当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大和海軍航空基地 (大和海軍航空隊・近畿海軍航空隊)

奈良県天理市の南西に大和海軍航空基地がありました。

大和海軍航空基地  A 通信隊壕 南から~岸田町(奈良)
▲田圃の中に遺るコンクリート製耐弾施設

【探索日時】
平成21年1月3日、平成24年12月19日、平成25年1月25日

【更新情報】
平成24年9月20日:大幅改訂(書式変更、探索記分離)
平成25年9月3日:遺構追加





大和海軍航空基地の概要
昭和18(1943)年、海軍航空本部は奈良縣山辺郡朝和(あさわ)村(現、天理市)の水田地帯を豫科練(初歩・中間練習)教育用の航空基地用地として選定し、夏頃、呉海軍施設部は測量を、呉海軍経理部は用地買収を実施、秋頃から呉海軍施設部指揮の下、大林組が担当し、労務者が中心となり近隣の勤労奉仕隊、學校報國隊の協力を得て地均し等の予備工事を、昭和19(1944)年6月から本格的な設営を開始し、昭和20(1945)年初旬、主滑走路1本が完成しました。

2月11日、第二美保海軍航空隊の航空機、飛行練習生を基幹として大和海軍航空隊が開隊します。

4月1日、沖縄に米軍が上陸を開始、急迫する戦局に来るべき本土周辺の戦闘に備え、海軍は大和海軍航空基地を近畿方面の中核航空基地として選定し増備を開始、7月15日、基地防衛・航空隊支援にあたる近畿海軍航空隊が大和海軍航空基地において編成され、16日、第六〇一海軍航空隊麾下の戰闘第三〇八飛行隊が進出してきます。

海軍は決號作戰(本土決戦)にあたり第三航空艦隊司令部、さらに海軍總隊司令部を当地に推進し、完成した第一滑走路の他に扇状に3本、合計4本の滑走路を設営、大和海軍航空基地を紀ノ川付近に上陸を企図する米軍を邀撃するための最重要航空拠点とすべく設営工事を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
最終的にさらに天皇陛下に遷じ給い、大本營海軍部も推進する予定だったと言われます。

※大和海軍航空基地についての詳細は後述

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、近畿地方に進駐を開始、28日、第98歩兵師団が上陸、奈良県に進駐して来ます。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、10月14日、米軍により兵舎地区、20日、航空基地全域が接収されます。

11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』により、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達します。

昭和21(1946)10月、米軍は移駐し第一滑走路の500m以外は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和22(1947)年5月7日、滑走路500m以外が元地権者を中心に開放(昭和23年11月1日、正式に全面払い下げ)され、昭和24(1949)年3月、建物は戦災復興住宅、学校等の資材として解体され現在に至ります。

大和海軍航空基地は現在、一般的に地名から柳本飛行場大和基地の名称で知られています。

大和海軍航空基地(21.10.2)改定~空撮-国土地理院
▲昭和21(1946)年10月2日の大和海軍航空基地跡(国土地理院 NI-53-15-1
※複数の空撮を繋ぎ施設を明るく加工しています。

大和海軍航空基地(21.10.2)改定~施設-国土地理院
▲上掲空撮に施設を記しました。

大和海軍航空基地(現在) 改定
▲現在の地図に施設を転写
 ・・・・現存遺構
 ・桃色・・・滅失・未踏査
※滅失施設の位置は大凡です。

-大和海軍航空基地 要目-
・航空基地敷地 : 168,300㎡
・その他敷地 : 74,250㎡
・滑走路 : 1,500×50m 1本 (4本予定)
・掩体壕 : 18基
・収容人数 : 1,700名
・隧道 : 1,250㎡


遺構について※青字は地図にリンクしています。
(遺構場所など、上掲地図参照)
① 滑走路
大和海軍航空基地は4本の滑走路を南北から東西にかけて扇型に設営予定でした。

ア 主滑走路
全長1500m、幅(排水溝まで)100m、舗装幅50mの滑走路が完成、停戦時、唯一運用されていました。

現在は滑走路上にアスファルトが貼られ、9割が道路として転用されています。
大和海軍航空基地  ア 主滑走路跡ー南から~遠田町~遠田町(奈良)
▲滑走路跡の道路

遺構として道路と水田の境目に滑走路のコンクリート敷が一部残存しています。
大和海軍航空基地  ア 主滑走路 舗装跡~遠田町 (2)(奈良)
▲畑に残る滑走路のコンクリート敷
 厚さは15cm程です。

イ 第二滑走路
停戦時、滑走路は未完成で、両側の排水暗渠のみが完成していました。
現在は田畑になっています。

以前は暗渠が遺っていましたが、現在は全て撤去され何も遺されていません
探索中に見つけた地元の建設業者の広告看板には当航空基地の「暗渠の撤去」が実績として掲載されていました。

ウ 第三滑走路
停戦時、第二滑走路同様に未完成で、両側の排水暗渠のみが完成していました。
同じく田畑になっています。

遺構としては排水暗渠が北側50m、南側250m程が遺されています。
大和海軍航空基地  ウ 第三滑走路跡(未完)南側暗渠 切断部分南東ー北西から~岸田町 (4)(奈良)
▲右側の畑を斜めに走る畦道状の部分が滑走路周囲に造られた排水暗渠(南側)

大和海軍航空基地  ウ 第三滑走路跡(未完)北側暗渠 切断部分南東ー南東から~岸田町 (2)(奈良)
▲ラジコンサーキット(奥の板囲い)の手前の畑に遺る排水暗渠(北側)
 左側は戦後造られた畦道です。

大和海軍航空基地  ウ 第三滑走路跡(未完)南側暗渠 切断部分北西の中ー北西から~岸田町 (2)(奈良)
▲排水暗渠は用水路に転用され、取水部分が破壊され内部が見れます。
 かなり分厚いコンクリートで造られています。


エ 第四滑走路

停戦時、第二・第三滑走路同様に未完成でしたが、一部舗装が始まっていました。
同じく田畑になっています。

遺構は、何も遺されていません


② 飛行機運搬路(誘導路)
航空基地の北東(格納庫・整備場に接続)、南西(掩体壕に接続)に設営されていましたが、現在は一部が道路区画として遺る程度で遺構は遺されていません


A 通信壕
詳細は不明ですが、航空基地南東端に戦闘指揮所や通信指令所と言われているコンクリート製の壕が遺されています。
戦闘指揮所や搭乗員待機所にしては小さく滑走路から離れ過ぎていますし、以前入口に「電信室」の文字があったとの事から航空隊通信科(どの隊か不明)が使用していた通信壕と思われます。
大和海軍航空基地  A 通信隊壕 南から~岸田町(奈良)
▲畑の中に遺るコンクリート製の壕A
 盛り土も残っており当時の形状に近いと思われます。

大和海軍航空基地  A 通信隊壕 南側入口~岸田町(奈良)
▲入口は人ひとりが屈んで入れる程度です。

内部は「Y」の足同士を着けたような形状で入口2ヶ所づつ(Y字の上部分)がそれぞれ内部で繋がっており、中央に部屋(Y字の軸部分)が3ッ、西から小部屋・大部屋・中部屋の合計3室が並びます。

大和海軍航空基地 A 通信壕 北西側の小部屋 南東から(奈良)
▲西側にある小部屋

大和海軍航空基地 A 通信壕 中央の大部屋 南東から(奈良)
▲中央の大部屋
 内部は浸水しています。

大和海軍航空基地 A 通信壕 南東側の中部屋 南東から(奈良)
▲東側の中部屋

大和海軍航空基地 A 通信壕 中央の大部屋 天井の電灯配線(奈良)
▲天井にある照明の配線


B 通信壕
A通信壕と同様の規格です。
大和海軍航空基地  B 通信隊壕 北西~岸田町(奈良)
▲横から見たコンクリート製の壕B

大和海軍航空基地 B 通信壕 南西から(奈良)
▲南側の入口

盛り土は失われコンクリートが露出していますが、天井から突き出た空中線を通したと思われる筒?空気孔?が観察できます。
大和海軍航空基地  B 通信隊壕 北西 頂部の円筒~岸田町(奈良)
▲壕から突き出た管


