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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

廣島第二陸軍病院(旧廣島陸軍病院)

名城・広島城の西之丸に廣島陸軍病院がありました。
同院はのちに廣島第二陸軍病院に転用されます。
ケ 門柱 南西から 広島陸軍病院(広島)
▲移設されている裏門門柱

【探索日時】
平成27(2015)年2月22日





廣島城周辺の施設配置
昭和12(1937)年頃の第五師團周辺の各隊配置
第五師団(広島) 現在
① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
②  〃 兵器部
③  〃 弾薬庫
④  〃 経理部 需品倉庫
⑤  〃 被服庫
⑥  〃 隔離厩
⑦  〃 資材倉庫
⑧  〃 法務部、廣島衛戍拘禁所
⑨ 歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊
⑩ 野砲兵第五聯隊
⑪  〃 馬場
⑫ 輜重兵第五聯隊
⑬ 廣島西陸軍練兵場
⑭ 廣島陸軍病院 第一分病室
⑮ 廣島陸軍病院 第二分病室
⑯ 廣島陸軍病院

⑰ 廣島陸軍幼年學校
⑱ 歩兵第九旅團司令部
⑲ 廣島聯隊區司令部
⑳ 廣島偕行社
㉑  〃 附属済美學校
㉒ 廣島憲兵隊本部
㉓ 第五師團長官舎
㉔ 廣島護國神社
A 第一軍戰死者記念碑
B 北清事變戰歿者記念碑
※太字が当記事での紹介施設

昭和20(1945)年8月頃の病院配置
広島 現在20年 広島陸軍病院(広島)
⑭ 廣島第一陸軍病院 第一分院
⑮ 廣島第一陸軍病院
⑯ 廣島第二陸軍病院
⑰ 廣島第一陸軍病院 看護婦生徒教育隊
※その他の配置は『大本營(旧第五師團司令部)』参照

明治4(1871)年8月20日、廣島城を含む全地方城郭は兵部省に移管され、同日、「鎭臺」の設置が告示、12月、本丸御殿に鎭西鎭臺第一分営、⑨内大手曲輪(竹之丸)藩主別邸に鎭臺病院が開設されます。

明治6(1873)年1月9日、表御門楼上に廣島鎭臺本営が開設、鎭臺病院は廣島鎭臺病院に改称し、4月、⑩内大手曲輪西側に移転します。

明治6年1月14日、廣島城全域が軍用地に指定され、兵部省(支払いは大蔵省より)は曲輪(北、西之丸、内大手(三之丸)、大手曲輪)内の旧藩士所有地のうち必要箇所より順次買収(移転費用、耕作手当含)を開始しますが、用地明渡し交渉は難航、4年の猶予期間を設け、明治20(1887)年、漸く全域を買収します。

明治7(1874)年2月、廣島鎭臺病院は⑮大手曲輪霞邸(筆頭家老・浅野邸:後の廣島地方幼年學校)に、明治18(1885)年6月、⑯西之丸(小姓町)に移転、明治21(1888)年11月29日、廣島衛戍病院に改称します。
広島陸軍病院 写真
この辺にあった廣島衛戍病院正門

明治27(1894)年7月8日、日清戦役に伴い廣島衛戍病院は一時閉鎖、廣島陸軍豫備病院に改編、8月15日、歩兵第二十一聯隊兵営東側に第二分院(同13)、10月7日、廣島西陸軍練兵場西端に第一分院(病舎25棟)、23日、国泰寺村に第三分院(同27)、11月17日、西練兵場東端に第四分院(同2)が開院、11月12日、宇品港に宇品患者集合所が開設されます。
明治28(1895)年4月17日、戦役は終結、分院、集合所は随時閉鎖、不要建物は解体され転用、または払下げられます。
明治34(1901)年10月10日、廣島陸軍豫備病院は復員完結、廣島衛戍病院に復します。

明治37(1904)年3月6日、日露戦役に伴い廣島衛戍病院は一時閉鎖、廣島豫備病院に改編、逐次第一~第七分院(38年7月1日、それぞれ⑭基町、⑤小姓町、千田町、江波、白島、皆實、竹屋分院に改称)が開設されます。
明治38(1905)年9月1日、戦役は終結、11月13日、千田町、12月11日、皆実分院が閉鎖、明治39(1906)年1月15日、廣島豫備病院は⑭基町分院に移転、⑯廣島豫備病院本院跡に廣島衛戍病院が再開、2月10日、白島、6月16日、江波分院が閉鎖(竹屋の閉鎖時期は不明、小姓町は師團被服倉庫に転用)、10月4日、廣島豫備病院は復員完結、廣島豫備病院(旧基町分院)は廣島衛戍病院 基町分病室に転用、他の分院の不要建物は解体され転用、または払下げられます。

