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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第四聯隊 ・ 捜索第四聯隊

大阪府堺市北区長曽根町に所在する近畿管区警察学校は騎兵第四聯隊の跡地にあります。

騎兵第四聯隊は捜索第四聯隊に改編され、兵営では後に騎兵第百四大隊捜索第三十四聯隊騎兵第七十五聯隊第四十四師團速射砲隊第四師團制毒訓練所が編成されます。
騎兵第四聯隊 B 北東から(堺)
▲警察学校内に遺る建物

【探索日時】
平成21年2月26日
平成23年12月14日

【更新情報】
平成24年10月2日:大幅改訂(写真追加、書式変更、「探索記」分離)





騎兵第四聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
騎兵第四聯隊 騎四、輜重四、第二陸軍病院 国土地理院(230220)(堺)
▲昭和23(1948)年2月20日の長曽根町周辺の空撮(NI-53-15-5
 停戦直後から米軍キャンプとして大幅に改変されているので、余り参考になりません。

騎兵第四聯隊 騎四、輜重四、陸軍病院 騎四、輜重四、陸軍病院(堺)
▲現在の地図に施設を転写したもの
 境界は参考資料、空撮、遺構から判断しましたが、明確な史料が無く一部管理人の想像です。

※緑文字が当記事の紹介施設
① 騎兵第四聯隊
② 輜重兵第四聯隊
③ 馬糧倉庫
④ 大阪陸軍病院 金岡分院
⑤ 金岡陸軍練兵場
⑥ 堺憲兵分隊
名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
騎兵(のち捜索)第四聯隊
昭和4(1929)年4月28日、第四師團経理部は大阪府八上郡金岡村長曽根(現、堺市)の民有地を騎兵・輜重兵聯隊移転用地として買収を開始、昭和5(1930)年5月23日、142,273坪468,242円で買収、兵営の建築を開始します。
昭和7(1932)年2月、兵舎が竣工、3月8日、第四師團経理部から騎兵第四聯隊に引き渡され、16日、騎兵第四聯隊が大阪市東区山小橋町(現、大阪市天王寺区真田山町)から転営してきます。

昭和12(1937)年4月、第四師團の滿洲駐箚に伴い騎兵第四聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、騎兵第四聯隊・同補充隊に復員下令、騎兵第四聯隊は捜索第四聯隊に改編、8月、聯隊は兵営に凱旋します。
同年、捜索第四聯隊兵営内に第四師團制毒訓練所が編成されます。
昭和18(1943)年10月8日、捜索第四聯隊のスマトラ島出征後、捜索第四聯隊補充隊が編成、昭和20(1945)年2月28日、捜索第四聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區歩兵第一(旧歩兵第八聯隊補充隊)・同第二(旧歩三十七)・同第三補充隊(旧歩六十一)の各騎馬中隊に転属、兵営は大阪師管區制毒訓練所が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月25日、米第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、10月、兵営は米軍に接収され「Camp Kanaoka」と改称、昭和33(1958)年、米軍の撤退に伴い兵営跡は大蔵省に返還、現在は近畿管区警察学校、長尾中学校などになっています。


A 兵舎
漆喰塗り2階建ての兵舎が遺っていました。
警察学校の倉庫として使用されていましたが、平成23(2011)年4月に惜しくも破壊されてしまいました。
騎兵第四聯隊 A 北から(堺)
▲敷地内は撮影不可のため門前から撮影。
 非常に分かり辛い写真ですが、白い建物の影から僅かに兵舎が見えました。

騎兵第四聯隊 A(左)・B(右)・C(手前)北から(堺)
▲塀越しに撮影しましたが、樹木が生い茂ってこれまた見にくい写真です。

ある講演会で内部の写真を見た事がありますが、保存状態は良く★印の彫られた木製手摺なども完存していただけに残念です。


B 建物
当時の用途は不明ですが、現在は倉庫として使用されており現在のところ破壊の予定は無いそうです。
騎兵第四聯隊 B 北東から(堺)
▲塀越しに撮影
 建物外周にはコンクリートで腰板が付されていますが、後付けでしょうか?

