3月28日、10月11日


大正3(1914)年7月24日、第一次世界大戦が勃発、羊毛の輸入が困難になった事から、大正7(1918)年4月、農商務省は牧羊奨励のため「緬羊百萬頭増殖計畫」を策定、農務局に緬羊課を新設し、7月6日、西茨城郡宍戸町の官有林に友部種羊場を開場(ほか全国4ヶ所)、羊1,205頭の飼育を開始します。
しかし、大戦後の所謂戦後恐慌の影響から、大正13(1924)年12月15日、友部種羊場は閉鎖され、昭和2(1927)年2月1日、種羊場跡地の一部58町148歩に農商務省から貸し下げを受け日本國民高等學校(大正15年5月15日認可の農本主義に基づいた労農青年学校)が開校、さらに平坦地が広がる跡地は昭和3(1928)年頃より所澤陸軍飛行學校が使用、昭和6(1931)年4月、霞ヶ浦海軍航空隊の陸上練習機が離発着訓練に、また氣球隊(所沢)が実地研究に使用します。
昭和9(1934)年1月、海軍航空本部(以下「海航本」)は霞ヶ浦海軍航空隊が計画も含め複数の航空隊が混在し教育に支障が出る様になった事から陸上班の一部(初歩練習)移設を検討、近隣の種羊場跡地一帯を新設航空基地用地として選定し、1月下旬、海航本の筒井技師以下3名が種羊場跡地60町歩、隣接する日本國民高等學校耕作地30町歩を測量、必要用地は海軍省に移管されます(学校は昭和10年4月、内原に移転開始、昭和13年、主力、昭和17年5月、全部の移転完了)。
海軍省建築局は新設航空基地の具体的計画を立案、3月5日、同局山田技師は荒井書記を伴い宍戸町を訪問、村上治平町長と会談し現地を視察、友部駅-基地間の軍道1㎞を海軍が設営する事を伝達、町は橋爪(射撃場)-基地間1㎞の道路献納を約し(4月22日、町道新設費4,400円が議決)、また送電に関し東都電力㈱と契約します。
※筑波海軍航空基地の所要経費は総額2,825,582円でした。
20日、横須賀海軍建築部の監督、三井商事㈱、㈱大林組の指揮のもと労務者400名により基礎工事を着工、鉄道輸送された建築資材(鉄骨800t、セメント200t、砂2,000t、割石1,000t)が搬入され、27日、基礎工事用の運搬台車、軌条、牽引車が到着します。
8月、本部庁舎、兵舎、病舎、衛兵所、格納庫8棟が竣工し霞空より先発隊が到着、11日、分遣隊主力が自動貨車で、また三式陸上初歩練習機が空輸されます。
15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊の隊内開隊式が挙行され、軍艦旗掲揚ののち練習機18機による祝賀飛行が行われ、9月1日、第二十六期操縦練習生が入隊します。

▲友部分遣隊開隊当時の隊門(後の裏門)
9月29日、町内全体が祝賀に湧くなか第五格納庫において横須賀鎭守府司令長官・永野修身中将、横須賀海軍航空隊司令・大西次郎大佐、海航本技術部長兼総務部長・佐藤三郎少将、海軍省軍務局長・吉田善吾少将、陸軍航空本部総務部長・小笠原数夫少将、阿部嘉七・茨城県知事、天谷丑之助・茨城県議会議長ほか県会議員、町村長、町村議会議員ら200名参列のもと隊外開隊式が挙行され、霞空の艦攻5、艦偵9、陸練9、水偵13、水練7機による観閲飛行が行われます。
昭和10(1935)年5月27日、海軍記念日を記念し航空基地が開放され航空機の展示、隣接町村尋常小学校対抗運動会、隊員相撲大会、仮装大会などが開催、9月1日、開隊記念日には観閲飛行、曲芸飛行などが行われます(以降毎年)。
昭和13(1938)年、周辺官有林を移管し敷地を拡張(合計175町歩)するとともにコンクリート造の本部庁舎を新築、12月25日、霞空友部分遣隊は筑波海軍航空隊として独立、霞空百里原分遣隊が筑波空に移管されます(昭和14年12月1日、百里原海軍航空隊として独立)。

▲現存の新庁舎(迷彩を施し屋上に防空監視哨を建てた昭和20年頃)

▲九三式中間練習機が配備された筑波空
昭和19(1944)年3月15日、筑波空は飛練教程から実用機教程に転換します。

▲複座の零式練習戦闘機が配備された筑波空
9月中旬、コンクリート舗装滑走路の設営を開始、11月中旬、800×30、500×30、700×40mの3本が完成します。

