当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

祖父の軍歴 その8~父方の祖父

兵庫県に依頼していた父方の祖父の軍歴に関する資料がようやく到着しました
時間がかかっただけに今までに送っていただいた他の史料が書写されたものに対して、今回は原本の複写が送られてきました

※軍歴の調査方法・進め方はこちら
「祖父の軍歴 その4 調査の方法、進め方」







それによると

昭和 4年  3月10日 大阪市立扇町商業学校 卒業             
        3月12日 配属将校の行う教練の検定、合格
昭和 7年  12月 1日 幹部候補生として歩兵第七十聯隊(篠山)第六中隊に入隊
               歩兵二等兵の階級を与う
昭和 8年  2月 1日 歩兵一等兵 の階級に進む
         5月 1日 歩兵上等兵 の階級に進む              
         8月 1日 歩兵伍長  の階級に進む
        10月28日 軍曹    の階級に進む
        11月22日 終末試験に合格
        11月25日 銓衡(せんこう)会議に可決
        11月30日 現役満期
        12月 1日 予備役
昭和10年  4月 7日 勤務演習召集のため歩兵第八聯隊に応召。第九中隊 附 
        4月28日 召集解除

昭和11年  3月11日 歩兵少尉 任官                   
昭和12年  7月 8日 支那事變 勃発
昭和15年  9月15日 勅令第五八〇号に依り「少尉」に改称         
昭和16年  3月16日 臨時召集により歩兵第八聯隊(中部第二十二部隊:大阪
               =歩兵第八聯隊補充隊)
に応召            
        4月22日 中支派遣のため宇品港出発
        4月26日 南京 上陸
        5月 2日 南京 発
        5月 4日 九江 上陸
        5月 5日 九江 発
               南昌 着
        5月16日 第十中隊 附
       12月 8日 大東亜戦争 勃発
昭和17年  2月25日 南昌 第三十四師團 第一野戦病院に入院       
        5月16日 第三大隊本部勤務を命ず
        5月25日 治療退院
昭和18年  3月 9日 中尉 任官                     
        5月 1日 「軍令陸甲第三十六号 在支部隊臨時編成(編成改正)復皈(復員)要項」               により編成改正下令
        5月20日 編成着手
        6月24日 第六十五師團に転属のため江西省南昌県南昌 発
              第六十五師團に転属
        7月 1日 編成完結
        7月10日 「軍令陸甲第三十六号 在支部隊臨時編成(編成改正)復皈(復員)要項」               により編成改正の結果 
               独立歩兵第五十八大隊 第二中隊 附
               補 独立歩兵第五十八大隊 中隊長
        7月30日 移駐のため盧州 出発
        8月 1日 徐州 着
       11月 3日 徐州 発
       11月 8日 漢口 着
昭和19年  1月16日 漢口 発                      
        1月20日 徐州 着
昭和20年  2月28日 独立歩兵第五十七大隊 附              
        6月10日 本土兵備要員として徐州 出発
        6月14日 山海関 通過
        6月23日 清津 出発
        6月26日 萩 着
        7月 5日 宇都宮師管區(旧留守第五十一師團)
               第三補充隊(東部三十八部隊:高崎=歩兵第十五聯隊補充隊)第三中隊 附
        7月10日 歩兵第三百三十聯隊(高崎)に転属
        8月15日 作戦地・福岡県にて終  戦
        8月20日 大尉 任官
        9月10日 復員 下令
        9月16日 復員 完結
※青字、緑字:管理者加筆

所属部隊をまとめると
昭和 7年12月 1日 ~ 昭和 8年12月 1日:歩兵第七十聯隊 第六中隊
昭和16年 3月16日 ~ 昭和18年 7月 9日:歩兵第八聯隊 第十中隊
昭和18年 7月10日 ~ 昭和20年 2月27日:独立歩兵第五十八大隊 第二中隊長
昭和20年 2月28日 ~       6月10日:独立歩兵第五十七大隊
昭和20年 7月 5日 ~       7月 9日:宇都宮師管區第三補充隊 第三中隊
昭和20年 7月10日 ~       9月15日:歩兵第三百三十聯隊 
となります。

