筑波海軍航空基地 航空機用掩体
笠間市に所在した筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)の外周に航空機用掩体(所謂、掩体壕)が多数設営されていました。

▲林の中に遺る航空機用の無蓋掩体
【探索日時】
平成27(2015)年3月28日、10月11日

<筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)について>
昭和9(1934)年1月、海軍航空本部は霞ヶ浦海軍航空隊は計画も含め複数の航空隊が混在し教育に支障が出る様になった事から陸上班の一部(初歩練習)移設を検討、近隣の農商務省種羊場跡地一帯を選定し新設航空基地の設営を開始、8月15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊が開隊、陸上練習機の初歩操縦術教育を開始します。
昭和13(1938)年12月25日、友部分遣隊は筑波海軍航空隊として独立、引き続き陸上練習機による飛行練習生教程を担当、昭和19(1944)年3月15日、戦闘機実用機教育に転換します。
11月19日、比島に特攻要員を抽出、昭和20(1945)年3月28日、隊も神風特別攻撃隊 筑波隊を編成、4月20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ実施航空隊に改編、7月20日、隊は姫路に移駐、空いた航空基地に元山空が進出し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※詳細は『筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)』参照
<遺構について>
『海軍航空基地現状表 内地之部』によると筑波海軍航空基地の航空機用掩体(掩体壕)は「小型有蓋14基、同無蓋70基、同隠蔽40基」となっています。
昭和22(1947)年12月12日の空撮を見る限り同基地にコンクリート製有蓋掩体は無かった様なので、“小型有蓋”は木造屋根を架けた木製掩体、“小型無蓋”は畑地に設営された無蓋、“小型隠蔽”は林地に設営された無蓋では無いでしょうか?
設営時期については『空の彼方』には「昭和19(1944)年10月末、飛行学生等の飛行作業を停止し防空壕、航空機用掩体など構築、昭和20(1945)年1月、飛行作業を再開」とあり、昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部が各鎭守府、警備府に所管航空基地への有蓋掩体の急速設備を示達した施本機密第八七三〇號に基づき昭和19年10月末~20年1月に設営されたと思われます。
昭和22(1947)年の空撮を見ると既に飛行場地区の開墾が始まり半減している様ですが、形状の異なるもの65基が確認できます。
現在、周辺の林地に設営された「小型隠蔽」と思われる航空機用掩体を中心に完存14基、損傷8基、痕跡2基が遺ります。
筑波海軍航空基地はワシが探索した各地の陸軍飛行場、海軍航空基地の中で航空機用無蓋掩体が最も多く遺る場所です。

▲筑波海軍航空基地全体図
同地に遺る航空機用掩体の形状は下記の甲・乙2種類で甲型(名称は便宜上のもの)①はコ型で後部に排水溝と思われる溝、飛行機運搬路に沿ってやや深い方形窪地(退避所?)があるもの、②溝類が無いものがあります。
一方、乙型は六角形で土を積み上げただけで前端がやや下がり、周囲に溝などはありません。

▲筑波海軍航空基地の掩体図
1 掩体
乙型で空地の外周に遺り、右側の先端が滅失していました。
航空隊記念館のPVでも紹介されていた物ですが、太陽光発電所になり滅失しました。

