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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大本營(旧第五師團司令部)

名城・広島城の本丸に第五師團司令部がありました。
司令部は明治二十七八年戰役(日清戦役)時に大本營に転用されます。
ア 大本營基礎 南から 第五師団・大本営 (広島)
▲天皇御座所兼御寝所(旧第五師團司令部庁舎) 基礎 全景

【探索日時】
平成17(2005)年10月25日、平成27(2015)年2月22日、
令和3(2021)年7月25日





遺構について
大本營(旧第五師團司令部)
明治6(1873)年1月9日、廣島鎭臺が新設され、表御門楼上に本営を置きます。
大手門 第五師団・大本営 (広島)
▲復元された表御門

明治10(1877)年10月6日、本丸上段に竣工した新庁舎に移転します。

明治19(1886)年3月11日、鎭臺監督部が新設され、師團司令部西側の庁舎に入ります。
第五師團司令部・監督部 第五師団・大本営 (広島)
▲第五師團司令部(右)と師團監督部(左)
 大本営転用後の写真

明治21(1888)年5月14日、廣島鎭臺は第五師團に改編されます。

明治27(1894)年6月12日、第五師團に動員下令(日清戦役)、留守第五師團司令部は留守第九旅團司令部が兼務、9月15日、大本営(6月5日、設置)は第五師團司令部に推進、師團司令部庁舎は 天皇御座所兼御寝所、侍従詰所に、同監督部庁舎は同事務所( 皇后陛下御台臨時は御座所)に転用、天皇御座所に隣接して侍医局、天機奉伺人控所等が入る付属屋が新築されます。
大本営 第五師団・大本営 (広島)
▲大本営全景

明治28(1895)年4月27日、講和条約批准に伴い大本営は京都に遷移、旧大本営(第五師團師團司令部一帯)は永久保存のため、7月10日、凱旋した第五師團司令部は明治27年10月14日に西練兵場東端に建設された臨時帝國議会仮議事堂に入り、明治29(1896)年10月2日、本丸下段に新築された庁舎に移転します。
事後、旧大本営は第五師團経理部が管理します。

大正15(1926)年10月20日、旧大本営は内務省により史跡に指定され、昭和3(1928)年1月、広島城天守とともに内務省に移管(管理は広島県)されます。

昭和20(1945)年8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、爆心地付近の旧大本営は廣島城天守とともに全壊、石製の基礎のみが遺されます。
崩壊した天皇御座所 第五師団・大本営 (広島)
▲倒壊した天皇御座所兼御寝所の玄関

ア 基礎 玄関 南から 第五師団・大本営 (広島)
▲現在の同じ位置

昭和22(1947)年12月31日、内務省の廃止に伴い敷地は文部省(現、文部科学省)に移管され現在に至ります。

正式名称は単に「大本營」または「旧大本營」、史蹟名称は「明治二十七八年戰役廣島大本營」、巷間では「広島大本営」として知られています。

なお“大本営”は機関名であり建物を指して大本営というのは誤りです。
広島 遺構 大本営 第五師団・大本営 (広島)
▲遺構の配置

大本営図面 第五師団・大本営 (広島)
▲ア・イの平面図

ア 天皇御座所兼御寝所(旧第五師團司令部庁舎) 基礎
明治10(1877)年10月6日、竣工。
明治初期の建築物に良く見られる切石の基礎が遺ります。
第五師團司令部庁舎 第五師団・大本営 (広島)
▲往時の着色写真

ア 大本營基礎  南西から 第五師団・大本営 (広島)
▲正面左側からの全景

ア 大本營基礎 南東から 第五師団・大本営 (広島)
▲正面右側からの全景

ア 大本營基礎 玄関 南東から 第五師団・大本営 (広島)
▲玄関部分

ア 大本營基礎 北東から 第五師団・大本営 (広島)
▲裏側からの全景

ア 大本營基礎 北側の換気口 第五師団・大本営 (広島)
▲床下換気孔と雨樋受

ア 大本營 石碑 第五師団・大本営 (広島)
▲文部省建設の史蹟標
 「史蹟」と「文部省」が塗りつぶされています

ア 大本營 石碑 (2) 第五師団・大本営 (広島)
▲同上の裏面
 「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ 大正十五年十月内務大臣指定」が塗りつぶされています

