香取海軍航空基地 西砲台
旭市、匝瑳(そうさ)市にまたがり所在した香取海軍航空基地の外周に防空本部、高角砲台4、機銃群4、照空灯2が設営されていました。
防空砲台群の西端に西砲台がありました。

▲空地に遺る高角砲の弾庫
【探索日時】
平成27(2015)年3月29日

<香取海軍航空基地について>
昭和13(1938)年5月、軍令部は米国が策定した大幅軍備拡張計画、「第二次ビンソン案」のうち、最も脅威になると予測される航空戦備の均衡を保つべく「第四次海軍軍備充實計畫」(マル四計画)の案画を開始するとともに、海軍航空本部は関東地方に外戦兵力基地の設営を計画します。
昭和14(1939)年3月7日、「マル四計画」の成立とともに横須賀海軍建築部は寛文年間に椿湖を干拓し「干潟八万石」と称され、平坦で広大な土地が確保可能な匝瑳(そうさ)郡共和村、椿海村、旭町一帯の農地を買収し航空基地設営を開始、昭和18(1943)年9月6日、香取海軍航空基地が竣工します。
当航空基地では、昭和18(1943)年7月1日、来寇する敵機動部隊殲滅を企図し内南洋の島嶼を不沈空母として配備を想定した第一航空艦隊司令部を始め、10月1日、麾下の第一二一海軍航空隊、11月5日、第五二三海軍航空隊、昭和19(1944)年1月1日、第一〇二一海軍航空隊、2月1日、第六十二航空戰隊司令部、3月15日、第三二二海軍航空隊、2月1日、また増大した豫科練習生に整備術を先行教育すべく、香取海軍航空隊などが編成されます。
昭和20(1945)年2月12日、松山から第六〇一海軍航空隊が移駐、20日、同隊から神風特別攻撃隊 第二御盾隊(21日、突入)が編成、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※詳細は『香取海軍航空基地』を参照
<香取海軍航空基地 防空砲台>
同航空基地の防空砲台は竣工とともに、昭和17(1942)年11月1日、新編された第一航空基地隊、昭和19(1944)年2月1日から香取海軍航空隊、昭和20(1945)年6月30日から関東海軍航空隊 香取基地隊が運用にあたりました。
防空本部は対空電探を装備し干潟駅南東に開設され、高角砲を有する北砲台、東砲台(射撃用電探装備)、西砲台、機銃を主体とした機銃一群、機銃二群、機銃三群、機銃四群、探照灯を有する南東照空灯、南西照空灯がありました。
詳細は下図参照。

▲香取海軍航空基地の防空砲台
<遺構について>
香取海軍航空基地 西砲台
十二糎高角砲4門、十三粍単装機銃2門が備砲されていました。
上記防空設備のうち明確な遺構が遺っているのは西砲台だけと思われます。
近隣の方数名に取材したところ八日市場自動車教習所の位置に高角砲、交差点手前の民家付近に機銃があり、以前は庭先に機銃座が遺っていたそうです。
▲遺構の配置
H 弾薬庫
空地に遺ります。
「掩体壕」や「弾薬庫」と言われていますが、取材したところ「高射砲の弾が入ってた」との事でした。
入口がやや破壊されている以外は状態は良好です。

▲入口

▲内部
立入禁止になっているので覗くだけにしておきます

▲壁面
前回紹介の航空機用掩体と同様に型枠はムシロを使用していますが、指揮官が几帳面な様できっちり並べられ美しい模様の様になっています
I 弾薬庫
同じく空地に遺り、Hと同規格です。
内部は物置に使われていた様で朽ちた苗床?が大量に放置されています。

▲入口
シュロが邪魔です

▲内部

▲奥は丸く加工された凝った造りです

▲奥から入口

▲側面
左側の木の辺りに入口があります
J 弾薬庫
民家の敷地内に遺ります。
入口は前所有者が広げてシャッターを付けたそうです。
屋内は見学不可ですが、聞く感じでは上記2個と同規格の様です。

