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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第五聯隊(捜索第五聯隊)・第二總軍司令部

広島駅の北側、開発が著しい二葉の里に騎兵第五聯隊がありました。
聯隊はのちに捜索第五聯隊に改編、また兵営では捜索第三十九聯隊が編成され、第二總軍總司令部が置かれます。
忠節 陣歿軍人軍馬追悼之碑 騎兵第五聯隊跡 愛馬よ眠れ(左から) 騎兵捜索第五聯隊(広島)
▲唯一の遺構である石碑類

【探索日時】
平成27(2015)年2月22日





廣島城周辺の施設配置
広島 昭和12 第五師団・大本営 (広島)
▲一般的な昭和12(1937)年頃の配置

① 第五師團司令部(副官部、参謀部、経理部、軍医部、獣医部)
②  〃 兵器部
③  〃 弾薬庫
④  〃 経理部 需品倉庫
⑤  〃 被服庫
⑥  〃 隔離厩
⑦  〃 資材倉庫
⑧  〃 法務部、廣島衛戍拘禁所
⑨ 歩兵第十一聯隊・第五師團通信隊
⑩ 野砲兵第五聯隊
⑪  〃 馬場
⑫ 輜重兵第五聯隊
⑬ 廣島西陸軍練兵場
⑭ 廣島陸軍病院
⑮  〃 第一分病室
⑯  〃 第二分病室
⑰ 廣島陸軍幼年學校
⑱ 歩兵第九旅團司令部
⑲ 廣島聯隊區司令部
⑳ 廣島偕行社
㉑  〃 附属済美學校
㉒ 廣島憲兵隊本部
㉓ 第五師團長官舎
㉔ 廣島護國神社

A 第一軍戰死者記念碑
B 北清事變戰歿者記念碑

㉕ 工兵第五聯隊
㉖ 騎兵第五聯隊
㉗ 廣島東陸軍練兵場


㉚ 江波陸軍射撃場
㉛ 廣島陸軍墓地
※太字が当記事での紹介施設


遺構について
㉖ 騎兵第五聯隊
㉗ 廣島東陸軍練兵場
明治4(1871)年8月20日、廣島城を含む全地方城郭は兵部省に移管され、同日、「鎭臺」の設置が告示、12月、本丸御殿に鎭西鎭臺第一分営が開設されます。
明治6(1873)年1月14日、廣島城全域が軍用地に指定され、兵部省(支払いは大蔵省より)は曲輪(北、西之丸、内大手(三之丸)、大手曲輪)内の旧藩士所有地のうち必要箇所より順次買収(移転費用、耕作手当含)を開始しますが、用地明渡し交渉は難航、4年の猶予期間を設け、明治20(1887)年、漸く全域を買収します。

明治21(1888)年2月、騎兵第五大隊第一中隊が新編され西之丸の新兵営(後の輜重兵営北半分)に入ります。

師團諸隊の新編が続くなか大手曲輪跡に造成された城内練兵場は狭隘で練兵に支障を来す事から、陸軍省は近接地に新練兵場の設定を計画、明治23(1890)年6月、第五師團監督部は尾長村、大須賀村に跨る民有農地216,630坪の所得を開始、7月14日、官有地を移管、民有地を買収し造成、廣島東陸軍練兵場が竣工します。
同時に練兵場西端に騎兵営の建設を開始、12月、騎兵第五大隊が大須賀村(東練兵場西側)の新兵営に転営します。
騎兵第五聯隊兵営 騎兵捜索第五聯隊(広島)
この辺りにあった騎兵第五聯隊営門

明治25(1892)年12月29日、山陽鐵道㈱より陸軍省に東練兵場南西端11,400坪を鉄道、停車場用地として払い下げが出願され、明治26(1893)年3月6日、払い下げを許可します。

明治29(1896)年5月9日、騎兵第五大隊は騎兵第五聯隊に改編します。

明治27(1894)年6月10日、日清戦役、明治33(1900)年6月26日、北清事変、明治37(1904)年4月19日、日露戦役に際し騎兵第五大隊補充中隊、昭和12(1937)年7月27日、支那事変に際し騎兵第五聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成され、昭和14(1939)年8月1日、騎兵第三十九聯隊を編成します。

昭和15(1940)年11月30日、騎兵第五聯隊は捜索第五聯隊に改編、騎兵第五聯隊補充隊も捜索第五聯隊補充隊に改編されます。

昭和20(1945)年4月1日、捜索第五聯隊補充隊は復帰、事後聯隊の補充は廣島師管區 歩兵第一補充隊(旧歩兵第十一聯隊補充隊)が担当、兵営は廣島師管區司令部経理部に移管されます。

18日、騎兵営は第二總軍司令部に転用されますが、8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され、第二總軍司令部は全壊炎上、司令部職員300名中120名が散華、司令官・元帥畑俊六大将以下生存者は二葉山山麓の0號防空壕(司令部壕)に退避、市内の復旧指揮、決號作戦(本土決戦)の準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました(11月30日、第二總軍司令部は復員完結)。
また東練兵場は避難場所となり応急救護所が設けられます。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍用地は内務省(広島県)を通じ大蔵省に移管が決定されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐、10月7日、本隊3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置、第41歩兵師団が広島、島根県に進駐を開始しますが、兵営は原子爆弾により全壊焼失していたため大蔵省に返還されます。

昭和20年9月24日、農林省は各地方長官に「軍用地ノ農耕地転用ニ関スル件」を発令、11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、東練兵場は農林省に移管され、12日、二葉山開拓団(元獨立高射砲第二十二大隊第二中隊長・藤田守登中尉以下20戸)に開放され開墾が開始されます。

昭和21(1946)年10月4日、広島市は広島市復興事業として幹線街路の敷設、11月1日、区画整理、及び大規模公園緑地の設置を決定、騎兵営は住宅地、東練兵場の大半は公園、その他は住宅地、広島駅付近が商業地として計画されます。

昭和24(1949)年8月6日、『広島平和記念都市建設法』が交付、9月9日、建設省内に平和文化都市都市建設協議会、昭和25(1950)年10月、広島市に広島平和記念都市建設専門委員会が発足、10月3日、『広島平和記念都市建設事業計画案』が立案され騎兵営、東練兵場の開発が開始され、昭和24(1949)年2月、広島鉄道病院が開院(用地は運輸省移管)、昭和27(1952)年7月28日、市立二葉中学校(広島市に払い下げ)が開校、東側は全域が住宅地として開発、西側の大蔵省用地に公団住宅などが建設されたのち、払い下げられ商業施設として現在も開発が進みます。

大東亜戦争開戦直後、タイ-マレー国境付近の敵陣を穿貫突破、騎兵将兵の特性を遺憾なく発揮、世界戦史に輝く機動突破作戦の極致を示した捜索第五聯隊ですが、上記の様に戦後の区画整理、幹線道路開通、大規模開発に伴い残念ながら遺構はほぼ皆無、兵営の区画も殆ど滅失しています。

石碑
廣島東陸軍練兵場の西端にあった露天馬場の北端に4基集められています。
陣歿軍人軍馬追悼之碑
大正9(1920)年11月18日、聯隊の軍旗拝受日を記念し聯隊創設以来シベリア出征までの戦病没軍馬を追悼すべく建立されます。
揮毫は時の第五師團長・鈴木荘六中将です。
陣歿軍人軍馬追悼之碑 騎兵捜索第五聯隊(広島)

忠節
聖訓五箇条(軍人勅諭)の第一の徳目である「忠節」の碑です。
何時造られた物か不明ですが、揮毫した長谷川美代次中将(留守第五師團長)の在任期間中の昭和16(1941)年10月15日から捜索第五聯隊補充隊の復帰する昭和20(1945)年3月31日までの間と思われます。
忠節 騎兵捜索第五聯隊(広島)

騎兵第五聯隊跡
「跡」の文字から戦後に建立されたと思われますが詳細不明です。
裏面は騎兵第五、捜索第五聯隊が活動した「自、明治二十三年 至、昭和二十年」とあるだけです。
騎兵第五聯隊跡 騎兵捜索第五聯隊(広島)

愛馬よ眠れ
昭和36(1961)年、もえぎ会(騎兵関係者団体)により建立されます。
愛馬よ眠れ 騎兵捜索第五聯隊(広島)


衛戍・編成部隊
騎兵第五聯隊(鯉五一七七/西部第五部隊)
捜索第五聯隊(鯉五一七七)
明治21(1888)年2月、騎兵第五大隊第一中隊(梅崎信貴大尉)が新編され西之丸の新兵営(後の輜重兵営北半分)に入り、明治25(1892)年、第二中隊が編成され大隊(木村重少佐)の編成が完結します。
※『広島市史 第四巻』による。『日本騎兵史 下』によると第一中隊の編成は明治23(1890)年12月。
中隊は2個小隊編制で人員146名でした。

明治23(1890)年12月、大須賀村の新兵営に転営します。

明治27(1894)年2月、朝鮮国において東学党の乱が発生、朝鮮国は独力での乱鎮圧が不可能なため、5月31日、清国に出兵を要請、6月2日、我が国は天津条約に基づき居留民保護のため出兵を決定、5日、大本營を設置し混成歩兵第九旅團(大島義昌少将、歩十一、歩二十一、野戰砲兵五第三大隊、騎兵、工兵各1個中隊、輜重兵1/2中隊7,000名)の編成が下令、8日、第一中隊(渡邊新作大尉)の編成完結します。

9日、清国軍増強の情報に混成旅團は動員完結を待たず歩十一第一大隊(一戸兵衛少佐)が工兵1個小隊とともに先遣隊として宇品を出港、12日、仁川に上陸、13日、京城の警備にあたります。
10日、旅團の編成完結、11日、第一次輸送部隊(大島少将、歩十一主力)が宇品を出港、12日、中隊は宇品を出港、16日、仁川に上陸にします。

6月12日、外交交渉は限界に達したと認識した我が国は第五師團に動員下令(16日、動員完結)、14日、第二次輸送部隊が宇品を出港、17日、釜山に上陸し警備にあたり、27日、旅團は京城市外に集結し暴動を鎮圧し情報収集にあたり、7月25日、牙山・盛歓、平壌に集結した清国軍(葉志超以下4,000)により、旅團は挟撃を受ける恐れがあった事から、中隊を前衛騎兵として龍山を出発、29日、新井里、月峰山、罌粟坊主山、盛歓、牛歇里を攻略、中隊は敗敵を追撃、30日、牙山を攻略、清国軍は平壌に潰走、8月5日、旅團は龍山に帰還します。

8月1日、我が国は清国に対し宣戦を布告、明治二十七八年戰役(日清戦争)が開戦します。

8月4日、大隊主力(木村重少佐、本部・第二中隊)は第三次輸送部隊として宇品を出港、7日、釜山に上陸、第一小隊を師團長・野津道貫中将護衛として抽出、大隊とともに陸路京城へ向かいます。

22~29日にかけ朔寧分遣支隊(野砲五、歩十二第一大隊、歩二十一第二大隊、騎五第二中隊第三小隊)を除く第五師團(野津道貫中将)は龍山(大隊は万里倉に集結し第一中隊を掌握)に集結、混成歩兵第九旅團を掌握、9月1日、師團は第三師團(桂太郎中将、名古屋)、歩兵第十二旅團(長谷川好道少将、熊本)とともに第一軍(山縣有朋大将)戦闘序列に編入されます。

野津中将は清国軍の増強、及び清国の動向に左右される朝鮮官民の状況に鑑み、8月31日、師團は敵の機先を制し独力で撃破すべく軍の集結を待たず、30日に元山に上陸した第三師團隷下の元山支隊(歩十八基幹)を指揮下に編入し龍山を出発します。

14日、歩兵第九旅團は義州街道を北進し平壌(葉志超上将、15,000守備)正面南側、朔寧支隊(歩兵第十旅團長・立見尚文少将(旧朔寧分遣支隊))は平壌左側背北東、元山支隊は平壌背面北側、師團主力は敵退路を遮断すべく平壌北西にそれぞれ進撃、大隊は師團とともに進撃し大同江に架橋します。

15日、大隊は獨立騎兵隊として平壌北方小龍山付近に進撃、同日、各隊は平壌城の攻撃を開始、激戦の後、16日1645、敵は突如潰走(葉の士気の低さが原因)したため、16日0330、師團主力が平壌に突入し攻略、23日、騎兵隊は師團前衛の歩第十旅團とともに進撃を開始、10月4日、義州を攻略、24日、第一軍、第五師團は義州に集結します。

