海軍潜水學校 平生分校 営外宿舎
平生町に所在した海軍潜水學校 平生分校(のち柳井分校)の北側に教官以外の各部・各科、定員分隊の下士官用の営外宿舎がありました。

▲完存している営外宿舎の1棟
【探索日時】
令和4(2022)年4月1日

<海軍潜水學校 平生分校 営外宿舎について>
昭和17(1942)年12月、海軍省は潜水艦廠用地として選定していた阿多田半島に海軍潜水學校分校建設を決定、呉海軍建築部は佐賀村の50町歩を校地、曽根村の5町を営外宿舎、5反を配水池用地として各役場を訪問し村長に用地買収を告げるとともに協力を以来、各地権者を招集し時局の推移を説明したうえで用地を買収します。
昭和18(1943)年3月、佐賀村に呉海軍建築部田名工事事務所が開所、分校設備の設営を開始、戦局の進展に伴い潜水艦の建造計画も度々修正され、また海上護衛兵力充実に伴う特務艦の増勢、航空兵力優先により潜水艦の建造が低調になった事から乗員に若干の余裕が生じたため、潜水學校施設拡張計画は大幅に縮小(分校は13,000坪(4.3町)に)、営外宿舎も予定の約半数以下の建設に縮小されます。
昭和19(1944)年4月1日、海軍潜水學校 平生分校(長井武夫大佐)が開校(5月1日、教育開始)、営外宿舎の管理は呉海軍施設部平生出張所(昭和18年8月18日、呉海軍建築部田名工事事務所から改称)が行います。
昭和20(1945)年3月1日、海軍潜水學校 平生分校(8月10日、柳井分校に改称)の西隣に平生突撃隊が開隊します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発を受け、16日、大東亜戦争は停戦、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により営外宿舎は柳井分校、平生突撃隊とともに山口県を通じ大蔵省に移管が決定されます。
8月21日、海軍省は軍人の第一次解員(9月1日付)、9月9日、第二次、11月30日、第三次解員を実施、呉海軍施設部平生出張所の復帰、海軍省の廃止に伴い営外宿舎は大蔵省に移管されます。
10月7日、海外からの引揚が開始され、11月24日、地方引揚援護局が開設され引揚が本格化するなか営外宿舎は残留者、引揚者住宅に転用されます。
その後(時期不明)、各住宅は入居者に払い下げられ、失火による焼失、建て替えなどで減少しつつ現在に至ります。
<遺構について>
教育上の観点から分校長及び士官、准士官、文官からなる教官は校内の士官宿舎(本部庁舎)で起居しましたが、教官以外の各部・各科、定員分隊の下士官は営外宿舎で起居しました。
営外宿舎は資料が無かったため、空撮で見付けた同一規格の住宅群を直接訪ね住民に取材し宿舎と特定しました。
住民によると宿舎は全て2階建の2戸連棟で内階段のある左右2世帯居住型(1階が大きい)、外階段のある上下左右4世帯居住型(1階が狭い)があり、戦後の残留者、引揚者入居時に全て2戸連棟2階建の2世帯用に改修された様です。
現存の宿舎は1階部分に若干の増築は見られるものの全体的に状態が良く、半数は物置に転用されています。

▲部隊、建物配置
ア 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。

▲正面側

▲側面
左側に見えるのが下記イ
イ 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。

▲正面側

▲裏側
ウ 宿舎
元々2戸連棟(2世帯型)でしたが右側は建て替えられています。
現在は物置になっています。

▲正面側

▲裏側
エ 宿舎
2戸連棟(2世帯型)が完存しています。
非常に保存状態が良く、現在は物置に転用されており、所有者によるとほとんど増築も無いそうです。

▲正面側(右側から)

▲正面側(左側から)
最も状態の良い角度

▲裏側
オ 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。
現在は物置に転用されています。

▲正面側

▲正面側近影

▲裏側
カ 防火水槽
営外宿舎内に防火水槽は2基あり、両方が遺ります。
カの内部は埋まっています。

キ 防火水槽
こちらは水が溜まっています。

エとオの間にもう1棟、宿舎らしい建物があるのですが、取材した方によると「これは違う」との事です。
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▲完存している営外宿舎の1棟
【探索日時】
令和4(2022)年4月1日


