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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

鉾田陸軍飛行場(鉾田陸軍飛行學校)

メロンの栽培で知られる鉾田市に鉾田陸軍飛行場、隣接して鉾田陸軍飛行學校が所在しました。

同校はのちに鉾田教導飛行師團第二十六飛行團司令部及び教導飛行師團 第三教導隊に改編されます。
同師團は陸軍最初の航空特攻部隊「萬朶隊」が編成されたことでも知られます。
B 掩体壕 左側上から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲墓地に改修されている飛行機用無蓋掩体

【探索日時】
平成27(2015)年10月13日





鉾田陸軍飛行場(鉾田陸軍飛行學校)について
昭和13(1938)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、優勢なソ連軍と交戦するに至り、量的充実の必要性を認識した陸軍は航空軍備の画期的拡張を計画、陸軍航空本部は軍備拡張の準備として濱松陸軍飛行學校が濱松陸軍飛行場において行っていた重爆撃機、軽爆撃機の操縦訓練の分離を決定します。

昭和14(1939)年秋、陸航本は鹿島灘と北浦に挟まれ台地で平坦で広大な土地が広がる鹿島郡新宮村、同上島村の400町歩に新設飛行学校(軽爆)と付属飛行場用地、同上島村、同白鳥村の800町歩に爆撃場用地を選定し各村長に通達、収穫を待ち各村長の協力のもと飛行学校、及び付属飛行場用地の買収を開始します。
資材運搬を受注した鹿島参宮鉄道㈱は鉾田駅を県道沿いに移築するとともに貨車を増便、また丸通㈱は倉庫を拡張し対応、12月21日、陸軍省は飛行場の地均しを認可、留守第十五師團経理部(31日から第十五師團経理部、昭和15年8月1日から第五十一師團経理部)の監督のもと㈱鴻池組が地元土建業者を指揮、勤労奉仕隊の協力を得て飛行学校、飛行場の設定を開始します。

昭和15(1940)年3月28日、航空要員の取得養成、資材整備態勢の改善のため航空関係官衙、学校等の拡張を盛り込んだ『昭和十五年軍備改變要領(その一)』(軍令乙第六號)が実行されます。

7月1日、陸軍航空本部は鉾田陸軍飛行學校の建設計画を発表、12月1日、濱松陸軍飛行學校内に鉾田陸軍飛行學校が開校、19日、陸航本は爆撃場の用地買収を開始します。

昭和16(1941)年1月15日、地元住民多数の出迎えのなか初代校長・柴田信一少将、及び軽爆15機、17日、軽爆23機が新設された鉾田陸軍飛行場に到着、4月13日、来賓600名が参列し鉾田陸軍飛行學校の開校式が挙行され軽爆撃機に関する教育、研究を開始します。
鉾田陸軍飛行學校 (茨城鉾田)
▲鉾田陸軍飛行學校校門

昭和18(1943)年12月10日、飛行第四十五戰隊が九九軽爆より二式双襲に機種改変のためニューギニア島ブーツから進出、昭和19(1944)年2月10日、比島クラーク飛行場に移駐します。

昭和19(1944)年1月、勤労奉仕隊の協力で飛行機用掩体(掩体壕)を設定、6月20日、急迫する戦局に鉾田陸軍飛行學校は鉾田教導飛行師團に改編され軍隊化します。

昭和20(1945)年2月16日0705~1145、敵艦上機84~120機が数派に分かれ、また25日0741、同600機が北関東各地の飛行場に来襲、鉾田陸軍飛行場も空襲を受け軽爆8機、格納庫2棟が破壊されるなど被害を受けたため、飛行機は一部を残置し那須野陸軍飛行場(栃木)に移駐します。
26日、飛行第四十五戰隊が二式双襲からキ一〇二に機種改変のため比島タリサイ飛行場から鉾田に進出して来ます。

7月18日、鉾田教導飛行師團は第三教導飛行隊(那須野)、第二十六飛行團司令部(那須野)に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。

9月2日1100、横浜港に米第8軍第1騎兵師団が上陸を開始、3日、軍主力が上陸し横濱税関ビルに司令部を開設します。
26日、バイエル大佐以下6名が茨城県庁に来庁し県内の進駐について打ち合わせ、10月5日、第43歩兵師団隷下支隊(カイザー代将、4個大隊)が水戸教導航空通信師團(吉田)を本部兼宿舎として、㈱日立製作所 鮎川工場(日立)、古河地方航空機乗員養成所(岡郷)を宿舎として接収、県内の軍事施設の接収を開始、鉾田陸軍飛行場、豊鹿島陸軍爆撃場も接収され航空機、軍需品の処理が行われたのち(昭和21年2月まで)内務省を通じ大蔵省に返還されます。

昭和20年11月3日、GHQは各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、接収中の各陸軍飛行場、海軍航空基地52ヶ所の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。

昭和20年11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、各地の国有地、旧軍用地は入植希望者を募集し払下げが始まります。

昭和21(1946)年6月、大蔵省は鉾田陸軍飛行場の滑走面300町歩を日本製塩㈱への払下げを決定しますが、国有地の全域を農地として獲得する事を目指す常東農民組合(昭和21年1月15日結成)新宮支部は大蔵省、農林省、日本製塩㈱に押しかけ談判し払下げを撤回させ、大蔵省は鉾田陸軍飛行場、豊鹿島陸軍爆撃場1,381町歩の全域を農地として開放を決定します。
同地は満洲から引揚げた長野県出身者38戸、及び近隣農家の増反者により結成された美原開拓団が県農業会の指導のもと開拓を開始、昭和33(1958)年6月下旬までに全域が払下げられ現在に至ります。
飛行場南西端から全景 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲地元では「新宮飛行場」とも呼称される現在の鉾田陸軍飛行場跡


