fc2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

東金陸軍飛行場

天下人・徳川家康公が鷹狩をした地として知られる東金市に東金陸軍飛行場がありました。
A 格納庫基礎 北東から (3) 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲畑に遺る格納庫基礎

【探索日時】
平成24(2012)年3月29日





東金陸軍飛行場について
昭和18(1943)年春、陸軍は米国が設計していたB29爆撃機が完成段階にある事を確認、本格的な空襲開始を生産累計が400機に達する昭和19年5~6月頃、配備先は太平洋方面はウェーク島、支那方面は重慶、成都、桂林、柳州と判断します。

昭和19(1944)年初旬、米軍の反攻が本格化、マリアナ諸島への侵攻が予測されるなか、陸軍航空本部は太平洋方面から首都圏に来寇するB29爆撃機を邀撃すべく関東近傍の太平洋正面に飛行場整備を計画、東部軍司令部に送達します。

東部軍経理部は同参謀部と協議、新設飛行場用地を山辺郡豊成村上武射田(むさだ)、下武射田を中心に東中、関内、三浦名、堀之内、中野に跨る200町歩の武射田芋畑、松林を選定、昭和19年3月8日、豊成村役場を訪問、戸田禎三村長、村井豊助役、戸田隆三収入役(昭和18年度供米の空供出の責任を取り村長、助役は辞任、戸田収入役が新村長に、村農業会の鈴木勝専務理事が新収入役に就任)等と会談し飛行場設定、範囲を伝達、協力を要請します。

19日、東部軍経理部は測量を実施、用地外周に赤旗を立て敷地を明示し該当用地を凡そ10町歩200円で買収(該当用地には住宅、畑地、水田、墓地、山林がありましたが、詳細な価格は不明)、5月10日、地鎮祭を斎行ののち東部軍東金出張所(岡田技術大尉)の監督のもと長組、藤田組、明組、三木組が滑走面、排水施設、軍用道路、誘導路、飛行機用掩体の主に土木工事を近隣村落からの勤労奉仕隊、学校報国隊の協力を得て、また戸田組が建物の建設を開始します(秘匿名「ソヒノト工事」文字の意味は不明)。
同建設現場は婦人会、女子青年団、芸者の奉仕もあり軍官民一体の一種の社交場となり雰囲気も良く率先して参加する方が多かったと言われます。

5月19日、用地内の住宅5軒が移転、11月中旬、東金陸軍飛行場が凡そ竣工、下志津陸軍飛行場より第百四十一飛行場大隊長・野上正少佐以下10名が来場し設備を確認、転圧不足により軟弱地盤の残る滑走面、窪地が点在する誘導路、舗装面狭隘な飛行準備線、不完全な排水路、水量不足の井戸、粗末な居住施設と不備多数を下志津教導飛行師團司令部に報告しますが、急迫する戦局に師團は前進飛行場として戦闘機配備が可能として合格判定します。

11月20日、東金に第百四十一飛行場大隊、12月3日、飛行第二十八戰隊が進出して来ます。

11月7日、飛行場に隣接していた豊成村役場が村農業会事務所に、昭和20(1945)年1月、同じく豊成国民学校が南東1㎞に移転します。

昭和20(1945)年2月16日0715~1540、F6F、F4U、SB2C、TBF90~450機が硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく関東地区の航空基地に7波に分かれ来襲、東金には午前中に来襲、戰隊本部、大隊本部、格納庫など8割が被弾損傷する大損害を受けてしまいます。

7月10日、飛行第二十八戰隊は第二十八獨立飛行隊に改編、関東地区に来襲するB29邀撃にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきたため、在地部隊により東金飛行場物資監視隊を編成し兵器、軍需品の管理を行います。