<海軍潜水學校 平生分校 営外宿舎について>
昭和17(1942)年12月、海軍省は潜水艦廠用地として選定していた阿多田半島に海軍潜水學校分校建設を決定、呉海軍建築部は佐賀村の50町歩を校地、曽根村の5町を営外宿舎、5反を配水池用地として各役場を訪問し村長に用地買収を告げるとともに協力を以来、各地権者を招集し時局の推移を説明したうえで用地を買収します。
昭和18(1943)年3月、佐賀村に呉海軍建築部田名工事事務所が開所、分校設備の設営を開始、戦局の進展に伴い潜水艦の建造計画も度々修正され、また海上護衛兵力充実に伴う特務艦の増勢、航空兵力優先により潜水艦の建造が低調になった事から乗員に若干の余裕が生じたため、潜水學校施設拡張計画は大幅に縮小(分校は13,000坪(4.3町)に)、営外宿舎も予定の約半数以下の建設に縮小されます。
昭和19(1944)年4月1日、海軍潜水學校 平生分校(長井武夫大佐)が開校(5月1日、教育開始)、営外宿舎の管理は呉海軍施設部平生出張所(昭和18年8月18日、呉海軍建築部田名工事事務所から改称)が行います。
昭和20(1945)年3月1日、海軍潜水學校 平生分校(8月10日、柳井分校に改称)の西隣に平生突撃隊が開隊します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発を受け、16日、大東亜戦争は停戦、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により営外宿舎は柳井分校、平生突撃隊とともに山口県を通じ大蔵省に移管が決定されます。
8月21日、海軍省は軍人の第一次解員(9月1日付)、9月9日、第二次、11月30日、第三次解員を実施、呉海軍施設部平生出張所の復帰、海軍省の廃止に伴い営外宿舎は大蔵省に移管されます。
10月7日、海外からの引揚が開始され、11月24日、地方引揚援護局が開設され引揚が本格化するなか営外宿舎は残留者、引揚者住宅に転用されます。
その後(時期不明)、各住宅は入居者に払い下げられ、失火による焼失、建て替えなどで減少しつつ現在に至ります。
<遺構について>
教育上の観点から分校長及び士官、准士官、文官からなる教官は校内の士官宿舎(本部庁舎)で起居しましたが、教官以外の各部・各科、定員分隊の下士官は営外宿舎で起居しました。
営外宿舎は資料が無かったため、空撮で見付けた同一規格の住宅群を直接訪ね住民に取材し宿舎と特定しました。
住民によると宿舎は全て2階建の2戸連棟で内階段のある左右2世帯居住型(1階が大きい)、外階段のある上下左右4世帯居住型(1階が狭い)があり、戦後の残留者、引揚者入居時に全て2戸連棟2階建の2世帯用に改修された様です。
現存の宿舎は1階部分に若干の増築は見られるものの全体的に状態が良く、半数は物置に転用されています。

▲部隊、建物配置
ア 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。

▲正面側

▲側面
左側に見えるのが下記イ
イ 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。

▲正面側

▲裏側
ウ 宿舎
元々2戸連棟(2世帯型)でしたが右側は建て替えられています。
現在は物置になっています。

▲正面側

▲裏側
エ 宿舎
2戸連棟(2世帯型)が完存しています。
非常に保存状態が良く、現在は物置に転用されており、所有者によるとほとんど増築も無いそうです。

▲正面側(右側から)

▲正面側(左側から)
最も状態の良い角度

▲裏側
オ 宿舎
元々2戸連棟(4世帯型)でしたが右側は建て替えられています。
現在は物置に転用されています。

▲正面側

▲正面側近影

▲裏側
カ 防火水槽
営外宿舎内に防火水槽は2基あり、両方が遺ります。
カの内部は埋まっています。

キ 防火水槽
こちらは水が溜まっています。

エとオの間にもう1棟、宿舎らしい建物があるのですが、取材した方によると「これは違う」との事です。

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