▲正面からの全景

▲左側の前端

▲滅失している右側の前端(背後から)
2 掩体
甲・乙型では無い大型のコ型で左側の土堤(段差)のみ遺ります。

▲左側の先端から
3 掩体
乙型で両側の先端が滅失しています。

▲正面からの全景

▲右側の先端

▲左側の先端
4 掩体
甲型①で完存していますが草むらにあるため見通せません。

▲右側の先端

▲土堤を背面から
5 掩体痕跡
甲型①で土堤は全失、右側の土堤から飛行機誘導路にかけて掘られた溝のみ遺ります。
6 掩体
甲型①で右側の後半部が滅失しています。

▲右前から

▲左前から
7 掩体
甲型①で完存しています。

▲右前から

▲掩体(奥)と左前の方形窪地
8 掩体
甲型①で完存していますが草むらにあるため見通せません。

▲内部

▲右側先端
9 掩体
甲型①で完存しています。

▲右前から

▲左側土堤

▲掩体(奥)と左側前の方形窪地
10 掩体
甲型②で両側の先端、後端も滅失し大破しています。

▲正面から全景(奥に見えるのが右側先端)
11 掩体
甲型②で両側の先端が滅失しています。
雑草が茂り見通せません。

▲正面から全景

▲左側の先端
12 掩体
甲型②で全体的に土堤が低くなっていますが、完存しています。

▲右側土堤先端

▲背後から
13 掩体
甲型①で本体は林道造成により滅失、両側の先端のみ遺ります。

▲正面から

▲右側土堤

▲右側土堤前にある方形窪地(左)と右側土堤
14 掩体
甲型②で後端の中央に道路状の破損がある以外は完存しています。

▲左側前方から

▲右側土堤先端と内部

▲後端部上から右側土堤方向
15 掩体
甲型①で近年に造られたかと見紛う様な状態です。
この林の中に非常に状態の良い甲型①が4基完存しています。
笠間市で購入して整備してくれんかな・・・。

▲右側先端から内部

▲右側土堤を左側土堤の上から
16 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲右側先端

▲内部から左側土堤
17 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲正面から全景

▲左側先端から内部

▲右側先端
18 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲左側先端から内部

▲右側土堤上から内部
19 掩体
乙型で完存していたと思われますが初回探索時に見落としてしまい、再訪したところ南側に住宅が建てられ半壊していました。

▲左側背後から全景

▲左側土堤の残存部

▲右側土堤の残存部
20 掩体
甲型①で完存していますが、草が茂り見通せません。

▲右側先端

▲左側土堤

▲右側土堤外周にある溝
21 掩体
甲型②で完存していますが、草が茂り見通せません。

▲右側土堤

▲後端部を背後から
22 掩体
乙型で全体的に土堤が低くなっていますが、完存しています。
こちらも草が茂り見通せません。

▲最深部から左側土堤

▲内部から右側土堤
23 掩体痕跡
甲型①で土堤は全失、右側の土堤から飛行機誘導路にかけて掘られた溝のみ遺ります。
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▲林の中に遺る航空機用の無蓋掩体
【探索日時】
平成27(2015)年3月28日、10月11日


<筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)について>
昭和9(1934)年1月、海軍航空本部は霞ヶ浦海軍航空隊は計画も含め複数の航空隊が混在し教育に支障が出る様になった事から陸上班の一部(初歩練習)移設を検討、近隣の農商務省種羊場跡地一帯を選定し新設航空基地の設営を開始、8月15日、霞ヶ浦海軍航空隊 友部分遣隊が開隊、陸上練習機の初歩操縦術教育を開始します。
昭和13(1938)年12月25日、友部分遣隊は筑波海軍航空隊として独立、引き続き陸上練習機による飛行練習生教程を担当、昭和19(1944)年3月15日、戦闘機実用機教育に転換します。
11月19日、比島に特攻要員を抽出、昭和20(1945)年3月28日、隊も神風特別攻撃隊 筑波隊を編成、4月20日、筑波空は練習航空隊の指定を解かれ実施航空隊に改編、7月20日、隊は姫路に移駐、空いた航空基地に元山空が進出し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※詳細は『筑波海軍航空基地(筑波海軍航空隊)』参照
<遺構について>
『海軍航空基地現状表 内地之部』によると筑波海軍航空基地の航空機用掩体(掩体壕)は「小型有蓋14基、同無蓋70基、同隠蔽40基」となっています。
昭和22(1947)年12月12日の空撮を見る限り同基地にコンクリート製有蓋掩体は無かった様なので、“小型有蓋”は木造屋根を架けた木製掩体、“小型無蓋”は畑地に設営された無蓋、“小型隠蔽”は林地に設営された無蓋では無いでしょうか?
設営時期については『空の彼方』には「昭和19(1944)年10月末、飛行学生等の飛行作業を停止し防空壕、航空機用掩体など構築、昭和20(1945)年1月、飛行作業を再開」とあり、昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部が各鎭守府、警備府に所管航空基地への有蓋掩体の急速設備を示達した施本機密第八七三〇號に基づき昭和19年10月末~20年1月に設営されたと思われます。
昭和22(1947)年の空撮を見ると既に飛行場地区の開墾が始まり半減している様ですが、形状の異なるもの65基が確認できます。
現在、周辺の林地に設営された「小型隠蔽」と思われる航空機用掩体を中心に完存14基、損傷8基、痕跡2基が遺ります。
筑波海軍航空基地はワシが探索した各地の陸軍飛行場、海軍航空基地の中で航空機用無蓋掩体が最も多く遺る場所です。