騎兵第四聯隊 B 南から(堺)
▲循環器センター側から撮影

間近で見学してみると、建物は陸軍時代の特徴を示す物(鬼瓦、床下ガラリの★印など)は無く当時の物か不明でしたが、壁をよく見ると「連合国軍接収番号」と思われる数字「056」が記されている事から陸軍時代の建物の様です。


C 建物
当時の物と思われる物置の様な小型建物が遺されていました。
※上掲「A兵舎」の写真の赤い屋根の小型建物

Aの建物と同時に破壊されてしまいました。


営門付近
騎兵(捜索)第四聯隊の営門は長尾中学校の西門付近にありました。
昭和55(1980)年11月の大阪騎兵会戦没者慰霊祭の記念写真には門柱2本が写っていますが、その後破壊されてしまい現在は跡形もありません。
騎兵第四聯隊 営門跡(痕跡無し)(堺)
▲現在の営門付近

騎兵第四聯隊 騎兵第四聯隊 営門(堺)
▲騎兵第四聯隊営門(撮影時期不明)


見学について
上記遺構は近畿管区警察学校内に遺されており、事前連絡を行い警察学校の予定に即して認可されます。
ただし警察学校と言う特性上、写真・動画撮影は一切できません。
かつては敷地外周の塀の外側から撮影するのは問題ありませんでしたが、現在は外周の塀上に更に目隠し塀が建てられてしまったため撮影は不可能に近いです。


衛戍・編成部隊
騎兵第四聯隊(淀四〇七六、中部第二十五部隊)
捜索第四聯隊(淀四〇七六、中部第二十五部隊)
明治21(1888)年、陸軍省は騎兵第四大隊の新設を決定、12月、騎兵第一大隊(東京)において教育された1個中隊が2分(3個小隊づつ)され、騎兵第四大隊本部・第一中隊(大高坂正元少佐)と騎兵第六大隊本部・第一中隊が編成され、明治22(1889)年11月28日、東成郡鶴橋村小橋(現、真田山公園)に移駐、第四師團隷下に編入されとます。

明治25(1893)年、第二中隊が編成され大隊編成完結、明治28(1898)年4月、明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発、12月4日、騎兵第四大隊大隊、同補充中隊の動員完結、明治28(1895)年3月30日、第四師團とともに大阪を出発しますが、講和条約締結のため戦闘に加わる事無く遼東半島の警備にあたり、12月28日、大阪に帰還、復員時に補充中隊を編入し第三中隊を編成、騎兵第四聯隊に改編されます。
明治29(1899)年11月19日、軍旗を拝受します。
騎兵第四聯隊軍旗『日本騎兵写真集』(眞田山・騎兵第四聯隊)
▲騎兵第四聯隊軍旗

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発すると、3月15日、師團とともに第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され遼東半島に上陸、金州、南山の戦いでは第二軍の背後を警戒、第二軍の反転北進に伴い第四師團の前方を進撃、得利寺、熊岳、蓋平、大石橋、海城の戦い、遼陽、沙河の各會戰に参加し、また騎兵第一旅團(秋山好古少将)に属し捜索、警戒、連絡に任じます。
3月10日、奉天會戰において、13日、第四師團を離れ秋山支隊(秋山好古少将)に属しロシア軍を追撃、鐡嶺、開原、昌図北方に進撃、4月、第四師團に復帰、明治38(1905)年10月、凱旋します。

大正11(1922)年7月、大正十一年軍備整備要領(第一次山梨軍縮)により2個中隊に改編されます。

昭和7(1932)年3月16日、眞田山の兵営は狭隘だったため、堺市曾根(現、長曾根町)に新兵営を建設、移転します。
騎兵第四聯隊 騎兵四・金岡移駐(堺)
▲周辺住民の歓呼の声に迎えられて新築兵舎に入る騎兵第四聯隊