遺構について
鉾田陸軍飛行場(鉾田陸軍飛行學校)
停戦後、鉾田陸軍飛行學校の建物は解体され戦災復興資材として搬出、飛行学校、飛行場とも跡地は全域が農地として開拓されてしまい構内に遺構は何も遺っていない様ですが、外周に設定された飛行機用掩体(無蓋掩体壕)が僅かに遺ります。
鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)②
▲鉾田陸軍飛行場 配置図
①鉾田陸軍飛行場 ②鉾田陸軍飛行學校 ③同射撃場 ④配水池
⑤鉾田教導飛行師團通信隊・臨時兵舎 ⑥臨時兵舎 ⑦滑走面拡張部 ⑧豊鹿島陸軍爆撃場
※⑤⑥は生徒数の増加、軍隊化に伴う人員増加により居住施設を拡張、⑦は追加買収し拡張
掩体 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲飛行機用掩体 見取図

A 飛行機用掩体
荒れた雑木林の中に遺りましたが、太陽光発電のため滅失しました。
A 掩体壕 内部から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲内部から右側土堤

A 掩体壕 北西から 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲左側土堤先端

B 飛行機用掩体
内部に墓地が造られた事が幸いして全景が見通せる様になっています。
探索当日は完存していましたが、最近の空撮を見ると左側の土堤が太陽光発電により破壊されてしまっています。
B 掩体壕 東から 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲誘導路から全景
 墓地奥に見える土堤が掩体

B 掩体壕 内部から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲右側の土堤
 墓標の裏に見える土手

B 掩体壕 内部から右左側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲左側の土堤

B 掩体壕 北東から 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲奥側の土堤

B 掩体壕 左側上から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲左側土堤の上から右側の土堤方向
 左側から飛行機を格納しました

B 掩体壕 最深部上から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲奥土堤の上から左側土堤

B 掩体壕 最深部上から内部 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲奥の家の向こう側が飛行場

C 飛行機用掩体
荒れた雑木林に遺ります。
笹が酷くほぼ何の写真か分かりません・・・
C 掩体壕 左側西から 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲左側土堤

C 掩体壕 内部から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲右側土堤

C 掩体壕 最深部 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲奥側の土堤

D 飛行機用掩体
Cの遺る雑木林内に遺りますが、これまた大荒れで見通せません。
D 掩体壕 最深部 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲全景

D 掩体壕 内部から左側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲左側土堤

D 掩体壕 内部から右側 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲右側土堤


ア 鉾田陸軍飛行学校 顕彰碑
昭和49(1974)年10月、鉾田飛行學校関係者により建立されました。
手持ちの資料と文字が異なる方、特攻散華者ながら御名前の無い方もおられ謎です。
本碑と福碑に分かれているのですが分かれている理由も不明です。
ア 鉾田陸軍飛行学校 顕彰碑 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲本碑
 側面に由来、建立者、祭祀されている特別攻撃隊戦没者が刻字されています

ア 鉾田陸軍飛行学校 顕彰碑 (5) 鉾田陸軍飛行學校・鉾田陸軍飛行場(茨城鉾田)
▲副碑
 本碑に漏れた方、鉾田関連の戦没者などが刻字されています


供用部隊
鉾田陸軍飛行學校
鉾田教導飛行師團
(鉾田飛行部隊)
第二十六飛行團司令部(燕三四二二一)
第三教導飛行隊(鉾田飛行隊)
科学資源、財政ともに乏しかった我が国は建軍依頼、「速戦即決」・「以寡撃衆」を用兵計画の根本とし陸軍航空もまた同様に質的教育を重視します。
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事變(支那事変)が勃発しますが、東亜大陸において我が国の航空優位は変わらず従前の教育方針を修正するには及びませんでしたが、昭和13(1938)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、優勢なソ連軍と交戦するに至り、量的充実の必要性を認識します。

昭和14(1939)年12月20日、参謀総長、陸軍大臣は昭和19年までに平時48個師團の保有、12個師團の新設、戦時17個師團の動員兵力の整備を立案し『修正軍備充實計畫』(二號軍備)として上奏、昭和15(1940)年着手を予定しますが、支那戦線の推移に伴い兵力を増派する事となったため、完成時期を昭和21年に延期、航空部隊の急速拡張、平時編制部隊等の改革を含む『更改軍備充實計畫』に改訂します。

昭和15(1940)年3月28日、同計画の成案に先駆け、航空要員の取得養成、資材整備態勢の改善のため航空関係官衙、学校等の拡張を急ぐべく『昭和十五年軍備改變要領(その一)』(軍令乙第六號)が実行され、7月10日、陸第十六號『濱松陸軍飛行學校令』改定、陸第十七號『鉾田陸軍飛行學校令』に基づき、12月1日、濱松陸軍飛行學校内に鉾田陸軍飛行學校(柴田信一少将)が発足します。
鉾田陸軍飛行學校は學生に軽爆撃飛行隊に必要な学術を修得させるとともにこれを各隊に普及、併せて軽爆撃飛行隊に関する学術の調査、研究を行い軽爆撃教育の進歩を図り且つ軽爆撃飛行隊に必要な兵器の調査、研究及び試験を行う所と定められ、校長は陸軍航空總監に隷し、組織は学校本部(総務、教育、経理、衛生、研究各部)、整備隊、學生教育隊、材料廠が置かれます。

學生は甲種、乙種學生に二分され、甲種は航空兵科大尉に戦術、爆撃に関する学術を修習させるべく毎年1回入校させ6ヶ月修学、乙種は飛行機操縦術を修得した航空兵科尉官に軽爆撃機操縦者に必要な学術を修習させるべく毎年2回入校させ4ヶ月修学、必要に応じ憲兵を除く他兵科将校からの學生を入学させる事も可能と規定されます。

昭和16(1941)年6月15日、『鉾田陸軍飛行學校令』は改定され甲種學生の“航空兵科大尉”は“航空関係の兵科大尉”、乙種學生の“航空兵科尉官”は“航空関係の兵科尉官、見習士官”、修学期間は“6ヶ月”に改定されます。
のちに射撃學生(尉官対象)、己種學生(少尉候補生対象)が加えられます。