C 掩体壕 基礎
農家の倉庫の東側に、向って右側の基礎が遺されています。
大和海軍航空基地  C 掩体壕 北側基礎ー東から~武蔵町~武蔵町(奈良)
▲かなりの大きさがあります。

有蓋掩体壕の天蓋を破壊したのであれば基礎にそれなりの破壊痕が残っているはずですが、そう言った破壊痕が全く無い事ことから「木製掩体壕」の基礎と思われます。
当航空基地に残存する掩体壕遺構は全て木製掩体壕です。

「掩体壕」とは駐機してある航空機を敵機の襲撃(爆弾・機銃の直撃・至近弾)から護る為の施設で、全体がコンクリートで築造された「有蓋掩体壕」、基礎のみコンクリートで天蓋は木製の「木製掩体壕」、周囲の土堤のみの「無蓋掩体壕」などの種類があります。
当時は掩体壕の上に土が盛られたうえ植樹され古墳の様に偽装されていましたが、現存の多くは土が剥落しコンクリートが剥き出しになっています。
また、海軍と陸軍では外観も若干異なります。


D 掩体壕 基礎
畑の一角に、向って左側の基礎が遺されています。
大和海軍航空基地  D 掩体壕 南側基礎ー北東から~田原本町東井上(奈良)
▲ゴミが乗っているので分かり難いですが、Cの基礎よりは幾分小振りです。

大和海軍航空基地  D 掩体壕 後端部基礎ー北西から~田原本町東井上 (2)(奈良)
▲海軍式掩体壕(奴型)は凸型をしており、この掩体壕基礎は後端の凸部が明確に残ります。
 木材の枠、木材固定の鉄筋が遺ります。
 
数年前までは両側の基礎が完存していた様ですが、右側の基礎は撤去されてしまった様です。


E 掩体壕 基礎
戦後、掩体壕を横切る形で海知池(溜池)が造成されたため、向って左側の基礎と後端部は破壊され水没、右側の基礎のみ畑に遺されています。
大和海軍航空基地  E 掩体壕 北側基礎ー東から~海知町(奈良)
▲畑に遺る右側の基礎

大和海軍航空基地  E 掩体壕 後端部基礎ー北から~海知町 (3)(奈良)
▲溜池に水没する左側の基礎と後端部


F 掩体壕 基礎
向って左側は畑の中、右側は廃車置場に遺されており、当航空基地の現存4基の掩体壕基礎のうち唯一左右が揃っています。
大和海軍航空基地  F 掩体壕 北側基礎ー南東から~岸田町(奈良)
▲左側の基礎

大和海軍航空基地  F 掩体壕 ー南から~岸田町(奈良)
▲右側の基礎(手前)と左側の基礎(奥の樹木の辺り)

ただ、右側の基礎も廃車置場造成の際に土地が嵩上げされており、手前側は埋まっています。
右側の基礎がある廃車置場は私有地のため立入りはできません。
最近、廃車にイタズラする者がいるらしく、たまたま巡回に来られた所有者の方に許可を取って撮影しました。


G 掩体壕
昭和21(1946)年10月の空撮を見ると、上記の他に第一滑走路西側に5基の掩体壕が確認できますが全て破壊撤去されたようです。
また近年までFの掩体壕の南側にも1基ありましたが、残念ながら建物建設に伴い破壊撤去されてしまいました。


オ 格納庫(未完成)
北東側の飛行機運搬路に4ヶ所建設予定でしたが、未完成で停戦を迎えました。
区画すら遺されていません。

カ 木工場・金工場
近畿空内務班が主管する工場がありました。
現在、区画が辛うじて遺る程度です。

キ 格納庫
停戦時、格納庫6棟がありました。
現在は区画すら遺されていません。


③ 排水溝
滑走路の降雨は滑走路両側の暗渠から滑走路地区外周に掘られた排水溝を通り、航空基地南端で放水路に接続し大和川に放水されていました。

当時の排水溝は素掘りだったと思われますが、現在はコンクリート舗装され用水路となって遺されています。


④ 放水路
航空基地からの排水を大和川に放水するために掘削されました。
西側は一部がコンクリート製で護岸されていますが、南側は石組みで護岸されています。
当時の物でしょうか?

大和海軍航空基地  ④放水路 南西端付近ー南西から~田原本町東井上(奈良)
▲西側の放水路

大和海軍航空基地  ④放水路南端付近護岸ー南から~遠田町(奈良)
▲南側の放水路


H 防空高角砲台 射撃指揮所
唐古鍵遺跡(唐古池)の土堤上に高角砲座と言われる、コンクリート製の遺構が遺されています。
大和海軍航空基地  H 防空高角砲台 北から~田原本町唐古(唐古鍵遺跡)(奈良)

唐古鍵遺跡周辺には四十五口径十年式十二糎高角砲が6門据え付けられる予定でしたが、未完成のまま停戦を迎えます。
大和海軍航空基地の防空高角砲台は3ヶ所に設営される予定でしたが、八八式七糎野戰高射砲x4を据付た1ヶ所のみが完成、当初を含む2ヶ所(十二糎高角砲x6)は未完成でした。

コンクリート製構造物ですが、直径約8mの六角形で中央と南側に小さな四角の穴があります。
大和海軍航空基地  H 防空高角砲台 中央の穴~田原本町唐古(唐古鍵遺跡)(奈良)
▲中央にある孔

高角砲を据付けるには砲床に複数のボルトで固定する必要があると思うのですが、この構築物にはそれらしい設備がありません。
大きさは十二糎高角砲砲座の規格である7.5mと近いのですが・・・。

陸軍の高射砲座は地面と同じ高さ、もしくは3m程のコンクリート製高架砲座が多い様ですが、海軍の高角砲座は地面を掘り込んで木材やコンクリートで法面を覆っている物が多い様で昭和21年10月の空撮をよく見ると、唐古池の南の田圃の中に砲座らしい物?が写っています。

このコンクリート製構造物は高角砲を制御・統制するための「高射指揮装置」か「測距儀」の台座では無いでしょうか?
それにしては大きすぎるような・・・詳細は不明です。

この構造物の北側の土堤にもコンクリート片が多数散乱しているので何かあったのかも知れません。
大和海軍航空基地  H 防空高角砲台 北側のコンクリート破片2~田原本町唐古(唐古鍵遺跡)(奈良)
▲散らばるコンクリート片

大和海軍航空基地 防空砲台
▲大和海軍航空基地の防空砲台配置(位置は大凡)
a七糎高射砲x4        m十三粍単装x4
b十二糎高角砲x6(未完成)  n二十五粍聯装x3
c十二糎高角砲x6(未完成)  o二十五粍聯装x3
d二十五粍三聯装x2/聯装x1 p二十五粍聯装x3
e二十五粍聯装x3       q二十五粍三聯装x1/聯装x2
f二十五粍聯装x3       r二十五粍聯装x3
g二十五粍聯装x3       s二十五粍三聯装x2/聯装x1
h二十五粍聯装x3       t二十五粍聯装x3
i二十五粍三聯装x2      u二十五粍聯装x3
j二十五粍三聯装x3      v二十五粍聯装x3
k二十五粍聯装x1/単装x4  w二十五粍聯装x3
l二十五粍聯装x3


