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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第五師團司令部(第五十九軍司令部・中國軍管區司令部)

名城・広島城に「極東の憲兵」と称された第五師團司令部がありました。

同地では後に第三十九師團、第百四十五師團、第百五十四師團、第二百五師團、第二百二十四師團、第二百三十一師團各司令部が編成されます。
ア 情報室 パノラマ写真 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲師團司令部跡の廣島城本丸下段に遺る防空庁舎

【探索日時】
平成17(2005)年10月25日、平成27(2015)年2月22日
令和3(2021)年7月25日





廣島城周辺の施設配置
広島 昭和12 第五師団・大本営 (広島)
▲一般的な昭和12(1937)年頃の配置

① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
②  〃 兵器部
③  〃 弾薬庫
④  〃 経理部 需品倉庫
⑤  〃 被服庫
⑥  〃 隔離厩
⑦  〃 資材倉庫
⑧  〃 法務部、廣島衛戍拘禁所

⑨ 歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊
⑩ 野砲兵第五聯隊
⑪  〃 馬場
⑫ 輜重兵第五聯隊
⑬ 廣島西陸軍練兵場
⑭ 廣島陸軍病院
⑮  〃 第一分病室
⑯  〃 第二分病室
⑰ 廣島陸軍幼年學校
⑱ 歩兵第九旅團司令部
⑲ 廣島聯隊區司令部
⑳ 廣島偕行社
㉑  〃 附属済美學校
㉒ 廣島憲兵隊本部
㉓ 第五師團長官舎

㉔ 廣島護國神社

A 第一軍戰死者記念碑
B 北清事變戰歿者記念碑


㉕ 工兵第五聯隊
㉖ 騎兵第五聯隊
㉗ 廣島東陸軍練兵場

㉚ 江波陸軍射撃場
㉛ 廣島陸軍墓地
※太字が当記事での紹介施設


① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
明治10(1877)年10月6日、本丸上段に廣島鎭臺本営(明治21年5月14日、第五師團に改編)庁舎が新築されますが、日清戦役時に大本営として使用(明治27年9月5日~明治28年4月27日)、戦役後、永久保存される事となったため廣島西陸軍練兵場にあった臨時帝國議会仮議事堂を司令部庁舎に転用、明治29(1896)年10月2日、本丸下段に新築された庁舎に移転します。
第五師團司令部2 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲第五師團司令部(一号庁舎)

昭和12(1937)年7月27日、第五師團は支那事変に出征、留守第五師團司令部が編成されます。

昭和14(1939)年8月1日、留守第五師團は第三十九師團、昭和20(1945)年2月8日、第百四十五第百五十四師團(編成中)各司令部を編成します。

4月1日、留守第五師團司令部は廣島師管區司令部に改称、2日、第二百五師團、5月23日、第二百二十四(編成中)、第二百三十一師團各司令部を編成、6月20日、廣島師管區司令部は第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部に改編されます。

8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、第五十九軍司令部、中國軍管區司令部庁舎は全壊炎上、司令官・藤井祥治中将は官舎において散華のため第二百三十師團長・中西貞喜中将に指揮権が移行、第五十九軍司令部、中國軍管區司令部参謀長・松村秀逸少将以下生存者が廣島城本丸に野営しつつ市内の道路啓開、警備、救援にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
被爆直後の師團司令部 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲コンクリート部分を残し倒壊した司令部一号庁舎

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始します。

10月7日、焼失を逃れた倉庫の接収が、14日、兵器弾薬の処分が開始、11月下旬、処理が終了し大蔵省に返還されます。

昭和20年9月1日、第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部は広島製薬㈱(五日市、廣島陸軍燃料廠総務部、会計部の疎開先)に移転します。

昭和21(1946)年10月4日、広島市は広島市復興事業として幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、師團司令部は廣島城とともに公園として転用が計画されます。
昭和24(1949)年8月6日、『広島平和記念都市建設法』が交付され、9月9日、建設省内に平和文化都市都市建設協議会、昭和25(1950)年10月、広島市に広島平和記念都市建設専門委員会が発足、10月3日、『広島平和記念都市建設事業計画案』が立案されます。
同案に基づき師團司令部を含む廣島城本丸は「中央公園」として整備、11月1日、本丸下段には中央バレーボール場が開設され、焼け残っていた師團司令部玄関は観客席に転用されます。
バレーボール場観覧席になった師團司令部玄関 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲バレーボール場観覧席になった師團司令部玄関

昭和28(1953)年3月31日、廣島城跡は国史跡に指定され、昭和33(1958)年3月26日、鉄筋コンクリートにて天守が復興されます。

昭和30(1955)年12月25日、戦災復興事業により中央公園用地に指定され再建が認められなかった護國神社用地として本丸下段の中央バレーボール場西端3,000坪が充当(旧社地の交換地)、昭和31(1956)年11月23日、廣島護國神社が再興され現在に至ります。
※詳細は『大本營(旧第五師團司令部)』参照


遺構について
原子爆弾の投下、及び戦後の公園化、護國神社への転用のため遺構は殆ど遺されていません。
本丸詳細 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲第五師團司令部配置

A 第五十九軍司令部・中國軍管區司令部 防空庁舎
建設年は不明です。
鉄筋コンクリート製の半地下平屋建(地下室があるとも言われます)で室内は4部屋(情報室、通信室、指揮連絡室、防空作戦室)に分かれており、中國軍管區内に配置された第三十五航空情報隊(大阪)前進監視哨、各民間防空監視哨(中部、東海は県庁に設置された防空本部で集約したのに対し中國、東部、西部は直接)からの敵機情報を精査、警戒・空襲警報の発令、解除、隷指揮下部隊に対応を指示します。

当司令部唯一の遺構であり、且つ北部、東北、東海、中部、中國、西部軍管區に建設された防空庁舎のなかで唯一遺るものですが、地下1階、地上3階と大規模だった北部、東海、中部、西部軍管區の庁舎(東北軍管區は不明)と比べるとかなり小規模な物です。
作戦室 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲見取図

慰霊碑
昭和54(1979)年5月、広島師友会により建立されます。
まずはこの地で散華された軍人、軍属の英霊に感謝の誠を捧げます。
昭和20(1945)年8月12日の中國軍管區司令部報告によると原爆により軍人は軍司令官・藤井中将以下68名(ほか生死不明97名)、軍属87名(同93名)が散華されたとされます。
A 作戦室 慰霊 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

-外観-
b 出入口付近
完全に埋まっており、破壊痕があります。
b 入口付近 北東から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

オ 部屋?
c入口がありますが、防空庁舎の室内には繋がらず孤立したオ部屋、又はあるとされる地下室への入口?でしょうか。
c 入口 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲c入口側

オ 北東から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲オ背面(右)と謎の構造物(左:エ北側)

す 窓
オ部屋の窓と思われます。
す 窓 東から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

し 窓
爆風避けの衝立があります。
し 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

し前の爆風避けを進むと空間がありウ指揮連絡室の窓があります。
お・か 窓 北上から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲上から見た空間と窓

え・お 窓
ウ指揮連絡室北側の窓です。
え(右)・お(手前) 窓 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

空間の隅に換気塔がありますが、室内にここに繋がる開口部は無く、やはり地下室がある?
う 換気塔 北東から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

う 窓
イ通信室北側の窓です。
う 窓 北から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

あ・い 窓
ア情報室の西側窓です。
あ・い 窓 南西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

a 出入口
唯一遺る出入口です。
a 入口 北から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

a 入口 北から (2) 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲事前に申し込み、または直接守衛所で記名して借りた鍵で解錠


-室内-
作戦室 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲見取図
※現在崩落の危険があるため立入禁止になっています。

a 出入口
壕口上部は破壊されています。
a 入口 パノラマ写真 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)

ア 情報室 aから 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲入口からア情報室

ア 情報室 a入口左側の仕切り破壊部分(天井) 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲壁を壊した痕
 本来は爆風避けのため逆L時の通路があった様です

ア 情報室
民間防空監視哨から有線通信により敵機情報が伝達され女子通信手が受話、防空作戦室に送達しました。
昭和20(1945)年4月、学校報国隊の比治山高等女学校生90名が女子通信手として配備され、3交替で30名づつが任務にあたります。
また防空作戦室から送達される指示、命令、情報を民間防空監視哨に電話連絡しました。
ア 情報室 パノラマ写真 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲奥から

ア 情報室 天井の鉄剤 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲天井の保持金具
 当時壁面、天井の全面に貼ってあった板の内装材の保持金具です

ア 情報室 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲イ通信室との隔壁

ア 情報室~エの隔壁北側上部にある開口部 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲北側隔壁にある開口部
 通信線の開口部でしょうか?

ア 情報室 西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲イ通信室へ

イ 通信室
第三十五航空情報隊監視隊の前進監視哨から無線通信により敵機情報が伝達され同隊廣島派遣隊が受信、防空作戦室に送達しました。
イ 通信室 南から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲南から
 奥は閉鎖された“う”窓

イ 通信室 北から (2) 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲北から

エ 防空作戦室
通信室、情報室からの敵機情報は女子通信手が鍵盤を操作し豆電球が埋め込まれた情報盤(軍管區の地図)に点灯され、軍司令官、参謀長、高級参謀、参謀により精査、警戒・空襲警報の発令、解除、隷指揮下部隊への対応を判断しました。
また一角に板壁で仕切られた「放送室」があり夜間は廣島中央放送局の放送部員、アナウンサー、技術員各1名が常駐していました。
エ 作戦室 西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲ウ指揮連絡室から

エ 作戦室 北西から (2) 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲室内中央にある柱

エ 作戦室 南西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲北側壁面と“き”・“け”窓、“く”開口部

き 窓 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲“き”窓
 埋まっており、“き”、“け”は同一で形状から「窓」と思われます

け 窓 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲“け”窓

く 窓 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲“く”開口部
 急角度の開口部は通信施設に良く見られることから通信線の取出口と思われます

エ 作戦室 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲南側壁面

さ 溝 北東から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲さ溝
 用途不明です

エ 作戦室からウ 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲ウ指揮連絡室へ

b 出入口
左折、右折して外に出る様ですが、崩落しています。
エ 作戦室 からb 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲部屋を出てすぐに左折しますが、立入禁止

ウ 指揮連絡室
防空作戦室から送達される指示、命令、情報を中部・西部軍管區司令部、軍管區内各部隊、呉鎭守府、各県庁、廣島中央放送局に電話連絡しました。
ウ 指揮連絡室 南から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲左側がイ通信室、右側がエ防空作戦室、奥が“え”・“お”窓、開口部“か”

か 換気口 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲開口部“か”
 “か”は閉鎖されており外に開口部が無く、オ部屋に繋がっていると思われます

ウ 指揮連絡室 北西から 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲北から
 南側の壁面(奥)に不自然な閉鎖痕があります

ウ 指揮連絡室 天井電灯跡 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲天井の電球跡

昭和20(1945)年8月6日0806、防空作戦室は松永防空監視哨(福山市)から「西北進中ノ敵大型二機ヲ発見」、0809、「三機ト訂正」の敵機情報を受話、警戒警報は間に合わないため空襲警報発令(元女通・岡(旧姓大倉)ヨシエ氏によると作戦室から出たのは「ヒロシマ・ヤマグチ ケハ(警戒警報発令)」)のため廣島中央放送局に「八時十二分、中國軍管區情報、敵大型三機、西条上空ヲ西進中、空襲警報発令」を伝達、0815、同局の古田正信アナが「中國軍管區情報、敵大型3機、西条上空を」と読み上げたところで原子爆弾が投下され炸裂します。

防空作戦室では情報盤に敵機侵入の警報が点灯、女通・恵美(旧姓西田)敏枝氏が獨立高射砲第二十二大隊本部(宇品)、廣島陸軍飛行場(第五教導飛行隊、第二總軍飛行班)に電送開始直後に原爆が炸裂、外に脱出します。
恵美氏に続いて外に出た岡(旧姓大倉)ヨシエ氏は再び情報室に戻り西部軍管區司令部(福岡)、船舶砲兵第一聯隊(福山)に惨状の第一報を伝達します。
被爆直後の通信室 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲原爆投下直後の防空庁舎 西から


② 第五師團 兵器部
広島城北之曲輪。
明治38(1905)年頃、廣島陸軍兵器支廠が西練兵場北西から移転、大正7(1918)年6月1日、第五師團兵器部が新設され、兵器部に一部の倉庫を移管、大正8(1919)年3月25日、同支廠は東新開町に転出、全域が師團兵器部に転用されます。

昭和20(1945)年8月6日、原子爆弾により倉庫は全壊焼失、昭和21(1946)年に計画された広島市復興事業による幹線道路建設、区画整理により区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


③ 第五師團兵器部 弾薬庫
広島城西之丸。
明治6(1873)年1月9日、廣島鎭臺が開設、鎭臺火薬庫として設置されます。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


④ 第五師團経理部 需品倉庫
⑤ 〃 被服庫
⑥ 〃 隔離厩
⑦ 第五師團経理部 資材倉庫
広島城西之丸。
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、廣島衛戍病院は一時閉鎖、廣島豫備病院に改編され市内各地に第一~第七分院が開設されます。
明治38(1905)年9月5日、戦役終結に伴い分院は逐次閉鎖、明治40(1907)年、第二分院跡地に師團被服庫が開設されます。

明治9(1876)年5月23日、城内練兵場が竣工、明治12(1879)年2月18日、陸軍省軍馬局より馬匹調練のため下士2名が派遣され、練兵場西端に馬場が開設されます。
10月27日、廣島鎭臺調馬掛が新設され、派遣下士は復帰、明治17(1884)年1月15日、調馬掛は廃止、調馬主管が置かれ引き続き馬匹の調練を実施しますが、明治21(1888)年、調馬主管は廃止され業務は各騎兵聯隊に移管され、跡地に需品倉庫、隔離厩、資材倉庫が設置されます。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


⑧ 第五師團 法務部、廣島衛戍刑務所
明治5(1872)年4月9日、本丸内に廣島鎭臺陸軍裁判所、同囚獄が開設されます。

明治16(1883)年8月4日、陸軍裁判所は廃止され廣島鎭臺軍法會議に改編、10月22日、囚獄は廣島陸軍監獄署に改称、明治20(1887)年3月、廣島陸軍監獄署が本丸から北曲輪に移転します。

明治27(1894)年1月15日、廣島陸軍監獄署は廣島衛戍監獄に改称、大正12(1923)年3月31日、廣島衛戍監獄は廃止、4月1日、廣島衛戍拘禁所が二之丸内に新編され、昭和15(1940)年7月31日、廣島陸軍拘禁所に改称します。

二之丸は本丸(師團司令部)と同様の経緯を辿り全域が整備され、遺構は何も遺されていない様です。


⑲ 歩兵第九旅團司令部・同旅團長官舎
明治18(1885)年5月18日、歩兵第九旅團司令部が新編、大手曲輪京口門付近の新庁舎に入ります。

明治27(1894)年6月12日、日清戦役に伴い留守歩兵第九旅團司令部が編成、同司令部は留守第五師團司令部を兼務、明治28(1895)年7月7日、留守旅團司令部は臨時帝國議会仮議事堂に移転、10日、歩兵第九旅團司令部は凱旋、留守旅團司令部は復帰します。
明治33(1900)年6月30日、北清事変に伴い留守歩兵第九旅團司令部が編成、明治34(1901)年7月12日、歩兵第九旅團司令部は凱旋、留守旅團司令部は復帰します。
明治37(1904)年4月19日、日露戦役に伴い留守歩兵第九旅團司令部が編成、明治39(1906)年1月4日、歩兵第九旅團司令部は凱旋、留守旅團司令部は復帰します。
大正8(1919)年6月24日、シベリア出兵に伴い留守歩兵第九旅團司令部が編成、大正9(1920)年9月1日、歩兵第九旅團司令部は凱旋、留守旅團司令部は復帰します。

事後、支那事変、大東亜戦争では留守旅團司令部は編成されず、留守師團長が兼務、旅團司令部は師團経理部に移管されます。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


⑳ 廣島聯隊區司令部
明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』(太政官布告)が施行、明治7(1874)年、廣島鎭臺管區において徴兵検査が実施されます。
施行当初は徴兵使(正使:陸軍中佐、少佐/副使:尉官)が軍医、書記とともに管區内を巡回、各町村戸長が「免役概則」に照合し選抜し、引率してきた徴兵検査受検者を検査場において検査していましたが、感情に左右されムラが発生したため、 明治12(1879)年10月27日、『徴兵令 改正』が公布、自治体責任者を戸長の上級職である郡区長に変更、郡區徴兵事務官(郡区長)は府縣徴兵事務官(府県職員)、陸軍から派遣された徴兵事務官(後備軍府縣駐在官)とともに徴兵下検査を実施、徴兵適齢者を選抜して各種名簿を作成、 徴兵使巡行を迎えました。
しかし、戸主・嗣子と言う戸籍上の名義による免役制度が設けられていたため充分な人数が確保できなかったため、明治16(1883)年12月28日、『徴兵令 改正』が公布、免役条項を縮少、徴兵下検査と徴兵使巡行は廃止され、府県側には兵事課が、 軍側には府県駐在官(広島県には廣島縣駐在所が開設)に加え郡區駐在官が設置されます。
徴兵検査は郡区長と郡區駐在官が各種名簿を作成・点検し、兵事課長と府県駐在官が検査実施を行う事になり徴兵人数は飛躍的に増加改善されました。

明治21(1888)年5月14日、廣島大隊區司令部が新編され旅團司令部西側の新築庁舎に入り、管区内の募兵・徴兵・召集事務、在郷軍人・各補充兵役者に関する事務を開始、明治29(1896)年4月1日、廣島聯隊區司令部に改編します。

昭和20(1945)年3月24日、決號作戰(本土決戦)に向け、本土における軍を中核とした有機的作戦組織を強化、決戦に総力を結集し戦場態勢を確立すべく廣島聯隊區司令部は復帰、同日、廣島聯隊區司令部及び廣島地區司令部(聯隊區司令官兼務)が臨時編成され、既存の(特設)警備隊を隷下に編入、6月、人員、資材の大半を可部町(現、安佐北区)の県立可部高等女学(現、可部高等学校)校、願船坊に疎開、可部分室とし本土決戦に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
10月1日、復員完結、11月21日、可部高等女学校において解散式を挙行します。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


㉑ 廣島偕行社
㉒ 付属済美學校

明治13(1880)年、廣島鎭臺監督部は大手曲輪南東端を脩交社に無償貸与、明治15(1882)年1月、脩交社は廣島偕行社に改称、明治22(1889)年7月18日、接続地をさらに貸与、明治28(1895)年6月26日、廣島偕行社北隣1町4反を附属済美學校用地として無償提供、昭和16(1941)年4月1日、同校は済美國民學校に改称します。
廣島偕行社 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲廣島偕行社

廣島偕行社の遺構は遺されていませんが、YMCAエデュケーショナルトラベル内に附属済美學校の門柱が遺ります。


㉓ 廣島憲兵隊・同分隊
明治23(1890)年6月29日、廣島憲兵隊が新編され本丸内の仮庁舎に入ります。
明治24(1891)年9月、廣島憲兵隊は基町の新築庁舎に移転します。
廣島憲兵隊本部 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)
▲右端が廣島憲兵隊庁舎、左側は臨時帝國議會假議事堂

明治28(1895)年7月3日、廣島憲兵隊は第五憲兵隊に改称、明治31(1898)年12月1日、第五憲兵隊本部内に廣島憲兵分隊が新編され、管下に廣島(屯所:基町、堺町、宇品町)、濱田(濱田町)、山口(山口町)、呉(和庄町)、忠海(忠海町)各分隊が編成されます。
明治36(1903)年4月1日、憲兵及憲兵分隊管区表が改正され、憲兵隊、憲兵分隊位置以外の屯所(堺町、宇品町)は廃止されます。
明治40(1907)年10月7日、第五憲兵隊は廣島憲兵隊に改称します。

昭和20(1945)年3月30日、「決號作戰」(本土決戦)に向け廣島憲兵隊庁舎において中國憲兵隊司令部が新編、廣島憲兵隊は光道国民学校(猫屋町)に移転します。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


㉔ 第五師團長官舎
大正7(1918)年、似島収容のドイツ軍俘虜により造成され、旧廣島衛戍病院基町分病室の病舎、仮病舎、厠、第五師團大須賀町仮倉庫の解体資材を転用し建設されます。
第五師團の出征中は留守第五師團長官舎に転用、昭和20(1945)年4月1日、廣島師管區司令官、6月20日、第五十九軍司令官及び中國軍管區司令官官舎に転用されます。
8月6日0815、原爆投下時、第五十九軍司令官兼中國軍管區司令官藤井洋二中将は官舎にて出勤準備中に婦人とともに被爆散華します。

上記同様に区画ごと滅失、遺構は何も遺されていない様です。


A 第一軍戰死者記念碑
明治43(1910)年5月19日、西練兵場南西端に建立されます。
高さ15m、戦没者726名の官職氏名が告示され、揮毫は第一軍司令官・野津道貫大将、書は同参謀長・小川又次少将。
原子爆弾により倒壊、台座は遺りますが復興事業の際に撤去され痕跡すら遺されていません。
第一軍戰死者記念碑 第五師団・第五十九軍・中国軍管区司令部 (広島)


B 北清事變戰歿者記念碑
明治39(1906)年、京口門付近に建立されます。
原子爆弾により倒壊、台座は遺りますが復興事業の際に撤去され痕跡すら遺されていません。
『歩兵第十一聯隊史』には「レリーフ部分が陸軍墓地に移設されている」とありますが、無かったような気がします?
北清事變戰歿者記念碑 (広島)


衛戍部隊
第五師團(鯉五一七一/司令部:鯉五一九一/廣島師團)
慶応4(明治元、1868)年2月20日、明治政府直轄軍として御親兵が創設されます。
明治4(1871)年4月23日、各藩兵からなる東山道(石巻)・西海道(小倉)鎭臺が新設、7月14日、廃藩置県により、日本全土が明治政府の直轄となり、8月20日、東山道・西海道鎭臺は廃止(9月、藩兵は解散)され、新たに東北(仙台)・東京・大阪・鎭西(熊本)の4鎭臺が新設、廣島城に鎭西鎭臺第一分營(品川氏章中佐)が設置されます。
第一分營は安芸、備中、備後、出雲、石見、周防、長門、隠岐を所管、熊本藩から2個小隊、松江、浜田、豊浦、岩国藩から各1個小隊を招集、1個大隊を編成します。
明治5(1872)年1月、招集兵を解散、新たに志願兵を招集(11月、広島藩を加える)、3月6日、第十五番大隊と称し、明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』が発布されます。

明治6年1月9日、太政官布告第四號『六管鎭臺表』により名古屋とともに廣島鎭臺(第五軍管管轄)が新設(表御門楼上に本営を開庁)され廣島、高松両営所、広島、小田、島根、浜田、山口、香川、名東、高知、神山、石鉄各県を管轄、2月19日、第十五番大隊は第十五大隊に改称します。
7月19日、『鎭臺條例』が改訂され第五軍管は第十一師管(広島営所)、第十二師管(高松営所)を管轄に改編されます。

明治政府の進める版籍奉還(明治2年6月17日)、廃藩置県(明治4年7月14日)、徴兵令(明治6年1月10日)、帯刀禁止令(明治9年3月28日)、地租改正(明治6年7月28日)は士族から世襲的職業を奪い特権階級から失業者に転じさせ、また伝統を否定する急速な欧化政策と相まって士族の反発を招きます。
明治7(1874)年2月1日、佐賀県において旧士族が官金預り業・小野組に強訴したのをきっかけに、13日、前参議・江藤新平、前秋田県令・島義勇が加わり挙兵、14日、熊本鎭臺が鎮圧に出動します。

2月26日、第十五大隊(廣島鎭臺司令長官・井田譲少将、第二、第三中隊)は第四中隊を残置し広島を出発、海路三田尻に進出し、山口分営にて第一中隊を掌握、28日、福岡に上陸し第一、第三中隊(井田少将)は佐賀北方の三瀬峠より、第二中隊(高橋勝政大佐、高島信茂中佐)は椎原口より進撃、3月1・2日、戦わずして佐賀城に入城しますが、既に賊兵は各地で敗退、四散していたため、3月7日、第一中隊は山口、8日、第二、第三中隊は広島に帰還します。

10月15日、大隊定員が762名に増加され、第十五大隊は加えて1個大隊相当数を徴募し歩兵第二十三大隊に改編されます。

明治8(1875)年2月25日、廣島鎭臺の常備兵力は歩兵2個聯隊、砲兵1個大隊、工兵、輜重兵各1個小隊、海岸砲兵1隊、人員4,340名と定められます。

5月20日、第二十三大隊を2分、歩兵第十一聯隊第一、第二大隊に改編、9月9日、宮中において軍旗を拝受、明治9(1876)年5月1日、第一、第二大隊より290名を抽出し第一中隊(山口)に加え第三大隊に改編し聯隊の編成を完結します。

明治9年4月15日、歩兵第十二聯隊の編成が完結します。
廣島鎭臺本営
 歩兵第十一聯隊
 歩兵第十二聯隊

明治9(1876)年10月25日、萩において前参議・前原一誠が神風連の乱(10月24日、熊本)に呼応し策謀、28日、関口隆吉・山口県令は歩兵第十一聯隊第三大隊の第一中隊を伴い説得に向かいますが失敗します。

30日、歩十一第二中隊が山口に到着し萩に進出、31日、鎭臺司令長官・三浦梧楼少将が山口に進出、萩付近に第一大隊第二中隊、第三大隊第二、第三中隊を集結させ持久に当たらせ、11月2日、第一大隊、3日、第二大隊が津和野に進出し賊軍の退路を遮断、同日、大阪鎭臺歩八第一大隊、砲兵第四大隊、軍艦「孟春」、「浅間」が山口に進出、5日、全軍で萩に進撃し、6日、乱を鎮圧します。

明治10(1877)年2月14日、西郷隆盛が鹿児島において挙兵し西南の役が勃発、政府は征討にあたり各聯隊の薩軍呼応を危惧し建制を解き中隊ごとに各征討旅團に配属します。
歩十一は2月中旬、第二、第三大隊(聯隊長・永井勝正中佐)が広島を出発、第二大隊第一中隊は第四旅團(曾我祐準少将)、第二、第三、第四中隊、第三大隊第三、第四中隊は第二旅團(三好重臣少将)に編入され、3月5日、田原坂正面攻撃部隊として車坂で薩軍と交戦、8日、頑強な薩軍の抵抗に二股口突破に注力、長窪山において第三大隊が大損害を受け(合併中隊に改編)後退、15日、田原坂を再攻撃し木留を奪還、萩迫戦における木台戦で薩軍を撃破、佐敷、大口方面から高鍋、延岡を転戦、8月下旬、海路加治木に反転し城山に進撃(3月21日、永井中佐、植木の戦いで負傷散華)します。

第一大隊第一、第二中隊は第四旅團に編入され、5月初旬、鹿児島に進出し付近の戦闘及び警備にあたり、7月上旬、加治木、都城の戦いを経て延岡に進撃した後、城山に進撃します。

第三中隊は2月下旬、第三旅團(三浦梧楼少将)に編入され、田原坂戦では北方の山鹿方面で薩軍と交戦、大口、都城、延岡を転戦し城山に進撃します。

第四中隊は3月中旬、長崎において別働第二旅團(山田顕義少将)に編入され、熊本城攻囲軍を撃破、城東会戦、を経て人吉、都城、高鍋、延岡を転戦し城山に進撃します。

また歩十二は2月19日、第二大隊が広島に前進、3月1日、聯隊主力(第一大隊、第三大隊(第四中隊欠))は勅使護衛部隊として丸亀を出発、博多、長崎を経て鹿児島に進出、16日、別働第一旅團(大山巌少将)に編入され衝背軍として、19日、軍艦「鳳翔」の支援射撃のもと日奈久付近に敵前上陸を敢行、八代を攻略、14日、熊本城を解囲、城東会戦、御船で薩軍を撃破、4月下旬、鹿児島に上陸し城山に進撃します。

3月中旬、第二大隊第三中隊が第三大隊第四中隊とともに長崎において別働第二旅團に編入され、熊本城攻囲軍を撃破、城東会戦、人吉、都城、高鍋、延岡、城山を転戦、4月中旬、大隊主力は熊本に前進、第一中隊が第一旅團(野津鎮雄少将)に編入され、城東会戦に参加、九州山地を踏破し延岡戦、次いで城山戦に参加、第二・第四中隊が第三旅團に編入され城東会戦、大口、都城、延岡を転戦し城山に進撃します。

9月24日1600、官軍は城山の総攻撃を開始、西郷隆盛は自刃し、西南の役は終結、27日、凱旋が下令され各旅團は編成を解除、各大隊、中隊は鹿児島を出発、10月上旬、歩十二が丸亀、下旬、歩十一が広島に凱旋します。

10月6日、鎭臺本営は本丸上段に竣工した新庁舎に入ります。

明治11(1878)年4月20日、砲兵第五大隊第一中隊が編成され、明治12(1879)年10月、山砲兵第五大隊に、明治13(1880)年4月6日、輜重兵第五小隊、明治16(1883)年1月26日、工兵第三中隊、明治17(1884)年6月25日、歩兵第十一聯隊において歩兵第二十一聯隊第一大隊が編成されます。

明治15(1882)年11月14日、歩十一第三大隊の2個中隊が7月に朝鮮国において発生した壬午の変(大院君の乱。我が国の支援のもと開化政策を進める王妃・閔妃一派に対する大院君の扇動による旧軍の反乱で清国軍により鎮圧)に対応のため広島を出発、11月20日、漢城に到着し日本公使館の護衛にあたります。

明治18(1885)年5月18日、太政官第弐拾壱號『鎭臺條例』改正により歩兵第九旅團(広島)、歩兵第十旅團司令部(丸亀)が新編され、前者に歩十一、歩二十一(広島)、後者に歩十二、歩二十二(松山)が配属されます。
廣島鎭臺本営(広島)
 歩兵第九旅團本営(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第二十一聯隊(広島)
 歩兵第十旅團本営(丸亀)
  歩兵第十二聯隊(丸亀)
  歩兵第二十二聯隊(松山)
 工兵第三中隊(広島)
 輜重兵第五小隊(広島)
 山砲兵第五大隊(広島)

明治19(1886)年4月14日、輜重兵第五小隊は輜重兵第五大隊第一中隊に、明治20(1887)年2月、工兵第三中隊は工兵第五大隊に改編、明治21(1888)年2月、騎兵第五大隊第一中隊が編成されます。

明治21(1888)年5月14日、廣島鎭臺は第五師團に、明治22(1889)年3月7日、山砲兵第五大隊は野戰砲兵第五聯隊に改編されます。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第二十一聯隊(広島)
 歩兵第十旅團司令部(丸亀)
  歩兵第十二聯隊(丸亀)
  歩兵第二十二聯隊(松山)
 騎兵第五大隊(広島)
 工兵第五大隊(広島)
 輜重兵第五大隊(広島)
 野戰砲兵第五聯隊(広島)

明治27(1894)年2月、朝鮮国において東学党の乱が発生、朝鮮国は独力での乱鎮圧が不可能なため、5月31日、清国に出兵を要請、6月2日、我が国は天津条約に基づき居留民保護のため出兵を決定、5日、大本營を設置し混成歩兵第九旅團(大島義昌少将、歩十一、歩二十一、野戰砲兵五第三大隊、騎兵、工兵各1個中隊、輜重兵1/2中隊7,000名)の編成下令、9日、清国軍増強の情報に動員完結を待たず歩十一第一大隊(一戸兵衛少佐)は工兵1個小隊とともに先遣隊として宇品を出港、12日、仁川に上陸、13日、京城の警備にあたります。
10日、旅團の編成完結、11日、第一次輸送部隊(大島少将、歩十一)が宇品を出港、16日、仁川に上陸にします。

12日、外交交渉は限界に達したと認識した我が国は第五師團に動員下令(16日、動員完結)、14日、第二次輸送部隊(歩二十一)の第八中隊が先発隊として宇品を出港、17日、釜山に上陸し警備にあたります。

15日、状況判断のため停留していた歩二十一第二大隊が出港、18日、仁川上陸、24日、聯隊(武田秀山中佐)主力が出港、27日、仁川に上陸、旅團は京城市外に集結し暴動を鎮圧し情報収集にあたります。