8月31日、米第4海兵連隊先遣隊(クロフォード少佐、1個中隊235人)が館山市館山港桟橋に上陸、9月1日、第11空挺師団の1個小隊(フィリップス中尉以下120人)が厚木から木更津海軍航空基地に進駐、3日、千葉県進駐の主力、第112騎兵連隊戦闘団(J・W・カニンガム准将)が館山海軍航空基地の水上機滑走台から上陸、同基地に司令部を開設し、9~10月にかけ千葉県下の陸海軍施設に進駐、東金陸軍飛行場も接収され、監視隊は飛行機、軍需品を引き渡し、米軍により処理が行われ、弾薬類は銚子陸軍飛行場に搬出されたのち、施設は大蔵省に返還されます(接収・返還日時、処理状況は資料が無く不明)。

9月24日、農林省は各地方長官に「軍用地ノ農耕地転用ニ関スル件」を発令、10月12日、千葉県は同件を受け県帰農対策本部を開設、県内各地の旧軍用地を開拓農地として戦災者、復員者、引揚者の入植斡旋を開始します。
11月3日、GHQは各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、接収中の各陸軍飛行場、海軍航空基地52ヶ所の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。

11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、各地の国有地、旧軍用地は入植希望者を募集し払下げが始まり、東金陸軍飛行場は全域が開拓地に指定され農林省に移管ののち軍人残留者、増反者、入植者に開放され開墾、のち定着状況を見て各開拓民に払い下げられます。
昭和58(1983)年、滑走面西端に千葉県警察学校の建設が開始され、昭和61(1986)年、千葉市内から移転開校、現在は西側一帯が住宅地化、工業地化しています。

同飛行場は地元では地名から「豊成飛行場」とも呼ばれている様です。


遺構について
東金陸軍飛行場
同飛行場は資料が無く、また国遷アーカイブの解像度も悪く建物配置は不明です。
遺構として格納庫基礎が有名ですが、外周には飛行機用の無蓋掩体(掩体壕)が数基遺ります。
東金 現在(施設のみ) 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲施設の配置

A 格納庫基礎
私有地内に遺り、コンクリート製三角形の基礎で両側に8基づつ(後端側の3基は間隔が狭い)並びます。
A 格納庫基礎 北東から (3) 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲東側全景

A 格納庫基礎 北東から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲近影

A 格納庫基礎 西側 北東から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲正面内側から

A 格納庫基礎 南西から (2) 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲西側全景

A 格納庫基礎 南西から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲近影

A 格納庫基礎 西側 南東から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲正面内側から

A 格納庫基礎 西側 近影 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲基礎拡大
 鉄筋を抜こうとした痕跡が遺ります

※畑の所有者に車の駐車、及び敷地の立入り許可を頂きました。


-飛行機用掩体-
史料によると東金には有蓋6(木造?)、無蓋50基があった様です。
現存の無蓋掩体は半壊している物もありますが、概ね同一規格で半円形に土堤を築き外周に排水用の溝が掘り下げてあります。
東金掩体壕 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲東金に遺る飛行機用掩体(無蓋掩体壕)の構造図

a 無蓋掩体
民家の裏に遺りますが、後ろ半分は滅失しています。
残存部もBMXのコースになっており大破しています。
a 掩体壕・右側 南から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側土堤の先端 
 先端はなだらかになっています

a 掩体壕・右側 左側から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側土堤の残存部

a 掩体壕・右側 奥上から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側土堤上から先端

a 掩体壕・左側 南東から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側土堤の先端

b 無蓋掩体
荒地の中に遺りますが、工場建設により左側土堤が滅失しています。
笹が酷く全く見通せません。
b 掩体壕 右側 北から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲笹が茂っている部分が土堤です・・・

c 無蓋掩体
林の中に完存しています。
肉眼でははっきり見えるのですが・・・
c 掩体壕 右側 南から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側土堤の先端

c 掩体壕 左側 内部から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側の高まりが左側土堤

c 掩体壕 左側 南から (2) 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側の土堤先端

c 掩体壕 左側 南から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側土堤先端(左)と排水溝(右側の落葉部分)