I 高角砲座
遺構配置図のI(唐古鍵遺跡)は全て埋め戻され、遺構は遺されていません。

防空砲台配置図のc纏向石塚古墳とその北西にあるw勝山古墳にはそれぞれ高角砲台(の射撃指揮装置?)、機銃砲台が設置されていました。
古墳の上部が防空砲台設置に伴い削平地に造成されていますが、遺構は遺されていません。
大和海軍航空基地  c 防空高角砲台ー南東から~桜井市太田(纏向石塚古墳)(奈良)
▲纏向石塚古墳墳頂部の削平部

大和海軍航空基地  c 防空高角砲台ー南東から~桜井市東田(纏向勝山古墳)(奈良)
▲纏向勝山古墳全景
 内部は一面竹に覆われています。

c纏向石塚古墳に関しては古墳の発掘調査(平成18年3月、桜井市教育委員会による第9次調査)の際、墳丘北東の畑から高射砲の砲座に使われた松の木杭列が出土しましたが、現在は埋め戻されてしまったようです。
木杭は当時の建物・構築物に良く見られる沈下防止施工です。
【参考】第9次調査 現地説明会資料


J 防空機銃砲台
大和海軍航空基地には上掲図のように20ヶ所(二十五粍122門、十三粍4門)の防空機銃砲台が設営されていました。
近年までuの砲台跡が遺っていたようですが、残念ながら破壊されてしまったようです。


K 給配水施設
矢矧塚古墳の頂部にあります。
古墳は現在、柿畑と化しており、個人の所有?になっている様で、作業されていた方の許可を取り見学させてもらいました。
浄水施設のようで建物2棟の礎石跡、井戸状の穴2ヵ所、浄水槽2ヵ所、喞筒(そくとう:ポンプ)の設置台?と思われるコンクリート製の遺構が遺っています。
大和海軍航空基地  K 給配水施設 中央大建物礎石ー北西から~成願寺町(矢矧塚:柿畑) (2)(奈良)
▲中央の大型建物基礎

大和海軍航空基地  K 給配水施設 北端小建物礎石ー北西から~成願寺町(矢矧塚:柿畑)(奈良)
▲北端の小型建物基礎

大和海軍航空基地  K 給配水施設 中央大建物西側井戸ー北から~成願寺町(矢矧塚:柿畑)(奈良)
▲潜孔(マンホール)?

大和海軍航空基地  K 給配水施設 西端水槽ー北東から~成願寺町(矢矧塚:柿畑)(奈良)
▲浄化水槽?

大和海軍航空基地  K 給配水施設 西端水槽北側に付属の礎石(ボルトの有る機械の設置台)ー東から~成願寺町(矢矧塚:柿畑)(奈良)
▲喞筒設置台?

浄水槽2ヵ所はかなり深さがありますが、ゴミ捨て場になっており半分埋まっています。
持ち主の方が子供の頃は倍ほどの深さがあったそうです。
大和海軍航空基地  K 給配水施設 西端水槽(西側水槽)ー北から~成願寺町(矢矧塚:柿畑)(奈良)
▲浄化水槽内部


⑤ 大和海軍航空隊・近畿海軍航空隊 居住区(航空隊本部・兵舎)
現在は隊内道路も滅失し、境界も判然としません。
大和海軍航空基地 航空隊居住地(奈良)
▲航空隊居住区 見取図

1隊門 2北門 3第二西門 4第一西門 5東門 6車庫 7衛兵詰所 8航空隊本部庁舎 9第一士官舎 10士官烹炊所 11航空隊本部第二庁舎 12第二士官烹炊所 13航空隊本部退避壕 14航空燃弾倉庫 15主計科倉庫(A糧食) 16銃砲倉庫 17主計科倉庫(B糧食) 18第一練兵舎 19主計科倉庫(C糧食) 20第二練兵舎 21爆撃講堂 22第二浴場 23第二烹炊所 24病舎 25第一兵舎 26第二兵舎 27第三兵舎 28十三粍単装機銃x4 29第二浴場 30酒保 31第一烹炊所 32第五兵舎 33第四兵舎 34第六兵舎 35第七兵舎 36第八兵舎 37練兵場 38配水施設
Ⅰ航空基地方面 Ⅱ設營隊方面 Ⅲ竹之内集落方面 Ⅳ竹之内隧道方面



L 航空隊本部部員 退避壕
新池の東120mにフェンスで囲まれた南側の壕入口があります。
資料では「天理教が管理しており入口は施錠されている」となっていますが、現地に行くと施錠されているのはフェンスのみで、壕自体の入口は鉄扉が付いているものの進入可能でした。
大和海軍航空基地 L 退避壕 南東から(奈良)

幅3x全長18mあり、内部は4室に区切られており、夫々の部屋の奥行は南側から5m・4m・5m・4mで、各部屋天井に電灯の配線が遺っています。
大和海軍航空基地 L 退避壕 ①部屋から北(奈良)
▲入口から内部

大和海軍航空基地 L 退避壕 ④部屋から南側入口(奈良)
▲北側の部屋から南側入口方向

大和海軍航空基地 L 退避壕 ①部屋 天井の電灯跡(奈良)
▲天井に遺る電灯の配線

元々の出入口は最北端の部屋の北側、北から2ッ目の部屋の東側、最南端の部屋の南側の3ヶ所ありましたが、現在は最南端の部屋の出入口以外はコンクリートで閉鎖されています。
大和海軍航空基地 L 退避壕 ④部屋 北側入口(奈良)
▲最北端の部屋にある入口(閉鎖)

大和海軍航空基地 L 退避壕 ③部屋 西側入口(奈良)
▲北から2ッ目の部屋にある入口(閉鎖)

内部は湿度が非常に高く、レンズが曇って撮影に苦労しました。

大和海軍航空基地 L 退避壕 東から(奈良)
▲退避壕は練兵場にありましたが、現在は畑になっています。


M 給配水施設
中池の南側の柿畑の奥の茂みに、浄化水槽と思われるコンクリート製の水槽があります。
場所からして航空隊居住地用だと思われます。
大和海軍航空基地 M 浄化水槽 南東から(奈良)
▲水槽全景

大和海軍航空基地 M 浄化水槽 北東から(奈良)
▲水槽内部は3ヶ所に区切られ、仕切り下部に開口部があります。

水槽の大きさは幅7.7×奥行4.9m、内部は2.8/2.1/2.8m幅の3ヶ所に区切られており、北西側に幅1.6×奥行2.1mの突出部があります。
大和海軍航空基地 M 浄化水槽 北から(奈良)
▲水槽北西側の突出部

大和海軍航空基地 M 浄化水槽 西側上端にある孔(奈良)
▲縁には直径16㎝の孔が8ヶ所ありますが、用途不明です。

一段低い場所に直径1mの潜孔(マンホール)があります。
水槽の写真を撮るのに夢中でハマってしまいましたが、幸い水も無く埋まっていたので事無きを得ました(笑)
大和海軍航空基地 M 浄化水槽と潜孔の位置関係(奈良)

この水槽は非常に分かり難い場所にあり、農作業をしている方に訪ねたところ単車で案内して頂きました。
この場を借りてお礼申し上げます。


N 地下壕跡
古墳の後円部墳丘上には十三粍単装機銃が4基据え付けられていた様です。
また、古墳裾を掘削し、地下壕があった様で削った跡が遺ります。
大和海軍航空基地 N 格納壕跡(奈良)


O 通信設備
下池山古墳の後方部墳丘上にコンクリート製の立方体の構造物があります。
構造物は70×70x高さ50㎝、上部にボルト2本(43㎝幅)があります。
空中線の基礎でしょうか?
大和海軍航空基地 O 台座(墳丘上)(奈良)

大和海軍航空基地には大和海軍航空隊、近畿海軍航空隊、第六〇一海軍航空隊戰闘第三〇八飛行隊、第五八一海軍設營隊が所在しましたが、どの隊の通信科(飛行隊は通信伝令員、設営隊は通信隊)が使用していたかは不明です。
古墳の発掘調査の際、前方部に半地下式の遺構が出土しましたが、残念ながら埋め戻されてしまいました。

古墳西側裾にもコンクリート製の擁壁と水槽(幅265×奥行163×深さ60㎝)の様な構造物があります。
大和海軍航空基地 O 擁壁(後方部西側) 南西から(奈良)
▲擁壁

大和海軍航空基地 O 擁壁(後方部西側) 方形構造物(奈良)
▲水槽?