我が国は清国に対し朝鮮内政共同改革案を提案しますが、朝鮮を属国とみなす清国は拒否し、7月中旬、さらに兵力を増強、朝鮮国もそれに同調し態度を硬化、我が国の申し入れた行政改革を拒否し清軍来援の風聞を背景に反日姿勢を強めて行くなか、19日、大本營は大島少将に清国軍増強の際は独断での対処を認可します。
22日、大鳥圭介・朝鮮公使は旅團に王宮守護のため兵力派遣を要請、23日、歩二十一第二大隊が奇襲して来た朝鮮兵を王宮外に撃退し王宮守備にあたります。

25日、清国軍艦「済遠」が我が第一遊撃隊「吉野」、「秋津洲」、「浪速」に発砲、豐島沖海戦が発生しますが、第一遊撃隊が「済遠」、「広乙」を撃沈し完勝します。

25日、牙山・盛歓、平壌に集結した清国軍(葉志超以下4,000)により、旅團は挟撃を受けるおそれがあった事から龍山に集結、29日0000、旅團左翼隊(歩十一第二、第三大隊、野砲五第三大隊、予備:歩二十一第一大隊)は素沙場を出発、東方に迂回南下し令通里、都監里を通過し、0630、新井里、月峰山、罌粟坊主山、盛歓の敵陣を攻略します。

29日0200、右翼隊(歩二十一)は素沙場を出発、0320、第十二中隊(松崎直臣大尉)は佳龍里(安城渡)において敵の奇襲を受け、豪雨による泥濘、増水した水濠に遮られ、松崎大尉が散華するなど苦戦ののち敵を撃退、薪里、0700、牛歇里の敵陣を攻略ののち旅團は集結し、30日、牙山を攻略、清国軍(葉志超以下4,000)は平壌に潰走、8月5日、旅團は龍山に帰還、付近の官民は反日感情を捨て凱旋門を造り歓迎します。

8月1日、我が国は清国に対し宣戦を布告、明治二十七八年戰役(日清戦争)が開戦します。

8月1日、師團第三次輸送部隊(歩十二:丸亀)、第四次輸送部隊(歩二十二:松山)が兵営を出発、4・13日、宇品を出港、元山、釜山に上陸、陸路京城、及び釜山より海路仁川に向かい、10日、野砲五(歩十二第一大隊)は元山を出発、朔寧において警備中の歩二十一第二大隊と連絡、朔寧分遣支隊を編成、22~29日にかけ支隊を除く第五師團(野津道貫中将)は龍山に集結、混成歩兵第九旅團を掌握、9月1日、師團は第三師團(桂太郎中将、名古屋)、歩兵第十二旅團(長谷川好道少将、熊本)とともに第一軍(山縣有朋大将)戦闘序列に編入されます。

野津中将は清国軍の増強、及び清国の動向に左右される朝鮮官民の状況に鑑み、8月31日、師團は敵の機先を制し独力で撃破すべく軍の集結を待たず、30日に元山に上陸した第三師團隷下の元山支隊(歩十八聯隊長・佐藤正中佐、歩十八基幹、騎兵1個小隊、野戰砲兵第三聯隊第三大隊、工兵第三大隊)を指揮下に編入し龍山を出発、9月14日、歩兵第九旅團は義州街道を北進し平壌(葉志超上将、15,000守備)正面南側、朔寧支隊(歩兵第十旅團長・立見尚文少将(旧朔寧分遣支隊))は新渓-遂安-江東を経て平壌左側背北東、元山支隊は陽徳-成川を経て平壌背面北側、師團主力は敵退路を遮断すべく平壌北西にそれぞれ進撃します。

15日0500、歩九旅團は攻撃を開始しますが敵の銃砲火、堅固な角面堡に苦戦、朔寧支隊は巧妙に隠蔽された堡塁に苦戦しながらも第二・第三堡塁を攻略、牡丹台陣地に進撃、0600、師團主力は鼎山に前進、安山堡塁を攻撃しますが敵の激烈な銃撃に攻撃は遅滞、師團主力の苦戦に元山支隊は攻撃に転移、第五・第四堡塁、次いで第三堡塁に進撃し朔寧支隊に連絡、玄武門を突破し牡丹台陣地に進撃しますが敵の激烈な銃撃を受け各方面の攻撃は遅滞、野津中将は戦線整理ののち16日の払暁攻撃を決心したところ、1645、敵は突如潰走(葉の士気の低さが原因)したため、16日0330、師團主力が平壌に突入、攻略します。

23・24日、師團は歩第十旅團を前衛に進撃を開始、10月24日、第一軍、第五師團は義州に集結します。
24日、第三師團(桂太郎中将、名古屋)が第一軍橋(工兵三が夜間に架橋)にて鴨緑江を渡河し虎山を攻略、続いて歩第十旅團が渡河、25日、師團は第二軍橋(工兵五が架橋)にて渡河、26日、楡樹溝に集結、0700、歩十一が九連城、1200、歩二十一第三大隊が安東県を無血攻略、第一軍は国境要害を全て確保し清軍を朝鮮より駆逐します。
師團は西北進し、29日、守将・宋慶(歩兵9,800、騎兵1,200)が諸兵の統率が採れず撤退した鳳凰城を攻略、周辺の警備にあたります。

大本營は年明けの雪解けを待ち直隷平野(北京-天津付近)での決戦を企図、その根拠地となる遼東半島を攻略すべく、9月21日、第二軍(大山巌大将、第一、第二師團、歩兵第十二旅團)を編成、10月24日、軍先頭の第一師團が花園口に上陸、11月21日、旅順を攻略、明治28(1895)年1月10日、蓋平を攻略、3月6日、営口に進撃します。

明治28(1895)年2月19日、師團は5梯団に別れ鳳凰城を出発、三家子で敵3,000、吉洞峪で7,000を撃破、3月2日、鞍山站を無血攻略し第三師團と連絡、4日、師團は三道崗を出発し、第三師團とともに牛荘城に進撃、師團が退路を遮断したため敵5,000は分散し付近の家屋に籠る銃撃戦となるも、5日、激戦ののち敵を殲滅し牛荘城を攻略、9日、田庄台で火砲を伴う優勢な敵20,000を撃破し攻略し、直隷平野での決戦準備のため海城付近に移駐します。

3月30日、休戦条約が調印され、4月17日、講和条約が調印(5月8日、批准交換)されたため、6月上旬、師團は海城付近を出発、大連、柳樹屯付近に集結、7月10日~8月1日、広島に凱旋します。

戦役中、大本営として使用された広島城内の師團司令部庁舎は永久保存のため、7月10日、凱旋した第五師團司令部は臨時帝國議会仮議事堂に入り、明治29(1896)年10月2日、本丸下段の新庁舎に移転します。

講和条約により我が国は清國より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定します。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の新設を決定します。
5月9日、騎兵第五大隊は聯隊に改編します。
11月11日、歩兵第十一聯隊内において歩兵第四十一聯隊本部、12月1日、仮議事堂において歩兵第四十二聯隊第一大隊が編成され、明治30(1897)年6月18日、歩四十一は歩二十一兵営、8月3日、歩四十二は山口に転営します。

明治31(1898)年7月20日、11月1日、歩兵第二十一聯隊は新編された歩兵第二十一旅團司令部に配属され広島を出発、24日、島根県那賀郡石見村黒川(現、浜田市)に転営します。

明治31(1898)年12月1日、香川県善通寺村(現、善通寺市)に第十一師團司令部(乃木希典中将)が開庁、歩兵第十二聯隊は第五師團より第十一師團に隷属転移します。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第四十一聯隊(広島)
 歩兵第二十一旅團司令部(山口)
  歩兵第二十一聯隊(広島)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
 騎兵第五聯隊(広島)
 工兵第五大隊(広島)
 輜重兵第五大隊(広島)
 野戰砲兵第五聯隊(広島)

明治33(1900)年5月20日、北京駐箚列国公使会議は清国各地において蜂起し暴徒化した排外的宗教団体・義和団鎮圧のため協同派兵を決定、各国軍艦から陸戦隊2,000名(英海軍セーモア中将)を派遣しますが、廊坊において団匪に阻止され北京は孤立、6月13日、各国公使館は包囲攻撃を受けます。

6月12日、我が国は佐世保海兵團(服部雄吉中佐、328名)を塘沽に急派、13日、列国軍(米英露仏墺伊軍)とともに大沽砲台を攻撃しますが、清軍の砲撃により攻撃は頓挫、協議中に佐世保海兵團の白石葭江大尉以下が砲台を攻略します。
21日、清国が義和団を支援し欧米列国に宣戦布告し北清事変(清國事件)が勃発します。

第五師團より第一次清國臨時派遣隊(参謀本部第二部長・福島安正少将、歩十一第二大隊、野戰砲五第二大隊、騎五第二中隊、工五第一中隊、臨時輜重隊。計1,343名)が編成され 、6月19日、宇品港を出航し塘沽に上陸、25日、上陸した第二次派遣隊(第十一師團歩十二第三大隊(杉浦幸治少佐)1,825名)と連絡し、29日、一部が天津に進出、福島少将は連合軍の防御優先策を批判、セーモア中将の支持も得て団匪の本拠地・天津城攻撃を決定、7月13日、派遣隊は清軍・団匪20,000を撃破し天津城を攻略します。

6月26日、第五師團(山口素臣中将)に動員下令、7月5日、動員完結、13日、歩十一は野砲五1個中隊とともに師團に先行して宇品を出港、13日、天津に到着し派遣隊指揮下に編入されます。
7月9~25日、師團主力は常備艦隊(東郷平八郎中将)の護衛を受け宇品を出港、14~16日、歩四十一第一大隊(佐伯惟季少佐)を先頭に太沽に上陸、21日、派遣隊を掌握、29日、列国軍(英・米・露・仏・独・伊国軍)とともに天津付近に集結、30日、歩四十二が白河両岸の威力偵察を実施、北京公使館より窮状が伝えられますが、我が国以外の列国軍は消極無方針で歩調が合わず(特にロシアの態度は反日的)、8月3日、英米の賛同を得て我が国主導で北京急進が決します。

5日、師團は歩十一第二大隊、歩十二第三大隊を天津守備隊として残置、米英軍とともに白河右岸を進撃、歩四十二第三大隊、野戰砲五が要所・北倉を攻略、6日、露軍の抜け駆け、米英の対露対抗心と各国の歩調が合わないまま進撃、1500、露軍に続き歩四十一第二大隊が湯村に突入、7日、歩四十一、野戰砲五、騎五、工五が南蔡村の敵歩・騎・砲兵を撃破し攻略、8日、獨立騎兵隊(騎五、英騎兵2個中隊、露騎兵1個中隊半)に続き師團は列国軍先頭として湯村を出発、列国軍の緩慢な行軍に敵主力包囲の戦機、貴重な時間を浪費しつつ、12日、天津-北京間の要所・通州を攻略し集結します。

13日、眞鍋支隊(歩兵第九旅團長・眞鍋斌少将、歩四十一基幹)は通州を出発(同日、露軍が抜け駆けし東便門を突破するも苦戦)、14日、北京城朝陽門に進撃しますが頑強な城門、敵の銃砲火に阻まれ突破できず、同日、師團主力が通州を出発、歩二十一は朝陽門、次いで北進し東直門に進撃、2100、工五において編成された爆破班によって城門破壊に成功、歩二十一が城内に一番乗りし敵を撃破しつつ北進し安定門を攻略、15日0130、歩四十一は南進し、歩第九旅團長・眞鍋少将は北京駐在日本公使館に達し公使・西徳ニ郎男爵以下在留邦人を救出、0700、歩四十二が紫禁城東安門を突破、1100、歩二十一は西進し徳勝門、歩四十一は地安門を攻略、同日、米軍が正陽門を突破し紫禁城天安門、午門を攻略、別働の歩十一が北京城に到着します。
清国朝廷は14日、徳勝門から脱出、略奪を行いながら、16日、居庸関、21日、宣化、30日、大同を経て、8月10日、太原城に逃走します。

16日、師團は城内の残敵掃討を終了ののち、28日、列国軍とともに紫禁城通過式を挙行、事後北京の警備にあたります。

10月5日、利権獲得のため列国軍が兵力を増強させるなか、我が国は師團の半数(歩九旅團司令部、歩十一、歩四十二、歩十二第三大隊、他部隊の半数)に復員下令、歩四十一を通州-天津間、歩四十一第二大隊を山海関、歩二十一を北京-通州間に配置し警備にあたるなか、明治34(1901)年6月21日、師團に復員下令、7月3日、警備を清國駐屯軍(秋山好古大佐)に移譲し、6日、塘沽より乗船し、12日、宇品港に上陸、広島に凱旋します。

明治28(1895)年5月14日の三国干渉以降、ロシアは露骨に満洲の領有を進め(1858年、愛琿条約により黒竜江北側を確保、1895年、三国干渉により我が国の遼東半島領有を放棄させ、1896年、満洲の鉄道敷設件を獲得し旅順を占領、1898年、清国より遼東半島南部の租借権を獲得、1900年、北清事変に際し満洲全土を占領、日英の抗議により、1902年、清国と東三省条約を締結し撤兵を約し、第一期撤兵をするも、1903年、第二期撤兵を反故にし兵備を増強、さらに我が国が自衛上保全していた韓国に勢力を伸長すべく完全な中立化を要求)、安全保障上の驚異を感じた我が国は解決を図るべく、明治36(1903)年7月以降、ロシアと外交交渉を重ねますがロシアに交譲の誠意無く、さらに軍備を増強し武力により我が国を威嚇するに至ります。

明治37(1904)年2月5日、我が国はロシアに対し最後通牒を公布、9日、ロシアが宣戦を布告、10日、我が国が宣戦を布告、明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦します。

4月19日、第五師團(上田有澤中将)に動員下令、25日、動員完結、5月10日、師團隷下部隊は広島に集結、13日、師團は第二軍(奥保鞏大将、第一、第三、第四、第五、第十一師團、騎兵第一旅團)戦闘序列に編入され、15~18日、宇品港を出港、19~22日、張家屯に上陸します。

5月5日、第二軍は旅順要塞と満洲方面の露軍の連絡分断、及び我軍の根拠地となりうる大連を攻略すべく第一、第三、第四師團は上陸とともに東進、22日、上陸した師團は軍の後背援護を下命され、普蘭店から大沙河の線を確保、次いで6月3日、台山寺付近に移駐し北方の警戒にあたります。
5月29日、旅順攻略のため第三軍(乃木希典大将、第一、第九、第十一師團)が新編され、第二軍戦闘序列は第三、第四、第五師團に更改されます。

6月13日、第二軍は旅順救援を企図し得利寺に集結中のシベリア第1軍団(シタケリンベルグ中将、45,000)を殲滅すべく北上を開始、14日、行除家溝付近に達し、第三師團左側に連携、呂家溝を攻略、15日、師團は歩四十一第一大隊、野砲五第二中隊を右翼隊(第一大隊長・平野少佐)、歩四十一、歩十一第三大隊を中央隊(歩九旅團長・山田保永少将)、歩二十一旅團、歩二十一、歩四十二を左翼隊(歩二十一旅團長・塚本勝嘉少将)、野砲五を砲兵隊(永田龜大佐)、歩十一を豫備隊(石田保謙中佐)に部署、0900、豫備隊は敵牽制のため芦家屯に進出ののち、中央隊に連携し成山西方高地に前進、1040、中央隊、砲兵隊は成山西方高地に前進、右翼隊は中央隊に連携し成山東方に前進し成山の敵陣に銃撃を開始、1100、成山を攻略、歩四十一第六・第八中隊が雛家屯に急進し敵総予備隊を撤退させ、左翼隊は土房身、芦家屯に前進、劉家炉、董家屯と進撃、禿房身西南高地を攻略し敵騎兵300、蔡家屯、孫家屯付近で敵を撃破、鼠樹溝北方高地に前進、1340、敵は豪雨に紛れ撤退、敵の南侵企図を放棄させます。
師團は敗走する敵を追撃し、歩十一は一六四高地を経て李家店北方高地、李家店東端、歩四十一は南台付近、歩四十二は得利寺南方高地に進撃、歩二十一は小泉支隊(小泉策郎大佐)として第三師團の指揮下に編入され、24日、太平嶺付近で敵を撃破ののち、25日、師團に復帰、第一大隊が万福庄付近、7月4日、沙河嶺付近を攻略します。

9日、軍は蓋平付近に停止した敵を殲滅すべく、師團は軍最右翼に位置し北進、銃撃戦を開始、0500、歩二十一が正面の敵左翼に迂回攻撃した事で師團の攻撃は進展、0605、師團正面の敵は次第に銃砲火が衰えたため、突撃に転移し蓋平を攻略します。

23日、師團は歩十一、歩四十一第三大隊を左翼隊(歩九旅團長・山田保永少将)、歩二十一を右翼隊(歩二十一旅團長・塚本少将)、野戰砲五を砲兵隊、歩四十一、歩四十二を豫備隊、俣野支隊(歩四十二第三大隊)、騎兵五を騎兵隊に部署、軍最右翼として太平嶺・大石橋に北上を開始、24日、太平嶺の敵陣に攻撃を開始、敵の激烈な銃砲火に損害を出しながらも左翼隊は太平嶺西南高地に、右翼隊は望山口東北高地に進撃、2120、両隊は第一堡塁を攻略、左翼隊は第二、第三堡塁、右翼隊は同北方堡塁を攻略、0100~0300、太平嶺を攻略します。

6月20日、戦局の拡大に伴い滿洲軍總司令部(大山巌大将)が創設(23日、統帥発令)、24日、第四軍(野津道貫大将)が新設され、30日、第五師團は第十師團、後備歩兵第十旅團とともに同軍戦闘序列に隷属転移します。
第四軍は第十師團の任務を継承、第一・第二軍の中間に位置し状況に応じ、両軍それぞれに策応を任務とします。

7月29日、第二軍戦闘序列にあった第五師團は第十師團とともに柝木城付近に拠る敵1個師団を挟撃すべく揚厨溝南方高地に進撃、31日、師團は40度を超える猛暑のなか揚厨溝南方高地の敵陣を攻撃、8月1日、第四軍は柝木城一帯を攻略しますが、敵は既に退却しており、師團は揚厨溝北方高地に進撃します。

10日、師團は羅字堡子付近に集結、連日の豪雨のため出発は遅れ、26日、師團は歩四十一を先頭に羅字堡子を出発、海上-遼陽道東方を第十師團とともに北上し、27日0500、東菓子園付近の敵前進陣地を無抵抗で攻略、追撃を開始し、28日、山咀子西南高地に進出、滿洲軍は遼陽を包囲します。

30日、師團は歩四十一を右翼隊、歩二十一旅團、歩二十一、騎五を左翼隊、歩九旅團、歩十一、歩四十二を豫備隊に部署、0500、第二軍右翼の第三師團歩十八に連携して北大山の敵堡塁を攻撃、右翼隊は大窪高地の敵を撃破し高地一帯を攻略しますが、左翼隊は頑強な胸檣、鉄条網に阻まれ損害が増加したため一時攻撃を中止します。

31日、軍命令により歩四十二を第十師團の増援のため風水溝に派遣、第三師團歩六が北大山の攻撃に加入、左翼隊は右翼隊、砲兵隊の援助を得て攻撃を再開しますが戦線膠着が続くなか、友軍砲兵の砲撃効果大なるを確信した歩二十一聯隊長・小泉大佐は突撃前進を下令、第一・第二大隊は敵の激烈な銃砲火に第八中隊長・樋口千萬太大尉が散華するなど激戦ののち敵前400mの断崖を攻略、続いて磯島特務曹長以下決死隊27名が鉄条網の破壊に当たるも総員散華、9月1日0130、敵の退却に乗じ第三大隊は工兵作業班を先頭に向陽寺北方堡塁を攻略し敗敵を追撃します。

9月2日0920、師團は歩十一、工五第三中隊を右翼隊、歩四十一、工五第二中隊を左翼隊、歩二十一を豫備隊、歩四十二を両翼隊中間に機動させ遼陽城占領部隊に部署し遼陽城に進撃、3日0130、攻撃を下令、0500、野戰砲兵五は城壁南西、城内に砲撃を開始、両隊は敵堡塁に進撃します。
0530、右翼隊歩十一は敵堡塁200~500mに進撃しますが強固な防御陣地、鉄条網、鹿塞に阻まれ、遮蔽物も無く敵銃砲火により損害が増加、右翼隊長・石田中佐(歩九旅團長負傷のため代理)は歩四十二第二大隊を増加し敵堡塁10mまで接近しますが、敵の激烈な銃砲火を受け攻撃は頓挫してしまいます。

左翼隊歩四十一は第二・第三大隊を第一線として敵北方堡塁を攻撃しますが激烈な敵銃砲火、連携する両翼の歩十一、第三師團の進撃遅延に損害が増加するなか3度に及ぶ逆襲を撃退します。

2230、敵が退却を開始したため歩十一は前進、2330、敵堡塁を攻略、4日0200、歩四十二第一・第三大隊がそれぞれ西、南城門に突入し遼陽城を攻略します。

10日、滿洲軍總司令部は第四軍に「11日、前進発起までに五里台子付近の敵を駆逐、右旋回し柳匠屯に進撃」を下令、同夜、師團は遼陽城を出発、五里台子、東方北大山付近の敵を撃破し攻略、11日、北大山に進撃し小氾家屯北方高地を攻略、逆襲して来た敵を撃破します。

12日、師團は滿洲軍直轄となり、第四軍の左側背援護のため五里台子・北大山付近の守備に山田支隊(歩九旅團長・山田少将、歩四十一、野戰砲兵五、同十四第二大隊、騎五第三中隊(午後、支隊の砲兵援護のため歩十一第二大隊を追加))を残置、0630、周官屯南1.5kmに移駐、13日0830、山田支隊は砲兵を残置し歩兵の全力、歩四十一、歩十一第五・第六中隊により第三師團の攻撃援護のため紅宝山に進撃、激戦ののち、0320、敵の退却に伴い歩四十一第七中隊が紅宝山を攻略します。

13日1616、総司令官命令により師團は半粒山に移駐し第一軍の指揮下(総予備隊)に、山田支隊は全家窪子に移駐し滿洲軍總司令部直轄に、14日、支隊は第四軍指揮下に、15日、第二軍方面の敵情不安のため師團は第四軍に復帰、16日、五里台子付近に移駐します。

14日、山田支隊は第三師團の攻撃支援のため、同師團、第十師團の中間に進出、歩四十一は支隊前衛として第二大隊が萬寳山を攻略、16日、第一大隊は後備歩二十の攻撃を支援、同聯隊が魏家樓子を攻略し、敵を沙河右岸に駆逐します。
同日1840、我が防御線より突出した萬寳山に敵歩兵8個大隊が砲兵2個大隊の支援射撃のもと侵攻、1900、山田少将は第四軍の作戦計画に基づき戦線整理(第三・第十師團との連携)のため、聯隊に支隊司令部の位置する三道崗子に転進を下命します。
しかし敵の急速な浸透により離脱は困難な状況となり、敵2個中隊が柳半屯付近より迂回し聯隊患者集合所が急襲、後方連絡線が遮断され、山頂にあった聯隊・大隊本部は側背より攻撃を受けたため、聯隊長・鵜澤中佐は軍旗を奉送するとともに予備隊の第七・第九中隊を率い防戦しますが、敵弾を受け散華、山頂は陥落してしまいます。
第一線陣地の防衛にあたっていた第三大隊長・井上少佐は山頂が陥落した事を知り、第三・第十一・第十二中隊より各1個小隊を抽出、敵の銃砲火を突破し山頂に突撃し敵を撃退し奪還に成功、再び萬寳山の守備にあたりますが、2200、支隊命令により第一大隊・第十二中隊を後衛として転進を開始、17日0030、三道崗子に到着し、同地北方に陣地を構築、17日、黄花甸防衛のため范家屯に移駐し沙河左岸地区において冬営に入ります。

師團各隊は陣地に掩蓋、交通壕を設定し強化しますが、敵陣との距離は最低300m~最大1,800mと接近していたため敵は断続的に我が陣地を銃撃するなか、多数の補充兵が到着、実敵を目標に射撃、斥候、築城の訓練を実施します。

明治38(1905)年1月26日、滿洲軍總司令部は黒溝台付近に集結中の敵左翼、露第2軍(グリッペンベルグ大将))105,000に攻勢転移の公算大と判断、敵左翼攻撃を総予備の第八師團(立見尚文中将、弘前)に、第二・第五師團に増援(臨時立見軍を編成)を下命します。

26日、第八師團は南烟台付近を出発、敵左翼に攻撃を開始、2040、第五師團(木越安綱中将)は降雪のなか十里河を出発、27日、浪洞溝付近に急行し第八師團の右翼に進出、左翼の歩四十二は、姚坨子、右翼の歩四十一第一大隊(第二大隊も増加)は柳条口に攻撃を開始、大台付近に陣地占領した野戰砲兵五は攻撃支援射撃を実施、28日1030、柳条口、1500、姚坨子をそれぞれ攻略します。
また、摺澤支隊(歩九旅團長・摺澤静夫少将、歩十一)は第八師團指揮下に編入され黒溝台攻撃に加入、第四軍指揮下にあった村山支隊(歩二十一旅團長・村山邦彦少将、歩二十一)は野砲14門を擁する敵騎兵12個中隊を激戦ののち撃破し徐家窩棚を攻略、第四・第十一中隊は敗敵を追撃し江家窩棚を、28日、修二堡を攻略します。
29日、第八師團の攻撃により露第2軍は敗走、敵の攻勢企図を挫折させ、再び対峙状態に戻ります。

1月22日、滿洲軍總司令部は奉天方面の敵との決戦計画を立案、2月20日、各軍司令官に「沙河右岸の敵を撃破し奉天攻略、及び敵野戦軍の撃滅」を下達します。

2月20日、師團は第二軍(第四、第五、第八師團、騎兵第一旅團)の軍隊区分となり、第二軍は第四軍の左側に連携、林盛堡西南端以西に布陣、第三軍の左旋回の戦果を待ち、沈旦堡付近から来勝堡方面に攻撃前進を任務とします。
21日、師團長・木越中将は攻撃準備を下令、28日2230、総司令官・大山大将は3月1日を期して総攻撃を下令します。
師團は左側・第八師團、右側・第四師團の中間に配置、歩二十一第一大隊を右翼隊、歩二十一主力を中央隊、歩十一を左翼隊、野戰砲兵五、後備砲兵第四大隊を砲兵隊、歩四十一を豫備隊に部署、3月1日、柳条口を出発します。

中央隊、右翼隊は柳条口を出発、0730、砲兵部隊が砲撃を開始、0830、李家窩棚東南方の砂山を攻撃しますが、敵の重砲、機関銃掃射に歩二十一聯隊長・稲葉瀧三郎中佐以下233名が散華(3月4日、聯隊長・太田米丸中佐着任)する甚大な損害を受けるなか、1300、歩四十一の来援により、1900、砂山を攻略、2日、0730、李家窩棚、次いで張庄子を攻略します。

左翼隊は砲兵部隊の砲撃により敵砲撃が中断、歩十一第三大隊は突撃を開始しますが敵の激烈な銃砲火を受け、凍土により地面の掘削ができず第九中隊は殆ど玉砕するなど甚大な損害を受けるなか、歩四十一第三大隊が来援、2030、夜襲を敢行するも敵の逆襲により攻撃は頓挫してしまいます。
2日0300、右翼隊の攻撃が進展、敵銃砲撃が衰え退却を開始、0550、王家窩棚を攻略します。

師團は敗敵を追撃し周官堡、3日、大韓台、大庄河、4日、人仁堡、及び蘇湖堡を攻略ののち、渾川右岸に進撃、第八師團とともに奉天南西の沙陀子を攻撃、5日、歩十一が激戦ののち鉄道堤東側に進撃しますが、敵の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、7日、第八師團の進撃遅延により軍命令により師團は一時後退します。
8日、敵が退却を開始したため、歩四十一が西南部莫家堡を攻略、敵の総退却の兆候に前進を開始、右翼隊(摺沢少将、歩四十一基幹)、左翼隊(村山少将、歩四十二基幹)は下沙陀子に進撃しますが、敵の激烈な銃砲火に攻撃は遅滞、特に歩四十二の損害は甚大で、9日0900、敵の銃砲撃下、伝令が悉く散華したため自ら伝令として旅團司令部に赴いた歩四十二聯隊長・堀江不可止中佐も戦況報告ののち敵弾を受け散華、10日0400、敵が退却を開始したため、0600、歩四十一が下、上沙陀子を攻略します。

同日、第四師團により奉天城が攻略され、1130、第五師團は追撃に移行、奉天停車場、奉天西塔を経て奉天大北辺門に進撃し、戦力の回復にあたり、4月28日、師團は北上を開始、5月10日、昌図付近の警備にあたります。

27日、日本海海戦で聯合艦隊(東郷平八郎大将)がバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー中将)を撃滅、7月12日、第十三師團が樺太南部、30日、全島を攻略、8月末、韓國駐箚軍(長谷川好道大将)が元山付近まで侵攻していた露軍を撃破し朝鮮半島を勢力圏下に収めます。

9月1日、講和条約が締結され、6日、大本營より全軍に休戦が布告、16日、休戦協定が締結、10月16日、平和克服が令達され、師團は宿営地を出発、21日、鉄嶺より列車で移動、27日2030、復員下令、28日、大連を出港し、明治39(1906)年1月4日、宇品に上陸し広島に凱旋します。

明治40(1907)年9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』が改正され、歩兵第四十一聯隊は新設の第十七師團(一戸兵衛中将、岡山)隷下の歩兵第三十三旅團(林太郎少将、岡山)への転属、福山町への移駐が決定し、10月9日、隷属転移します。
歩兵第二十一聯隊は第十七師團隷下の歩兵第三十四旅團(渡邉祺十郎少将)への転属が決定、10月9日、歩兵第三十四旅團司令部が編成され、12月4日、歩兵第二十一聯隊は第五師團から隷属転移します。
代わりに歩兵第二十二聯隊(松山)が歩兵第九旅團に配属、11月1日、新編された歩兵第七十一聯隊(広島の歩四十一兵営跡)が歩兵第二十一旅團に配属されます。

明治40年10月9日、野戰砲兵第五聯隊は野砲兵第五聯隊に改称します。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第二十二聯隊(松山)
 歩兵第二十一旅團司令部(山口)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
  歩兵第七十一聯隊(広島)
 騎兵第五聯隊(広島)
 工兵第五大隊(広島)
 輜重兵第五大隊(広島)
 野砲兵第五聯隊(広島)

大正7(1918)年7月11日、富山県において米騒動が発生、全国に波及し第五師管内各地でも暴動が発生、8月13日0000、歩兵第十一聯隊第二大隊、騎兵第五聯隊、18日0500、歩兵第四十二聯隊第三大隊がそれぞれ県知事の要請で出動、16日1600、歩兵第二十二聯隊は示威行動により暴徒を牽制し暴動鎮圧に出動します。

大正3(1914)年7月24日に勃発した第一次大戦の最中、大正6(1917)年、ロシアにおいて革命が発生、11月9日、ソビエト社会主義ロシア共和国が成立し、ロシアは交戦していたドイツ、オーストリアと単独講和を締結し戦列より離脱してしまいます。
この講和により東部戦線のドイツ、オーストリア軍が西部戦線に転用される事が必定となり、英仏だけでは支える事が不可能なため、大正7(1918)年3月、連合国はウラル地方に新たな戦線を構成しドイツ、オーストリア軍を牽制し、両国に併合され出兵するもロシアに降伏し逆に両国軍と交戦していたチェコスロバキア軍を救出すべく我が国に出兵を要請します。
しかし、米国がウラル戦線の構成、我が国の出兵に反対したため、我が国も出兵要請を拒否します。

7月、排外主義を唱える共産パルチザン(以下「共匪」)によりシベリア地方が騒擾状態になり外国人襲撃事件が多発、孤立しているチェコ軍救出の人道的な見地から米国が我が国に出兵を要請、8月23日、政府は英米と国際共同歩調を採り、シベリア出兵に関する宣言を公布します。
8月2日、第十二師團(大井成元中将、小倉)、24日、第三師團(大庭二郎中将、名古屋)に動員下令(8月5日、浦塩派遣軍司令部(大谷喜久蔵大将)編成)、それぞれ沿海州、ザバイカル州方面、また滿洲(遼陽)駐箚中の第七師團(藤井幸槌中将、旭川)は満洲里の守備(第三師團の到着とともに任務を移譲し遼陽に帰還)、居留民保護にあたったため東三省(沿海、黒龍、ザバイカル)の治安は回復、チェコ軍を救出し、同軍は英仏軍とともにウラル山脈方面に進出、11月3日、オムスクに臨時全ロシア政府(コルチャーク政府)が成立しますが、黒龍各地に潜伏していた共匪も勢力を拡大、第十二、第三師團は討伐にあたります。

