廣島陸軍幼年學校
名城・広島城の北之丸に廣島陸軍幼年學校がありました。

▲公園に遺る校門門柱
【探索日時】
平成27(2015)年2月22日

<廣島城周辺の施設配置>
昭和12(1937)年頃の第五師團周辺の各隊配置

① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
② 〃 兵器部
③ 〃 弾薬庫
④ 〃 経理部 需品倉庫
⑤ 〃 被服庫
⑥ 〃 隔離厩
⑦ 〃 資材倉庫
⑧ 〃 法務部、廣島衛戍拘禁所
⑨ 歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊
⑩ 野砲兵第五聯隊
⑪ 〃 馬場
⑫ 輜重兵第五聯隊
⑬ 廣島西陸軍練兵場
⑭ 廣島陸軍病院 第一分病室
⑮ 廣島陸軍病院 第二分病室
⑯ 廣島陸軍病院
⑰ 廣島陸軍幼年學校
⑱ 歩兵第九旅團司令部
⑲ 廣島聯隊區司令部
⑳ 廣島偕行社
㉑ 〃 附属済美學校
㉒ 廣島憲兵隊本部
㉓ 第五師團長官舎
㉔ 廣島護國神社
A 第一軍戰死者記念碑
B 北清事變戰歿者記念碑
※太字が当記事での紹介施設
<陸軍幼年學校について>
陸軍幼年學校は教育總監部に隷し生徒に「陸軍予科士官学校生徒であることに必要な素養を与えるため、軍事上必要な普通学を教授し軍人精神を涵養する所」と定められ、3月31日時点で13歳以上15歳未満の男子志願者を対象に採用検査(身体検査、学科試験)が行われ、採用者(倍率40~50倍)は陸軍幼年學校で3年学び、卒業者は陸軍豫科士官學校に進学しました。
生徒は月々納金(月謝)を納めますが戦歿軍人(下士、兵卒含)、同相当官遺児の入学者は特待生として納金の全額が免除、陸海軍尉官の戦歿者遺児は半特待生として納金の半額が免除されました。
<廣島陸軍幼年學校(鯉城台)について>
明治30(1897)年4月1日、廣島陸軍地方幼年學校(大正9年8月7日、廣島陸軍幼年學校に改称)の新設が決定、6月1日、第五師團司令部内において事務を開始、9月1日、⑬廣島西陸軍練兵場東側にあった臨時帝国議会仮議事堂を仮校舎として生徒が入校、11月28日、⑮練兵場北西端に竣工した校舎に移転しますが、昭和3(1928)年3月31日、世界的な軍縮の流れにより廃校されます。

▲ここにあった廣島陸軍地方幼年學校(廣島陸軍幼年學校)
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、陸軍は満洲、支那大陸での諸問題の解決を計るべく戦力の拡張、及び充実の必要性から、その核心たる将校となるべき将校生徒教育の重要性がより一層増大したため、廃校となった各幼年学校の再興を決定します。
昭和11(1936)年3月31日、廣島陸軍幼年學校が⑮廣島陸軍病院第二分病室(旧校施設を転用)において新設、4月1日、開校、秋頃より歩兵第七十一聯隊跡(北之丸)を新校地として旧校舎を移築し改装、また不足建物の建設が開始され、昭和12(1937)年3月、おおよその建物が竣工したため、13日、移転、4月11日、移転祝典が挙行されます。