ア 南側の車回し 第五師団・大本営 (広島)
▲建物正面の車回し


イ 付属屋 基礎
明治27(1894)年、竣工。
日清戦役に際し広島に大本営が推進された際に建設されます。
イ 基礎 南東から 第五師団・大本営 (広島)
▲正面右側から

イ 基礎 南西から 第五師団・大本営 (広島)
▲正面左側から

イ 基礎と渡り廊下 西から 第五師団・大本営 (広島)
▲天皇御座所兼御寝所からの渡り廊下基礎

イ 基礎と渡り廊下 西から (2) 第五師団・大本営 (広島)
▲渡り廊下


ウ 事務所(旧第五師團監督部庁舎) 基礎
明治23(1890)年、竣工。
ウ 基礎 南西から パノラマ写真 第五師団・大本営 (広島)
▲正面左側から

ウ 基礎 玄関 南から 第五師団・大本営 (広島)
▲玄関部分

ウ 基礎 北東から 第五師団・大本営 (広島)
▲裏側から

ウ 基礎 ガラリ 第五師団・大本営 (広島)
▲基礎近影


2 境界石標 二
頂部に陸軍を示すMの記号、正面に漢数字で通し番号が刻字されています。
師團司令部の境界石標と思われますが現存石標の番号を見るに、どの様に並んでいたのか、滅失している一と四がどこにあったのか想像できない謎の石標です。
2 ∧∧二 第五師団・大本営 (広島)

3 境界石標 三
本丸上段の隅、樹木に覆われています。
3 ∧∧三 第五師団・大本営 (広島)

5 境界石標 五
5 ∧∧五 第五師団・大本営 (広島)


第五師團関係諸隊の敷地変遷
明治4(1871)年7月14日、『廢藩置縣ノ詔書』の公布により、24日、廣島城本丸に広島県庁が設置されます。
8月20日、兵部省第七十三號により廣島城を含む全地方城郭は兵部省に移管され、同日、「鎭臺」の設置が告示されたため、10月12日、広島県庁は三之丸(位置不明)に移転(さらに明治6年3月20日、国泰寺に移転)、12月、広島城本丸御殿に鎭西鎭臺第一分営(常備兵一大隊、明治5年3月6日、第十五番大隊、明治6年2月19日、第十五大隊、明治6年8月3日、歩兵第十五大隊、明治7年10月15日、歩兵第二十三大隊、明治8年5月20日、歩兵第十一聯隊に改称)、内大手曲輪(竹之丸)藩主別邸に鎭臺病院(明治6年、廣島鎭臺病院に改称)が開設されます。

明治5(1872)年11月28日、政府は全国の徴兵区域を定め、東京、大阪、鎭西、東北の4個鎭臺を東京、仙臺、名古屋、大阪、廣島、熊本の6個鎭臺に改め、明治6(1873)年1月9日、表御門楼上に廣島鎭臺本営が開設されます。

14日、太政官達書『全國城郭存廃ノ処分並兵營地等撰定方』が公布、廣島城全域が軍用地に指定され兵部省(支払いは大蔵省より)は曲輪(北、西之丸、内大手(三之丸)、大手曲輪)内の旧藩士所有地のうち必要箇所より順次買収(移転費用、耕作手当含)を開始しますが、用地明渡し交渉は難航、4年の猶予期間を設け、明治20(1887)年、漸く全域を買収します。

明治6年4月、廣島鎭臺病院は内大手曲輪西側(後の砲兵営)に移転、8月3日、第十五大隊が本丸から三之丸西側の仮兵舎に転営します。

明治7(1874)年2月、廣島鎭臺病院は大手曲輪・霞邸(筆頭家老・浅野邸:後の廣島地方幼年學校)に移転します。
2月5日、本丸御殿が失火により焼失してしまいます。