昭和17(1942)年7月、原町陸軍飛行場が鉾田陸軍飛行場の分飛行場に指定され、昭和18(1943)年1月20日、鉾田陸軍飛行學校 原町分教所が開設します。

昭和17(1942)年12月1日、新校長・藤塚止戈夫少将が着任します。

昭和18(1943)年10月18日、新校長・今西六郎少将(昭和20年4月30日、中将)が着任します。

昭和19(1944)年2月、研究部において岩本益臣大尉、安藤浩中尉、園田芳巳中尉、佐々木友次伍長などを中心に跳飛爆撃の研究が開始され、8月、各地に展開する軽爆隊に伝習教育を行います。

3月11日、参謀總長は指導第千九百七號により敵機の関東来襲に備え且つ士気振作を兼ね陸軍航空總監、陸航本部長隷下の在関東所在部隊に対し臨機戦闘部隊を編成、防衞總司令官(東久邇宮稔彦王大将)指揮下に編入、随時防空戦闘態勢に移行させる東二號作戰を立案、鉾田陸軍飛行學校所有の戦闘機数機により東二號部隊 鉾田飛行隊を編成、東二號作戰発動時は第十飛行師團(吉田喜八郎中将)指揮下への編入が下令されます。

6月20日、陸軍省は飛行學校、整備學校(下志津、濱松、宇都宮、鉾田、明野、同分校及び立川)を戦力化し、従来の教育に加え作戦任務を並行して実施するため、軍令陸乙第二十九號『下志津教導飛行師團等臨時編成要領』により5個飛行、1個整備学校を夫々教導飛行師團、教導航空整備師團への改編を下令、鉾田陸軍飛行學校は閉鎖され、鉾田教導飛行師團に改編(師團司令部、第一、二教導飛行隊(機材197機)、教導整備隊、通信隊、教育隊)され鉾田、原町各陸軍飛行場の使用が規定されます。

7月7日、我が国はサイパン島を失陥、米軍がマリアナ方面からB29爆撃機を運用、本格的な本土空襲が迫るなか、20日、参謀總長は航空總監(菅原道大中将)に対し、敵の機先を制し在マリアナの敵機を奇襲攻撃すべく、教導飛行師團に特別任務攻撃部隊の編成、訓練を指示、鉾田、下志津より司偵各1個中隊、濱松より重爆1個中隊が抽出され夜間推航航法、タ弾攻撃の演練を開始します。

10月16日、特別任務攻撃部隊は第二(新海希典少佐、濱松:九七重爆)、第三(諏訪部忠一大尉、鉾田:百偵に濱松の九七重爆を加える)、第四(池田春雄少佐、下志津:百偵)獨立飛行隊に改称します。
各隊は教導航空軍(菅原道大中将兼務)隷下となりますが、第三獨立飛行隊は地上勤務者が少なく機体整備に支障が出るため、鉾田教導飛行師團の指揮下に入ります。
11月2日、一部がサイパン島アスリート飛行場攻撃に参加、同月、濱松陸軍飛行場に移動し九七重爆に機種改編します。

昭和19年2月より大本營陸軍部、陸航本など航空関係者は敵上陸直前の輸送船団を攻撃、多量の出血を強要させる事こそ敵の戦意を一気に挫折させる有効手段と確信、航空機による体当たり攻撃の検討を開始します。
10月4日、教導航空軍(菅原道大中将)は第三航空技術研究所所長・正木博少将の報告(7月11日)に基づき、鉾田(双軽)、濱松教導飛行師團(重爆)に体当たり部隊の編成準備を内命、13日、鉾田教導飛行師團長・今西六郎少将は師團幹部に要員選定方法を諮問、20日、師團に特別攻撃隊の編成が下令され、体当たり用に改造された九九式双発軽爆撃機を受領、選抜未了ながら壮行会が挙行されます。

21日、第一次特別攻撃隊要員として教官・岩本益臣大尉以下16名、整備班として村崎正則中尉ほか10名を銓衡、22日、隊は立川陸軍航空廠において爆撃装置を改修、今西少将、戦友の見送りを受け立川を出発、26日、ルソン島リパに到着、第四航空軍(富永恭次中将)の指揮下に編入され訓練、整備にあたり、29日、参謀總長・梅津美治郎大将により藤田東湖の漢詩「文天祥正氣ノ歌ニ和ス」(正気の歌)から「萬朶隊」と命名されます。

11月6日、第二次特別攻撃隊として志願者から松井浩中尉以下12名が選抜され八紘隊第五隊を編成、立川陸軍航空廠において九九式襲撃機を受領、10日、壮行会ののち鉾田を出発、16日、ルソン島クラーク飛行場に前進、四航軍司令官・富永中将より「鐵心隊」と命名されます。

11月20日、第二次特別攻撃隊として志願者から教官・山本卓美中尉以下13名が選抜され八紘隊第八隊を編成、二式双発襲撃機(二式複座戦闘機)を受領、24日、壮行会ののち鉾田を出発、12月4日、ニールソン飛行場に前進、5日、四航軍司令官・富永中将より「勤皇隊」と命名されます。

11月20日、第二次特別攻撃隊として志願者から三浦恭一中尉以下12名が選抜され八紘隊第十一隊を編成、二式双発襲撃機(二式複座戦闘機)を受領、29日、壮行会ののち、戦友、地元住民(今回から許可)の見送りを受け鉾田を出発、25日、負傷、不時着散華の3名を除く9名はクラーク中飛行場に集結、四航軍司令官・富永中将より「皇魂隊」と命名されます。

昭和20(1945)年1月29日、陸亞密第八百十九號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、昭和20(1945)年2月8日、第四十五振武隊(藤井一中尉以下12名、二式双襲9機)、2月11日、第四十六振武隊(丹羽信博少尉以下12名、九九襲)を編成、それぞれ知覧、喜界島に前進します。

1月、志願者から澤田久雄中尉ほかが選抜され、師團長・今西少将より「白虎隊」と命名され九九式双発軽爆撃機を受領、台北に進出、第八飛行師團に隷属転移します。

2月16日0705~1145、F6F艦戦84~120機、25日0741、同600機が北関東各地の飛行場に来襲、鉾田も爆撃を受け軽爆8機、格納庫2棟が破壊されるなど被害を受けたため、飛行機は鉾田に一部を残置し師團主力は那須野陸軍飛行場に移駐します。