▲筑波空配備の戦闘機
昭和20(1945)年2月20日、神風特別攻撃隊「筑波隊」が編成され、4月5日から沖縄に前進します。
4月20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ、実施航空隊に改編、5月5日、麾下に戦闘第四〇二、四〇三飛行隊が配属、6月20日、奥羽海軍航空隊が神町において編成され奥羽空 筑波基地隊が航空基地の管理、防衛を担当します。
7月20日、筑波空は姫路海軍航空基地に移駐、下旬、元山海軍航空隊が筑波に進出、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。
9月2日1100、横浜港に米第8軍第1騎兵師団が上陸を開始、3日、軍主力が上陸し横濱税関ビルに司令部を開設します。
11日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)附・ポール技術大尉以下8名が輸送機にて霞ヶ浦海軍航空基地に着陸、次いで県内の軍事施設を調査、20日、米第8軍第133航空警備隊200名(ランカン少尉)が土浦海軍水上機基地を接収、10月1日、同第11軍団第43歩兵師団先遣隊・ワード大佐以下20名が霞ヶ浦海軍航空基地を接収します。
5日、同師団隷下支隊(カイザー代将、4個大隊)が水戸教導航空通信師團(吉田)を本部兼宿舎として、㈱日立製作所 鮎川工場(日立)、古河地方航空機乗員養成所(岡郷)を宿舎として接収、吉田の同師団第82化学砲兵大隊(カーライル少佐以下730名)が水戸市、東茨城郡、西〃、那珂郡の軍施設に進駐を開始、筑波海軍航空基地(以下「基地」と略)も接収され航空機、軍需品の処理が行われたのち(昭和21年2月まで)内務省を通じ大蔵省に返還されます。
昭和20年11月3日、GHQは各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、接収中の各陸軍飛行場、海軍航空基地52ヶ所の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。
昭和20年11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農創設特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、各地の国有地、旧軍用地は入植希望者を募集し払下げが始まります。
昭和20年12月、基地の飛行場地区199町歩が友部開拓地に指定され、戦闘指揮所に開拓事務所を開設、昭和21(1946)年4月、戦災者・復員者計65戸、引揚者19戸により友部開拓団が結成され各戸1.5町歩(のち2町歩に増反)が払い下げられ開墾されます。
昭和21(1946)年5月、昭和20年8月2日の水戸大空襲で校舎、昭和21年2月16日、失火で寄宿舎を焼失した水戸高等学校が東原町から基地の居住地区に移転して来ますが、またも失火により校舎に転用した第一士官舎が焼失、昭和22(1947)年10月、旧校地及び歩兵第二聯隊跡に転出します。
昭和23(1948)年9月23日、文部省は官立高等教育機関の新制大学への移行を予定するなか、位置的に孤立していた茨城青年師範学校を常磐沿線に設置すべく上郷村から基地の居住地区に移転させます。
昭和24(1949)年5月31日、『国立大学設置法』施行を受け茨城大学が発足、基地の居住地区は同校教育学部友部教場となりますが、大学整備計画により昭和30(1955)年3月31日、東原教場(水戸市)に転出します。
昭和32(1957)年4月、防衛庁は筑波海軍航空基地の居住地区を高射学校用地候補として選定、町商工会も地域活性化に繋がるとして賛同しますが、病院誘致による不要地払下げを希望する開拓団の反対により、元々敷地が狭隘だった事、反対運動が激化している百里基地建設を最優先課題とする防衛庁の方針もあり計画は消滅します。
昭和34(1959)年4月、旅客機の安全航行のため格納庫地区が運輸省に移管され、東京航空局友部航空無線通信所が開所、昭和35(1960)年10月、竣工します。
昭和34年2月、旧満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所付属病院にあった県立内原精神病院(昭和25年、開院)の施設老朽化、敷地狭隘、病床不足に伴う移転先として、基地居住地区が茨城県に払い下げられ第1期工事を開始、昭和35(1960)年8月、本館、病棟、サービス棟への改装が完了し、県立友部病院として開院、昭和39(1964)年9月、第2期、第3期工事が完了し患者、機能全部の移転が完了します。
平成20(2008)年2月、県は病院整備基本計画を発表、平成21(2009)年10月、敷地内に新病棟の新築工事を着工、平成23(2011)年4月、病棟竣工、移転に伴い茨城県立こころの医療センターに改称し現在に至ります。
<遺構について>
筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)
上記の様に筑波海軍航空基地は居住地区が病院、格納庫地区が無線通信所、飛行場地区が開墾地から住宅、工業地に転換され、唯一コンクリート造だった本部庁舎を中心に僅かながら遺構が遺ります。

▲筑波海軍航空基地の配置
① 筑波海軍航空基地 居住地区
② 〃 格納庫地区
③ 〃 飛行場地区
① 居住地区
A 本部庁舎
病院本館として使用された後、平成24(2012)年6月、映画『永遠の0』が撮影され、平成25(2013)年12月、老朽化による解体を前に期間限定で「筑波海軍航空隊記念館」として一般公開が行われます。
公開が延長されるなか解体反対の要望を受け、平成29(2017)年、県は本部庁舎の保存、資料館の継続を決定、笠間市に管理移管されます。
平成30(2018)年6月3日、市の指定管理を受け「筑波海軍航空隊記念館」として改修開館、市指定文化財に指定されます。
公式も含め巷間では「司令部庁舎」と言われていますが航空隊の長は司令で参謀は置かれないので“本部”、司令部はその上級組織で参謀が置かれる“戰隊”以上の呼称になるので明確な誤りです。
遺構の情報発信をする側として正確な呼称を心がけたいところです。

▲正面

▲斜め前から

▲正面入口
車寄せは戦後、改修されています

▲海軍時代

▲裏側

▲西側にある謎の換気塔?

▲露台から見た飛行場地区方向
-屋内-

▲1階廊下
ほぼ当時のままと思われます

▲2階への階段
正面階段はなぜか撮り忘れました・・・

▲2階廊下
こちらもほぼ当時のままと思われます

▲司令室
何度も言いますが航空隊の長は“司令”であり“司令官”ではありません

▲司令室隣室
副長、飛行隊長、飛行長などの部屋でしょうか?

▲大部屋
映画「永遠の0」で病室として使用されました

▲大部屋

▲3階への階段
-展示品-
本部庁舎屋内は資料館になっており筑波海軍航空隊、航空基地、航空機、海軍などを中心に展示してあります。

▲筑波空の略史

▲神風特別攻撃隊 筑波隊

▲筑波空で使用されていた椅子

▲収納棚

▲軍装品

▲モーリス・ファルマン、ハンザ、九三中練のプロペラ

▲天山の風防枠、零戦の増槽

▲零戦の尾翼付近

▲九三中練の車輪と椅子

▲櫻花の翼部品
ア 隊門
昭和9(1934)年8月15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊として開隊時の隊門は後に裏門になるイにありました。
昭和13(1938)年、現在地に新たに隊門が造られます。
病院入口はさらに南側に移動し現在は閉鎖されています。

▲現在の隊門

▲見えにくいですが海軍時代の隊門

▲近影

▲北側

▲門灯内部
イ 裏門
友部分遣隊の開隊時は隊門でした。
昭和13(1938)年、隊門が南西に移ったため、裏門として使用されますが、その際に門柱は造り変えられた様です。

▲全景

▲西側
開口部は門灯の跡
ウ 号令台
海軍航空隊には必ずある設備です。

▲本部庁舎とともに
本部庁舎右側の建物は戦後のもの

▲裏側
号令台の内部は物入れになっています
エ 防火水槽?