▲再興した廣島陸軍幼年學校
昭和20(1945)年6月4日、廣島陸軍幼年學校は吉田町(本部、第三学年)、上下町(第二学年)、庄原町(第一学年)に転営を開始、5日、完了し空いた校舎に編成中の第二百二十四師團司令部が入ります。
8月6日0815、米軍により広島市に新型爆弾(原子爆弾)が投下され、廣幼本校校舎は全壊全焼、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました(9月10日、廣島陸軍幼年學校は転営先において復員完結)。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始しますが、兵営は原子爆弾により全壊焼失していたため大蔵省に返還されます。
昭和20(1945)年10月、廣幼東側に原爆により全壊した白島国民学校が仮校舎11棟の建設を開始、昭和21(1946)年4月18日、落成し授業を再開、昭和22(1947)年9月1日、廣幼西側に廣島陸軍被服支廠海田市倉庫の建物を移築し広島市立中学校(現、市立基町高校)が比治山小学校より移転開校します(土地の所有権は不明)。
昭和21(1946)年10月4日、広島市は広島市復興事業として幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、幼年学校校地は全域が住居地として計画され、昭和23(1948)年、北側道路(城北通り)が開通し区画整理され、現在にいたります。
<遺構について>
上記の様に原爆被害、戦後の開発により遺構は殆ど遺されておらず、区画すら遺されていません。
ケ 校門門柱
正門2本、袖門1本が遺ります。
上掲の写真と比べると門柱の形状が異なりますが、校門の位置はここのため、再興から停戦までの8年間で建て替えられた様です。