3月20日、陸亞密第千六百七十二號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、昭和20(1945)年3月23日、第六十三振武隊、4月1日、第六十五振武隊を編成します。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始します。

5月3日、新師團長・高品朋少将が着任します。

7月10日、軍令陸甲第百三號により各教導飛行師團は教育部隊と作戦部隊を完全に分離する事が令達、18日、鉾田教導飛行師團は復帰、師團の教育部隊は第三教導飛行隊(高橋賢一少佐)に改編され、同日編成された教導飛行師團(橋本秀信中将、宇都宮)隷下に編入、鉾田教導飛行師團を基幹として第二十六飛行團司令部(高品朋少将)が編成され第一航空軍司令部(安田武雄中将、東京)隷下に編入されます。

第三教導飛行隊は那須野に展開し引続き軽爆、襲撃機の教育にあたります。

第二十六飛行團は司令部を那須野に置き、隷下に飛行第三戰隊(並木好文少佐:キ一〇二乙(襲撃機)、能代)、飛行第七十五戰隊(中川範治少佐、キ一〇二甲(高高度戦闘機)、八戸)、及び特別攻撃隊を編入され、那須野を中心に金丸原、岩手、王城寺原(演習場)、水澤、棚倉、矢吹、小千谷、八戸各陸軍飛行場において錬成、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


-特別攻撃隊-
特別攻撃隊 萬朶隊
昭和19年2月より大本營陸軍部、陸航本など航空関係者は敵上陸直前の輸送船団を攻撃、多量の出血を強要させる事こそ敵の戦意を一気に挫折させる有効手段と確信、航空機による体当たり攻撃の検討を開始します。
10月4日、教導航空軍(菅原道大中将)は第三航空技術研究所所長・正木博少将の報告(7月11日)に基づき、鉾田(双軽)、濱松教導飛行師團(重爆)に体当たり部隊の編成準備を内命、13日、鉾田教導飛行師團長・今西六郎少将は師團幹部に要員選定方法を諮問、20日、師團に特別攻撃隊の編成が下令され、体当たり用に改造された九九式双発軽爆撃機を受領、銓衡未了ながら壮行会が挙行されます。
萬朶隊の九九双軽二型 (茨城鉾田)
▲体当たり用に改造された九九式双発軽爆撃機二型
 機首に起爆官3本が突き出しています

21日、今西少将は苦悶した結果、第一次特別攻撃隊要員として師團精鋭の教官・岩本益臣大尉(隊長)、園田芳巳中尉、安藤浩中尉、川島孝中尉、中川勝巳少尉(航法)、田中逸夫曹長、社本忍軍曹、石渡俊行軍曹、鵜澤邦夫軍曹、久保昌昭軍曹、近藤行雄伍長、奥原英彦伍長、佐々木友次伍長、同乗通信士として濱崎嘉明曹長、生田留夫曹長、花田博治伍長の16名、整備班として村崎正則中尉(班長)ほか10名を銓衡します。
萬朶隊 岩本益臣大尉 (茨城鉾田)
▲隊長・岩本益臣大尉(航士五十三期)
 「航法の天才」の言われ跳飛爆撃の権威でもありましたが、その真価を発揮する事無く出撃前に散華してしまいます

萬朶隊 安藤中尉、岩本大尉、園田中尉 左から (茨城鉾田)
▲左から安藤中尉、岩本大尉、園田中尉
鉾田教導飛行師團の精鋭を集めた萬朶隊でしたが、両名もまた岩本大尉とともに出撃前に散華してしまいます

萬朶隊隊員 (茨城鉾田)
▲萬朶隊隊員

22日、隊は立川陸軍航空廠において爆撃装置を改修、今西少将、戦友の見送りを受け立川を出発、各務原-福岡第一-台湾嘉義を経由し、26日、ルソン島リパに到着(着陸時に不時着し、鵜澤軍曹負傷)、第四航空軍(富永恭次中将)の指揮下に編入され訓練、整備にあたり、29日、参謀總長・梅津美治郎大将により藤田東湖の漢詩「文天祥正氣ノ歌ニ和ス」(正気の歌)から「萬朶隊」と命名されます。
萬朶隊の九九双発軽爆撃機 (茨城鉾田)
▲比島で錬成中の萬朶隊(手前は岩本隊長機)
 マニラ陸軍航空廠第三分廠において起爆官を1本に、爆弾も投下できるように改修されます

11月5日、岩本大尉、園田、安藤、川島各中尉、中川少尉は九九双軽に同乗、マニラの航空軍司令部へ申告連絡(作戦打ち合わせとも)のためリパを離陸直後にF6Fの急襲を受け撃墜、全員散華してしまいます。
さらに同日、敵艦上機の空襲で石渡軍曹、濱崎曹長が負傷、社本軍曹が岩本大尉以下の火葬に際しガソリン缶が引火爆発し大火傷を負ってしまい、意気消沈する隊員のため富永中将は富嶽隊(濱松教導飛行師團編成の重爆特攻隊)隊員とともに司令部官舎に酒席を設け歓待激励します。

11日、偵察機からの「レイテ湾南方300㎞に敵機動部隊発見」の報を受け、四航軍は壮行会を挙行、12日0400、富永中将の訓示、激励ののち萬朶隊の九九双軽4機は80番1発を搭載し岩本大尉等5名の遺骨を抱いてリパを発進(飛行第二十四戰隊の一式戦11機が援護)、奥原伍長は機体故障で引返すも田中曹長(隊長代理)、久保軍曹、援護の飛二十四・渡邊史郎伍長が敵艦船群に突入散華、佐々木伍長は通常攻撃を行い任務を完遂します。
当日の戦果 ※他隊と総合(以下同じ)
修理艇アキリーズ 損傷

15日、萬朶隊の九九双軽4機は80番1発を搭載しリパを発進、悪天候のため佐々木伍長、奥原伍長が引返し、近藤伍長が機位を失い墜落散華するも石渡軍曹は敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。