オ 筑波神社基礎
隊内神社の基壇だけ遺ります。


▲海軍時代の筑波神社
奥に社が見えます
巷間では“筑波神社辺りに特別攻撃隊隊員の宿舎「神風舎」があった”と言われますが、昭和22(1947)年、昭和23(1948)年の空撮を見る限り本来の航空隊の建物以外の建物があった痕跡が無く、昭和20(1945)年9月30日、米軍に提出された『List of Contents, Tsukuba Air Base』(引渡目録)にも記載はありません。
恐らくこ神社周辺にあった講堂ないしは操縦員地上訓練所を転用したものと思われます。
昭和20(1945)年2月20日、志願者から選抜された特攻要員64名(のち20名追加され「神風特別攻撃隊 筑波隊」に)は神風舎で起居しますが、全員が飛行科予備学生出身という事もあり娑婆っ気も多く空気が良かったと言われます。
カ 供養塔
初代司令・古瀬貴季中佐(昭和13年12月15日~昭和14年10月14日)により殉職した飛行練習生供養のため建立されました。
場所的に移設されたと思われ、ますが、元々どこにあったものか不明です。

キ・ク・ケ 柵柱
同航空基地の外周はを囲っていた板塀の柵柱です。

▲キ 裏門付近
もちろんですがブロック塀は戦後の物

▲ク 航空基地北端

▲ケ 隊門付近
コ コンクリート構造物
当時の構造物に良く見られる棒金が入っていますが、詳細不明です。

② 格納庫地区
ス 発動機試運転用足場
発動機試運転場内にあった足場?が2基遺ります。

▲奥にシ防火水槽があります

▲当時の写真
試運転台(棚)の間にある台が遺ります

▲南側
鉄筋泥棒に襲撃され?破損しています

▲北側
鉄筋が入っていない事が分かり放置された様です
セ 休憩所基礎
この辺りに充電所、休憩所、便所があった様ですが、位置的に休憩所の基礎と思われます。


▲国交省敷地内に散在する格納庫の基礎
タ 筑波海軍航空隊ここにありき
平成11(1999)年6月3日、私有地の提供を受け筑波海軍航空隊関係者有志により建立されました。

③ 飛行場地区
当航空基地にはコンクリート敷滑走路800×30、500×30、700×40mの3本がありました。
筑波空は練習航空隊のため元々海軍省建築局の計画にコンクリート敷滑走路は無く、練習中の事故が多かった事から時の司令・中野忠次郎大佐の発案で設営された珍しいものです。
残念ながら戦後、全て剥がされ道路として区画が遺るのみです。
a 戦闘準備線

b 滑走路700×40m

d 滑走路30×500m

e 滑走路800×30m

⑤ 射撃場
用地14,718坪、予算6,222円で設営され航空隊員の小銃射的、及び戦闘機の射線整合に使われました。
大東亜戦争停戦に伴い、昭和20(1945)年8月28日、射撃場は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和20年11月9日、『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定により、25日、星山開拓団に払下げがられ農地として開墾されます。
遺構としては北側民家の地下に監的壕が遺っているそうです。

<供用部隊>
筑波海軍航空隊
大正11(1923)年11月1日、「飛行隊十七隊充實計畫」(大正7年8月1日、成立)に基づき我が国3番目の航空隊として霞ヶ浦海軍航空隊(田尻唯二少将)が開隊、横須賀鎭守府に所属し水偵1、水練1/3隊が配備(昭和9年4月1日時点の編制表は陸練2.5、水練2.5、水偵1、研究0.5隊の6.5隊)され、航空術教育を横須賀空より移管されます。
※航空隊1隊=常用・補用各8機
昭和5(1930)年6月27日、軍令部は「ロンドン海軍軍縮会議」に対応すべく海軍省と戦備増勢の商議を開始、艦船は巡洋艦4、駆逐艦12、潜水艦9、ほか14隻新造、航空隊14隊新設(昭和11年度12、昭和13年度2隊完成)を盛り込んだ「第一次軍備補充計畫」(通称「マル一計画」)が承認され、昭和6(1931)年3月28日、第五十九回帝國議會において成立します。
昭和6(1931)年3月28日、「マル一計画」により霞空に艦戦0.5、艦攻0.5隊が追加されます。
9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和7(1932)年1月28日、上海事変が勃発、昭和8(1933)年3月27日、満洲国を巡る軋轢から我が国は国際連盟を脱退するなど国際情勢の進展に伴い、昭和7(1932)年9月3日、裁可公布の予算(第六十三回帝國議會)において航空隊増勢は昭和11年度完成に繰り上げられます。
昭和7(1932)年8月17日、軍令部は緊張する東亜情勢に鑑み、来たるべき危急困難を克服し時局を安定化させるべく海軍省と戦備増勢を商議ののち政府に提出され大蔵省と折衝、昭和9(1934)年3月、艦船は空母2、軽巡2、駆逐艦14、潜水艦4、水上機母艦3、ほか23隻の新造、航空隊8隊の新設(昭和9年度以降11年度まで、及びマル一計画の継続年度を11年度まで)を盛り込んだ「第二次軍備補充計畫」(マル二計画)が成立します。
昭和9(1934)年8月15日、西茨木郡宍戸町、北川根村に新設された筑波海軍航空基地に霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊(三木森彦中佐)が開隊、陸上班の一部、三式陸上初歩練習機が移管、9月1日、操縦練習生(下士官兵の希望者から選抜)が入隊し操縦教育を開始します。