昭和12(1937)年2月、第四師團の滿洲駐箚が決定、4月、渡滿し三江省佳木斯(チャムス)に屯営し国境警備、匪族討伐に任じます。
12月、聯隊は第八師團(前田利為中将、弘前)の指揮下となり東部国境を警備、昭和13(1938)年末、第四師團に復帰し、昭和14(1939)年2月、饒河付近の討伐に参加します。
8月29日、第四師團は同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵が決定、聯隊は鉄道によりコロンバイルに前進しますが、到着前の9月15日、停戦協定成立により佳木斯に帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、第四師團は支那派遣のため臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月、聯隊は中支応城西方皀市に移駐、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、漢水西方に進出します。
昭和16(1941)年1月26日、予南作戰、4月9日、大洪山作戰、5月5日、江北作戰、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり上海付近に移動集結、聯隊は共同租界を占領し警備に任じます。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團は第十四軍(本間雅晴中将)隷下となり、3月6日、第四師團とともにルソン島リンガエン湾に上陸、聯隊は戦闘に加わる事無くマニラ西方のマッキンレイの警備に当たり、6月12日、第四師團に復員下令、同時に騎兵第四聯隊は捜索第四聯隊に改編、8月、大阪に凱旋し本部・乗馬・装甲車各1個中隊(平時編成)の捜索第四聯隊(今村安大佐)に改編され、軍旗を奉還します。

昭和18(1943)年9月22日 、第四師團に動員下令、26日、捜索第四聯隊に動員下令、10月3日、動員完結(乗車2個・装甲車2個中隊・通信小隊)、6日、スマトラ島派遣のため大阪を出発、8日、宇品港を出港、台湾高雄、海南島、昭南島(昭南島)を経由、11月8日、スマトラ島東岸べラワンに上陸、12日、中部西岸のタバヌリ州シピロ付近の警備、地形・道路偵察、食糧増産のため農耕に任じます。
昭和19(1944)年6月14日、第二中隊(堀江深晴中尉)はパレンバン州カランダローに移駐、聯隊は獨立混成第二十六旅團(河田槌太郎少将、弘前)の指揮下に入ります。
23日、第一中隊(池田耕太郎大尉)はカランダローに移駐し、地形偵察、対空挺戦、各種遊撃戦訓練に任じます。
11月13日、聯隊はシャンタルに集結し、第四師團に復帰、東海岸州ペマタンシャンタル付近の警備に当たります。

昭和20(1945)年1月26日、緬甸方面の戦局悪化に伴い第四師團は第七方面軍(土肥原賢二大将、昭南島)隷下となり、28日、第三十九軍(中村明人中将、バンコク)に編入、聯隊は1月31日、スマトラ島パカンパルを出港、2月28日、仏印に進駐し第三十八軍(土橋勇逸中将、サイゴン)の指揮下に入り、3月1日、サイゴンに移駐、3日、聯隊から特設自動車第三十七中隊が編成され、9日、獨立混成第七十旅團(小田正人少将、東京)の指揮下に明號作戰に参加、全仏印軍の武装を解除します。
4月1日、サイゴンを出発、3日、第四師團に復帰、23日、タイ国プランチンプリ洲ナコンナヨークに集結、5月2日、聯隊主力はタイ国北部のランパンに移駐、27日、第三・第四中隊はピサヌロークの警備にあたり、8月3日、ランパンに移駐、タイ国軍の武装解除準備中の8月17日、停戦を迎えます。
12月15日、ナコンナヨークに移動し、昭和21(1946)年4月23日、復員下令により、5月31日、バンコクを出港、6月21日、浦賀港に上陸し、23日、復員完結します。


騎兵第百四大隊(通称号不明)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により騎兵第四聯隊留守隊の担当で編成(高橋保和中佐、本部・2個乗馬中隊・1個機関銃小隊)され、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)隷下となります。

編成完結後の7月、大阪を出発し渡滿、直後に張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え師團とともに大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、8月11日、停戦となり大連に帰還します。

9月、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となり、10月、大連を出港、南支に向かい、10月22日、第十八師團(牛島貞雄中将、久留米)とともにバイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加します。
11月9日、従北作戰に参加、従北付近に屯営し、支那第四戰區軍と交戦しつつ警備と治安維持に従事します。

昭和14(1939)年4月、第百四師團の九江作戰に参加、広東西南デルタ地帯の鶴山・中山・新会付近の敵拠点に対し敵情偵察、敵腹背へ機動して牽制する等し師團の敵拠点攻略に大きく貢献し古荘幹郎中将より感状を授与されます。