P 地下壕
中山大塚古墳の東側くびれ部分に長さ3mの地下壕が遺りますが、詳細は不明です。
大和海軍航空基地 P 地下壕(奈良)


Q 軍需品倉庫
櫛山古墳の墳丘上に軍需品の倉庫が建てられていた様ですが、遺構は遺されていません。


R 兵舎跡
櫛山古墳の東側に兵舎数棟が建てられいた様ですが、遺構は遺されていません。


S 労務者飯場
新池西側、長岳寺西側及び東側等に労務者飯場があった様ですが、遺構は遺されていません。
長岳寺東側飯場の土地所有者の方によると、停戦とともに朝鮮人が基地設営に使役していた牛馬を食べてどこかへ去って行ったそうです。


T 戰闘第三〇八飛行隊宿舎(柳本國民學校)
戰闘第三〇八飛行隊の宿舎として柳本國民學校の建物一部を間借していましたが、校舎も建て替えられ面影はありません。


⑥ 第五八一海軍設營隊本部
JR柳本駅の西側一帯に第五八一海軍設營隊の宿舎、資材置き場がありました。
第五八一海軍設營隊は昭和20(1945)年5月15日、大和海軍航空基地増設のため大阪警備府麾下に編成されます。
大東亞戰爭停戦に伴い、8月22日、復員完結、施設は柳本町に移管された様です。

当時3棟並んでいた大型木造建物のうち、現在2棟が住居に改築され何とか遺っています。

あ 建物
西側の殆どが破壊され、遺された部分もかなり状態が悪いです。
大和海軍航空基地 あ 兵舎 南から(奈良)
▲南から

大和海軍航空基地 あ 兵舎 北から(奈良)
▲北から

大和海軍航空基地 あ 兵舎 内部(奈良)
▲内部天井の小屋組

設営隊宿舎や労務者飯場、倉庫と言われていますが、内部は簡単な小屋組で組まれており天井も高く、大きさから倉庫と思われます。


い 建物
あ建物に比べると残存度合いは高い(北側の一部が破壊)ですが、あ建物同様にかなり状態が悪いです。
住居化している部分は何とか持っていますが、退去した部分は屋根が落ちたりしており、危険な状態です。

大和海軍航空基地 い 兵舎 南から(奈良)
▲南から

大和海軍航空基地 い 兵舎 北から(奈良)
▲北から

大和海軍航空基地 い 兵舎 内部(奈良)
▲内部天井の小屋組


⑦ 竹之内隧道
航空隊居住区東側の竹之内集落を抜けた山際に無数の地下壕が掘削されていました。
大和海軍航空基地(現在) 竹之内隧道(奈良)
▲竹之内隧道配置

場所・形状は複数ある「大和海軍航空基地関連の引渡目録」、「飛行場水上機基地平面図」、手元の資料を参考に作図しているので、確実ではありません。
また、名称も弾薬引渡目録『彈藥 近畿海軍航空隊 大和基地』の付図を参照にしていますが、地図が大雑把過ぎるので間違っている可能性があります。
青色:現存
緑色:痕跡あるも崩落
桃色:痕跡無し・未踏査


U 空気圧縮機の架台
青池西側の柿畑の中にコンクリート製の架台4基が遺されています。
地権者の方によると、小川を挟んだ北側斜面の地下壕を掘削するのに使用されていたそうです。
大和海軍航空基地 U 台座 南から(奈良)

架台は幅125×奥行125×高さ46㎝が2基、幅190×奥行70×高さ46㎝が2基夫々南北に並んで合計4基あります。
夫々の架台にはボルトが前者4本(幅64、奥行73㎝間隔)、後者は6本(幅76、奥行30㎝間隔)あります。
大和海軍航空基地 U 台座① 北から(奈良)
▲幅125×奥行125×高さ46㎝の架台

大和海軍航空基地 U 台座③ 南から(奈良)
▲幅190×奥行70×高さ46㎝の架台


V 水槽
小川に架かる橋を渡った竹林の奥にコンクリート製水槽があります。
外寸幅194×奥行120㎝、深さ80㎝、縁厚15㎝あります。
大和海軍航空基地 V 水槽 東から(奈良)


W 水槽
青池西側の小道に沿って登って行った北側の急斜面下にあります。
外寸幅455×奥行360×高さ185㎝、深さ170㎝(土砂で埋まる)、水槽上端の縁厚14㎝ですが、内側の上端から50㎝で肉厚になります。
水槽北側(正面側)の両端に煉瓦で作った台の様な出っ張り(東側は崩壊)があります。
大和海軍航空基地 W 水槽 南西から(奈良)
▲斜面上から見た水槽

水槽北側(正面側)中央には小さい孔が横一列に5ヶ所、その下段に大きな孔が3ヶ所ある事から、貯水目的では無いようです。
地下壕掘削に使用する圧縮機の冷却用ではないでしょうか?
大和海軍航空基地 W 水槽 北側(奈良)
▲水槽正面の孔


X 水槽
隧道地区の最深部にありますが、正面側の半分は崩壊しています。
最初は笹に埋もれて良く分かりませんでしたが、笹を伐採し、内部もある程度掃除したところ全貌が分かりました。
外寸幅500×奥行336㎝、縁厚13㎝あります。
大和海軍航空基地 X 水槽 南西から(奈良)
▲内部は土砂で埋まっています。

躯体は煉瓦で表面がモルタル仕上げになっており、正面側は補強の控柱が並んでいます。
W水槽同様に正面側に孔が開いており、こちらも貯水用では無い様です。
大和海軍航空基地 X 水槽 北西側の補強(奈良)
▲水槽正面(左側)の控柱
 この右側に壁が続いていた様ですが、無くなっています。


Y2 機銃弾薬庫
十二神社の東側斜面に崩落跡が遺っています。
土地の方に聞くと数十年前までは地下壕が完存していた様です。
大和海軍航空基地 Y2 機銃弾薬庫 上部の崩落(奈良)


Y4 火工兵器庫
北側にある更地から小川の中を進むと、左側にある竹林にあります。
辛うじて壕口が遺りますが、殆ど埋まっているうえ壕口に太い竹が生えて進入できません。
大和海軍航空基地 Y4 木工機器庫(奈良)
▲壕口は30㎝四方しかありません。


Y6 Y7 Y8 Y9 竹之内十米隧道
名称からして10m前後の小型地下壕が並んでいた様ですが、全て崩落し溝状になっています。
大和海軍航空基地 Y6 壕口(崩落)(奈良)
▲斜面に点々と溝状の地下壕跡が遺ります。


Y15 地下壕跡
U空気圧縮機の架台の小川を挟んだ北側にあります。
壕口が崩落していますが、斜面が溝状になっていない事から内部は崩落していない様です。
使途不明ですが、柿畑の地権者の方によると内部はかなり広い様です。
柿畑にあった圧縮機から空気を送り込んで掘削していたそうで、圧縮空気を送っていた鉄管が遺っています。
大和海軍航空基地 Y15 西側壕口(崩落)(奈良)
▲崩落した壕口跡から鉄管が突き出しています。