25日、出撃直前に敵艦上機の奇襲を受け、80番1発を搭載した萬朶隊の九九双軽2機(奥原機、佐々木機)は地上撃破され奥原伍長が散華してしまいます。

萬朶隊は負傷の鵜澤軍曹、大火傷の社本軍曹がともに入院、佐々木伍長が唯一の戦闘可能者となります。

佐々木伍長は単機で28日(レイテ湾上空は悪天候で敵影を発見できず帰還)、12月4日(敵直掩機と遭遇、爆弾を投棄し帰還)、5日(通常攻撃で大型艦1隻撃沈を報じ帰還)、14日(離陸に失敗)、16日(ミンドロ島に上陸中の敵輸送船団を発見するも敵直掩機来襲前に離脱)、18日(機体故障により引き返す)と出撃を繰り返しますがその都度帰還します。
5日の戦果
駆逐艦マグフォード 1機命中 大破
戦車揚陸船3隻 各1機命中
商船 1機命中

20日、萬朶隊に復帰した鵜澤軍曹は80番1発を搭載しリパを発進、レイテ湾付近の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
空母 1隻 撃破
輸送船 1隻 撃破

のち、社本軍曹、濱崎曹長、生田曹長、花田伍長は地上戦で散華、佐々木伍長のみ生還します。


特別攻撃隊 鐵心隊
昭和19年11月6日、第二次特別攻撃隊として原町陸軍飛行場において志願者から松井浩中尉(隊長)、西山敬次、藤原義行、三木将司、星一二郎、岩廣智、川谷郁夫各少尉、長尾熊夫、林利喜夫各曹長、小川武士軍曹、長濱清伍長、(1名不明)の12名が選抜され八紘隊第五隊を編成、立川陸軍航空廠において九九式襲撃機を受領、爆弾架の改修、迷彩塗装ののち鉾田陸軍飛行場に移駐しますが、7日、同地において川谷郁夫少尉が事故で殉職のため志村政夫少尉が配属されます。

10日、壮行会ののち松井中尉以下10名が先発隊として、西村少尉、林軍曹は後発隊としてそれぞれ鉾田を出発、大正-新田原-那覇-石垣島-臺北-嘉義-屏東を経由し、16日、ルソン島クラーク飛行場に前進、四航軍司令官・富永中将より「鐵心隊」と命名され待命しますが、直後に敵艦上機の空襲により襲撃機全機が地上撃破されてしまいます。
八紘第五隊 鉄心隊 勤労奉仕隊、戦友の見送りを受け鉾田を出発する松井浩中尉 (茨城鉾田)
▲勤労奉仕隊、戦友の見送りを受け鉾田を出発する隊長・松井中尉以下鐵心隊隊員

機材補充ののち、12月5日、3機(松井中尉、西山少尉、長濱伍長)は25番1発を懸吊してカロカン飛行場を発進、スルアン島付近の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
駆逐艦マグフォード 1機命中 大破
戦車揚陸船 3隻各1機命中
商船 1機命中

16日、志村少尉、藤原少尉、18日、長尾曹長、29日、三木少尉、星少尉、林曹長はそれぞれ25番1発を懸吊してカロカン飛行場を発進、ミンドロ島付近の敵艦船群に、昭和20(1945)年1月6日、岩廣少尉、小川軍曹はルソン島西方洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
1月6日の戦果
駆逐艦ニューコムに至近突入(岩廣少尉機)


特別攻撃隊 勤皇隊
昭和19(1944)年11月20日、第二次特別攻撃隊として志願者から教官・山本卓美中尉(隊長)以下学生、生徒の二瓶秀典、東直次郎各少尉、湯澤豊曹長、林長守(電信)、入江真澄、大村秀一、片野茂、白石二郎、増田良次、勝又滿各伍長、北井正之佐軍曹、加藤和三郎伍長の13名が選抜され八紘隊第八隊を編成、二式双発襲撃機(二式複座戦闘機)を受領します。
八紘第八隊 勤皇隊 山本卓美中尉自ら考案した部隊章 (茨城鉾田)
▲自ら考案した翼の生えた爆弾の部隊章を水平尾翼に描いた愛機とともに記念撮影に収まる隊長・山本中尉

24日、壮行会ののち鉾田を出発、大正-新田原-奄美大島-臺北-屏東を経由し、12月3日、ルソン島ラオアグ飛行場に進出、4日、ニールソン飛行場に前進、5日、隊長・山本中尉は四航軍司令官・富永中将に到着申告、中将より「勤皇隊」と命名されます。

6日、勤皇隊は翌日を期してレイテ湾内の敵艦船攻撃を下令され、山本中尉は機首の37㎜、20㎜機関砲を撤去し100kg爆弾を装着、艦船体当り時の破壊力増加のため2発の250kg爆弾の信管を弾底信管に換装させます。

7日、壮行会、富永中将直々の別盃を受け9機(山本中尉(林伍長同乗)、二瓶、東各少尉、入江、大村、片野、白石、増田、勝又各伍長)は飛行第二十九戰隊の四式戦5機(戰隊長・土橋正次少佐、衣笠隆介大尉、塩谷義之曹長、大町岩夫、石川鉱一各軍曹、大須賀正夫伍長)の援護のもとニールソンを発進、0940、レイテ湾に到達し山本機の林伍長は「敵艦隊発見、敵輸送船三隻轟沈、戰艦一隻轟沈、我今ヨリ体當タリス」を発信ののち突入散華、任務を完遂、援護機も全機未帰還になってしまいます。
※林伍長は朝鮮出身者の陸軍特攻隊員第1号となります。
戦果
戦車揚陸船318号 1機命中 沈没
戦車揚陸船737号 1機命中 大破

10日1400、3機(湯澤曹長、北井軍曹、加藤伍長)はニールソンを発進、レイテ湾内の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
魚雷艇323号 1機命中 沈没
駆逐艦ヒューズ 1機命中 大破