9月1日、第二十一軍の花県作戰に参加、大隊は歩兵1個大隊、山砲兵1個小隊を配属され師團左翼隊として花県北方山地に3線に渡る敵陣の攻略に向かいます。
払暁から攻撃を開始しますが第三線陣地の攻略は日没後となり夜間に追撃に移行、険峻な地形と暗夜の追撃に山砲が次いで歩兵が脱落してしまいます。
大隊は単独で敗敵を撃破しつつ進撃しますが、遥か東方からの砲声に大隊長・高橋中佐は師團主力より進撃が遥かに遅れていると感じ、また配属された歩兵・山砲兵が脱落したのに責任を感じ、2日、遂に自決してしまいます(後任は杉木守中佐)。
師團も険峻な地形と敵の抵抗に進撃は遅滞、6日、龍頭墟付近に進撃し敵陣地を撃破、9日、作戦は終了します。
11月~昭和15(1940)年1月、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に参加、北江右岸沿いに広東北方の英徳を攻略、捜索及び師團の集中援護に任じ敵の重要書類を押収し軍の作戦遂行に大きく寄与します。
しかし、広東南西の賓陽付近に敵の大軍が侵攻して来たため軍は反転、大隊は獨立支隊として進行路側面の清遠県城を攻略し作戦を有利にし岡村寧次中将より感状を授与されます。

2月9日、第二十一軍が廃止され、第百四師團は南支那方面軍(安藤利吉中将)戰闘序列に編入、5~6月、南支那方面軍隷下の第二十二軍とともに良口作戰、昭和16(1941)年9~10月、第二十三軍(今村均中将、6月28日、南支那方面軍を改編)の四邑北エ作戰などに参加します。

昭和17(1942)年5~9月、師團とともに第二十三軍の従源作戰に参加します。

昭和18(1943)年2月、広州湾進駐作戰に参加します。
5月1日、『軍令陸甲第三十六號』による在支師團の編成改正により騎兵第百四大隊は解隊、人員・馬匹は第百四師團司令部、及び各歩兵聯隊に乗馬小隊として分属されました。


捜索第三十四聯隊(通称号不明)
昭和14(1939)年2月、騎兵第四聯隊留守隊に臨時動員下令(守岡正中佐、乗馬・装甲車・自動車各1個中隊)、3月1日、乙編成師團として編成完結した第三十四師團(關亀治中将、大阪)に隷属、4月、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。
4月、中支湖北省陽暹に上陸し、湖北省黄坡の警備に従事、八里湾、長嶺崗付近の戦闘に参加、12月、江西省南昌に移駐し支那第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備に従事します。

昭和15(1940)年5~6月、支那軍の夏季攻勢を受け損害が出てしまいます。

昭和16(1941)年3~4月、師團とともに予南、第一次錦江、沔陽作戰に参加します。
12月24日、第十一軍は第二次長沙作戰を下令、師團は12月~昭和17(1942)年1月、支作戦である第二次錦江作戰、贛(カン)江作戰に参加します。

昭和17(1942)年4月18日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため5~8月、浙贛作戰に参加、聯隊は第十一軍の東進基幹師團として位置づけられた第三十四師團の偵察に任じ進撃を援護、南昌から東進し横峯で第十三軍(澤田茂中将)と連絡打通、敵飛行場、軍事施設、鉄道施設を破壊、軍需物資を押収し転進しました。

昭和18(1943)年5~6月、第十一軍の江北・江南殲滅作戰、10月~昭和19(1944)年1月、常徳殲滅作戰に参加しました。
5月1日、『軍令陸甲第三十六號』による在支師團の編成改正により捜索第三十四聯隊(江口清助中佐)は復帰、人員・馬匹は第三十四師團司令部、及び各歩兵聯隊に乗馬小隊として分属、装甲車中隊は第三十四歩兵團装甲車中隊として編合されました。


騎兵第七十五聯隊(國四九〇六、中部第五十五部隊)
昭和15(1940)年7月、騎兵第四聯隊補充隊の担当で編成(古澤末俊中佐、本部・2個乗馬中隊・1個機関銃中隊、軍旗無し)され渡満、16日、滿洲において編成された第二十五師團(赤柴八重蔵中将、林口)隷下となります。