歩兵第七十聯隊(淀→國四九〇五)
明治三十七八年戦役(日露戦争)勝利後の国防意識の高まりによる2個師団増設に伴い明治40(1907)年9月19日に設置が決定し、兵庫県篠山町に兵営が新設、第四師團隷下の第七旅團の戦闘序列とされ、12月1日に動員が完結しました。
翌明治41(1908)年3月21日、仮屯営のあった歩兵第八聯隊(大阪)から新築の篠山に移駐、5月8日、軍旗を拝受します。

その後、中隊単位で朝鮮、北京、青島、天津に駐箚し昭和12(1937)年4月28日、満州に出征、5月7日、濱江省梨樹鎮、6月28日には依蘭県の警備に就くなか、7月7日、支那事變が勃発、9月22日、三道通方面の戦闘に参加、11月には大項山、三道通、四道河子地区の警備に従事します。
昭和14(1939)年、刀翎、土城子、永発屯の警備にあたり、7月28日には佳木斯市樺川県追分に移駐し、8月23日、同年5月にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵の命を受け、9月4日、ハンダカヤにてソ連軍と対峙、陣地構築を行うも9月13日、停戦協定成立により、10月5日、長発屯に帰還、警備に就きます。
昭和15(1940)年 8月、第四師團から新設の第二十五師團に配属の命を受け佳木斯市に集結、9月、錦州に、11月には林口に移駐します。

昭和18(1943)年12月、「ウ號演習」に参加します。
昭和20年(1945)年3月、第二十五師團が本土決戦に備えた「機動打撃師団」の1つとして、内地への転属命令を受けたため、東安省密山県から宮崎県野尻町に移駐、陣地構築を行います。
5月には鹿児島県出水に移駐、警備に当たるも6月再び野尻町に移駐し、敵上陸を想定した迎撃訓練中に終戦を迎えます。
(『兵庫郷土の篠山歩兵第七十聯隊史(1986年 広岡正蔵 フジクリエイト)』参考)



歩兵第八聯隊(淀四〇七二・中部第二十二部隊)
明治7(1874)5月14日、第10大隊と第14大隊を基幹に改編 、12月18日、軍旗を拝受し、大阪鎮台(のち第四師團)の隷下に入ります。
明治9(1976)年11月1日、萩の乱に第3大隊が出征 、 明治10(1877)年2月、西南の役に出征、 明治28(1895)年3月下旬、明治二十七八年戦役(日清戦争)に出征、占領地軍総督の隷下に入り海城付近の警備、鳳凰城付近の守備等に就き、12月下旬には台湾に渡り土匪討伐に出征します。

明治37(1904)年3月15日、明治三十七八年戦役(日露戦争)に出征、第二軍隷下として5月16日、南山の攻撃に参加、6月15日、得利寺、7月9日、蓋平、7月24日、大石橋、8月4日、海城、8月26日、遼陽の各戦闘に参加、10月10日、沙河の会戦に参加します。
明治38(1904)年3月1日からは奉天会戦に参加します。

大正3(1914)年8月21日、大正三・四年戦役(第一次世界大戦)において第二大隊が青島攻略戦に参加します。
昭和12年(1937)年4月29日、満州東安省密山付近に駐剳し、国境警備、匪族討伐に任じるなか7月7日、支那事變が勃発します。

昭和14(1939)年8月、同年5月にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵の命を受けますが、到着前に停戦協定成立により帰還します。
昭和15(1940)年7月、中支湖北省雲夢地区に移駐し第四師團は第十一軍の戦闘序列になり、10月、漢水作戦に参加します。
昭和16(1941)年1月、予南作戦、5月、江北作戦、9月、第二次長沙作戦に参加します。
11月には応城地区から上海付近南通に移動集結、第四師團は大本営直轄となり南方作戦に備え上陸戦闘訓練に従事します。

