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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

舘山海軍砲術學校

館山市佐野に「鬼の舘砲」と称される厳しい訓練で知られた舘山海軍砲術學校がありました。
F 烹炊所罐場 北から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲跡地に遺る烹炊所罐場

【探索日時】
平成27(2015)年4月1日





舘山海軍砲術學校について
舘山海軍砲術學校は海軍砲術學校が管掌していた陸戦(基礎教育を除く)、防空教育のうち士官を対象とした海軍砲術學校學生の特修科、専攻科學生、及び予備士官候補者を対象とした兵科豫備學生、及び兵科豫備生徒教育の全部、下士官兵を対象とした普通科・高等科海軍砲術學校練習生、下士官候補練習生、海軍練習生(所謂“特年兵”)教育の全部を管掌、陸戰科において陸戰隊司令、大隊長、及び陸戰隊員に必要な、防空科において防空砲台長、及び防空砲台員に必要な素養をそれぞれ教授、のちに化学兵器科が新設され海軍唯一の化学兵器教育も教授しました。
※詳細は後述

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、停戦交渉中も支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事挑発行動は激化、8月13日、支那第二九軍が上海海軍特別陸戰隊に攻撃を開始、第二次上海事変が勃発します。
支那事変の勃発とともに軍令部、海軍省は商議を開催、事変の完遂、第三国の干渉を防ぐため第一次戦備促進を決定します(昭和14年9月16日、第四次戦備促進まで案画)。
昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は『第二次近衛声明』を発表し東亜新秩序を提唱しますが、大陸での権益拡張を目論む米国は反発、蒋介石への支援を公然と開始、昭和14(1939)年7月26日、日米通商航海条約廃棄を通告し対日強行政策を強めて行きます。

対米関係が悪化するなか、南洋の島々において陸軍に頼らない防衛及び防空兵力の育成が急務となった海軍は、海軍砲術學校が管掌していた陸上砲術、陸戦術教育の分離独立を計画します。

昭和15(1940)年10月19日、舘山砲術學校設立準備委員會(会長:阿部孝壮少将、副委員:安田義達中佐(11月15日、大佐)、委員:黛治夫中佐ほか横須賀海軍建築部所属の技士、技手、雇員21名)が設立され、昭和16(1941)年1月、海軍省建設局は三方が丘陵に囲まれ一方が太平洋に開けた田畑で演習場として広大な土地が確保でき、且つ湧水が豊富な安房郡神戸(かんべ)村(現、館山市神戸)の通称“佐野っ原”に学校用地を選定、横須賀鎭守府に送達されます。

舘山砲術學校設立準備委員會は佐野っ原を現地視察し用地を確定、木村屋旅館に事務所を開設、神戸村役場を訪問し出口常次村長、錦織寅吉助役の協力を得て役場に地権者を招集、安達中佐は時局の推移から学校の必要性を説明し所有地の売却を懇請、地権者も国のためと用地売却を承諾します。

4月、準備委員會の監督、指揮のもと、田中工務店(館山市北條)、神戸、相浜、布良、根本からの人夫、全国から募集に応じた労務者を主力として勤労奉仕隊の協力を得て用地造成を開始、5月、完了とともに営舎の建設、次いで東砲台、西砲台、射的場、演習場の順に設営は進み、6月1日、舘山海軍砲術學校(校長:阿部孝壮少将、教頭:安田義達中佐)が開校、従前の海軍砲術學校は横須賀海軍砲術學校に改称します。

昭和19年7月20日、急迫する戦局に舘砲は軍隊化し舘山警備隊(校長兼務)を編成、昭和20(1945)年4月15日、横須賀海軍砲術學校 舘山分校に改編、7月31日、舘山分校は復帰、獨立混成第九十六旅團工兵隊に貸与、決號作戰(本土決戦)の準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。

