航空總軍司令部 戰鬭指令所【追加】
香芝市虫穴一帯に広がる奇岩景勝地として知られる屯鶴峯に航空總軍司令部の戦闘指令所用の地下壕が建設されました。
当地は過去に4度ほど探索しましたが、昨年末に参加した所属団体「河内の戦争遺跡を語る会」の例会において西壕の上にあったとされる建物跡について発表がされ、頂いた資料を元に再度探索して来ました。

<航空總軍司令部 戰鬭指令所について>
昭和20(1945)年3月31日、決號作戰(本土決戦)が迫るなか複雑多岐であった陸軍飛行部隊を一元統括すべく航空總軍司令部(河邊正三大将、市ヶ谷)が臨時編成され、制號作戰(本土防空)、決號作戰(本土決戦)を指揮すべく司令部を第十一飛行師團が所在する大正陸軍飛行場近傍に推進を計画、大阪府、奈良県境に位置する屯鶴峯に地下戦闘指令所の設定を急ぎますが、建設中に停戦を迎えます。
最終的にコンクリートを巻き立てる予定でした。
停戦に伴い支保工は高田町、西壕上の建物は二上(にじょう)村へ払い下げが決定しますが、建物の調度品、床柱などは近隣住民により盗まれてしまいます。
昭和24(1949)年、建物は解体され二上村公民館として移築、昭和42(1967)年6月、東壕は京都大学が借り受け壕内にコンクリートを吹き付け補強、京大防災研究所附属屯鶴峯地殻変動観測所が発足します。
現在、屯鶴峯の東西2ヶ所に地下壕が遺りますが、上記の様に東壕は見学不可、西壕は自己責任で見学可能です。
本記事はこちら
『航空總軍司令部 戰鬭指令所』
西壕上には三笠宮崇仁王少佐の特別宿舎がありました。
宿舎は総檜造りで3棟に別れ居間、応接室、炊事・風呂場があった様ですが、使われること無く停戦を迎えます。
昭和24(1949)年、建物は大蔵省より二上村に払い下げられ二上小学校内に移築、二上村公民館として使用ののち、昭和31(1956)年4月1日、二上村は周辺3村と合併し香芝市が発足、新たに中央公民館が建設されたため二上村公民館は二上小学校の作法室として転用、昭和44(1969)年、校舎新築に伴い破壊されてしまいます。

▲二上小学校に移築された特別宿舎
現在、チ壕口付近に建物跡の削平地4ヶ所、交通壕で連結された掩体5ヶ所が遺ります。
チ 壕口
この壕は西壕上にあった特別宿舎への通路と言われ、壕を出ると壕口を巻くように斜面上に上がる通路があります。

Ⅰ 削平地
幅16×奥行5m。
レンガ(建物基礎?)片が散乱、東端にコンクリート製の枡が埋まってます。
日当たりが非常に良い事から居住用の建物跡と思われます。

▲全景

▲見えにくいですが東端に埋まっているコンクリート製の枡

▲建物基礎と思われるレンガ片
Ⅱ 削平地
幅16×奥行3.5m。
レンガ(建物基礎?)片が散乱、東端にコンクリート製の枡が埋まってます。
規模から居住用の建物跡と思われます。

▲全景

▲光の具合で見にくいですが東端に埋まっているコンクリート製の枡とレンガ片
Ⅲ 削平地
幅4×奥行5m。煉瓦(建物基礎?)片が散乱しています。
規模が小さく建物と言うより貯水槽の跡と思われます。

下記の掩体は谷に掘られた交通壕により連結されています。
a 掩体
幅6×奥行6m。斜面を掘り込み歪な形をしています。

b 掩体
幅6×奥行5m。斜面を掘り込んだ方形窪地です。

c 掩体
幅6×奥行6m。奥は通路でd掩体と接続します。

d 掩体
幅8×奥行6m。深さがあります。

e 削平地
幅4×奥行5m。建物跡と思われます。


▲散乱するレンガ片
f 削平地
a・bから繋がる交通壕の始点にあり、煉瓦(建物基礎?)片が散乱しています。
規模から建物跡(従卒宿舎?)と思われます。


▲a-f 間にある交通壕
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当地は過去に4度ほど探索しましたが、昨年末に参加した所属団体「河内の戦争遺跡を語る会」の例会において西壕の上にあったとされる建物跡について発表がされ、頂いた資料を元に再度探索して来ました。