26日から3月8日、廣島鎭臺は佐賀の乱に出征、16日、大隊仮兵舎が失火により焼失したため仏護寺を仮兵舎とし、4月、霞邸に転営しますが、8月、台風により損傷したため、三之丸東側の新兵営に転営します。

明治9(1876)年5月23日、城内練兵場(7,490坪、のち90,000余坪)が竣工します。
10月29日から11月18日、廣島鎭臺は萩の乱、明治10(1877)年2月14日から10月6日、西南の役に出征、凱旋後、鎭臺本営は本丸上段に竣工した新庁舎(9月、竣工)に入ります。

明治11(1878)年4月20日、砲兵第五大隊第一中隊(明治12年10月、山砲兵第五大隊、明治20年5月、野戰砲兵第五聯隊、明治40年10月9日、野砲兵第五聯隊に改編)が新編され三之丸西側の兵営に入ります。

明治12(1879)年2月18日、練兵場西端に馬場が開設されます(10月27日、廣島鎭臺調馬掛が新設、明治17年1月15日、調馬掛は廃止、調馬主管が設置、明治21年、廃止)。

10月10日、砲兵第二方面 廣島衛戍武庫(明治23年8月14日、同廣島支署、明治30年4月1日、砲兵第三方面 廣島支署に改称)が本丸に開設されます。

明治13(1880)年、大手曲輪南東端を脩交社(明治15年1月、廣島偕行社に改称)に無償貸与します。

4月6日、輜重兵第五小隊(明治19年4月14日、輜重兵第五大隊第一中隊、昭和11年6月1日、聯隊に改編)が新編され本丸の仮兵営に入ります。

明治16(1883)年1月26日、工兵第三中隊(明治20年2月、工兵第五大隊、昭和11年6月1日、聯隊に改編)が新編され本丸の輜重隊の仮兵営に入ります。

明治17(1884)年5月1日、歩兵第十一聯隊将兵により城北射的場が竣工、6月25日、歩兵第十一聯隊において歩兵第二十一聯隊第一大隊が編成され、9月、北之丸の新兵営に移転します。

明治18(1885)年4月、工兵第三中隊が西之丸(基町)の新兵営(後の廣島衛戍病院南半分)に転営、6月、廣島鎭臺病院(明治21年11月29日、廣島衛戍病院、昭和11年11月10日、廣島陸軍病院に改称)は西之丸(小姓町)に移転、5月18日、歩兵第九旅團司令部が新編され大手曲輪京口門付近の新庁舎に入ります。

明治19(1886)年3月11日、鎭臺監督部(明治35年1月30日、監督部から師團経理部に改編)が本丸に開設されます。

明治20(1887)年3月、廣島陸軍監獄署(明治27年1月15日、廣島衛戍監獄、大正12年4月1日、廣島衛戍刑務所に改称)が本丸から北曲輪に移転します。

明治21(1888)年2月、騎兵第五大隊第一中隊(明治29年5月9日、聯隊に改編)が新編され西之丸の新兵営(後の輜重兵営北半分)に入り、5月14日、廣島鎭臺は第五師團に改編、6月2日、廣島大隊區司令部(明治29年4月1日、聯隊區司令部に改称)が新編され旅團司令部西側の新築庁舎に入り、11月1日、輜重兵第五大隊が西之丸(基町)の新兵営に転営します。
広島 明治21 第五師団・大本営 (広島)
▲明治21(1888)年頃の諸隊配置

①第五師團司令部・同監督部・衛戍武庫廣島支署 ②歩兵第十一聯隊 ③山砲兵第五大隊 ④輜重兵第五大隊 ⑤工兵第五大隊 ⑥騎兵第五大隊 ⑦廣島鎭臺病院 ⑧城内練兵場 ⑨調馬主管 ⑩火薬庫 ⑪歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎 ⑫廣島大隊區司令部 ⑬廣島偕行社 ⑭城北射的場 ⑮歩兵第二十一聯隊 ⑯廣島陸軍監獄署 ⑰江波射的場 ⑱廣島陸軍埋葬地