8月31日、米第4海兵連隊先遣隊(クロフォード少佐、1個中隊235人)が館山市館山港桟橋に上陸、9月3日、千葉県進駐の主力、第112騎兵連隊戦闘団(J・W・カニンガム准将)が舘山海軍航空基地の滑走台から上陸し同基地に司令部を開設、同聯隊10名程に舘砲は接収され軍需品を引き渡しが行われたのち大蔵省に返還、千葉県に管理委託され村民が顧雍され管理にあたります。

9月24日、農林省は各地方長官に「軍用地ノ農耕地転用ニ関スル件」を発令、10月12日、千葉県は同件を受け県帰農対策本部を開設、県内各地の旧軍用地を開拓農地として入植斡旋を開始、11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、建物は随時戦災復興資材、公共施設資材として解体搬出されます。
昭和22(1947)年4月、第一、第二學生舎が新制南房中学校に転用され館山市に、その他は農林省に移管ののち元地権者を中心に増反地として払い下げられ現在に至ります(米軍による接収・返還日時、処理状況、戦後の経緯は資料が無く詳細は不明)。


遺構について
舘山海軍砲術學校
最盛期は10,000名を超える学生、練習生が教育を受けた舘山海軍砲術學校ですが戦後は農地として開墾され、遺構は僅かしか遺されていません。
舘山海軍砲術学校 現在① 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲舘山海軍砲術學校配置図
① 舘山海軍砲術學校
②〃 平砂浦(へいさうら)演習場
③〃 東砲台・配水池
④〃 射的場
※緑文字が本記事で紹介の施設

A 校門
門柱は遺されていませんが、校門前に架かっていたコンクリート橋が遺ります。
A 橋 西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲校門跡

館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲海軍時代の校門

A 橋 北西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲コンクリート橋

A北側の説明 (2) 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲北側にある説明板

A南側の説明 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲南側にある第三期豫備學生の説明板

B 南門跡
南門は元から門柱は無くコンクリート橋のみが架かっていました。
B 橋 西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)

CDE 洋上降下訓練游泳池
巷間では「落下傘降下用のプール」と言われていますが、艦船から飛び込む訓練用のプールです。
Eが降下塔基礎でD部分が深くなっています。
CDE 洋上降下訓練游泳池 北西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲遊泳地全景

D 洋上降下訓練游泳池 Cから 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲D深くなっている部分

CDE 洋上降下訓練游泳池 南東から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲C浅くなっている部分

D 洋上降下訓練游泳池 梯子 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲降り口と縁の装飾

CDE 洋上降下訓練游泳池西側の沈殿槽? 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲E降下塔基礎の南側にある水槽(プールにあったアレ?)

E 洋上降下訓練游泳池 飛込台基礎 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲E降下塔基礎

F 烹炊所罐場
舘砲で唯一遺る建物遺構です。
巷間では「炊事場」と言われていますが、煉瓦造、壁の開口部、窓の付き方から考えて烹炊所の裏にあった罐場と思われます。
F 烹炊所罐場 西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲正面側
 出入口と言うより罐を出し入れする開口部かと思われます

F 烹炊所罐場 東から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲裏側
 煙突に繋がる煙導口があります

F 烹炊所罐場内部 東側の罐口 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲煙導口

F 烹炊所罐場 北西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲北側壁面
 燃料の搬入口と思われる開口部があります

F 烹炊所罐場内部 西から  館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲室内
 何も遺されていません

F 烹炊所罐場内部 北から  館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲南側の壁
出入口があります


G 各科倉庫
畑のあぜ道に束石、踏石と思われるコンクリート基礎が遺ります。
G 倉庫基礎 北西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲踏石(手前)と束石(奥)2個

G 倉庫基礎南西から 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲別の基礎


K 館山海軍砲術學校跡 碑
平成3(1991)年6月1日、設立50周年を記念し舘山海軍砲術學校跡に記念碑を建立する会により建立されます。
K 館山海軍砲術學校跡 碑 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲碑

K 館山海軍砲術學校跡 山砲 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲四一式山砲
 所謂「聯隊砲」で舘砲の陸戰科において操砲、運用を練習生に教授します
 せっかくの貴重な火砲も状態は最悪です・・・