c 掩体壕 北西から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側の高まりが掩体後端部分

d 無蓋掩体
分譲地の奥に完存していますが、分譲地に囲まれているので現在は入れなくなっています。
笹が茂り全く見通せません。
d 掩体壕 右側 内部から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側の土堤近影

d 掩体壕 右側上部 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲右側土堤の上面

d 掩体壕 左側先端 北東から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側土堤の先端

d 掩体壕 左側 奥最深部から 東金陸軍飛行場(千葉東金)
▲左側土堤の上面


B 平和を呼ぶふるさとの碑
平成6(1994)年3月、豊成飛行場記念碑建設委員会により建立されました。
題字を揮毫、選文した鈴木勝氏は東金陸軍飛行場建設時の豊成村助役で、勤労奉仕隊の手配に尽力しました。
B 平和を呼ぶふるさとの碑 東金陸軍飛行場(千葉東金)


供用部隊
飛行第二十八戰隊(Ⅰ)(羽九一六〇、滿洲一六七)
第二十八獨立飛行隊(Ⅰ)(羽九一六〇、滿洲一六七)
飛行第二十八戰隊(Ⅱ)(羽→天翔九一六〇)
第二十八獨立飛行隊(Ⅱ)(天翔九一六〇)
昭和14(1939)年6月1日、満洲新京において編成(北川潔水大佐)、第八飛行團司令部(中富秀夫少将、敦化)隷下に編入されます。
戰隊は3個中隊(各中隊は九七式司令部偵察機、九七式軽爆撃機、九八式直接協同偵察機装備)編制で偵察を任務とします。
昭和15(1940)年7月17日、軍令陸甲第二十六號「陸軍航空部隊編制改変要領」により第二飛行團(佐藤覚一少将)直轄となり、昭和16(1941)年3月、第二中隊(軽爆)を飛行第二十九戦隊、第三中隊(直協)を新編の飛行第八十三戰隊に抽出し、飛行第二十九戰隊から1個中隊(司偵)を編入し司偵2個中隊に改編します。

7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、24日、『關東軍特別演習令』に基づく臨時編成令第二編成二號が下令され、25日、編成着手、30日、戰隊本部は第二十八獨立飛行隊本部(江頭頭少佐、温春)、第一中隊は同第八十一中隊(森本三郎大尉、温春)、第二中隊は獨立飛行第六十三中隊(川村良吉大尉、温春)にそれぞれ改編、獨飛第六十三中隊は第二飛行集團(寺本熊市中将)直轄となり対ソ連戦に備えます。
8月9日、独ソ開戦に伴うソ連軍の西部移駐は予測以下な事から対ソ連開戦は中止されたため、中隊は飛行隊指揮下に復帰します。

12月、新編された獨立飛行第八十二中隊(鈴木秋水大尉、温春)を編入します。
飛行隊指揮下の各中隊は百式司令部偵察機を装備。

昭和18(1943)年3月、獨飛八十一中隊は第六飛行師團(板花義一中将、ラバウル)指揮下に編入されニューギニア島ウエワク中飛行場に進出、連日にわたり索敵にあたりますが、8月17~18日、米第5空軍の攻撃を受け甚大な被害を受け、9月下旬、隊の百偵は全損、戦力が払底してしまったため、昭和19(1944)年4月、満洲に復帰します。

昭和19(1944)年1月1日、獨飛八十二中隊は獨飛八十一中隊と交替のためニューギニア島ホーランディアに進出、同地において索敵にあたりますが、3月30日、4月21日、空襲により百偵の殆どが地上撃破されてしまい、22日、米第6軍がホーランディアに上陸を開始したため、26日、第六飛行師團長心得・稲田正純少将とともに悪疫、糧食欠乏、体力消耗に苦闘しつつ密林400㎞を踏破、5月末、サルミに転進、生存者は比島を経由し、10月29日、内地に帰還、中隊は復帰します。