▲門柱全景

▲左側

▲側面に残る塀の跡

▲右側
明らかに大きさに違和感のある笠石

▲当時の物と思われる門札

▲付近にある記念碑(記念樹?)
幼年學校同窓会により建立されます。
ケ 廣島陸軍幼年學校跡碑
昭和46(1971)年6月、同窓生により建立されます。

サ コンクリート基礎
詳細不明です。
この辺にあった狭窄射場の関係かも知れません。

サ 部隊跡記念樹
幼年學校の物では無く、元々この地にあった歩兵第七十一聯隊のものです。
昭和52(1977)年5月22日、建立されます。

<廣島陸軍幼年學校 沿革>
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国は安全保障の観点から軍備増強を決定します。
参謀次長・川上操六中将の発案のもと、陸軍省は第九回帝國議會(明治28年12月28日~明治29年3月28日)において6個師團、2個騎兵・砲兵旅團の増設を上程し、議決されます。
陸軍兵力の充実とともに併せて装備の改善、また軍近代化のため優秀な士官を大量に必要とする様になり、明治29(1896)年5月15日、『陸軍幼年學校官制』が廃止、『陸軍中央幼年學校条例』及び『陸軍地方幼年學校条例』が制定され、明治30(1897)年4月1日、東京に陸軍中央幼年學校、その下級学校として東京、大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍地方幼年學校の開校が決定します(地方幼年學校卒業生は中央幼年學校に進学)。
※従前の陸軍幼年學校、及び前史は『大阪陸軍幼年學校』参照
生徒の召集事務は第五師團高級副官が担当、廣島陸軍地方幼年學校は6月1日の開校を予定し準備に着手、5月1日、初代校長・桂真澄少佐が補任、10日、教官、職員(文武官、属官)が発令、5月28日、天皇皇后両陛下の御真影が下賜、6月1日、第五師團司令部内に學校開庁事務所が開設され召集事務を継承します。
學校用地は廣島西陸軍練兵場の北西端に定められ建設が進められますが、生徒入校予定の9月1日に間に合わない事から、8月16日、學校は仮議事堂に移転、9月1日、第一期生徒50名が入校します(33年7月14日、42名が卒業。以降、毎年9月1日に新期生徒基本50名の入校、3年後の7月10日、卒業)。
両条令施行に伴い就学期間は従前の幼年學校3年から地方幼年學校3年、中央幼年學校2年の5年に延長、採用年齢も15歳から2年引き下げられ13歳(3月31日時点で13歳以上15歳未満)に改訂され、中央幼年學校卒業生は士官候補生として半年程度、各部隊で隊附勤務を務め陸軍士官學校に進学しました。
また戦歿軍人(下士、兵卒含)、同相当官遺児の入学者は特待生として納金(月謝)の全額が免除、陸海軍尉官の戦歿者遺児は半特待生として納金の半額が免除されました。
11月28日、新校舎が竣工したため仮議事堂から移転しますが、生徒寝室の障壁は乾燥が不十分で湿気が酷かったため当分は南側の廣島陸軍豫備病院を借用、明治31(1898)年4月24日、新校舎の全設備が竣工、開校式を挙行します。
明治36(1903)年6月29日、『陸軍中央幼年學校条例』が改正され陸軍中央幼年學校を同校本科、東京地方幼年學校は廃止され陸軍中央幼年學校 豫科に改編されます。
大正9(1920)年8月7日、『陸軍士官學校令』、『陸軍幼年學校令』が制定され、従前の陸軍士官學校が陸軍士官學校 本科、陸軍中央幼年學校 本科が陸軍士官學校 豫科に、陸軍中央幼年學校 豫科は再興した東京陸軍幼年學校に改編されます。
また大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍地方幼年學校はそれぞれ大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍幼年學校に改称します。
『陸軍士官學校令』の制定に伴い各地の中学校出身者も幼年學校出身者とともに陸軍士官學校 豫科に入学可能となります。
大正10(1921)年7月14日、世界的な軍縮の流れから陸軍は軍備整理を計画、大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により廣島陸軍幼年學校の廃止が決定、昭和3(1928)年3月14日、第29回卒業式に続き廃校式を挙行、31日、廃校、4月30日、残務整理が終了します。
廣幼校舎は第五師團経理部に移管された後、昭和7(1932)年3月1日、廣島衛戍病院第二分病室に転用されます。
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、陸軍は満洲、支那大陸での諸問題の解決を計るべく戦力の拡張、及び充実の必要性から、その核心たる将校となるべき将校生徒教育の重要性がより一層増大したため、廃校となった各幼年学校の再興を決定します。