▲三木森彦中佐(海兵四十)
第一期航空術学生出身で仏留学を始め航空教育に定評がありました
昭和11(1936)年10月1日、艦務実習を終え霞空に入隊した操縦専修者(第四期豫科練習生)の友部分遣隊に入隊、初歩練習を修業します(修業後、霞空の中間練習教程へ)。
昭和13(1938)年10月31日、海軍甲種飛行豫科練習生第一期生248名が豫科練教程を修了、11月1日、第一期甲種飛行練習生として友部分遣隊に入隊、初歩練習を修業します。
12月15日、横須賀鎭守府所管の常設航空隊として霞空友部分遣隊は筑波海軍航空隊(古瀬貴季中佐)に改編独立、第十一聯合航空隊(横鎭所属)に編入、練習航空隊に指定され引続き陸上機操縦教育を担当します。
また、東茨城郡に百里原分遣隊が開隊します。
昭和14(1939)年10月15日、新司令・藤吉直四郎大佐が佐世保空司令、横鎭出仕から着任します。
5月30日、甲飛二期生247名が豫科練教程を修了、6月1日、操縦専修者(陸上機操縦)84名は飛行練習生として筑波空に入隊、初歩練習を修業します。
昭和15(1940)年10月15日、新司令・内田市太郎大佐が宇佐空司令より着任します。
3月31日、甲飛三期生253名が豫科練教程を修了、4月1日、操縦専修者(陸上機)は第一期飛行練習生として筑波空に入隊、初歩練習を修業します。
11月30日、乙飛九期生が豫科練教程を修了、12月1日、操縦専修者84名が第十期飛行練習生として筑波空、谷田部空に入隊します。
昭和16(1941)年1月14日、丙飛二期生225名が豫科練教程を修了、15日、第十二期飛行練習生として筑波空、百里原空に入隊します。
3月15日、新司令・加藤尚雄大佐が上海在勤武官府、横鎭出仕から着任します。
4月28日、丙飛三期生が豫科練教程を修了、29日、第十七期飛行練習生として操縦専修者474名が、7月31日、丙飛四期生が豫科練教程を修了、8月1日、第十八期飛行練習生として筑波空、谷田部空、百里原空に入隊します。
9月20日、新司令・野元為輝大佐が空母「瑞鳳」艦長より着任します。
30日、甲飛六期生245名が豫科練教程を修了、10月1日、操縦専修者(陸上機)は第二十一期飛行練習生として50名が筑波空に入隊します。
12月6日、隊は第十一聯合航空隊、横鎭部隊航空部隊(横鎭司令長官指揮)に部署され、教育及び特に指定される海面の見張り、警戒、攻撃を下令されます。
8日、大東亜戦争が開戦、開戦時の保有機は陸上練習機108機でした。
昭和17(1942)年1月29日、丙飛七期生が豫科練教程を修了、30日、第二十四期飛行練習生として操縦専修者259名が筑波空、谷田部空、北浦空に入隊します。
1月31日(操縦専修)、3月31日(偵察専修)、甲飛七期生312名が豫科練教程を修了、2月1日、操縦専修者(陸上機)は第二十四期飛行練習生として筑波空に入隊します。
4月10日、横鎭部隊航空部隊の敵艦船攻撃及び防空の兵力部署において、隊の艦攻2、艦爆2機は第五次攻撃隊に部署、第十一聯合航空隊所定の指揮官指揮下に攻撃に従事します。
5月27日、丙飛十期生が豫科練教程を修了、28日、第二十六期飛行練習生として操縦専修者380名は筑波空、谷田部空、百里原空、北浦空に、7月25日、丙飛十一期生が豫科練教程を修了、第二十七期飛行練習生として操縦専修者385名は筑波空、谷田部空、霞空東京分遣隊、百里原空、高雄空、鹿島空、北浦空に入隊します。
6月5日、新司令・横川市平大佐が空母「瑞鶴」艦長から着任します。
7月25日、乙飛十四期生が豫科練教程を修了、8月1日、操縦専修者(陸上機操縦)は第二十七期飛行練習生として筑波空に入隊します。
9月25日、丙飛十二・丙飛特十一期生が豫科練教程を修了、26日、第二十八期飛行練習生として操縦専修者330名は筑波空、谷田部空、霞空東京分遣隊、高雄空、大津空、北浦空に入隊します。
10月6日、木次森之助二等整備兵曹、箱田利暢飛行兵曹長が事故で殉職してしまいます。
11月21日、丙飛十三期生が豫科練教程を修了、22日、第二十九期飛行練習生として操縦専修者158名は筑波空、百里原空、名古屋空に入隊します。
11月25日、乙飛十五期生450名(操縦専修)が豫科練教程を修了(8月3日、偵察専修150名が修了)、26日、第二十九期飛行練習生として筑波空、谷田部空、百里原空、鹿島空、北浦空に入隊します。
12月10日、新司令・菅原正雄大佐が七〇五空司令、横鎭出仕から着任します(昭和18年7月1日から百里原空司令兼務)。
昭和18(1943)年1月25日、甲飛九期生(第三十期偵察、陸上操縦練習生)が豫科練教程を修了、26日、50名が飛行練習生として筑波空に入隊します。
1月25日、丙飛十四期生が豫科練教程を修了、26日、第三十期飛行練習生として操縦専修者238名は筑波空、谷田部空に入隊します。
2月1日、十一聯空は新設された練習聯合航空總隊(海軍大臣に隷属)の指揮下に編入されます(所属、作戦、部署は変更なし)。
3月26日、丙飛十五期生が豫科練教程を修了、27日、第三十一期飛行練習生として操縦専修者426名は筑波空、谷田部空、大津空、北浦空に入隊します。
5月22日、大本營海軍部は各練習航空隊に1日1回日施哨戒で対潜哨戒、船団護衛には1直1機以内で実施を指示します。
26日、丙飛十六期生が豫科練教程を修了、27日、第三十二期飛行術練習生(昭和18年5月22日、『海軍練習航空隊規則』改正により飛行練習生から改称)として操縦専修者399名は筑波空、百里原空、谷田部空、名古屋空、鹿島空に入隊します。
9月21日、特乙一期生が豫科練教程を修了、22日、第三十四期飛行術練習生として操縦専修者971名は筑波空、谷田部空、名古屋空、出水空、高雄空(台中分遣隊含む)、黄流空、大津空、北浦空、博多空に入隊します。
10月22日、柳澤種道飛行兵長、藤本雅雄整備兵長が殉職してしまいます。
11月15日、新司令・荒木保大佐が谷田部空司令より着任します。
昭和19(1944)年3月15日、筑波空は全陸上練習機、飛行術練習生を築城空に移管、大分空の全戦闘機隊と第四十期飛行学生、海軍飛行科第十三期予備学生を受け入れ、戦闘機実用機教育に転換、司令・荒木大佐は築城空司令に転任、新司令・藤吉直四郎大佐が十二聯空司令官兼大分空司令から着任します。
17日、司令・藤吉大佐は兼務を免じられ、新司令・高次貫一大佐が五五三空司令兼副長から着任します。
6月2日、飛行学生・工藤典男、13日、同田村茂、29日、平野房司、30日、井ノ口保規各予備飛行少尉が事故で殉職してしまいます。
7月10日、新司令・中野忠次郎大佐が二〇一空司令兼副長から着任します。