▲筑波海軍航空基地全体図
同地に遺る航空機用掩体の形状は下記の甲・乙2種類で甲型(名称は便宜上のもの)①はコ型で後部に排水溝と思われる溝、飛行機運搬路に沿ってやや深い方形窪地(退避所?)があるもの、②溝類が無いものがあります。
一方、乙型は六角形で土を積み上げただけで前端がやや下がり、周囲に溝などはありません。

▲筑波海軍航空基地の掩体図
1 掩体
乙型で空地の外周に遺り、右側の先端が滅失していました。
航空隊記念館のPVでも紹介されていた物ですが、太陽光発電所になり滅失しました。

▲正面からの全景

▲左側の前端

▲滅失している右側の前端(背後から)
2 掩体
甲・乙型では無い大型のコ型で左側の土堤(段差)のみ遺ります。

▲左側の先端から
3 掩体
乙型で両側の先端が滅失しています。

▲正面からの全景

▲右側の先端

▲左側の先端
4 掩体
甲型①で完存していますが草むらにあるため見通せません。

▲右側の先端

▲土堤を背面から
5 掩体痕跡
甲型①で土堤は全失、右側の土堤から飛行機誘導路にかけて掘られた溝のみ遺ります。
6 掩体
甲型①で右側の後半部が滅失しています。

▲右前から

▲左前から
7 掩体
甲型①で完存しています。

▲右前から

▲掩体(奥)と左前の方形窪地
8 掩体
甲型①で完存していますが草むらにあるため見通せません。

▲内部

▲右側先端
9 掩体
甲型①で完存しています。

▲右前から

▲左側土堤

▲掩体(奥)と左側前の方形窪地
10 掩体
甲型②で両側の先端、後端も滅失し大破しています。

▲正面から全景(奥に見えるのが右側先端)
11 掩体
甲型②で両側の先端が滅失しています。
雑草が茂り見通せません。

▲正面から全景

▲左側の先端
12 掩体
甲型②で全体的に土堤が低くなっていますが、完存しています。

▲右側土堤先端

▲背後から
13 掩体
甲型①で本体は林道造成により滅失、両側の先端のみ遺ります。

▲正面から

▲右側土堤

▲右側土堤前にある方形窪地(左)と右側土堤
14 掩体
甲型②で後端の中央に道路状の破損がある以外は完存しています。

▲左側前方から

▲右側土堤先端と内部

▲後端部上から右側土堤方向
15 掩体
甲型①で近年に造られたかと見紛う様な状態です。
この林の中に非常に状態の良い甲型①が4基完存しています。
笠間市で購入して整備してくれんかな・・・。

▲右側先端から内部

▲右側土堤を左側土堤の上から
16 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲右側先端

▲内部から左側土堤
17 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲正面から全景

▲左側先端から内部

▲右側先端
18 掩体
甲型①で非常に状態が良いです。

▲左側先端から内部

▲右側土堤上から内部
19 掩体
乙型で完存していたと思われますが初回探索時に見落としてしまい、再訪したところ南側に住宅が建てられ半壊していました。

▲左側背後から全景

▲左側土堤の残存部

▲右側土堤の残存部
20 掩体
甲型①で完存していますが、草が茂り見通せません。

▲右側先端

▲左側土堤

▲右側土堤外周にある溝
21 掩体
甲型②で完存していますが、草が茂り見通せません。

▲右側土堤

▲後端部を背後から
22 掩体
乙型で全体的に土堤が低くなっていますが、完存しています。
こちらも草が茂り見通せません。

▲最深部から左側土堤

▲内部から右側土堤
23 掩体痕跡
甲型①で土堤は全失、右側の土堤から飛行機誘導路にかけて掘られた溝のみ遺ります。
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