Y16 地下壕跡
右手に青池を見ながら峠道を進むと左に資材置き場が見えて来ます。
そのまま資材置き場を通り過ぎると道が左右(左側未舗装と右側舗装)に分岐するので、左手の小さい橋を渡り未舗装の道を登ると右手に荒れた果樹園が出てきます。
その反対側の左(山側)にゴミが投棄されているので、その辺りを獣道に沿って進むと茂みの先に壕口①が見えます。
大和海軍航空基地 地下壕(奈良)
▲『飛行場水上機基地平面図』より推定の平面図
数字は長さ(歩測のため誤差有り)、オレンジ部分は崩落、点線は推定

大和海軍航空基地 Y16 ①壕口(奈良)
▲①壕口は巾180×高さ60㎝で進入可能です。

大和海軍航空基地 Y16 ②壕口(崩落)(奈良)
▲②壕口は崩落し、溝状(倒木の辺り)になっています。

大和海軍航空基地 Y16 BからA(奈良)
▲地下壕内部 B付近からA方向

大和海軍航空基地 Y16 G奥方向(奈良)
▲地下壕内部 G付近から奥

大和海軍航空基地 Y16 J奥の崩落部(奈良)
▲最深部は崩落して土砂で埋まっています。

Y15からY18にかけての地下壕は『引渡目録』に記載が無く、構造の複雑さから戦争末期に推進が予定されていた大本營海軍部、もしくは第三航空艦隊司令部用に掘削されていた地下壕では無いでしょうか?


Y17 地下壕跡
崩落しています。 
大和海軍航空基地 Y17 北東側壕口(崩落)?(奈良)


Y18 地下壕跡
かなり複雑な形状をした地下壕だった様ですが、残念ながら崩落して溝状になっています。
大和海軍航空基地 Y18 北東側壕口(崩落)(奈良)
▲東側の壕口?


Y19 二十二號隧道
青池の南側斜面に崩落した跡が遺ります。
大和海軍航空基地 Y19 西側壕口(崩落)(奈良)
▲西側壕口の崩落跡

大和海軍航空基地 Y19 中央壕口(崩落)(奈良)
▲中央壕口の崩落跡


Y20 地下壕跡
崩落し溝状になっています。
大和海軍航空基地 Y20 壕口(崩落)(奈良)
▲斜面が溝状に崩れています。


Y21 地下壕跡
全て崩落し溝状になっています。
大和海軍航空基地 Y21 壕口(崩落)(奈良)
▲道路右側の斜面が点々と溝状に崩れています。


Y22 地下壕跡
全て崩落し溝状になっています。
大和海軍航空基地 Y22 北側壕口(崩落)(奈良)
▲竹林の中に溝状に崩落した跡があります。


以下の地下壕は『飛行場水上機基地平面図』に記載されていますが使徒不明、痕跡も無く詳細不明です。
Y1 Y3 Y5 Y13 Y14

以下の地下壕は『飛行場水上機基地平面図』に記載されていますが山が荒れており、踏査できませんでした。
Y23 Y24 Y25

Y10 Y11 Y12 航空機格納防空壕
三間塚池の西側に練習機を分解格納していた地下壕があった様ですが、戦後に畑・民家になり痕跡も遺っていません。


Z1 Z2 Z3 Z4 Z5 Z6 Z7
『大和海軍航空基地関連の引渡目録』、『飛行場水上機基地平面図』に記載が無く、書名不詳のサヨク系資料に掲載されています。
場所からして第五八一海軍設營隊か戰闘第三〇八飛行隊に関する地下壕と思われます。
土地の方によるとZ2は現在は崩落していますが停戦後、内部に通信機があった様で米軍が毎日監視に通っていたそうです。
大和海軍航空基地 Z3 通信所壕(崩落)(奈良)
▲崩落したZ3地下壕跡


上記以外に「奈良隧道」(天理教教祖墓地の東側の山:崩落?)、「三輪隧道」(三輪山南麓?)がありましたが、いずれも未踏査です。


大和海軍航空基地の設営
昭和15(1940)年1月、海軍は長期化する支那事変の完遂、及び第三国の干渉を防ぐため戦備の強化を促進するとともに、航空戦備の大幅増強、即ち実用航空隊10隊、練習航空隊8隊の新設、既存航空隊8隊の拡張を盛り込んだ『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)を実行します(昭和18年末まで)。
5月16日、米大統領・F.ルーズベルトは欧州戦線におけるドイツ軍の快進撃に「航空機50,000機要求声明」を発し、6月14日、「マル四計畫」に対抗し、且つ同計画を凌駕する第三次ヴィンソン案に署名します。

昭和14(1934)年11月、第三次ヴィンソン案の概要を入手した軍令部では『第五次海軍軍備充實計畫』(通称「マル五計畫」)の案画を開始、昭和15(1940)年8月下旬、海軍省に送達されましたが予算化まで時間がかかる事、また極度に悪化した対米関係に鑑み、11月15日、軍令部は出師準備作業の第一着作業を発令するとともに、昭和16(1941)年5月、「マル五計畫」の実行可能な事項を先行実施すべく『情勢ニ應ズル軍備缺陥補充ノタメノ臨時追加軍備計畫』(マル臨計畫)を策定し、練習航空隊17隊の整備に着手します。
8月15日、出師準備作業の第二着作業を発令するとともに、「マル急計畫」を策定し「マル四計畫」を1ヶ年繰上げ(昭和17年末まで)ます。

11月1日、我が国は大本營政府聯絡會議において帝國國策遂行要領を策定し開戦の準備に入るとともに、「マル五計畫」を実行、同時に外交交渉による対米戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、8日、ハワイ作戦により大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年6月7日、ミッドウェー海戦において海軍は空母4隻と熟練搭乗員多数を喪失したため、30日、軍令部は急遽「マル五計畫」を見直し練習航空隊27隊増設を含む「改マル五計畫」を策定し海軍省と商議します。

昭和18(1943)年、海軍航空本部は奈良縣山辺郡朝和(あさわ)村(現、天理市)の水田地帯を豫科練(初歩・中間練習)教育用の航空基地用地として選定し、6月3日、海軍施設本部は朝和村に航空基地の設営を伝達します。
夏頃、呉海軍施設部により測量を実施し、海軍航空本部は用地買収(田1反1,700円、畑1反1,000円、それ以外1反800円)及び借地を実施し、9月頃から地均し等の予備工事を開始します。

昭和19(1944)年6月、呉海軍施設部指揮の下、設営全般を㈱大林組(下請けに奈良の天御津組、刀根組、朝鮮人土建業者など)が請負い、労務者が中心となり近隣の勤労奉仕隊、學校報國隊の協力のもと滑走路(9月開始)、飛行機運搬路、排水溝、放水路、格納庫、指揮所、兵舎(10月下旬開始)、通信施設、給配水設備などの設営が進められ、昭和20(1945)年初旬、コンクリート舗装の全長1500m、幅(排水溝まで)100m、舗装幅50mの滑走路1本が完成しました。

設営開始日は「昭和19(1944)年6月」(『航空基地 施設吏貨資料表』)、「昭和19(1944)年9月15日」(『天理市史』)と複数の説があり定かではありませんが、設営に携わった複数の元労務者の証言等によると昭和18(1943)年秋頃から予備工事が開始され、昭和19(1944)年に本格的な設営が始まった様です。

当時、學校報國隊として昭和19年1月から滑走路の基礎工事に携わった元畝傍中學生によると「転圧機(ロード・ローラ)による転圧以外は全て手作業であったが、手押車や一輪車での土木作業はそれ程辛い物ではなく、周囲からも特に不満は聞かれなかった」ようです。
また、豫科練出身で作業監督にあたる上等飛行兵曹に「練習機でも良いから乗せて飛行して欲しい」、「実際の戰闘飛行を見せて欲しい」と色々希望を言ってみたところ、「乗せて飛ぶのは無理でしたが実際に操縦席に座らせて操縦桿やスロットルのペダルを触らせてくれ、さらには急降下爆撃、旋回飛行の横転、逆転、宙返り等を実際に披露してくれるなど、まだまだ余裕のあるのどかな設営現場だった」と回想されています。