24日、第三師團(桂太郎中将、名古屋)が第一軍橋(工兵三が夜間に架橋)にて鴨緑江を渡河し虎山を攻略、続いて歩第十旅團が渡河、25日、師團は第二軍橋(工兵五が架橋)にて渡河、騎兵隊は敗敵を追撃、26日、楡樹溝に集結、0700、歩十一が九連城、1200、歩二十一第三大隊が安東県を無血攻略、第一軍は国境要害を全て確保し清軍を朝鮮より駆逐します。
師團は西北進し、29日、守将・宋慶(歩兵9,800、騎兵1,200)が諸兵の統率が採れず撤退した鳳凰城を攻略、周辺の警備にあたります。
11月26日、大隊は第十旅團に編入され鳳凰城を出発、30日、崔家房の敵陣地を攻略、12月4日、帰還、14日、鳳凰城北方賽馬集の敵陣を攻略、敗敵を追撃、15日、帰還します。
明治28(1895)年2月19日、師團とともに鳳凰城を出発、24日、龍頭塞、27日、大嶺、3月1日、廟嶺、において敵を撃破、4日、牛荘、9日、田庄台で敵を撃破、直隷平野での決戦準備のため海城付近に移駐します。

3月30日、休戦条約が調印され、4月17日、講和条約が調印(5月8日、批准交換)されたため、6月5日、大隊は海城付近を出発、12日、大連を出港、7月17日、宇品に上陸し広島に凱旋、22日、復員完結します。

明治29(1896)年5月9日、騎兵第五大隊留守中隊を第三中隊とし騎兵第五聯隊(大高坂正元大佐)に改編、11月18日、宮中において軍旗を拝受します。
騎兵第五聯隊軍旗 騎兵捜索第五聯隊(広島)
▲騎兵第五聯隊 軍旗

明治33(1900)年5月20日、北京駐箚列国公使会議は清国各地において蜂起し暴徒化した排外的宗教団体・義和団鎮圧のため協同派兵を決定、各国軍艦から陸戦隊2,000名(英海軍セーモア中将)を派遣しますが、廊坊において団匪に阻止され北京は孤立、6月13日、各国公使館は包囲攻撃を受けます。

6月12日、我が国は佐世保海兵團(服部雄吉中佐、328名)を塘沽に急派、13日、列国軍(米英露仏墺伊軍)とともに大沽砲台を攻撃しますが、清軍の砲撃により攻撃は頓挫、協議中に佐世保海兵團の白石葭江大尉以下が砲台を攻略します。
21日、清国が義和団を支援し欧米列国に宣戦布告し北清事変(清國事件)が勃発します。

師團は第一次清國臨時派遣隊(参謀本部第二部長・福島安正少将、歩十一第二大隊、騎五第二中隊、野砲五第二大隊、工五第一中隊、臨時輜重隊。計1,343名)を編成 、6月19日、派遣隊は宇品港を出航し塘沽に上陸、25日、上陸した第二次派遣隊(第十一師團歩十二第三大隊1,825名)と連絡し、29日、一部が天津に進出、福島少将は連合軍の防御優先策を批判、セーモア中将の支持も得て団匪の本拠地・天津城攻撃を決定、7月13日、派遣隊は清軍・団匪20,000を撃破し天津城を攻略します。

6月26日、第五師團(山口素臣中将)に動員下令、7月5日、動員完結、7月9~25日、師團主力は宇品を出港、14~16日、太沽に上陸、21日、派遣隊を掌握、29日、列国軍(英・米・露・仏・独・伊国軍)とともに天津付近に集結、30日、北京公使館より窮状が伝えられますが、我が国以外の列国軍は消極無方針で歩調が合わず(特にロシアの態度は反日的)、8月3日、英米の賛同を得て我が国主導で北京急進が決します。

5日、師團は歩十一第二大隊、歩十二第三大隊を天津守備隊として残置、米英軍とともに白河右岸を進撃、歩四十二第三大隊、野戰砲五が要所・北倉を攻略、6日、露軍の抜け駆け、米英の対露対抗心と各国の歩調が合わないまま進撃、1500、露軍に続き歩四十一第二大隊が湯村に突入、7日、歩四十一、野戰砲五、騎五、工五が南蔡村の敵歩・騎・砲兵を撃破し攻略、8日、獨立騎兵隊(騎五聯隊長・大高坂大佐指揮、英騎兵2個中隊、露騎兵1個中隊半)に続き師團は列国軍先頭として湯村を出発、列国軍の緩慢な行軍に敵主力包囲の戦機、貴重な時間を浪費しつつ、12日、天津-北京間の要所・通州を攻略し集結します。

13日、眞鍋支隊(歩兵第九旅團長・眞鍋斌少将、歩四十一基幹)は通州を出発(同日、露軍が抜け駆けし東便門を突破するも苦戦)、14日、北京城朝陽門に進撃しますが頑強な城門、敵の銃砲火に阻まれ突破できず、同日、師團主力が通州を出発、歩二十一は朝陽門、次いで北進し東直門に進撃、2100、工五において編成された爆破班によって城門破壊に成功、歩二十一が城内に一番乗りし敵を撃破しつつ北進し安定門を攻略、15日0130、歩四十一は南進し、歩第九旅團長・眞鍋少将は北京駐在日本公使館に達し公使・西徳ニ郎男爵以下在留邦人を救出、0700、歩四十二が紫禁城東安門を突破、1100、歩二十一は西進し徳勝門、歩四十一は地安門を攻略、同日、米軍が正陽門を突破し紫禁城天安門、午門を攻略、別働の歩十一が北京城に到着します。
清国朝廷は14日、徳勝門から脱出、略奪を行いながら、16日、居庸関、21日、宣化、30日、大同を経て、8月10日、太原城に逃走します。

10月上旬、利権獲得のため列国軍が兵力を増強させるなか、我が国は師團の半数を復員、明治34(1901)年6月21日、師團に復員下令、7月3日、警備を清國駐屯軍(秋山好古大佐)に移譲し、6日、塘沽より乗船し、12日、宇品港に上陸、広島に凱旋します。

明治28(1895)年5月14日の三国干渉以降、ロシアは露骨に満洲の領有を進め(1858年、愛琿条約により黒竜江北側を確保、1895年、三国干渉により我が国の遼東半島領有を放棄させ、1896年、満洲の鉄道敷設件を獲得し旅順を占領、1898年、清国より遼東半島南部の租借権を獲得、1900年、北清事変に際し満洲全土を占領、日英の抗議により、1902年、清国と東三省条約を締結し撤兵を約し、第一期撤兵をするも、1903年、第二期撤兵を反故にし兵備を増強、さらに我が国が自衛上保全していた韓国に勢力を伸長すべく完全な中立化を要求)、安全保障上の驚異を感じた我が国は解決を図るべく、明治36(1903)年7月以降、ロシアと外交交渉を重ねますがロシアに交譲の誠意無く、さらに軍備を増強し武力により我が国を威嚇するに至ります。

明治37(1904)年2月5日、我が国はロシアに対し最後通牒を公布、9日、ロシアが宣戦を布告、10日、我が国が宣戦を布告、明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦します。

4月19日、第五師團(上田有澤中将)に動員下令、25日、動員完結、5月10日、聯隊(種田錠太郎大佐)は師團隷下部隊とともに広島に集結、13日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され、15~18日、宇品港を出港、19~22日、張家屯に上陸します。

5月5日、第二軍は旅順要塞と満洲方面の露軍の連絡分断、及び我軍の根拠地となりうる大連を攻略すべく第一、第三、第四師團は上陸とともに東進、22日、上陸した師團は軍の後背援護を下命され、普蘭店から大沙河の線を確保、次いで6月3日、台山寺付近に移駐し北方の警戒にあたり、聯隊は騎兵三、騎兵四とともに師團前衛に進出し警戒にあたります。
5月29日、旅順攻略のため第三軍(乃木希典大将)が新編され、第二軍戦闘序列は第三、第四、第五師團に更改されます。

6月13日、第二軍は旅順救援を企図し得利寺に集結中のシベリア第1軍団を殲滅すべく北上を開始、聯隊は師團先頭として警戒、捜索にあたり、15日、師團は成山、禿房身西南高地を攻略し蔡家屯、孫家屯付近で敵を撃破、敵は豪雨に紛れ撤退、敵の南侵企図を放棄させます。

7月9日、軍は蓋平付近に停止した敵を殲滅すべく、師團は軍最右翼に位置し北進、蓋平を、24日、太平嶺を攻略、8月1日、柝木城一帯を攻略しますが、敵は既に退却しており、師團は揚厨溝北方高地に進撃、10日、羅字堡子付近に集結、連日の豪雨のため出発は遅れ、27日0500、東菓子園付近の敵前進陣地を無抵抗で攻略、追撃を開始し、28日、山咀子西南高地に進出、滿洲軍は遼陽を包囲します。

30日、師團は歩四十一を右翼隊、歩二十一旅團、歩二十一、騎五を左翼隊、歩九旅團、歩十一、歩四十二を豫備隊に部署、0500、第二軍右翼の第三師團歩十八に連携して北大山の敵堡塁を攻撃、右翼隊は大窪高地の敵を撃破し高地一帯を攻略、左翼隊は騎五の敵状捜索に続き攻撃前進しますが頑強な胸檣、鉄条網に阻まれ損害が増加したため一時攻撃を中止します。

31日、軍命令により歩四十二を第十師團の増援のため風水溝に派遣、第三師團歩六が北大山の攻撃に加入、左翼隊は右翼隊、砲兵隊の援助を得て攻撃を再開しますが戦線膠着が続くなか、友軍砲兵の砲撃効果大なるを確信した歩二十一は突撃前進、激戦ののち敵前400mの断崖を攻略、9月1日0130、敵の退却に乗じ第三大隊は工兵作業班を先頭に向陽寺北方堡塁を攻略し敗敵を追撃します。

9月2日0920、師團は歩十一、工五第三中隊を右翼隊、歩四十一、工五第二中隊を左翼隊、歩二十一を豫備隊、歩四十二を両翼隊中間に機動させ遼陽城占領部隊に部署し遼陽城に進撃、3日0130、攻撃を下令、0500、野戰砲兵五は城壁南西、城内に砲撃を開始、両隊は敵堡塁に進撃します。
0530、右翼隊歩十一は敵堡塁200~500mに進撃しますが強固な防御陣地、鉄条網、鹿塞に阻まれ、遮蔽物も無く敵銃砲火により損害が増加、敵の激烈な銃砲火を受け攻撃は頓挫してしまいます。

左翼隊歩四十一は第二・第三大隊を第一線として敵北方堡塁を攻撃しますが激烈な敵銃砲火、連携する両翼の歩十一、第三師團の進撃遅延に損害が増加するなか3度に及ぶ逆襲を撃退します。

2230、敵が退却を開始したため歩十一は前進、2330、敵堡塁を攻略、4日0200、歩四十二第一・第三大隊がそれぞれ西、南城門に突入し遼陽城を攻略します。

9月12日、師團は滿洲軍直轄となり周官屯南1.5kmに、聯隊は師團を離れ秋山支隊(秋山好古少将)に編入され種田支隊として軍最左翼の黒溝台に、13日、師團主力は半粒山に移駐し第一軍の指揮下(総予備隊)に編入されますが、15日、第二軍方面の敵情不安のため師團は第四軍に復帰、16日、五里台子付近に移駐し沙河左岸地区において冬営に入ります。

明治38(1905)年1月25日、敵第2軍(グリッペンベルグ大将)105,000が第二軍左翼、秋山支隊(秋山好古少将)守備の黒溝台、沈旦堡、唖叭台方面に来襲、26日、滿洲軍總司令部は敵の攻勢転移の公算大と判断、敵左翼攻撃を総予備の第八師團(立見尚文中将、弘前)に、第二・第五師團に増援(臨時立見軍を編成)を下命します。

26日、第八師團は南烟台付近を出発、種田支隊は第八師團命令により黒溝台を徹し第八師團に連絡し師團側背を援護、27日、第五師團は浪洞溝付近に急行し第八師團の右翼に進出し柳条口に攻撃を開始、28日1030、柳条口、1500、姚坨子をそれぞれ攻略、29日、第八師團は種田支隊とともに黒溝台を奪還、露第2軍は敗走、敵の攻勢企図を挫折させ、再び対峙状態に戻ります。