昭和11(1936)年3月31日、勅令第三十九號『陸軍幼年學校令』改正により廣島陸軍幼年學校が廣島陸軍病院第二分病室(旧校施設を転用)において新設、4月1日、校長・百武晴吉大佐以下職員が発令、第四十期生147名(3名は着校延期のため総数150名)が入校、5月1日、開校式が挙行されます。
昭和11年秋頃より歩兵第七十一聯隊跡(北之丸)を新校地として旧校舎を移築し改装、また不足建物の建設が開始され、昭和12(1937)年3月、おおよその建物が竣工したため、13日、移転、4月11日、移転祝典が挙行されます。
学校組織
学校---本部
| -教授部
| -訓育部--訓育本部
| - 3個学年
昭和13(1938)年2月10日、校内神社「肇國神社」の地鎮祭が斎行、4月中旬、竣工、30日、鎮座祭が斎行されます。
10月6日、ヒトラー・ユーゲントが来校、第三学年(第四十期生)のドイツ語班が応接します。
昭和18(1943)年3月18日、学年末の休暇を利用し、台湾の実家に帰省する陸軍幼年學校生徒10名(東幼2、廣幼3、熊幼5名)が高千穂丸に乗船、神戸(門司経由)から台湾基隆に向かう途中、19日、基隆沖で米潜キングフィッシュの雷撃を受け魚雷2本が命中し沈没、船客913名・乗組員他176名中844名が死亡してしまいます。
高千穂丸が被雷沈没後、生存者は海上に投げ出されて漂流していましたが、一部は転覆した救命艇2隻を起こし乗り込みます。
幼年學校生徒は衰弱する船客を歌って励まし、近づく救命艇に船客を優先的に乗艇させ、いよいよ廣幼の小野昭二、中村真典、甲田基典各生徒に救助の手が差し伸べられますが、すでに救命艇は救助者で溢れる状況に「自分たちが乗れば艇は転覆するかも知れず、もし余力があるなら他の方を救助して欲しい」と告げ、泳ぎ出し波間に没してます。
9月10日、廣幼は『廣島陸軍幼年學校防空計畫』を策定、露天防空壕、監視壕の築城を開始します。
昭和20(1945)年3月12日、第四十六期生147名の卒業式が挙行されます(最後の卒業式)。
昭和19(1944)年7月17日、廣幼生徒は兵籍に編入、昭和20(1945)年4月、第二總軍指揮下に編入されます。
昭和20年春頃、生徒監・楠清少佐は廣幼の疎開計画を立案、5月11日、教育總監部は廣幼の疎開を下令、21日、廣幼は転営委員(清水穆夫少佐)の指揮のもと本部(田端八十吉少将)、第三学年(第四十七期生)は高田郡吉田町(青年師範学校の半分、吉田国民学校の半分借用)、第二学年(第四十八期生)は甲奴郡上下町(上下町国民学校の2/3借用)、第一学年(第四十九期生)は比婆郡庄原町(格致中学校の講堂、事務室、教官室、山内国民学校の講堂、倉庫)への転営準備を開始、6月4日、転営を実施、5日、完了、自活のため教育、現地訓練と並行し開墾、牧畜を開始します。
7月23日、廣幼義勇隊の編成要領が策定され、学校所属の軍属115名により編成、現職域の任務のほか所要に応じて警備、防空、消防、陣地築城、食料増産、救護、炊事、被服補修作業に任ずる事とします。
また危急に際しては校長の命により義勇戦闘隊への転移が計画されます。
8月6日0815、米軍により広島市に新型爆弾(原子爆弾)が投下され、廣幼本校校舎は全壊、出張中の吉田留教頭が北講堂内において散華、7日、陸軍病院に入院中の生徒を救出すべく捜索隊が編成され医薬品、糧食、飲料水を搭載し自動貨車にて出発、陸軍病院跡の救護所にて治療中の生徒を収容し本部(吉田町青年師範学校)に帰還しますが、8日、重傷を負っていた菊池五郎生徒が散華してしまいます。
14日、廣幼は生徒に「明日正午、陛下の重大放送」を告知、15日、廣幼校長・田端少将以下全職員、生徒は正装にて『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
16日、田端少将は第二總軍司令部に出張、17日、帰校後、第一次臨時訓育会報、20日、第二次〃、25日、第三次〃、27日、第四次〃を開催、同日、復員命令を下令、28日、御真影、勅語、肇國神社御神体を奉焼、31日、第一次輸送、9月1日、第二次輸送の生徒が出発、9月10日、残務整理が完了、廣島陸軍幼年學校は復員完結します。
<主要参考文献>
『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)
『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)
『鯉城の稚桜-広島陸軍幼年学校史-』(昭和51年7月 広幼会)
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▲公園に遺る校門門柱
【探索日時】
平成27(2015)年2月22日