特別攻撃隊 皇魂隊
昭和19(1944)年11月20日、第二次特別攻撃隊として志願者から三浦恭一中尉(隊長)、桑原金彦少尉、門口燁夫少尉、野澤欣次郎曹長、春日元喜軍曹、渡邉力軍曹、倉知正勝軍曹、吉村正夫伍長、小平昭伍長、入江千之助伍長、利光勝義伍長、寺田増生伍長の12名が選抜され八紘隊第十一隊を編成、二式双発襲撃機(二式複座戦闘機)を受領します。
皇魂隊隊員(天王寺の新宿荘において) (茨城鉾田)
▲天王寺の新宿荘における皇魂隊隊員

29日1000、教導航空軍司令官兼陸軍航空總監・菅原道大中将、陸相及び参謀總長代理・大本營陸軍部報道部長・松村秀逸少将、師團長・今西少将それぞれの訓示、激励の辞、決別の辞ののち、1015、戦友、地元住民(今回から許可)の見送りを受け鉾田を出発、大正陸軍飛行場に着陸の際、1機が損傷したため代替機受領、悪天候のため天王寺の新宿荘に滞在します。
12月1日、松山海軍航空基地を経由、2日、新田原陸軍飛行場に着陸の際、野澤曹長が事故で負傷のため離脱(のちに台湾で散華?)、8日、沖縄に向かいますが濃霧のため寺田伍長を除き新田原に引き返し、9日、沖縄に集結します。

20日、台風のため出発は遅れ、台湾屏東に進出、着陸の際1機が破損し代替機を受領、23日、屏東を離陸しますが濃霧のため編隊が乱れ、三浦中尉、桑原少尉、春日軍曹はルソン島北部のラオアグ飛行場に、他は屏東に引き返しますが、門口少尉(少尉は匪賊の襲撃を受け、同乗の整備班・岡部功軍曹、富田正衛雇員は自力で脱出)、渡邉軍曹は不時着行方不明になってしまいます。

25日、三浦中尉、桑原少尉、春日軍曹、倉知軍曹、吉村伍長、寺田伍長、小平伍長、利光伍長、入江伍長はクラーク中飛行場に集結、27日、四航軍司令官・富永中将より「皇魂隊」と命名されます。

昭和20(1945)年1月4日、リンガエン湾に敵艦隊、船団が来寇、四航軍は指揮下特別攻撃隊に攻撃を下令しますが、1000頃、クラーク中は敵艦上機の奇襲を受け、利光伍長が敵弾を受け散華、整備班長・高橋俊夫少尉も重傷を負い、皇魂隊の二式双襲3機(桑原機、吉村機、小平機)が地上撃破されてしまいます。

6日、皇魂隊・春日軍曹機は25番2発を懸吊、旭光隊・中村健三伍長(飛行第七十五戰隊:九九双軽)とともにクラーク中を発進、リンガエン湾内の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。

8日0640、皇魂隊の二式双襲4機(三浦中尉、寺田伍長、倉知曹長、入江伍長)は25番2発を懸吊しアンヘレス南を発進、三浦中尉、寺田伍長、倉知曹長はリンガエン湾内の敵艦船群に突入散華、遅れて到達した四番機・入江伍長は敵直掩機多数を発見、再起を期して引き返し、9日、隊の戦果として大型艦轟沈1、炎上火柱2を報じます。

10日、入江伍長機は25番2発を懸吊、援護機1機とともにアンヘレスを発進、リンガエン湾内の敵艦船群に突入散華、大型輸送船1隻を轟沈させ任務を完遂します。
戦果
護衛駆逐艦リレイ・ウィルソン 1機命中 大破
輸送艦デュページ 1機命中
駆逐艦ロビンソン 命中 大破
兵員輸送艦ウォアホーク 命中 甚大
戦車揚陸船1025号 命中 甚大
 〃 925号 命中 甚大
 〃 601号 命中 甚大
歩兵上陸艇974号 命中
 〃 365号

乗機失った桑原少尉、吉村伍長、小平伍長の3名はマニラに代替機の受領に向かいますが在庫は無く、敵侵攻に伴いエチアゲに集結、第十四方面軍(山下奉文大将)指揮下に編入され敵上陸部隊と交戦、桑原少尉、吉村伍長が生還します。

※在比島の特別攻撃隊、及び関係者の生存者はエチアゲに集結、一部は輸送機、潜水艦で台湾に転進しますが、多数が臨時集成飛行隊に配属、第十四方面軍(山下奉文大将)指揮下に編入され敵上陸部隊と交戦、甚大な損害を受け停戦を迎えます。


第四十五振武隊 快心隊
昭和20(1945)年1月29日、陸亞密第八百十九號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、志願者から第一教導飛行隊教官・藤井一中尉(隊長:機上通信)、航士第五十七期生の教官・小川彰(小隊長)、鈴木邦彦(〃)、中田茂各少尉(〃)、少飛第十三期生の北村伊那夫、小川春雄、興國茂、一口義男、宮之原太吉、宮井政信、坂恒夫(通信)、伊藤好久(通信)各伍長の12名(操縦9、通信3名:二式双襲9機)が選抜され、2月8日、編成完結、師團長・今西少将により第四十五振武隊 快心隊と命名され、14日、第六航空軍隷下第六飛行師團(第三攻撃集團)附に隷属転移、大阪陸軍航空廠において二式双襲の“と號改造”を受け、鉾田、那須野、松戸(逓信省)、小月を移動しつつ錬成にあたるなか、4月28日、松戸において板垣伍長が事故で殉職してしまいます。
第四十五振武隊 快心隊 (茨城鉾田)
▲5月27日、鉾田出発直前の記念撮影
 前列左から鈴木少尉(板垣伍長の遺骨)、藤井中尉、小川少尉、後列左から伊藤、興國、宮井、小川、一口、宮之原、北村各伍長、藤井中尉、鈴木少尉

第四十五振武隊 快心隊 鈴木少尉 (茨城鉾田)
▲小隊長・鈴木少尉と愛機の二式双襲

藤井中尉は熊谷陸軍飛行學校に赴任、中隊長として生徒を教育、責任感が強く教育熱心で常日頃から特攻精神を説き、最後は自分も続くと指導する熱血漢でした。
藤井一中尉 (茨城鉾田)
▲隊長・藤井中尉