K 館山海軍砲術學校跡 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲四式二十糎噴進砲

K 館山海軍砲術學校跡 錨 館山海軍砲術学校(千葉館山)
▲錨(詳細不明)

次回、地下施設を紹介します。


舘山海軍砲術學校 略歴
明治3(1870)年9月、兵部省は砲術講習のためイギリスよりホーズ海軍大尉を招聘し、横浜港内の龍驤艦において各艦の将校、下士卒に受講させ、明治4(1871)年9月、さらに同国よりフランク・ブリクリーを招聘し、前年の受講者を対象に受講させ、各艦に伝習させます。

明治5(1872)年1月17日、26名、20日、1名の海兵士官となるべき砲術修業者を砲術生徒として、2月27日、海軍兵學寮に付属、7月、水兵本部に移管し、10日、砲術生徒学舎を芝増上寺内の玄信寮に開設、明治8(1875)年9月23日、海兵士官學校に改称し、校舎を芝新銭座に新築移転します。
明治9(1876)年10月10日、兵學分校に改称、明治10(1877)年8月、分校生徒21名は海軍兵學校本科生徒に編入され、明治12(1879)年3月14日、兵學分校は閉鎖されます。

明治11(1878)年、ドイツよりエレルトを教官として招聘し扶桑艦比叡艦において砲術講習を行い、明治14(1881)年10月19日、淺間艦を東海鎭守府司令長官麾下に編入、横須賀港を碇泊場として士官、下士水兵に砲術を教授する事が定められ、明治17(1884)年6月、同艦は砲術練習艦に指定され、明治19(1886)年6月28日、『砲術練習艦條例』が定められ砲術練習艦は横須賀鎭守府に属し、尉官、少尉補(甲種長・短)、掌砲兵となる兵曹水兵(乙種長・短)に講習を実施します。

明治23(1890)年、淺間に代り龍驤が練習艦に指定されますが老朽化のため、明治26(1893)年12月1日、横須賀軍港内の土左衛門鼻に海軍砲術練習所(横鎭司令長官麾下)が開所(龍驤は付属練習艦に)、明治32(1899)年、小海、明治33(1900)年9月、田浦に移転、明治40(1907)年4月22日、海軍砲術學校に改称します。

海軍砲術練習所の受講者は士官は海軍大學校将校科卒業生、海軍大尉以上の志願者、海軍少尉、同所において砲術を修得した者、下士官、兵(三等兵曹以下三等水兵以上)は砲術練習生として掌砲兵を志願する者、砲術教員とする者、砲術復習を志願する者、また商船学校生徒に砲術を教授すると定められます(明治26年11月29日、『海軍砲術練習所條例』)。
明治36(1903)年12月7日、「同所は海軍佐尉官、造兵技士、兵曹長、上等兵曹、下士卒、商船学校学生に砲術を教授する所」と改定されます。

明治40(1907)年4月20日、『海軍砲術學校條例』が定められ、海軍砲術學校の受講者は以下の様に定められます。
海軍砲術學校學生(准士官以上)
・普通科學生(海軍中尉または実役停年1ヶ年以上を経た海軍少尉)
・高等科學生(海軍大學校乙種学生教程を卒業した海軍尉官)
・特修科學生(砲術を修習させる必要がある、または修習を志願する海軍佐尉官、兵曹長、上等兵曹)

海軍砲術學校練習生(下士卒)
・普通科練習生(海軍三等兵曹以下二等水兵以上、進級停年を超過した海軍三等水兵)
・高等科練習生(海軍兵曹、進級停年を超過した海軍一等水兵で普通科一等掌砲証状所有者から選抜)

臨時講習科(海軍佐尉官、機関佐尉官、造兵官、兵曹長、機関兵曹長、上等兵曹、上等機関兵曹、上等信号兵兵曹・下士卒)
逓信省所管の商船學校航海科學生、海軍豫備員・同志願者

