当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

国吉親綱の槍、歴史民俗資料館に寄贈

戦国大名・長宗我部家のファンの方ならきっと「おおおぉぉぉ~!!!」ってなるでしょうが、一般の方には「国吉親綱」と言ってもピンとこない人が多いと思います

では、一般によく知られている「国吉甚左衛門」ではどうでしょう・・・・




ムムム!?
「誰やねん」って言ったのはどいつや~

元親重臣のやり 歴民館へ 2010年02月05日09時32分



 長宗我部元親の重臣で、讃岐軍代も務めた国吉親綱(ちかつな、1530~88年)と次男の幸親(ゆきちか、未詳~1616年)が使用したと伝わるやりを、安芸郡馬路村の農業、式部静さん(60)が県立歴史民俗資料館(南国市岡豊町)に寄贈し、4日、同館で感謝状が贈呈された。4月のリニューアルオープン時に新設する「長宗我部展示室」で展示される。
 親綱は家老級の重職にあり、現在の香南市香我美町山北一帯を治めた。四国統一の際には讃岐軍代に登用されたが、豊臣秀吉の征討を受けて帰国。長男親宣の戦死を受けて次男の幸親が家督を継いだ。幸親は関ケ原の戦いによって長宗我部氏が滅亡した後、東軍側の下総堀田家に500石で召し抱えられたものの、大坂の陣が起きると、京都で閉居していた長宗我部盛親に従って参戦した。
 やりは、刃全体の長さが65・2センチと大きく、銘や柄(つか)はない。「ケラ首」と呼ばれる刃の付け根の部分が5センチと長く、戦国時代以前の特徴を備えているという。
 木の箱には、国吉家子孫の依頼で、歴史家の故・寺石正路さんが昭和12(1937)年に書いたという説明があり、「此槍ハ元國吉五左衛門秦幸親ノ父甚左衛門親綱所持ノ品ナリ」「幸親之ヲ提ゲ大坂夏陣ニ従軍シ長宗我部盛親旗下ニ在リ」などと、いわれを記している。
 所有者の式部さんは警察庁OBで、中学時代から刀剣鑑賞が趣味。5年ほど前、このやりを県内の古美術商が扱っていることを知り、「県外に散逸させたくない」との思いで購入。「いつか納めるべき場所へ寄贈したい」と考えていたところ、昨年9月、元親が家臣に与えたやりを、子孫が同館に寄贈した新聞記事を見て、自らも決意したという。
 式部さんは宅間一之館長らに「実用の極みの品ゆえ、高価なものではないが、歴史に思いをはせると気が引き締まる。岡豊城の跡地に立つこの館にあるのが一番ふさわしいと思う」などと語り、戦国時代の歴史談議に花を咲かせた。(高知新聞


県立歴史民俗資料館は長宗我部ファンとして一度訪れたことがありますが、長宗我部氏歴代の居城・岡豐(おこう)城跡にあるにもかかわらず、長宗我部氏関連の展示が僅かで残念な思いをしました

ただ、その後別件で質問メールを送ったところ、「近隣の長宗我部家累代の墓所とともに整備予定です」と書かれていたので期待していました

どうやら今年の4月のリニューアルオープンで、新たに「長宗我部展示室」ができるようなので是非訪ねたいと思います
上村(国吉)甚左衛門(親繁)、五左衛門(幸親)墓
岡豐城中腹にある元親次子・香川親和墓の横にある国吉親綱、幸親の墓
四国全土を制覇した長宗我部家の重臣の墓としては寂しい限りです・・・

●国吉 親綱 くによし ちかつな ( ? ~ 天正十六・1588 )
幼名:仙熊丸。
別称:国吉甚左衛門尉、上村備前守親綱、上村五左衛門親繁。
備前守。
国吉氏は岡豊周辺の国人領主で早くから長宗我部家に仕えた。
香美郡王子城城主。
久武、桑名、中内の三家老に次ぐ重臣として重用され、家老として三千七百石を知行した。
はじめ上村親綱と称したが、のち国吉甚左衛門と改姓した。
永禄六(1563)年、香美郡王子城を築いて城主となり、山北、山南、東川を支配した。
天正六(1578)年、長宗我部元親の讃岐平定戦に出陣し、財田城を攻略し、城代となる。
元親の讃岐中原平定後、西長尾に新城を築き城主となって讃岐の軍代となり讃岐平定戦に出陣する。
元親に検地を進言し太閤検地前に土佐の検地を実施、土佐は九万八千石という秀吉時代の表高(表向きの石高)が算出された。
天正十六(1588)年死去し、閑叟浄心禅定門と謚された。
子は上村親宣、上村幸親、山川親政、上村清親。
長子・親宣は甚左衛門の存命中に討死したため、家督は次子・幸親が継いだ。

●国吉 幸親 くによし ゆきちか ( ? ~ 元和二・1616 )
幼名・千熊丸。
別称:五左衛門、上村幸親。
備後守。
国吉甚左衛門の次子。妻は大黒主計の娘。 
土佐平定戦、讃岐平定戦で戦功があった。
慶長五(1600)年十一月、長宗我部家改易後は五百石で下総佐倉・堀田正盛に仕えるが、京で蟄居中の長宗我部盛親に宛てて知行の一部を仕送りした。
同慶長十九(1614)年、大坂の陣が始まると長宗我部盛親に従って大坂城に入城
翌慶長二十(1615)年五月六日、大坂夏の陣・八尾の戦いにおいて藤堂高虎隊と交戦した。
同慶長二十(1615)年、大坂落城後、盛親に従って京・八幡に潜伏後、長宗我部家再興を約して同士二十三名とともにに土佐に帰国する。
翌元和二(1616)年十月十七日に死去した。
子は上村親幸。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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