特攻作戦が始まり教え子達が次々と出撃するなか、中尉は2度に渡り特攻を志願しますが29歳と軍人として高齢で妻子があり、機上通信専修者(歩兵科時代に支那戦線で敵の迫撃砲弾破片弾創により左手握力が弱く操縦桿は握れない)で、何より優秀な教育者であったため志願は却下されます。
昭和19年12月、中尉の決意を知った福子夫人は後顧の憂いを断つべく長女・一子さん(3)と繋いだ手を縛り、次女・千恵子さん(1)をおぶり荒川に入水自殺、15日、3名の遺体が発見されます。
藤井一中尉、福子夫人、一子さん (茨城鉾田)
▲福子夫人と長女・一子さん

直後、中尉は血書にて3度目の志願、遂に受領されます。

5月27日、快心隊は知覧に前進、28日、第六航空軍(菅原道大中将)は第九次航空總攻撃を発動します。
0300、隊員起床、朝食ののち自動貨車にて飛行場に移動、師團長・今津正光大佐と別盃ののち、0455~0500、二式双襲9機は25番2発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
敵艦突入直前に撃墜された宮之原伍長は漂流中を宝島住民に救助され生還します。
戦果
駆逐艦シュブリック 1機命中 大破


第四十六振武隊
昭和20(1945)年1月29日、陸亞密第八百十九號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、志願者から丹羽信博(隊長)、小山勝美、森光各少尉、伊原佐源治、古川榮輔、堀越進、渡邉博、米山和三郎、小林貞三伍長、中林稠伍長、奥村明雄、斎藤健伍長が選抜され、九九式襲撃機を受領、2月11日、第六航空軍隷下第六飛行師團(第三攻撃集團)附に隷属転移します。
大阪陸軍航空廠において九九襲の“と號改造”を受け、鉾田ほか各飛行場で錬成にあたり、知覧、次いで喜界島に前進します。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始、6日1200、沖縄方面根拠地隊は戦艦9、巡洋艦12隻を基幹とする敵輸送船団を発見、第六航空軍(菅原道大中将)は第一次航空總攻撃を発動します。

6日、喜界島上空は敵機に制圧され出撃できず、7日0700、九九双襲2機(小山少尉、伊原佐伍長)、1700、3機(古川伍長、堀越伍長、渡邉伍長)は25番2発を懸吊し喜界島を発進、中城湾の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
掃海艇ファシリティ 損傷
 〃 ランソム 損傷
 〃 デフェンス 損傷
掃海特務艦311号 損傷
 〃 321号 損傷

11日0535、森少尉は喜界島、1200、米山伍長機は徳之島を発進、前者は嘉手納沖、後者は沖縄周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
護衛駆逐艦マンラヴ 損傷 小破

12日、第二次航空總攻撃が発動、13日1800、小林伍長機は喜界島を発進、沖縄周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
護衛駆逐艦コンノリー 損傷

15日1800、中林伍長機は喜界島を発進、沖縄周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。

5月5日、丹羽少尉は第三十教育飛行隊附に転属、奥村伍長、斎藤伍長は7月2日時点で喜界島で待命しますが、その後の動向は不明(再起を期して他隊に転属したと思われます)。


誠第十五飛行隊 白虎隊
昭和20(1945)年1月、鉾田教導飛行師團において志願者から澤田久雄、吉田稔各中尉、堀三郎、半田金三、池田進、柵木友一各伍長ほかが選抜され、師團長・今西少将より白虎隊と命名され九九式双発軽爆撃機を受領、台北に進出しますが、1月14日、澤田中尉が嘉義上空、23日、堀伍長が台中上空において敵機の攻撃を受け散華してしまいます。
2月、第八飛行師團に隷属転移、5月31日、半田伍長は沖縄西方周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。

吉田中尉、堀、池田、柵木各伍長は同じ鉾田教導飛行師團において編成された誠第二十五飛行隊(陸亞密第千四百六十三號により、2月6日、編成、澄谷徳朗大尉以下12名、九九双軽)に転属、同隊は出撃すること無く嘉義において待命中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第六十三振武隊
昭和20(1945)年3月20日、陸亞密第千六百七十二號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、志願者から久木田清中尉(6月1日、大尉)、木幡正義、高田明少尉、宮光男、堀口良助、難波晋策(5月1日、准尉)、廣瀬廣義(〃)各曹長、後藤與二郎(5月1日、曹長)、服部良策、中澤留吉各軍曹、佐々木平吉(5月1日、軍曹)、榊原吉一(〃)各伍長が選抜され、九九式襲撃機を受領、大阪陸軍航空廠において九九襲の“と號改造”を受け、鉾田ほか各飛行場で錬成にあたり萬世に前進します。

6月3日、第十次航空總攻撃が発動、7日1650~1655、悪天候のなか九九襲7機(難波准尉、宮、後藤各曹長、服部、中澤、佐々木、榊原軍曹)は25番2発を懸吊し萬世を発進、機材不調により中澤軍曹は奄美大島に不時着するなか、6機は沖縄西方周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。
戦果
駆逐艦アンソニー 損傷

航空総攻撃は7月1日を持ち終結、生存者は再起を期して他隊に転属したと思われます。


第六十四振武隊 國華隊
昭和20(1945)年3月20日、陸亞密第千六百七十二號により、鉾田教導飛行師團に特別攻撃隊2隊の編成下令、志願者から澁谷健一中尉(6月10日、大尉)、巽精造、稲垣忠男各少尉、橘保軍曹、井上清(5月1日、軍曹)、横田彦次郎(〃)、加藤俊二(〃)、斎藤正俊(〃)、稲島竹三(〃)、鈴木文治、岸田盛夫、森高夫各伍長が選抜され、師團長・今西少将より國華隊と命名され九九式襲撃機を受領、原町において錬成、前進命令を受け壮行会、別盃ののち大阪陸軍航空廠において九九襲の“と號改造”を受け、目達原に移駐、錬成にあたります。
第六十四振武隊 (茨城鉾田)
▲原町で錬成中の國華隊と慰問に訪れた女学生、彼女達が考案、描いた部隊章と記念撮影
 隊員を桜花に見立て放ったら戻ることのない様を矢に例え図案化されました