大正7(1918)年8月14日、『海軍砲術學校令』が定められ、その後改定され以下に改められます。
海軍砲術學校學生(准士官以上)
・高等科學生(海軍大尉、中尉):砲術長として職務遂行に必要な素養の修習
・普通科學生(海軍中尉、少尉):初級兵科士官として一般的な砲術に関する堅確な識見の修習
・特修科學生(変更なし):素養経歴により応じ学校長が定める教程により修習
・専攻科學生(高等科學生教程終了者):砲術中、特に研究項目を指定し専攻(砲術のほか対空射撃、陸軍歩兵學校などで陸戦などの修習)

海軍砲術學校練習生(下士官・兵)
・普通科練習生(変更なし):砲術に関する基礎知識、技能の修習
・高等科練習生(変更なし):大口径砲の射手、重要砲手の素養修習
・特殊科砲術練習生:照準、発射に関する卓越の知識、技能の修習

臨時講習科(海軍士官、候補生、特務士官、准士官、下士官、兵)
砲術科講習員

兵科豫備學生(24歳未満の大学予科、高等学校高等科、専門学校卒業者、または同等以上の学校卒業者)
兵科豫備生徒(同上の在学者)
下士官候補練習生(短期現役兵制度による師範学校卒業者)
大正8(1919)年6月2日、大正9(1920)年7月7日、大正11(1922)年10月21日、大正14(1925)年4月1日、昭和9(1934)年6月29日、昭和12(1937)年3月31日、昭和14(1939)年6月13日、昭和16(1941)年6月1日、改定

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は『第二次近衛声明』を発表し東亜新秩序を提唱しますが、支那での権益拡張を目論む米国は反発、蒋介石への支援を公然と開始、昭和14(1939)年7月26日、日米通商航海条約廃棄を通告し対日強行政策を強めて行きます。

対米関係が悪化するなか、南洋の島々において陸軍に頼らない防衛及び防空兵力の育成が急務となった海軍は、海軍砲術學校が管掌していた陸上砲術、陸戦術教育の分離独立を計画、昭和16(1941)年6月1日、舘山海軍砲術學校(校長:阿部孝壮少将)が開校、従前の海軍砲術學校は横須賀海軍砲術學校に改称します。

舘山海軍砲術學校では主に兵科豫備學生兵科豫備生徒(ともに3~6ヶ月の修習後、少尉任官)、海軍砲術學校學生(特修科、専攻科のみ)に陸戰科において大隊長、陸戦隊司令として、防空科において防空砲台長として必要な素養を、普通科海軍砲術學校練習生(6乃至7ヶ月の修習)、下士官候補練習生陸戰科において陸戦術一般、陸戦兵器、戦車操縦法を、防空科において高角砲、機銃、陸戦術を、高等科海軍砲術學校練習生(9乃至10ヶ月、舘砲第二期から6ヶ月)に陸戰科において山砲、速射砲、榴弾砲、戦車操縦術を、防空科において高角砲、機銃、探照灯、測距儀、陸戦、及びこれらの教授法を教授します。

我が海軍の陸戦教育は兵科准士官以上に対する基礎教育に組み込まれ、海軍兵學校及び卒業後の海軍砲術學校における術科講習において中隊以下の運用を修習、砲術科専攻者は海軍砲術學校において高等科學生課程で砲術のほか陸戦術を修習、大隊程度の陸戦指揮術、及び陸戦隊司令に必要な素養を修習、さらに優秀者は特修科學生課程、または専攻科學生課程においてさらなる高等陸戦術を修習しました。

一方、下士官兵に対する陸戦教育も基礎教育に組み込まれてはいたものの内容は簡易で、新兵教育機関である海兵團練習部において執銃訓練、小銃射的、行軍演習、陸軍・海兵團演習場において短期間の陸戦演習を修習、本格的には海兵團卒業ののち、銓衡試験に合格した一等・二等水兵普通科練習生として全教程の1/3程度の陸戦術を、普通科修了ののち1年以上の海上勤務を経た二等・三等兵曹高等科練習生として小隊程度の陸戦指揮術を修習しました。