2月28日2230、滿洲軍総司令官・大山大将は3月1日を期して総攻撃を下令します。
3月1日、師團は柳条口を出発、敵の重砲、機関銃掃射に甚大な損害を受けつつ、1900、砂山、2日、0550、王家窩棚、0730、李家窩棚、次いで張庄子を攻略、敗敵を追撃し渾川右岸に進撃、10日、下、上沙陀子を攻略します。
同日、第四師團により奉天城が攻略され、1130、第五師團は追撃に移行、奉天停車場、奉天西塔を経て奉天大北辺門に進撃し、戦力の回復にあたり、4月28日、師團は北上を開始、5月10日、昌図付近の警備にあたります。

27日、日本海海戦で聯合艦隊(東郷平八郎大将)がバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー中将)を撃滅、7月12日、第十三師團が樺太南部、30日、全島を攻略、8月末、韓國駐箚軍(長谷川好道大将)が元山付近まで侵攻していた露軍を撃破し朝鮮半島を勢力圏下に収めます。

9月1日、講和条約が締結され、6日、大本營より全軍に休戦が布告、16日、休戦協定が締結、10月16日、平和克服が令達され、師團は宿営地を出発、21日、鉄嶺より列車で移動、27日2030、復員下令、28日、大連を出港し、明治39(1906)年1月4日、宇品に上陸し広島に凱旋します。

大正3(1914)年7月24日に勃発した第一次大戦の最中、大正6(1917)年、ロシアにおいて革命が発生、11月9日、ソビエト社会主義ロシア共和国が成立し、ロシアは交戦していたドイツ、オーストリアと単独講和を締結し戦列より離脱してしまいます。
この講和により東部戦線のドイツ、オーストリア軍が西部戦線に転用される事が必定となり、英仏だけでは支える事が不可能なため、大正7(1918)年3月、連合国はウラル地方に新たな戦線を構成しドイツ、オーストリア軍を牽制し、両国に併合され出兵するもロシアに降伏し逆に両国軍と交戦していたチェコスロバキア軍を救出すべく我が国に出兵を要請します。
しかし、米国がウラル戦線の構成、我が国の出兵に反対したため、我が国も出兵要請を拒否します。

7月、排外主義を唱える共産パルチザン(以下「共匪」)によりシベリア地方が騒擾状態になり外国人襲撃事件が多発、孤立しているチェコ軍救出の人道的な見地から米国が我が国に出兵を要請、8月23日、政府は英米と国際共同歩調を採り、シベリア出兵に関する宣言を公布します。
8月2日、第十二師團(大井成元中将、小倉)、24日、第三師團(大庭二郎中将、名古屋)に動員下令(8月5日、浦塩派遣軍司令部(大谷喜久蔵大将)編成)、それぞれ沿海州、ザバイカル州方面、また滿洲駐箚中の第七師團(藤井幸槌中将、旭川)は満洲里の守備、居留民保護にあたったため東三省(沿海、黒龍、ザバイカル)の治安は回復、チェコ軍を救出し、同軍は英仏軍とともにウラル山脈方面に進出、11月3日、オムスクに臨時全ロシア政府(コルチャーク政府)が成立しますが、黒龍各地に潜伏していた共匪も勢力を拡大、第十二、第三師團は討伐にあたります。

第三師團は第五師團と、第十二師團は第十四師團と交替が予定されますが、交替情報を偵知した共匪は破壊活動を活発化、度々ウスリー鉄道が破壊され、第十二師團の円滑な後送が危惧されたため、大正8(1919)年6月24日、第五師團に先遣隊(歩兵第九旅團長・緒方多賀雄少将:歩十一、歩二十二、騎五第二中隊、工五第一中隊)の臨時編成下令、7月1日、先遣隊は広島を出発、3日、宇品を出港、5~7日、ウラジオストクに上陸し、ウスリー鉄道沿線の共匪を討伐し警備にあたります。

大正8(1919)年8月2日、師團に動員下令、13日、師團主力は宇品を出港、16~24日、師團は逐次ウラジオストクに上陸し先遣隊を掌握、師團は鉄道にてザバイカル州に進出、師團司令部をチタ、隷下部隊を鉄道沿線に沿って配置、警備にあたり、聯隊(関谷守中佐)はチタにおいて敵状捜索、連絡にあたります。

大正8年9月以降、極東各地に台頭した共匪は当初は反目していたものの、大正9(1920)年4月、合併しチタに極東共和国を樹立、7月2日、東部ザバイカル、15日、西部戦線の停戦協定が成立、21日、師團はザバイカル州から転進を開始、チタに集結しウラジオストクに移動、8月下旬から9月上旬にかけウラジオストクを出港し広島に凱旋します。

満洲事変の最中、昭和6(1931)年11月8日、反日救国連合会の便衣兵2,100名が天津市内において暴動を画策、天津公安局の警戒により計画は頓挫しますが、錦州に拠る張学良が暴動を拡大すべく兵匪40,000を天津付近に集結させたため、26日、關東軍は張の拠点・錦州攻略を企図、12月17日、参謀本部は混成第八旅團の増援、及び天津守備のため第五師團に臨時派遣隊の編成を下令、歩四十一より聯隊長・波田重一大佐以下460名、歩四十二より徳永虎彦少佐以下449名、歩二十一より下士官兵402名、野砲五より若月金丸大尉以下394名、騎五より谷井貞雄中尉以下15名、電信第二聯隊より菅原次郎少尉以下78名、ほか各衛戍病院より軍医、衛生下士官兵2,000名が抽出され、21日、廣島東陸軍練兵場に集結、輸送船3隻に分乗し宇品港を出港、26日、塘沽に上陸、27日、天津に到着し居留民保護、鉄道沿線の警備にあたり、昭和7(1932)年7月13日、天津を出発、20日、宇品に上陸、21日、編成解除されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国は不拡大方針を堅持、和平解決にあたり、11日、停戦協定が成立しますが、支那第二九軍(宋哲元、4個師、2個旅、2個騎師、1個騎旅)、国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事的挑発行動は日増しに激化、13日、大紅門事件、25日、郎坊事件、26日、広安門事件が発生、21日に対日武力行使を決した蒋介石は我が国の要請を黙殺したため、27日、支那駐屯軍(香月清司中将)は武力行使を決定、28日、攻撃を開始、29日、通州事件が発生、天津の日本人租界が攻撃を受けるなか、31日、北京・天津を平定します。
さらに8月13日、支那第九集団軍(張治中)が上海海軍特別陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事変が勃発し日支全面交戦に発展します。

7月、支那第二九軍に中央直系一三軍(湯恩伯、2個師)が増援、さらに集団軍(溥作義、5個師)の北上に伴い、7月27日、第五師團(板垣征四郎中将)に第五動員一號(応急動員)下令、31日、動員完結、8月1日、聯隊(小堀是繁大佐)及び在広島部隊、歩四十一、2日、歩二十一旅團司令部、歩二十一、歩四十二は兵営を出発、広島に集結し宇品に移動、それぞれ1・2日、宇品を出港、釜山に上陸、5日、列車にて出発、9日、安東、11日、山海関を通過、12~14日、歩九旅團は北京西北40㎞の昌平、12~13日、歩二十一旅團は同30㎞の沙河鎮に集結します。

13日、先着の歩四十一、歩四十二、18日、師團主力は作戦行動を発起、南口西北の敵陣攻撃中の獨立混成第十一旅團(鈴木重康少将)左翼に展開、豪雨のなか急峻な地形を踏破、21日、長城線突破の要点・突角部にある鉢巻山、さらに長城の大望楼高地(攻略後、山口山と呼称)を断崖絶壁を登攀、激戦ののち、22日0220、同高地を、24日0230、夜襲により周辺の望楼6ヶ所を攻略します。

22、23日、師團主力は長城線の長峪城、鎮辺城に進出、歩二十一を歩十一の増援に、聯隊は歩十一第五中隊とともに下馬嶺方面の敵3個師の警戒牽制にあたり、激戦ののち、1750、歩二十一第三中隊長・中島賢一少尉が将校斥候として敵背後に迂回、万里の長城に一番乗りを果たします。
24日、背後に迂回された敵は長城線全線に渡り敗走を開始、各聯隊は敗敵を追撃しつつ長城を突破、満洲國察哈爾省に入り、25日、歩十一は康荘に進撃し西進、歩二十一は達子営を攻略し、27日、歩二十一本多利博少尉が懐米県城に無血一番乗りを果たし、28日、沙城堡を攻略、歩四十一は27日、懐米県城に、歩四十二は27日、水龍関を経て懐米県城に進出、同地付近の守備にあたります。

8月31日、師團は新設の北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入され、9月7日、支那山西軍(閻錫山)の根拠地・太原を攻略すべく聯隊を先遣隊として主力は3縦隊となり進撃、9日、右縦隊の歩二十一旅團は化梢営で敵を撃破、桑乾河を渡河、11日、陽原を攻略、同日、聯隊は蔚県に進出、14日、左縦隊の歩十一は激戦ののち蔚県南東の閣山山塊の敵陣を攻略、15日、歩二十一旅團は南徐堡の敵堅陣を激戦ののち攻略し渾源を攻略、16日、中縦隊の歩九旅團(歩四十一)が河北省淶源、17日、長城線上の浮図峪を攻略、師團主力は淶源に集結します。

9月22日、三浦支隊(歩二十一旅團長・三浦敏事少将、歩十一第一大隊、歩二十一第三大隊、歩四十二第二大隊)は長城平荊関に進撃、地形を活用した堅陣に拠る支那一一五師(林彪)に苦戦するも、30日、支隊は大営鎮に進撃します。

30日、師團主力は大営鎮に進出、10月2日、軍は師團に山西軍(閻錫山、3個師、直系系9個師、八路軍3万)の拠点・太原攻略を下令、3日、同地を出発、10日、平地泉、12日、原平に進撃、13日、忻口鎮陣地の攻撃を開始、各歩兵聯隊は敵の銃砲火に苦戦するも、11月3日、同陣地を攻略、5日、師團は太原北方6㎞の新店府に進撃、6日、歩十一が太原飛行場を攻略、降伏勧告を行うも敵は拒否してきたため、8日0700、第五・第二十師團は太原城に総攻撃を決行、1600、破壊孔から城内に突入、9日、城内を掃討、10日、入城式を挙行、守備にあたるとともに住民を雇用し街の復興を行います。

11月17~20日、師團は太原警備を第二十師團に移譲、太原を出発、雪中行軍で西進し寿用-平定-内長城娘子関を経由、12月1~5日、石家荘に到着、列車により、2日、保定に到着、師團司令部を保定、歩十一を正定、歩兵第二十一旅團を保定に配置し警備にあたります。

方面軍は長期持久大勢の確率のため師團に青島攻略を内示、12月21日、師團先遣隊として歩十一が正定を列車で出発、昭和13(1938)年1月19日、10日に第一聯合特別陸戰隊、横須賀鎭守府第一特別陸戰隊、佐世保鎭守府第五特別陸戰隊が攻略した青島に到着し陸海軍の連絡を完遂、師團は膠済沿線に添って青島-済南間の警備にあたります。

第二軍は正面の敵10個師のうち5個師が3月を期し津浦線方面より第十師團(第五師團の南側を警備)方面に侵攻企図ありと偵知、敵の機先を制し侵攻企図を挫折させるべく、2月17日、第五師團に沂州攻撃と第十師團の援護、3月13日、第十師團に大運河以西の敵撃破を下令します。

2月17日、師團は片野支隊(歩二十一聯隊長・片野定見大佐、第二大隊、第四・第十・第九中隊の1個小隊欠、獨立山砲第三大隊1個中隊、獨立機關銃第六大隊、工五1個小隊)を編成、23日、支隊は莒県を攻略、同日、支隊は坂本支隊(歩二十一旅團長・坂本順少将、歩十一(第一・第三大隊)、歩四十二第二大隊、野砲五2個大隊)に編入され西南進、3月5日、湯頭鎮を攻略、さらに西進しますが、支那第五九軍(張自忠、第三八師、第一八〇師20,000)は逐次増強され拠点部落に拠り頑強に抵抗、敵の浸透に各部隊は建制が崩れ分散し平地に孤立したため湯頭鎮に反転集結します。