▲中野忠次郎大佐(海兵五十一)
8月10日、飛行学生・川口詩吉、25日、鈴木武両予備飛行少尉が事故で殉職してしまいます。
9月1日、第四十二期飛行学生(海兵七十三)の艦戦班100名は霞空での教程を修了、筑波空に入隊します。
9月中旬、筑波海軍航空基地の飛行場地区は芝張りで凹凸が多く殉職を含む事故が多発したため、司令・中野大佐は飛行長・横山保少佐、内務長・寺島大尉と相談、寺島大尉を工事主任として横須賀海軍施設部より指導員、同人事部より定員外300名の派遣を受け航空隊、基地隊員によりコンクリート舗装滑走路の設営を開始、この間実用機教程は練習聯合航空總隊司令部の認可を受け中野大佐直率のもと部隊不在の三澤海軍航空基地を借用して実施します。
9月28日、海軍第一期飛行専修予備生徒が入隊します。
10月末、在隊の飛行学生等の教練を停止し防空壕、航空機用掩体など航空基地防護作業にあたります(昭和20年1月、飛行作業を再開)。
11月1日、マリアナ諸島から初のB29爆撃機(偵察型のF13)が飛来、練習聯合航空總隊司令部は筑波空に警戒のため霞ヶ浦への移動を下令、2日、中野大佐は零戦24機とともに霞ヶ浦に進出、11月中旬、筑波海軍航空基地のコンクリート敷滑走路(800×30、500×30、700×40m)3本が完成したため三澤から霞ヶ浦から復帰し、教官(尉官以上)、教員(同以下)により臨時防空隊を編成(隊長:分隊長兼教官・近間幸治大尉)します。
11月18日、第五基地航空部隊(第一航空艦隊)指揮官・大西瀧治郎中将はフィリピン戦線の戦況報告のため帰国、軍令部に特攻機300機配備を要請、19日、軍令部、海軍省は協議の結果、練習航空隊より150機の抽出を決定、大村空、元山空、筑波空、谷田部空、臺南空、高雄空に教官、教員により特攻隊編成を下令、筑波空より附兼教官・丸山隆、大森茂、神正也、川越重比古各中尉、同・綿引芳男、星野政巳予備飛行少尉、附・増田脩、高杉英彦、加藤米男、櫻井幹男各予備飛行少尉以下25名が銓衡され、二〇一空に転属します(「神風特別攻撃隊 金剛隊」として12名、「神風特別攻撃隊 大義隊」として1名、空戦で6名、陸戦で1名が散華)。

▲25名の寄せ書き
11月24日1354、B29爆撃機62機が中島飛行機㈱武蔵製作所に来襲、筑波空臨時防空隊は邀撃しますが、高高度を飛来する敵機に到達できず戦果はあがりませんでした。
12月20日、海軍飛行科第十四期予備学生が入隊します。
昭和20(1945)年1月9日1354、1505、B29爆撃機が中島飛行機㈱武蔵製作所、2月10日、B29爆撃機84機が中島飛行機㈱太田製作所に来襲、筑波空臨時防空隊は邀撃しますが、またも高高度を飛来する敵機に到達できず戦果はあがりませんでした。
1月25日、飛行学生・折井俊男予備飛行少尉が編隊飛行中に事故で殉職してしまいます。
2月8日、筑波空に神風特別攻撃隊編成の内示があり、司令・中野大佐は飛行長・横山保少佐に邀撃要員を除き、且つ志願者である事、家族構成、身体状況を考慮し志願者銓衡を指示、10日、横山少佐は志願者を募り個別面談のうえ第十三・第十四期予備学生を中心に64名を選抜します。
16日、敵は硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく機動部隊3群(銚子南方200㎞、銚子南東250㎞、八丈島西方150㎞)により関東地区の航空基地を空襲、F6F、F4U、SB2C、TBFが7:15~8:05、第1波90機、8:10~8:45、第2波90機、第3波100機、10:35~11:45、第4波100機、12:30~13:10、第5波90機、14:15~15:40、第6・7波450機が来襲します。
筑波空は零戦48、紫電11機で他隊と邀撃、6機撃墜、6機撃破しますが、12機が撃墜、6機が被弾、小林幸三 大尉、山下格、池田秀親、秋山武男、福島俊一、岸雪雄、斎藤敏郎 各中尉、古内秀二 飛曹、米山六彌、上田重二 上飛曹、結城七郎 一飛曹、中山秀二 二飛曹の12名が散華してしまいます。
16日、第十一聯合航空隊司令官・城島高次少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員60名、戦闘機実用機錬成員(邀撃要員)50名の選抜と錬成を下令され、20日、中野大佐は機密筑空命令第七号により小林巳代次大尉を指揮官として、22日~4月末まで錬成を下令します。
17日0750、F6F艦戦70~180機が6波に分かれ関東地区の航空基地に来襲、筑波空は零戦14機、延べ26機で他隊と邀撃、2機撃墜、2機撃破しますが、1機が撃墜、1機が被弾、藤森親海 大尉が散華、また零練戦を郡山に退避させるべく離陸した緒方賢二 中尉・久下谷正 二飛曹、古賀信夫 一飛曹・谷口顕一 二整曹が散華してしまいます。
25日0825、F6F艦戦600機が2波に分かれ中島飛行機㈱小泉製作所、関東北部に来襲、筑波空は零戦14機で邀撃、4機撃墜、1機撃破しますが、4機が撃墜、1機未帰還、1機不時着、木原俊秀 大尉、上田重三 上飛曹、阿部満徳 上飛曹が散華してしまいます。
28日、第四十二期飛行学生の教育は中止され、各部隊に転属します。
3月1日、練習聯合航空總隊は復帰、第十航空艦隊(前田稔中将、霞ヶ浦:聯合艦隊所属)に改編され、十一聯空は十航艦に編入、第八基地航空部隊(十航艦司令長官指揮)に部署され特攻要員の訓練にあたります。
17日、聯合艦隊司令部は天一號作戰要領を発令、第八基地航空部隊指揮官は指揮下にある作戦可能全力のうち、鈴鹿山脈以東の航空隊を第七基地航空部隊(三航艦指揮)指揮官(寺岡謹平中将)の作戦指揮下への編入、及び第七基地航空部隊指揮官は早急に西方への移転準備を下令します。
26日、聯合艦隊司令部は天一號作戰を発動します。
※以下「・」印は「神風特別攻撃隊 筑波隊」の事蹟
・28日、特攻要員に海兵出身者、下士官計20名を加え、中野大佐により特別攻撃隊の搭乗割が発表、「神風特別攻撃隊 筑波隊」(13隊84名)と命名されます(機密筑空命令第十五号)。

▲神風特別攻撃隊 筑波隊84名
3月下旬、筑波空の戦闘機隊(零戦20機)は出水海軍航空基地に進出、制空にあたります(4月下旬、筑波に復帰)。
この間、4月12日、分隊長兼教官・高橋正夫大尉が九州西南洋上、28日、附兼教官・伊藤叡中尉が伊江島付近で敵機と交戦し散華してしまいます。
・4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始、3日、第八基地航空部隊指揮官は筑波空に特別攻撃隊の鹿屋海軍航空基地への前進と5日出撃予定を下令、5日、第一~第五筑波隊は鹿屋に前進します。

▲鹿屋に向け筑波を後にする筑波隊第一陣
神風特別攻撃隊 筑波隊
第一筑波隊
石田寛 中尉(隊長)★
福島正次 少尉★
斎藤勇 少尉★
松本知恵三 一飛曹★
第二筑波隊
末吉實 中尉(隊長)★
大田博英 少尉★
山口人久 少尉★
村山周三 二飛曹★