昭和20(1945)年2月11日、復帰した第二美保海軍航空隊の航空機に続き初歩練習・中間練習の飛行練習生が進出、大和海軍航空隊(内田市太郎大佐)が開隊します。

4月1日、沖縄に米軍が上陸を開始、急迫する戦局に来るべき本土周辺の戦闘に備え、海軍は大和海軍航空基地を近畿方面の中核航空基地として選定します。

5月15日、大阪海軍施設部において第五八一海軍設營隊(明石壽技術大尉)が編成され、18日、大和海軍航空基地に進出、また近隣の奈良海軍航空隊(清宮善高大佐)の応援も加え、6月頃から航空基地の強化拡張が開始されます。

7月15日、基地防衛・航空隊支援にあたる近畿海軍航空隊(佐藤治三郎大佐)が大和海軍航空基地において編成され、16日、百里原海軍航空基地から作戦部隊の第六〇一海軍航空隊麾下の戰闘第三〇八飛行隊(新郷英城少佐、零戦48機)が進出してきます。

また飛行場近傍に設置予定?の島津航空機製作所(詳細不明)の工場建設のため6月15日、第五八八海軍設營隊(新保外治技術大尉)が編成されました。

7月19日、21日、8月13日、米軍機により航空基地が機銃掃射を受けますが、損害は軽微でした。

海軍は決號作戰(本土決戦)にあたり第三航空艦隊司令部(山田定義中将、木更津)、さらに海軍總隊司令部(小澤治三郎中将、神奈川)を当地に推進し、完成した第一滑走路の他に扇状に3本、合計4本の滑走路を設営、大和海軍航空基地を紀ノ川付近に上陸を企図する米軍を邀撃するための最重要航空拠点とすべく設営工事を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
最終的にさらに天皇陛下に遷じ給い、大本營海軍部も推進する予定だったと言われます。

また、『在外海軍部隊一覧表綴』 (昭和21年4月18日 第二復員省総務局)によると第三航空艦隊麾下の第十三航空戰隊、第五十三航空戰隊両司令部の所在地が「大和」となっていますが、『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(五)』(平成21年5月 渡辺博史)によると前者は「大井」、後者は「明治」になっています。


展開部隊
大和海軍航空隊
第二美保海軍航空隊は美保海軍航空基地(鳥取)において豫科練習生の錬成にあたっていましたが、逼迫した戦局に対応するため実戦部隊が次々に基地に進出してきたため、豫科練、初歩練習、中間練習が困難となったため、昭和20(1945)年2月1日、豫科練教育を甲飛専用教育隊で練習機を備え実機練習も可能であった第一美保海軍航空隊に編入し、所有する九三式中間練習機全54機とともに設営の進んでいる大和海軍航空基地に移駐させます。

2月11日、第二美保空の練習機に続き甲飛十三期の飛練四十期、四十一期の初歩練習、中間練習過程の練習生も大和海軍航空基地に進出、第二美保空は復帰、同日、舞鶴鎭守府所管の航空隊として大和海軍航空隊(内田市太郎大佐)が開隊、隊は練習航空隊に指定され、練習聯合航空總隊・横須賀鎭守府第十一聯合航空隊(城島高次少将)に編入、横須賀鎭守府部隊第十一聯合航空隊(城島高次少将)に部署されます。
内田市太郎大佐(三重)
▲内田市太郎大佐
 支那方面艦隊附から大和海軍航空隊司令に就任

16日、練習聯合航空總隊司令官・松永貞一中将は第十一聯合航空隊司令官・城島高次少将に、18日以降の特攻訓練実施を下令します。
隊は教官の半数より特攻要員160名を選考し特別攻撃隊「神風特別攻撃隊 千早隊」を編成、4月末日を目処に錬成を開始します。

3月1日、練習聯合航空總隊は解隊され第十航空艦隊(前田稔中将)に改編、第十一聯合航空隊は第十航空艦隊に編入され、隊は第八基地航空部隊(第十航空艦隊司令長官指揮)第十一聯合航空隊に部署され引き続き特攻訓練にあたります。

8日、飛練四十期は『機密練習聯合航空總隊命令第十三號』により4月11日から30日まで、鈴鹿海軍航空基地(三重)に飛行訓練のため移駐を下命されます。

17日、『天一號作戰要領』が発令され、第八基地航空部隊は錬成・邀撃が任務とされます。

5月5日、第十一聯合航空隊は解隊、隊は練習航空隊の指定を解除され第三航空艦隊(山田定義中将、木更津)第十三航空戰隊(伊藤良秋少将)に編入、第七基地航空部隊(第三航空艦隊司令長官指揮)練習機特攻戰隊(第十三航空戰隊司令官指揮)に部署され、引き続き特攻訓練を実施します。
実戦配備のため、九三式中練のと號改造(特攻機への改造)が開始されます。

6月6日、海軍總隊司令部(小澤治三郎中将)は決號作戰(本土決戦)における練習機特攻隊の展開配備基準を下令、第十三航空戰隊は第一配備が関東方面、第二配備が紀伊水道または伊勢湾方面とされます。

7月17日、海軍總隊司令部(小澤治三郎中将、神奈川)は『GB電令作第百二十一號』により第三航空艦隊の第一作戦司令所を大和海軍航空基地、第二作戦司令所を木更津海軍航空基地に指定します。

8月12日、千早隊は出撃準備のため第二大和海軍航空基地に移駐、大和海軍航空隊は決號作戰に向け兵力を温存しつつ特攻訓練を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
なお、昭和50年代に「やまびこ打線」で知られた徳島・池田高校を率いた蔦文也監督は千早隊に所属していました。


第二二一海軍航空隊→第二五二海軍航空隊→第六〇一海軍航空隊
戰闘第三〇八飛行隊

昭和19(1944)年1月15日、横須賀鎭守府所管の常設航空隊として笠之原海軍航空基地(鹿児島)において第二二一海軍航空隊(嵐部隊、姫野一郎少佐)が開隊(定数:零戦五二型72、うち補用18)、第一航空艦隊(角田覚治中将)に編入され、機動基地航空部隊(第一航空艦隊司令長官指揮)に部署され整備に入り、2月中旬、錬成を開始します。
開隊当初、大幅に機材受け入れが遅れ2月29日の可動機は10機でしたが、6月30日、零戦二一型14機、五二型24機(保有59機)となります。
2月1日、隊は第六十二航空戰隊(杉本丑衛大佐)に編入され、機動基地航空部隊第六十二航空戰隊に部署され、9月末を目標に戦力整備にあたります。
16日、第一航空艦隊は聯合艦隊(古賀峯一大将)に編入、隊は第五基地航空部隊(第一航空艦隊司令長官指揮)六十二航空戰隊に部署され、引き続き戦力の整備にあたります。

22日、米機動部隊がマリアナ諸島に接近した事から「東號作戰」(東日本防空戦)が発動、第六十二航空戰隊は東號作戰部隊指揮官(北東方面部隊第二基地航空部隊指揮官・第十二航空艦隊司令長官・戸塚道太郎中将)の指揮下に入り、隊は六十二航戰麾下部隊とともに所定の基地への進出待機を下令されます。
23日、隊の零戦8機は霞ヶ浦海軍航空基地に前進待機しますが、3月6日、東號作戰部隊は編成を解かれ、隊の零戦は笠之原に帰還します。

3月22日、作戦発動前でも編入予定部隊に対し指示を出せる様、横須賀海軍航空隊司令をして東號作戰部隊指揮官に下令されます。

5月5日、第六十二航空戰隊は第一航空艦隊から聯合艦隊に編入されます。
20日、米機動部隊が南鳥島に来襲、東號作戰部隊が編成され、隊の零戦(機数不明)が木更津海軍航空基地に前進待機しますが、敵機の来襲は無く、24日、部隊は編成解除されます。