第三師團は第五師團と、第十二師團は第十四師團と交替が予定されますが、交替情報を偵知した共匪は破壊活動を活発化、度々ウスリー鉄道が破壊され、第十二師團の円滑な後送が危惧されたため、大正8(1919)年6月24日、第五師團に先遣隊(歩兵第九旅團長・緒方多賀雄少将:歩十一、歩二十二、騎五第二中隊、工五第一中隊)の臨時編成下令、7月1日、先遣隊は広島を出発、3日、宇品を出港、5~7日、ウラジオストクに上陸し、ウスリー鉄道沿線の共匪を討伐し警備にあたります。

8月2日、師團主力、10日、歩七十一に動員下令、13日、宇品(歩二十一旅團司令部、歩四十二は徳山)を出港、16~24日、ウラジオストクに上陸し先遣隊を掌握、歩二十二は浦塩派遣軍司令部直轄として残置し、9月13日、ザバイカル州に進出、師團司令部をチタ、隷下部隊を鉄道沿線に沿って配置、25日、第三師團より任務を継承し共匪の討伐にあたります。

10月下旬、西部戦線の形勢が不利となったコルチャーク政権は政府機関をイルクーツクに移転、同市にも共匪が接近、大正9(1920)年1月1日、コルチャーク政権の要請、政府の了承を得て(バイカル湖以西への進出を禁止していたため)、イルクーツク派遣隊(歩十一聯隊長・本庄大佐、同第三大隊、騎兵、山砲、工兵各1個小隊)は共匪接近の報に恐慌状態にあったイルクーツクに進出、同市に退去していた加藤恒忠駐露大使、オムスク特務機関長代理・福田大佐と連絡、治安を恢復するとともに守備にあたり、また本庄大佐はコルチャーク中将一行を迎えるため停車場西北高地の攻略を求めます。
しかし、すでに12月31日、反臨時政府はコルチャーク中将の辞職を要求、連合国軍もコルチャーク政府をイルクーツク地方政府に降格させ中立を保つ方針が固まっており、我軍の軍事行動は混乱を生じさせるとして、加藤大使、福田大佐により本庄大佐の意見は承認されず、15日、イルクーツク駅に逃れて来たコルチャーク中将、ペペリアエフ首相は同市にあったチェコ軍により反臨時政府に引き渡されます(2月7日、両名は銃殺)。
19日、派遣隊は原駐地に復帰します。

大正8年9月、コルチャーク政権崩壊に伴い、反共政権樹立が不可能になった事から、10月から大正9(1920)年8月にかけ米・英・仏・伊・支軍は逐次撤兵を開始したため、我が国は兵力増強のため、大正8年9月、第十三師團が派遣されます。
大正9(1920)年3月、チェコ軍の帰還がほぼ完了しますが、3月2日、政府は軍事的空白により共匪が直接朝鮮北境、吉林省東境及び満洲方面に侵攻するのを防ぐべく沿海州地方への駐兵継続を決定します。

大正9年3月8日、師團は西部共匪の東侵を防ぐべく軍命令によりチタに集結、聯隊は本庄支隊(第一大隊、山砲小隊、工兵小隊)としてモクソンに位置し、師團は4月6日より共匪に攻撃を開始、各地で敵を撃破、5月3日、追撃に移行し敵をヤブロノウイ山脈以西に撃退します。

大正8年9月以降、極東各地に台頭した共匪は当初は反目していたものの、大正9年4月、合併しチタに極東共和国を樹立、7月2日、東部ザバイカル、15日、西部戦線の停戦協定が成立、21日、師團はザバイカル州から転進を開始、チタに集結しウラジオストクに移動、8月下旬から9月上旬にかけウラジオストクを出港し広島に凱旋します。

大正9(1920)年9月、第十三師團に代わり第十一師團、大正10(1921)年4月、第九師團、大正11(1922)年5月、第八師團を派遣しますが、駐兵の意義は薄く、大正11(1922)年6月下旬、撤兵を決定、10月25日、完了します。

大正11(1922)年8月15日、『大正十一年軍備整備要領』により各歩兵聯隊の第四・第八・第十二中隊が復帰します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により、5月1日、第十七師團司令部、歩兵第三十四旅團司令部、及び歩兵第七十一聯隊は復帰、歩兵第二十二聯隊は再び第十一師團、歩兵第二十一、歩兵第四十一聯隊は第五師團隷下に隷属転移、歩二十一は歩兵第二十一旅團(山口)、歩四十一は歩兵第九旅團(広島)に配属されます。

昭和11(1936)年6月1日、輜重兵第五大隊、工兵第五大隊は聯隊に改編されます。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第四十一聯隊(福山)
 歩兵第二十一旅團司令部(山口)
  歩兵第二十一聯隊(浜田)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
 騎兵第五聯隊(広島)
 工兵第五聯隊(広島)
 輜重兵第五聯隊(広島)
 野砲兵第五聯隊(広島)

昭和3(1928)年4月、大陸において奉天軍閥(張作霖)が国民党革命軍(国府軍:蒋介石)と北京、天津付近で交戦、6月、国府軍に圧迫され形勢不利を悟った張作霖は満洲に撤退する途次、4日、奉天近郊で爆死します。
後継者の張学良は我が国を仇敵と曲解し敵視、12月29日、国府に帰順、満鉄(明治38年9月1日、ポーツマスの講和条約においてロシアより南満洲の権益を移譲され、明治39年11月26日に設立された南滿洲鐵道󠄁㈱が運営した鉄道)並行線の建設、国民外交協会を組織し排日騒擾、プロパガンダを扇動するなど反日政策を露骨に推進、昭和4(1929)年5月、共産党狩りに失敗したのちは我が国が認められた権益の侵奪を強化するとともに領内の日本人、朝鮮人の迫害、排斥、満鉄への資材提供妨害、軍への挑戦侮辱行為を開始、幣原内閣の宥和政策もあり一層過激化します。

南満州の権益保護を任務とする關東軍(菱刈隆大将、昭和6年8月1日から本庄繁大将)は東亜安定のため、また安全保障の観点、特にソ連による赤化、朝鮮侵攻阻止の拠点として騒擾の元凶たる奉天軍閥を満洲より排除し、各民族の自主的発展による共存共栄を計るべく、且つ作戦主任参謀・石原莞爾中佐の世界最終戦争の拠点としての国家戦略に基づき武力発動により満洲問題の根本解決を研究するなか、昭和6(1931)年6月27日、兵用地誌調査中の中村震太郎大尉が屯墾軍(張学良配下の関玉衛指揮)に殺害(中村大尉事件)され、7月2日、長春近郊において朝鮮人農民が支那人農民に襲撃(万宝山事件)されるなどし世論は実力行使を待望、破局が近い事を察知した高級参謀・板垣征四郎大佐、石原中佐は、8月17日、作戦の実行を決定、9月18日、奉天駅の北8㎞において満鉄線が爆破され柳条湖事件(滿洲事變)が発生します。

19日0600、獨立守備隊第二大隊(島本正中佐)が北大営(王以哲10,000)、20日0340、歩兵第二十九聯隊(平田幸弘大佐)が奉天を攻略、獨立守備隊第三大隊が営口、昌図、鳳凰城の張軍を武装解除、歩兵第三旅團(長谷部照俉少将)歩兵第四聯隊(大島陸太郎大佐)が長春郊外の南嶺砲兵営を攻略、第二師團(多聞二郎中将)が長春の守備にあたり、1100、歩四、獨立守備隊第一大隊(小河原浦治中佐)、騎兵第二聯隊(若松晴司中佐)が南嶺、1500、寛城子を攻略します。

参謀本部は事件の不拡大を令達しますが、張軍敗残兵が吉林に集結したため、吉林特務機関長・大迫通貞中佐、吉林日本人居留民会長より邦人保護の要請を受け、21日、第二師團は居留民保護、煕洽(吉林軍参謀長)の独立を援助すべく長春を出発、21日1700、敗残兵が四散したため師團は吉林に無血入城します。

10月2日、關東軍司令部は『満蒙問題解決案』を策定、東北4省(奉天、吉林、斉斉哈爾、熱河)、蒙古を領域とし清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀の復位、各種民族の楽土とする事を決定、10月4日、張学良政府の否認、新政権の承認を宣言します。

各地で敗退した張学良は熱河省錦州に遁走し満洲の擾乱を指揮したため、10月8日、關東軍は錦州の張政府、軍司令部、張軍拠点を爆撃、11月19日、第二師團が張軍の馬占山(12月8日、帰順する)を斉斉哈爾より駆逐、昭和7(1932)年1月2日、張学良は山海関内に逃走し師團は錦州を攻略し4省政府は全て我軍に帰順、2月4日、哈爾濱を包囲した反吉林軍(李杜、丁超、李振声)を撃破し、5日、哈爾濱に入城、市民40万人を救出します。
当初は關東軍の政略工作により開始された建国政策はこの頃になると満洲族自らの運動に発展、昭和7年2月5日、東北行政委員会(哈爾濱特別行政長官・張景恵以下7名)が組織され、3月1日、満洲国が建国され長春は新京に改称、9日、溥儀の執政就任式が挙行されます。
しかし、山海関以南に遁走した張学良を初め反吉林軍、4月7日に反乱した馬占山(反吉林軍の処遇を巡り關東軍と意見が対立)など兵匪22万が蟠踞、満洲国内の治安は不安定なため關東軍に加え新たに派遣された第八、第十、第十四師團により各地の兵匪討伐が実施され、昭和8(1933)年8月には兵匪は66,000まで減少し治安は恢復、昭和7(1932)年9月15日、『日満議定書』が締結され満洲国の日満共同防衛と我軍の駐留が認められます。

張学良は熱河省を中心になおも反日工作を継続、昭和8(1933)年2月23日、關東軍(第六、第八、第十師團)は張に寝返った湯玉麟を討伐し熱河省の治安を確固たるものにすべく熱河作戦を発動、3月4日、湯軍15,000を殲滅、長城の主要関門である古北口、喜峰口などを確保し省内の兵匪を討伐、16日、長城を攻略、平津地方に進出して来た蒋介石軍と交戦、5月31日、塘沽停戦協定が締結され事変は終結します。

満洲事変の最中、昭和6(1931)年11月8日、反日救国連合会の便衣兵2,100名が天津市内において暴動を画策、天津公安局の警戒により計画は頓挫しますが、錦州に拠る張学良が暴動を拡大すべく兵匪40,000を天津付近に集結させたため、26日、關東軍は張の拠点・錦州攻略を企図、12月17日、参謀本部は混成第八旅團の増援、及び天津守備のため第五師團に臨時派遣隊の編成を下令、歩四十一より聯隊長・波田重一大佐以下460名、歩四十二より徳永虎彦少佐以下449名、歩二十一より下士官兵402名、野砲五より若月金丸大尉以下394名、騎五より谷井貞雄中尉以下15名、電信第二聯隊より菅原次郎少尉以下78名、ほか各衛戍病院より軍医、衛生下士官兵2,000名が抽出され、21日、廣島東陸軍練兵場に集結、輸送船3隻に分乗し宇品港を出港、26日、塘沽に上陸、27日、天津に到着し居留民保護、鉄道沿線の警備にあたり、昭和7(1932)年7月13日、天津を出発、20日、宇品に上陸、21日、編成解除されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国は不拡大方針を堅持、和平解決にあたり、11日、停戦協定が成立しますが、支那第二九軍(宋哲元、4個師、2個旅、2個騎師、1個騎旅)、国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事的挑発行動は日増しに激化、13日、大紅門事件、25日、郎坊事件、26日、広安門事件が発生、21日に対日武力行使を決した蒋介石は我が国の要請を黙殺したため、27日、支那駐屯軍(香月清司中将)は武力行使を決定、28日、攻撃を開始、29日、通州事件が発生、天津の日本人租界が攻撃を受けるなか、31日、北京・天津を平定します。
さらに8月13日、支那第九集団軍(張治中)が上海海軍特別陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事変が勃発し日支全面交戦に発展します。

7月、支那第二九軍に中央直系一三軍(湯恩伯、2個師)が増援、さらに集団軍(溥作義、5個師)の北上に伴い、7月27日、第五師團(板垣征四郎中将)に第五動員一號(応急動員)下令、31日、動員完結、8月1日、歩九旅團司令部、歩十一ほか在広島部隊、歩四十一、2日、歩二十一旅團司令部、歩二十一、歩四十二は兵営を出発、広島に集結し宇品に移動、それぞれ1・2日、宇品を出港、釜山に上陸、5日、列車にて出発、9日、安東、11日、山海関を通過、12~14日、歩九旅團は北京西北40㎞の昌平、12~13日、歩二十一旅團は同30㎞の沙河鎮に集結します。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第四十一聯隊(福山)
 歩兵第二十一旅團司令部(山口)
  歩兵第二十一聯隊(浜田)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
 騎兵第五聯隊(広島)
 工兵第五聯隊(広島)
 輜重兵第五聯隊(広島)
 野砲兵第五聯隊(広島)
 第五師團通信隊(広島)
  〃 兵器勤務隊(広島)
  〃 衛生隊(広島)
  〃 第二野戰病院(広島)
  〃 第四野戰病院(広島)
  〃 経理勤務隊(広島)

13日、先着の歩四十一、歩四十二、18日、師團主力は作戦行動を発起、南口西北の敵陣攻撃中の獨立混成第十一旅團(鈴木重康少将)左翼に展開(右から歩四十二、歩四十一、歩十一、歩二十一は予備)、豪雨のなか急峻な地形を踏破、21日、歩四十二は1390高地南方において敵に包囲された獨立歩兵第二十一聯隊と連絡、続いて長城線突破の要点・突角部にある鉢巻山、さらに長城の大望楼高地(攻略後、山口山と呼称)を断崖絶壁を登攀、第二中隊長・松尾大尉が散華、第一大隊長・志鶴少佐、第六中隊長・上利大尉が相次いで負傷する激戦ののち、22日0220、同高地を、24日0230、第一中隊(丸谷大尉)が偽喚声による奇策を用いた夜襲により周辺の望楼6ヶ所を攻略します。

22、23日、師團主力は長城線の長峪城、鎮辺城に進出、歩二十一を歩十一の増援に、騎五、歩十一第五中隊を下馬嶺方面の敵3個師の警戒に配置、激戦ののち、1750、歩二十一第三中隊長・中島賢一少尉が将校斥候として敵背後に迂回、万里の長城に一番乗りを果たします。
24日、背後に迂回された敵は長城線全線に渡り敗走を開始、各聯隊は敗敵を追撃しつつ長城を突破、満洲國察哈爾省に入り、25日、歩十一は康荘に進撃し西進、歩二十一は達子営を攻略し、27日、本多利博少尉が懐米県城に無血一番乗りを果たし、28日、沙城堡を攻略、歩四十一は27日、懐米県城に、歩四十二は27日、水龍関を経て懐米県城に進出、同地付近の守備にあたります。

8月31日、師團は新設の北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入され、9月7日、支那山西軍(閻錫山)の根拠地・太原を攻略すべく騎五を先遣隊として主力は3縦隊となり進撃、9日、右縦隊の歩二十一旅團は化梢営で敵を撃破、桑乾河を渡河、11日、陽原を攻略、同日、騎五は蔚県に進出、14日、左縦隊の歩十一は第二中隊長・杉本五郎少佐が散華する激戦ののち蔚県南東の閣山山塊の敵陣を攻略、15日、歩二十一旅團は南徐堡の敵堅陣を激戦ののち攻略し渾源を攻略、16日、中縦隊の歩九旅團(歩四十一)が河北省淶源、17日、長城線上の浮図峪を攻略、南京攻略戦参加のため転進準備にあたり、師團主力は淶源に集結します。

9月18日、三浦支隊(歩二十一旅團長・三浦敏事少将、歩十一第一大隊、歩二十一第三大隊、歩四十二第二大隊)は広霊を出発し、20日、霊邱を攻略、22日、東河南鎮で敵を撃破、長城平荊関に進撃、地形を活用した堅陣に拠る支那一一五師(林彪)に攻撃を開始、歩二十一第三大隊が左方三角山を、歩十一第一大隊が右方一九三〇高地を攻撃、急峻な地形と敵の頑強な抵抗に大損害を受けながらも、23日、三角山、24日、第三中隊長・千田忠中尉が散華する激戦ののち一九三〇高地を攻略します。
25日、大損害を受けた歩二十一第三大隊は歩四十二第二大隊(支隊直轄の歩二十一第十一中隊を配属)と守備を交替し平荊関口において戦力整理にあたりますが、関溝村西方付近で霊邱へ負傷兵輸送にあたっていた第六兵站自動車隊(新庄淳中佐)、及び後方の補給にあたっていた歩二十一大行李、小行李が支隊左翼方面を迂回し後方に侵入した八路軍2個師(朱徳)の襲撃により玉砕、歩二十一第三大隊は関溝村の野戦病院に急行しますが大隊も既に敵包囲下にあったため、第十中隊を守備に残置、重囲を突破し支隊に復帰します。

26日、支隊は包囲され敵機の銃爆撃も加わり損害が増加、28日、歩二十一第十一中隊長・本村信夫少佐が散華、同日、歩二十一主力が北西の団城口、歩四十二主力が霊邱を経て支隊と連絡、29日、支隊は攻勢転移しますが、敵の堅陣、銃砲火により攻撃は遅滞、30日、察哈爾派遣兵團(關東軍参謀長・東條英機中将)混成第十五旅團が平荊関北西の長城茹越口を突破し繁峠に進撃したことから、30日、敵は後方連絡線遮断の危機を感じ退却を開始、支隊は大営鎮に進撃します。

9月28・29日、歩九旅團は淶源、浮図峪を出発、10月1日、内長城線の紫荊関を通過、2日、歩十一を易県に残置、旅團主力は保定平野に進出し敗敵を追撃しつつ南下、5日、定県において國崎支隊(歩九旅團長・國崎登少将、歩四十一、獨立山砲第三聯隊、工五1個中隊、師團通信隊1個小隊、師團衛生隊1/3、第四野戰病院、輜重五1個中隊)を編成します。

13日、支隊は列車にて北京、19日、塘沽に移駐、21日、乗船し、22日、出航、24日、朝鮮八口浦に上陸、25~31日、敵前上陸訓練を実施、11月2日、第四艦隊の護衛を受け、輸送船7隻に分乗し出航、5日0600、支隊は第十軍(柳川平助中将、第六、第十八、第百十四師團)先頭として上海杭州湾の金山衛付近に敵前上陸を敢行し、同地を奇襲攻略、歩四十一第三大隊を守備に残置(12日、金山で主力追及)し主力は北上、7日、金山、9・10日、松江県城において支那一〇八・一〇九師を撃破、12日、歩四十一第二大隊は上海方面に進撃し、北橋鎮において上海方面から潰走してきた支那軍を捕捉殲滅(19日、支隊主力に復帰)、21日、松江を出発、第六師團(谷壽夫中将、熊本)とともに太湖南側を西進、八里店において支那軍2個師を撃破、24日、歩百五十、歩百二十四とともに湖州を攻略します。

11月30日、支隊は広徳を攻略、12月2日、広徳を出発、3日、建平、7日、高淳を攻略、8日、南京からの敗敵の退路を遮断すべく対岸の浦口攻略を下命され、9日、獨工十一により石臼湖を渡河、太平に進撃、11日、彩石鎮において長江を渡河、12日、浦口に進撃し、13日、浦口を攻略、同日、中支那方面軍により南京が攻略されます。

昭和13(1938)年1月2日、支隊は南京を出発、5日、上海に上陸し輸送船にて、13日、青島に上陸集結、戦力回復、訓練にあたります。

昭和12(1937)年9月30日、師團主力は大営鎮に進出、10月2日、軍は師團に山西軍(閻錫山、3個師、直系系9個師、八路軍3万)の拠点・太原攻略を下令、3日、同地を出発、4日、混成第十五旅團(歩十五旅團長・篠原誠一郎少将、第二師團にて編成)を指揮下に編入、6日、代県に進撃、7日、萱島支隊(萱島高大佐、支那駐屯歩兵第二聯隊基幹)を指揮下に編入、10日、平地泉、12日、原平に進撃、13日の忻口鎮攻撃に備え攻撃準備位置に前進しますが、左翼隊左第一線の歩二十一第一大隊(山口巌少佐)が陣地化された下王庄部落に拠る敵2,000に前進阻止されます。

12日、大隊は攻撃前進しますが激烈な銃砲火、迫撃砲に損害が増加、14日、大隊の離脱援護に歩四十二第七中隊が来援するも敵の銃砲火に阻まれ離脱は頓挫してしまいます。
15日払暁、敵迫撃砲射撃の間隙を突いて大隊は前進しますが、またも激烈な銃砲火に第一大隊長・山口少佐が散華、16日、第三大隊が到着、野砲五、及び臨時航空兵團による直協攻撃が行われ、17日、漸く敵は退却、第一大隊は大隊長以下299名が散華(戦力は223名に)する大損害を受け、18日、聯隊主力を追及します。

13日、左翼隊の歩二十一主力(第二大隊のみ)は雲中河を渡河し、南懐化付近の無名高地に進撃するも激烈な銃砲火に苦戦、15日、中島山攻略中に歩二十一第二大隊長・中島徳夫少佐が散華するなど甚大な損害を受けながらも俗村望楼高地を攻略、また右翼隊の歩四十二は雲中河を渡河し、1017高地-志鶴山の無名高地に進撃、敵第一線を突破し第二線に進撃しますが激烈な銃砲火、敵機の銃爆撃に苦戦、15日、第一大隊が志鶴山、丸谷山の一角、17日、行本山を攻略、連日連夜敵の逆襲を撃退しますが聯隊の損害は甚大で両翼ともに進撃は停滞してしまいます。

18日、歩二十一第一・第三大隊、師團左翼に歩十一主力(歩九旅團から易県付近で分離急進)が到着、24日、師團指揮下(10月7日から)にあった萱島支隊(萱島高大佐、支那駐屯歩兵第二聯隊基幹)が戦闘に加入、30日、歩十一は敵の弛緩時点を戦機として総攻撃を敢行し相当な戦果を挙げ、11月1日、歩二十一が廟高地、2日、萱島支隊が軍艦山を攻略、2日、歩四十二正面の敵陣まで工兵が坑道を掘削し敵陣を爆破、同日、敵が退却を開始、3日、師團は遂に忻口鎮陣地を攻略します。

5日、師團は太原北方6㎞の新店府に進撃、6日、歩十一が太原飛行場を攻略、降伏勧告を行うも敵は拒否してきたため、8日0700、師團は南方に展開した第二十師團とともに砲兵、直協機によるよる砲爆撃ののち、太原城に総攻撃を決行、1600、破壊孔から城内に突入、9日、城内を掃討、10日、入城式を挙行、守備にあたるとともに住民を雇用し街の復興を行います。

11月17~20日、師團は太原警備を第二十師團に移譲、太原を出発、雪中行軍で西進し寿用-平定-内長城娘子関を経由、12月1~5日、石家荘に到着、列車により、2日、保定に到着、師團司令部を保定、歩十一を正定、歩兵第二十一旅團を保定に配置し警備にあたります。

方面軍は長期持久大勢の確率のため師團に青島攻略を内示、12月21日、師團先遣隊として歩十一は正定を列車で出発、津浦線にて天津を経由し浦口を南下、徳県(済南北東130㎞)で下車、東方に迂回し175㎞を踏破、31日、黄河北岸で野営、昭和13(1938)年1月1日、黄河仮橋を渡り、2日、鯉城支隊として東進、7日、周村(済南東方75㎞)から3列縦隊になり中央の膠済沿線を聯隊主力、北側を第一大隊、南側を第三大隊が進撃、遭遇する敵を撃破しつつ東進、14日、濰県(済南東方190㎞)に進撃、19日、10日に第一聯合特別陸戰隊、横須賀鎭守府第一特別陸戰隊、佐世保鎭守府第五特別陸戰隊が攻略した青島に到着し陸海軍の連絡を完遂します。

昭和13年1月4日、師團は第二軍戦闘序列に隷属転移、8日、歩二十一が保定を出発、9日、軍は青島攻略を下令、12日、師團主力は保定を出発、13日、國崎支隊が、20日、歩二十一が青島に到着、28日、歩四十二が保定を出発、済南に到着、師團は膠済沿線に添って青島-済南間の警備にあたります。

第二軍は正面の敵10個師のうち5個師が3月を期し津浦線方面より第十師團(第五師團の南側を警備)方面に侵攻企図ありと偵知、敵の機先を制し侵攻企図を挫折させるべく、2月17日、第五師團に沂州攻撃と第十師團の援護、3月13日、第十師團に大運河以西の敵撃破を下令します。

2月17日、師團は歩二十一より片野支隊(聯隊長・片野定見大佐、第二大隊、第四・第十・第九中隊の1個小隊欠、獨立山砲第三大隊1個中隊、獨立機關銃第六大隊、工五1個小隊)を編成、19日、支隊は第一大隊を先遣隊として濰県を出発、20日、招賢鎮を攻略(第二大隊長・竹之内少佐散華)、23日、莒県を攻略、同日、支隊は坂本支隊(歩二十一旅團長・坂本順少将、歩十一(第一・第三大隊)、歩四十二第二大隊、野砲五2個大隊)に編入され西南進、27日、夏庄で敵を撃破、3月5日、湯頭鎮を攻略、さらに西進しますが、支那第五九軍(張自忠、第三八師、第一八〇師20,000)は逐次増強され拠点部落に拠り頑強に抵抗、敵の浸透に各部隊は建制が崩れ分散し平地に孤立したため湯頭鎮に反転集結します。

3月20日、支隊は攻勢転移、拠点部落を攻略しつつ前進、21日、湯頭鎮において歩四十二第三大隊が支隊に合流、26日、沂州攻撃の要所・義堂、艾山に進出(師團司令部は3月31日、湯頭鎮に進出)、27日、攻撃開始直前、軍は師團に沂州南西の台児荘で苦戦中の第十師團瀬谷支隊(瀬谷啓少将、歩三十三旅團)救援を下令、坂本支隊(30日、歩二十一第一大隊は中間の向城の守備に残置)は、4月2日、台児荘に進撃しますが、5日、通信混乱により師團命令を「沂州再攻撃」と誤認し坂本支隊は転進、6日、師團命令に不明確な箇所があったため、支隊は台児荘に再転進しますが、坂本支隊の転進に独力での継戦は不可能と判断した瀬谷支隊も離脱北上してしまったため、9日、坂本支隊は敵の追撃を受けつつ郭里集に集結します(支隊は8日、第十師團指揮下に編入)。

3月31日、騎五300名が向城南方の金庄付近で敵2,000に包囲され苦戦、軍旗奉焼を決意したところ、4月1日、向城を出発した歩二十一第一大隊と連絡、3日、敵の重囲を突破し向城に帰還しますが、4日、向城は敵2個師に包囲されてしまいます。
5日頃から糧食が欠乏、11日、敵は攻勢を開始して来ますが、守備隊は度々撃退、14日、歩四十一第一大隊の一部が敵重囲を突破し糧食、弾薬を搬送、負傷者を搬出、16日、敵は再び攻勢を開始、3度に渡り来襲して来ますが臨時航空兵團の直協機の重爆撃の支援を受け撃退、18日、坂本支隊が郭里集を出発、19日、向城に到着、敵は撤退します。

4月7日、大本營は中支那派遣軍(畑俊六大将)、北支那方面軍(寺内壽一大将)に徐州に集結中の支那第五戦区軍、第二〇軍(計50個師)を包囲殲滅すべく徐州會戰を下令(第五、第十師團は支那軍牽制のため5月7日に下令)、14日、歩十一第二大隊は郭里集で、歩四十二第一大隊は義堂集で聯隊に復帰、同日、師團は國崎支隊(歩九旅團長・國崎登少将、歩四十一(左翼)、歩四十二(右翼)、野砲五第二・第三大隊、獨山機關銃第六大隊、野戰重砲兵第六聯隊、工五第二中隊)を編成、16日、攻撃前進を開始、敵陣は横幅が広く兵力が分散し苦戦するも、19日、歩四十一第二大隊が城壁破壊孔より城内に突入、沂州城を攻略します。

20日、支隊右縦隊の歩四十二第一大隊、21日、歩四十二第三大隊が聯隊に復帰、22日、支隊主力が沂州城を出発、24日、歩四十二が郯城、左縦隊の歩四十一が馬頭鎮を攻略、25日、支隊は馬頭鎮に集結、26日、支隊は進撃を開始、左縦隊歩四十一は、27日、捷庄に前進、28日、徐州の前進拠点・北労溝の敵陣を北側から攻撃しますが、優勢な装備を有する支那第二八、一五〇師の銃砲火に損害が増加、29日、北労溝も一角を攻略するも弾薬欠乏、支那第九二師が聯隊背後に侵入したため支隊との連絡も途絶、さらに四九師が来援し支隊は包囲されてしまいます。
聯隊は支隊命令により長光光起中尉以下30名を残留隊として聯隊主力は蘇曹庄に転進、5月2日、第五中隊が残留隊を救出し、支隊司令部所在の大王庄に転進、戦線を整理し支那軍包囲下、蘇曹庄の防衛にあたります。

また右縦隊の歩四十二は、26日、蘇曹庄を攻略、北労溝の支那二八師の敵陣を西側から攻撃すべく第三大隊が劉庄、第一大隊がその西の袁庄(ともに第一八〇師、第三九師補充団)を攻撃しますが、第三大隊は遮蔽物の無い麦畑で敵の激烈な銃砲火により進撃は停滞、第一大隊は敵陣の一角に進撃し城壁に迫りますが、敵の三角陣地による十字砲火、さらに敵増援に挟撃され損害が増加、城壁に達し、また第二大隊も来援しますが、民家を巧妙に利用した敵の銃砲火に攻撃は頓挫してしまいます。
30日、聯隊長・大場四平大佐は戦線整理のため後方の馮家窟に各大隊を集結させますが、敵は聯隊を包囲、さらに大王庄北側に支那第九二師が侵入し後方連絡線が遮断されたため、工五が重坊付近の沂河に架橋、侵攻して来た敵を第四中隊が撃退し連絡線が開通、7日、直協機7機が敵陣地を爆撃し重砲を破壊、聯隊は支那軍包囲下馮家窟の防衛にあたります。

5月10日、支隊左翼に第十六師團片桐支隊(歩九聯隊長・片桐護郎大佐、聯隊基幹)が進撃し、支那軍を逆包囲する態勢になり、支隊は攻勢転移、大王庄北方の敵、次いで歩四十一が右180°旋回南進し狼子湖、大阜の敵を撃破し、11日、北労溝へ、歩四十二は南下し直接北労溝へ進撃、13日、敵銃砲火に苦戦しつつ、4回目の攻撃で第一大隊が北労溝を攻略、第二八師を敗走させ、15日、支隊は敵が退却した南労溝を攻略し敗走する敵を追撃し砲車に進撃します。

4月20日、向城を出発した坂本支隊(歩十一を左追撃隊、歩二十一を右追撃隊)は國崎支隊東側に進出、21日、歩十一第一大隊が四戸鎮を攻略し、25日、激戦ののち連防山一帯の敵陣を攻略、歩二十一は艾山、長山付近の敵陣に進撃しますが、敵の激烈な銃砲撃に大損害を受け攻撃は遅滞、5月15日、國崎支隊の進撃に動揺した敵を撃破、邳県に進出します。