10月22日、第二十五師團は第五軍(波田重一中将、東安)に編入されますが、昭和16(1941)年7月15日、『特臨編第三號』により動員下令、戦時編成に改編され、9月19日、第二十軍(關亀治中将、鶏寧)に編入されます。

昭和19(1944)年2月21日、『命第四十九號』により第二十五師團のサイパン島派遣が決定、先遣隊として師團隷下の第二十五歩兵團司令部(岡芳郎大佐)・歩兵第四十聯隊第三大隊を基幹として第一派遣隊が編成、3月19日、サイパン島に進出します。
しかし、戦局の悪化に伴い第二十五師團のサイパン島派遣は中止され、5月22日、第一派遣隊は『軍令陸甲第五十八號』により獨立混成第四十七旅團に改編、米軍上陸部隊を迎え撃ち勇戦敢闘、6月27日頃、玉砕してしまいます。

昭和20(1945)年3月15日、『軍令陸甲第千二百七十四號』により決號作戰(本土決戦)に向け、第十六方面軍(横山勇中将、福岡)戦闘序列に編入され宮崎県小林町付近において陣地構築中、8月15日、停戦を迎えました。


第四十四師團速射砲隊(橘一四一五六)
昭和19(1944)年7月10日、捜索第四聯隊補充隊において臨時動員(鮫島良武少佐)、編成完結後、4月4日に留守第四師團から改編された第四十四師團(関原六中将、大阪)に編入、堺中學校に移駐し河内平野、奈良、和歌山、京都において教育訓練を実施します。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力は第十二方面軍戦闘序列に編入され作戦地である関東平野に進出、4月、速射砲隊堺市を出発し師團を追及、茨城県行方郡鉾田町に集結、九十九里浜の上陸が予測される敵迎撃のため海岸線から1km程の山間部に陣地構築を開始、さらに鉾田町力員において陣地強化をはかる中、8月15日、停戦を迎えます。
速射砲隊は引き続き陣地構築を実施しますが、9月13日、復員下令され、作業を中止し、18日、復員完結します。


主要参考文献
『騎兵第四聯隊史』(昭和56年11月 大阪騎兵会本部)

『日本騎兵史 下』(昭和45年3月 佐久間亮三・平井卯輔 原書房)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『日本軍機甲部隊の編成・装備 (2)』(平成21年10月 ガリレオ出版)

『戦争はあかん!庶民の記録 第1集』(平成21年 金岡ピースメモリクラブ)

・国土地理院昭和23(1948)年2月20日の長曽根町周辺の空撮(NI-53-15-5)

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こんにちは!

カキコ、ありがとうございます!

貴ブログ、実は何度か拝見させていただいた事があります。
非常に簡潔で、分かりやすく見習いたい次第です。
なぜか、私のブログはあれもこれも書いてしまい、長文になりがちなので・・・(汗)
大正飛行場は、私も三年前、一昨年、去年と自衛隊の基地祭等に合わせて探索しているのですが、放置、記事にできてない次第です。
一応、ある程度探索、資料も集まったので一段落したら記事にしようと思います。
その他の戦跡に関してもブログ開設以前の物も含め、かなり放置しているので随時アップ予定です。
獣医資材支廠の記事、楽しみにしています!

私の直近では深草、伏見の第十六師團関連を攻める予定です。
戦跡に関しては史料が少なく、不明な点も多いので間違った記事もあると思うので、
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

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Re: No Title

kanさま、コメントありがとうございます。
伏見は数年前に伏見城の遺構が発掘された際の現地説明会(城郭も好きなもので)に行った際に軽く探索したのですが、下調べを全くして行かなかったので中途半端なモノとなってしまいました。
この度再挑戦を予定していますが、最近の天候に泣かされています・・・
kan様のブログを拝察すると、当時は完存していた石垣がだいぶ破壊(石垣上の塀は撤去)されているのを知りました。