<廣島城周辺の施設配置>
昭和12(1937)年頃の第五師團周辺の各隊配置

① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
② 〃 兵器部
③ 〃 弾薬庫
④ 〃 経理部 需品倉庫
⑤ 〃 被服庫
⑥ 〃 隔離厩
⑦ 〃 資材倉庫
⑧ 〃 法務部、廣島衛戍拘禁所
⑨ 歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊
⑩ 野砲兵第五聯隊
⑪ 〃 馬場
⑫ 輜重兵第五聯隊
⑬ 廣島西陸軍練兵場
⑭ 廣島陸軍病院 第一分病室
⑮ 廣島陸軍病院 第二分病室
⑯ 廣島陸軍病院
⑰ 廣島陸軍幼年學校
⑱ 歩兵第九旅團司令部
⑲ 廣島聯隊區司令部
⑳ 廣島偕行社
㉑ 〃 附属済美學校
㉒ 廣島憲兵隊本部
㉓ 第五師團長官舎
㉔ 廣島護國神社
A 第一軍戰死者記念碑
B 北清事變戰歿者記念碑
※太字が当記事での紹介施設
<陸軍幼年學校について>
陸軍幼年學校は教育總監部に隷し生徒に「陸軍予科士官学校生徒であることに必要な素養を与えるため、軍事上必要な普通学を教授し軍人精神を涵養する所」と定められ、3月31日時点で13歳以上15歳未満の男子志願者を対象に採用検査(身体検査、学科試験)が行われ、採用者(倍率40~50倍)は陸軍幼年學校で3年学び、卒業者は陸軍豫科士官學校に進学しました。
生徒は月々納金(月謝)を納めますが戦歿軍人(下士、兵卒含)、同相当官遺児の入学者は特待生として納金の全額が免除、陸海軍尉官の戦歿者遺児は半特待生として納金の半額が免除されました。
<廣島陸軍幼年學校(鯉城台)について>
明治30(1897)年4月1日、廣島陸軍地方幼年學校(大正9年8月7日、廣島陸軍幼年學校に改称)の新設が決定、6月1日、第五師團司令部内において事務を開始、9月1日、⑬廣島西陸軍練兵場東側にあった臨時帝国議会仮議事堂を仮校舎として生徒が入校、11月28日、⑮練兵場北西端に竣工した校舎に移転しますが、昭和3(1928)年3月31日、世界的な軍縮の流れにより廃校されます。