明治22(1889)年3月、工兵第五大隊が白島北町の新兵営に転営します。

明治23(1890)年5月、監督部は司令部西側の新庁舎に移転、6月29日、廣島憲兵隊が新編され本丸内の仮庁舎に入ります。
7月14日、尾長村、大須賀村の官有地を移管、民有地を買収し廣島東陸軍練兵場(216,630坪、のち南西の11,400坪を山陽鐵道㈱に払下げ)が竣工、城内の練兵場を廣島西陸軍練兵場に改称、12月、騎兵第五大隊が大須賀村(東練兵場西側)の新兵営に転営します。

明治24(1891)年9月、廣島憲兵隊は基町の新築庁舎に移転します。

明治26(1893)年4月22日、砲兵第二方面 廣島支署(明治30年9月15日、廣島陸軍兵器支廠に改称)は基町(位置不明)の新築庁舎に移転します。
※明治30(1897)年頃、西練兵場北西側、明治38(1905)年頃、北之曲輪に移転します。

明治27(1894)年6月5日、我が国は大本營を設置、12日、第五師團に動員下令、留守第五師團司令部は留守歩兵第九旅團司令部が兼務します(明治28年7月7日、留守師團司令部は仮議事堂に移転)。
7月8日、廣島衛戍病院は一時閉鎖、廣島陸軍豫備病院(第一~第四分院、開設)に改編されます。

8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が開戦、9月15日、は第五師團司令部に推進、司令部庁舎は天皇御座所兼御寝所、侍従詰所に、同監督部庁舎は同事務所(皇后御座所)に転用、天皇御座所に隣接し侍医局、天機奉伺人控所が新築、10月14日、西練兵場東端に臨時帝國議会仮議事堂が竣工(9月28日、着工)します。
広島 明治27 第五師団・大本営 (広島)
▲明治27(1894)年、日清戦役時の諸隊配置

①大本営 ②歩兵第十一聯隊 ③野戰砲兵第五聯隊 ④臨時帝國議会仮議事堂 ⑤輜重兵第五大隊 ⑥機具材料倉庫 ⑦廣島陸軍豫備病院 ⑧廣島西陸軍練兵場 ⑨馬場 ⑩火薬庫 ⑪留守第五師團・留守歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎 ⑫廣島大隊區司令部 ⑬廣島偕行社 ⑭廣島憲兵隊・同分隊 ⑮廣島衛戍監獄 ⑯城北陸軍射撃場  ⑰歩兵第二十一聯隊 ⑱工兵第五大隊 ⑲騎兵第五大隊 ⑳廣島東陸軍練兵場 ㉑江波陸軍射撃場 ㉒廣島陸軍埋葬地



仮議事堂 第五師団・大本営 (広島)
▲臨時帝國議会仮議事堂

明治28(1895)年4月17日、講和条約が調印(5月8日、批准交換)され、27日、大本営は京都に遷移、7月10日、第五師團は凱旋、大本営は永久保存のため司令部は仮議事堂に入ります。
※大正15(1926)年10月20日、大本営は内務省により史跡に指定され、昭和3(1928)年1月、広島城天守とともに内務省に移管(管理は広島県)されます。

6月26日、廣島偕行社北隣1町4反を同附属済美學校(昭和16年4月1日、済美國民學校に改称)用地として無償提供します。

明治29(1896)年10月2日、師團司令部は本丸下段の新庁舎に移転、11月11日、歩兵第十一聯隊内において歩兵第四十一聯隊本部、12月1日、仮議事堂において歩兵第四十二聯隊第一大隊が編成され、明治30(1897)年6月18日、歩四十一は歩二十一兵営、8月3日、歩四十二は山口に転営します。

明治30年5月30日、廣島陸軍地方幼年學校(大正9年8月10日、廣島陸軍幼年學校に改称、大正12年3月31日、閉校)が師團司令部内で事務を開始、9月1日、仮議事堂を仮校舎として開校、明治31(1898)年4月24日、大手曲輪北西端の新築校舎に移転します。
12月2日、仮議事堂の解体が開始されます。