▲第一・第二筑波隊
第三筑波隊
福寺薫 中尉(隊長)★
鷲尾侃 少尉★
一ノ関貞雄 少尉★
河村祐夫 二飛曹★
第四筑波隊
石橋申雄 中尉(隊長)★
金井正夫 少尉★
金子保 中尉★
安田善二 二飛曹★
第五筑波隊
熊倉高敬中尉(隊長)★
伊達實 少尉★
椎木鐡幸 少尉★
新井利夫 二飛曹★
第六筑波隊
中村英正 中尉(隊長)★
由井勲 少尉(小隊長)★
石井敏晴 少尉★
西野實 少尉△★
兼森武文 少尉★
岡本眞二 少尉★
山縣康治 少尉★
栗井俊夫 少尉★
第七筑波隊
米加田節雄 中尉(隊長)★
大塚章 少尉(小隊長)★
石部富治 少尉
細井享 少尉
片山秀男 少尉★
折口明 少尉△★
山崎幸雄 少尉★
麻生摂郎 少尉★
第八筑波隊
西田高光 中尉(隊長)△★
大木偉央 少尉(小隊長)△★
石丸進一 少尉△★
本田耕一 少尉△★
吉田信 少尉△★
桑野實 少尉△★
町田道教 少尉△★
諸井國弘 少尉△★
第九筑波隊
木名瀬信也 中尉(隊長)
岡部幸夫 中尉(小隊長)△★
伊藤祥夫 少尉△☆
時岡鶴夫 少尉★
中村邦春 少尉★
黒崎英之助 少尉△★
福田喬 少尉△★
森史郎 少尉△★
第十筑波隊
富安俊助 中尉(隊長)△★
大喜田久男 少尉(小隊長)△★
原口鈴夫 少尉△
後藤尚平 少尉△
高山重三 少尉△★
柳井和臣 少尉△
藤田暢明 少尉★
荒木弘 少尉△★
第十一筑波隊
川口光男 中尉(隊長)△☆
佐藤武 少尉(小隊長)△
林静馬 少尉
川崎一精 少尉△
中村恒二 少尉△★
山口正憲 少尉△
小山精一 少尉△★
佐々木章夫 少尉
第十二筑波隊
加美山茂 少尉(隊長)△
秋元重徳 少尉(小隊長)△
橋本義雄 少尉
笠間照雄 少尉△
内山聿郎 少尉△
矢定清九郎 少尉△
青戸広二 少尉△
佐藤國三郎 少尉△
第十三筑波隊
橋本利一 少尉(隊長)
高橋英生 少尉(小隊長)△☆
西牧寛徳 少尉△
河晴彦 少尉△☆
織田徳三郎 少尉△
山根恒 少尉△
有吉一馬 少尉
溝口幸次郎 少尉△☆
※★筑波隊・☆第一神雷爆戦隊として突入散華
※△4月26日、七二一空戦闘第三〇六飛行隊附に転属
各隊と当日の状況により度々編成替えが行われます。
出撃時の兵装は零戦二一型、零練戦が25番1発、零戦五二型、同六二型が50番1発を懸吊、機銃弾100発、燃料満載、区隊長機のみ三式空一号無線電話機を装備しました。
・6日1200、沖縄方面根拠地隊は戦艦9、巡洋艦12隻を基幹とする敵輸送船団を発見、聯合艦隊司令部は菊水一號作戦を発動、1455~1610、第一筑波隊18名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(2機発進中止/他隊と計46機)、1703、石橋中尉は「敵戦闘機見ユ」を発進、沖縄周辺海域の敵輸送船団に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第一筑波隊(散華者は聯合艦隊告示第九十九号)
⑦石田寛 中尉 14:55 発進
⑦斎藤勇 少尉 〃
⑦松本知恵三 一飛曹 〃
⑧山口人久 少尉 15:10
⑧大田博英 少尉 〃
⑧村山周三 二飛曹 〃
⑨福寺薫 中尉 15:25
⑨鷲尾侃 少尉 〃
⑨安田善二 二飛曹 〃
⑩石橋申雄 中尉 〃
⑩河村祐夫 二飛曹 〃
⑫熊倉高敬 中尉・・・爆弾架故障により爆弾脱落、発進中止
⑫椎木鐡幸 少尉 15:40
⑫伊達實 少尉 〃
⑫新井利夫 二飛曹・・・爆弾架故障により爆弾脱落、発進中止
⑭末吉實 中尉 16:10
⑭福島正次 少尉 〃
⑭金子保 中尉 〃
⑭金井正夫 少尉 〃
※○数字は区隊番号、上から機番号順
当日の総合戦果
駆逐艦ブッシュ 2機命中 沈没
掃海駆逐艦コルフウン 3機命中 沈没
エモンズ 3機命中 沈没
戦車揚陸船447号 1機命中 沈没
給弾艦ローガンビクトリア 1機命中 沈没
〃ホップスビクトリア 1機命中 沈没
軽空母サン・ハーシント 1機至近 小破
駆逐艦モリス 1機命中 大破
〃ハッチングス 1機至近 小破
〃ロイツエ 1機命中 大破
〃マラニー 1機命中 大破
〃ハリスン 1機至近 小破
〃ニューコム 3機命中 甚大
〃ホーワース 1機命中 大破
〃ヘインスワース 1機命中 大破
〃ハイマン 1機命中 大破
護衛駆逐艦ウイッター 1機命中

▲第十四区隊一番機 末吉實中尉
高松商業高等学校(現、香川大学)から第十三期予学

▲同三番機 金子保中尉
名古屋大学から第十三期予学

▲同二番機 福島正次少尉
盛岡高等工業学校(現、岩手大学)から第十三期予学
「己が身は 君の御楯と散らうとも 折々は帰る 母の夢路に」(御母堂への遺書)

▲同四番機 金井正夫少尉
仙台高等工業専門学校(現、東北大学)から第十三期予学

▲金井少尉から文通相手の○○トシさんに送られたペンダントトップ
200通を超える文通の最後に届いたもので、B29の風防で削り出され片方は両者のイニシャル「M」と「T」を図案化しています
9日、特別攻撃隊の戦闘機隊は鹿屋配属に指定されます。
12日、菊水二號作戦が発動、1130、第二筑波隊3名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(他隊と計21機)、徳之島東方海上の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第二筑波隊(聯合艦隊告示第百号)
熊倉高敬 中尉 11:30 発進
一ノ関貞雄 少尉
新井利夫 二飛曹