昭和19年5月12日、第二十八獨立飛行隊本部、獨立飛行第六十三中隊、同八十一中隊は統合され、飛行第二十八戰隊が再編(國枝治平少佐、温春)、第二航空軍隷下に編入されます。
第一中隊は新京に派遣(7月、鞍山に移駐)、第二中隊は第四航空軍(富永恭次中将、マニラ)の指揮下に編入され比島に進出、索敵にあたります。

11月3日、大本營はマリアナ諸島からのB29爆撃機による本格的な空襲が予測されるなか、百偵の高空性能を活かし邀撃すべく、戰隊は第十飛行師團(吉田喜八郎中将))に隷属転移、16日、戰隊主力(百偵二型)は調布飛行場に移駐、また比島の第二中隊は機材を残置し人員のみ調布に集結します(日時不明)。
12月2日、新戰隊長に二式複戦の経験豊富な上田秀夫少佐(航士五十二期、飛行第五十三戰隊附から)が着任、高戦隊に改編、3日、東金に移駐、高高度戦闘の錬成に入ります。
戰隊の編制は戰隊本部、第一中隊(飯田淑郎大尉)、第二中隊(久村栄次大尉)、第三中隊(佐々木村光大尉)、整備中隊(北本信孝大尉)の600名(操縦、偵察40組)でした。
昭和20(1945)年1月、月間3~4機づつ百偵三型改(20㎜機関砲2門装備の武装司偵)の配備が開始されますが、戰隊全部で実働6機程度、3月以降は順調に配備され各中隊6機程に増加します。
空中勤務者に関し南方からの帰還者は悪疫、疲労が目立ち、また戦闘分科出身者は殆ど無く殆どが司偵操縦者のため計器飛行、航法能力は優れるも戦闘機隊としての気風、戦闘機操縦者精神に劣り、射撃、特殊飛行能力向上は進みませんでした。

昭和19年11月24日1354、B29爆撃機62機が中島飛行機㈱武蔵製作所に来襲したのを始め、26日、27日、30日、12月3日、27日、30日、昭和20年1月9日、27日、2月10日、11日と連日関東に来襲、戰隊は2月から少数選抜機により機関砲、タ弾により昼間邀撃に出撃しますが戦果は挙がりませんでした。

2月16日0715~1540、F6F、F4U、SB2C、TBF90~450機が硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく関東地区の航空基地に7波に分かれ来襲、戰隊は在地機の銃弾、燃料を抜き掩体に格納、実動機により邀撃に出撃しますが、東金陸軍飛行場も攻撃を受け戰隊本部、飛行場大隊本部、格納庫など8割が被弾損傷する大損害を受けてしまいます。

3月26日、我が国は硫黄島を失陥、4月7日1000、B29爆撃機に初めて同島を発進したP51戦闘機が随伴、中島飛行機㈱武蔵製作所に来襲します。
戰隊は6機が東金を発進、利根川上空で邀撃しますがP51に包囲され4機(5機とも)が撃墜され渡邉一郎軍曹が散華してしまいます。

戰隊は爾後、戦力温存のため小型機随伴時は邀撃を回避、B29単独来襲時のみ邀撃に転換します。

6月頃からキ一〇二が配備され、計6機が配備されますが、出撃の機会は無く、7月15日、戰隊は第二十八獨立飛行隊(Ⅱ)(7月10日から江頭多少佐)に改編(武装司偵9機)、8月10日、大正(大阪)にあった獨立飛行第八十二中隊(Ⅱ)(成田富三大尉:武装司偵2機)が編入されますが、同中隊は移動準備中に8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月1日、復員完結します。