明治31年11月1日、歩兵第二十一聯隊は新編された歩兵第二十一旅團司令部(山口)に配属され広島を出発、24日、島根県那賀郡石見村黒川(現、浜田市)に転営します。

明治33(1900)年7月5日から明治34(1901)年7月12日、第五師團は北清事変、明治37(1904)年5月10日から明治38(1905)年12月27日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に出征します。

明治34(1901)年10月10日、廣島陸軍豫備病院は復員完結、廣島衛戍病院に復します。

明治37(1904)年3月6日、廣島衛戍病院は一時閉鎖、廣島豫備病院(市内7ヶ所に分院、開設)に改編され、明治39(1906)年1月15日、基町分院が廣島豫備病院に、旧本院は基町分院に改編、10月4日、廣島豫備病院は復員完結、廣島衛戍病院に復し、基町分院は基町分病室に改称します。

明治39(1906)年、京口門付近に北清事變戰歿者記念碑、明治43(1910)年5月1日、西練兵場南西端に第一軍戰死者記念碑が建立されます。

明治40(1907)年10月9日、歩兵第四十一聯隊は新設の第十七師團に隷属転移、明治41(1908)年7月20日、福山町(現、福山市)に転営します。

明治40年、元廣島豫備病院第二分院跡地(小姓町)に師團被服庫が開設されます。
11月22日、歩兵第四十一聯隊兵営において歩兵第七十一聯隊(大正14年5月1日、復帰)が編成されます。

明治43(1910)年5月1日、中堀の東側(歩兵第十一聯隊内)、明治44(1911)年11月、外堀の埋め立てが完了します。
広島 明治44 第五師団・大本営 (広島)
▲明治44(1911)年頃の諸隊配置

①第五師團司令部 ②廣島陸軍兵器支廠 ③火薬庫 ④第五師團経理部需品倉庫 ⑤〃被服庫 ⑥〃隔離厩 ⑦〃資材倉庫 ⑧廣島衛戍監獄 ⑨歩兵第十一聯隊 ⑩野砲兵第五聯隊 ⑪〃馬場 ⑫輜重兵第五大隊 ⑬廣島西陸軍練兵場 ⑭廣島陸軍地方幼年學校 ⑮廣島衛戍病院 ⑯〃基町分病室 ⑰歩兵第七十一聯隊 ⑱歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎 ⑲廣島聯隊區司令部 ⑳廣島偕行社 ㉑〃附属済美學校 ㉒廣島憲兵隊・同分隊 ㉓倉庫 ㉔工兵第五大隊 ㉕騎兵第五聯隊 ㉖廣島東陸軍練兵場 ㉗江波陸軍射撃場 ㉘廣島湾要塞司令部 ㉙重砲兵第四聯隊 ㉚演習砲台 ㉛廣島陸軍被服支廠 ㉜廣島陸軍埋葬地 A第一軍戰死者記念碑 B北清事變戰歿者記念碑



明治44(1911)年4月10日から大正2(1913)年4月22日、第五師團は満洲駐箚、大正8(1919)年7月3日から大正9(1920)年9月1日、シベリア出兵に出征します。

大正8(1919)年3月25日、廣島陸軍兵器支廠は東新開町に移転します。

大正12(1923)年3月31日、廣島衛戍監獄は廃止、4月1日、廣島衛戍拘禁所が二之丸内に新編されます。
衛戍監獄跡地は逓信省に移管され、昭和8(1933)年3月21日、廣島逓信局庁舎が新築されます。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により、5月1日、歩兵第七十一聯隊は復帰、兵営は第五師團下士養成所が開設されますが、昭和2(1927)年、廃止されます。
空撮 昭和2(1927)年の空撮 第五師団・大本営 (広島)
▲昭和2(1927)年の空撮(西から)
 手前が野砲兵第五聯隊、左側が旧歩兵第七十一聯隊、中央が第五師團司令部と旧大本営、奥が歩兵第十一聯隊