▲熊倉高敬中尉
専修大学から第十三期予学
「行け若鷲、必殺必中の意気に燃えて!」(出撃直前に遺した日記の最後)
・16日、菊水三號作戦が発動、1206~1211、第三筑波隊10名が零戦二一型に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(3機引き返す/他隊と計38機)、1327、由井少尉は「敵機動部隊見ユ」、1330、「ワレ空母ニ必中、突入中」を発信、喜界島南東50浬の、1346、中村中尉は「ワレ敵空母ニ突入ス」を発信、同島南方100浬の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第三筑波隊(聯合艦隊告示第百七号)
①中村英正 中尉 12:06 発進
①栗井俊夫 少尉 12:07
①岡本眞二 少尉 〃
①?・・・搭乗機故障で引返す
②由井勲 少尉 12:10
②兼森武文 少尉 〃
②山縣康治 少尉 〃
②石井敏晴 少尉 12:11
③?・・・搭乗機故障で引返す
③?・・・搭乗機故障で引返す
戦果
戦車揚陸船407号 1機命中 大破
歩兵上陸艇16号 大破

▲第一区隊一番機 中村英正中尉
海兵七十三期
20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ作戦部隊に改編、十一聯空から除かれ、第三航空艦隊に編入、第七基地航空部隊東一空襲部隊(三航艦司令長官指揮)に部署され関東方面の制空にあたります。
・4月6日~25日、第六~第十三筑波隊は逐次、富高海軍航空基地に進出の後、鹿屋に前進します。
・26日、待機中の筑波隊隊員の大半(上記搭乗割△印)は戦闘第三〇六飛行隊(七二一空所属)に転属します。
・29日、菊水四號作戦が発動、1413、第四筑波隊7名が零戦二一型(米加田中尉)・零練戦に25番1発を懸吊し鹿屋を発進(1機発進中止、1機引き返し/他隊と計33機)、1558、片山少尉は「ワレ敵艦ニ必中、突入中」を発信、沖縄北端120°60浬、90°70浬の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第四筑波隊(聯合艦隊告示第百九号)
①米加田節雄 中尉 14:13 発進
①?・・・搭乗機故障で引返す
①片山秀男 少尉 14:13
①?・・・発動機不調、発進中止
②大塚章 少尉 14:14 ・・・1700、喜界島上空においてF6F艦戦6機と交戦散華
②麻生摂郎 少尉 〃
②山崎幸雄 少尉 14:15 ・・・1700、喜界島上空においてF6F艦戦6機と交戦散華
戦果
駆逐艦ヘーズルウッド 1機命中 大破
駆逐艦ハッガード 1機命中 大破
敷設駆逐艦シャノン 損傷

▲第一区隊一番機 米加田節雄中尉
海兵七十三期
・5月11日、菊水六號作戦が発動、0650~0703、第五筑波隊16名が零戦五二型に50番1発を懸吊し鹿屋を発進(2機発進中止、3機引き返し/他隊と計26機)、1008、西田中尉は「敵艦ヲ認メズ、ワレ慶良間ニ行ク」、1013、「敵艦見ユ、ワレ突入ス」を発信、沖縄周辺の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第五筑波隊(聯合艦隊告示第百十二号)
⑤西田高光 中尉 6:55 発進
⑤?・・・発動機不調、発進中止
⑤石丸進一 少尉 6:55
⑤吉田信 少尉 6:56
⑥?・・・発動機不調、発進中止
⑥諸井國弘 少尉 6:57
⑥?・・・搭乗機故障で引返す
⑥町田道教 少尉 6:57
⑦岡部幸夫 中尉 6:50
⑦森史郎 少尉 7:00
⑦?・・・発動機不調、発進中止
⑦福田喬 少尉 7:01
⑧?・・・搭乗機故障で引返す
⑧・・・発動機不調、発進中止
⑧中村邦春 少尉 7:03
⑧?・・・発動機不調、発進中止
戦果
空母バンカー・ヒル 2機命中 大破
駆逐艦エヴァンス 4機命中 大破
駆逐艦ヒュー・W・ハッドリー 2機命中 桜花至近 大破

▲第五区隊一番機 西田高光中尉
大分師範学校から第十三期予学
「そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、(中略)われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに」(出撃直前、山岡荘八の問いへの返答)

▲同三番機 石丸進一少尉
名古屋軍(現、中日ドラゴンズ)で職業野球選手をしつつ日本大学夜間部から第十四期予学
プロ野球選手唯一の特攻散華者で戦前最後のノーヒットノーラン(昭和18年10月12日、対大和軍)を達成した事で知られます
司令訓示ののち、本田耕一少尉(4月14日、散華)を相手にボールを10球投げ込み「よし!ストライク10本!これで思い残す事は無い!報道班員、さようなら!」と告げ出撃、辞世は「葉隠精神 敢闘精神 日本野球ハ」

▲同四番機 吉田信少尉
東京大学から第十四期予学

▲第七区隊一番機 岡部幸夫中尉(右)(左は木名瀬信也中尉)
早稲田大学専門部工科から第十三期予学
・14日、0527~0530、第六筑波隊20名が零戦五二型、同六二型に50番1発を懸吊し鹿屋を発進(他隊と計28機)、0713、黒崎少尉は「敵空母見ユ」、0745、「敵戦闘機見ユ」、0724、大喜田少尉は「敵戦闘機見ユ」、0801、「敵部隊見ユ」、0804、「敵空母見ユ、ワレ敵空母ニ必中突入中」、0801、荒木少尉は「敵部隊見ユ」、0804、「敵空母見ユ、ワレ敵空母ニ必中突入中」、0816、折口少尉は「敵空母見ユ」をそれぞれ発信、種子島東方の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第六筑波隊(聯合艦隊告示第百十三号)
③富安俊助 中尉 5:30 発進
③藤田暢明 少尉 5:31
③折口明 少尉 5:33
③高山重三 少尉 5:32
④大木偉央 少尉 5:29
④本田耕一 少尉 5:27
④?・・・発進中止?故障で引返す
④?・・・発進中止?故障で引返す
⑤?・・・発進中止?故障で引返す
⑤小山精一 少尉 6:19
⑤中村恒二 少尉 〃
⑦黒崎英之助 少尉 6:31
⑦時岡鶴夫 少尉 6:29
⑦?・・・発進中止?故障で引返す
⑦西野實 少尉 6:30
⑧大喜田久男 少尉 6:25
⑧?・・・発進中止?故障で引返す
⑧荒木弘 少尉 6:26
⑧?・・・発進中止?故障で引返す
(聯合艦隊告示第二百三十四号)
桑野實 少尉 5:30
戦果
空母エンタープライズ 富安中尉機命中 大破