6月15日、米軍がサイパン島に上陸、「あ號作戰」が発動、東號作戰部隊の編成が発令されます。
同日、第六十二航空戰隊は解隊され第二航空艦隊に改編、隊は第六基地航空部隊(第二艦隊司令長官指揮)に部署され、錬成にあたります。
19日、隊の零戦16機が木更津に前進待機、敵機の来襲は無く、22日、部隊は編成解除されます。
29日、隊は『大海令第二十九號』に基づき、7月上旬までに半分、下旬までに残りを新竹海軍航空基地(台湾)に進出を下令されます。

7月3日、米機動部隊が小笠原諸島と硫黄等に来襲、4日、「東號作戰」発動、第二航空艦隊(司令部を除く)は東號作戰部隊に編入されますが、7日、サイパン島守備隊が玉砕、作戦は
終結します。

10日、隊所属員をもって横須賀鎭守府所管の特設航空隊として戰闘第三〇八飛行隊(蛭澤久也大尉、定数:零戦48、笠之原)、戰闘第三一二飛行隊(塩水流俊夫大尉、零戦48、笠ノ原)、戰闘第三一三飛行隊(河合四郎大尉、零戦48、笠ノ原)、戰闘第四〇七飛行隊(林喜重大尉、零戦48、鹿児島)の4個飛行隊に改編(斎藤正久大佐)され、第二航空艦隊(福留繁中将)に所属し錬成にあたります。
二二一空は第六基地航空部隊西一空襲部隊(第二航空艦隊司令長官指揮)二二一空部隊に部署されます。
8月、二二一空主力は第六基地航空部隊西一空襲部隊呂部隊に部署され、引き続き笠之原で錬成にあたります。

10月10日、米機動部隊が南西諸島、12日、台湾に来襲、『第五十一航空戰隊電令作第一號』により二二一空の零戦32機は三四一空の零戦8機、紫電16機、四航戦の零戦32機と第一攻撃隊第一制空隊に部署され、第五十一航空戰隊司令官・山田定義少将の指揮下、沖縄本島中陸軍飛行場を経由し敵機動部隊を攻撃した後、臺南海軍航空基地に進出を下令され、14日、二二一空の零戦29機は笠之原を襲撃しますが会敵は無く、25機が臺南に進出します。
15日、隊の残りの零戦9機は攻撃隊の銀河10機とともに高雄方面から敵機動部隊の攻撃に向かいますが、指揮官機の故障から引き返します。

18日、米軍がレイテ島に上陸、「捷一號作戰」発動、19日、米機動部隊は比島全域に来襲してきます。
21日、『第六基地航空部隊命令作第二十號』により二〇一空の零戦30機は三四一空、二五二空の零戦72機とともに第六基地航空部隊捷一號攻撃部署の第一攻撃集團制空隊に部署され、22日、臺南からクラーク航空基地に進出を下令、同日、クラークに前進します。

22日、隊は部隊の150機とともにクラークを発進しますが、悪天候により引き返します。
23日、部隊の190機とともにクラークを出撃しますが、敵直掩機に阻まれ零戦4機損失、飛行隊長蛭澤久也大尉、松井康中尉、平田巌二飛曹が散華してしまいます。
25日、『南西方面部隊電令作第六百九十六號』により比島の第五基地航空部隊(第一航空艦隊)、第六基地航空部隊(第三航空艦隊)で第一聯合基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官指揮)が編成されます。

第五基地航空部隊に続き第六基地航空部隊も特攻作戦を下令、隊の零戦隊28機は二五二空の零戦40機とともに制空隊に部署され、クラーク地区からラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に出撃しますが、会敵できずレガスピーに帰還、再出撃しますが、敵機に阻まれ5機が未帰還、斉藤外男上飛曹、磯崎甚平一飛曹、秋重芳雄ニ飛曹が散華してしまいます。

29日、第一聯合基地航空部隊は比島の戦闘機隊(二〇一空、二二一空、三四一空、六三四空、六五三空)による神風特別攻撃隊を編成戰、三〇八からは、11月12日、第三神風特別攻撃隊・第二白虎隊(杉田久治二飛曹が爆戦でレガスピー基地から発進、レイテ沖の敵輸送船団に突入散華)、14日、同山本隊(中島浩二中尉が直掩としてアンヘレス基地を発進、ラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に向かい散華)、19日、同高徳隊(永田磧上飛曹がマバラカット基地を直掩として発進、ラモン湾沖の敵空母索敵中に散華)に加わります。
30日、二二一空は再編され戰三一三・戰四〇七は二〇三空に編入、二〇三空から戰三〇三(岡島清熊少佐)、二五二空から戰三〇四(塩水流俊夫大尉)・戰三一五(瀬藤満寿三少佐)、二五二空から戰三一七(川添實大尉)が編入され、既存の戰三〇八(河合四郎少佐)、戰三一二(塩水流俊夫大尉-兼務)に加え6個飛行隊(各定数48機)となります。
20日、笠之原海軍航空基地で錬成を終えた戰三〇八の零戦20機(河合四郎少佐)がアンヘレスに前進してきます。
24・25日、クラーク基地群に来襲した敵機を邀撃し、河合少佐を含む3機が未帰還となってしまいます。
26・27日、神風特別攻撃隊・金鵄隊(空対空特攻、二式二十五番三號爆彈装備の爆戦)としてアンヘレス基地を発進、来襲したB24に突入し26日、小泉昭二飛長、27日、福田良亮一飛曹が散華してしまいます。

12月末、二二一空主力はアンヘレス基地からルソン島北部のツゲガラオ基地に転進します。

昭和20(1945)年1月6日、神風特別攻撃隊・金鵄隊として福田良亮一飛曹がアンヘレス基地を発進、F6Fと交戦、散華してしまいます。
8日、第二航空艦隊は解隊され麾下航空隊は第一航空艦隊(大西瀧治郎中将)に編入、台湾に転進します。
9日~下旬、二二一空(八木勝利中佐)搭乗員は台湾へ空輸・潜水艦により転進(約半数)、転進できなかった搭乗員・地上勤務者は陸戦隊に転向(佐伯忠雄少佐指揮)します。

2月5日、戰三〇八(飛行長:新郷英城少佐、隊長:平田嘉吉大尉)は戰三一一(ともに二〇三空から)、戰三〇四(新編)・戰三一三(既存)とともに第三航空艦隊(寺岡謹平中将、木更津海軍航空基地)麾下の第二五二海軍航空隊(斎藤正久大佐、茂原海軍航空基地)に編入(各飛行隊の定数は零戦48)、旧戰三一七搭乗員が戰三〇八に転籍してきます。
16日、房総半島上空邀撃戰で敵艦載機F6F30機を戰三一一と共同で邀撃(零戦45)、24機撃墜(不確実10)の戦果を挙げますが、9機9名が散華してしまいます。
二五二空は17・25日と連日、来襲する敵艦載機を邀撃しますが、大損害を受け可動機は23機(保有39機)にまで低下してしまいます。
3月5日、戰三〇八(平田嘉吉大尉)は戰三一〇(香取頴男大尉、零戦48)、戰四〇二(藤田怡与蔵大尉、零戦48)、攻一(国安昇大尉、彗星48)とともに第三航空艦隊麾下の第六〇一海軍航空隊(杉山利一大佐、百里原海軍航空基地)に編入され、戰三〇八は戦力を回復します。
29日、六〇一空主力として、他航空隊の彗星約100、九九艦爆約100、零戦約100、紫電約30機とともに天號作戰(沖縄方面航空作戦)参加のため第一國分海軍航空基地に前進します(28日に前進予定でしたが、彗星の誤射に伴う爆弾爆発事故により1日延期、前進中も故障が相次ぎ、4月1日、零戦予定44機(実際38)・紫電12機(8)・彗星22機(18)が進出、一部は百里原に残置し防空任務に従事)。