第六十四振武隊 (茨城鉾田) (2)
▲萬世に向かう國華隊隊員と見送る目達原の地上勤務者

6月9日、萬世に前進、加世田の飛龍荘にて待命、11日、出陣式ののち、0608~1615、九九襲11機(澁谷大尉、巽、稲垣少尉、橘、井上、加藤、斎藤、稲島軍曹、鈴木、岸田、森各伍長)は25番2発を懸吊し萬世を発進、橘軍曹機は川邊郡に墜落(知覧陸軍病院に入院、7月4日、退院)、鈴木伍長機は機体不調により引返すなか、9機は沖縄西方周辺洋上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂します。

航空総攻撃は7月1日を持ち終結、生存者は再起を期して他隊に転属したと思われます。


第二百一神鷲隊
第二百五十五神鷲隊

ほか待機特別攻撃隊
昭和20(1945)年5月2日、鉾田教導飛行師團において第二百一神鷲隊、第二百二・第二百三振武隊、第二百四・第二百五・第二百六・第二百七・第二百八神鷲隊(以上8名(操縦6、機上無線2名)、九九双襲6機)、第二百五十三神鷲隊、と號二百五十四部隊(以上8名(操縦6、機上無線2名)、九九双軽6機)、6月、第二百二十五・第二百二十六神鷲隊、第二百二十七・第二百二十八振武隊(以上6名、キ一一五「劔」6機)、第二百五十五・第二百五十六神鷲隊(以上9名(操縦8、機上無線1名)、九九双軽8機)が編成されます。

各隊は那須野を中心に金丸原、岩手、王城寺原(演習場)、水澤、棚倉、矢吹、小千谷、八戸において錬成、待機します。

7月18日、鉾田教導飛行師團は復帰、各隊は師團を基幹として新編された第二十六飛行團司令部(高品朋少将)に編入されます。

7月14日、陸中海岸沖に米第34.8.1任務隊の戦艦3、重巡洋艦2、駆逐艦9が接近、釜石市が艦砲射撃を受けます。

8月9日1105、敵艦上機が釜石市、岩手陸軍飛行場に来襲、1247、米第34.8.1任務隊に英第37.1.8任務隊の軽巡2、駆逐艦3が加わり艦砲射撃を開始します。

同日夕刻、飛行團は岩手陸軍飛行場にあった第二百五十五神鷲隊に出撃を下令、隊は壮行会ののち近隣住民に見送られ出撃可能な九九双軽3機(吉村公男中尉(隊長)、渡邉秀男少尉、石井博伍長)が80番1発を搭載し岩手を発進しますが、1機は発動機不調で引き返す途次、また2機も会敵できず引き返す途次燃料欠乏により仙台湾、原町付近に墜落、3名は散華してしまいます。

13日、犬吠崎70°方向、100㎞の洋上に敵機動部隊発見の報に飛行團は第二百一(小池辰男中尉以下8名)、第二百五十三神鷲隊(浅野滿祥大尉以下8名)に出撃を下令します。
第二百一神鷲隊 200831 小池中尉 (茨城鉾田)
▲8月13日、戦闘指揮所前で出陣式に挑む第二百一神鷲隊隊長・小池中尉と隊員

第二百一神鷲隊 200831 出撃前 (茨城鉾田)
▲出撃準備成った第二百一神鷲隊隊の二式双襲

第二百一神鷲隊 200831 高品少将の見送りを受け訓示 (茨城鉾田)
▲出撃前に最終指示を伝達する小池中尉
 後方は第二十六飛行團長・高品少将

第二百一神鷲隊 200831 小川中尉(左)・藤田伍長(右) (茨城鉾田)
▲見送りを受ける藤田伍長(中央)と小川中尉(左)

第二百一神鷲隊 200831 出撃する小川中尉 (茨城鉾田)
▲出撃する小川中尉

1630、出陣式直後、敵艦上機の奇襲を受け第二百五十三神鷲隊の九九双襲6機は全機地上撃破、1730、第二百一神鷲隊の先発隊として小川滿中尉(無線:藤田重喜伍長)、横山善次少尉の九九双襲2機は25番2発を懸吊し那須野を発進、2000、「小川編隊タダイマ突入」を発信し敵機動部隊に突入散華、任務を完遂、同行した海軍偵察機は敵空母1、敵巡洋艦1から大火災を報じます。

1740、小池中尉ほか3機の九九双襲2機は25番2発を懸吊し那須野を発進しますが会敵できず帰還、那須野は密雲に覆われていたため下館に着陸します。

第二百二振武隊は八日市、小月、次いで米子に、第二百三振武隊は八日市、次いで小月に前進し錬成、待命中、他の隊も北関東、東北の各飛行場において8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

最後に記事執筆にあたり鉾田市立図書館Y様に多数の書籍を御紹介頂き、また「特別攻撃隊 皇魂隊」に関しては御遺族の櫻子様に多大なる御助言を頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。


主要参考文献
『鉾田町史 通史編(下)』(平成13年10月 鉾田町史編さん委員会)

『鉾田町史研究 七瀬1』(平成3年3月 鉾田町史編さん委員会)

『図説「ほこたの歴史」』(平成7年12月 鉾田町史編さん室)

『鉾田の文化 第33号「鉾田陸軍飛行学校」』(平成21年5月 鉾田市郷土文化研究会 )

『鉾田の文化 第43号「戦争遺跡の保存と活用~鉾田陸軍飛行学校を例として~」』(平成31年5月 〃)

『鉾田物語 ふるさと紀行⑫⑬ 鉾田陸軍飛行学校』(平成27年9月 渡辺耕男)

『茨城県史 市町村編3』(昭和56年9月 茨城県史編さん市町村史部会)

『茨城県史料 農地改革編』(昭和52年3月 茨城県史編さん現代史部会)

『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『戦史叢書94 陸軍航空の軍備と運用〈3〉』(昭和51年5月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『特攻 第15号』(平成4年7月 特攻隊慰霊顕彰会)

『特攻 第24号』(平成7年8月 〃)
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明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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