陸上自衛隊宇治駐屯地と言えば東京第二陸軍造兵廠宇治製造所ですね。
実は自衛隊記念祭(10月)に合わせて3度ほど探索してみました。
ここは東の火薬庫地区、北側の分工場地区(軍用側線など)にも多少の遺構があり、広大な敷地のため結構時間がかかりますね。

京大内は有名な煉瓦建物2棟と隣接して迷彩の施されたコンクリート建物2棟がありますね。
申請を知らず当日にアポ無しで行って守衛に無理を言って見学した苦い思い出があります(笑)

大阪にお越しでしたらご存知かも知れませんが、東淀川区の高射砲陣地が秀逸です。
高架型砲座3基に加え指揮所まで残っています。
また、お暇なときに拙ブログを除いて頂き、ご意見いただければ光栄です。

No Title

黄檗の遺構を紹介しましたが、まさに釈迦に説法で恥ずかしく思っています。

ご紹介いただいた、東淀川高射砲台は行っています。

さて、私が旧軍遺構を訪ねる理由は、やはり、世界唯一、正義の軍隊である日本軍が好きだからです。
御気付きでしょうが、私はブログで旧軍遺構と表現しています。
多くは戦争行遺跡と表現する人が多いようですが、原爆ドームやひめゆり壕、空襲の痕、本土決戦陣地などは戦争遺跡と言っても間違いないと思います。しかし、明治期に作られた司令部や門柱、将校集会所や偕行社なども戦争遺跡と分類されるのは納得がいきません。
また、由良要塞や各地に残る旧軍の遺構を負の遺産として登録しよう、とする運動も目にした事が有ります。負の遺産?冗談じゃありません!
なぜに旧軍遺構や砲台跡が負なんでしょうか?
その運動をしている人たちは、日本軍=戦争、日本軍=悪、その日本軍が関係している物だから負の遺産と位置付けているようです。

私のささやかな抵抗として、旧軍=戦争ではない、ので戦争遺跡との表現は使っておりません。
私の信条として思想は表現していませんが、盡忠報國さんと同じ考えです。
もし、よろしければ相互リンクをお願いできませんか?
また、今回は非公開のコメントにしましたが次からは、公開させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

こんばんは

東淀川はやはり行かれていましたか!(汗)

僕もkanさんと考えはまったく同じです。
小学生の頃から帝国陸海軍に興味を持ち、結論として世界最高の規律ある素晴らしい軍であるという結論に達しました。
今までは戦史・兵器を調べるのが主だったので遺構探索を始めたのは数年前ですが、偉大な先人たちが国を護るために創った施設を間近に触れ、感銘を受けたのが大きかったと思います。

戦争遺跡の表現は僕も同感で、かなり違和感があり、僕なりに国を護るために戦った跡と言う事で「戦跡」としてみました。
旧軍の歴史を貶めようとする勢力が、保存に熱心なのはありがたいのですが、彼らが祖国を外敵から護るために構築した軍の遺構を「負の遺産」などと言うのは本当に論外です。
僕の場合、かなり記事中に彼らへの反感が出てしまっていますが・・・(笑)

相互リンクの件、了解しました!
こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。

おお(^O^)

なるほど 昔は広い駐屯地だったのですね あちこちの役所に戦後分割されなければ もしかしたら37連隊がここに来たのかも(`∇´ゞ んじゃ信太山が空いてしまうですな(?_?) 笑 金岡公園よくいきますが そういや塀がありましたね めちゃ見覚えがあります 旧軍の遺構だったんですね 近々改めて見に行こうとおもいます(^O^) 参考になりまくりですわあ

はじめまして

家の近くなのでよく遊びにいったりしていました!
実は…の話なのですが、体育館横の駐車場のさらに中学校側の空き地には、防空壕が残ってたりします。
ですが今はマンション建設のためなくなってしまっています。

はじめまして

jskyさん、こんばんは。
コメント、ありがとうございます。

あの、広大な空き地・・・私も怪しいと思っていたのですが、やはりかつて遺構があったとは!
防空壕はもう埋められてしまったとは残念です。

当日は時間が無くサラッと流した程度でしたが、いつも情報を頂くkanさんによると、結構遺構が残っているようで、再探索の必要があるかなと思っています。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
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