昭和6(1931)年12月21日から昭和7(1932)年7月2日、第五師團臨時天津派遣隊が満洲事変に出征します。

昭和7(1932)年3月1日、旧廣島陸軍幼年學校を分病室に転用し第二分病室に、旧基町分病室を第一分病室とします。

昭和8(1933)年11月21日、西練兵場の西端1,500坪を招魂社社地として内務省に移管、昭和9(1934)年11月7日、官祭廣島招魂社が竣工します。
空撮 昭和10(1935)年 第五師団・大本営 (広島)
▲昭和10(1935)年の空撮(南から)

昭和11(1936)年4月1日、廣島陸軍幼年學校が第二分病室(旧校を転用)において開校、昭和12(1937)年3月13日、旧歩兵第七十一聯隊兵営に移転します。
広島 昭和12 第五師団・大本営 (広島)
▲昭和12(1937)年頃の諸隊配置

①第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部) ②〃兵器部 ③〃弾薬庫 ④〃経理部 需品倉庫 ⑤〃被服庫 ⑥〃隔離厩 ⑦〃資材倉庫 ⑧〃法務部、廣島衛戍拘禁所 ⑨歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊 ⑩野砲兵第五聯隊 ⑪〃馬場 ⑫輜重兵第五聯隊 ⑬廣島西陸軍練兵場 ⑭廣島陸軍病院第一分病室 ⑮廣島陸軍病院第二分病室 ⑯廣島陸軍病院 ⑰廣島陸軍幼年學校 ⑱歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎 ⑲廣島聯隊區司令部 ⑳廣島偕行社 ㉑〃附属済美學校 ㉒廣島憲兵隊・同分隊 ㉓第五師團長官舎 ㉔廣島護國神社 A第一軍戰死者記念碑 B北清事變戰歿者記念碑 ㉕工兵第五聯隊 ㉖騎兵第五聯隊 ㉗廣島東陸軍練兵場 ㉚江波陸軍射撃場 ㉛廣島陸軍墓地 ㊵廣島陸軍被服支廠 ㊶廣島陸軍兵器支廠 ㊷電信第二聯隊 ㊹〃 作業場 ㊷〃 作業場



昭和12(1937)年7月27日、第五師團は支那事変に出征、留守第五師團司令部、歩兵第十一聯隊、野砲兵第五聯隊、輜重兵第五聯隊、騎兵第五聯隊、工兵第五聯隊各留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成されます。

昭和15(1940)年2月3日、廣島陸軍病院第一臨時(旧第一分病室)、第二臨時(旧第二分病室)、三瀧、江波、大野分院を開設します。
11月30日、騎兵第五聯隊補充隊は捜索第五聯隊補充隊に改編されます。

昭和20(1945)年3月24日、廣島聯隊區司令部は復帰、同日、廣島聯隊區司令部及び廣島地區司令部(聯隊區司令官兼務)が臨時編成されます。
3月30日、廣島憲兵隊庁舎において中國憲兵隊司令部が新編、廣島憲兵隊は光道国民学校(猫屋町)に移転します。)
4月1日、留守第五師團司令部は廣島師管區司令部、歩兵第十一聯隊は同師管區歩兵第一補充隊、野砲兵第五聯隊は同師管區砲兵補充隊、輜重兵第五聯隊は同師管區輜重兵補充隊、工兵第五聯隊補充隊に改編、捜索第五聯隊補充隊は復帰します。

4月18日、第二總軍司令部が旧捜索聯隊兵営に開設されます。
5月10日、廣島陸軍病院は廣島第一陸軍病院に改編され第二臨時分院を本院、第一分院を同病院第一分院に改編(ほか管下に江波分院)、同病院看護婦生徒教育隊が新編され基町北西に、また廣島第二陸軍病院(管下に三瀧分院)が旧廣島陸軍病院で開院します。
6月、廣島第一陸軍病院は戸坂国民学校に戸坂臨時分院、7月30日、可部地区分院群(亀山、可部北、三入、大林各国民学校)を開設、第一分院は可部地区に移転します。
6月、廣島聯隊區司令部及び廣島地區司令部は可部町(現、安佐北区)の県立可部高等女学(現、可部高等学校)校、願船坊に疎開、可部分室とします。
6月4日、廣島陸軍幼年學校は吉田町、上下町、庄原町に疎開、空いた校舎に編成中の第二百二十四師團司令部が入ります。
20日、廣島師管區司令部は第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部に改編されます。