昭和7(1932)年3月1日、旧廣島陸軍幼年學校を分病室に転用し第二分病室、基町分病室を第一分病室とします。

昭和11(1936)年11月10日、廣島衛戍病院は廣島陸軍病院に改称します。

第五師團の支那事変出征(昭和12年7月27日から)による還送患者激増により、昭和15(1940)年2月3日、廣島陸軍病院第一臨時(⑭旧第一分病室)、第二臨時(⑮旧第二分病室)、三瀧、江波、大野分院を開設します。

昭和20(1945)年5月10日、廣島陸軍病院は廣島第一陸軍病院に改編され第二臨時分院を⑮本院、第一分院を⑭同病院第一分院に改編(ほか管下に江波分院)、廣島第一陸軍病院 看護婦生徒教育隊が新編され基町北西に、また⑯廣島第二陸軍病院(管下に三瀧分院)が旧廣島陸軍病院で開院、大野分院は大野陸軍病院(第二總軍隷下)に昇格します。
廣島第一陸軍病院(以下「第一」と略)は中部軍管區司令部隷下に編入され四国、及び中国、九州地方の日本海側における邀撃作戦の総兵站病院として、廣島第二陸軍病院(以下「第二」と略)は廣島師管區司令部(4月1日から中國軍管區司令部)隷下に編入され師管区内の陸病に部署されます。

第一は永田正雄衛生中尉の進言により決號作戰(本土決戦)に備え『防空救護計畫』を策定、6月、戸坂国民学校に戸坂分院、可部地区分院群(亀山、可部北、三入、大林各国民学校)を開設、戸坂分院を第一救護所、可部地区を第一豫備病院、芸予線沿線、山陰、山口方面の各陸軍病院を第二豫備病院に指定、7月30日、第一分院(以下「一分院」と略)は可部地区に移転、併せて同計畫に基づき衛生材料も疎開させます。

廣島第一陸軍病院(元吉慶四郎医少将)
 第一、江波、柳井、玉造(旅館借用)分院
 島根療養所(傷痍軍人島根療養所に併設)
 皆生療養所(旅館借用)
 大田、花岡、高水、戸坂、可部、亀山、三入、大林、飯室、鈴張、庄原(以上、国民学校借用)、筒賀(公民館〃)、戸河内(旅館〃)分院

廣島第二陸軍病院(木谷祐寛医大佐)
 三瀧、小串、三次(以下、学校借用)、東城、向原分院

8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、爆心地付近の第一、一分院、江波分院、同看護婦生徒教育隊、第二、同三瀧分院は全壊炎上してしまいます。
第一の殆どの患者は疎開しており無事でしたが第二、教育隊を中心に軍人365名(被爆した第二陸病長・木谷大佐は8日、散華)、看護婦181名、軍属192名、患者550名が散華、患者900名が負傷してしまいます。
第二は原駐地において臨時救護所を開設、大阪出張中の元吉少将は直ちに帰院、第一は戸坂分院、第二は陸軍船舶練習部に移転、両病院は12個救護班を編成すとともに各分院にし軍民負傷者を収容、治療にあたるなか8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

廣島第一陸軍病院
8月20日、収容者の減少に伴い可部地区分院に移転、10月19日、救護作業を終了し獨立工兵第二十六聯隊跡(山口県柳井町)に移転、広島、山口、島根の各陸軍病院の職員、衛生材料を集結させます。
12月1日、全国の陸海軍病院は厚生省に移管され、兵営は厚生省に移管、廣島第一陸軍病院は国立柳井分院に改称、昭和25(1950)年4月1日、国立療養所柳井病院、昭和28(1953)年4月1日、国立柳井療養所、昭和50(1975)年4月1日、国立療養所柳井病院に改称、平成16(2004)年4月1日、(独)国立病院機構 柳井病院に改組改称、平成24(2012)年4月1日、(独)国立病院機構 柳井医療センターに改称し現在に至ります。