3月20日、支隊は攻勢転移、拠点部落を攻略しつつ前進、26日、沂州攻撃の要所・義堂、艾山に進出(師團司令部は3月31日、湯頭鎮に進出)、27日、攻撃開始直前、軍は師團に沂州南西の台児荘で苦戦中の第十師團瀬谷支隊(瀬谷啓少将、歩三十三旅團)救援を下令、坂本支隊は、4月2日、台児荘に進撃しますが、5日、通信混乱により師團命令を「沂州再攻撃」と誤認し坂本支隊は転進、6日、師團命令に不明確な箇所があったため、支隊は台児荘に再転進しますが、坂本支隊の転進に独力での継戦は不可能と判断した瀬谷支隊も離脱北上してしまったため、9日、坂本支隊は敵の追撃を受けつつ郭里集に集結します(支隊は8日、第十師團指揮下に編入)。

3月31日、師團司令部とともに進出した聯隊(杉本一雄大佐、2個中隊、300名)は向城南方の金庄付近で敵2,000に包囲され損害続出、杉本大佐は軍旗奉焼を決意したところ、4月1日、向城を出発した歩二十一第一大隊と連絡、2日、負傷者70名を担送、炎上する村の陰影を利用し敵の重囲を突破、3日、野砲五陣地を経て向城に到着しますが、4日、向城は敵2個師に包囲されてしまいます。
4日、杉本大佐は向城守備隊長として防戦を指揮、5日頃から糧食が欠乏、11日、敵は攻勢を開始して来ますが、守備隊は度々撃退、14日、歩四十一第一大隊の一部が敵重囲を突破し糧食、弾薬を搬送、負傷者を搬出、16日、敵は再び攻勢を開始、3度に渡り来襲して来ますが臨時航空兵團の直協機の重爆撃の支援を受け撃退、18日、坂本支隊が郭里集を出発、19日、向城に到着、敵は撤退します。

4月7日、大本營は中支那派遣軍(畑俊六大将)、北支那方面軍(寺内壽一大将)に徐州に集結中の支那第五戦区軍、第二〇軍(計50個師)を包囲殲滅すべく徐州會戰を下令、14日、國崎支隊(歩九旅團長・國崎登少将、歩四十一(左翼)、歩四十二(右翼)、野砲五第二・第三大隊、獨山機關銃第六大隊、野戰重砲兵第六聯隊、工五第二中隊)を編成、16日、攻撃前進を開始、敵陣は横幅が広く兵力が分散し苦戦しつつ、19日、沂州城を攻略します。

22日、支隊主力が沂州城を出発、28日、徐州の前進拠点・北労溝の敵陣を北側から攻撃しますが、優勢な装備を有する支那第二八、一五〇師の銃砲火に損害が増加、29日、北労溝も一角を攻略するも弾薬欠乏、支那第九二師が歩四十一背後に侵入したため支隊との連絡も途絶、さらに四九師が来援し支隊は包囲されてしまいますが、30日、工五が重坊付近の沂河に架橋、7日、直協機7機が敵陣地を爆撃し重砲を破壊、5月10日、支隊左翼に第十六師團片桐支隊(歩九聯隊長・片桐護郎大佐、聯隊基幹)が進撃し、支那軍を逆包囲する態勢になり、支隊は攻勢転移、13日、北労溝、15日、南労溝を攻略し敗走する敵を追撃し砲車に進撃します。

5月18日、敵銃砲火のなか工五は折畳舟、浮嚢舟、軽徒橋、重門橋により渡河を支援し師團は大運河の渡河に成功、同日、歩四十二第三大隊を基幹として鈴木快速部隊(第三大隊長・鈴木茂一郎少佐、自動貨車60台、支那駐屯兵團戰車隊、獨立軽装甲車第十二中隊、野砲五第五中隊、師團無線1個分隊)を編成、1730、部隊は師團先遣隊として大運河を出発、大王庄付近で敗走する支那第四九師に遭遇し始め多数の鹵獲品を獲得、19日0910、第十三師團(萩州立兵中将、仙台)が徐州城を攻略しますが、支那軍は15日、徐州放棄を決し我軍の間隙をついて漢口方面に撤退、部隊は敗走する敵を撃破しつつ21日、宿県に進出、上海より北上して来た第三師團と連絡します。

師團は渡河後、西岸の敵第一線陣地を攻略、24日、快速部隊は師團に復帰、津浦沿線の警備にあたります。

6月1日、師團は乙防衛地区兵団として師團司令部を徐州に設置、徐州-符離集間、褚蘭付近の警備にあたり、7月7日、第二軍の中支方面移駐に伴い師團は北支那方面軍戦闘序列に隷属転移、第二軍作戦地域を方面軍直轄管区としたため、第五師團長・安藤利吉中将は第百十四師團、獨立混成第五旅團を併せて指揮し、引き続き乙防衛地区の防衛を担当します。

24日、師團は次期広東作戦(敵軍需物資の補給路遮断を企図)準備のため、青島に集結を下令され、27日、輸送を開始、9月13日、第二十一師團に任務を移譲し青島に移駐、上陸演習を実施します。
※敵は第四戦区軍13個師、11万と判断。

19日、第五師團は第十八(久納誠一中将、久留米)、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)、第四飛行團(藤田朋少将、飛行第六十四、三十一戰隊)とともに新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移します。

24日、師團は先遣隊の及川支隊(歩第九旅團長・及川源七少将、歩十一、獨立装甲車第五十二中隊、獨立山砲兵第十聯隊第一大隊、工五第一中隊、獨立工兵第十五聯隊)を編成、30日、支隊は輸送船8隻に分乗、10月1日、青島大港より、9月29日~10月1日、第百四師團が大連、9月30日~10月3日、第十八師團はそれぞれ上海を出港します。

10月4日、第二十一軍は作戦命令を下令、5日、支隊、7日、各師團は馬公に集結、9日1400、第一次上陸部隊は輸送船93隻に分乗し馬公を出港、11日、バイアス湾の泊地に進入、12日0330、バイアス湾正面右側塩灶背に支隊が、中央の下涌圩-岩前港に第十八師團が無血上陸、0430、湾東側の平海半島に第百四師團が上陸を開始します。

13日、師團主力、歩四十一、14日、歩四十二、15日、歩二十一は青島を出港、18日、師團主力はバイアス湾に到着、22日、歩四十一は第二次上陸部隊として大西水道で舟艇に移乗、潭州水道に進出、23日、工五が大角砲台を、26日、歩二十一が仏山、歩四十一が三水を攻略します。

及川支隊は軍主力の上陸援護をすべく、15日、東江東岸の横瀝墟に達し東江を渡河、23日、300㎞を踏破し従化(広東北北東55㎞)に進撃、同日、第十八師團は恵州、21日、広東を攻略、11月1日、支隊は広東に到着、師團は仏山、三水を中心に警備にあたり、12月1日、第十二軍(尾高龜造中将)戦闘序列に隷属転移、第四十八師團に守備を移譲、12日、仏山、三水を出発、15~17日、広東に集結、輸送船に乗船し広東を出航、23日、青島に上陸、警備にあたります。

昭和14(1939)年1月20日、軍は魯北道粛清作戰を発動、師團は及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩四十一、歩十一一部、騎五、野砲五1個大隊)を編成、支隊は第百十四師團に配属され津浦線より東進、支隊主力は3縦隊(右:歩四十一第二大隊は済南-済陽道、中央:歩四十一主力は禹城-臨邑-商河道、左:歩四十一第三大隊は徳県-陵県-徳平道)となり、聯隊は迂回隊として滄県-塩山-慶雲道を進撃、180✕180㎞の広大な作戦地を支那軍を撃破しつつ、27日、商河に進出、1月下旬より武定、商河、徳平、利津付近に分駐し警備、匪賊討伐にあたります。

昭和14年5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で満洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、9月4日、第五師團のノモンハン事件への応急派兵が決定、連雲、青島への集結が下令され、5日、師團は關東軍司令官指揮下に編入、9日、歩十一、工五は青島を出港し、10日、大連に上陸(14日、昂々渓に到着)、11日、師團先遣隊の歩二十一、歩四十二第三大隊がそれぞれ連雲、青島を出港、13日、大連に上陸、聯京線で、15日、斉斉哈爾に、歩九旅團は同地南方に到着しますが、9月15日、停戦協定が成立したため斉斉哈爾に駐留します。
9月24日、師團は斉斉哈爾を出発、26日、旅順に集結、山岳戦の演習を実施、10月16日、第五師團は臺灣混成旅團(塩澤定市少将)とともに第二十一軍(安藤利吉中将)戦闘序列に隷属転移し、南寧作戦(援蒋ルート(月量4~6,000tで全量の1/3)遮断)を下令されます。
※敵は広西軍4個師、及び保団、自衛団4~5万と判断。

10月27日~11月3日、師團は大連、旅順を出港、30~2日、宇品に寄港し物資を積載し、31日~11月2日、出航、11月8日、海南島三亜に入港、上陸訓練を実施、13日、第五艦隊の護衛のもと三亜を出航します。

11月15日0330、及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩四十一基幹)は欽州湾に敵前上陸を敢行、支那軍の小部隊を撃破しつつ泥濘を踏破し西北進、16日、坊城を攻略します。

11月16日、中村支隊(歩二十一旅團長・中村正雄少将、歩二十一、歩四十二)は欽県金鶏塘に上陸、19日、大唐城付近の仏子溢南側に集結し周辺の敵を撃破します。

16日、臺灣混成旅團(塩澤定市少将)が欽県を攻略、及川支隊は漁洪江を遡航し、欽寧公路付近に上陸、支那軍により破壊された公路を進み山岳地帯に入り険峻な地形、糧食の欠乏に苦闘しつつ、23日、航空機の援護のもと師團主力、及川支隊は南西、中村支隊は東、及び南から南寧河を渡河し支那軍を撃破、24日、南寧城を攻略、第二十一軍は第五師團と臺灣混成旅團により欽寧兵團(兵團長は第五師團長・今村均中将が兼務)を編成し、27日、兵團は南寧東方地区(周辺に支那第一三一・一三五・一七〇・一八八師、新編第三師等が布陣)の残敵掃討、道路補修にあたります。

師團は26日まで残敵の掃討を実施の後、騎五、歩二十一第三大隊を八塘北側地区、歩四十二第二大隊を四塘付近、歩四十一第二大隊を城北大高峰隘正面に配置し北方の支那軍に備え、東側地区警備隊(長・歩二十一旅團長)、西側同(長・歩九旅團長)、海岸地区(及び欽寧公路補修)に臺灣混成旅團を配置、29日、入城式を挙行します。

12月2日、戦車4両、火砲5、6門を擁した支那第八〇一師、第二〇〇師2,000が八塘北側(歩二十一第三大隊守備)に侵攻、同日夕、歩二十一旅團(左翼・歩二十一、中央・騎五、右翼・歩四十二第一・第三大隊)は南寧を出発、敵を撃破しつつ賓寧公路を北上、4日、九塘北方高地に進撃、5日、歩四十二第二大隊が聯隊を追及し崑崙関北方高地を占領確保、同第三大隊が七塘で支那軍を撃破します。

15日、師團は及川支隊(歩九旅團長・及川少将、歩十一、歩四十一第一大隊、迫撃第三大隊1個中隊、工五第二中隊、兵站自動車第百七十四中隊、車両95台)を編成し、龍州-鎮南関(南寧西南190km)の要所を急襲攻略し、敵軍需物資の獲得と補給路の破壊を企図し龍州作戰を発動、17日、歩十一第一大隊を先遣隊(聯隊長・山県大佐指揮)として東門墟から進撃を開始します。

17日、支那軍29万が南寧北側の崑崙関-九塘方面から侵攻、同地守備の歩四十二第二大隊は敵大部隊に浸透され包囲孤立、18日、救援に出撃した歩二十一も九塘北西で包囲、21日、さらに出撃した歩二十一旅團(歩四十二基幹)も包囲され、17日及び20日、臺灣混成旅團(臺灣歩兵第一・第二聯隊)の救援も敵に阻まれ奏功しませんでした。

機関銃、迫撃砲を多数装備、瓦斯弾を使用する敵の包囲に各隊が各地で包囲孤立、弾薬、糧食も欠乏する状況に、25日、師團長・今村均中将は及川支隊を直卒、総攻撃を決心しますが、31日、作戦指導のため飛行機で来着した第二十一軍参謀長・根本博少将に第五師團の玉砕は翁英作戦中の軍主力が挟撃される事を意味し、むしろ敵大部隊殲滅の戦機とし、戦線の縮小と1ヶ月間の持久、敵牽制を説得され中止、第一線の作戦指導は一任されます。