5月17日、師團は大運河の渡河準備を実施、18日、敵銃砲火のなか工五は折畳舟、浮嚢舟、軽徒橋、重門橋により渡河を支援し大運河の渡河に成功、同日、師團は歩四十二第三大隊を基幹として鈴木快速部隊(第三大隊長・鈴木茂一郎少佐、自動貨車60台、支那駐屯兵團戰車隊、獨立軽装甲車第十二中隊、野砲五第五中隊、師團無線1個分隊)を編成、1730、部隊は師團先遣隊として大運河を出発、大王庄付近で敗走する支那第四九師に遭遇し始め多数の鹵獲品を獲得、同地で海軍機の誤爆により21名が散華してしまう悲運に遭いながらも進撃を続け、5月20日、伊集において星出武平軍曹が敵第二二軍長・譚道源中将を討ち、第二二副師長・易弐谷少将ほか幹部多数を捕縛、19日0910、第十三師團(萩州立兵中将、仙台)が徐州城を攻略しますが、支那軍は15日、徐州放棄を決し我軍の間隙をついて漢口方面に撤退、部隊は敗走する敵を撃破しつつ21日、宿県に進出、上海より北上して来た第三師團と連絡します。

師團は渡河後、西岸の敵第一線陣地を攻略、19日0910、古城巣に進撃、宿県の東北に向け敗敵を追撃、24日、快速部隊は師團に復帰、津浦沿線の警備にあたります。

6月1日、師團は乙防衛地区兵団として師團司令部を徐州に設置、徐州-符離集間、褚蘭付近の警備にあたり、22日、山東省西部に潜伏する支那軍を粛清すべく、軍は魯西作戦を発動、歩兵第九旅團(歩十一、歩四十一)は列車にて碭山に進出し、25日、敵の掃討を開始、多数の弾薬を鹵獲、7月15日、帰還します。

7月7日、第二軍の中支方面移駐に伴い師團は北支那方面軍戦闘序列に隷属転移、第二軍作戦地域を方面軍直轄管区としたため、第五師團長・安藤利吉中将は第百十四師團、獨立混成第五旅團を併せて指揮し、引き続き乙防衛地区の防衛を担当します。

8月24日、師團は次期広東作戦(敵軍需物資の補給路遮断を企図)準備のため、青島に集結を下令され、27日、師團は輸送を開始、9月13日、第二十一師團に任務を移譲し青島に移駐、上陸演習を実施します。
※敵は第四戦区軍13個師、11万と判断。

19日、第五師團は第十八(久納誠一中将、久留米)、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)、第四飛行團(藤田朋少将、飛行第六十四、三十一戰隊)とともに新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移し、24日、師團は先遣隊の及川支隊(歩第九旅團長・及川源七少将、歩十一、獨立装甲車第五十二中隊、獨立山砲兵第十聯隊第一大隊、工五第一中隊、獨立工兵第十五聯隊)を編成、30日、支隊は輸送船8隻に分乗、10月1日、青島大港より、9月29日~10月1日、第百四師團が大連、9月30日~10月3日、第十八師團はそれぞれ上海を出港します。

10月4日、第二十一軍は作戦命令を下令、5日、支隊、7日、各師團は馬公に集結、9日1400、第一次上陸部隊は輸送船93隻に分乗し馬公を出港、11日、バイアス湾の泊地に進入、12日0330、バイアス湾正面右側塩灶背に支隊右翼の歩十一主力が、海魚拗に左翼の同第三大隊が、中央の下涌圩-岩前港に第十八師團が無血上陸、0430、湾東側の平海半島に第百四師團が上陸を開始します。
支隊は第一大隊(沖作蔵少佐)を先頭に軍主力の上陸援護をすべく、15日、東江東岸の横瀝墟に達し東江を渡河、23日、マラリアの蔓延に苦闘しつつ300㎞を踏破し従化(広東北北東55㎞)に進撃、同日、第十八師團は恵州、21日、広東を攻略、11月1日、支隊は広東に到着します。

10月13日、師團主力、歩四十一は青島を出港、18日、バイアス湾に到着、22日、第二次上陸部隊として大西水道で舟艇に移乗、潭州水道に進出、23日、師團予備の第三大隊は虎門要塞対岸の大角頭島に上陸し掃討を実施後、聯隊に復帰、26日、聯隊は三水を攻略し守備、匪賊討伐にあたります。

10月15日、歩二十一は青島を出港、23日、漁船に移乗し潭州水道を遡航、触雷により損害が出るも、25日、石湾の敵を撃破、26日、仏山を攻略し、同地の警備にあたります。

10月14日、歩四十二は青島を出港、19日、虎門要塞沖に達し周辺を偵察、22日、潭州水道に進入、第一、第二大隊は工五(和田孝次大佐)の指揮下に編入され、23日、大角砲台を攻略し聯隊主力を追及し仏山に集結します。

師團は仏山、三水を中心に警備にあたり、12月1日、第十二軍(尾高龜造中将)戦闘序列に隷属転移、第四十八師團に守備を移譲、12日、仏山、三水を出発、15~17日、広東に集結、輸送船に乗船し広東を出航、23日、青島に上陸、警備にあたります。

昭和14(1939)年1月15日、師團は山田支隊(野砲五聯隊長・山田清一大佐、野砲五、歩四十二第一・第三大隊)を編成、支隊は獨立混成第五旅團(山田清一大佐※同姓同名別人)の指揮下に編入され、列車にて青島を出発、歩四十二第一大隊は青州、支隊主力は辛店に集結し2縦隊になり北上、22日、それぞれ寿光、広饒に進撃し付近を掃討、23日、羊角溝を攻略し警備にあたります。

1月20日、軍は魯北道粛清作戰を発動、師團は及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩四十一、歩十一一部、騎五、野砲五1個大隊)を編成、支隊は第百十四師團に配属され津浦線より東進、支隊は3縦隊となり支那軍を撃破しつつ、27日、商河に進出、1月下旬より武定、商河、徳平、利津付近に分駐し警備、匪賊討伐にあたります。

2月25日、軍は蘇北作戦を発動、25日・27日、歩二十一、歩十一第二大隊は作戦の一環である海州作戦に参加すべく青島を出港、海州を南方より包囲すべく黄海沿岸を南下、灌河を遡航し、3月1日、响水口鎮に上陸、2日、新安鎮、4日、灌雲、5日、新浦鎮を進撃、6日、海州城入城式に参加ののち、7日、海州南方の阜寧に分散配備し警備にあたります。
10日、歩二十一第二・第三大隊、歩十一第二大隊、同第二機関銃中隊は海州西南の房山鎮に拠る支那五七軍の残党を撃破、13日、湯澗において敵の逆襲に苦戦するも包囲殲滅、14日、海州を出発し灌雲に移駐し警備にあたります。

2月中旬、支那第五一軍(于学忠)が安徽省潁州を出発、3月上旬、宿県東南方において第二十一師團と交戦しつつ北東進していたため、軍は警備地区接近を待ち同軍を捕捉殲滅すべく于学忠討伐作戦を発動します。
3月24日、歩十一(第二大隊欠)は野砲五第三大隊、工五第一中隊、輜重五1個小隊を配属され山県支隊(聯隊長・山県栗花生大佐)を編成、26日、徐州に進出、第三大隊を高見支隊(山砲五十一)に配属、28日、支隊は大李集に前進、29日、同地を出発、敵を索敵しますが捕捉できず、4月9日、徐州に帰還します。
4月7日、聯隊は徐州を出発、新安鎮に進出、再度敵を索敵進撃しますが開封方面の敵に攻勢企図を偵知したため急遽、徐州に帰還、16日、開封に移駐、第三大隊を守備に残置し、21日、帰徳(開封東方15㎞)に集結、26日、第一・第三・第七・第一機關銃中隊(長尾昇大尉)を毫県に配置(27日、第三大隊進出)、5月上旬、青島に帰還します。
5月3日、第二大隊、第十中隊は青島を出発、青島東北40㎞の(山労)山、王哥庄周辺を討伐、26日、第五中隊を残置し青島に帰還します。

于学忠討伐作戦により四散した支那軍は于が魯蘇戦区司令官に就任するとともに逐次魯南各地に集結、陝西省、山西省を根拠としていた共産軍も東進し策応、我軍の駐留がない諸城、嶧県、沂州など、また山東省東部に侵入し拠点を形成、済南、安邱を襲撃し鉄道破壊、治安擾乱を策謀したため、これら支那軍を殲滅、治安を確保すべく、6月4日、軍は魯南作戰(き號作戰)を発動、師團は高密、坊子付近から南下し、支那軍を撃破しつつ沂水、莒県、日照に進撃し警備にあたり、8月上旬、師團は青島に帰還します。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で満洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、9月4日、師團のノモンハン事件への応急派兵が決定、連雲、青島への集結が下令され、5日、第五師團は關東軍司令官指揮下に編入、9日、歩十一、工五が青島を出港し、10日、大連に上陸(14日、昂々渓に到着)、11日、師團先遣隊の歩二十一、歩四十二第三大隊がそれぞれ連雲、青島を出港、13日、大連に上陸、聯京線で、15日、斉斉哈爾に、歩九旅團は同地南方に到着しますが、9月15日、停戦協定が成立したため斉斉哈爾に駐留します(17日、歩四十二主力が青島を出港、18日、大連に上陸)。
10月16日、第五師團は臺灣混成旅團(塩澤定市少将)とともに第二十一軍(安藤利吉中将)戦闘序列に隷属転移し、南寧作戦(援蒋ルート(月量4~6,000tで全量の1/3)遮断)を下令され、24日、斉斉哈爾を出発、26日、旅順に集結、山岳戦の演習を実施します。
※敵は広西軍4個師、及び保団、自衛団4~5万と判断。

10月27日~11月3日、師團は大連、旅順を出港、30~2日、宇品に寄港し物資を積載し、31日~11月2日、出航、11月8日、海南島三亜に入港、上陸訓練を実施、13日、第五艦隊の護衛のもと三亜を出航します。

11月15日0330、及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩四十一基幹)は欽州湾に敵前上陸を敢行、1500、龍門支隊(歩十一聯隊長・山県大佐、第二大隊基幹)は龍門島に上陸し師團主力の上陸援護にあたり、及川支隊は支那軍の小部隊を撃破しつつ泥濘を踏破し西北進、16日、歩四十一第二大隊(友野幾久治少佐)が坊城を攻略します。

11月16日、中村支隊(歩二十一旅團長・中村正雄少将、歩二十一、歩四十二(11月18日、師團予備に))は欽県金鶏塘に上陸、17日、先遣の歩二十一第六中隊が貴台圩東北の敵100を撃破、19日、大唐城付近の仏子溢南側に集結し周辺の敵を撃破します。

16日、臺灣混成旅團が欽県を攻略、及川支隊は師團主力とともに漁洪江を遡航し、欽寧公路付近に上陸、支那軍により破壊された公路を進み山岳地帯に入り険峻な地形、糧食の欠乏に苦闘しつつ、19日、大唐城付近に集結、23日、航空機の援護のもと師團主力、及川支隊は南西、中村支隊は東、及び南から南寧河を渡河し支那軍を撃破、24日1030、中村支隊の歩二十一第四中隊が支那軍4,000の守備する南寧城に突入し、同城を攻略、第二十一軍は第五師團と臺灣混成旅團により欽寧兵團(兵團長は第五師團長・今村均中将が兼務)を編成し、27日、兵團は南寧東方地区(周辺に支那第一三一・一三五・一七〇・一八八師、新編第三師等が布陣)の残敵掃討、道路補修にあたります。

師團は26日まで残敵の掃討を実施の後、騎五、歩二十一第三大隊を八塘北側地区、歩四十二第二大隊を四塘付近、歩四十一第二大隊を城北大高峰隘正面に配置し北方の支那軍に備え、東側地区警備隊(長・歩二十一旅團長)、西側同(長・歩九旅團長)、海岸地区(及び欽寧公路補修)に臺灣混成旅團を配置、29日、入城式を挙行します。

30日、支那軍新編第三師が大高峰隘に侵攻してきますが歩四十一第二大隊が侵攻を拒止、12月1日、歩四十一主力及び歩四十二(歩九旅團長・及川少将指揮)が左右より迂回し敵を包囲し撃退し、守備を歩四十一第三大隊と交替します。

12月2日、戦車4両、火砲5、6門を擁した支那第八〇一師、第二〇〇師2,000が八塘北側(歩二十一第三大隊守備)に侵攻、同日夕、歩二十一旅團(左翼・歩二十一、中央・騎五、右翼・歩四十二第一・第三大隊)は南寧を出発、敵を撃破しつつ賓寧公路を北上、4日、九塘北方高地に進撃、5日、歩四十二第二大隊が聯隊を追及し崑崙関北方高地を占領確保、同第三大隊が七塘で支那軍を撃破します。

15日、師團は及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩十一、歩四十一第一大隊、迫撃第三大隊1個中隊、工五第二中隊、兵站自動車第百七十四中隊、車両95台)を編成し、龍州-鎮南関(南寧西南190km)の要所を急襲攻略し、敵軍需物資の獲得と補給路の破壊を企図し龍州作戰を発動、17日、歩十一第一大隊を先遣隊(聯隊長・山県大佐指揮)として東門墟から進撃を開始、険峻な地形、橋梁の補修に行軍が遅滞するも、18日、綏淥を通過、道路破壊状況、悪路からこれ以上の自動車走行は不可能なため徒歩行軍となり進撃、20日、那堪付近、白馬塘、下石街東方にて敵を撃破、明江付近において師團長・今村均中将より南寧東方地区に優勢な支那軍侵攻による危機的状況を受信したため、21日、第二梯團の歩十一第三大隊を反転させ、支隊主力は龍州に急進し、22・23日、敵軍需物資(自動車100、同タイヤ100、ガソリン・重油220万L、電気銅・鉄棒2,000本、鉛180t、錫6.8t、タングステン1t、小銃359、機關銃71)を押収しますが後送の手段が無いため処分、聯隊主力は南下し鎮南関付近の橋梁を破壊、24日、反転を開始します。

21日、反転を開始した歩十一第三大隊(大隊長・牟田中佐病気療養中のため速射砲中隊長・伊藤敏大尉代理、兵站自動車第百七十四中隊、工五1個小隊、自動車105両、戦闘員575名、非戦闘員219名)は、22日0700、呆霊墟において敵警戒陣地を撃破、2020、西長墟西方4㎞において支那第一三一師6,000の陣地に遭遇、夜襲により本道突破を図りますが、右側の望楼高地に拠る敵の銃砲火、手榴弾投擲に通過は阻まれ、突撃正面は狭隘なため高地の攻略も頓挫、さらに敵は大隊左翼に迂回し包囲にかかります。
23日、敵の銃砲火、攻撃に大隊の攻撃は停滞、1620、海軍機が望楼高地を爆撃したことにより、1730、高地東端を攻略、1830、左翼から我が自動車集結地に侵攻した敵500を工兵が爆薬投擲により撃退します。
24日、敵は包囲環を狭め始めたため、伊藤大尉は夜間は敵の接近を許しやすく自動車の損害が多数予測され、道路障害の排除、補修、抜け道偵知が困難、航空支援が不可能な事から最悪大隊は玉砕しても死傷者を乗せた自動貨車15両だけでも離脱させるべく海軍機援護の元、昼間突破を決心、1500、離脱準備を完了、1520、海軍機7機が爆撃を開始、大隊は前進を開始、望楼高地よりの銃砲火を突破、前線で戦闘指導にあたっていた大隊副官・新田春人中尉が散華するも敵を撃破しつつ、1900、離脱に成功、26日、師團長・今村中将に迎えられ南寧に帰還します。

27日、歩十一(第三大隊欠)は山墟において支那第一八八師の一部500に要撃されますが、大隊砲により城門を破壊、城内に突入し掃討、続いて同地西方3㎞において地形を利用した同師主力の堅陣に遭遇、錯雑な地形、敵の迫撃砲に進撃は遅滞、28日、及川少将は右翼に歩四十一第一大隊を増援、夜襲を敢行するも敵の激烈な銃砲火に頓挫したため、聯隊長・山県大佐は聯隊砲中隊、迫撃砲中隊を前線に推進、火力集中により敵は潰走、さらに蘇墟付近の高地に拠る敵を撃破、蘇大方面に追撃し焼山を攻略、29日、支隊は蘇墟に集結、兵站自動車第百七十四中隊の自動車に分乗し南寧に帰還します。

12月17日、南寧奪還を企図し来襲した支那軍29万(陳誠、第二六集団軍(白崇禧)9個師、三八集団軍(陳直卒)8個師、一五集団軍(張発奎)4個師、李宗仁軍3個師)が南寧北側の崑崙関-九塘方面から侵攻、同地守備の歩四十二第二大隊は敵大部隊に浸透され包囲孤立、18日、救援に出撃した歩二十一も九塘北西で包囲、20日、さらに南寧を出撃した歩二十一旅團(歩四十二基幹)は敵を撃破しつつ八塘に進撃するも、24日、敵状視察中の旅團長・中村正雄少将が腹部に敵弾を受け重傷を負い後送ののち、25日、散華、17日及び20日、臺灣混成旅團(塩田定市少将、臺灣歩兵第一・第二聯隊)の救援も敵に阻まれ奏功しませんでした。

12月18日、歩四十一聯隊長・能見敏郎大佐は第三大隊守備の大高峰隘に侵攻してきた2個師を撃破すべく、師團長・今村中将の了解を得て師團予備の第二大隊から2個中隊を抽出し出撃、敵背後に左迂回し、18日、敵20,000を奇襲、敵は大混乱に陥り相撃ののち武鳴方面に潰走、事後敵は同地への積極攻勢をしませんでした。

機関銃、迫撃砲を多数装備、瓦斯弾を使用する敵の包囲に各隊が各地で包囲孤立、弾薬、糧食も欠乏する状況に、25日、師團長・今村中将は及川支隊を直卒、総攻撃を決心しますが、31日、作戦指導のため飛行機で来着した第二十一軍参謀長・根本博少将に第五師團の玉砕は翁英作戦中の軍主力が挟撃される事を意味し、むしろ敵大部隊殲滅の戦機とし、戦線の縮小と1ヶ月間の持久、敵牽制を説得され中止、第一線の作戦指導は一任されます。

12月29日、南寧に帰着した及川支隊は歩十一(第七、第九、第十、第十二中隊欠)、歩四十一(第二大隊の大分欠)、迫撃第三大隊(2個中隊欠)に改編、及川少将は今村中将より所在全部隊の指揮を下命され、昭和15(1940)年1月1日、自動貨車100両で北進、0830、七塘にて臺灣歩一聯隊長・林義秀大佐より戦況報告を受け、1200、八塘に進出し臺灣歩二(渡邊信吉大佐)と連絡、3日、戦線整理・防御陣地築城のため八塘付近の山地稜線に全部隊の集結を下命、4日0430、歩四十二第二大隊、0600、歩二十一主力、1200、歩四十二主力は敵の妨害を受ける事なく八塘に転進集結、敵は相撃を開始、支隊司令部、歩四十二第二大隊を支隊予備として古寨、歩二十一、歩四十二主力を古寨-山心(八塘南方1~2.5㎞)間に配置堅守し持久態勢を採ります。

昭和15年1月13日、第二十一軍主力(安藤利吉中将直卒、第十八師團、近衛混成旅團30,000)が欽州湾に上陸、25日、南寧に前進し、28日、軍は賓陽作戦を発動、欽寧兵團は攻勢転移、敗走する支那軍を追撃を開始します。
第十八師團は軍最右翼として永淳(南寧東方60㎞)付近から敵の左翼に迂回、近衞混成旅團は右翼として七塘西方より公路東側を北上、第五師團は公路沿道をそれぞれ賓陽へ、臺灣混成旅團は軍左翼として第五師團左側を北上し賓陽南方で左旋し武鳴に進撃します。

1月29日、師團は右翼に歩九旅團、左翼に歩二十一旅團を部署、公路沿道を進撃し、29日、歩二十一が馬鞍山、31日、歩十一が八塘西方高地、2月3日、歩四十一が崑崙関を奪還、4日、賓陽城(3日、近衛混成旅團が攻略)に入城、6日、歩九旅團、11日、歩二十一旅團が南寧に帰還し守備にあたります。
歩四十二は軍直轄に部署され、1月25日、大高峰隘を守備、2月7日、同地を出発し西北進し大高峰隘北方の支那第一七〇師を撃破、8日、第一三五師を撃破し武鳴を攻略、10日、南寧に帰還します。

2月13日、第二十一軍は南支那方面軍(安藤利吉中将)に改編され、第五師團は同方面軍戦闘序列の第二十二軍(久納誠一中将)戦闘序列に編入されます。

2月22日、軍は南寧付近に蟠踞する支那第一九・三二・四六・四六軍(10個師)を撃破すべく江北作戦を発動、岡本支隊(歩二十一旅團長・岡本鎭臣少将、左翼:歩二十一、右翼:歩四十二)は五塘-七八塘付近の高地に拠る残敵3,000を撃破、27日、南寧に帰還します。

3月13日、軍は東路作戰(霊山作戰)を発動、及川支隊(歩二十一第一大隊、歩四十二第一大隊)は臺灣歩一、近衞混成旅團と策応、16日、敵退路遮断のため浦津を出撃、長塘墟、平明、新墟、平南墟において支那軍を撃破しつつ霊山に進撃し支那第四六・六四師を撃破、26日、南寧に帰還します。

3月26日、軍は第二次西路作戦を発動、三木支隊(歩二十一聯隊長・三木吉之助大佐、騎兵五、輜重五1個中隊配属)は近衛混成旅團の明江左岸地区進撃に呼応、南寧-扶南(南寧南西50km)-西長墟-思楽(同100km)を進撃、右旋北上し左県(同80km)の敵策源地を急襲壊滅させ、4月9日、南寧に帰還します。

6月17日、軍は龍州付近に蟠踞する支那第五四軍(第一五一・一八一師)を捕捉殲滅すべく龍州作戦を発動、岡本支隊(歩二十一旅團長・岡本少将、歩二十一、歩四十二第一大隊、野砲五1個大隊)は南寧を出発、道路を補修しつつ西進、26日、歩四十二第一大隊が明江を攻略、大隊は龍州支隊として上金付近に進出、龍江対岸の敵を撃破し、7月1日、龍州を攻略します。
6月29日、歩二十一が憑祥、第三大隊が鎮南関を攻略しハノイ-ランソン-ドンダン-鎮南関-龍州または南寧-賓陽に通じる援蒋ルートを遮断、7月12日、支隊司令部は憑祥に進出します。

7月23日、大本營は南支那方面軍に「情勢ノ變化ニ應ズル第三國作戰準備」(北部フランス領インドシナの武力進駐準備)を下令、7月下旬、第五師團(中村明人中将)は南寧守備を近衞師團(6月26日、第二十二軍戦闘序列編入)に移譲し、仏印国境付近に前進します。

8月30日、東京において進駐に関する日仏両国の原則協定が成立、9月4日、現地の細目協定が妥結しますが、6日、5日の鎮南関における歩二十一第三大隊の越境を理由として仏は協定無効を主張するも、西原一策少将(大本營派遣援蒋禁絶監視團40名)の交渉により9月22日1600、平和進駐協定(近衞歩兵第一旅團による海路進駐)が成立、第二十二軍司令官より仏印軍ドンタン警備隊長・ジロー少佐を経て仏印軍司令官・ジャン・ドクー中将に「平和進駐妥結、相互の誤解による衝突を避けたい旨」手交されますが彼我第一線部隊に交渉妥結が充分徹底しておらず進駐方法に混乱を招きます。

9月5日に発生した第三大隊の越境について、『広島師団史』では大隊が地形偵察中、国境境界石標を見落とし越境してしまい仏軍警備隊の警告を受ける(米英支の外圧を受けた仏側の進駐阻止を狙った口実)としていますが、『濱田聯隊史』では大本營派遣援蒋禁絶監視團が仏側に懐柔され援蒋物資監視が緩慢かつ、仏印進駐の交渉が遅々として進まない事に焦燥した森本少佐が仏軍からの発砲を狙い越境するも、仏印駐在武官・岡中佐が急行し越境を指摘したため引き返しすとあります。
その後、森本少佐は聯隊本部に出頭、師團司令部、師團配属憲兵隊の取り調べを受け、軍医に躁鬱病と診断され内地に帰還後、陸相・東條英機大将の指示で軍法会議にて裁判(後任、佐々木勝五少佐)、大隊は龍州に移駐させられます。

9月17日、師團は各隊を右側支隊(歩二十一第一大隊)、挺進隊(歩二十一聯隊本部、第三大隊)、先遣隊(戰車十四)、岡本部隊(歩二十一旅團司令部、歩二十一第二大隊、歩四十二聯隊本部、第二・第三大隊)、楠本部隊(歩九旅團司令部、歩十一聯隊本部、第一・第三大隊、歩四十一聯隊本部、第二・第三大隊)、砲兵隊(野砲五)、鉄道隊(鉄道五)、輜重隊(輜重五)、作業隊(工五)、後方警備隊(騎五、歩四十一第一大隊、歩四十二第一大隊、同第五中隊)、師團直轄(歩十一第二大隊)に部署します。

18日、騎五を残置し、それぞれ龍州を出発、22日までに龍江南側に西から歩二十一旅團司令部、歩二十一聯隊本部は憑祥、歩二十一第一大隊は平原郷、第二大隊は絹揚、第三大隊が鎮南関、歩四十二第三大隊は上石、聯隊本部、第一・第二大隊は夏石郷及び洞馬、野砲五は夏石郷、師團司令部は寧明、歩九旅團司令部、歩四十一第一大隊は明江、第二大隊は長寧-洞浪、聯隊本部、第三大隊は北江、歩十一第一大隊は板利、第三大隊は右郷-西郷、聯隊本部は仏子、第二大隊は南郷-綏浸(又が水)、また戰車十四は幕班村、工五は隘口に集結ののち、北部仏印のドンダンに向け国境線の南部鳳秠村まで進出します。

第五師團は大本營より「23日0000以降の進駐」を下命されていましたが、平和進駐協定成立の電報が届かなかったため、武力進駐と判断、23日0000、岡本部隊は挺進隊を先頭に国境を突破し南下、ドンダン兵営に進撃しますが、仏印軍の銃撃、手榴弾投擲を受けたため先遣隊、歩兵重火器部隊の支援射撃のもと0830、兵営を攻略、24日、岡本部隊はランソンへ進撃、また楠本部隊は国境を突破後南下、シマ、次いでロックピンを攻略し、24日、ランソンに進撃、25日、師團主力はランソンの仏軍を降し、30日、師團司令部は同城に入城し、周辺の要地を確保、警備にあたります。
挺進隊は24日、ドンダンより南進しソンタン橋梁付近の敵200を撃破、25日、デムヘ兵営の敵2個中隊を殲滅、26日、カンハンに進撃し敵退路(ランソン-ハノイ道、同鉄道)を遮断ののち北上しランソンに入城します。
10月13日、龍州に敵3個師が来襲しますが、歩四十二第一大隊が逆襲し撃退、14日、同第三大隊は自動貨車30両でランソンを出発、27日、龍州を撤っし、29日、ランソンに集結します。

23日0040、師團長・中村中将は第二十二軍司令部より電話で進駐中止が命令、0115、電報で国境線への撤退が命令されますが、中村中将はすでに戦闘は開始され、交戦部隊を夜間に後退させるのは至難である事、敵の増長を招く事、進駐に対し敵が抵抗しているためロックピン、ドンダン、チャトケーを確保し機を見て事後処理をすべきと決意、同行中の第二十二軍参謀長・若松只一少将の了承を得て武力進駐を継続、さらに0500、第二十五軍を経由し参謀本部より電報で進駐の中止、越境部隊は現在地に集結、交戦中の場合は紛争を局地に留める様に指示されますが、仏印側に停戦の意思は無くすでに戦闘は拡大していました。

10月12日、第五師團は大本營直轄となり、10月下旬、ハノイ、ハイフォンを出港し、11月上旬、上海に上陸し呉淞に集結、11月30日、騎兵第五聯隊は捜索第五聯隊に改編、12月1日、軍令陸甲第五十七號『第五師團改編要領及び細則』により、18日、改編に着手、各歩兵聯隊各3,700名から1,000名づつを抽出(第百二大隊:歩十一、第百三大隊:歩四十一、第百四大隊:歩二十一、第百五大隊:歩四十二より)し獨立混成第二十旅團(池田直三少将)を編成、歩兵聯隊の通信班は通信中隊に改編、26日、軍馬15,000頭が全廃され自動車100両、自転車1,000台に改編され、30日、改編完結します。
第五師團司令部(広島)
 歩兵第九旅團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第四十一聯隊(福山)
 歩兵第二十一旅團司令部(山口)
  歩兵第二十一聯隊(浜田)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
 捜索第五聯隊(広島)
 工兵第五聯隊(広島)
 輜重兵第五聯隊(広島)
 野砲兵第五聯隊(広島)
 第五師團通信隊(広島)
  〃 兵器勤務隊(広島)
  〃 衛生隊(広島)
  〃 第二野戰病院(広島)
  〃 第四野戰病院(広島)
  〃 経理勤務隊(広島)

昭和16(1941)年2月中旬、第五師團(各部隊より抽出)は北九州地区を仮想敵地とした上陸演習(3月29日、呂號特別演習発動)を実施、第五飛行團、聯合艦隊が参加、大本營が統括し、3月22日、師團は輸送船「かもい丸」、「台東丸」、「興安丸」、「屏東丸」に乗船、23~30日、呉淞を出港、舟山群島付近に集結、30日から4月3日、歩十一は唐津湾に上陸し有田町へ、歩四十二は福岡第一飛行場に上陸し唐津へ進撃、歩二十一と歩四十一は長崎県千々石海岸に上陸し佐世保要塞を攻略、歩四十二第一大隊は市営鹿児島飛行場に上陸し城山を攻略し演習を終了、4月1~4日、伊万里町、唐津市の民家に分宿、8日、唐津に集結します。

2月26日、大本營は来るべき南方作戦に備え支那派遣軍(南支那方面軍:近衞、第十八、第四十八師團)に、4月6日、第五師團に中支、南支沿岸の援蒋ルートを遮断、戦略物資の集積地を攻略し軍需品を処分、且つ警備地区周辺の敵殲滅を企図(第五師團には加えて実施中の上陸演習を実践)し甲十五號作戰(浙東作戰)を下令します。

8日、歩四十一、歩四十二は唐津を出港し上海呉淞に上陸、9~11日、師團主力は唐津を出港、朝鮮木浦沖の八口浦付近に集結、14日、同地を出港、15・16日、歩四十一、歩四十二が上海呉淞を出港、19日、歩九旅團(旅團長・楠本實隆少将、歩十一、歩四十一、捜索五)は鎮海、歩四十二主力は海門鎮、歩四十二第三大隊は石浦、歩二十一旅團(歩二十一主力)は半浦、第二大隊は瑞安にそれぞれ奇襲上陸します。

歩九旅團は鎮海城、次いで寧波城を攻略、退却した敵を追撃し、24日、奉化県城を攻略し、5月13日、周辺の掃討し警備にあたります。
歩四十二主力は海門鎮に上陸、野砲五の支援射撃のもと海門鎮要塞を攻略、浙江を遡航し黄厳、台州を攻略、天台山付近を掃討し警備にあたります。
歩四十二第三大隊は石浦に上陸、石浦、次いで毛洋を攻略、6月3日、第十一中隊は象山付近を討伐、16日、泗州頭を攻略します。
歩二十一主力は半浦、第二大隊は瑞安に上陸、20日、敵を撃破しつつ西山、温州城を攻略し周辺の警備にあたり、30日、第一大隊が来襲した敵300を撃退します。

5月6日、歩四十二主力、7日、歩二十一は呉淞に上陸し上海に帰還、7日、歩二十一旅團(両聯隊)は第十三軍指揮下に編入され、敵に包囲された第二十二師團(太田勝海中将)を救援すべく諸曁作戦が下令され、7・8日、杭州に集結、10日、旅團は第二十二師團に策応し銭塘江を遡航、馬匹を廃した両聯隊は豪雨による泥濘、急峻な地形に苦戦、12日、歩二十一第三大隊は歩二十一旅團直轄となり、旅團司令部・歩四十二の前進を援護、12日、歩四十二は小兼渓付近に進出、13日、山上に拠る敵を撃破し洞厳山、歩二十一主力は敵を撃破しつつ五指山西方高地に進撃、15日、両聯隊は外将、白路口で敵を撃破し大荘に進撃、16日、諸曁に集結北上、21日、杭州に到着ののち、上海に帰還します。