▲ここにあった廣島陸軍地方幼年學校(廣島陸軍幼年學校)
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、陸軍は満洲、支那大陸での諸問題の解決を計るべく戦力の拡張、及び充実の必要性から、その核心たる将校となるべき将校生徒教育の重要性がより一層増大したため、廃校となった各幼年学校の再興を決定します。
昭和11(1936)年3月31日、廣島陸軍幼年學校が⑮廣島陸軍病院第二分病室(旧校施設を転用)において新設、4月1日、開校、秋頃より歩兵第七十一聯隊跡(北之丸)を新校地として旧校舎を移築し改装、また不足建物の建設が開始され、昭和12(1937)年3月、おおよその建物が竣工したため、13日、移転、4月11日、移転祝典が挙行されます。

▲再興した廣島陸軍幼年學校
昭和20(1945)年6月4日、廣島陸軍幼年學校は吉田町(本部、第三学年)、上下町(第二学年)、庄原町(第一学年)に転営を開始、5日、完了し空いた校舎に編成中の第二百二十四師團司令部が入ります。
8月6日0815、米軍により広島市に新型爆弾(原子爆弾)が投下され、廣幼本校校舎は全壊全焼、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました(9月10日、廣島陸軍幼年學校は転営先において復員完結)。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始しますが、兵営は原子爆弾により全壊焼失していたため大蔵省に返還されます。
昭和20(1945)年10月、廣幼東側に原爆により全壊した白島国民学校が仮校舎11棟の建設を開始、昭和21(1946)年4月18日、落成し授業を再開、昭和22(1947)年9月1日、廣幼西側に廣島陸軍被服支廠海田市倉庫の建物を移築し広島市立中学校(現、市立基町高校)が比治山小学校より移転開校します(土地の所有権は不明)。
昭和21(1946)年10月4日、広島市は広島市復興事業として幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、幼年学校校地は全域が住居地として計画され、昭和23(1948)年、北側道路(城北通り)が開通し区画整理され、現在にいたります。
<遺構について>
上記の様に原爆被害、戦後の開発により遺構は殆ど遺されておらず、区画すら遺されていません。
ケ 校門門柱
正門2本、袖門1本が遺ります。
上掲の写真と比べると門柱の形状が異なりますが、校門の位置はここのため、再興から停戦までの8年間で建て替えられた様です。