12月29日、南寧に帰着した及川少将は今村中将より所在全部隊の指揮を下命され、昭和15(1940)年1月3日、戦線整理・防御陣地築城のため八塘付近の山地稜線に全部隊の集結を下命、4日、全部隊は八塘に転進集結、陣地を堅守し持久態勢を採ります。

昭和15年1月13日、第二十一軍主力(安藤利吉中将直卒、第十八師團、近衛混成旅團30,000)が欽州湾に上陸、25日、南寧に前進し、28日、軍は賓陽作戦を発動、欽寧兵團は攻勢転移、兵團は敗走する支那軍を追撃を開始、31日、八塘西方高地、2月3日、崑崙関を奪還、4日、賓陽城(3日、近衛混成旅團が攻略)に入城、11日、南寧に帰還し守備にあたります。

2月13日、第二十一軍は南支那方面軍(安藤利吉中将)に改編され、第五師團は同方面軍戦闘序列の第二十二軍(久納誠一中将)戦闘序列に編入されます。

6月17日、軍は龍州付近に蟠踞する支那第五四軍(第一五一・一八一師)を捕捉殲滅すべく龍州作戦を発動、岡本支隊(歩二十一旅團長・岡本鎭臣少将、歩二十一、歩四十二第一大隊、野砲五1個大隊)は南寧を出発、道路を補修しつつ西進、26日、明江を攻略、29日、憑祥、鎮南関を攻略しハノイ-ランソン-ドンダン-鎮南関-龍州または南寧-賓陽に通じる援蒋ルートを遮断、龍江対岸の敵を撃破し、7月1日、龍州を攻略します。

7月23日、大本營は南支那方面軍に「情勢ノ變化ニ應ズル第三國作戰準備」(北部フランス領インドシナの武力進駐準備)を下令、7月下旬、第五師團(中村明人中将)は南寧守備を近衞師團(6月26日、第二十二軍戦闘序列編入)に移譲し、仏印国境付近に前進します。

9月17日、師團は武力進駐部隊を部署、聯隊は歩四十一第一大隊、歩四十二第一大隊、同第五中隊とともに後方警備隊に部署され、18日、師團は聯隊を残置し、それぞれ龍州を出発、22日までに龍江南側に進出します。

第五師團は大本營より「9月23日0000以降の進駐」を下命されていましたが、平和進駐協定成立の電報が届かなかったため、武力進駐と判断、9月23日0000、国境を突破し南下、24日、シマ、ロックピンを攻略し、ランソンに進撃、25日、仏軍を降し、30日、師團司令部は同城に入城し、周辺の要地を確保、警備にあたります。

10月12日、第五師團は大本營直轄となり、10月下旬、ハノイ、ハイフォンを出港し、11月上旬、上海に上陸し呉淞に集結、11月30日、軍令陸甲第五十七號により騎兵第五聯隊は捜索第五聯隊に改編され、上陸作戦訓練、密林内戦闘訓練、長距離機動走行訓練を反復します。
聯隊の編制は第一・第二中隊が乗車、第三・第四中隊が装甲車、第五中隊が機關銃、計418名でした。

昭和16(1941)年1月、川津少尉は御箱に収められた軍旗を捧持、誘導将校、下士官護衛のもと上海を出発、25日、宇品に上陸、騎兵第五聯隊補充隊附上野忠夫少尉に奉送、補充隊長室に奉安されたのち、26日、宮中において奉還、陸相・杉山元大将に奉送されます。

2月中旬、第五師團は北九州地区を仮想敵地とした上陸演習(3月29日、呂號特別演習発動)を実施、3月22日、師團は輸送船に乗船、23~30日、呉淞を出港、29日1530、舟山群島付近に集結、上陸演習を開始、31日1750、第二水雷戰隊護衛のもと九州に向かい、4月2日2300、唐津湾に進入、3日0130、師團は唐津湾虹ノ松原に上陸し、捜索五、野砲五、工五、輜重五は相知町の民家に分宿、8日、唐津に集結します。

2月26日、大本營は来るべき南方作戦に備え支那派遣軍(南支那方面軍:近衞、第十八、第四十八師團)に、4月6日、第五師團に中支、南支沿岸の援蒋ルートを遮断、戦略物資の集積地を攻略し軍需品を処分、且つ警備地区周辺の敵殲滅を企図(第五師團には加えて実施中の上陸演習を実践)し甲十五號作戰(浙東作戰)を下令します。

8日、歩四十一、歩四十二は唐津を出港し上海呉淞に上陸、9~11日、師團主力は唐津を出港、朝鮮木浦沖の八口浦付近に集結、14日、同地を出港、15・16日、歩四十一、歩四十二が上海呉淞を出港、19日、歩九旅團(旅團長・楠本實隆少将、歩十一、歩四十一、捜索五)は鎮海、歩四十二主力は海門鎮、歩四十二第三大隊は石浦、歩二十一旅團(歩二十一主力)は半浦、第二大隊は瑞安にそれぞれ奇襲上陸します。

歩九旅團は鎮海城、次いで寧波城を攻略、退却した敵を追撃し、24日、奉化県城を攻略し、5月13日、周辺の掃討し警備にあたります。

10月24日、師團(松井太久郎中将)は寧波城周辺の警備を獨立混成第二十旅團に移譲、上海に集結し上陸演習を実施、11月6日、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列が発令(11月15日、指揮転移)、E作戦(馬来作戦:マレー攻略戦)実施部隊として第十八、近衞師團とともに第二十五軍(山下奉文中将)戦闘序列に隷属転移します。

11月13日、乗船区分(先発:師團主力、後発:歩二十一旅團司令部(杉浦英吉少将)、歩二十一(原田憲義大佐)、野砲兵第五聯隊第二大隊))が発表され、15日から師團は輸送船17隻(ほか病院船「波ノ上丸」)に乗船し上海呉淞を出航、25日~30日、海南島三亜に入港、師團長・松井中将は全将兵に攻撃命令を下達するとともに陸海軍統合の上陸訓練を実施、12月1日、上陸部署を下達します。
聯隊は佐伯支隊(聯隊長・佐伯靜夫中佐)として上陸後ハジャイに突進し要点を占領、軍の上陸援護のあたると同時に敵の自動車、鉄道輪転材料の押収(師團は上海出発時、輜重聯隊の全自動車、歩兵中隊は半分、砲兵聯隊は1/3~1/4を残置、師團の機動力発揮には早急に自動車または列車の鹵獲が必至)を任務とされます。

2日、参謀總長・杉山元大将は南方軍總司令官・寺内壽一大将に大陸命第五六九號「鷲」(開戦)を指令、同日、『ヨアケハヤマガタトス』が発電されます。
3日1900、浅香山丸(野砲五乗船)、関西丸(歩四十一〃)は低速のため三亜を出港、4日0730、南遣艦隊(小澤治三郎中将、第七戰隊、第三水雷戰隊)の護衛のもと第二十五軍先遣隊(第五師團、第十八師團侘美支隊)は輸送船15隻に分乗、病院船1隻とともに三亜を出航、7日2200、安藤支隊乗船の輸送船6隻(第三分隊)、2230、G点において侘美支隊乗船の輸送船3隻(第四分隊)はそれぞれ分進、2240、船団に泊地進入用意が下令され、8日、0035、泊地に進入、0333、師團長乗船の香椎丸から出発信号が発信され、0412、第一線の河村部隊(歩九旅團長・河村參郎少将、歩十一(第二大隊欠:第二回上陸部隊)、歩四十一(第一大隊欠:鐡道突進隊配属)、野砲五主力、戰車一第三中隊)は歩四十一を左第一線、歩十一を右第一線として、また第二線の佐伯支隊(佐伯靜夫中佐、捜索五(第三中隊欠)、野砲五1個小隊(第一中隊の第一・第四分隊))は河村部隊左側に連なり泰國シンゴラ新飛行場東側に上陸します。


上陸後、佐伯支隊(捜索五・佐伯靜夫中佐)は波浪が高く装甲車、自動車を残置したため第二中隊(泰國軍懐柔のため通訳、宣撫班を配属)を鹵獲自転車50台で先行、主力は徒歩行軍で南下を開始、鐡道突進隊(鐡道第九聯隊、歩四十一第一大隊、獨立速射砲2個中隊)はシンゴラ駅より列車により佐伯支隊を追及、支隊はホーン山(飛行場南方)からの銃撃を突破しトンリー村東側高地の泰國軍1個大隊を降伏させ、1350、ハジャイを攻略、機関車8、客車9、貨車158、自動車50を鹵獲、軟禁されていた邦人を救出、第二十五軍司令部より「敵はサダオに集結中」との情報に前進を開始、8日2330、サダオに進撃し侵攻してきた英軍(装甲車20~30、300人)を夜襲し撃破、同地を攻略します。

河村部隊はシンゴラ市街、埠頭、停車場、新飛行場を攻略、泰國軍を武装解除し、8日、英軍により爆破された鉄橋を修理しつつアロルスターを目指しサダオに急進し、国境突破、防御陣地・ジットラ線攻撃の準備をします。

8日0430、安藤支隊(歩四十二聯隊長・安藤忠雄大佐)はパタニ、タペーに上陸、泰國軍を武装解除ののち、パタニ、同飛行場を攻略、10日、ベトン北方3㎞(サオルダン山付近)付近で領内に侵攻して来た戦車を伴う英軍と交戦中の泰國軍に加勢、12日、英軍を撃破、15日1200、国境線を突破、ベラク河に沿って南下を続け、21日、チエンデロウ湖北の英軍を撃破、23日0800、敵はベラク河鉄橋(支隊の最大攻略目標)を爆破したため、支隊は軍主力渡河のため要地・クワラカンサル橋周辺を占領、ブランジャに進撃し渡河準備を行います。

12月9日1100、佐伯支隊は河村少将の指揮下に編入、1730、支隊は国境線の敵陣偵察を任務としサダオを出発、夜半に国境東方500mに前進、国境を突破し英印第11師団(第6、第15旅団)の第一線陣地を夜襲、奇襲を受け潰走する敵を追撃し第二線・第三線陣地を突破、逆襲を撃退し要所を攻略、佐伯中佐は敵が道路、橋梁を悉く破壊、放火を集中し我が進撃を阻止している状況に軍に強力な挺進隊を編成、敵に混じるほど急進し敵に道路、橋梁破壊の暇を与えず突撃する事が肝要と意見具申、10日2400、佐伯支隊は戰車一第三中隊、野砲1個中隊の配属を受け佐伯挺進隊に改編され突進に決します。
佐伯中佐の訓示「一車進まざれば一車を捨て、二車止まれば二車を捨て、友軍たりと敵たりを問わず、乗り越え踏み越えて邁進また邁進するのみ。側背射は不断に受くるものと覚悟し、装甲無き部隊は損害甚だしきを予想されるも、これを甘んじ停車して応戦するを禁ず、全て行き尽くるところまで突進するにあり!他のことはその後の処置とする!」

10日、歩四十一はチャンル北端十字路において夜襲により英印軍を撃破、佐伯挺進隊は歩四十一の追撃を超越し折からのスコールのなか突撃、アースン、チチバンジャグの敵陣を突破しますが、2200、ジットラ線前進陣地帯において火砲20、戦車を伴う敵の逆襲に遭い、損害が増加するも、12日1230、第2線陣地の一角を占領、1335、河村部隊主力が到着、河村少将は攻撃主力を挺進隊から歩四十一に交代、また歩十一第三大隊を本道西側に迂回させ夜襲を準備中、12日1730、英印軍はジットラ線を放棄し撤退、部隊は歩十一第三大隊を先遣隊として追撃を開始します。

13日0800、河村部隊はケパラパタス、1100、アロルスターを攻略し師團は同地に集結、14日1400、4梯団となり、敗敵を追撃し、15日、グルン、16日、スンゲイパタニーを攻略します。

20日、クリムに進出した河村部隊は現地マレー人の歓迎を受けつつクリム-セラムを南下し、23日、師團主力はタイピンに集結、25日、師團戦闘司令所が到着、26日、ブランジャ付近からペラク河を渡河、河村部隊はバッカジヤ、センルを南東進し、コペン、ディパン付近の英軍を撃退、昭和17(1942)年1月2日、カンパルを攻略、7日、師團に配属の戰車第六聯隊がトロラク-スリムリバー-スリムの敵縦深陣地を急襲突破、7日2300、敗敵を追撃し南下、11日1700、クアラルンプールに無血入城します。