昭和14年12月18日、支那国民党政府の汪兆銘行政院長が支那事変の平和的解決を目指し重慶より亡命、我が国は汪を全面的に支援、昭和15年3月30日、中華民国国民政府(以下、国府)が建国されます。
支那派遣軍は同政府の政治力を浸透発展させるべく、中心地である長江南岸地区に自主独立基盤の構築を企図し清郷工作を実施します。
同工作は我軍、国府軍ともにほぼ同数(日本10個大隊、国府4個師、2個旅12,000、中國模範警察隊2,000)が参加、共同体勢のもと密接な連絡を図り、各担当地区内の粛清を実施するとともに隔絶幕(疎絶幕とも。大部分は竹矢来、一部電流鉄条網、要所に堡塁、出入口に大小検問所を設置)120㎞を巡らせ、地区外の適性勢力と地区内良民を遮断、敵匪賊の出入を防止し、物資の出入を監視しました。

6月29日、歩四十二(第一大隊基幹)は江蘇省常熱に、第二大隊は長江沿岸に、30日、歩二十一第二大隊、7月6日、歩四十二聯隊主力は蘇州梅里鎮、除市鎮付近に進出、忠義救国軍(戴笠指揮)、共産新四軍、特に後者の便衣兵の逮捕、敵匪の殲滅、地区の宣撫を実施(第一期)、9月24日、歩四十二は江陰、歩二十一は常熱に移駐、それぞれ10月22日、10月18日、上海に帰還します。

10月24日、師團(松井太久郎中将)は寧波城周辺の警備を獨立混成第二十旅團に移譲、上海に集結し上陸演習を実施、11月6日、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列が発令(11月15日、指揮転移)、E作戦(馬来作戦:マレー攻略戦)実施部隊として第十八、近衞師團とともに第二十五軍(山下奉文中将)戦闘序列に隷属転移します。

11月13日、乗船区分(先発:師團主力、後発:歩二十一旅團司令部(杉浦英吉少将)、歩二十一(原田憲義大佐)、野砲兵第五聯隊第二大隊))が発表され、15日から師團は輸送船17隻(ほか病院船「波ノ上丸」)に乗船し上海呉淞を出航、25日~30日、海南島三亜に入港、師團長・松井中将は全将兵に攻撃命令を下達するとともに陸海軍統合の上陸訓練を実施、12月1日、上陸部署を下達します。

シンゴラ方面上陸部隊(師團主力)
第五師團司令部、歩九旅團(歩十一、歩四十一)、捜索五(第三中隊欠)、野砲五(第三大隊欠)、工五(第三中隊欠)、師團通信隊(第三小隊欠)、輜重五(第三中隊欠)、師團衛生隊主力
同配属部隊
戰車第一聯隊(第一中隊欠)、獨立速射砲第一、第二、第四中隊、獨立野戰高射砲第二十六中隊、電信第一聯隊の一部
師團区処部隊
鐵道第九聯隊の一部、電信第一聯隊〃、第五十一固定無線隊〃、第二十三野戰補給廠〃
同行部隊
第十二飛行團司令部の一部、飛行第一戰隊〃、第十二航空地區司令部、第二十一飛行場大隊、第十五航空通信隊、気象第一中隊、野戰高射砲第三十二大隊の一部、第四十六碇泊場司令部

パタニ方面上陸部隊(安藤支隊:歩四十二聯隊長・安藤忠雄大佐)
歩四十二、捜索五第三中隊、野砲五第三大隊(第九中隊欠)、工五第三中隊、輜重五第三中隊、師團通信隊第三小隊、師團衛生隊1/3、師團第二防疫給水部1/3、
同配属部隊
戰車第一聯隊第一中隊、獨立速射砲第五中隊、電信第一聯隊第四小隊(無線)、架橋材料第二十七中隊
同行部隊
飛行第十一戰隊の一部、第二十二、第九十三飛行場大隊、高射砲第二十聯隊、飛行第二十七戰隊の一部、第十五航空通信隊〃、獨立工兵第二十六聯隊、第四十九碇泊場司令部

2日、参謀總長・杉山元大将は南方軍總司令官・寺内壽一大将に大陸命第五六九號「鷲」(開戦)を指令、同日、『ヨアケハヤマガタトス』が発電されます。
3日1900、浅香山丸(野砲五乗船)、関西丸(歩四十一〃)は低速のため三亜を出港、4日0730、南遣艦隊(小澤治三郎中将、第七戰隊、第三水雷戰隊)の護衛のもと第二十五軍先遣隊(第五師團、第十八師團侘美支隊)は輸送船15隻に分乗、病院船1隻とともに三亜を出航、7日2200、安藤支隊乗船の輸送船6隻(第三分隊)、2230、G点において侘美支隊乗船の輸送船3隻(第四分隊)はそれぞれ分進、2240、船団に泊地進入用意が下令され、8日、0035、泊地に進入、0333、師團長乗船の香椎丸から出発信号が発信され、0412、河村部隊(歩九旅團長・河村參郎少将、歩十一(第二大隊欠:第二回上陸部隊)、歩四十一(第一大隊欠:鐡道突進隊配属)、野砲五主力、戰車一第三中隊)は歩四十一を左第一線、歩十一を右第一線として、また佐伯支隊(佐伯靜夫中佐、捜索五(第三中隊欠)、野砲五1個小隊(第一中隊の第一・第四分隊))は河村部隊左側に連なり泰國シンゴラ新飛行場東側に上陸します。

▲第五師團関連地名

上陸後、佐伯支隊(捜索五・佐伯靜夫中佐)は自動車、鉄道輪転材料を押収(師團は上海出発時、輜重聯隊の全自動車、歩兵中隊は半分、砲兵聯隊は1/3~1/4を残置、師團の機動力発揮には早急に自動車または列車の鹵獲が必至)すべく第二中隊(泰國軍懐柔のため通訳、宣撫班を配属)を鹵獲自転車50台で先行、主力は徒歩行軍で南下を開始、鐡道突進隊(鐡道第九聯隊、歩四十一第一大隊、獨立速射砲2個中隊)はシンゴラ駅より列車により佐伯支隊を追及、支隊はホーン山(飛行場南方)からの銃撃を突破しトンリー村東側高地の泰國軍1個大隊を降伏させ、1350、ハジャイを攻略、機関車8、客車9、貨車158、自動車50を鹵獲、軟禁されていた邦人を救出、8日2330、サダオに進撃し侵攻してきた英軍(装甲車20~30、300人)を夜襲し撃破、同地を攻略します。

河村部隊の歩十一第一大隊は北上しシンゴラ市街、埠頭、停車場を、歩四十一第二大隊は新飛行場(攻略後、歩十一第二大隊と修復作業を交替、12日、チャンルに進出)を、同第三大隊はホーン山付近の泰國軍を攻撃、1300、日泰間の停戦協定が伝達され、1430、泰國軍を武装解除、8日2330、河村部隊はハジャイに集結を図る(集結完了は9日0530)とともに、突進隊は英軍により爆破された鉄橋を修理しつつアロルスターを目指し、歩四十一(聯隊長・岡部貫一大佐指揮、第二大隊、戰車一1個中隊、野砲五主力)はサダオに急進し、国境突破、防御陣地・ジットラ線攻撃の準備をします。

8日0230、第三分隊は泊地に進入、0430、安藤支隊(歩四十二聯隊長・安藤忠雄大佐)はパタニ、歩四十二第三大隊(小林源太郎少佐)はタペーに上陸、支隊主力は本道上-パタニ間において泰國軍1個大隊と交戦しますが、同じく停戦協定により泰國軍を武装解除、パタニ、同飛行場を攻略、物資揚陸にあたりつつ、1500、支隊は集結が完了した第一大隊(半部、工兵一部)を先頭にパタニを出発、また1900、第三大隊はタペー飛行場を攻略後、9日1430、第一大隊を追及します。
9日0730、師團戦闘司令所がシンゴラ新飛行場東端に上陸します。
10日、ベトン北方3㎞(サオルダン山付近)付近で領内に侵攻して来た戦車を伴う英軍と交戦中の泰國軍に加勢、12日払暁、英軍を撃破、13日、同17㎞付近の敵縦深陣地を撃破、敗敵を追撃し、14日1500、ベトンを通過、15日1200、国境線を突破、1400、クロウに進出、第二大隊を先遣隊として左折しベラク河に沿って南下を続け、18日、グリク、レンゴンを通過、21日、チエンデロウ湖北の英軍を第二大隊はブキナンカンから敵を牽制しつつ本道を進撃、第一大隊はベラク河右岸に沿う密林内を敵後方に迂回し包囲撃破、23日0800、敵はベラク河鉄橋(支隊の最大攻略目標)を爆破したため、支隊は軍主力渡河のため第二大隊が要地・クワラカンサル橋周辺を占領、第一大隊がブランジャに進撃し渡河準備を行います。

12月9日1100、佐伯支隊は河村少将の指揮下に編入、1730、支隊は国境線の敵陣偵察を任務としサダオを出発、夜半に国境東方500mに前進、国境を突破し英印第11師団(第6、第15旅団)の第一線陣地を夜襲、奇襲を受け潰走する敵を追撃し第二線・第三線陣地を突破、逆襲を撃退し要所を攻略、10日2400、佐伯支隊は戰車一第三中隊、野砲1個中隊の配属を受け佐伯挺進隊に改編されます。

10日、歩四十一はチャンル北端十字路において夜襲により英印軍を撃破、佐伯挺進隊は歩四十一の追撃を超越し折からのスコールのなか突撃、アースン、チチバンジャグの敵陣を突破しますが、2200、ジットラ線前進陣地帯において火砲20、戦車を伴う敵の逆襲に遭い、損害が増加するも、12日1230、第2線陣地の一角を占領、1335、河村部隊主力が到着、河村少将は攻撃主力を挺進隊から歩四十一に交代、また歩十一第三大隊を本道西側に迂回させ夜襲を準備中、12日1730、英印軍はジットラ線を放棄し撤退、部隊は歩十一第三大隊を先遣隊として追撃を開始します。

12日、徒歩で進撃、追求してきた歩四十一第一大隊(鐡道突進隊)が聯隊に復帰します。
突進隊は9日、クローゲンに進出する以南全ての鉄橋が爆破されていたため徒歩にて南下、10日1400、国境を突破、11日、ケーテリーの英軍を撃破し同地を攻略、12日0830、アローを攻略、敗敵を追撃しつつ、1600、ジットラ西方に進出、原隊に復帰します。

13日0800、歩十一第三大隊はケパラパタスを攻略、1100、先遣隊を交替した第一大隊がアロルスターを攻略、部隊は同地に集結、14日1400、師團は4梯団となり歩四十一第二大隊第十二中隊第一小隊を尖兵小隊(自転車)としてアロルスターを出発、敗敵を追撃しグルンに進撃ますが、火砲を擁する英軍の攻撃に苦戦、15日、歩四十一主力が到着しグルンを、16日、スンゲイパタニーを攻略、18日、歩四十一第三大隊がムダ河を渡河しペナン島ジョージタウンに上陸、19日、同島を無血攻略します。

20日、クリムに進出した河村部隊は現地マレー人の歓迎を受けつつクリム-セラムを南下し、23日、第五師團主力はタイピンに集結、24日、近衞師團正木支隊(近歩四基幹)がタイピンに到着、25日、師團戦闘司令所が到着、26日、歩四十二が師團に復帰、2115、河村部隊先遣隊の歩十一第一大隊がブランジャ付近から敵銃砲火を突破しペラク河を渡河、27日、続いて歩四十一、歩四十二がペラク河を渡河、歩四十一は河村部隊(歩四十一(第三大隊欠)、歩十一第一大隊)先頭としてバッカジヤ、センルを南東進し、コペン、ディパン付近の英軍を歩十一第一大隊、歩四十二第二大隊の迂回により撃退、30日、カンパルの縦深陣地(英印第2連隊第5大隊)に進撃しますが激烈な銃砲火に進撃は遅滞、昭和17(1942)年1月2日、追撃に備えて集結中の歩四十二を前線に推進、歩四十一に戰車第六聯隊第三中隊を配属し野砲五第三大隊を前進させ攻撃、また吉田支隊(近歩四第三大隊)のテロクアンソン(カンパル南西)進出、渡邊支隊(歩十一聯隊長・渡邊綱彦大佐、第一大隊欠、野砲五第九中隊配属)の舟艇機動による敵退路遮断を受け敵は退却を開始したためカンパルを攻略します。
荊棘に挑む(川端龍子)
▲マレー攻略戦を描いた『荊棘に挑む』(川端龍子画伯)

4日、本道方面の師團主力の前進を援助すべく、師團直轄の歩十一第三大隊(市川正少佐)は市川支隊としてサバクを出発、西海岸を陸路南下、8日、火砲を擁する英印軍と交戦しつつセランゴール河を渡河、9日、バタンベルジュンタインを攻略、ラワンに転進します。

カンパルより南下しスンカイに集結した師團は先頭を歩四十二に交替し追撃を開始しますが、5日、激烈な砲撃を受けトロラク北方(トロラク-スリムリバーに英印第1師団第12旅団、後方のスリムリバー-スリムに同第28旅団が守備)において進撃を停止、6日、歩四十二聯隊長・安藤大佐は協議の結果、新たに配属された戰車第六聯隊第一・第四中隊(両中隊指揮:第四中隊長・島田豐作中佐)、歩四十二第三大隊により本道正面より急襲突破する事に決し、第一突進隊(戰六第四中隊、歩兵1個中隊、工五1個小隊)、第二突進隊(第三大隊、戰六第一中隊)を部署します。

7日0450、工五大島小隊が対戦車障害のコンクリート柱、鉄条網を啓開、0500、第一突進隊(九七式10、九五式5)は歩兵80名、工兵20名を跨随させ進撃、敵の銃砲を冒し縦深6kmに7線に渡り構築された敵第12旅団陣地を僅か3時間で突破し0810、トロラクに、歩四十二第一大隊はトロラク東南方の敵を奇襲、同第二大隊は英印軍右側背に進撃し敵を包囲します。
島田中佐は戦機と捉え歩兵80名、工兵20名をトロラク確保に残置し戦車単独で進撃、敵露営地、火砲陣地を蹂躙し敵第28旅団司令部を急襲、第二突進隊は第一突進隊に続き進撃、スリムリバー付近の敵掩蓋陣地を撃破、1000、第一突進隊はスリムリバーを攻略、敗敵を追撃し、1300、スリムを攻略、第三大隊は戰車六第一中隊の一部に鉄橋を確保させるとともに第一突進隊を追求しスリム方面の敵陣地を撃破、1500、スリムリバーに帰還します。
戰車六、歩四十二は30kmに渡る敵縦深陣地を一昼夜で突破し英印第1師団を殲滅(1,000名戦死、1,000名捕獲、残存1,170名)、装甲車84、野砲・砲車97、戦車68、迫撃砲93、自動貨車600、乗用車70を鹵獲します(山下中将より感状授与)。
トロラク、スリムの戦(栗原信)
▲『トロラク、スリムの戦』(栗原信画伯)

7日2300、歩十一(第三大隊欠)が歩四十二と交替し師團先頭となり敗敵を追撃し南下、10日、第一大隊がセレンダーで敵を撃破、11日1700、第二大隊がクアラルンプールに無血入城し、歩十一主力はクアラルンプール警備隊として警備にあたり、同第二大隊、歩四十二第二大隊は敗敵を追撃、12日、それぞれチェラス、クワラパーに進撃します。

12月17日、後発の歩兵第二十一旅團司令部、歩兵第二十一聯隊、野砲兵第五聯隊第二大隊は輸送船57隻に分乗し呉淞を出港、26日、馬公に入港、31日、出港、昭和17年1月8日、シンゴラ沖に到着、12日、敵の微弱な空襲下、上陸を開始、14日、旅團は3梯団となりシンゴラを出発、自動車、自転車で南下、15日、スンゲイパタニー、16日、イボー、スリムリバーを経て、17日、クアラルンプールに到着し師團司令部と連絡、18日、カンボンケドック、19日、タンカクを進み前線に向かいます。

昭和17年1月12日1900、向田支隊(戰車第一聯隊長・向田宗彦大佐、歩四十一第三大隊、野砲五、輜重五、獨工五各1個中隊:軍直轄)が到着、歩十一第二大隊、歩四十二第二大隊と交替しクアラルンプール南方を進撃しますが、14日、ゲマス西方において歩四十一第三大隊が通過中の橋梁が爆破、豪第27旅団の奇襲を受け苦戦します。
15日、師團主力がクアラルンプールから南下を開始、師團先遣隊の歩四十二第二大隊は向田支隊と連絡、同日、支隊はゲマスに突入、続いて同地東方の敵陣に進撃、16日、河村部隊(歩十一(第一大隊欠)、歩四十一(第三大隊欠)、捜索五)は向田支隊を指揮下に編入、17日、苦戦する河村部隊の後方に迂回すべく安藤部隊(歩四十二、第二大隊欠)はカンボンスンゲイドアより南下左旋回しゼメンダ(英、豪、抗日華僑2,000)に進撃、19日、河村部隊はバツアナム、安藤部隊はゼメンダを攻略(河村部隊に復帰)します。

20日、河村部隊を超越し杉浦部隊(歩二十一旅團長・杉浦英吉少将、歩二十一)が先頭となり進撃、23日、カンカルチュア付近、ヨンペン北方の敵陣を撃破、25日、河村部隊は再び杉浦部隊を超越しクルアンを攻略、26日、杉浦部隊がアエルヒタムを攻略、両部隊は並進し南下、27日、河村部隊がレンガム、ラヤンラヤン、杉浦部隊がシンパレンガムを攻略、それぞれジョホールバルに進撃し、31日1630、歩二十一第三大隊がジョホールバルに無血一番乗りを果たし、遂に対岸にシンガポールを望みます。

師團主力はジョホールバル北方、スクダイ東側に集結、1月31日、クルアンの第二十五軍司令部は隷下各作戦主任参謀、砲兵隊長、防空隊長、渡河作業隊長を招致、各部署(第五師團を中央隊、左翼隊を近衞師團、右翼隊を第十八師團)、作戦地境、シンガポール攻撃準備命令(近衞師團はテプロー、マサイ付近にて敵を牽制、第五師團はスクダイ東側地区、第十八師團は水源地高地東側地区に集結、砲爆撃ののち第五・第十八師團はジョホール水道を渡航上陸)及び住民の北部避難を下達、2月4日、戦闘司令所をスクダイに前進、6日、攻撃命令を下達、各部隊は宿営地を出発、攻撃発起点に前進します。

2月4日朝、各砲兵隊(野戰重砲兵第三聯隊(十五榴24)、同第十八聯隊(十加16)、獨立重砲兵第二大隊(十五加8)、獨立臼砲第十四大隊(臼砲16)、師團(近衞砲兵、野砲兵第五、山砲兵第十八)野砲兵聯隊(野砲60、山砲42)野山砲102、重砲60、臼砲16、合計178門)が効力射準備射撃を開始、8日0900、点検射に続き、1000、集中射により敵砲兵を制圧、1200、攻撃準備射撃により鉄条網を破壊し、1500、効力射準備射撃(1700終了)、1800、攻撃準備射撃(2045終了)を実施します。

2200、各砲兵隊は支援射撃、2350、突撃支援射撃を開始、9日0025、ペルパ河-マラアユ河間より師團右翼隊(歩二十一旅團:杉浦部隊(歩四十二、歩二十一))の第一次渡航部隊、歩四十二第二・第三大隊がシンガポール六〇高地付近に敵前上陸を敢行し上陸成功の青吊星を打ち上げ、続いて第二次渡航部隊の歩二十一、歩四十二第一大隊も上陸、歩四十二、歩二十一はナマジエスラートの英軍を撃破、潰走する英軍を追撃、夕刻、テンガー飛行場南方に進撃します。

師團左翼隊(歩九旅團:河村部隊(歩十一))の第一次渡航部隊、歩十一第三大隊は8日2330、スクダイ河左岸を発進しますが、夜間で航路を見失い支流に進入、また数隻が浅瀬に座礁、敵の機関銃掃射もあり舟列が乱れたまま、9日0040、敵前上陸を敢行、続いて第二次渡航部隊の第一大隊は敵の攻撃を受けること無く上陸、河村部隊は前進が遅延したため結果的に先行の杉浦部隊が敵背後を牽制したため、河村部隊の前進は容易になり、9日、テンガー飛行場北方に集結、0430、師團予備の歩四十一、0600、師團司令部、次いで野砲五が上陸し主力を杉浦部隊、一部を河村部隊に配属し南下します。

10日1030、師團戦闘司令所が哩標西南500mに推進、10日正午頃までに河村、杉浦両部隊はテンガー周辺の敵陣地を攻略、2230、歩二十一がブキバンジャンを攻略、11日、歩四十二は追撃に移行しブキテマ高地を攻略、第十八師團に追撃され敗走する戦車、装甲車、自動車等を伴う英軍3,000を捕捉殲滅するも、英軍はブキテマ村周辺陣地救援のため増援を投入、激烈な砲撃ののち戦車が同村南方に侵攻して来ます(魔の三叉路)。

杉浦部隊は歩四十二を左翼、歩二十一を右翼に展開し損害を受けながらも激戦ののち競馬場西側高地、その南方本道南側高地付近まで進撃、11日、河村部隊歩十一は五八一高地北麓三叉路から左折し二七五高地を経て敵を撃破しつつ、競馬場北側三〇〇高地(鯉城山)、同北東一三〇高地、一一〇高地、クラブハウス北側に進撃しますが、ゴルフ場東側一四〇高地南北の戦車を伴う敵陣の激烈な砲撃に戦線は膠着します。
12日、師團は予備の歩四十一を河村部隊に復帰させ、第三戰車團(戰車六)の配属を受け、攻撃重点を左翼河村部隊方面に変更(敵主陣地右翼は水源地に託しており薄弱な事から)、歩四十一は八五高地東北400kmの閉鎖湾曲線高地を攻略、13日、歩十一は九五高地、歩四十二は一一五高地を攻略、激烈な英軍の砲撃に進撃は遅滞しますが、14日、歩十一が師團砲兵の支援射撃のもと一三〇高地、一六〇高地を攻略した事で英軍防御線は崩壊し始め、15日、一〇五高地、八五高地、一二五高地、歩四十一が一三八高地を攻略、同日、歩二十一が八〇高地西側を攻略、師團はピアース、マクリッチ両水源地を確保し、カラン飛行場、チャンギー要塞との連接を遮断したため、15日1400、杉浦部隊歩四十二第一大隊正面に白旗を掲げたC.A.ワイルド少佐ら3名が現れ降伏して来ます。

2月15日1830、ブキテマ三叉路北方のフォード自動車工場において第二十五軍司令官・山下中将と英マレー軍司令官・A.パーシバル中将の会談が開催され、1950、英軍は我軍に降伏、2000、師團は戦闘行動を中止、市内外周(山下中将は第二十五軍憲兵隊及び各師團より抽出の補助憲兵以外の入市を許可しなかった)の警備にあたり接収業務を実施、17日、シンガポールは昭南島に改称、19日、軍司令部はブキバンジャンからラッフルズ大学に移転、20日、ラッフルズ大学広場において軍合同慰霊祭、21日、競馬場において師團合同慰霊祭を斎行、同日、昭南警備隊(歩九旅團長・河村少将、歩十一第三大隊、歩四十一第三大隊、第二十五軍憲兵隊)が編成されパヤレバーに駐留しチャンギー俘虜収容所の警備にあたります。
山下、パーシバル両司令官會見図(宮本三郎)
▲『山下、パーシバル両司令官會見図』(宮本三郎画伯)

19日、昭南警備隊は昭南島の適性華僑粛清を下令され、21日、F機關(藤原岩市少佐)所属のマレー人、現地人の協力を得て適性華僑を摘発、2月23日、選別者を第二十五軍憲兵隊(大石正幸中佐)管下の各憲兵分隊に引渡し、さらに3回の検問を経て敵性華僑を選別、該当者は補助憲兵に引き渡され軍命に基づき処断したため、治安は急速に回復します。

欧米はアジア各地で植民地政策の一貫として現地人の不満が直接英国に向かない様、準支配層として経済を支配していた華僑を利用したため、華僑は利害関係から英軍に協力、また出自から支那事変勃発以降、各地で排日援蒋運動を展開し支那重慶政府に通じ我軍の妨害・テロ工作を組織的に行います。
ことマレーにおいては陳嘉庚が華僑壽賑祖国難民総会を結成し重慶政府を金銭面で大々的に支援、大東亜戦争開戦に伴い在マレーの共産党員、及び抗日華僑各種団体を糾合し英軍協力を決定、12月15日、さらに英政府の了解を得て投獄中の共産党政治犯を釈放し、華僑抗敵総同員会を結成(本部:シンガポール)、昭和17年1月15日、英マレー軍の命で共産党員155名を4個班に編成し英軍貸与の兵器で武装、各地の華僑(非協力、中立的立場の者が多数)を指揮し我軍の後方擾乱、及び英軍作戦への協力、通敵行為を行い(民間反日組織の匪賊の他に華僑抗敵義勇軍2個旅団がありシンガポール陥落後2月23日解散、市井に潜伏)、南方戦線では最も我軍の脅威となります(巷間で言われる様な、無辜の華僑を大量に殺害したとされる所謂「シンガポール華僑粛清事件」は南京事件と同種の反日プロパガンダの一種です)。

19日、近衞、第五、第十八師團もマレー半島各地の適性華僑、敗残兵摘発、共匪の戡定を下令され、22日、師團はジョホール州を除く馬来各州に移駐、師團司令部をクアラルンプールに設置、北警備隊の歩二十一旅團は司令部をイポーに、歩二十一はペルリス、ケダー、ペナン各州を担当、聯隊本部、第一大隊をアロルスター、第二大隊をコタバル、第三大隊をスンゲイパタニに、歩四十二はペラク、ケランタン両州を担当、聯隊本部・第三大隊をイポー、第一大隊をタイピン、第二大隊をカンパルに、東警備隊の捜索五は本部をクアラリプスに、部隊をバハン州に、西警備隊の歩九旅團は司令部をクアラルンプールに、歩四十一をセランゴール州に、南警備隊の歩十一はネグリセンピラン、マタッカ両州を担当、聯隊本部・第二大隊をセレンパンに、第一大隊をマラッカに配置し警備にあたります。
ベラク州を担当した歩四十二、特に第二大隊(丸谷順助少佐)は徹底した粛清を求める軍司令部に対し「徹底した粛清は逆に住民の不安を招き冤罪を生む可能性があり宣撫工作に逆効果」として必要最小限に留め宣撫工作も順調だったため軍司令部も命令を撤回します。
近衞師團は昭南島、第十八師團はジョホール州(4月2日、昭南発、8日、ラングーン上陸に緬甸方面作戦へ)の警備にあたります。

3月27日、河村支隊(歩九旅團長・河村少将、歩四十一(矢澤清美大佐)、捜索十六1個小隊、野砲二十二1個中隊、獨山砲二十大隊、獨工二十三1個中隊)はハアブル丸に乗船、第三南遣艦隊(杉山六蔵中将)の球磨、第二十四驅逐隊の護衛のもと昭南港を出港、4月16日、パナイ島、次いで5月3日、ミンダナオ島の戡定にあたり、6月15日、歩兵第九旅團司令部は第五師團に復帰のためカガヤンを出発、歩四十一は8月4日、南海支隊に編入され、ラバウルに向かいポートモレスビー攻略にあたります。
※詳細は『歩兵第四十一聯隊』参照

昭和17(1942)年8月6日、大本營は第五師團に復員下令、10月下旬、復員要領の会合を終え、各聯隊の先発隊は昭南島に集結しますが8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸、南東方面への戦力転用が相次ぐなか豪北地区の防衛を強化すべく、11月20日、大陸命第七百十七號により師團の復員中止と工兵第五聯隊、歩兵2個大隊の南東方面派遣(当初はガダルカナル島増援を予定)が下令され、27日、さらに派遣戦力に歩兵1個大隊が追加、12月2日、南方軍は師團主力の爪哇方面移駐を下令します。

歩兵第四十二聯隊 第二大隊
昭和17(1942)年12月2日、歩十一第三大隊(小西秀雄中佐)、歩二十一第三大隊(高橋貞雄少佐)、歩四十二第二大隊(花輪逸市中佐)、第五野戰飛行場設定隊(河村修作少佐)は工五(田村安治大佐)の指揮下に、工五は第十八軍指揮下に編入、「護國丸」、「清澄丸」、「愛國丸」、「山彦丸」、駆逐艦「朝風」に分乗し昭南港を出港、12日、ラバウルに上陸します。
同地において第十八軍司令部(安達二十三中将)より工五はソロモン方面の飛行場設定、第五野戰飛行場設定隊は第六飛行師團隷下に編入とコロンバンガラ島の飛行場設定、歩兵は東部ニューギニア・マダン(マダン支隊:歩四十二、歩二十一)、ウェワク(ウェワク支隊:歩十一)の攻略(ム號作戦)を下令されます。

15日、マダン支隊(歩四十二第二大隊長・花輪中佐、歩四十二第二大隊、歩二十一第三大隊)は護國丸(歩二十一)、愛國丸(歩四十二)に分乗、第十八戰隊(松山光治少将)の軽巡「天龍」、「涼風」、「磯波」、「荒潮」、「電」の護衛のもとラバウルを出港、18日、敵B17の空襲により「護國丸」が被弾(負傷者はそのままラバウルに返還)、敵潜の雷撃に「天龍」が沈没するなか、マダンに敵前上陸を敢行、花輪大隊はマダン東方海岸、高橋大隊主力は港内桟橋、同大隊先陣の第十二中隊は湾口の北島を攻略、無血上陸を果たします。

各隊は宿舎を建設ののち敵機の空襲下、宣教師が使用していた草地800mの滑走路を1,200mに延伸し周辺に掩体、誘導路の設定を開始します。

30日、第十八軍は支隊にマダン-ラエ間の補給路開設の可否偵察を下令、花輪少佐は高橋少佐に偵察を下達、昭和18(1943)年1月4日、高橋大隊は第三十一野戰道路隊第三中隊を編入されアメレーを出発、人跡未踏の密林、大草原を踏破し、2月6日、ラエ(第七根拠地隊の陸戦隊分哨)に到着し、11日、軍司令部に偵察結果を報告、8日、郊外のカンコーモンに駐留、糧食輸送の低下するなか、潜水艦により輸送される糧食の揚陸支援を実施します。
※偵察結果について『濱田聯隊史』では「前半の山岳地帯は敵の様に重作業機械を持たず人力では長時間を要し、後半のマーカム河沿いの草原は平坦で容易なものの、巾2㎞のマーカム河の架橋が最大の難関で総合的に建設は困難」とのありますが、『歩兵第四十二聯隊史』では「ボガジム-コロバ間の土人道は密林、険峻なため道路建設は不可能なるも、谷地への構築は2、3ヶ月で可能。コロバ-ラエ間は平坦な草原のため工事は容易」と記載(ともに要約))されています。

戦局の進展によりラバウルからの糧食補給が困難になり、支隊主力(歩四十二第二大隊、歩二十一第十中隊)は潜水艦によるより糧食の輸送を受けながら、マダン-ラエ間の補給道路設定を開始、4月下旬、第二十師團(青木重誠中将、1月20日、ウェワクに上陸)歩七十八の一部が到着し設定作業に加入、4月25日、マダン支隊に原隊復帰が下令され、支隊主力はマダン、一部はアレキシスに集結、5月10日、夜間の舟艇機動にてハンサに移駐、29日、第十八軍指揮下を解除され輸送船に乗船、B17の空襲を受けるも無傷で、6月3日、パラオに上陸、17日、パラオを出港、セレベス島メナドに上陸、24日、メナドを出港、マカッサルを経て、7月3日、セラム島ワルに上陸、8月9日、ワルを出港、ケイ諸島トアルより夜間の舟艇機動にて、タニンバル諸島サムラギを経由、28日、セラル島リンガットに上陸し、9月3日、聯隊に復帰します。

歩兵第二十一聯隊 第三大隊
昭和18(1943)年3月3日、ラエ・サラモア地区増援の第五十一師團(中野英光中将)の強硬上陸を支援すべく、各中隊より1個小隊を派遣しますが船団はダンピール海峡において敵機に捕捉され全船沈没してしまい、各小隊は無傷で復帰します(ダンピールの悲劇)。