▲門柱全景

▲左側

▲側面に残る塀の跡

▲右側
明らかに大きさに違和感のある笠石

▲当時の物と思われる門札

▲付近にある記念碑(記念樹?)
幼年學校同窓会により建立されます。
ケ 廣島陸軍幼年學校跡碑
昭和46(1971)年6月、同窓生により建立されます。

サ コンクリート基礎
詳細不明です。
この辺にあった狭窄射場の関係かも知れません。

サ 部隊跡記念樹
幼年學校の物では無く、元々この地にあった歩兵第七十一聯隊のものです。
昭和52(1977)年5月22日、建立されます。

<廣島陸軍幼年學校 沿革>
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国は安全保障の観点から軍備増強を決定します。
参謀次長・川上操六中将の発案のもと、陸軍省は第九回帝國議會(明治28年12月28日~明治29年3月28日)において6個師團、2個騎兵・砲兵旅團の増設を上程し、議決されます。
陸軍兵力の充実とともに併せて装備の改善、また軍近代化のため優秀な士官を大量に必要とする様になり、明治29(1896)年5月15日、『陸軍幼年學校官制』が廃止、『陸軍中央幼年學校条例』及び『陸軍地方幼年學校条例』が制定され、明治30(1897)年4月1日、東京に陸軍中央幼年學校、その下級学校として東京、大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍地方幼年學校の開校が決定します(地方幼年學校卒業生は中央幼年學校に進学)。
※従前の陸軍幼年學校、及び前史は『大阪陸軍幼年學校』参照
生徒の召集事務は第五師團高級副官が担当、廣島陸軍地方幼年學校は6月1日の開校を予定し準備に着手、5月1日、初代校長・桂真澄少佐が補任、10日、教官、職員(文武官、属官)が発令、5月28日、天皇皇后両陛下の御真影が下賜、6月1日、第五師團司令部内に學校開庁事務所が開設され召集事務を継承します。
學校用地は廣島西陸軍練兵場の北西端に定められ建設が進められますが、生徒入校予定の9月1日に間に合わない事から、8月16日、學校は仮議事堂に移転、9月1日、第一期生徒50名が入校します(33年7月14日、42名が卒業。以降、毎年9月1日に新期生徒基本50名の入校、3年後の7月10日、卒業)。
両条令施行に伴い就学期間は従前の幼年學校3年から地方幼年學校3年、中央幼年學校2年の5年に延長、採用年齢も15歳から2年引き下げられ13歳(3月31日時点で13歳以上15歳未満)に改訂され、中央幼年學校卒業生は士官候補生として半年程度、各部隊で隊附勤務を務め陸軍士官學校に進学しました。
また戦歿軍人(下士、兵卒含)、同相当官遺児の入学者は特待生として納金(月謝)の全額が免除、陸海軍尉官の戦歿者遺児は半特待生として納金の半額が免除されました。
11月28日、新校舎が竣工したため仮議事堂から移転しますが、生徒寝室の障壁は乾燥が不十分で湿気が酷かったため当分は南側の廣島陸軍豫備病院を借用、明治31(1898)年4月24日、新校舎の全設備が竣工、開校式を挙行します。
明治36(1903)年6月29日、『陸軍中央幼年學校条例』が改正され陸軍中央幼年學校を同校本科、東京地方幼年學校は廃止され陸軍中央幼年學校 豫科に改編されます。
大正9(1920)年8月7日、『陸軍士官學校令』、『陸軍幼年學校令』が制定され、従前の陸軍士官學校が陸軍士官學校 本科、陸軍中央幼年學校 本科が陸軍士官學校 豫科に、陸軍中央幼年學校 豫科は再興した東京陸軍幼年學校に改編されます。
また大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍地方幼年學校はそれぞれ大阪、仙臺、名古屋、廣島、熊本各陸軍幼年學校に改称します。
『陸軍士官學校令』の制定に伴い各地の中学校出身者も幼年學校出身者とともに陸軍士官學校 豫科に入学可能となります。
大正10(1921)年7月14日、世界的な軍縮の流れから陸軍は軍備整理を計画、大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により廣島陸軍幼年學校の廃止が決定、昭和3(1928)年3月14日、第29回卒業式に続き廃校式を挙行、31日、廃校、4月30日、残務整理が終了します。
廣幼校舎は第五師團経理部に移管された後、昭和7(1932)年3月1日、廣島衛戍病院第二分病室に転用されます。
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、陸軍は満洲、支那大陸での諸問題の解決を計るべく戦力の拡張、及び充実の必要性から、その核心たる将校となるべき将校生徒教育の重要性がより一層増大したため、廃校となった各幼年学校の再興を決定します。
昭和11(1936)年3月31日、勅令第三十九號『陸軍幼年學校令』改正により廣島陸軍幼年學校が廣島陸軍病院第二分病室(旧校施設を転用)において新設、4月1日、校長・百武晴吉大佐以下職員が発令、第四十期生147名(3名は着校延期のため総数150名)が入校、5月1日、開校式が挙行されます。
昭和11年秋頃より歩兵第七十一聯隊跡(北之丸)を新校地として旧校舎を移築し改装、また不足建物の建設が開始され、昭和12(1937)年3月、おおよその建物が竣工したため、13日、移転、4月11日、移転祝典が挙行されます。
学校組織
学校---本部
| -教授部
| -訓育部--訓育本部
| - 3個学年
昭和13(1938)年2月10日、校内神社「肇國神社」の地鎮祭が斎行、4月中旬、竣工、30日、鎮座祭が斎行されます。
10月6日、ヒトラー・ユーゲントが来校、第三学年(第四十期生)のドイツ語班が応接します。
昭和18(1943)年3月18日、学年末の休暇を利用し、台湾の実家に帰省する陸軍幼年學校生徒10名(東幼2、廣幼3、熊幼5名)が高千穂丸に乗船、神戸(門司経由)から台湾基隆に向かう途中、19日、基隆沖で米潜キングフィッシュの雷撃を受け魚雷2本が命中し沈没、船客913名・乗組員他176名中844名が死亡してしまいます。
高千穂丸が被雷沈没後、生存者は海上に投げ出されて漂流していましたが、一部は転覆した救命艇2隻を起こし乗り込みます。
幼年學校生徒は衰弱する船客を歌って励まし、近づく救命艇に船客を優先的に乗艇させ、いよいよ廣幼の小野昭二、中村真典、甲田基典各生徒に救助の手が差し伸べられますが、すでに救命艇は救助者で溢れる状況に「自分たちが乗れば艇は転覆するかも知れず、もし余力があるなら他の方を救助して欲しい」と告げ、泳ぎ出し波間に没してます。
9月10日、廣幼は『廣島陸軍幼年學校防空計畫』を策定、露天防空壕、監視壕の築城を開始します。
昭和20(1945)年3月12日、第四十六期生147名の卒業式が挙行されます(最後の卒業式)。
昭和19(1944)年7月17日、廣幼生徒は兵籍に編入、昭和20(1945)年4月、第二總軍指揮下に編入されます。
昭和20年春頃、生徒監・楠清少佐は廣幼の疎開計画を立案、5月11日、教育總監部は廣幼の疎開を下令、21日、廣幼は転営委員(清水穆夫少佐)の指揮のもと本部(田端八十吉少将)、第三学年(第四十七期生)は高田郡吉田町(青年師範学校の半分、吉田国民学校の半分借用)、第二学年(第四十八期生)は甲奴郡上下町(上下町国民学校の2/3借用)、第一学年(第四十九期生)は比婆郡庄原町(格致中学校の講堂、事務室、教官室、山内国民学校の講堂、倉庫)への転営準備を開始、6月4日、転営を実施、5日、完了、自活のため教育、現地訓練と並行し開墾、牧畜を開始します。
7月23日、廣幼義勇隊の編成要領が策定され、学校所属の軍属115名により編成、現職域の任務のほか所要に応じて警備、防空、消防、陣地築城、食料増産、救護、炊事、被服補修作業に任ずる事とします。
また危急に際しては校長の命により義勇戦闘隊への転移が計画されます。
8月6日0815、米軍により広島市に新型爆弾(原子爆弾)が投下され、廣幼本校校舎は全壊、出張中の吉田留教頭が北講堂内において散華、7日、陸軍病院に入院中の生徒を救出すべく捜索隊が編成され医薬品、糧食、飲料水を搭載し自動貨車にて出発、陸軍病院跡の救護所にて治療中の生徒を収容し本部(吉田町青年師範学校)に帰還しますが、8日、重傷を負っていた菊池五郎生徒が散華してしまいます。
14日、廣幼は生徒に「明日正午、陛下の重大放送」を告知、15日、廣幼校長・田端少将以下全職員、生徒は正装にて『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
16日、田端少将は第二總軍司令部に出張、17日、帰校後、第一次臨時訓育会報、20日、第二次〃、25日、第三次〃、27日、第四次〃を開催、同日、復員命令を下令、28日、御真影、勅語、肇國神社御神体を奉焼、31日、第一次輸送、9月1日、第二次輸送の生徒が出発、9月10日、残務整理が完了、廣島陸軍幼年學校は復員完結します。
<主要参考文献>
『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)
『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)
『鯉城の稚桜-広島陸軍幼年学校史-』(昭和51年7月 広幼会)
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