8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、爆心地付近の廣島城周辺にあった第五十九軍司令部、中國軍管區司令部及び隷下補充隊、廣島陸軍幼年學校、中國憲兵隊司令部、廣島第一陸軍病院、廣島第二陸軍病院、第二總軍司令部庁舎は全壊炎上してしまいます。
第二總軍司令部(二葉山山中の地下壕)は陸軍船舶司令部に市内の復興作業を下令、第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部、及び隷下部隊は廣島城周辺で野営、歩兵第一補充隊は安村(現、安佐南区)、廣島第一陸軍病院は戸坂分院、第二廣島陸軍病院は陸軍船舶練習部(10月、大和工業㈱に返還され廣島工場に)に移転、市内の消火、救援にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
広島 昭和20 第五師団・大本営 (広島)
▲昭和20(1945)年8月頃の諸隊配置

①第五十九軍司令部、中國軍管區司令部(旧廣島師管區司令部) ②中國軍管區司令部兵器部 ③〃兵器部 弾薬庫 ④〃経理部 需品倉庫 ⑤〃被服庫 ⑥〃隔離厩 ⑦〃資材倉庫 ⑧〃法務部、廣島陸軍拘禁所 ⑨中國軍管區歩兵第一補充隊・同通信補充隊 ⑩〃砲兵補充隊 ⑪〃馬場 ⑫〃輜重兵補充隊 ⑬廣島西陸軍練兵場 ⑭廣島第一陸軍病院 ⑮〃第一分院 ⑯廣島第二陸軍病院 ⑰廣島第一陸軍病院看護婦生徒教育隊 ⑱廣島陸軍幼年學校 ⑲旧歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎 ⑳廣島聯隊區司令部・廣島地區司令部 ㉑廣島偕行社 ㉒済美國民學校 ㉓中國憲兵隊司令部 ㉔第五十九軍、中國軍管區司令官官舎(旧師管區司令官官舎) ㉕廣島護國神社 A第一軍戰死者記念碑 B北清事變戰歿者記念碑 ㉖中國軍管區工兵補充隊 ㉗第二總軍司令部 ㉘廣島東陸軍練兵場 ㉚江波陸軍射撃場 ㉛廣島陸軍墓地 ㊵廣島陸軍被服支廠 ㊶廣島陸軍兵器補給廠 ㊷大本営陸軍部第二通信隊 ㊸大本営陸軍部第二通信隊 ㊹大本営陸軍部第二通信隊作業場 ㊷〃



28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始します。

10月7日、陸軍施設の接収が、14日、兵器弾薬の処分が開始、11月下旬、処理が終了し大蔵省に返還されます。

昭和20年9月1日、第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部は広島製薬㈱(五日市、廣島陸軍燃料廠総務部、会計部の疎開先)、17日、第二總軍司令部は㈱日本製鋼所廣島製作所に移転、26日、砲兵、輜重兵、10月4日、工兵、11月1日、歩兵第一、通信各補充隊が復員完結します。
30日、第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部は第一復員省中國復員監部に改編、復員業務にあたります。

昭和21(1946)年1月、広島市は広島市復興局、2月、広島市復興審議会を結成、政府の『戦災地復興計画基本方針』(昭和20年12月30日、閣議決定)に則り、広島市復興事業として、昭和21(1946)年10月4日、幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、師團司令部、砲兵営、輜重兵営、護國神社、廣島第一陸軍病院、同第一分院、廣島第二陸軍病院、師團弾薬庫、廣島第一陸軍病院看護婦生徒教育隊、西練兵場の一部、歩兵営の一部(廣島城内堀内、及び本川までの西側全域)は廣島城とともに公園(のち廣島第二陸軍病院、輜重兵営北側、師團兵器部弾薬庫、幼年學校西側は住宅地に)、幼年學校東側、師團兵器部、歩兵営、聯隊區司令部、旅團司令部、西練兵場の一部、偕行社、済美學校、憲兵隊は商業地区として転用が計画されます。