▲入口

▲側面
※こちらの遺構はお世話になっているKanレポート様に御教示頂き、所有者の許可を得て見学させて頂きました。
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防空砲台群の西端に西砲台がありました。

▲空地に遺る高角砲の弾庫
【探索日時】
平成27(2015)年3月29日


<香取海軍航空基地について>
昭和13(1938)年5月、軍令部は米国が策定した大幅軍備拡張計画、「第二次ビンソン案」のうち、最も脅威になると予測される航空戦備の均衡を保つべく「第四次海軍軍備充實計畫」(マル四計画)の案画を開始するとともに、海軍航空本部は関東地方に外戦兵力基地の設営を計画します。
昭和14(1939)年3月7日、「マル四計画」の成立とともに横須賀海軍建築部は寛文年間に椿湖を干拓し「干潟八万石」と称され、平坦で広大な土地が確保可能な匝瑳(そうさ)郡共和村、椿海村、旭町一帯の農地を買収し航空基地設営を開始、昭和18(1943)年9月6日、香取海軍航空基地が竣工します。
当航空基地では、昭和18(1943)年7月1日、来寇する敵機動部隊殲滅を企図し内南洋の島嶼を不沈空母として配備を想定した第一航空艦隊司令部を始め、10月1日、麾下の第一二一海軍航空隊、11月5日、第五二三海軍航空隊、昭和19(1944)年1月1日、第一〇二一海軍航空隊、2月1日、第六十二航空戰隊司令部、3月15日、第三二二海軍航空隊、2月1日、また増大した豫科練習生に整備術を先行教育すべく、香取海軍航空隊などが編成されます。
昭和20(1945)年2月12日、松山から第六〇一海軍航空隊が移駐、20日、同隊から神風特別攻撃隊 第二御盾隊(21日、突入)が編成、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
※詳細は『香取海軍航空基地』を参照
<香取海軍航空基地 防空砲台>
同航空基地の防空砲台は竣工とともに、昭和17(1942)年11月1日、新編された第一航空基地隊、昭和19(1944)年2月1日から香取海軍航空隊、昭和20(1945)年6月30日から関東海軍航空隊 香取基地隊が運用にあたりました。
防空本部は対空電探を装備し干潟駅南東に開設され、高角砲を有する北砲台、東砲台(射撃用電探装備)、西砲台、機銃を主体とした機銃一群、機銃二群、機銃三群、機銃四群、探照灯を有する南東照空灯、南西照空灯がありました。
詳細は下図参照。

▲香取海軍航空基地の防空砲台
<遺構について>
香取海軍航空基地 西砲台
十二糎高角砲4門、十三粍単装機銃2門が備砲されていました。
上記防空設備のうち明確な遺構が遺っているのは西砲台だけと思われます。
近隣の方数名に取材したところ八日市場自動車教習所の位置に高角砲、交差点手前の民家付近に機銃があり、以前は庭先に機銃座が遺っていたそうです。
▲遺構の配置
H 弾薬庫
空地に遺ります。
「掩体壕」や「弾薬庫」と言われていますが、取材したところ「高射砲の弾が入ってた」との事でした。
入口がやや破壊されている以外は状態は良好です。

▲入口

▲内部
立入禁止になっているので覗くだけにしておきます

▲壁面
前回紹介の航空機用掩体と同様に型枠はムシロを使用していますが、指揮官が几帳面な様できっちり並べられ美しい模様の様になっています
I 弾薬庫
同じく空地に遺り、Hと同規格です。
内部は物置に使われていた様で朽ちた苗床?が大量に放置されています。

▲入口
シュロが邪魔です

▲内部

▲奥は丸く加工された凝った造りです

▲奥から入口

▲側面
左側の木の辺りに入口があります
J 弾薬庫
民家の敷地内に遺ります。
入口は前所有者が広げてシャッターを付けたそうです。
屋内は見学不可ですが、聞く感じでは上記2個と同規格の様です。

▲入口

▲側面
※こちらの遺構はお世話になっているKanレポート様に御教示頂き、所有者の許可を得て見学させて頂きました。
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