昭和17(1942)年、第四師團は第十四軍隷下となり3月6日、ルソン島リンガエン湾に上陸、4月3日、第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加し、第四師團長・北野憲造 中将より賞詞を受け、7月、大阪に凱旋します。
昭和18(1943)年9月21日、動員が下令され11月上旬、スマトラ島ベラワンに上陸、第四師團は第二十五軍隷下となりパダンの海岸地帯に陣地を構築し英印軍の侵攻に備えます。
昭和19(1944)年2月、第一大隊は印度洋上カーニコバル島に転用となります。
昭和20(1945)年1月上旬、仏印に進駐し聯隊主力はサンジャック、第三大隊はベンチャン、新編成の第一大隊はバクセにおいて3月9日からの明号作戦に参加、全仏印軍の武装を解除します。同年4月、タイ ランバン及びラーンへ移駐しビルマ方面に対する陣地構築とタイ軍処理対策を準備中に終戦を迎えます。
(『歩兵第八聯隊史(歩兵第八連隊史編纂委員会 1983年)』参考)


第三十四師團」(通称号:椿、編成地:大阪)
昭和13(1938)年10月、支那事変勃発から1年が経過、武漢三鎮、広東を攻略し、対支作戦も政略的考慮(攻略地の警備や治安維持)がなされる必要に迫られ、また対ソ連関係も勘案する必要が生じ、陸軍としても新たな作戦要綱に基づく軍制改革が行われました。
すなわち、従来の4単位制師團から軽敏な3単位師團とし、さらに師團数を増加し戦略的運用兵力の増加を図りました。

第三十四師團は『軍令甲第六號』により3月1日臨時動員下令、同時に編成された第三十三師團(弓/仙台)とともに第十一軍の戦闘序列に編入されます。
師團の概要は
・師團長:関  亀治 中将
・参謀長:佐竹 勝司 大佐
・第三十四歩兵団長:内田 孝行 少将
・歩兵第二百十六聯隊(椿6842)長:小川 権之助 大佐
~歩兵第七十聯隊留守隊(篠山)に歩兵第八聯隊留守隊(大阪)の1個大隊を加える
・歩兵第二百十七聯隊(椿6843)長:落合 鼎五 大佐
~歩兵第三十七聯隊留守隊(大阪)に  同上  
・歩兵第二百十八聯隊(椿6844)長:高橋 達吉 大佐
~歩兵第六十一聯隊留守隊(和歌山)に 同上  
※各聯隊の第三大隊(第九~十二中隊)が歩八から抽出された部隊。
・野砲兵第三十四聯隊・捜索第三十四聯隊・輜重兵第三十四聯隊が基幹となります。

4月10日、中支湖北省陽暹に上陸し、江北地区の警備に従事、12月から第百一師團と交代し南昌に移駐し同地の警備に従事します。
昭和15(1940)年の宜昌作戦、昭和16(1941)年の予南、錦江、沔陽作戦に参加、大東亜戦争勃発に伴い第三十三師團が南方に抽出されると、その警備地区も併せて守備します。
昭和17(1942)年には浙贛作戦、昭和18(1943)年には江北・江南殲滅作戦、常徳作戦に参加し、多くの戦果を挙げました。
昭和19(1944)年5月から大陸打通作戦に参加、湘桂作戦では長沙、岳麓山攻略などに従事します。
昭和20(1945)年、芷江作戦に参加、4月18日、支那派遣軍直轄部隊となり、6月、第三、第十三師團とともに南京、上海方面に向けて移動中、九江で終戦を迎えました。
(『歩兵第八聯隊史(歩兵第八連隊史編纂委員会 1983年)』参考)