5月12日、第五十一師團の要請に応じ苦戦する岡部支隊(第五十一歩兵團長・岡部通少将、歩百二基幹)支援のためサラモアに前進、糧秣、弾薬の搬送にあたり(中野中将より賞詞授与)、16日、カンコーモンに復帰、第十二中隊(沖利雄中尉)は飛行場付近の警備にあたり、5月末、原隊復帰と7月1日出発命令を受領、6月25日、第十一中隊(佐伯正大尉)はフィンショハーフェンの警備にあたります。

6月30日、岡部支隊守備のサラモア南方30kmのナッソウ湾に米第162連隊戦闘団が上陸を開始、大隊は原隊復帰を中止され第八方面軍(今村均中将)指揮下に編入され、第五十一師團(サラモア)に配属(師團長区処)、7月30日、大隊(大隊本部15、第九中隊30、第十二中隊30名)は戦線加入を下令されます。
8月1日、大隊は岡部少将の指揮下に編入、第十二中隊は歩兵團予備に部署され輸送任務にあたり、大隊主力はムボに前進、歩六十六聯隊指揮下に入り中央隊に部署、右翼隊(歩六十六第六中隊)、左翼隊(同第三中隊)と連携、敵の激烈な銃砲火に耐え斬込みなどで敵の侵攻を阻止した後、聯隊命令によりカミアタム、次いでボブダビに転進、第十二中隊(12日、第十二中隊高橋小隊はボブダビの歩六十六第一中隊の増援に前進)を掌握、歩六十六第一中隊を指揮下に編入し、第九中隊をボブダビ後方の高山、第十二中隊を橋山に配置し敵の侵攻阻止にあたります。

9月10日、連日の敵の銃迫攻撃に大隊両翼は次第に圧迫され後退し大隊は敵中に突出、12日1200、師團長・中野中将は急迫する戦局にサラモアにおいて玉砕を決心、隷下、指揮下部隊に現在線の死守を下令しますが、13日、安達中将より転進が下令されます。
14日0000、大隊は戦線を離脱、フランシスコ河を渡河、アラモアを通過しマロロで糧秣を補給、15日、ラエに集結、野戰病院より原隊復帰者を加え大隊は高橋少佐以下50名に回復、行軍序列の第二梯団に属し出発、ブス河を渡河し人跡未踏の4,000m級の山々が連なるサラワケット山系を踏破(サラワケット越え)し、10月17日、キアリに到着ますが、19日、赤痢に罹患し落伍していた第九中隊長代理・岡中尉が“自分に付き従う当番兵を死の巻き添えにしたくない”と山頂付近で自決してしまいます。
24日、キアリを出発、27日、シオに到着、28日、機帆船に乗船し出港、30日、第十八軍司令部所在のマダンに到着(高橋少佐は高熱のため入院、後任は第十一中隊長・佐伯大尉、当面の指揮は第十二中隊長・沖中尉、11月24日付)、11月8日、機帆船に乗船して出港、14日、ウエワクに上陸、15日、出港、19日、パラオに上陸します。

歩兵第二十一聯隊 第十一中隊
9月23日、フィンショハーフェンに敵が上陸、中隊は歩八十(三宅貞彦大佐)に協力、敵の侵攻拒止にあたるも次第に圧迫され、10月2日、同地を失陥、26日、転進を開始、11月3日、キアリ、6日、シオに到着、7日、大発にて出港、10日、マダンに上陸、14日、出港、19日、ウエワクに上陸、25日、出港、29日、パラオに上陸し大隊に復帰します(佐伯大尉後任は豊原勝朗大尉)。

昭和19(1944)年1月9日、第三大隊先発隊12名がパラオを出港、13日、マノクワリに上陸、14日、出港、22日、アンボンに上陸、26日、出港、29日、ケイ諸島ヅラに上陸、30日、出港、31日、アル諸島ドボに上陸し聯隊に復帰、2月5日、ドカバラに到着、2月上旬、大隊主力も逐次追求し聯隊に復帰します。

歩兵第十一聯隊 第三大隊
昭和17(1942)年12月16日、ウェワク支隊(小西秀雄中佐)主力は「清澄丸」、第十中隊(牧村忍中尉)は駆逐艦「夕雲」に分乗、ほか「巻雲」、「風雲」の護衛のもとラバウルを出港、17日、B17に発見されますが空襲を受けること無く、18日0200、ウェワク沖の泊地に進入、大発にて上陸、敵影は無く無血でウェワクを攻略します。
21日、支隊は第一次整備作業として既設の小型飛行場の拡張を開始、28日、巾50✕長700mに拡張竣工(昭和18年1月5日、海軍の第二根拠地隊及び零戦5機が進出)、軍命令により東方3㎞にさらに長さ1,000mの飛行場を着工します(この頃よりB17が度々来襲)。

昭和18(1943)年1月20日、第二十師團(青木重誠中将)の先遣隊がウェワクに上陸し飛行場設定作業に加入、支隊は同師團の区処下に編入され設定作業を続行、同師團は建機多数を所持していたため作業は進捗し、2月中旬、第二飛行場が竣工、支隊は飛行場管理にあたります。
飛行場竣工とともに第二十師團は東部ニューギニアに転進、2月20日、第四十一師團(阿部平輔中将、朝鮮龍山)が上陸してきます。

4月25日、支隊に原隊復帰が下令、5月1日、輸送船4隻に分乗しウェワクを出港、5月8日、パラオに上陸、ガスパンに宿営、6月17日、パラオを出港、セレベス島メナドを経由し、29日、アンボンに上陸、7月5日、サガに移駐し第五師團直轄となります。

工兵第五聯隊
昭和17(1942)年12月21日、工兵第五聯隊(田村安治大佐)、第五野戰飛行場設定隊(河村修作少佐)はラバウルを出港、コロンバンガラ島に上陸、22日、飛行場設定作業にあたり、昭和18(1943)年2月15日、終了、4月6日、ブーゲンビル島ブインにおいて飛行場設定作業にあたり、5月9日、終了、11日、ラバウルに帰還、ラバウル東飛行場の整備、強化作業にあたり、6月5日、終了、7日、ラバウルを出港、パラオ、セレベス島メナドを経由し、7月5日、サガに上陸し第五師團に復帰します。

第五師團主力
昭和17(1942)年12月25日、第五師團は3単位師團に改編され、歩四十一は第三十師團(昭和18年5月14日編成)へ隷属転移、歩九旅團司令部は復帰、歩二十一旅團司令部は第五歩兵團司令部に改編されます。
第五師團司令部(広島)
 第五歩兵團司令部(広島)
  歩兵第十一聯隊(広島)
  歩兵第二十一聯隊(浜田)
  歩兵第四十二聯隊(山口)
 捜索第五聯隊(広島)
 工兵第五聯隊(広島)
 輜重兵第五聯隊(広島)
 野砲兵第五聯隊(広島)
  〃 兵器勤務隊(広島)
  〃 衛生隊(広島)
  〃 第二野戰病院(広島)
  〃 第四野戰病院(広島)
  〃 経理勤務隊(広島)・・・昭和20年2月10日、復帰

昭和17年12月16日、師團先発の杉浦支隊(歩二十一旅團長・杉浦英吉少将、旅團司令部、歩四十二(第二大隊欠)、歩十一第一大隊、野砲五第三大隊)が輸送船「國瓊丸」、「大阪丸」、「すえず丸」、「西丸」に分乗(ほかチモール行1隻)、水雷艇「初雁」、「友鶴」の護衛のもと昭南港を出港、21日、スラバヤ港に入港、不要不急品を残置、25日1000、スラバヤを出港しますが、1640、三番船「すえず丸」(歩四十二聯隊本部、第三大隊)が敵潜の魚雷を第一船倉右舷に被雷したため、26日1500、同船は引き返し、さらに12月31日1625、「大阪丸」(支隊主力)が右舷に被雷(24名散華、56名負傷)するも、昭和18(1943)年1月1日、「西丸」(歩十一第四中隊)とともにアンボンに、1月5日、「國瓊丸」(歩四十二第一大隊)はアル諸島ドボに入港、支隊はそれぞれ上陸しバンダ海方面の防衛強化のため第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)の指揮下に編入され、第四十八師團よりタニンバル、アル諸島の警備を継承、海軍のミミカ、ケイ防衛に協力すべく、歩四十二聯隊本部、第三大隊はタニンバル諸島、歩四十二第一大隊はアル諸島、歩十一第一大隊はニューギニア南西海岸のミミカ(2月21日進出)、支隊司令部、野砲五第三大隊はケイ諸島へ部署され、南方軍第三船舶輸送隊により輸送が開始されます。
※アンボンからケイ諸島までは大型輸送船2隻にて輸送、ケイ諸島からアル、タンニンバル各諸島、ミミカへは危険なため海上トラック4隻で輸送

▲第五師團関連地名

1月8日、歩四十二聯隊本部、第三大隊は第一吉田丸に乗船(ほかチモール行2隻)とともに駆潜艇の護衛のもとスラバヤを出港、10日、サンゴ礁において座礁、同船は自力で離礁できなかったため、起重機船の到着を待ち離礁、16日、アンボンに入港、タニンバル諸島は敵制空権下にあったため輸送は海軍が担当し、駆逐艦「松風」、水雷艇「雉」により2月4日から4次に渡り実施され、23日、完了します。
2月3日1000、第一大隊が進出したドボにB17爆撃機6機が来襲、海軍桟橋が空襲を受け、救援に向かった第一中隊長・石渡中尉、同小隊長・山本少尉が散華してしまいます。
歩四十二主力はセラル島に展開、アダウトに聯隊本部、ワラインに第十中隊、リンガットに第三大隊本部、第九・第十一中隊を配置、ナムタブンに物資集積所を開設し陣地築城を開始します。

昭和18年1月7日、第五師團は第四十八師團、野戰重砲兵第三聯隊第二大隊、野戰高射砲第四十四大隊、迫撃第五大隊とともにアロール海峡-サウ諸島東端(同島含まず)以東、蘭領ニューギニアと英領ニューギニアの境界までの防衛を担当する第十九軍(冨永信政中将、アンボン、第二方面軍隷下、1月18日統帥発動)戦闘序列に隷属転移、9日、師團先遣隊として歩二十一(第一・第二大隊)は昭南港を出港、13日、ジャワ島ジャカルタに上陸、17日、スラバヤに移駐、1月15日、師團主力(歩十一第二大隊、野砲五第一・第二大隊、捜索五、輜重五)は昭南港に集結、21日、昭南港を出港、24日、ジャカルタに上陸、鉄道輸送にて東部ジャワのマランに集結します。

2月9日、軍は師團にバンダ海方面への転進を下令しますが、師團長・山本務中将は補充兵の教育未了な事に加え、海上輸送能力の低下による軍需品輸送の集積遅れから2月下旬への延期を具申、第十九軍司令官・富永中将、さらに南方軍の賛同も得るも、大本營は我軍のガダルカナル島転進(2月7日)により作戦の自由を得た敵が、次期目的地に自在に侵攻して来ると判断、軍に師團の急速展開を要請して来ます。

2月16日、師團長・山本中将は隷下部隊に教育訓練を下令しますが、17日、軍参謀長・佐々真之助少将が来隊し『緊集作命第十一號 第十九軍命令』により師團司令部にバボ進出、杉浦支隊方面(タニンバル、アル、ケイ諸島、ミミカ付近、西部ニューギニア要地)への移駐を伝達します。

2月19日、歩十一(本部、第五・第八・聯隊砲・速射砲・第二機關銃、通信中隊、第二大隊砲小隊)は軍直轄となる第二大隊(尾形公大尉)、第六(佐伯正大尉)、第七中隊(岩田光儀大尉)を残置、「桑山丸」、「國玉丸」に分乗、「神水丸」、「臺東丸」とともに第一号駆潜艇の護衛のもとスラバヤを出港します。
21日1508、サンゲアン島北方7浬において船団は之字運動のため面舵に転舵した直後、「桑山丸」(聯隊本部、第二機關銃中隊半部、聯隊砲〃、速射砲〃、通信〃、第二大隊砲小隊、第一大隊補充員)が敵潜の魚雷を二番船倉左舷に被雷、聯隊長・高橋辯大佐は全員を甲板に呼集するとともに船長の「沈没は必至、また沈没渦に巻き込まれる可能性大」との意見に、1540、退船を下令、高橋大佐は旗手・岡光教少尉とともに軍旗を奉じ右舷の救命艇にて退船、1730、駆潜艇に軍旗を奉安ののち、救命艇に残り救助作業に復帰、2000、作業を終了(12名散華)し「神水丸」、2110、駆潜艇に移乗します。
21日夕刻、「臺東丸」はケンダリーに向かい(23日1100、入港、同船の救助者252名は千光丸にて27日1700、アンボンに上陸)、22日0100、船団は出航、24日2130、アンボンに入港、26日0900、「國玉丸」はアンボンを出港、バボを経由しカイマナに入港、同地より舟艇機動にて、3月10日、ミミカに到着します。
3月12日、「桑山丸」乗船者は「旭光丸」に乗船してアンボンを出港、バボ、イナワタンを経由し、20日1500、カイマナに上陸、4月4日、聯隊本部は水雷艇「雉」に乗艇しミミカに、3月22日、他は同地対岸のマトアに移駐し敵機の空襲下、飛行場設定作業を援助ののち、6月、ミミカに移駐します。

3月6日、歩十一第二大隊主力、第七中隊は第一吉田丸に乗船しスラバヤを出港、11日、アンボンに上陸、22日、第二大隊本部、第六中隊がアンボンに上陸し軍直轄となります。

20日、歩二十一(第三大隊欠)は第十六戰隊の軽巡「鬼怒」、「球磨」に分乗しスラバヤを出港、27日、ニューギニア島カイマナに上陸、3月13日、先発隊の第一大隊(中瀬幸雄少佐)は海上トラック第二十二(中瀬少佐以下230名)、二十七良友丸(第四中隊長・加藤光雄中尉以下220名)に分乗、第二十四特別根據地隊の第五拓南丸(駆潜艇長・進藤寛治予中尉以下30名)の護衛のもと、14日、同地を出港しますが、アラフラ海を南下中、4度に渡り延べB17爆撃機20機(うち2機撃墜、2機撃墜確実)の銃爆撃により第一歩兵砲小隊長・西本中尉以下16名散華、90名が負傷してしまい、15日、アル諸島北端のワマル島ドボに上陸、6月17日、聯隊の転進が完了し、トラウガン島ドカに聯隊本部を設置します。

3月2日、師團長・山本中将は輸送機にてマランを離陸、アンボンを経由し、3日、バボに進出、同日、杉浦支隊は第五師團に復帰、山本中将は師團隷下、指揮下部隊を以下に部署し部隊の移駐、軍需品の輸送を開始しますが、海上護衛力、船舶の不足、敵機、敵潜水艦の出現により著しく遅滞している現状に鑑み、7月、師團はアンボン連絡所を強化するとともに、第十九軍も友軍機の援護のもと機動艇(海上トラック)による強行突入輸送を開始、並行して各拠点では夜間揚陸作業の強化、道路網の整備、自動車、自動貨車の優先輸送、迅速な揚陸点の開放、及び物資の分散集積による被害の極限化を徹底、9月、各部隊に糧秣1年分、弾薬1会戦分の展開集積に成功します。

3月3日、師團司令部のバボ進出時の部署
離島防衛團(第五歩兵團長・杉浦英吉少将、ケイ諸島)
 歩兵第二十一聯隊(第三大隊欠) アル諸島
 (4月15日、歩二十一到着、18日、歩四十二第一大隊は任務を移譲しケイ諸島へ移駐)
 歩兵第四十二聯隊(第二大隊欠) タニンバル諸島セラル島、ケイ諸島
 歩兵第四十七聯隊第三大隊(第四十八師團隷下) タニンバル諸島ヤムデナ島サラムキ
 野砲兵第五聯隊第二大隊 ケイ諸島
 野砲兵第五聯隊第三大隊 アル諸島トラウガン島
 工兵第五聯隊2個中隊
※各諸島、ニューギニア島南西

以下ニューギニア島南西海岸部を東から
ミミカ防衛隊(歩十一聯隊長・高橋辯大佐)※駐留していたのはケクワ
 歩兵第十一聯隊(第二・三大隊欠)
 野砲兵第五聯隊1個中隊
 工兵第五聯隊1個中隊

カイマナ防衛隊(捜索第五聯隊長・佐伯靜夫大佐)
 捜索第五聯隊(2個中隊欠)
 工兵第五聯隊1個中隊

バボ防衛隊(輜重兵第五聯隊長・上木隆之大佐)※師團司令部所在
 輜重兵第五聯隊

イナワタン防衛隊(野砲兵第五聯隊長・中平峰吉大佐)
 野砲兵第五聯隊(第二・三大隊欠)

船舶部隊・・・師團隷下部隊の展開、海上局地輸送
 船舶工兵第四聯隊(渡邊三郎大佐)、第七揚陸隊

各隊は各拠点に進出後、陣地の強化、築城を開始、3月末、離島防衛團はさらにタニンバル諸島セラル島(歩四十二主力)、アル諸島シア、ドカバラ(ともに歩二十一)、ケイ諸島低ケイ島(歩四十二第一大隊)に飛行場の、またカイマナ防衛隊はタメロマ地峡(ピンツニー湾カイテロ河-カンラウ湾間の狭窄部)にカイマナ-バボ間20㎞の連絡路設定を開始します。

4月3日、歩十一聯隊本部はケクワに進出、第一大隊を掌握(聯隊集結は7月下旬)、飛行場設定を開始しますが、5月上旬、在地の海軍警備隊、俘虜から得たネラウケ、タナメラ、アガチ、ハッペマ湖、ウィッセル湖ほか離島に点在する豪軍諜報員の拠点情報の情報収集、及び覆滅のためウィッセル派遣隊(第三中隊長・梅村尚中尉、45名)を編成、5月14日、隊は大発にてケクワを出発、ウタ河を遡航、20日、ウィッセル湖付近に到着、6月23日、偵察中の6名が土人に襲撃されたため、支援のため第二中隊の一部、第五中隊を派遣隊に追加、警備にあたります(10月6日、撤収)。

7月5日、工五はサガに上陸し師團に復帰、マラリアが蔓延し作業が遅滞していたカイマナ-バボ間連絡路の設定に加入し8月頃竣工、8月28日、歩四十二第二大隊がセラル島リンガットに上陸し聯隊に復帰、同島カンダル以北の守備を担当します。

南東方面の戦局進展に伴い大本營は敵の侵攻を春亀(ハルマヘラ、ニューギニア)で阻止すべく春、及び亀の頭(ニューギニア北東部)に防衛拠点とすべく飛行場の急速設定を企図、8月1日、師團は歩十一、歩二十一、歩四十二から要員を抽出、それぞれ鯉臨時第一(小田二三男中尉)・第二(岩本三枝中尉)・第三飛行場設定隊(三隅道夫少尉)を編成、8月30日、鯉臨時第一・第三飛行場設定隊はバボを出発、ソロン、マノクワリを経由し、9月7日、ヌルホン島に進出、カメリー飛行場の設定にあたります。

8月下旬、第十九軍はラエ、サラモアの戦闘に加入した歩二十一第三大隊の師團復帰が滞留している状況に鑑み、離島防衛強化、飛行場設定を推進するべく輜重五をバボから軍司令部所在のアンボンに、サガの第十中隊(牧村忍中尉)、アンボンの軍直轄・第二大隊(第六・第七中隊)にアル諸島(アル防衛隊指揮下)への移駐を下令、第十中隊は8月22日、第二大隊は30日、トランガン島ドカに向かいます。

9月18日、チモール島東部のラウテン前進監視哨(電波警戒機乙)が「東南東85㎞に敵船団100隻」を探知しますが、直後に誤報と判明します。

23日0630、アル防衛隊が「敵大型舟艇14隻がウジル島に上陸を企図し前進中」を報告、師團長・山本中将は上陸戦闘を部署しますが、24日、「大型舟艇は民間船及び土人舟と判明」と誤認が報告、25日、上陸戦闘部署命令は取り消されなかったため、歩十一第三大隊はサガよりカイマナに移駐し捜索五指揮下に編入されます。

昭和18年9月頃から師團への糧食補給は低下、昭和19(1944)年3月、師團は現地自活指導部(参謀長)、各隊は現地自活班、物資収集班、農耕班、漁労班などを編成し糧食確保にあたります。
師團は点在する島々の防衛には原住民の協力は不可欠とし強圧的に接して反感を持たれない様、また食料獲得に際しても原住民の生活を圧迫せぬ様に指示、我軍への全面的協力、余剰農産物の買い上げを依頼し協力を得ます。

8月31日に師團戦闘司令所をケイ諸島ケイズラ島トアルに前進させ作戦指導にあたっていた師團長・山本中将は10月1日、カイマナに進出、4日、野砲五、6日、師團司令部、14日、工五もそれぞれベラウ湾よりカイマナに移駐します。

10月、展開完了時の配置
離島防衛團(第五歩兵團長・杉浦英吉少将、ケイ諸島)
 歩兵第二十一聯隊(第三大隊欠) アル諸島
 歩兵第十一聯隊第二大隊(本部、第六・第七中隊)、第十中隊 アル諸島
 歩兵第四十二聯隊主力 タニンバル諸島セラル島
 歩兵第四十二聯隊第一大隊 ケイ諸島
 歩兵第四十七聯隊第三大隊(第四十八師團隷下) タニンバル諸島ヤムデナ島サラムキ
 野砲兵第五聯隊第二大隊 ケイ諸島
 野砲兵第五聯隊第三大隊 アル諸島トラウガン島
 工兵第五聯隊(第一中隊欠) アル諸島
※各諸島、ニューギニア島南西

以下ニューギニア島南西海岸部を東から
ミミカ防衛隊(歩十一聯隊長・高橋辯大佐)※駐留していたのはケクワ
 歩兵第十一聯隊聯隊砲・速射砲・通信中隊
 歩兵第十一聯隊第一大隊(第四中隊欠)
 歩兵第十一聯隊第二大隊(第五・第八・第二機關銃中隊、大隊砲小隊)
 野砲兵第五聯隊1個中隊
 工兵第五聯隊第一中隊

カイマナ防衛隊(野砲兵第五聯隊長・中平峰吉大佐)
 師團司令部
 野砲兵第五聯隊本部
 工兵第五聯隊本部
 歩兵第十一聯隊第三大隊(第十、第十一中隊欠)

バボ防衛隊
 第五師團司令部
 捜索第五聯隊

第十九軍直轄
 輜重兵第五聯隊・・・アンボン

10月30日、大本營は満洲国斉斉哈爾にあった第二方面軍司令部(阿南惟幾大将)及び隷下の第二軍司令部(豊島房太郎中将、間島→11月30日、マノクワリ)を亀の頭(西部ニューギニア)防衛のため転用(大本營直轄)を下令、11月29日、阿南大将は東京、マニラ、アンボンを経由しミンダナオ島ダバオに進出、12月1日、統帥を発動、第十九軍は同方面軍戦闘序列に編入されます。
第二方面軍司令部は第五師團に飛行場強化を下令、既存飛行場を整備するとともに低ケイ島に1(歩四十二第一大隊)、ケイ諸島ズロア島に2(歩四十二主力)、ヤムデナ島に1(歩四十七第三大隊)、アル島に1(歩二十一)、ウタに1基(歩十一)の設定を開始します。

昭和19(1944)年1月5日、歩二十一指揮下(アル諸島トラウガン)にあった歩十一第二大隊は師團直轄(逆上陸部隊)としてケイ諸島への転進が下令され、2月2日、大隊は村陽丸に乗船しセルワツを出港、ドボを経由し、ケイズラ島フジタンに上陸、10日、船舶工兵第七聯隊において舟艇機動の演習を開始します。

31日、歩二十一第三大隊が聯隊に復帰します。

第二方面軍、第十九軍は豪北方面に来寇せる敵はタニンバル諸島及びチモール島への上陸の公算大と判断し、タニンバル諸島ララト島、セラル島を航空要塞化し、また無人のララト島に兵力展開を計画、4月17日、師團は軍の作戦計画に基づき部隊を以下に部署します。
タニンバル防衛團(第五歩兵團長・柏徳少将、タニンバル諸島)
 セラル防衛隊
  歩兵第四十二聯隊(第一大隊・第七中隊欠)
  歩兵第四十七聯隊第三大隊
  捜索第五聯隊1個中隊
  野砲兵第五聯隊第二大隊

 ララト防衛隊
  獨立工兵第三聯隊(第一、第二中隊欠)
  歩兵第十一聯隊第二大隊(第五・第八中隊欠)
  歩兵第四十二聯隊第七中隊
  野砲兵第五聯隊1個中隊

 アル防衛隊
  歩兵第二十一聯隊
  捜索第五聯隊1個中隊
  野砲兵第五聯隊第三大隊
 
 ケイ防衛隊
  師團司令部(ケイズラ島トアルに進出)
  野砲兵第五聯隊(第一大隊第一中隊)
  歩兵第十一聯隊第十中隊
  歩兵第四十二聯隊第一大隊
  工兵第五聯隊

 ウタ防衛隊
  歩兵第十一聯隊(第四中隊、第二大隊(第五・第八中隊欠)、第三大隊欠)
  野砲兵第五聯隊第四中隊

 カイマナ防衛隊
  船舶工兵第四聯隊
  歩兵第十一聯隊第三大隊(第十、第十一中隊欠)

 オンバ防衛隊
  捜索第五聯隊(第三、第四中隊欠)・・・ニューギニア防衛隊長
  
 第十九軍直轄
  輜重兵第五聯隊・・・アンボン
  歩兵第十一聯隊第十一中隊・・・セラム島

5月12日、第五歩兵團長・柏徳少将は第二方面軍司令部附に補職、17日、第五歩兵團司令部は復帰、タニンバル防衛團の編組が解かれセラル、ララト両防衛隊は師團直轄となります。
4月22日、米軍が亀北岸のホランジア、アイタペに上陸、急迫する戦局に大本營はニューギニアの防衛線を亀西端のソロンに設定、兵力増強のため第三十二師團、第三十五師團の進出を企図しますが、敵制海権下の輸送は遅滞、一方マノクワリ、ソロンに所在する多数の滞留部隊を急速戦力化すべく第五歩兵團、第十八歩兵團(チモール島)を復員、両歩兵團の要員により旅團新設を計画します。

確保前線の大幅後退に伴いミミカ、ウタ(ともにニューギニア南岸)、タニンバル諸島、アル諸島、ケイ諸島は突出、第十九軍司令部は第五師團の作戦計画を島嶼防衛から広大な地積を有するセラム島での持久に変更するとともにウタ、アル諸島トラウガン島ドカ、タンニバル諸島ララト島の飛行場設定を中止します。

6月28日、軍はウタ防衛を進出予定の歩百四十五に充当、歩十一のケイ諸島への移駐を下令(「竹演習」)、30日、各隊の設営者をカイマナに集結、ケイズラ島トアルに渡航、7月2日、歩十一第三大隊はカイマナを出港、3日、ケイズラ島ズラに上陸、12日、ワインラマに進出、28日、同第二大隊はララト島を出港、30日、低ケイ島デプトに上陸しエプに進出、8月4日、聯隊主力はケクワを出発、6、7日、カイマナを出港、9日、トアルに上陸、20日、ヌフロア島コルセールに進出、8月13日、ケクワに残留の第一大隊(安川正清少佐)はニューギニア防衛隊長(捜五・佐伯大佐)指揮下に編入されウタ(本部、第二・第三中隊)、ケクワ(第一中隊)の防衛にあたります。

亀北岸に侵攻した敵は、6月15日、サイパン島(7月7日、玉砕)、7月21日、大宮島(グアム)(8月11日、玉砕)、24日、テニアン島(8月3日、玉砕)に上陸、7月29日、大本營は敵の侵攻路から豪北方面の確保要域をハルマヘラ島(第三十二師團)、ソロン(第三十五師團)、セラム島(第五師團:当時、軍直轄の歩十一第十一中隊がブラに所在したのみ)、チモール島(第四十八師團)に策定、8月7日、第十九軍は第五師團にセラム島への3個大隊派遣を下令します(中止)。
敵がさらに9月15日、パラオ諸島ペリリュー島、モルッカ島モロタイ、10月20日、フィリピン・レイテ島、12月15日、同ミンドロ島に上陸するにおよび、南方戦線は本土との連絡が分断され、第二方面軍は東側正面の戦備から西側、昭南島(シンガポール)を中心とする南西方面への戦備に転換を計る事になります。

9月、師團司令部はセラム島ピルに移駐、師團長・山田清一中将はセラム島への兵力集結を企図し、歩十一主力はジャワ島に前進し、第十六軍司令官指揮下に編入、歩二十一はアル諸島に大隊長指揮の1個大隊(2個中隊)を残置し、主力はセラム島に移駐、歩四十二は大隊長指揮の1個大隊(3個中隊)をサラムキ付近に残置し、主力はケイ諸島に移駐し離島防衛隊長(野砲五聯隊長)の指揮下に編入、野砲五聯隊長は離島防衛隊長としてタニンバル諸島、アル諸島、ケイ諸島の防衛に任じ、工五はセラム島に移駐、捜索五は歩十一第十一中隊を歩十一に復帰させ、現任務を続行を下令します。
輜重五は第十九軍司令官直轄のままセラム島ピルに移駐します。
師團参謀長・濱島厳郎大佐、後方参謀・森康則中佐はケイ諸島に残留し各隊の集結輸送を指揮、敵機の妨害は殆ど無いものの輸送力の低下から各隊の転進は停滞します。

10月、歩四十二はタニンバル諸島防衛の拠点をセラル島から地積が広く持久に適したヤムデナ島に変更、第二大隊(第三大隊があったカンダルに移駐)を残置し聯隊主力はヤムデナ島南部に移駐開始、11月、聯隊本部、野砲五第二大隊をカビアラットに、第三大隊をアイル・ブサール地区、歩四十七第三大隊を同島東海岸に配置します。

南方軍は中部太平洋方面、ビルマ方面の急迫する戦局に、第二方面軍の兵力を南西方面への転用を計画、12月24日、方面軍は師團に南方軍命令として歩兵3個大隊、野砲兵1個中隊の抽出と昭南島への転進、第七方面軍(板垣征四郎大将)指揮下編入を下令します。

歩兵第二十一聯隊 第三大隊
抽出に関し南方軍は泰緬国境付近の馬来方面の防衛強化のため1個大隊400名、1個中隊170名の抽出を要請します。
11月13日、聯隊はセラム島への移駐を下令され転進準備中の第三大隊(佐伯正少佐)を転進部隊に指定、昭和20(1945)年1月25日、大隊を基幹として臨時混成第二大隊の編成が完結、2月8日、アンボンに集結します。
3月16日、大隊先発隊の第八中隊(旧第十二中隊)は混成第一大隊(歩十一より抽出)先発隊とともに機帆船「第五御崎丸」に乗船しアンボンを出港、18日より3日に渡りB24爆撃機の空襲を受けつつ、20日、セレベス島ケンダリーに入港します。
3月20日、大隊主力は敷設艦「若鷹」に乗艦しアンボンを出港しますが、27日0800、敵潜水艦の魚雷を艦首に被雷、沈没は逃れたものの衝撃により佐伯正少佐が頭部を強打し散華するなか、4月2日、スラバヤに入港しジャカルタに移駐、第九十四師團(四手井綱正中将、馬来)隷下の輜重兵第九十四聯隊(松田正松大佐)配属を下令されます。
6月5日、大隊は第五戰隊の重巡「足柄」に乗艦、7日、出港しますが、8日1215、バンカ海峡北側において敵潜の雷撃を受け足柄は魚雷5本を被雷し沈没、駆逐艦「神風」に乗員853名、便乗者400名が救助され、6月下旬、昭南島に上陸し昭南防衛隊(ジュロンを中心とした西部地区)に部署されテンガー地区に集結、同地区の守備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

歩兵第十一聯隊 第三大隊
昭和20(1945)年1月18日、聯隊は第三大隊を基幹として野砲兵五から抽出の88名、師團衛生隊から抽出の77名を加え、臨時混成第一大隊(伊丹忠雄少佐)を編成、輸送力の低下から舟艇機動にて、30日~4月14日、逐次アンボンに集結の後、スラバヤ、次いでジャカルタに移駐します。
7月上旬~下旬、大隊は昭南に渡航、昭南防衛隊(ジュロンを中心とした西部地区)に部署され、陣地築城を開始します。