12月17日、後発の歩兵第二十一旅團司令部、歩兵第二十一聯隊、野砲兵第五聯隊第二大隊が輸送船57隻に分乗し呉淞を出港、昭和17年1月12日、敵の微弱な空襲下シンゴラに上陸を開始、17日、クアラルンプールに到着し師團司令部と連絡、18日、カンボンケドック、19日、タンカクを進み前線に向かいます。

1月15日、師團主力はクアラルンプールから南下を開始、19日、バツアナム、ゼメンダを攻略、23日、カンカルチュア付近、ヨンペン北方の敵陣を撃破、25日、クルアン、26日、アエルヒタムを攻略、27日、レンガム、ラヤンラヤン、シンパレンガムを攻略、31日1630、ジョホールバルに無血入城を果たし、対岸にシンガポールを望みます。

31日、クルアンの第二十五軍司令部は隷下各作戦主任参謀、砲兵隊長、防空隊長、渡河作業隊長を招致、各部署(第五師團を中央隊、左翼隊を近衞師團、右翼隊を第十八師團)、作戦地境、シンガポール攻撃準備命令(近衞師團はテプロー、マサイ付近にて敵を牽制、第五師團はスクダイ東側地区、第十八師團は水源地高地東側地区に集結、砲爆撃ののち第五・第十八師團はジョホール水道を渡航上陸)及び住民の北部避難を下達、2月4日、戦闘司令所をスクダイに前進、6日、攻撃命令を下達、各部隊は宿営地を出発、攻撃発起点に前進します。

2月4日朝、各砲兵隊が効力射準備射撃を開始、9日0025、ペルパ河-マラアユ河間より師團右翼隊(歩二十一旅團:杉浦部隊(歩四十二、歩二十一))がシンガポール六〇高地付近に敵前上陸を敢行し上陸成功の青吊星を打ち上げナマジエスラートの英軍を撃破、潰走する英軍を追撃、夕刻、テンガー飛行場南方に進撃、0040、師團左翼隊(歩九旅團:河村部隊(歩十一))が敵前上陸を敢行、9日、テンガー飛行場北方に集結、0430、師團予備の歩四十一、0600、師團司令部、次いで聯隊が上陸し南下します。

10日正午頃までに河村、杉浦両部隊はテンガー周辺の敵陣地を攻略、2230、ブキバンジャンを攻略、11日、ブキテマ高地を攻略、英軍はブキテマ村周辺陣地救援のため増援を投入、激烈な砲撃ののち戦車が同村南方に侵攻して来ます(魔の三叉路)。

杉浦部隊は損害を受けながらも激戦ののち競馬場西側高地、その南方本道南側高地付近まで進撃、11日、河村部隊は五八一高地北麓三叉路から左折し二七五高地を経て敵を撃破しつつ、競馬場北側三〇〇高地(鯉城山)、同北東一三〇高地、一一〇高地、クラブハウス北側に進撃しますが、ゴルフ場東側一四〇高地南北の戦車を伴う敵陣の激烈な砲撃に戦線は膠着します。

師團は第三戰車團(戰車六)の配属を受け、攻撃重点を左翼河村部隊方面に変更(敵主陣地右翼は水源地に託しており薄弱な事から)、八五高地東北400kmの閉鎖湾曲線高地を攻略、13日、九五高地、一一五高地を攻略、14日、河村部隊が一三〇高地、一六〇高地を攻略した事で英軍防御線は崩壊し始め、15日、一〇五高地、八五高地、一二五高地、一三八高地を攻略、同日、八〇高地西側を攻略、師團はピアース、マクリッチ両水源地を確保し、カラン飛行場、チャンギー要塞との連接を遮断したため、15日1400、杉浦部隊歩四十二第一大隊正面に白旗を掲げたC.A.ワイルド少佐ら3名が現れ降伏して来ます。

2月15日1830、ブキテマ三叉路北方のフォード自動車工場において第二十五軍司令官・山下中将と英マレー軍司令官・A.パーシバル中将の会談が開催され、1950、英軍は我軍に降伏、2000、師團は戦闘行動を中止、市内外周(山下中将は第二十五軍憲兵隊及び各師團より抽出の補助憲兵以外の入市を許可しなかった)の警備にあたり接収業務を実施、17日、シンガポールは昭南島に改称、19日、軍司令部はブキバンジャンからラッフルズ大学に移転、20日、ラッフルズ大学広場において軍合同慰霊祭、21日、競馬場において師團合同慰霊祭を斎行、同日、昭南警備隊(歩九旅團長・河村少将、歩十一第三大隊、歩四十一第三大隊、第二十五軍憲兵隊)が編成されパヤレバーに駐留しチャンギー俘虜収容所の警備にあたります。

2月19日、近衞、第五、第十八師團はマレー半島各地の適性華僑、敗残兵摘発、共匪の戡定を下令され、22日、師團はジョホール州を除く馬来各州に移駐、師團司令部をクアラルンプールに設置し警備にあたります。

昭和17(1942)年8月6日、大本營は第五師團に復員下令、10月下旬、復員要領の会合を終え、各聯隊の先発隊は昭南島に集結しますが8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸、南東方面への戦力転用が相次ぐなか豪北地区の防衛を強化すべく、11月20日、大陸命第七百十七號により師團の復員中止と工兵第五聯隊、歩兵2個大隊の南東方面派遣(当初はガダルカナル島増援を予定)が下令され、27日、さらに派遣戦力に歩兵1個大隊が追加、12月2日、南方軍は師團主力の爪哇方面移駐を下令します。

12月16日、師團先発の杉浦支隊(歩二十一旅團長・杉浦英吉少将、旅團司令部、歩四十二(第二大隊欠)、歩十一第一大隊、野砲五第三大隊)が昭南港を出港、昭和18(1943)年1月1日、アンボンに入港、バンダ海方面の防衛強化のため第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)の指揮下に編入され、第四十八師團よりタニンバル、アル諸島の警備を継承、支隊司令部、野砲五第三大隊はケイ諸島へ部署され、南方軍第三船舶輸送隊により輸送が開始されます。

▲第五師團関連地名

昭和18(1943)年1月7日、第五師團はアロール海峡-サウ諸島東端(同島含まず)以東、蘭領ニューギニアと英領ニューギニアの境界までの防衛を担当する第十九軍(冨永信政中将、アンボン、第二方面軍隷下、1月18日統帥発動)戦闘序列に隷属転移、15日、師團主力(歩十一第二大隊、野砲五第一・第二大隊、捜索五)は昭南港に集結、21日、昭南港を出港、24日、ジャカルタに上陸、鉄道輸送にて東部ジャワのマランに集結します。

3月2日、師團長・山本務中将は輸送機にてマランを離陸、アンボンを経由し、3日、バボに進出、同日、杉浦支隊は第五師團に復帰、山本中将は師團隷下、指揮下部隊を以下に部署し部隊の移駐、軍需品の輸送を開始しますが、海上護衛力、船舶の不足、敵機、敵潜水艦の出現により著しく遅滞している現状に鑑み、7月、師團はアンボン連絡所を強化するとともに、第十九軍も友軍機の援護のもと機動艇(海上トラック)による強行突入輸送を開始、並行して各拠点では夜間揚陸作業の強化、道路網の整備、自動車、自動貨車の優先輸送、迅速な揚陸点の開放、及び物資の分散集積による被害の極限化を徹底、9月、各部隊に糧秣1年分、弾薬1会戦分の展開集積に成功します。

3月3日、師團司令部のバボ進出時の部署
離島防衛團(第五歩兵團長・杉浦英吉少将、ケイ諸島)
 歩兵第二十一聯隊(第三大隊欠) アル諸島
 (4月15日、歩二十一到着、18日、歩四十二第一大隊は任務を移譲しケイ諸島へ移駐)
 歩兵第四十二聯隊(第二大隊欠) タニンバル諸島セラル島、ケイ諸島
 歩兵第四十七聯隊第三大隊(第四十八師團隷下) タニンバル諸島ヤムデナ島サラムキ
 野砲兵第五聯隊第二大隊 ケイ諸島
 野砲兵第五聯隊第三大隊 アル諸島トラウガン島
 工兵第五聯隊2個中隊
※各諸島、ニューギニア島南西

以下ニューギニア島南西海岸部を東から
ミミカ防衛隊(歩十一聯隊長・高橋辯大佐)※駐留していたのはケクワ
 歩兵第十一聯隊(第二・三大隊欠)
 野砲兵第五聯隊1個中隊
 工兵第五聯隊1個中隊

カイマナ防衛隊(捜索第五聯隊長・佐伯靜夫大佐)
 捜索第五聯隊(2個中隊欠)
 工兵第五聯隊1個中隊

バボ防衛隊(輜重兵第五聯隊長・上木隆之大佐)※師團司令部所在
 輜重兵第五聯隊

イナワタン防衛隊(野砲兵第五聯隊長・中平峰吉大佐)
 野砲兵第五聯隊(第二・三大隊欠)

船舶部隊・・・師團隷下部隊の展開、海上局地輸送
 船舶工兵第四聯隊(渡邊三郎大佐)、第七揚陸隊

各隊は各拠点に進出後、陣地の強化、築城を開始します。

8月下旬、第十九軍はラエ、サラモアの戦闘に加入した歩二十一第三大隊の師團復帰が滞留している状況に鑑み、離島防衛強化、飛行場設定を推進するべく聯隊をバボから軍司令部所在のアンボンに移駐させ、8月31日に師團戦闘司令所をケイ諸島ケイズラ島トアルに前進させ作戦指導にあたっていた師團長・山本中将は10月1日、カイマナに進出、4日、野砲五、6日、師團司令部、14日、工五もそれぞれベラウ湾よりカイマナに移駐します。

10月、展開完了時の配置
離島防衛團(第五歩兵團長・杉浦英吉少将、ケイ諸島)
 歩兵第二十一聯隊(第三大隊欠) アル諸島
 歩兵第十一聯隊第二大隊(本部、第六・第七中隊)、第十中隊 アル諸島
 歩兵第四十二聯隊主力 タニンバル諸島セラル島
 歩兵第四十二聯隊第一大隊 ケイ諸島
 歩兵第四十七聯隊第三大隊(第四十八師團隷下) タニンバル諸島ヤムデナ島サラムキ
 野砲兵第五聯隊第二大隊 ケイ諸島
 野砲兵第五聯隊第三大隊 アル諸島トラウガン島
 工兵第五聯隊(第一中隊欠) アル諸島
※各諸島、ニューギニア島南西

以下ニューギニア島南西海岸部を東から
ミミカ防衛隊(歩十一聯隊長・高橋辯大佐)※駐留していたのはケクワ
 歩兵第十一聯隊聯隊砲・速射砲・通信中隊
 歩兵第十一聯隊第一大隊(第四中隊欠)
 歩兵第十一聯隊第二大隊(第五・第八・第二機關銃中隊、大隊砲小隊)
 野砲兵第五聯隊1個中隊
 工兵第五聯隊第一中隊

カイマナ防衛隊(野砲兵第五聯隊長・中平峰吉大佐)
 師團司令部
 野砲兵第五聯隊本部
 工兵第五聯隊本部
 歩兵第十一聯隊第三大隊(第十、第十一中隊欠)

バボ防衛隊(捜索第五聯隊長・藤村信吉中佐)
 第五師團司令部
 捜索第五聯隊

第十九軍直轄
 輜重兵第五聯隊・・・アンボン

10月30日、大本營は満洲国斉斉哈爾にあった第二方面軍司令部(阿南惟幾大将)及び隷下の第二軍司令部(豊島房太郎中将、間島→11月30日、マノクワリ)を亀の頭(西部ニューギニア)防衛のため転用(大本營直轄)を下令、11月29日、阿南大将は東京、マニラ、アンボンを経由しミンダナオ島ダバオに進出、12月1日、統帥を発動、第十九軍は同方面軍戦闘序列に編入されます。

第二方面軍、第十九軍は豪北方面に来寇せる敵はタニンバル諸島及びチモール島への上陸の公算大と判断し、タニンバル諸島ララト島、セラル島を航空要塞化し、また無人のララト島に兵力展開を計画、昭和19(1944)年4月17日、師團は軍の作戦計画に基づき部隊を以下に部署します。

タニンバル防衛團(第五歩兵團長・柏徳少将、タニンバル諸島)
 セラル防衛隊
  歩兵第四十二聯隊(第一大隊・第七中隊欠)
  歩兵第四十七聯隊第三大隊
  捜索第五聯隊1個中隊
  野砲兵第五聯隊第二大隊