4月3日、沖縄北方の敵機動部隊索敵攻撃に戰三〇八の零戦8機は戰三一〇の零戦24機、戰四〇二の紫電8機、攻一の彗星17機とともに出撃、敵直掩機と交戦し16機を撃墜(不確実5)するも零戦2機(自爆)・零戦6機(未帰還)・彗星4機(自爆)・紫電2機(未帰還)・零戦1機(不時着大破)、戰三〇八は3名が散華してしまいます。
7日、銚子上空においてB29・30機、P51・8機の戦爆連合を六〇一空は零戦12機で邀撃、戰三〇八・石田哲也飛長はB-29に突入し撃墜するも散華してしまいます(零戦2損失・1名散華)。

6日、菊水一號作戰(沖縄近海の敵艦に対する特攻)発動、7日、前路掃蕩制空(特攻機援護)に零戦8機で参加(僚隊合計30機)、11日、前路掃蕩制空に零戦7機で参加(僚隊合計22機)、第三御盾隊(六〇一部隊)として爆戦4機(戰三〇八・戰三一〇各2機)が発進、進撃中にF6Fと遭遇したため爆弾を投下し空戦に入り、安田卓郎二飛曹(戰三〇八)・平賀左門二飛曹(戦三一〇)が米機動部隊に突入散華、14日、菊水三號作戰の前路掃蕩制空・直掩に参加、15日、第三御盾隊(六〇一部隊)として零戦4機(戰三〇八・戰三一〇各2機)が発進、敵占領下の沖縄本島中陸軍飛行場銃撃に成功、帰途F6F・10機と交戦し岸忍中尉・田中克次郎飛長(ともに戰三〇八)が自爆散華、16日、菊水三號作戰の前路掃蕩制空に零戦16機で参加(僚隊合計55機)、F6F・12機、F4U・6機と交戦、4機撃墜・4機撃破の戦果を挙げますが3名散華(戰三〇八は2名)、17日、前路掃蕩制空に零戦8機(僚隊合計26機)で参加、F6F・F4Uと交戦(六〇一空は上空支援隊、二五二空が交戦)、第三御盾隊(六〇一部隊)として爆戦4機が発進、進撃中にF4Uと遭遇したため爆弾を投下し空戦に入り、1機撃墜するも佐藤一志二飛曹が散華してしまいます。

5月7日、機材払底のため百里原海軍航空基地に移駐し戦力の回復に努めます。
29日、横浜市街地に来襲したB29、P51戦爆連合の邀撃にあたり、戰三〇八は2名が散華してしまいます。

6月23日、霞ヶ浦海軍航空基地(茨城)、下館陸軍飛行場(茨城)に来襲したP51の邀撃にあたり、戰三〇八は4名が散華してしまいます。

7月16日、第三航空艦隊(寺岡謹平中将)は決號作戰(本土決戦)に向け麾下航空隊の配備変更を実施、戰三〇八(広瀬武夫大尉)は大和海軍航空基地に前進、8月1日には地域慣熟飛行が行われます。
20日、海軍總隊司令部(小澤治三郎中将、神奈川)は『GB電令作第百三十號』により各航空部隊指揮官に決號作戰(本土決戦)に向けての戦力温存とともに、敵機動部隊、沿岸に接近する敵艦艇(艦砲射撃企図)に対して少数精鋭戦力で攻撃し、敵企図封殺を下令します。

8月11日、大本營海軍部は『大海令第四十四號』により、海軍總隊司令部は『GB電令作第百七十四號』により、戦力温存方針を放棄、決號作戰準備を顧慮する事無く、積極作戦を強化し機に応じ戦機を捉え敵機動部隊、敵大型爆撃機の撃滅を下令します。

8月10・12日、関西方面に来襲したB29、P51戦爆連合の邀撃にあたります。
14日、関西方面に来襲したP47を琵琶湖、京都南部の2方面に分かれて邀撃、不調機の続出により発進が遅れ、編隊が組めず個々での出撃となってしまい琵琶湖方面に出撃した兵頭寛一中尉、松山英二少尉が散華してしまい、基地上空において中城勇上飛曹機が被弾、橿原付近に不時着するも生還します。
15日正午、六〇一空の残存全機を結集、戰三〇八は戰三一〇(鈴鹿海軍航空基地)とともに前路掃蕩制空に当たり、銚子沖南280km付近に侵攻中の敵機動部隊に対する航空総攻撃が計画されますが、『大東亜戰争終結ノ詔書』の玉音放送を拝し中止となります。
16日、大和海軍航空基地において戰三〇八最後の総飛行が実施されます。
18日、六〇一空司令・杉山利一大佐が大和海軍航空基地に到着し戦闘機の武装解除が行われました。


近畿海軍航空隊
昭和20(1945)年7月15日、横須賀鎭守府所管の乙航空隊として奈良県山邊郡朝和村(現、天理市)の大和海軍航空基地において開隊(佐藤治三郎大佐)、原駐地は大和海軍航空基地に指定され、第三航空艦隊(寺岡謹平中将、木更津)に編入されます。
隊は第七基地航空部隊(第三航空艦隊司令長官指揮)に部署され、大和海軍航空基地に本部を置き同航空基地、滋賀(滋賀牧場:滋賀)、鳴尾(兵庫)、姫路(兵庫)、福知山(京都)各海軍航空基地に派遣隊を展開、航空基地の防衛・管理・作戦部隊の支援を行うなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、戦闘行動の中止を受領、進駐してきた連合軍に対応、各基地の残務処理を行いました。

乙航空隊は航空機を用いて作戦する「甲航空隊」に対し、航空機を持たず航空基地の防衛・管理・作戦部隊の支援を行う陸上部隊であり、近畿空は我が海軍が編成した最後の乙航空隊となりました。

軍令部(豐田副武大将)は決號作戰(本土決戦)に際し敵が紀伊半島田辺方面に上陸してくる可能性を予測、第三航空艦隊司令部を木更津海軍航空基地(神奈川県)から当地に推進させる計画だったと言われます。
また、大本營海軍部の推進計画もあったと言われています。
大本營海軍部の推進に伴い、当航空基地北側の奈良海軍航空隊(天理教教庁間借)東側に天皇陛下の行宮(地下壕)が設営されていました。


停戦時の航空機
・零戦(型不明):43機(6機破損)
・一式陸攻:2機(1機破損)
・紫電:2機(2機破損)
・彩雲:2機(1機破損)
・天山:1機
・彗星:3機
・中練、教練その他練習機(機種不明):67機(9機破損)
・陸軍機(機種不明):2機


主要参考文献
『近畿海軍航空隊大和基地隊 引き渡し目録(兵器、彈藥、保管目録)』(アジ歴)

『大阪・奈良 戦争遺跡歴史ガイドマップ2』(平成15年2月 日本機関紙協会大阪府本部他)

『纏向石塚古墳第9次調査 現地説明会資料』(平成18年3月 桜井市教育委員会)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(3)』(平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)

『日本海軍戦闘機隊 付・エース列伝』(昭和50年 伊沢保穂 酣燈社)

『日本海軍航空史 第2 軍備篇』(昭和44年 時事通信社)

『日本海軍航空史 第4 戦史篇』(昭和44年 時事通信社)

『海軍航空隊全史 上』(昭和63年11月 奥宮 正武)

『海軍航空隊全史 下』(昭和63年11月 奥宮 正武)

・国土地理院 空撮(昭和21年10月2日 NI-53-15-1

・Yahoo!地図

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蒼空に捧ぐ 戦闘第308飛行隊の軌跡 
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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