歩兵第四十二聯隊 第三大隊
昭和20(1945)年4月1日、師團は聯隊に第三大隊を1,000名に充足し昭南島への転進、第七方面軍(板垣征四郎大将)指揮下への編入を下令します。
2日、聯隊は第三大隊を基幹として臨時混成第三大隊(八木寉巳少佐)を編成、29日、先発隊(高祖淳哲中尉)がタニンバル諸島サムラギを出港、5月上旬、第十中隊(朝枝照英大尉)が同地を出港、19日、アンボンに集結、29日、水雷艇「雉」に乗艇しアンボンを出港、7月1日、スラバヤに入港、列車にてジャカルタに移動しタンジュンプリオク港を出港、29日、昭南港に入港し、昭南防衛隊(ジュロンを中心とした西部地区)に部署され、陣地築城を開始します。
※第三大隊の抽出に伴い、第二大隊が第五中隊を残置しセラル島からヤムデナ島に移駐

大隊主力は第九、第十二、第十一中隊の順に逐次サムラギを出港、アンボンを経由し、8月6日、スラバヤに上陸、船便待機中の16日、停戦を迎えます。

第五師團主力
歩兵第十一聯隊

昭和20(1945)年1月、大本營は南西方面の確保要域を仏印、泰國、馬来、蘭印スマトラに策定、孤立した豪北方面兵力の南西方面への全力転移を決定、1月15日、第四十八師團(小スンダ列島)に馬来転進を下令します。

2月28日、第十九軍司令部は復帰、師團は第二方面軍戦闘序列に隷属転移します。

5月、南方軍は第七方面軍に『濠北方面兵力抽出輸送要領』を示達、6月12日、第七方面軍は光輸送(セラム島、離島からの兵力抽出輸送14,000名)、松號輸送(セレベス地区〃、7,600名)、十一號輸送(第四十八師團の移駐36,300名)各計画を策定します。

6月13日、第二方面軍は復帰、師團は第二軍(豊島房太郎中将)戦闘序列に編入されます。

7月27日、第二軍は第五師團に第一次光輸送を下令、30日、師團はケイ諸島の歩十一第一(安川正清少佐)・第二大隊(横小路喜代美少佐)、及び歩四十二第十一中隊(福田賴助大尉)に転進準備を下令、乗船部隊1,562名は兵器、弾薬を梱包、赤十字を添付、全員に架空の病床日誌、部隊名、偽名、病名、出身地が付され白衣を着用、8月1日1800、病院船「橘丸」(秘匿名 海上トラック「広瀬丸」)に乗船、スラバヤに向け(最終目的地は昭南島)ヅラ港を出港します。
7月30日0600、聯隊長・佐々木五三大佐、高級副官・山本茂大尉、聯隊旗手・中宇根諭准尉、当番兵・西尾國男兵長、旗護兵3名は軍旗を捧じて重爆にてラングールを離陸、0800、アンボン島リアン飛行場に着陸、4日2200、第三大隊へ復帰のため同島集結中の第十一中隊(松島正次大尉)を軍旗中隊として水雷艇「雉」に乗艇、6日1530、スラバヤに上陸、列車にてジャカルタに前進します。

8月2日、バンダ海を航行中の「橘丸」はPBYカタリナの追従を受け、3日0630、セラム島南方(東方とも)において米駆逐艦コナー、同チャレットにより拿捕され臨検、6日、モロタイに回航され乗船者は上陸、11日、「橘丸」、米軍輸送船に分乗しモロタイを出港、16日、マニラに上陸、モンテンルパ刑務所、次いでカンルパン収容所に収容されます。

8月6日、ケイ島トアルの師團戦闘司令所にて転進輸送の指揮を採っていた師團参謀長・濱島厳郎大佐は豪州の無線を傍受し「橘丸」拿捕を知り、師團司令部に招致されますが、責任を採って拳銃で自決します。

15日1200、ジャカルタの海軍集会所において聯隊長・佐々木大佐、高級副官・山本大尉は『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、ジャカルタ飛行場を輸送機にて離陸、1600、軍旗を捧じて聯隊長・佐々木大佐以下、高級副官、聯隊旗手、当番兵、旗護兵3名は昭南島テンガー飛行場に進出、第三大隊長・伊丹少佐、古道中尉、前聯隊副官・大川幸三郎大尉の出迎えを受け、同日夜、将校会食の際に聯隊長・佐々木大佐より停戦が伝達されます。
※聯隊長・佐々木大佐はかねてより胸部失陥を患い、9月5日、南方第一陸軍病院大和分院に入院、11月22日、同院において死去

8月24日、陸相より25日から31日の間に軍旗を奉焼する旨が示達されます。
26日夕刻、歩十一の軍旗は昭南島周辺に所在した歩兵聯隊の軍旗8旒とともに昭南神社に集結、各聯隊長、旗手は拝殿内において第七方面軍参謀長・綾部橘樹中将の指示で旗頭の菊の御紋が取り外され、斎庭において同方面軍司令官・板垣征四郎大将以下が侍立のもと綾部中将の合図で奉焼されます。

歩兵第二十一聯隊
昭和20(1945)年1月26日、第一大隊は大発に分乗、ドカバラを出港、ケイ諸島ヅラに上陸、2月26日、出港、19日、アンボン上陸、3月4日、同島トレク出港、5日、セラム島エルパプラーに、6月23日、聯隊本部がドカバラを出港、ケイ諸島を経由し、8月1日、セラム島ピルに上陸、8月3日、聯隊本部・第一大隊をホニテトに配置し作戦準備にかかりますが、輸送力不足により第二大隊(坂井利博大尉)はアル島に停滞します。

15日、佐々木大佐は師團司令部より出頭命令を受領、ウィセラムを小発で出発、17日、師團司令部において『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発と師團長・山田中将の自決を伝えられ、18日、帰隊します。

8月25日、ホニテトにおいて最後の軍旗祭を挙行、31日、師團命令に従い軍旗奉還式執行ののち、全将校参列のもと山上の草原内に造った孔に旗竿、菊の御紋など金属部分を破甲爆雷にて爆砕後、軍旗を安置しガソリンをかけ奉焼、佐々木大佐の抜身の軍刀を守り刀としてともに埋設します。

歩兵第四十二聯隊
昭和20(1945)年8月1日、聯隊は第二軍直轄となりマカッサルへの移駐が下令、9日、聯隊本部、聯隊長・吉川章大佐、聯隊旗手・矢野健中尉は軍旗を捧じて第一次輸送としてタニンバル諸島ヤムデナ島カラビアットを大発にて出港、12日、ララト島に上陸、15日、ララト島を出港、16日、モル島に退避、17日、ケイズラ島トアルに上陸、出迎えた第一大隊長・小坂少佐より停戦を知らされます。

18日、トアルの兵舎(旧歩十一兵舎)広場において半割のドラム缶を横にしガソリンを半分満たし、鉄棒数本を渡した上に軍旗を安置、聯隊長・吉川大佐、第一大隊長・小坂少佐、各中隊長侍立のもと奉焼、菊の御紋は爆薬により破砕されます。


8月15日、セラム島ピルの師團司令部において『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝した師團長・山田清一中将は「橘丸」拿捕の責任を取り拳銃で自決、ジャワ燃料工廠長・小堀金城少将が師團長代理として残務整理にあたります。

在昭南島部隊は30日、ジュロンに屯営、市内の治安維持、刑務所、発電所、銀行など重要施設の警備にあたり、9月5日、英軍の進駐に伴い警備を移譲、5日、英軍の指示でジョホールバル州コタチンギに移駐、10日、マレー半島東岸を北上しジュマルアン、11月2日、センプロンに移駐、クルアン飛行場において戦犯容疑者の検問を通過、15日、クルアンを列車にて出発、16日、シンガポールに到着、レンバン島に移送されます。
同地において100名がシンガポール作業隊として抽出され、他は宿舎を建設し自活を開始、昭和21(1946)年1月29日、特別内地帰還輸送船の第一便が出港、昭和22(1947)年7月14日、最終便が宇品に入港し復員します。

在豪北部隊は9月22日、豪軍がアンボンに進駐、在セラム、アル、ケイ、タニンバル諸島の陸海軍部隊は第二十五根拠地隊司令官・一瀬信一海軍少将の指揮のもと、豪軍指揮下に入り、兵器、弾薬類を引き渡し、それぞれセラム島、ケイ諸島ケイズラ島、同ズロア島に集結を命ぜられ自活を開始します。
昭和21(1946)年5月20~30日、ケイズラ島トアル、その後6月中旬、セラム島アサウデなどから特別内地帰還輸送船が出港、昭和21(1946)年6月10日、最終便が田辺に入港し復員します。

-歴代師團長-
野津道貫 中将 明治21(1888)年5月14日 ~
奥保鞏 中将 明治27(1894)年11月29日 ~
山口素臣 中将 明治29(1896)年10月14日 ~
上田有沢 中将 明治37(1904)年3月17日 ~
木越安綱 中将 明治37(1904)年11月2日 ~
大谷喜久蔵 中将 明治42(1909)年9月3日 ~
小原伝 中将 大正4(1915)年5月24日 ~
福田雅太郎 中将 大正6(1917)年8月6日 ~
山田隆一 中将 大正7(1918)年10月10日 ~
鈴木荘六 中将 大正8(1919)年3月18日 ~
山田陸槌 中将 大正10(1921)年6月15日 ~
岸本鹿太郎 中将 大正12(1923)年8月6日 ~
牧達之 中将 大正15(1926)年7月28日 ~
原口初太郎 中将 昭和3(1928)年8月10日 ~
寺内壽一 中将 昭和5(1930)年8月1日 ~
二宮治重 中将 昭和7(1932)年1月9日 ~
小磯國昭 中将 昭和9(1934)年3月5日 ~
林桂 中将 昭和10(1935)年12月2日 ~
板垣征四郎 中将 昭和12(1937)年3月1日 ~
安藤利吉 中将 昭和13(1938)年5月25日 ~
今村均 中将 昭和13(1938)年11月9日 ~
中村明人 中将 昭和15(1940)年3月9日 ~
松井太久郎 中将 昭和15(1940)年10月15日 ~
山本務 中将 昭和17(1942)年5月11日 ~
山田清一 中将 昭和19(1944)年10月2日 ~ 昭和20(1945)年8月15日 自決
(師團長代理)小堀金城 少将 昭和20(1945)年8月15日 ~


第三十九師團(藤六八六〇/司令部:藤八九二一)
昭和11(1936)年6月3日、『帝國國防方針』が改訂され、仮想敵国に米国、ソ連、支那に英国を加え、従来通り速戦即決を主義とするも、長期持久戦を予測し、これに耐えうる覚悟と準備が付加されます。
陸軍省はこの方針に則った本格的軍備充実計画立案に先立ち、ソ連に対抗できうる兵力の整備、特に航空兵力の飛躍的増強を計画、昭和10(1935)年、『陸軍航空防空緊急充備計畫』に着手、『昭和十年度軍備改變要領』(軍令陸乙第三號)を策定し昭和10~13年の間に防空部隊(飛行隊、高射砲隊)の拡張を図ります。

昭和11年5月、『昭和十一年度軍備改變要領』(軍令陸乙第十九號)を策定、『「陸軍平時編制」改訂』(軍令陸乙第十八號)により5ヶ年計画で兵備改変、6ヶ年計画で作戦資材の整備に着手します。

11月、『軍備充實計畫ノ大綱』が作成され陸軍部内に内示、昭和17年度までに約40個師團、飛行約140個中隊の整備が示達されます。

昭和14(1939)年8月1日、軍令陸甲第二十一號により留守第五師團に第三十九師團の動員下令、2日、編成着手、10日、編成完結(村上啓作中将)、各部隊は最寄りの演習場において編成を進めつつ訓練を実施します。
第三十九師團司令部
 第三十九歩兵團司令部
  歩兵第二百三十一聯隊
  歩兵第二百三十二聯隊
  歩兵第二百三十三聯隊
 野砲兵第三十九聯隊
 工兵第三十九聯隊
 輜重兵第三十九聯隊
 第三十九師團 通信隊
  〃 兵器勤務隊
  〃 衛生隊
  〃 第一野戰病院
  〃 第二野戰病院
  〃 病馬廠

10月8~9日、各隊は兵営を出発、広島に集結、輸送船13隻に分乗し宇品を出航、同日、師團は中支那派遣軍戦闘序列の第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、船団は長江を遡航、18日、師團は漢口に上陸、第三十四師團(關龜治中将、大阪)から任務を継承、26日、司令部は黄坡に進出し隷下部隊を武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)及び東北方地域に配置、東西120㎞、南北80㎞に渡る広範な地域の警備にあたります。

10月19日、歩二百三十一は第十一軍直轄となり聯隊主力、第十二中隊は漢口、第一大隊は武昌、第三大隊は漢陽に、歩二百三十二は第三大隊を歩兵團主力として残置し北上、26日、主力は河口鎮、第二大隊は黄安城に、第一大隊は京漢線(新陽-漢口間300㎞)及び孝感飛行場に、歩二百三十三は陽羅(漢口下流50㎞)に上陸、1日30㎞強を行軍し聯隊主力は新州、第二大隊は宗埠、第三大隊は師團直轄として陽羅東側の諸城に、捜索三十九は東北方の麻城(昭和15年4月、城壁を破壊し西方30㎞の中館に移駐)に、野砲三十九は主力を宗埠、第二大隊を歩二百三十一、第三大隊を二百三十二、第四大隊を歩二百三十三に配属、工三十九は黄坡城外、輜重三十九、師團通信隊、兵器勤務隊、衛生隊、第一・第二野戰病院、病馬廠は同城城内にそれぞれ進出し警備にあたります。

昭和14年4~11月、第二次整備訓練を完了した支那軍(李宗仁軍50個師40万)は12月中旬、武漢三鎮の奪還を企図し冬季反攻を開始、12月7日、第十三師團(田中静壱中将、高田)の警備地区(第三十九師團警備地の南西)河口鎮、12日、第三師團(山脇正隆中将、名古屋)の警備地区(同北西)応山に侵攻、17日、歩二百三十一第二大隊は増援として自動貨車40両で漢口を出発、第十三師團指揮下に編入、24日、歩二百三十一主力(第一大隊)は漢口に集結し自動貨車70両で出発、第三師團指揮下に編入され信陽に進撃、支那軍を撃退し、それぞれ年末に漢口に帰還します。
昭和15(1940)年1月2日、第一大隊は武昌を出発、第三師團に策応し信陽西方に進撃し敵の退路を遮断、5日、第三師團に撃破され敗走する支那第六八軍、第三〇軍を捕捉撃破、6日、敵の退却拠点・平昌関を攻略し敗敵を追撃、20日、武昌に帰還します。

昭和15年1月15日、歩二百三十二警備地区の麻城に支那軍が侵攻、歩二百三十一第十二中隊は増援に派遣され、2週間の激戦ののち敵を撃退します。

16日、河口鎮西方の夏店(歩二百三十二第三中隊守備)に支那軍が侵攻、歩二百三十二聯隊主力は救援に進撃、歩二百三十一第九・第十二・第三機關銃中隊、輜重三十九第二・第三中隊(軽戦車積載)が増援に派遣されますが、聯隊主力は姑山寺高地(夏店まで13km)で迫撃砲を伴う支那第一七一師の包囲を受け、聯隊長・中村大佐は脚部に被弾し後送(2月3日、後任に大澤寅一大佐)するなど損害を受けるも、21日、援軍と連絡し敵を撃退します。

16日、歩二百三十三(第三大隊欠)は警備地区に侵攻した支那軍を戡定すべく、新州を出撃、黄安、河口鎮に進撃し敵を撃破し、30日、帰還、また第三大隊は1月上旬、第三師團指揮下に編入され広水を出撃、浙河に進撃し敵を撃破、反転に南下、岳口鎮付近の敵を撃破し、30日、帰還します。

23日、歩二百三十一、歩二百三十二、野砲三十九、工三十九は広水を出発、右旋しつつ東進、広水東方25㎞付近で敵を捕捉殲滅、30日、帰還します。

昭和15(1940)年4月10日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図します。
我軍は支那軍が冬季反攻の損害を補填、第三期整備訓練の既成を8月頃と判断、当時、敵は軍左翼の第十三師團正面に蒋介石直系軍の第三三集団軍、中央の第三師團正面に広西軍第一一・三一集団軍、右翼の第三十九師團正面に四川軍第三〇・三二・六八軍、ほか南陽に督戦5個師が配備されていました。

13日、師團は1/4を抽出し留守隊として残置(8月10日、原隊を追求、復帰)し原駐地を出発、400kmを機動し、20日、応山西方地区に集結、野戰重砲兵第六旅團隷下の獨立野戰重砲兵第十五聯隊より2個大隊(十五糎榴弾砲)、1個大隊(十糎加農砲)、第一野戰高射砲司令部より1個中隊(高射砲)を配属され、5月4日0630、配属砲兵隊は攻撃準備射撃を開始、0730、師團左翼(重点攻撃隊)の各歩兵聯隊の第一大隊、右翼の歩二百三十三は滾山に進撃、敵の巧妙な火網形成・地形を活かした堅陣に損害を受けながらも左翼隊は滾山、右翼隊は高城、厲山を攻略、5日、両翼隊は左旋し随県を攻略、右翼に歩二百三十一、歩二百三十三第一大隊、左翼に歩二百三十二、右翼助攻に歩二百三十三主力(野砲三十九1個大隊配属)を部署、2縦隊となって急進、6日、唐県、興隆集、8日、棗陽を捜索三十九(早川一郎中佐)第三中隊(乗馬)が急進し攻略、同地北方において支那第一七二・一七四・一八九師を包囲殲滅します。

11日、棗陽に集結、支那軍は我軍の反転(速進速退)と判断し、北から支那三一集団軍(湯恩伯)、南から第三三集団軍(張自忠)、西から第三九・七五・八四軍が侵攻してきますが、12日、師團は右(漢水側)から歩二百三十三、歩二百三十一、歩二百三十二を部署(攻撃縦隊)し南進、敵の包囲を受けた野戰重砲兵第六旅團司令部(酒井康少将)を歩二百三十三第二大隊が救援しつつ進撃、第十三師團とともに支那第三三集団軍(張自忠上将)を撃破、13日、師團主力は方家集東西の線に進撃、右翼の歩二百三十三はさらに南進し漢水東岸に進撃します。

14日、師團経理部が物資収集中に支那軍の奇襲を受け包囲されたため、工三十九、輜重三十九、歩二百三十一2個中隊、歩二百三十二第二大隊が救援に向かうなか、16日、軍司令部より「敵第三三集団軍総部(司令部)が交戦地付近に所在」の情報に接し、師團はさらに歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二主力を増派、歩二百三十二が敵総部を捕捉包囲、傷病兵患者収容隊の歩二百三十一第十一中隊第一小隊(松本治雄少尉)第三分隊長・堂野軍曹が銃撃、第四分隊長・藤岡卓郎一等兵が刺突し張自忠上将を討ち取ります。

17日、師團は反転攻勢に転移、右から歩二百三十一、歩二百三十二、歩二百三十三を部署し北上、追撃して来た支那第三九軍を撃破しつつ瀼河を渡河、左旋西進し支那軍を殲滅、19日、白河に進撃、20日、白河を渡河し、21日、支那軍を潰走させますが、21日2100、工三十九の地形偵察の誤認により白河渡河中の師團左翼歩二百三十三(第三・第四・第五・第六中隊)、歩二百三十一第一・第四中隊が中洲(中洲を対岸と誤認)に孤立、対岸敵陣から銃砲撃を受け、聯隊長・神埼哲次郎大佐が散華(23日、吉川資大佐着任)するなど300名以上が散華する大損害を受け、22日払暁、歩二百三十一、歩二百三十二が対岸に進出した事から敵は撤退します。

21日、樊城を眼下に望みますが、同付近での渡河は中止され反転、24日、墟家湾周辺に集結、28日、南進を再開し、29日、王家集付近に集結し、作戦第一期が終了します。

31日、白河の轍を踏まないためにも野砲三十九、獨山砲二の支援射撃のもと漢水を渡河、歩二百三十三(歩兵團長・井上芳佐少将指揮)を左縦隊、歩二百三十二を先頭にした師團主力を右縦隊として支那軍を撃破しつつ南進、雷家河付近で歩二百三十一の迂回により敵を撃破、6月3日、宜城-蛮河の線、6日、荊門北側に進撃、捜索三十九が敵戦闘指揮所を急襲し当陽方面の防備配備要図を入手したため宜昌への最短路が判明、8日、淯渓河に迂回し、10日、慈化市を奇襲攻略します。
8日午後、右縦隊の歩二百三十一は当陽北東においてトーチカを主体とした敵第一〇・一三師の縦深陣地に進撃、左翼に第一大隊、右翼に第三大隊を配置し攻撃しますが巧妙な火網(機関銃、迫撃砲)配置に進撃は停止、師團は配属中の獨立山砲兵第二聯隊(原田鶴吉大佐)第三大隊(山砲4)を派遣し、敵の銃砲撃に1700、第一線を交替した第二大隊長・石上少佐が散華するなど損害が増加するなか、10日、敵陣の間隙を突いて主陣地に突撃し攻略、11日、宜昌東方15kmの鴉雀嶺の敵陣を攻略し師團は軍先頭として進撃しますが、軍命令により宜昌東方4㎞で進撃を停止、12日、第十三師團が宜昌を攻略し作戦は終結します。

13日、作戦終了後、師團は原駐地に復帰する予定でしたが、襄西地区を確保する事となったため反転北上を開始、18日、荊門付近の警備にあたります。

25日、7月1日、歩二百三十一第一大隊守備の牯牛嶺、また歩二百三十二第六中隊守備の牛尾山に敵が侵攻しますが堅守し撃退します。

7月2日、歩二百三十二第二大隊(第十・第十一・第三機関銃中隊)は野砲三十九の一部とともに歩三十九旅團長・井上少将指揮下に、師團の脅威となっていた支那第二一師、第九二軍補充団の拠点・猴洞山に進撃、敵銃砲火を突破し山頂の敵陣を攻略します。
同山を攻略した事により師團は北方第一線を子陵舗東西の線に前進させ、猴洞山を含め歩二百三十二が担当、同地に連携する左方山地の黄家集、李家付近に歩二百三十一、右北方の獅子山塊北端の朱家埠及び利河口付近に歩二百三十三を配置します。

11月13日、第十一軍は漢水作戰を発動、陽動牽制として歩二百三十二第二大隊(30日まで)、25~27日、歩二百三十一第一・第三大隊は荊門北方の敵を撃破し、それぞれ原駐地に帰還します。
12月16日、歩二百三十二第二大隊は捜索三十九の自動車で原駐地を出発、軍の糧米購入地・沙市に侵入する敵の拠点・嶺河口の敵を撃破、同地の警備、20日、第三小隊(田中武夫少尉)は十里舗の警備にあたり、昭和16(1941)年1月8日から第二大隊は自動車道の開設工事にあたります。

2月4日、支那新編第二三師が捜索三十九第二中隊(江木少佐)守備の嶺河口に侵攻、9日、一旦は撃退しますが、10日、再び侵攻、11日0200、第二大隊は救援に進撃、増援の第四三師と激戦(大隊長・原少佐、負傷)ののち嶺河口に到着、敵を陣外に撃退します。

11日、軍はこの機会を捉え度々沙市、嶺家口に侵入する敵を殲滅すべく沙東作戰を発動、12日、歩二百三十一(第一・第三大隊)は沙市に集結、18日、嶺河口南方に進撃し新編第二三師を撃破、糧食多数を押収、20日、沙市に帰還します。

2月22日、第十一軍は予南策応作戰を発動、師團は荊北地区に進撃し敵を牽制します。

3月下旬、第四師團の移駐に伴い師團の警備地は沙市を含む李家付近まで拡大、歩二百三十一主力(第二・第三大隊)は沙市、歩二百三十二第一大隊は李家、同第二大隊は孔家湾に移駐します。

5月8日、中支那派遣軍の中原會戰を容易にすべく第十一軍は江北殲滅作戰を発動、歩二百三十二(第二大隊欠)は蛮河付近に進撃、支那軍を撃破し陽動にあたります。

7月上旬頃から穀倉地帯奪取を企図した敵第四三・一五師、保安軍15,000が沙市南東の郝穴付近に集結、軍は捕捉殲滅の戦機として、8月2日、郝北作戰を発動、9月4日より加號作戦(第一次長沙作戦)に出動する第三師團の警備地区を委任され、当陽を警備中の歩二百三十一主力(第二大隊)、利河口警備中の同第一大隊は第十一野戰輸送司令部(物部長鉾少将:沙洋鎮警備隊長)の指揮下に編入され右縦隊に部署され沙市、輸送司令部主力は中央縦隊として沙洋鎮、第四師團より抽出の歩兵4個大隊は左縦隊として岳口鎮を出発します。

左右縦隊は湿地帯の通過に苦戦し進撃が遅滞、3日、中央縦隊は単独で郝穴北方に進撃しますが敵の逆襲により一時北方に転進、4日午後、聯隊は郝穴に進撃しますが、激烈な銃砲火、逆襲により進撃は遅滞、5日、弾薬の消耗により前線より100m離脱したところ、6日、敵は郝穴城で略奪のうえ放火し撤退、聯隊は郝穴城に突入、7日、周辺を掃討、8日、左縦隊が到着、9日、郝穴を出発、10日、沙市に帰還します。

9月1日、第十一軍は支那第九戦区軍を撃破すべく長沙作戰を発動、師團は第十三師團とともに襄西地区の支那第五・第六戦区軍を拘束すべく敵の侵攻を10月10日と判断し、機先を制し4日を期し攻撃を策定(歩二百三十二主力、歩二百三十一2個中隊、歩二百三十三第三大隊、捜索三十九、工三十九、輜重三十九により荊北地区に進撃、敵に端的な一撃を加え反転、沙東又は当陽地区に攻勢を取る)しますが、9月28日、蒋介石は我が配備が手薄な襄西地区(宜昌)奪還を企図し攻撃を下令、同日、敵は南西の長湖方面、29日、北西の荊北、当陽付近から侵攻、師團防衛線全線に渡り支那軍23個師が侵攻、当陽にあった歩二百三十三は玉泉寺-大(土当)坑-淯渓河の線、30日、歩二百三十二は朱家埠、10月1日、野砲三十九は掇刀石、2日、歩二百三十一は沙市、4日、歩二百三十二第三大隊、捜索三十九は塩地届で迎撃します。

29日早朝、大(土当)坑が奇襲されますが、就寝中の歩二百三十三第三中隊(末広中尉)は着の身着のままで撃退、10月2日、沙東に敵栄誉第一師(「栄誉」は蒋介石が武勲のあった精鋭師に与えた称号)、機械化された第十五師が侵攻、歩二百三十一第十一中隊(松本中尉)は包囲され、7日、混成1個中隊、9日、聯隊長・梶浦銀次郎大佐が第二、第三大隊を直卒し救援に向かいますが敵の重囲が突破できず止むを得ず自動貨車5台を突入させ糧食、弾薬を補給、17日、敵は中隊の敢闘に攻略を諦め撤退します。

10月2日、第十三師團が守備する宜昌が包囲され、6日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第三十九師團に宜昌救援を下命、7日、師團は全線に敵の侵攻を受けるなか歩二百三十三第三大隊が出発、敵を撃破しつつ、8日、第十三師團司令部に連絡、8日、司令部護衛中隊の歩二百三十二第六中隊の1個小隊(福島繁少尉)が重爆に搭乗、宜昌飛行場に強行着陸し飛行場の守備に、10日、歩二百三十二第三大隊は歩二百三十三集成2個大隊とともに師團長・澄田𧶛四郎中将の指揮下荊門を出発、13日、宜昌東側の支那軍を撃破、14日、宜昌において第十三師團長・内山英太郎中将と対面、15日、敵は急速に撤退します。

12月30日、師團は敵を牽制し妄動を封鎖すべく冬季山岳作戰を発動、歩二百三十一第一大隊、歩二百三十二第二大隊、歩二百三十三第二大隊は荊北地区に進撃、左旋し遠安を経由、昭和17(1942)年1月6日、原駐地に復帰します。

3月16日、第三十九歩兵團司令部は当陽から沙市に移駐、18日、歩二百三十一第一大隊は師團直轄を解かれ掇刀石から沙市に移駐、同第三大隊は歩兵團直轄として沙洋南方の警備にあたります。

5月30日、敵一一六師、第六戦区軍の一部計1,000が破壊工作のため便衣にて沙市に進入を計るも、警戒中の歩二百三十一第三中隊の歩哨3名が軍人と看破、北方2㎞の回善堂付近で戦闘ととなり混乱状態となった敵を殲滅します。

6月中旬、師團は敵栄誉第一師が郝穴付近で渡河し北侵の情報を偵知、12日、機先を制するべく第二次郝穴作戦を発動、歩二百三十一は左縦隊、捜索三十九、歩二百三十一第九中隊は右縦隊として沙市を出発、15日、郝穴に進撃し敵を撃破、18日、帰還します。

9月30日、第十三師團の重慶方面転出に伴い第三十九師團は宜昌の警備も担当、10月1日、師團先発の捜索三十九が河溶鎮に移駐、事後各隊は移動を秘匿しつつ移駐、24日、師團司令部が当陽に、11月上旬、師團は移駐を完了、師團は宜昌を重点警備地区とし歩二百三十一聯隊本部、聯隊砲中隊、通信中隊、野砲三十九1個中隊は歩兵團司令部とともに宜昌、同第一大隊を宜西(長江対岸(西岸))、同第二大隊を宜北、同第三大隊は歩兵團直轄として横木崗(宜昌南東4㎞)に配置、歩二百三十二聯隊本部、同第三大隊、通信中隊を穿心店、同第一大隊を朱家河、同第二大隊を淯渓河、聯隊砲中隊を乾渓店に配置、歩二百三十三聯隊本部を当陽、同第一大隊を紫金嶺、同第二大隊を龍泉舗、第三大隊を薫市に配置し支那第六戦区軍(第六・一八・三〇軍)と対峙し警備にあたります。

警備地区の拡大に伴い従来1個聯隊で警備していた範囲を1個大隊で警備せざるを得ず、師團は各陣地を強化、整備します。
12月30日、歩二百三十一第一大隊の最左翼、第四中隊の1個小隊(藤田少尉行か40名)守備の中島高地(三五〇高地)に敵1個大隊が侵攻して来ますが、昭和18(1943)年1月1日、小隊は迫撃砲、機関銃により撃退し、師團の事後の防御戦に強い自信を与える事となります。

昭和18(1943)年2月14日、第十一軍(横山勇中将)は汚陽を中心とする長江北岸、湖沼三角地帯に蟠踞する支那軍を殲滅すべく江北殲滅作戰を発動、両角支隊(第三十九歩兵團長・両角業作少将、歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二第一大隊、歩二百三十三第一・第三大隊、野砲三十九一部)を編成、支隊は敵牽制のため百里州の敵を回避し対岸に渡河、敵の背後に進撃し退路を遮断、百里州を急襲し包囲殲滅、3月上旬、原駐地に復帰します。

3月、歩二百三十三第二大隊守備の龍泉舗に支那第一三師が侵攻、第二大隊は隣接の歩二百三十一第二大隊と連携し撃退します。
また、歩二百三十一第三中隊守備の饅頭山(宜西対岸)に敵が侵攻しますが撃退します。