第六十五師團」(通称号:専、編成地:廬州、補充担当:名古屋師管區)
・師團長:太田 米雄 中将
・歩兵第七十一旅團長:重松 吉正 少将
・独立歩兵第五十六~五十九大隊
・歩兵第七十二旅團長:村上 宗治 少将
・独立歩兵第六十、百三十四~百三十六大隊
・師団工兵隊・師団輜重隊・師団通信隊が基幹となります。

昭和18(1943)年5月、独立混成第十三旅団(通称号:倭、編成地:安徽省淮南、補充担当:熊本)を基幹として名古屋師管で編成された諸部隊により安徽省廬州で編成されました。
第十三軍の戦闘序列に属し旅團時代から徐海道地区の廬州方面で新四軍討伐、警備に当たりました。
9月、第十七師団が徐州から南方に抽出されると、廬州に加えて徐州の警備も担当し、同地で終戦を迎えました。
(『帝国陸軍編成総覧(1993年 外山操、森松俊夫編著 芙蓉書房出版)』参考)


独立歩兵第五十八大隊(嵐→矛→専七九九六)
昭和14(1939)年1月14日に独立混成第十三旅團の構成部隊として安徽省淮南(補充担当:熊本、大隊長:古西秀次中佐)で独立歩兵第五十六~六十大隊とともに編成され、第百十六師團(中支那派遣軍戦闘序列、通称号:嵐、編成地:京都、補充担当:京都師管區、留守第十六師團により編成)に隷属しました。

編成後は中支方面の警備に当たるとともに、当方面の様々な作戦に従事しました。
昭和14(1939)年11月1日、大隊長・三浦増穂中佐着任、
昭和15(1939)年1月11日、大隊長・田川潤一郎中佐着任、
昭和16(1941)年8月1日、大隊長・古西秀夫中佐着任、
昭和17(1941)年1月6日、大隊長・柄田節中佐着任、
昭和17(1942)年2月2日、独立混成第十一旅團を基幹に第六十師團(通称号:矛、編成地:蘇州、補充担当:佐倉)が編成されるとその隷下に入り、上海から蘇州にかけての警備、治安維持に従事します。
昭和18(1943)年5月1日、独立混成第十三旅團が第六十五師團(詳細は先記)に編成替えされるとその隷下に編成された歩兵第七十一旅團隷下(補充担当:名古屋、旅團長:重松吉正少将)に入り、廬州方面で新四軍討伐、警備に当たりました。
9月、第十七師団が徐州から南方に抽出されると、廬州に加えて徐州の警備も担当し、同地で終戦を迎えました。


独立歩兵第五十七大隊(嵐→矛→専七九九五)
前記の「独立歩兵第五十八大隊」と終始行動をともにしました。
大隊長は昭和14(1939)年1月14日~五十君 正弘中 佐
昭和15(1940)年12月2日~牛方 一角 中佐
昭和17(1942)年8月1日~加川 勝水 大佐
昭和19(1939)年6月5日~山崎 盛始 少佐
昭和?     年?月?日~星野 輝夫 大尉
が務めました。
(『帝国陸軍編成総覧(1993年 外山操、森松俊夫編著 芙蓉書房出版)』参考)


宇都宮師管區
第五十一師團(通称号:基、編成地:宇都宮師管區)が管轄する区域(茨城、栃木、群馬)のことで、水戸連隊区、宇都宮連隊区、前橋連隊区を管掌しました。

第三補充隊
宇都宮師管區の前橋聯隊区(旧高崎聯隊区)の歩兵第十五聯隊補充隊(東部三十八部隊:高崎)のことで、歩兵第十五聯隊の補充、歩兵第百十五、百七十三、二百十五、二百三十八、二百八十二、三百三十、四百三十五、五百二十一聯隊の補充、編成を担当しました。