原子爆弾による人的、物的損害が甚大で財政難にあった広島市は復興財源として国、県からの補助金を要望、県と折衝の結果、元安川を境に東側を市が、西側を県が担当する事に決定します。
(『市史』によると“補助金を要望する市に対し主導権を握りたい県が拒否、西側の計画を強引に取得”したとあり、『県史』によると“財政難の市が県に頼み込んで西側を担当してもらった”とあり記載が正反対です)

また多数の戦災都市復興事業を抱える国も財政難にあり補助金が多く望めない事から市は市内の旧軍用地1,768,000坪に着目、国、県で使用中及び処分予定を除いた800,000坪を無償獲得し売却、財源への充当を計画し大蔵省に譲渡を陳情、750,000坪の無償譲渡が内定しますが、昭和21(1946)年5月、『国有財産法』が改訂され無償譲渡が禁止されてしまいます。

昭和23(1948)年度、戦災復興補助金として広島市に交付されたのが僅か5,000万円とだった事から、昭和23(1948)年12月、市は特別法の制定による財源獲得を目指し運動を開始、『広島平和記念都市建設法』を作成、昭和24(1949)年4月26日、同じく原爆が投下された長崎市を加え『長崎国際文化都市建設法』とともに政府に提出され、衆参両院を通過、住民投票を経て、8月6日、交付されます。

9月9日、建設省内に平和文化都市都市建設協議会、昭和25(1950)年10月、広島市に広島平和記念都市建設専門委員会が発足、10月3日、『広島平和記念都市建設事業計画案』(5ヶ年151億、継続する場合の後年度124億)が立案されますが、折からのドッジプラン(米公使J・M・ドッジが指導した均衡予算を骨幹とした財政引締政策)を受け予算は2,886,800,000円に削減、計画も縮小されるなか、政府及び建設省は広島市、長崎市を他の戦災都市と分離し補助金を増額します。

また昭和23(1948)年6月30日、『国有財産法』は全面改訂、『旧軍用財産の貸付及び譲渡の特例に関する法律』が制定され、旧軍用地は緑地、公園、ため池、火葬場、墓地、塵芥焼却場、生活困窮者の収容施設(以上『国有財産法』)、水道、防波堤、岸壁など臨港施設(以上『旧軍用財産~』)に使用する場合は無償貸付、医療施設、学校に使用する場合は減額譲渡(2割以内)が、さらに『広島平和記念都市建設法』により平和記念都市建設事業に必要と認められた物件は譲与が可能となり、市内の陸軍用地は復興事業計画に基づき区画整理のうえ随時払下げられ開発、現在に至ります。


主要参考文献
『広島市史 第四巻』(大正14年12月 広島市役所)

『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)

『広島県史 近代1 通史Ⅴ』(昭和55年3月 広島県)

『広島県史 近代2 通史Ⅵ』(昭和56年3月 広島県)

『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)

『企画展 日清戦争と広島城』(平成21年12月 広島市市民局文化スポーツ部文化財課)

『広島市郷土資料館特別展 明治時代の広島』(平成30年12月 広島市郷土資料館)

『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(昭和46年12月 広島市役所)

『広島師団史』(昭和44年12月 陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会)

『歩兵第十一聯隊史』(平成5年12月 鯉十一会)

『廣島野砲兵第五聯隊第一中隊史』(平成元年4月 広島野砲兵第五聯隊第一中隊史編集委員会)

『歩兵第七十一連隊史』(昭和52年3月 連隊史編集委員会)

『広島輜重兵隊史』(昭和48年12月 広輜会)

『鯉城の稚桜-広島陸軍幼年学校史-』(昭和51年7月 広幼会)

『平成25年度広島市郷土資料館企画展 陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~』(平成26年1月 広島市未来都市創造財団広島市郷土資料館)
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Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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