廣島第二陸軍病院
10月、陸軍船舶練習部は大和工業㈱に返還され廣島工場に復帰、12月1日、廣島第二陸軍病院は国立廣島病院に改称しますが、12月5日、朝鮮人引揚収容所に転用のためGHQの命令により船舶整備教育隊跡の兵舎(丹那町)に移転、昭和21(1946)年2月初旬、朝鮮人引揚作業終了(3月末予定)とともに開始される邦人引揚作業に対応すべく船舶司令部に移転、昭和28(1953)年4月1日、国立療養所広島病院に改組、昭和31(1956)年9月30日、閉院します。
10月1日、全従業員は国立呉病院(旧呉海軍病院)に転籍、11月22日、英連邦軍の撤退に伴い呉海軍病院跡は厚生省に返還され、広島、大竹(旧呉海軍病院職員)から全従業員が移転し同病院が開院、平成13(2001)年4月1日、国立病院呉医療センター、平成16(2004)年4月1日、独立行政法人国立病院機構呉医療センターに改称し現在に至ります。

昭和20年8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始しますが第一、第二及び一分院は原子爆弾により全壊焼失していたため大蔵省に返還されます。

広島市は大蔵省より用地を借用、9月、戦災者、海外引揚者収容のため市営住宅200戸を建設(最終的に市、県、住宅営団合わせて1,815戸)、第二跡に戸建ての市営、営団住宅、第一跡に市営住宅が建設されます。

昭和21(1946)年10月4日、広島市は広島市復興事業として幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、第一、第二病院跡地は全域が公園、一分院跡は商業地として計画、昭和24(1949)年8月6日、『広島平和記念都市建設法』が交付、9月9日、建設省内に平和文化都市都市建設協議会、昭和25(1950)年10月、広島市に広島平和記念都市建設専門委員会が発足、10月3日、『広島平和記念都市建設事業計画案』が立案され陸軍用地の開発(公園、緑地、運動場、軌道、水道、下水道、運河、河川、塵焼却場、墓地、図書館等に使用する場合は無償譲渡)が開始されます。

しかし、第一、第二病院跡地は住宅が立ち並び移転が不可能な事から、昭和31(1956)年、市は第二跡地を公園区域から「団地住宅」に変更し、昭和43(1968)年までに中層市営住宅630戸、同県営住宅300戸(平成29年廃止、財務省に返還)を建設、昭和43(1968)年5月、市は『基町地区再開発計画』を立案、昭和44(1969)年3月18日、国は一帯を改良地区『広島市基町地区』に指定、高層市営住宅2,964戸を建設し(昭和53年、竣工)、公園予定地在住の住民移転が行われます。
跡地は中央公園として整備、昭和49(1974)年10月27日、第一跡に市立中央図書館、昭和53(1978)年11月3日、ひろしま美術館が開館し現在に至ります。


遺構について
上記の様に原爆被害、戦後の開発により遺構は殆ど遺されていません。
ケ 裏門門柱
廣島陸軍病院(廣島第二陸軍病院)の裏門門柱です。
同病院には東裏門、南裏門がありましたが、どちらの物か不明です。
昭和50(1975)年8月6日、広島陸軍病院原爆慰霊会30周年記念行事として合祀名碑の建立と併せ「蘭椙?園記」碑とともに保存されます。
ケ 門柱 南西から 広島陸軍病院(広島)
▲正面側

ケ 門柱東側 表側 広島陸軍病院(広島)
▲奥側の近影

ケ 門柱東側 頂部の装飾 広島陸軍病院(広島)
▲門柱頂部にある赤十字
 赤色の塗装が遺ります

ケ 門柱 北から 広島陸軍病院(広島)
▲裏側

蘭椙?園記
篆書が読めません・・・
明治39(1906)年1月、廣島豫備病院基町分院長・秦野英三郎三等軍医正により建立されます。
外堀を埋め立てた跡に花植樹した事を記念した石碑の様です。
同分院は廣島西陸軍練兵場の西端にあり、最終的に廣島陸軍病院第一分院になります(上記参照)。
ク ??園記 広島陸軍病院(広島)

廣島陸軍病院原爆慰霊
昭和31(1956)年8月6日、元広島陸軍病院関係者により建立されます。
ク 廣島陸軍病院慰霊碑 広島陸軍病院(広島)

ク 廣島陸軍病院慰霊碑 碑文 広島陸軍病院(広島)
▲広島陸軍病院原爆死没合祀者


主要参考文献
『広島市史 第四巻』(大正14年12月 広島市役所)

『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)

『広島県史 近代1 通史Ⅴ』(昭和55年3月 広島県)

『広島県史 近代2 通史Ⅵ』(昭和56年3月 広島県)

『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)

『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(昭和46年12月 広島市役所)

『鯉城の稚桜-広島陸軍幼年学校史-』(昭和51年7月 広幼会)

『廣島衛生醫事月報 第九拾四號』(明治39年10月 廣島衛生醫事月報社)
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Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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