昭和18(1943)年10月1日、第三期海軍兵科豫備學生から新設された化学兵器科において第一期生、第二期生計150名を選抜し化学兵器に関する研究、知識、化兵戦術を修習します。

昭和19(1944)年2月25日、呉鎭守府第百一特別陸戰隊(山岡大二少佐)、佐世保鎭守府第百二特別陸戰隊(常磐峯雄少佐:8月20日、復帰し百一特別陸戰隊に統合)が編成(通称「S特攻部隊」)され舘砲において錬成を開始、6月24日、海軍總隊はS特攻部隊を第三航空艦隊司令長官(寺岡謹平中将、木更津)指揮下に編入、劔作戰部隊を編成、三澤に移動します。

「劔作戰」は「一式陸攻」60機にS特攻部隊、陸軍挺進隊を乗せサイパン、テニアン、大宮島の飛行場に強行着陸し駐機中のB29を撃破(劔部隊)、胴体下部に機銃を装備した改造「銀河」15機及び二一号爆弾搭載の「銀河」21機により地上攻撃(烈部隊)するもので、7月中旬を目処に進めますが、7月14日、三澤、8月9日、松島が敵艦上機の空襲を受け作戦用の一式陸攻25機、銀河30機が地上撃破され延期、8月22日に延期されるなか停戦により実現せず、同日、S特攻部隊は解散。

昭和19年7月20日、急迫する戦局に舘砲は軍隊化し學校職員、生徒、練習生を基幹として舘山警備隊(校長兼務)が編成されます。

昭和20(1945)年2月16日、敵は硫黄島上陸を直前に我が関東方面の航空戦力を減殺すべく、艦上機90~450機が7波に渡り各海軍航空基地、陸軍飛行場に来襲します。
以降、関東地区には度々敵艦上機が来襲、舘砲に直接来襲は無かったものの教育が困難になった事から、學生、練習生の日本海側への移転が検討されます。

4月15日、舘山海軍砲術學校は規模を縮小、横須賀海軍砲術學校 舘山分校に改編されます。

7月31日、舘山分校は復帰、學生、生徒、練習生は横砲に転属、学校施設は横須賀海軍施設部に移管され、獨立混成第九十六旅團工兵隊に貸与されます。

舘山海軍砲術學校閉校までの教育対象
海軍砲術學校學生(兵科)※特修科、専攻科のみ
術科講習員(海軍兵學校卒業生は海軍砲術學校、海軍水雷學校、霞空において術科講習を受講)
第一期海軍兵科豫備學生(昭和17年1月20日、入校、昭和18年1月20日、修了し予備少尉任官)
第二期〃(昭和18年4月1日、入校、8月30日、修了)
第三期〃(昭和18年10月1日、入校、昭和19年4月1日、修了)
特別第三期兵科豫備學生(昭和19年3月1日、初級兵科士官不足に対応すべく陸戦専修20名、防空専修110名を選抜、特分隊を編成し4月1日、修了)
第四期兵科豫備學生(出陣学徒:昭和19年2月1日、入校、12月25日、修了)
第一期兵科豫備生徒(出陣学徒:昭和19年2月1日、入校)
第五期兵科豫備學生(昭和19年10月1日、入校、昭和20年6月1日、修了)
第二期兵科豫備生徒(昭和19年10月1日、入校)
第一期下士官候補練習生(師範学校卒業者)
第二期〃
高等科練習生
普通科練習生
海軍練習生(所謂“特年兵”)


主要参考文献
『消えた砲台-少年と館山砲術学校』(平成3年10月 山口栄彦 東銀座出版社)

現地説明板

『松島・豊橋海軍航空隊慰霊記念誌 鎮魂と回想』(平成6年7月 松島空慰霊世話人会)

『世界の艦船 陸海軍学校と教育』(平成21年1月 海人社)

『日本史小百科 海軍』(平成3年3月 外山三郎 近藤出版社)
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Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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