▲第三区隊一番機 富安俊助中尉
早稲田大学から第十四期予学
卓越した操縦技術、強靭な精神力でエンタープライズを撃破する殊勲を挙げます

▲中尉は0700頃、エンタープライズに触接、空母が回頭した一瞬の隙きを突いて降下、低空で対空砲火を交わしつつ接近、艦尾付近で急上昇し宙返り(航空隊記念館展示の模型)

▲敵空母直上から逆落とし(突入する富安機)

▲前部昇降機付近に突入し撃破(命中した瞬間(吹き飛ぶ昇降機が見えます))
※富安中尉の最期の様子は映画「永遠の0」の最後で主人公・宮部久蔵が空母ハンコックに突入する場面の元になっています

▲第五区隊二番機 小山清一少尉
中央大学商学部から第十四期予学
・6月22日、第一神雷爆戦隊8名が零戦五二型に50番1発を懸吊し、第十神雷櫻花特別攻撃隊神雷部隊(櫻花6機懸吊)とともに鹿屋を発進(1機引き返し/他隊と計28機)、沖縄周辺の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 第一神雷爆戦隊(聯合艦隊告示第二百九号)
①川口光男 中尉
①伊藤祥夫 少尉
①石塚隆三 少尉
①河晴彦 少尉
②高橋英生 中尉
②溝口幸次郎 少尉
②金子照男 少尉
②?・・・搭乗機故障で引返す
戦果
掃海駆逐艦エリンス 損傷
戦車揚陸船534号 損傷
7月7日、七二一空の爆戦隊は天航空部隊機動部隊攻撃隊(五航艦司令長官指揮)に部署、鹿屋において敵機の邀撃にあたります。
筑波空本隊
昭和20(1945)年5月5日、筑波空に戦闘第四〇二飛行隊(藤田怡與藏大尉)が六〇一空から転属、新編された戦闘第四〇三飛行隊(三森一正大尉)が配属され、筑波空の練習機、戦闘機隊、人員は他隊に転属します。
特設飛行隊定数はともに甲戦(紫電)48(内補用12)機になります。
戦四〇三は香取海軍航空基地に移駐し錬成を兼ねて敵機邀撃、哨戒、射撃訓練を実施、26日、筑波に復帰します。
29日0827~1040、B29爆撃機473機、P51戦闘機100機が関東地区に来襲、筑波空は他隊と邀撃、2機撃墜します。
6月5日、筑波空は新編された第七十一航空戰隊(山本榮少将、横須賀、三航艦所属)に編入、三航艦司令長官は七十一航戰を横須賀鎭守府司令長官の作戦指揮下に編入、横鎭司令長官は防空指揮所の所要機能を七十一航戰に任務移譲します。
三航艦は東部方面(鈴鹿山脈、関ヶ原以東)所在の戦闘機兵力を横鎭司令長官指揮下に編入、横鎭司令長官は七十一航戰に統一指揮を下令します。
隊は東一空襲部隊筑波部隊の部署を解かれます。
6月21日、大本營海軍部は決號作戦(本土決戦)に向け航空戦力の温存を方針とします。
7月8日1220~1330、P51戦闘機150機が関東地区に来襲、筑波空は他隊と邀撃、4機撃墜しますが、1機が撃墜、1機が被弾、朝倉上飛曹が散華してしまいます。
15日、新司令・五十嵐周正中佐が七二二空副長から着任します。
7月20日、戦四〇二は福知山海軍航空基地(京都)、戦四〇三は姫路海軍航空基地(兵庫)に、本部は姫路海軍航空基地に移駐します。
隊は戦力温存を下令され、福知山、姫路において錬成、及び4機編隊による四国方面の哨戒にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
21日、戦四〇三は可動全機27機で惜別飛行を実施、30日、戦四〇二(福知山)の紫電全機が姫路に集結、9月3日、筑波空は復員完結します。
奥羽海軍航空隊
昭和20(1945)年6月20日、横須賀鎭守府所管の乙航空隊として神町海軍航空基地(山形県北村山郡)において開隊(関郁乎少将)、第十航空艦隊(聯合艦隊所属)に編入、第八基地航空部隊(十航艦)に部署され関東北部から東北に所在の十航艦所属各航空隊の航空基地の管理、防衛を担当します。
隊は性格上、司令官、参謀(副長兼・仲繁雄大佐、高澤秀夫大佐、杉田忠滋大佐)が置かれます。
23日、敵戦闘機75機が茨城県下に来襲します。
7月3日、B29爆撃機8機が東北地区を偵察、4日、同3機が船川港に機雷を投下します。
5日、P51戦闘機100機が茨城、栃木、千葉各県下、同90機が埼玉県下、8日、P51戦闘機150機が茨城、千葉両県下、京浜地区、10日、B29爆撃機70機が仙台、艦上機1,200機が関東地区、12日、B29爆撃機140機が宇都宮市、15日、艦上機1,300機が青森地区、17日、同180機、18日、同500機が関東地区に来襲します。
25日、定員充足し百里原、谷田部、筑波、霞ヶ浦、松島各航空基地の管理、防衛体制が整備されます。
28日、P51戦闘機240機、B29爆撃機240機が東北から東海各地区、30日、艦上機700機が関東、静岡地区に来襲します。
8月3日、P51戦闘機100機が関東地区の各航空基地、5日、P51戦闘機78機、6日、同120機が関東地区、9日、艦上機1,700機が神町、松島、八戸、10日、同1,600機が霞ヶ浦、千葉県下、13日、同800機、15日、同250機が関東地区に来襲します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
停戦に伴い隊は各航空基地の残務整理を実施、連合軍の進駐に対応し逐次復員します。
<主要参考文献>
『友部町史』(平成2年3月 友部町史編さん委員会 友部町)
『新笠間市の歴史』(平成23年3月 笠間市史編さん専門委員会 笠間市教育委員会)
『友部町百年史』(昭和46年1月 友部町百年史編集委員会 友部町町役場 友部町商工会)
『筑波海軍航空隊-青春の証-』(平成12年10月 友部町教育委員会生涯学習課)
『水戸市史 下巻3』(平成10年5月 水戸市史編さん近現代専門部会 水戸市)
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(一)』 (平成21年3月 渡辺博史 楽學庵)
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)
『神風特別攻撃隊』 (平成7年11月 ㈱モデルアート)
『神雷部隊始末記』 (平成21年11月 加藤浩 ㈱学研パブリッシング)
『南溟の果に』(昭和35年4月 安延多計夫 自由アジア社)
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