歩兵第三百三十聯隊(赤城二七七三三)
昭和20(1945)年5月23日に本土決戦第三次兵備として編成された11個の「沿岸配備師団」の一つ(同時に「機動打撃師団」8個編成)で、宇都宮で編成された「第三百五十一師團(通称号:赤城)」(師團長:藤村 謙 中将、参謀長:西山 勝 中佐/作戦地:福岡県古河/第十六方面軍 第五十六軍隷下)に隷属した部隊で、昭和20(1945)年6月5日に歩兵第三百二十八聯隊(宇都宮で編成、聯隊長:勝屋 福茂 大佐)、歩兵第三百二十九聯隊(水戸で編成、聯隊長:村岡 安 大佐)とともに高崎で編成(聯隊長:大野 謹之助 中佐)され、師團の作戦地である福岡県に配備され敵上陸部隊を迎撃すべく訓練に任じ、同地で終戦を迎えました。


第十六方面軍」は昭和20(1945)年2月6日に、主に九州方面を作戦地域として「大陸命千二百四十四號」をもって第十六方面軍戦闘序列を令せられ、防衛総司令部の戦闘序列に編入されました。
その後4月8日に新設の第二総軍の戦闘序列に編入され、同時に隷下に第五十七軍が編入されます。
さらに4月21日に第五十六軍が編成、5月に台湾から第四十軍が編入され米軍との本土決戦に備えましたが、交戦することなく終戦を迎えました。


本土決戦兵備は昭和20(1945)年2月28日の本土決戦第一次兵備(沿岸配備師団16個師団、1個独立混成旅団新設)、4月2日の本土決戦第二次兵備(機動打撃師団8個、独立戦車旅団6個新設)、5月23日の本土決戦第三次兵備(機動打撃師団8個、沿岸配備師団11個の計19個師団、独立混成旅団15個新設)と行われ、53個師団・2個戦車師団・4個高射師団・22個混成独立旅団・7個独立戦車旅団・3個警備旅団の延べ315万人が、本土決戦のための防衛戦力として配備されました。

沿岸配備師団は、敵上陸にあたり構築した横穴陣地やトーチカからの攻撃によって敵部隊を長時間拘束し、内陸部に配置された機動打撃師団などの主力部隊の攻撃を容易にする任務を持ち、任務の特徴から俗に「はりつけ師団」といわれました。
沿岸配備師団に配属された4個歩兵連隊のうち、1個連隊のみは反撃連隊と呼ばれる異なった編制を持ち、馬匹が多めに配備されて機動性が確保されていましたが、第三次兵備に至り師団は3個連隊編成となり、反撃力の付加は行われず、急激な兵員増加のため通常の武装も追いつかなかった状態でした。

一方の機動打撃師団は沿岸より少し奥地に配備され、敵上陸の報とともに起動を開始、沿岸配備師団が敵の侵攻を防いでいる戦場に急行し決戦をかける任務を持ち、3個歩兵連隊のほか、野(山)砲連隊、迫撃連隊や速射砲機関砲等の火力、攻撃力を重視し敵の水際撃滅を目指した師団でした。


大東亜戦争以前の行動は「軍隊手帳」の記載内容から何となく分かっていたのですが、その後の行動は今回初めて知ることができました。
遺品の写真を見ると支那の兵営で撮影したものが多く、水牛に乗ったものや支那服を着て拳銃を持ったモノ、景色も多くあり、さほど戦闘に参加していないように感じていた(実際「治安(警備)師団」と言われる部隊に属している)のですが、戦争末期の昭和20年になると本土決戦要因として九州に配属、最も危険な「沿岸配備師團」に属していました。

「祖父の軍歴 その6」でも述べたように、我が国は敵の本土上陸を昭和20年の秋ごろと予測しており(米軍の「ダウンフォール作戦」:日本本土上陸作戦実施時期とほぼ一致)、戦争があと1年長引いていたら(敵の九州攻略作戦は11月~翌21年3月の計画)僕はこの世に存在しなかったかも知れません・・・
なにはともあれ天皇陛下のご聖断により戦争が終結、祖父も無事に復員し、僕の父親を授かりました
祖父は父が中学生の時に癌で亡くなっているので、写真でしか見たことありませんが優しそうな人です

また、墓参りに行こうと思います
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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