 ララト防衛隊
  獨立工兵第三聯隊(第一、第二中隊欠)
  歩兵第十一聯隊第二大隊(第五・第八中隊欠)
  歩兵第四十二聯隊第七中隊
  野砲兵第五聯隊1個中隊

 アル防衛隊
  歩兵第二十一聯隊
  捜索第五聯隊1個中隊
  野砲兵第五聯隊第三大隊
 
 ケイ防衛隊
  師團司令部(ケイズラ島トアルに進出)
  野砲兵第五聯隊(第一中隊)
  歩兵第十一聯隊第十中隊
  歩兵第四十二聯隊第一大隊
  工兵第五聯隊

 ウタ防衛隊
  歩兵第十一聯隊(第四中隊、第二大隊(第五・第八中隊欠)、第三大隊欠)
  野砲兵第五聯隊第四中隊

 カイマナ防衛隊
  船舶工兵第四聯隊
  歩兵第十一聯隊第三大隊(第十、第十一中隊欠)

 オンバ防衛隊
  捜索第五聯隊(第三、第四中隊欠)・・・ニューギニア防衛隊長
  
 第十九軍直轄
  輜重兵第五聯隊・・・アンボン
  歩兵第十一聯隊第十一中隊・・・セラム島

5月12日、第五歩兵團長・柏徳少将は第二方面軍司令部附に補職、17日、第五歩兵團司令部は復帰、タニンバル防衛團の編組が解かれセラル、ララト両防衛隊は師團直轄となります。
4月22日、米軍が亀北岸のホランジア、アイタペに上陸、急迫する戦局に大本營はニューギニアの防衛線を亀西端のソロンに設定、兵力増強のため第三十二師團、第三十五師團の進出を企図しますが、敵制海権下の輸送は遅滞、一方マノクワリ、ソロンに所在する多数の滞留部隊を急速戦力化すべく第五歩兵團、第十八歩兵團(チモール島)を復員、両歩兵團の要員により旅團新設を計画します。

確保前線の大幅後退に伴いミミカ、ウタ(ともにニューギニア南岸)、タニンバル諸島、アル諸島、ケイ諸島は突出、第十九軍司令部は第五師團の作戦計画を島嶼防衛から広大な地積を有するセラム島での持久に変更します。

亀北岸に侵攻した敵は、6月15日、サイパン島(7月7日、玉砕)、7月21日、大宮島(グアム)(8月11日、玉砕)、24日、テニアン島(8月3日、玉砕)に上陸、7月29日、大本營は敵の侵攻路から豪北方面の確保要域をハルマヘラ島(第三十二師團)、ソロン(第三十五師團)、セラム島(第五師團:当時、軍直轄の歩十一第十一中隊がブラに所在したのみ)、チモール島(第四十八師團)に策定します。
敵がさらに9月15日、パラオ諸島ペリリュー島、モルッカ島モロタイ、10月20日、フィリピン・レイテ島、12月15日、同ミンドロ島に上陸するにおよび、南方戦線は本土との連絡が分断され、第二方面軍は東側正面の戦備から西側、昭南島(シンガポール)を中心とする南西方面への戦備に転換を計る事になります。

昭和19(1944)年9月、師團司令部はセラム島ピルに移駐、師團長・山田清一中将はセラム島への兵力集結を企図し、歩十一主力はジャワ島に前進し、第十六軍司令官指揮下に編入、歩二十一はアル諸島に大隊長指揮の1個大隊(2個中隊)を残置し、主力はセラム島に移駐、歩四十二は大隊長指揮の1個大隊(3個中隊)をサラムキ付近に残置し、主力はケイ諸島に移駐し離島防衛隊長(野砲五聯隊長)の指揮下に編入、野砲五聯隊長は離島防衛隊長としてタニンバル諸島、アル諸島、ケイ諸島の防衛に任じ、野砲五第三中隊はセラム島に移駐、工五はセラム島に移駐、捜索五は歩十一第十一中隊を歩十一に復帰させ、現任務を続行を下令します。
師團参謀長・濱島厳郎大佐、後方参謀・森康則中佐はケイ諸島に残留し各隊の集結輸送を指揮、敵機の妨害は殆ど無いものの輸送力の低下から各隊の転進は停滞します。

聯隊は第二中隊を残置しケイズラ島トアルを出港、19日、アンボンに上陸、21日、アンボンを出港、23日、セラム島ピルに移駐、敵上陸に備えるなか、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月22日、豪軍がアンボンに進駐、聯隊は第二十五根拠地隊司令官・一瀬信一海軍少将の指揮のもと、豪軍指揮下に入り、兵器、弾薬類を引き渡し、セラム島に集結を命ぜられ自活を開始します。

昭和21(1946)年6月中旬、セラム島アサウデなどから特別内地帰還輸送船が出港、昭和21(1946)年6月10日、最終便が田辺に入港し復員します。

捜索第三十九聯隊(藤六八六七)
昭和11(1936)年6月3日、『帝國國防方針』が改訂され、仮想敵国に米国、ソ連、支那に英国を加え、従来通り速戦即決を主義とするも、長期持久戦を予測し、これに耐えうる覚悟と準備が付加されます。
陸軍省はこの方針に則った本格的軍備充実計画立案に先立ち、ソ連に対抗できうる兵力の整備、特に航空兵力の飛躍的増強を計画、昭和10(1935)年、『陸軍航空防空緊急充備計畫』に着手、『昭和十年度軍備改變要領』(軍令陸乙第三號)を策定し昭和10~13年の間に防空部隊(飛行隊、高射砲隊)の拡張を図ります。

昭和11年5月、『昭和十一年度軍備改變要領』(軍令陸乙第十九號)を策定、『「陸軍平時編制」改訂』(軍令陸乙第十八號)により5ヶ年計画で兵備改変、6ヶ年計画で作戦資材の整備に着手します。

11月、『軍備充實計畫ノ大綱』が作成され陸軍部内に内示、昭和17年度までに約40個師團、飛行約140個中隊の整備が示達されます。

昭和14(1939)年8月1日、軍令陸甲第二十一號により捜索第五聯隊留守隊に捜索第三十九聯隊の動員下令、2日、編成着手、10日、編成完結(早川一郎中佐)、第三十九師團(村上啓作中将)隷下に編入されます。
聯隊は本部、装甲車、軽戦車、乗馬各1個中隊の3個中隊編制でした。

10月9日、聯隊は師團主力とともに輸送船13隻に分乗し宇品を出航、同日、師團は中支那派遣軍戦闘序列の第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、船団は長江を遡航、18日、師團は漢口に上陸、第三十四師團(關龜治中将、大阪)から任務を継承、19日、聯隊は黄坡東北方の麻城(昭和15年4月、城壁を破壊し西方30㎞の中館に移駐)に進出、26日、司令部が黄坡に進出し隷下部隊を武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)及び東北方地域に配置、東西120㎞、南北80㎞に渡る広範な地域の警備にあたります。

昭和15(1940)年4月10日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図します。
4月13日、師團は1/4を抽出し留守隊として残置(8月10日、原隊を追求、復帰)し原駐地を出発、400kmを機動し、20日、応山西方地区に集結、野戰重砲兵第六旅團隷下の獨立野戰重砲兵第十五聯隊より2個大隊(十五糎榴弾砲)、1個大隊(十糎加農砲)、第一野戰高射砲司令部より1個中隊(高射砲)を配属され、5月4日0630、配属砲兵隊は攻撃準備射撃を開始、0730、聯隊は師團左側援護として師團左翼(重点攻撃隊)の各歩兵聯隊の第一大隊、右翼の歩二百三十三とともに滾山に進撃します。
聯隊は撤子坡の敵一七四師警戒陣地(火砲3、1,000名)を撃破し主陣地の厲山(火砲6、3,000名)に進撃、敵の巧妙な火網形成・地形を活かした堅陣に損害を受けながらも左翼隊は滾山、右翼隊は高城、厲山を攻略、5日、両翼隊は敗敵を追撃、左旋し随県を攻略、右翼に歩二百三十一、歩二百三十三第一大隊、左翼に歩二百三十二、右翼助攻に歩二百三十三主力(野砲三十九1個大隊配属)を部署、2縦隊となって進撃、聯隊長・早川中佐直卒の第三中隊(乗馬)は急進し、6日、唐県、興隆集の敵を急襲撃破、8日、棗陽の火砲6を擁する敵6,000名は聯隊の奇襲に混乱し潰走、同地を攻略、聯隊を追及して来た師團主力は同地北方において支那第一七二・一七四・一八九師を包囲殲滅します。

11日、師團は棗陽に集結、支那軍は我軍の反転(速進速退)と判断し、北から支那三一集団軍(湯恩伯)、南から第三三集団軍(張自忠)、西から第三九・七五・八四軍が侵攻してきますが、12日、師團は右(漢水側)から歩二百三十三、歩二百三十一、歩二百三十二を部署(攻撃縦隊)し南進、第十三師團とともに支那第三三集団軍(張自忠上将)を撃破、13日、師團主力は方家集東西の線に進撃、右翼の歩二百三十三はさらに南進し漢水東岸に進撃します。

14日、師團経理部が物資収集中に支那軍の奇襲を受け包囲されたため、工三十九、輜重三十九、歩二百三十一2個中隊、歩二百三十二第二大隊が救援に向かうなか、16日、軍司令部より「敵第三三集団軍総部(司令部)が交戦地付近に所在」の情報に接し、師團はさらに歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二主力を増派、歩二百三十二が敵総部を捕捉包囲、傷病兵患者収容隊の歩二百三十一第十一中隊第一小隊(松本治雄少尉)第三分隊長・堂野軍曹が銃撃、第四分隊長・藤岡卓郎一等兵が刺突し張自忠上将を討ち取ります。

17日、師團は反転攻勢に転移、右から捜索三十九、歩二百三十一、歩二百三十二、歩二百三十三を部署し北上、追撃して来た支那第三九軍を撃破しつつ瀼河を渡河、左旋西進し聯隊は最下営子において火砲を擁する敵1,000を殲滅、白河に進撃し敵状を偵察、19日、師團は白河に到着、20日、白河を渡河し、21日、支那軍を潰走させます。
聯隊は師團予備として左側背を援護していましたが、敵敗走の兆候に伴い第三中隊は敵左翼を迂回し後方に進撃、手塚老を占領し敵退路を遮断し包囲殲滅します。

21日、樊城を眼下に望みますが、同付近での渡河は中止され反転、24日、墟家湾周辺に集結、28日、南進を再開し、29日、王家集付近に集結し、作戦第一期が終了します。

31日、師團は支援射撃のもと漢水を渡河、支那軍を撃破しつつ南進、雷家河付近で敵を撃破、6月3日、宜城-蛮河の線、6日、荊門北側に進撃し聯隊は敵戦闘指揮所を急襲し当陽方面の防備配備要図を入手したため宜昌への最短路が判明、8日、淯渓河に迂回し、10日、慈化市を奇襲攻略、11日、宜昌東方15kmの鴉雀嶺の敵陣を攻略し師團は軍先頭として進撃しますが、軍命令により宜昌東方4㎞で進撃を停止、12日、第十三師團が宜昌を攻略し作戦は終結します。

13日、作戦終了後、師團は原駐地に復帰する予定でしたが、襄西地区を確保する事となったため反転北上を開始、18日、荊門付近の警備にあたります。

12月16日、第二中隊(江木少佐)は歩二百三十二第二大隊を乗せ原駐地を出発、軍の糧米購入地・沙市に侵入する敵の拠点・嶺河口の敵を撃破、同地の警備に、20日、第三小隊(田中武夫少尉)は十里舗の警備にあたり、昭和16(1941)年1月8日から第二大隊は自動車道の開設工事にあたります。

2月4日、支那新編第二三師が第二中隊守備の嶺河口に侵攻、9日、一旦は撃退しますが、10日、再び侵攻、11日0200、歩二百三十二第二大隊は救援に進撃、増援の第四三師と激戦(大隊長・原少佐、負傷)ののち嶺河口に到着、敵を陣外に撃退します。

11日、軍はこの機会を捉え度々沙市、嶺家口に侵入する敵を殲滅すべく沙東作戰を発動、12日、歩二百三十一(第一・第三大隊)は沙市に集結、18日、嶺河口南方に進撃し新編第二三師を撃破、糧食多数を押収、20日、沙市に帰還します。