<航空總軍司令部 戰鬭指令所について>
昭和20(1945)年3月31日、決號作戰(本土決戦)が迫るなか複雑多岐であった陸軍飛行部隊を一元統括すべく航空總軍司令部(河邊正三大将、市ヶ谷)が臨時編成され、制號作戰(本土防空)、決號作戰(本土決戦)を指揮すべく司令部を第十一飛行師團が所在する大正陸軍飛行場近傍に推進を計画、大阪府、奈良県境に位置する屯鶴峯に地下戦闘指令所の設定を急ぎますが、建設中に停戦を迎えます。
最終的にコンクリートを巻き立てる予定でした。
停戦に伴い支保工は高田町、西壕上の建物は二上(にじょう)村へ払い下げが決定しますが、建物の調度品、床柱などは近隣住民により盗まれてしまいます。
昭和24(1949)年、建物は解体され二上村公民館として移築、昭和42(1967)年6月、東壕は京都大学が借り受け壕内にコンクリートを吹き付け補強、京大防災研究所附属屯鶴峯地殻変動観測所が発足します。
現在、屯鶴峯の東西2ヶ所に地下壕が遺りますが、上記の様に東壕は見学不可、西壕は自己責任で見学可能です。
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『航空總軍司令部 戰鬭指令所』
西壕上には三笠宮崇仁王少佐の特別宿舎がありました。
宿舎は総檜造りで3棟に別れ居間、応接室、炊事・風呂場があった様ですが、使われること無く停戦を迎えます。
昭和24(1949)年、建物は大蔵省より二上村に払い下げられ二上小学校内に移築、二上村公民館として使用ののち、昭和31(1956)年4月1日、二上村は周辺3村と合併し香芝市が発足、新たに中央公民館が建設されたため二上村公民館は二上小学校の作法室として転用、昭和44(1969)年、校舎新築に伴い破壊されてしまいます。

▲二上小学校に移築された特別宿舎
現在、チ壕口付近に建物跡の削平地4ヶ所、交通壕で連結された掩体5ヶ所が遺ります。
チ 壕口
この壕は西壕上にあった特別宿舎への通路と言われ、壕を出ると壕口を巻くように斜面上に上がる通路があります。

Ⅰ 削平地
幅16×奥行5m。
レンガ(建物基礎?)片が散乱、東端にコンクリート製の枡が埋まってます。
日当たりが非常に良い事から居住用の建物跡と思われます。

▲全景

▲見えにくいですが東端に埋まっているコンクリート製の枡

▲建物基礎と思われるレンガ片
Ⅱ 削平地
幅16×奥行3.5m。
レンガ(建物基礎?)片が散乱、東端にコンクリート製の枡が埋まってます。
規模から居住用の建物跡と思われます。

▲全景

▲光の具合で見にくいですが東端に埋まっているコンクリート製の枡とレンガ片
Ⅲ 削平地
幅4×奥行5m。煉瓦(建物基礎?)片が散乱しています。
規模が小さく建物と言うより貯水槽の跡と思われます。

下記の掩体は谷に掘られた交通壕により連結されています。
a 掩体
幅6×奥行6m。斜面を掘り込み歪な形をしています。

b 掩体
幅6×奥行5m。斜面を掘り込んだ方形窪地です。

c 掩体
幅6×奥行6m。奥は通路でd掩体と接続します。

d 掩体
幅8×奥行6m。深さがあります。

e 削平地
幅4×奥行5m。建物跡と思われます。


▲散乱するレンガ片
f 削平地
a・bから繋がる交通壕の始点にあり、煉瓦(建物基礎?)片が散乱しています。
規模から建物跡(従卒宿舎?)と思われます。


▲a-f 間にある交通壕
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