4月、歩二百三十一第六中隊守備の三渓山に火砲を伴う敵が侵攻、陣地の一角を失陥しますが逆襲により堅守、第三中隊の来援により撃退します。

3月22日、軍は長江の輸送量低下から、船団を下航させるための航路啓開のため、その沿岸部の支那軍を掃討すべく江南進攻作戰を発動(師團は第三期に投入予定)、23日、歩二百三十二主力(濱田弘大佐指揮、第二大隊、第八中隊、聯隊砲中隊、第十一・第十二中隊の各1個小隊)は穿心店に集結し進撃を開始します。
24日、天宝山の支那軍陣地背後に迂回すべく谷地を進撃中、支那軍に包囲され迫撃砲、機関銃を擁する強力な銃砲火を受け聯隊は敵中に分断されてしまいます。
迫撃砲弾を被弾した駄馬60頭が聯隊砲を駄載したまま敵陣に奔ったため、中隊長・二股中尉は聯隊砲を取り返すべく敵陣に斬込み行方不明に、第六中隊長代理(各中隊は分哨の関係で全て代理)・井上史郎少尉散華、後任の第二大隊副官・佐藤靜雄中尉も散華、敵中に孤立した第七中隊は中隊長代理・堀一男中尉以下全員玉砕するなか、第六中隊は西方高地を奪取、第八中隊が増援に向かい敵重囲の突破を図り8回突撃しますが大損害を受けてしまいます。
聯隊本部も襲撃を受け濱田大佐も拳銃で応戦、軍鳩手が伝書鳩6羽に緊急電を付け放鳥、5羽が撃ち落とされるなか、肩羽に重傷を追った第二十號伝書鳩(師團長より感状授与)が穿心店に帰着、濱田大佐は援軍の要請とともに聯隊の転進を決し自ら指揮の聯隊本部を後衛として曇天を利用しつつ敵中を突破し転進を開始、24日、師團主力(歩二百三十一、歩二百三十三、歩二百三十二残存部隊)が救援に進撃してきたため、敵は撤退します。
聯隊は700名で天宝山に進撃しましたが170名が散華、680名が負傷する大損害を受けてしまいます。
※江南進攻(江南殲滅)作戰は第1期前段(4月中旬~)にて第四十師團の1個支隊により洞庭湖北岸一帯を攻略、後段(5月上旬~)にて第三師團、獨立混成第十七旅團、第四十師團の1個支隊、第三十四師團の3個歩兵大隊により沙市南方の江南地域を西北進、第2期(5月中旬~)にて第三師團、第十三師團、第五十八師團の3個歩兵大隊で百里州南方地域の敵第八七集団軍(第五五師、第四三師、新編第二二師)主力を撃滅、第3期(5月下旬)にて第三十九師團により宜昌西北の江西地域において敵主力を捕捉殲滅するもの。

4月15日、続いて師團は敵の反攻を封鎖すべく龍北掃討戦を発動、獨山砲二(森戸隆三大佐)の十五糎加農砲の支援のもと吉武支隊(歩二百三十三聯隊長・吉武安正大佐、同聯隊第一・第二大隊、歩二百三十一第三大隊)は北進、歩二百三十二(第二大隊)は東方より敵線を横断し西進、再び天宝山に進撃し連絡、敵を包囲殲滅し、17日、原駐地に復帰します。
この頃より我軍は制空権を失い作戦中、前線の宜昌、紫金嶺の市街地、宜都渡河点、後方の野戦病院などB24、P38による執拗な重爆撃を受け脅威になっていきます。

5月22日、師團(歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二第三大隊、歩二百三十三第一・第三大隊、野砲三十九、工三十九)は歩二百三十一第三大隊を渡河援護とし、0100、雲地付近で長江を渡河しますが、敵に察知されたため野砲三十九の支援射撃のもと強行渡河、同第三大隊を前衛として進撃、22日、師團は長陽東方10㎞の清江北岸に、第三師團は長陽、第十三師團は漁洋関西方に進撃します。

23日、野地支隊(第三十九歩兵團長・野地嘉兵少将、歩六十八、歩二百十七、歩二百三十一集成中隊、獨立歩兵第九十六大隊3個中隊、野砲三十九1個大隊、工三十九1個中隊)は宜昌付近で渡河、歩二百三十一は師團左翼として南西進、25日、敵第一線陣地を突破、26日、直協機の爆撃とともに敵主要陣地・雨台山を攻略、27日、偏岩に進撃し右旋し北上、27日、第二碇泊場司令官(里見金二大佐、漢口)は53隻(16,000t)の船団の下航に成功、30日、師團は集結、31日、反転を開始、6月2日、原駐地に復帰します。
6月1日、歩二百三十三は師團より遅れ反転を開始、2日、紫金嶺に到着しますが、1日に宜都付近で渡河した第十三師團が敵の追撃を受け苦戦、聯隊は5日、宜都付近で再度渡河し第十三師團を援護、9日、原駐地に復帰します。

11月9日、第十一軍は江南進攻作戰の継続として常徳作戰が発動するに及び、10月27日、軍主力(第三・第十三・第五十八・第百十六師團)の右側背援護として師團(歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二第二大隊、歩二百三十三第一大隊、野砲三十九、工三十九)は百里州に渡河集結、29日、宛市に上陸、11月2日、西進しクリーク地帯を踏破し支那軍を撃破しつつ、5日、枝江-茶元寺の線に進撃、9日、漢洋河右岸に達し支那陳誠軍と対峙し同軍の南下(ビルマ方面侵攻)阻止、漁洋関付近の掃討と守備にあたり、28日、軍主力が常徳城を攻略したため、12月19日、転進を開始、24日、原駐地に復帰します。

昭和19(1944)年1月7日、第三十九歩兵團司令部、捜索第三十九聯隊、第三十九師團衛生隊、第三十九師團第二野戰病院は復帰、第三十九師團第一野戰病院は第三十九師團野戰病院に改称、16日、歩二百三十二第一、第二中隊、歩二百三十三第三、第五、第七中隊が獨立歩兵第二百七大隊要員として、歩二百三十一から同二百九大隊要員として2個中隊の人員が抽出され、1月31日、歩兵團要員をもって獨立歩兵第五旅團司令部(歩兵團長・野地少将)が新編され、隷下に獨立歩兵第二百七、二百八、二百九、二百十大隊が編入され、同旅團は第三十九師團の指揮下に編入されます。
第三十九師團司令部
 歩兵第二百三十一聯隊
 歩兵第二百三十二聯隊
 歩兵第二百三十三聯隊
 野砲兵第三十九聯隊
 工兵第三十九聯隊
 輜重兵第三十九聯隊
 第三十九師團 通信隊
  〃 兵器勤務隊
  〃 野戰病院
  〃 病馬廠

3月、湘桂作戦のため第十三師團は前線に移動、第三十九師團は第十三師團の警備地沙市・荊門地区を獨立歩兵第五旅團とともに継承、師團の警備地は襄西全域に拡大、支那第六戦区軍(孫蓮仲、44個師)と対峙する北側正面は宜昌-朱家埠間200㎞を越え、南側は長江を背にし沿岸に獨立歩兵第五旅團を配置しますが、広大な警備地に師團は苦戦します。

4月29日、大本營は大陸から本土への空襲の現実化、特に将来B29の出現による大陸南西部からの本土空襲が可能になると推測、大陸南西部の敵飛行場を覆滅すべく湘桂作戰を発動、第十一軍主力は湘桂作戰参加のため湖南地区に進撃します。

6月上旬、支那第六戦区軍は湘桂作戰に乗じ宜西地区に一斉に侵攻、6月1日、歩二百三十二が清渓河の討伐に出動中、支那軍が師團司令部に侵攻(ともに当陽)、司令部警備にあたっていた第十二中隊(田中武夫中尉)は師團経理部、兵器部、軍医部、獣医部、野戦病院患者を指揮し撃退、6日、第二大隊陣地に3個団が侵攻するも撃退します。
9日、歩二百三十一第二中隊守備の華福山陣地に支那軍が航空機延べ40機による銃爆撃、10,000発の砲撃に続き侵攻、陣地は崩壊し甚大な損害を受けますが6度の突撃を撃退し堅守、7月25日、第八中隊守備の宜北・西陵山(羽黒山)陣地に航空機による銃爆撃、7,000発の砲撃に続き侵攻、30数度の突撃を撃退し堅守(ともに師團長より感状授与)、再び敵の宜昌奪還を挫折させます。

昭和20(1945)年1月1日、第三十九師團(佐々直之助中将)は第三十四軍(櫛淵宜一中将)戦闘序列に隷属転移します。

第三十四軍は北支那方面軍の老河口(有力な敵飛行場が所在)攻略に策応し、隷下各歩兵聯隊から抽出した集成4個大隊を第三十九師團に編入、支那軍の退路遮断のため襄樊作戰を発動します。
師團は歩二百三十二(聯隊長・山田正吉大佐、第一大隊、配属1個大隊)を左翼隊、歩二百三十三(聯隊長・富永一大佐、第一・第二大隊、配属2個大隊)を右翼隊として部署、進撃路を荊門-石橋駅-張家集-武安堰-襄陽-老河口道とし攻撃重点を東側山地に指向、両翼隊とも数名1班の挺進斬込隊を編成配属し夜襲により突進力を強化、迂回隊の楽園部隊(19年9月16日、我が警備地区に侵攻し俘虜となり帰順した支那軍将兵から選抜した部隊70名)は敵後方に進出し撹乱を任務とします。

3月19日、歩二百三十一(混成1個大隊)が朱家埠を出発、20日、師團主力は子稜舗高地、迂回隊の楽園部隊は朱家埠を出発、師團主力は斬込隊の夜襲による突進力による夜行軍にて敵を撃破しつつ北進、左翼隊は順調に進撃しますが、23日、錯綜した急峻な山岳地を進撃した右翼隊の歩二百三十三第三大隊は蛮河南岸において敵に包囲され、大損害を受けますが、襄陽南方陣地守備予定の敵大部隊を2日間拘束、この間に迂回隊は敵の退路を遮断、25日、師團は武安堰を攻略します。

次いで左翼隊は同地北西の南漳に進撃しますが、敵主力が襄陽防備の配置に付けず師團付近で混乱している事を偵知、師團長・佐々中将は南漳攻略を中断し襄陽に急進、27日、襄陽、続いて歩二百三十二が対岸の樊城を攻略、28日、歩二百三十三は反転し南漳付近の高地を攻略、29日、残敵を掃討し襄陽に帰還します。

31日、歩二百三十二は漢水右岸を北上、4月2日、穀城南方の南河の河岸に進出しますが、師團長・佐々中将は北支那方面軍が老河口を攻略(実際は8日)したものと判断し、また敵反攻の危険度が増してきたため、15日、反転を下命、下旬、沙洋鎮で漢水を渡河し、広城を経て湯地に移駐します。

4月下旬、師團は上海地区防衛の中核兵團として位置付けられ、第百三十二師團(柳川悌中将)新設のため基幹要員として1/3の将兵を抽出、同師團に襄西地区の警備を移譲、5月30日、師團は關東軍(山田乙三大将)戦闘序列に編入され制空権喪失のため数梯団に別れ京漢線を夜間の徒歩行軍(行軍3日、休養1日)にて移駐を開始、7月上旬、黄河鉄橋を通過、新郷に集結、列車にて北上、26日、奉天を経由し西安に集結し、四平街に移駐します。

7月30日、師團は第三十軍(飯田祥二郎予中将)戦闘序列に編入されます。
8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し滿洲國に侵攻、師團はソ連軍を撃砕すべく陣地構築、訓練実施中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

第三十九師團はソ連軍により武装解除された後、新京に移駐、さらにシベリア鉄道によりペログルスクを経由、9月下旬、チタのカダラ収容所に連行され劣悪な環境・粗悪な給養下、重労働に従事、赤化教育にも感化される事無く、昭和23(1948)年6月からの帰国によりナホトカを経由し舞鶴に上陸し逐次復員します。

-歴代師團長-
村上啓作 中将  昭和14(1939)年10月2日 ~
澄田𧶛四郎 中将  昭和16(1941)年9月3日 ~
佐々真之助 中将  昭和19(1944)年11月22日 ~


第百四十五師團(護州二二三五一/司令部:二二三五二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第五師團司令部に臨時動員下令、4月1日、編成完結(小原一明中将)、第十六方面軍(横山勇中将、福岡)戦闘序列に編入(沿岸配備師團)されます。
第百四十五師團司令部
 歩兵第四百十七聯隊(広島) ※歩兵第十一聯隊補充隊を改編
 歩兵第四百十八聯隊(浜田) ※歩兵第二十一聯隊補充隊を改編
 歩兵第四百十九聯隊(山口) ※歩兵第四十二聯隊補充隊を改編
 歩兵第四百二十聯隊(広島)
 第百四十五師團 速射砲隊(浜田)
   〃 噴進砲隊(広島)・・・6月30日、編成
   〃 輜重隊(広島) ※輜重兵第五聯隊補充隊を改編
   〃 通信隊(広島) ※第五師團通信補充隊を改編
   〃 兵器勤務隊(広島)
   〃 野戰病院(広島)・・・6月4日、編成

4月下旬から5月上旬、師團は司令部を福岡県蘆屋町に置き、野戰重砲兵第二十九聯隊(森永豪策中尉)、獨立工兵第七十一大隊、迫撃砲第二十七大隊(指原米男大尉)を指揮下に編入、隷指揮下部隊を作戦地の東郷、福間、若松、折尾、老津、赤間に集結させ訓練、陣地築城を開始、6月19日、大陸命第千三百五十一號により第五十六軍(七田一郎中将)戦闘序列に編入されます。
7月上旬、軍兵力増強に伴い師團は沿岸防御、水際撃滅を徹底すべく各隊を沿岸部に推進します。
8月8日1000、B29爆撃機221機が八幡市に来襲、市内は甚大な被害を受けたため師團は歩兵1個大隊を派遣、八幡警備隊として治安警備、被災者救援にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
9月24日、師團は福岡県蘆屋町において現地復帰、復員完結します。


第百五十四師團(護路二二七〇一/司令部:護路二二七〇二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第五師團司令部に臨時動員下令、6月19日、大陸命第千三百五十一號により第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列に編入(沿岸配備師團)されます。
第百五十四師團司令部
 歩兵第四百四十五聯隊(鳥取) ※歩兵第百十一聯隊補充隊(姫路)を改編
 歩兵第四百四十六聯隊(鳥取) ※歩兵第百二十一聯隊補充隊(鳥取)を改編
 歩兵第四百四十七聯隊(岡山) ※歩兵第百五十四聯隊補充隊(岡山)を改編
 歩兵第四百四十八聯隊(岡山)
 第百五十四師團 速射砲隊(山口)
   〃 砲兵隊(広島)・・・5月23日、編成
   〃 輜重隊(広島) ※輜重兵第五十四聯隊補充隊(姫路)を改編
   〃 通信隊(広島) ※第五十四師團通信補充隊(姫路)を改編
   〃 兵器勤務隊(広島)
   〃 野戰病院(岡山)・・・6月4日、編成

4月下旬、師團(毛利末廣中将)は動員完結を待たず逐次作戦地の宮崎県(一ツ瀬川以北、以南は第百五十六師團)に移駐、司令部を妻町(現、西都市)に置き、北部宮崎平野の富田村三納代(現、新富町)、高鍋町南側及び西側高地、小丸川北方の川南村、通山村に至る高地帯に主な拠点陣地とし坑道陣地、掩体、交通路の設定、敵上陸に際しては新田原(現、新富町)、茶臼原(現、西都市、木城町)付近に降下する敵空挺部隊攻撃準備にあたります。
8月6日0815、広島市に米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され中國軍管區砲兵補充隊において編成中の師團砲兵隊は甚大な被害をうけ、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
9月20日、師團は宮崎県妻において現地復帰、復員完結します。


第二百五師團(安藝一五〇五四/司令部:一五〇五三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、廣島師管區司令部に臨時動員下令、第二總軍(畑俊六大将、広島)戦闘序列に編入、總軍直轄として第十六方面軍(横山勇中将、福岡)指揮下に編入(機動打撃師團)されます。
第二百五師團司令部
 歩兵第五百七聯隊(山口)
 歩兵第五百八聯隊(鳥取)
 歩兵第五百九聯隊(岡山)
 野砲兵第二百五聯隊(広島) ※獨立砲兵第五聯隊を改称
 迫撃第二百五聯隊(鯖江) ※迫撃第三十一、第三十六大隊を改編
 第二百五師團 速射砲隊(広島)
  〃  機關砲隊(広島)
  〃  工兵隊(広島) ※獨立工兵第七十八大隊を改称
  〃  輜重隊(広島)
  〃  通信隊(広島)
  〃  兵器勤務隊(広島) ・・・7月20日、編成
  〃  第四野戰病院(岡山) ・・・6月4日、編成
  〃  第一野戰病院・・・未動員
  〃  第二野戰病院・・・未動員
  〃  病馬廠・・・未動員
  〃  制毒隊・・・未動員

師團(唐川安夫中将)は広島一帯への布陣を予定し原村陸軍演習場に移駐、訓練にあたります。
第十五方面軍(大阪)司令官・内山英太郎中将は四国の太平洋沿岸に敵上陸の公算大と判断、第二總軍司令部に四国の兵力増強を意見具申、5月中旬、第二總軍司令部は内山中将の意見を容れ敵は九州南部に加え、本土全域に行動できる飛行場が設定でき、且つ九州方面作戦の拠点適地である四国南部に同時、または相前後して上陸と判断、四国への兵力配備を重視、6月19日、師團は第五十五軍(原田熊吉中将、土佐山田)戦闘序列に隷属転移します。
師團は四国平野に移駐、第十一師團(大野廣一中将:鉢伏山-仁淀川間に配備)、第百五十五師團(岩永汪中将、物部川-夜須間に配備)の中間、鉢伏山-物部川間に布陣、師團司令部を後免、歩五百七を香美郡、歩五百八を豊山東側台地、歩五百九を山田北側台地、野砲、速射砲、機関砲、工兵、輜重兵は各拠点に分散配置、訓練、陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
9月21日、師團は高知平野において現地復帰、復員完結します。


第二百二十四師團(赤穂二八三二九/司令部:赤穂二八三二八)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編制改正・称號變更)第三四七次復員(復帰)要領』に基づき、廣島師管區司令部に臨時動員下令、師團司令部を廣島陸軍幼年學校に置き編成中の8月6日0815、広島市に米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され各補充隊において編成中の歩兵第三百四十聯隊(友澤兼夫中佐)、師團迫撃砲隊(〃)、同工兵隊(栃木省躬大尉)、同輜重隊(師團長・河村參郎中将)、同通信隊(古光保夫大尉)は甚大な被害をうけ、不在の河村中将以外は散華してしまいます。
第二百二十四師團司令部
 歩兵第三百四十聯隊(広島)
 歩兵第三百四十一聯隊(鳥取)
 歩兵第三百四十二聯隊(岡山)
 第二百二十四師團 迫撃砲隊(広島)
  〃  工兵隊(広島)
  〃  輜重隊(広島)
  〃  通信隊(広島)
  〃  兵器勤務隊(広島) ・・・7月31日、編成
  〃  衛生隊 ・・・7月31日、編成
  〃  第一野戰病院(浜田) ・・・7月31日、編成
  〃  第二野戰病院(山口) ・・・7月31日、編成
  〃  病馬廠(広島) ・・・7月31日、編成

師團は機動打撃師團として静岡県沿岸に進出予定でしたが、編成中に停戦を迎えます。


第二百三十一師團(大國二八三四三/司令部:大國二八三四二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編制改正・称號變更)第三四七次復員(復帰)要領』に基づき、廣島師管區司令部に臨時動員下令、6月19日、大陸命第千三百五十一號により第五十九軍(藤井洋治予備役中将)戦闘序列に編入(機動打撃師團)されます。
第二百三十一師團司令部
歩兵第三百四十六聯隊(広島)
歩兵第三百四十七聯隊(浜田)
歩兵第三百四十八聯隊(山口)
第二百三十一師團 迫撃砲隊(広島)
  〃  工兵隊(広島)
  〃  輜重隊(広島)
  〃  通信隊(広島)
  〃  兵器勤務隊(広島) ・・・7月20日、編成
  〃  衛生隊 ・・・7月20日、編成
  〃  第一野戰病院(鳥取) ・・・7月20日、編成
  〃  第二野戰病院(岡山) ・・・7月20日、編成
  〃  病馬廠(広島) ・・・7月20日、編成

4月下旬、師團(村田孝生中将)は動員完結を待たず逐次作戦地の山口県に移駐、司令部、迫撃砲隊、通信隊、輜重隊、兵勤隊、病馬廠を山口市、歩三百四十六を菱海村、歩三百四十七聯隊を浜田市、歩三百四十八を太田陸軍演習場、工兵隊を萩市に置き、決號作戰(本土決戦)の準備にあたるなか、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
9月26日、師團は山口市において現地復帰、復員完結します。


留守第五師團司令部(廣島師團司令部)
廣島師管區司令部
第五十九軍司令部
(山陽三二二〇〇)
中國軍管區司令部
昭和12(1937)年7月27日、第五師團(板垣征四郎中将)、留守第五師團(安田郷輔中将)の動員下令、31日、動員完結、8月1日、第五師團の支那事変出征に伴い、留守第五師團司令部は留守業務を開始します。

昭和14(1939)年8月1日、軍令陸甲第二十一號により留守第五師團に第三十九師團司令部(村上啓作中将)の動員下令、2日、編成着手、10日、編成完結します。

昭和15(1940)年7月10日、『陸軍平時編制』の改定に伴い国土防衛、特に防空体制を強化すべく、10日、『軍司令部令』(軍令陸第十二號)が公布(8月1日施行)、東部、中部、西部防衛司令部を基幹として東部、中部、西部軍司令部(北部軍は12月2日)が開設され、新たに軍管區制が採用されます。
8月1日、福岡(歩兵第十二旅團司令部跡)において西部軍司令部(上村清太郎中将)が編成、留守第五師團司令部は西部軍司令部隷下に編入されます。

防衛に関して西部防衛司令官、留守第五十六師團長ともに天皇に直隷し責任が並立していたものが、『軍司令部令』制定により西部軍司令官は留守第五十六師團長以下の諸部隊を統率し、動員、教育に関する責任及び西部軍管區(廣島、久留米、熊本、善通寺師管)の防空に関して西部軍司令部において統一して計画することが可能になりました。

昭和16(1941)年7月5日、広域防衛体制の確立と一元指揮を実施すべく、『防衛總司令部令』(軍令陸第十三號)により、12日、防衛總司令部(山田乙三大将)が新編され、防衛總司令官は防衛に関し東部、中部、西部、北部、朝鮮、臺灣軍司令官及び所定の航空部隊を指揮し、内地、朝鮮、臺灣、樺太の防衛を実施することになります。

昭和19(1944)年5月5日、急迫する戦局と国内防衛の重要性増大に伴い国内防衛の一元化を計るべく『防衛總司令部令』が改定(軍令陸第七號)され、10日、防衛總司令部の隷下(指揮のみから統率を受ける)に内地の各軍、防空専任飛行部隊が編入されます。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備が推進され、22日、内地、臺灣、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定、2月6日、中部軍管區戦闘序列が下令、留守第五師團司令部は西部軍より隷属転移、11日、中部軍管區司令部(河邉正三中将、大阪)が編成完結します。

28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第五師團司令部に第百四十五師團司令部(小原一明中将)、第百五十四師團司令部(毛利末廣中将)の臨時動員下令、4月1日、第百四十五師團の編成完結、第十六方面軍(横山勇中将、福岡)戦闘序列に編入、6月19日、第百五十四師團は動員完結を待たず第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列に編入されます。

4月1日、軍令陸甲第三十四號に基づき留守第五師團司令部は廣島師管區司令部に改称、姫路師管の廃止に伴い旧中部第四十七部隊(歩兵第百二十一聯隊補充隊:鳥取)を廣島師管區歩兵第四補充隊、旧中部第四十八部隊(歩兵第百五十四聯隊補充隊:岡山)を同第四補充隊として隷下に、10日、旧留守第五師團司令部隷下補充隊が改編完結し隷下に編入します。

4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、廣島師管區司令部に第二百五師團司令部(唐川安夫中将)の臨時動員下令、第二總軍(畑俊六大将、広島)戦闘序列に編入、總軍直轄として第十六方面軍(横山勇中将、福岡)指揮下に編入されます。

5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編制改正・称號變更)第三四七次復員(復帰)要領』に基づき、廣島師管區司令部に第二百二十四師團の臨時動員下令、動員業務に着手します。

昭和20(1945)年6月12日、軍令陸甲第九十五号『第五十九軍司令部、中國、四國軍管區司令部、東京防衛軍司令部臨時編成、東京師管區司令部編制改正』により中部軍管區司令部に第五十九軍司令部の編成下令、20日、編成完結(藤井洋治予備役中将)、第十五方面軍(内山英太郎中将、大阪)戦闘序列に編入され、同日、廣島師管区司令部は復帰、中國軍管區司令部(第五十九軍司令官兼職)が新編されます。
第五十九軍司令部(藤井洋二 予備役中将)・・・広島市
 第二百三十師團司令部(5月23日、編成、中西貞喜中将)・・・岡山市
  歩兵第三百十九聯隊・・・岡山県真庭郡
  歩兵第三百二十聯隊・・・鳥取県西伯郡五千石
  歩兵第三百二十一聯隊・・・広島県賀茂郡原村(集結中)
  第二百三十師團工兵隊・・・鳥取県西伯郡逢坂村
   〃 通信隊・・・鳥取県日野郡根雨
   〃 輜重隊・・・広島県賀茂郡原村(集結中)

 第二百三十一師團司令部(同上、村田孝生中将)・・・山口県山口市(山口高校)
  歩兵第三百四十六聯隊・・・山口県大津郡菱海村
  歩兵第三百四十七聯隊・・・浜田市
  歩兵第三百四十八聯隊・・・太田陸軍演習場
  第二百三十一師團迫撃砲隊・・・山口県山口市
   〃 工兵隊・・・山口県萩市 
   〃 通信隊・・・山口県山口市
   〃 輜重隊・・・山口県山口市

 獨立混成第百二十四旅團司令部(8月3日、編成、石井信中将)・・・山口県豊浦郡川棚村
  獨立歩兵第七百四十四大隊・・・山口県豊浦郡宇賀村-川棚村-小串村
  獨立歩兵第七百四十五大隊・・・ 〃
  獨立歩兵第七百四十六大隊・・・ 〃
  獨立歩兵第七百四十七大隊・・・ 〃
  獨立歩兵第七百四十八大隊・・・ 〃
  獨立混成第百二十四旅團砲兵隊・・・編成中
   〃 工兵隊・・・編成中
   〃 通信隊・・・編成中

第五十九軍は岡山県、鳥取県、広島県(呉、倉橋島、江田島、岩国沿岸を除)、島根県、山口県を作戦地とし、第二百三十師團司令部を岡山市、2個大隊を鳥取、3個中隊を倉吉、2個大隊、1個中隊を米子、1個大隊、3個中隊を出雲に配置、第二百三十一師團は主力を山口市内、1個中隊、1個小隊を大田-三隅、4個中隊を益田、1個大隊を萩-長門に配置、獨立混成第百二十四師團は山口県宇賀村、川棚村、小串村一帯(予定)に配置し決號作戰(本土決戦)準備にあたります。

中國軍管區司令部
 中國軍管區歩兵第一補充隊・・・広島
  〃 歩兵第二補充隊・・・浜田
  〃 歩兵第三補充隊・・・山口
  〃 歩兵第四補充隊・・・鳥取
  〃 歩兵第五補充隊・・・岡山
  〃 砲兵補充隊・・・広島
  〃 工兵補充隊・・・広島
  〃 通信補充隊・・・広島
  〃 輜重兵補充隊・・・広島
  廣島聯隊區司令部・・・広島
  廣島地區司令部・・・広島
   第一特設警備隊・・・広島市幡町
   第二 〃 ・・・広島市広瀬北町
   第十六 〃 ・・・賀茂郡竹原町(予定:広島市内にて編成中)
   第十七 〃 ・・・豊田郡河内町 〃
   第二十一 〃 ・・・世羅郡大田町 〃
   第二十三 〃 ・・・芦品郡広谷村 〃
   第二十四 〃 ・・・甲奴郡上下町 〃
   第二十六 〃 ・・・比婆郡庄原町 〃
   第二十一特設警備中隊 ・・・安芸郡海田町 〃
  山口陸軍病院
  濱田 〃
  鳥取 〃
  岡山 〃
  大野 〃
  特設警備第二百五十一大隊・・・広島(廣島偕行社)
  第二百五特設警備工兵隊・・・広島(文理大学)

8月6日0815、広島市に米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、第五十九軍、廣島師管區司令官・藤井中将は司令官官舎において軍服に着替え軍刀を手に居間を出た直後に被爆散華、軍司令官散華により第二百三十師團長・中西中将に指揮権が移行、中國軍管區司令部隷下部隊は軍人492名が散華、2,668名が負傷、2,468名が行方不明に、軍属は93名が散華、365名が負傷、409名が行方不明になり、生存者は軍人2,184名、軍属131名でした。
爆心地付近の廣島城周辺にあった第五十九軍司令部、中國軍管區司令部及び隷下補充隊、廣島陸軍幼年學校、中國憲兵隊司令部、廣島第一陸軍病院、廣島第二陸軍病院、第二總軍司令部各庁舎は全壊炎上してしまいます。

第二總軍司令部(畑俊六大将、二葉山山中の地下壕)は陸軍船舶司令部(佐伯文郎中将)に市内の復興作業を下令(0850、活動開始)、第五十九軍、廣島師管區司令部参謀長・松村秀逸少将も同じく上流町の官舎において被爆、倒壊家屋の下敷きになり重傷を負うも脱出、着物が全損したため褌姿のまま軍司令部に急行、状況確認ののち牛田工兵作業場に避難、1330、軍司令官代理・中西中将名で山陽命甲第二十号により原村陸軍演習場に所在の歩兵第三百二十一聯隊、第二百三十師團輜重隊に市内救援を下令します。

7日、松村少将は軍司令部に天幕を展張し仮設指揮所を開設、歩兵第一補充隊は安村(現、安佐南区)、通信補充隊は佐伯郡廿日市町に移駐、廣島第一陸軍病院は戸坂分院、臨時第二廣島陸軍病院は陸軍船舶練習部(10月、大和工業㈱に返還され廣島工場に)に移転、他の隷下部隊は原駐地に天幕を展張し市内の道路啓開、警備、消火、救援を開始、また中部軍管區司令部から第二百三十一師團の歩兵2個大隊、同工兵1個中隊、電信第四十五聯隊の有線1個中隊、無線1個小隊、獨立電氣第三中隊の1個小隊、建築勤務第五百十四中隊、6個救護班、1個防疫給水機関、第百四十四師團野戰病院の半部、中部軍管區自動車1個分隊(10台)、西部軍管區司令部から建築勤務第五百二中隊、2個救護班が派遣されます。

12日、第五十九軍司令官兼廣島師管區司令官に谷壽夫中将が親補、軍は市内の道路啓開、警備、救援にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月1日、第五十九軍司令部及び中國軍管區司令部は広島製薬㈱(五日市、廣島陸軍燃料廠総務部、会計部の疎開先)に移転、9月6日、獨立混成第百二十四旅團、10日、第二百三十師團、26日、第二百三十一師團はそれぞれ現地復員、26日、砲兵、輜重兵、10月4日、工兵、11月1日、歩兵第一、第二、第三、第四、第五、通信各補充隊が復員完結、30日、第五十九軍司令部は復員、中國軍管區司令部は第一復員省中國復員監部に改編、復員業務にあたります。

-留守第五師團長-
安田郷輔 中将 昭和12(1937)年7月27日~
篠原次郎 中将 昭和14(1939)年8月1日~
長谷川美代次 中将 昭和16(1941)年10月15日~
藤井洋二 予備役中将 昭和20(1945)年3月29日~

-廣島師管區司令官-
藤井洋二 予備役中将 昭和20(1945)年4月1日~

-第五十九軍司令官・廣島師管區司令官-
藤井洋二 予備役中将 昭和20(1945)年6月20日~8月6日
谷壽夫 中将 昭和20(1945)年8月12日~


主要参考文献
『広島市史 第四巻』(大正14年12月 広島市役所)

『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)

『広島県史 近代1 通史Ⅴ』(昭和55年3月 広島県)

『広島県史 近代2 通史Ⅵ』(昭和56年3月 広島県)

『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)

『企画展 日清戦争と広島城』(平成21年12月 広島市市民局文化スポーツ部文化財課)

『広島市郷土資料館特別展 明治時代の広島』(平成30年12月 広島市郷土資料館)

『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(昭和46年12月 広島市役所)

『広島師団史』(昭和44年12月 陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会)

『歩兵第十一聯隊史』(平成5年12月 鯉十一会)

『濵田聯隊史』(昭和48年4月 歩二一會)

『山口歩兵第四十二連隊史』(昭和63年6月 山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会)

『廣島野砲兵第五聯隊第一中隊史』(平成元年4月 広島野砲兵第五聯隊第一中隊史編集委員会)

『歩兵第七十一連隊史』(昭和52年3月 連隊史編集委員会)

『広島輜重兵隊史』(昭和48年12月 広輜会)

『第百四十五師團戰史資料』(昭和20年11月 第百四十五師團司令部)

『土佐湾本土決戦史』(平成18年11月 山崎善啓)
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Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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