2月22日、第十一軍は予南策応作戰を発動、師團は荊北地区に進撃し敵を牽制します。

3月下旬、第四師團の移駐に伴い師團の警備地は沙市を含む李家付近まで拡大します。

9月1日、第十一軍は支那第九戦区軍を撃破すべく長沙作戰を発動、師團は第十三師團とともに襄西地区の支那第五・第六戦区軍を拘束すべく敵の侵攻を10月10日と判断し、機先を制し4日を期し攻撃を策定(歩二百三十二主力、歩二百三十一2個中隊、歩二百三十三第三大隊、捜索三十九、工三十九、輜重三十九により荊北地区に進撃、敵に端的な一撃を加え反転、沙東又は当陽地区に攻勢を取る)しますが、9月28日、蒋介石は我が配備が手薄な襄西地区(宜昌)奪還を企図し攻撃を下令、同日、敵は南西の長湖方面、29日、北西の荊北、当陽付近から侵攻、師團防衛線全線に渡り支那軍23個師が侵攻、当陽にあった歩二百三十三は玉泉寺-大(土当)坑-淯渓河の線、30日、歩二百三十二は朱家埠、10月1日、野砲三十九は掇刀石、2日、歩二百三十一は沙市、4日、歩二百三十二第三大隊、捜索三十九は塩地届で迎撃します。

10月2日、第十三師團が守備する宜昌が包囲され、6日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第三十九師團に宜昌救援を下命、7日、師團は全線に敵の侵攻を受けるなか歩二百三十三第三大隊が出発、敵を撃破しつつ、8日、第十三師團司令部に連絡、8日、司令部護衛中隊の歩二百三十二第六中隊の1個小隊(福島繁少尉)が重爆に搭乗、宜昌飛行場に強行着陸し飛行場の守備に、10日、歩二百三十二第三大隊は歩二百三十三集成2個大隊とともに師團長・澄田𧶛四郎中将の指揮下荊門を出発、13日、宜昌東側の支那軍を撃破、14日、宜昌において第十三師團長・内山英太郎中将と対面、15日、敵は急速に撤退します。
16日、聯隊は軍の補給渡河点・沙洋鎮(第十一野戰輸送司令部(平岡清少将)所在)に急進、漢水を越えて侵攻した敵2個師を撃退します。

昭和17(1942)年3月16日、第三十九歩兵團司令部は当陽から沙市に移駐します。

6月中旬、師團は敵栄誉第一師が郝穴付近で渡河し北侵の情報を偵知、12日、機先を制するべく第二次郝穴作戦を発動、歩二百三十一は左縦隊、聯隊は歩二百三十一第九中隊とともに右縦隊として沙市を出発、15日、郝穴に進撃し敵を撃破、18日、帰還します。

続いて聯隊は歩兵1個大隊を配属され秋山支隊(聯隊長・秋山久三大佐)として宜昌を出発、6月22日、長江左岸を40㎞機動、雲池付近で渡河、敵陣地左翼に進出、丘陵地の敵陣を撃破しつつ進撃、29日、敵2個師を撃破し、7月4日、帰還します。

昭和17(1942)年9月30日、第十三師團の重慶方面転出に伴い第三十九師團は宜昌の警備も担当、師團は宜昌を重点警備地区とし支那第六戦区軍(第六・一八・三〇軍)と対峙し警備にあたります。
警備地区の拡大に伴い従来1個聯隊で警備していた範囲を1個大隊で警備せざるを得ず、師團は各陣地を強化、整備します。

昭和19(1944)年1月7日、捜索第三十九聯隊、第三十九師團衛生隊、第三十九師團第二野戰病院は復帰、第三十九歩兵團司令部は獨立歩兵第五旅團司令部に改編、第三十九師團第一野戰病院は第三十九師團野戰病院に改称します。


第二總軍司令部(西方八一五二)
昭和20(1945)年1月9日、米軍がフィリピン・ルソン島リンガエン湾に上陸、比島決戦の推移から本土周辺要域への敵侵攻が予測されたため、1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰指導大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備が推進され、22日、内地、臺灣、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定します。
2月11日、東部軍は警備や軍政に専念する東部軍管區司令部、中部軍は中部軍管區司令部、西部軍司令部は西部軍管區司令部に改編、東北軍管區司令部、東海軍管區司令部が新編され、地上作戦及び防空に専念する第十一方面軍、第十二方面軍、第十三方面軍、第十五方面軍、第十六方面軍が新編され防衛總司令官(東久邇宮稔彦王大将)隷下に編入されます。
作戦任務と警備任務は密接不可分であるため方面軍司令官と軍管區司令官は二位一体とされ、両司令部の職員は兼勤とされました。

3月17日、我が国は硫黄島を失陥し本土空襲が本格化、3月26日、米軍が慶良間列島、4月1日、沖縄本島に上陸を開始、8日、大本營は『決號作戰準備大綱』を策定、米軍の本土侵攻は関東(決三號)、九州(決六號)が最も可能性が高いと推測し、この両方面の作戦準備を重点的に推進します。

決號作戰(本土決戦)に向けた軍・戦備の急速増強に伴い、防衛總司令部が本土全域にわたる方面軍を統帥指揮する事は困難であり、かつ敵上陸正面の作戦準備を急速に促進するべく、8日、大陸命千二百九十七號により、防衛總司令部は復帰、東日本を統括する第一總軍司令部(元帥杉山元大将:第十一、十二、十三方面軍基幹、東京)、西日本を統括する第二總軍司令部(元帥畑俊六大将、第十五、十六方面軍基幹、広島)が編成されます。
元帥畑俊六大将
▲第二總軍司令官・元帥畑俊六大将

8日、第二總軍戦闘序列を令し、15日、第十五方面軍(河邊正三中将)、第十六方面軍(横山勇中将)両司令部は第二總軍戦闘序列に編入、18日、第二總軍司令部は旧騎兵第五聯隊に前進します。
第二總軍は九州南部、九州北部、四国南部を「主決戦正面」、和歌山沿岸を主決戦に次ぐ「有力決戦正面」と策定、主決戦正面の3方面、特に九州南部を最優先として作戦準備を推進します。
敵上陸に際しては水際撃滅を本旨とし、最終的には山陰-山陽地方の境界付近に転進し長期持久を企図します。

6月12日、敵の九州上陸に備えるべく中國、四國軍管區司令部の臨時編成が発令され、20日、編成完結、中部軍管區から分設されますが、警備や軍政に関しては引き続き中部軍管區司令官の区処を受けます。

7月下旬、京都において大本營、第一總軍、第二總軍、第十三方面軍、第十五方面軍の参謀が敵の本州分断侵攻における京阪神、中京地区の統一防衛方針と第十三、十五方面軍の合同案を検討する研究会が開催されます。

8月6日0815、米軍により新型爆弾(原子爆弾)が投下され第二總軍司令部は全壊炎上、宿舎(松本勝太郎衆議院議員別宅、東照宮と鶴羽根神社の中間に所在)にて出勤準備中の司令官・畑大将は無傷、参謀長・岡崎清三郎中将は軽傷でしたが、後方参謀・片山二良大佐、教育参謀・李鍝公少佐(救助されるも7日、散華)は散華するなど総司令部員120名超が散華するなど甚大な被害を受け、生存者は一時二葉山の司令部壕に退避します。
※李鍝公附武官・吉武弘中佐は当日、痔のため殿下の出勤に随行できず別行動で出勤したため難を逃れますが、殿下の御遺体の京城御運びの準備が完了したのを見届けたのち拳銃で自決します。

1400、中國地方總監府の服部直彰副総監が司令部壕に来着、大塚惟精總監、県庁、市役所、警察の全滅を報告、事態の収拾を軍に委任、被災者救援を要請します。
1400、畑大将は戒厳を発令するとともに陸軍船舶司令部(佐伯文郎中将、宇品)に市内の復興作業を下令します。

7日1000、司令部壕において總軍主催の軍官民合同会議を開催、中國地方總監・大塚總監、広島市長・粟屋仙吉市長爆死のため広島市の警備、復旧に関し第二總軍が在広島陸海軍全部隊、及び広島市、広島県を区処する事が決定、船舶司令官を廣島警備司令官に任命、總軍司令部の全権限を移譲、1400、佐伯中将は廣島警備命令を発令し市内の救援、復旧を本格的に開始します。

13日、参謀總長・梅津美治郎大将は元帥会議開催のため第一總軍司令官・杉山元陸軍大将、畑俊六陸軍大将、永野修身海軍大将を招集、14日、畑大将は廣島陸軍飛行場より飛行機にて所澤陸軍飛行場に移動、宮中御文庫において戦局について 天皇陛下の御下問を受け、畑大将は「担任正面ノ防御ニツイテハ敵ヲ撃攘シ得ルトイフ確信ハ遺憾ナガラナシト申上グル外アリマセン」と上奏、陛下より「皇室ノ安泰ハ敵側ニオイテ確約シアリ、大丈夫」との御言葉を拝し、戦争終結について陛下の大御心に従う旨の方針に調印し、1600、広島に戻ります。

第二總軍司令部は決號作戰(本土決戦)準備とともに広島市内の復旧にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
司令部は残務整理、復員業務を開始、9月2日、我が国は連合軍に降伏、8日、戦闘序列を解除、17日、司令部は㈱日本製鋼所廣島製作所に移転、同日、廣島陸軍飛行場より輸送機にて伊丹飛行場に移動、大阪において西日本所在の各部隊の復員業務を実施、10月15日、第二總軍司令部は復員完結、第二復員司令部に改編、11月30日、第二復員司令部は復員完結、復員業務は第一復員省に移譲されます。

停戦時の第二總軍戦闘序列
第二總軍司令部
 第十五方面軍司令部(内山英太郎中将、大阪)
  獨立野砲兵第三十二大隊
  迫撃砲第十九大隊
  獨立山砲兵第十六聯隊
  獨立重砲兵第四十五大隊
  第十工兵隊司令部
  第百四十四師團(和歌山)
  第二百二十五師團(姫路)
  獨立混成第百二十三旅團(和歌山)
  由良要塞司令部
  高射第三師團
  第五十五軍司令部(原田熊吉中将、高知)
   第十一師團
   第百五十五師團
   第二百五師團
   第三百四十四師團
   獨立混成第百二十一旅團
   第十砲兵司令部
   戰車第四十五聯隊
   戰車第四十七聯隊
   第四十九兵站地區司令部
   第二十野戰輸送司令部
  第五十九軍司令部(谷壽夫中将、広島)
   第二百三十師團
   第二百三十一師團
   獨立混成第百二十四旅團
 第十六方面軍司令部(稲田正純中将、福岡)
  獨立山砲兵第十八聯隊
  獨立重砲兵第九大隊
  第十一工兵隊司令部
  第五十九兵站地區本部
  第九野戰輸送司令部
  對馬要塞司令部
  第二十五師團(福岡)
  第五十七師團(福岡)
  第七十七師團(加治木)
  第二百六師團(人吉)
  第二百十二師團(宮崎)
  第二百十六師團(宇土)
  獨立混成第六十四旅團(徳之島)
  獨立混成第百七旅團(五島福江)
  獨立混成第百十八旅團(佐伯)
  獨立混成第百二十二旅團(長崎)
  獨立混成第百二十六旅團(天草)
  高射第四師團
  第四十軍司令部(中澤三夫中将、伊集院)
   第四砲兵司令部
   第百四十六師團
   第三百三師團
   獨立混成第百二十五旅團
  第五十六軍司令部(七田一郎中将、飯塚)
   第六砲兵司令部
   壱岐要塞司令部
   下關要塞司令部
   第百四十五師團
   第三百十二師團
   第三百五十一師團
   獨立戰車第四旅團
  第五十七軍司令部(西原貫治中将、財部)
   第一砲兵司令部
   第三工兵隊司令部
   第六十五兵站地區司令部
   第七野戰輸送司令部
   第八十六師團
   第百五十四師團
   第百五十六師團
   獨立混成第九十八旅團
   獨立混成第百九旅團
   獨立戰車第五旅團
   獨立戰車第六旅團


主要参考文献
『広島市史 第四巻』(大正14年12月 広島市役所)

『新修広島市史 第二巻 政治史編』(昭和33年3月 広島市役所)

『広島県史 近代1 通史Ⅴ』(昭和55年3月 広島県)

『広島県史 近代2 通史Ⅵ』(昭和56年3月 広島県)

『広島県史 現代 通史Ⅶ』(昭和58年3月 広島県)

『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(昭和46年12月 広島市役所)

『広島師団史』(昭和44年12月 陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会)

『日本騎兵史 上・下』(昭和45年2月、3月 佐久間亮三、平井卯輔 原書房)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
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明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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