第百四十一飛行場大隊(天翔一六六三九)
昭和19(1944)年3月23日、軍令陸甲第三十五號により編成下令、7月30日、下志津教導飛行師團において編成(野上正少佐)、11月中旬、野上正少佐以下10名は凡そ竣工した東金陸軍飛行場の設備を確認、転圧不足により軟弱地盤の残る滑走面、窪地が点在する誘導路、舗装面狭隘な飛行準備線、不完全な排水路、水量不足の井戸、粗末な居住施設と不備多数を下志津教導飛行師團司令部に報告しますが、急迫する戦局に師團は前進飛行場として戦闘機配備が可能として合格判定を行います。
大隊の編制は本部(事務、通信班を有し、写真、兵器、医療、経理を統括)、補給中隊(天野隆晴中尉:航空、自動車燃料、弾薬などの保管管理、及び自動車班を有しこれらの補給運搬を実施)、警備中隊(中村大尉:飛行場内外の警備、防空を担当)で総員395名でした。

11月20日、大隊は物資、器材を積載し自動貨車で東金に進出、東金陸軍飛行場の管理、防空にあたります。
大隊は燃料を公平村松之郷の山中に分散格納、豊成農業会の指導を受け居住地区の空地に自給のため農耕、また睦岡村(現、山武市)に山中に炭焼小屋を設置し炭を製造します。

昭和20(1945)年2月16日0715~1540、F6F、F4U、SB2C、TBF90~450機が硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく関東地区の航空基地に7波に分かれ来襲、東金陸軍飛行場も攻撃を受け飛行戰隊本部、大隊本部、格納庫など8割が被弾損傷する大損害を受けてしまいます。

3月9日22:00、B29爆撃機が単機で飛行場に来襲、飛行場東方に焼夷弾が投下され火災が発生、大隊の消防隊が地元の消防団に協力して焼火にあたります。

8月、竣工した越谷陸軍飛行場(埼玉)に移駐、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百三十六獨立整備隊(帥一九〇〇八)
昭和19(1944)年7月25日、東金において編成(近藤武雄少尉)、飛行第二十八戰隊、第二十八獨立飛行隊の百式司令部偵察機、キ一〇二の整備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第百六十獨立整備隊(燕一九一六四)
昭和20(1945)年4月16日、東金において編成(立石忠彦少尉)、飛行第十八戰隊に属し柏陸軍飛行場に移駐、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※最終位置は東金?


第百八十四獨立整備隊(燕一九〇六九)
昭和20(1945)年2月20日、東金において編成(松本光衛少尉)、飛行第二十八戰隊、第二十八獨立飛行隊のキ一〇二の整備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※最終位置は越谷?


第三百十五獨立整備隊(燕二一八一七)
昭和20(1945)年6月20日、第三、第六、第七航空教育隊より人員を抽出し、第三百十二、第三百十三、第三百十四とともに編成、東金に進出し、飛行第二十八戰隊、第二十八獨立飛行隊の百式司令部偵察機、キ一〇二の整備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第二対空無線隊(燕一九一八八)
昭和19(1944)年3月8日、第十七飛行團通信隊を基幹として調布において編成(小林孫孝大尉)、久慈、勝浦、及び龍ケ崎、東金、藤ケ谷、印旛、調布の各飛行場に展開、飛行師團-飛行戰隊間の指揮連絡のための対空通信、地上における緊急通信にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『もしももう半年戦争が続いたら 本土決戦下の東金』(平成5年8月 吉井永 東金市郷土研究愛好会)

『幻の本土決戦 第2巻 房総半島の防衛』(平成2年6月 石橋正一 千葉日報社)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『陸軍飛行場要覧(本土)』(第一復員局)

『旧帝国陸軍航空部隊要覧』(平成8年4月 大内那翁逸)
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ジャンルランキング
[ジャンルランキング]
地域情報
41位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
4位
サブジャンルランキングを見る>>
月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
--------------
掲載写真、図面、資料、文章の
無断転載は禁止します。
当ブログを参照した際は度合いによらず必ず引用明記のうえリンクを張ってください。

リンク
Twitter @yuukyuunotaigi
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる