当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第四十三聯隊 (旧歩兵第六十二聯隊)

徳島県徳島市には歩兵第四十三聯隊の兵営がありました。
兵営は先に歩兵第六十二聯隊、後に歩兵第百四十三聯隊歩兵第二百三十五聯隊歩兵第四百五十聯隊が編成されます。

また隣接して歩兵第二十二旅團司令部徳島陸軍練兵場徳島陸軍射撃場、東側に徳島憲兵分隊徳島聯隊區司令部、兵営南側に徳島陸軍歩兵作業場がありました。
歩兵第四十三聯隊 ア 歩兵聯隊跡 碑と馬魂碑(徳島)
▲歩兵聯隊跡碑と馬魂碑

【探索日時】
平成22年2月25日、平成25年3月26日

【更新情報】
平成27年6月28日:大幅改訂(遺構追加、地図訂正、加筆訂正)





歩兵第四十三聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
歩兵第四十三聯隊 陸地測量部 大正9(徳島)
▲大正9年頃の地図(大正9測図 大日本帝國陸地測量部)

歩兵第四十三聯隊 国土地理院 NI-53-21-8 22108(徳島)
▲昭和22(1947)年1月8日の徳島市周辺の空撮(国土地理院 NI-53-21-8)
 ※空撮は加工しています。

歩兵第四十三聯隊 歩四十三(徳島)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
歩兵第四十三聯隊 兵営
②徳島陸軍病院
歩兵第二十二旅團司令部
徳島陸軍練兵場
徳島陸軍射撃場
徳島憲兵分隊
徳島聯隊區司令部
徳島陸軍歩兵作業場

⑨徳島陸軍墓地
※名称については一般的な昭和13(1938)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(アルファベット・カタカナ等は上掲地図の表記)
① 歩兵第四十三聯隊 兵営
明治38(1905)年、四国4県の中で徳島県には唯一聯隊が設置されておらず、徳島出身の壮丁は善通寺の歩兵第四十三聯隊に入営しなくてはならず不便な事から、徳島県は聯隊の誘致活動を実施します。
明治40(1907)年、徳島縣名東(みょうどう)郡加茂名村蔵本(現、徳島市蔵本町)に兵営の設置が決定しますが、当時、徳島県は吉野川改修工事中で資金が不足、政府からの補助により用地買収を実施します。

明治41(1908)年10月、大林組の施工により聯隊・大隊本部、兵舎、隣接して旅團司令部、衛戍病院、練兵場、城東村(現、城東町)に射撃場などが竣工、11月20日、大阪府天下茶屋の仮兵営から歩兵第六十二聯隊が転営してきます。
歩兵第四十三聯隊 兵営(徳島)
▲歩兵第六十二聯隊兵営 全景(南西から)

明治42(1909)年9月25日、旅順口警備のため歩兵第六十二聯隊留守隊が編成、明治44(1911)年4月20日、歩兵第六十二聯隊の復員に伴い、同留守隊は復帰します。
大正9(1920)年7月6日、シベリア出兵に出征、歩兵第六十二聯隊留守隊が編成、大正11(1922)年5月28日、歩兵第六十二聯隊の復員に伴い、同留守隊は復帰します。
大正14(1925)年3月7日、軍令陸甲第一號により歩兵第六十二聯隊は廃止(宇垣軍縮)され、大正14(1925)年5月3日、歩兵第四十三聯隊が善通寺から転営してきます。

昭和7(1932)年2月27日、上海事變に出征、歩兵第四十三聯隊留守隊が編成、3月28日、歩兵第四十三聯隊の復員に伴い、同留守隊は復帰します。
昭和12(1937)年8月15日、第二次上海事變に出征、歩兵第四十三聯隊留守隊が編成、昭和13(1938)年3月24日、歩兵第四十三聯隊の復員に伴い、同留守隊は復帰します。
12月14日、歩兵第四十三聯隊は満州・奉天に移駐、歩兵第四十三聯隊留守隊が編成されます。

昭和15(1940)年8月3日、歩兵第四十三聯隊留守隊は歩兵第百四十三聯隊に改編、昭和16(1941)年9月24日、歩兵第百四十三聯隊に動員下令、歩兵第百四十三聯隊補充隊が編成されます。

昭和20(1945)年2月28日、留守第五十五師團司令部は善通寺師管區司令部に改編、歩兵第百四十三聯隊補充隊は同歩兵第二補充隊(中部第百五十部隊)に、6月12日、善通寺師管區司令部の四國軍管區司令部への改編に伴い、同歩兵第二補充隊に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月21日、米第6軍第24歩兵師団(ウッドルフ少将、12,000名)が三津浜港に入港、22日、将兵の上陸、26日、物資の揚陸が完了、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設、四国地方に進駐を開始します。

兵営は米軍工兵隊に接収され、軍需品の処理ののち大蔵省に返還(時期不明。昭和21年頃か?)、四国財務局の管理下に置かれ、昭和22(1947)年9月、戦災により焼失した徳島医学専門学校(昭和24年5月、徳島大学に統合、医学部に改編)が兵営跡地に移転し、現在に至ります。

遺構は何も遺されていません。
歩兵第四十三聯隊 営門(徳島)
▲歩兵第四十三営門(撮影時期不明)

歩兵第四十三聯隊 営門付近(立駐の中央付近)(徳島)
▲現在の営門付近
 もはや入口ですらありません・・・


③ 歩兵第二十二旅團司令部 (旧歩兵第十旅團司令部)
明治41(1908)年10月、大林組の施工により聯隊・大隊本部、兵舎、衛戍病院、練兵場、射撃場とともに竣工、11月20日、松山から歩兵第十旅團司令部が転営してきます。
大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)に伴い、3日、歩兵第十旅團司令部は善通寺に、歩兵第二十二旅團司令部が徳島に転営してきます。

昭和14年10月2日、歩兵第二十二旅團司令部は復帰しますが、建物は解体された様です。
また、、歩兵第二十二旅團司令部の動員に伴い、留守旅團司令部が編成されたと思われますが、詳細は不明です。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、12月1日、隣接する徳島陸軍病院が厚生省に移管され国立徳島病院に改編されます。
旧旅團司令部庁舎、敷地は徳島陸軍病院の一画にあったため、その後病院の一部となり、遺構は何も遺されていません


④ 徳島陸軍練兵場
明治41(1908)年10月、聯隊兵営、衛戍病院、射撃場とともに徳島陸軍練兵場として竣工します。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により内務省を通じ大蔵省に移管、四国財務局の管理下に置かれます。

その後(時期不明)、全域が徳島市に払い下げられ、昭和24(1949)年12月14日、西側が市立加茂名中学校が開校、東側は昭和27(1952)年7月、蔵本運動公園として造成され、現在に至ります。

練兵場の遺構は何も遺されていませんが、公園内に聯隊関連の石碑が移設、建立されています。
ア 馬魂碑
  歩兵聯隊跡
  ビルマ派遣第五十五師団(楯のち壮兵団)歩兵第百四十三聯隊之碑
  歩兵第二三五聯隊 鯨部隊発祥之地

馬魂碑
歩兵第四十三聯隊 ア 馬魂碑(徳島)
▲昭和11(1936)年11月、建立された、聯隊唯一の遺構です。
 揮毫は歩兵第四十三聯隊、第18代聯隊長・淺間義雄大佐です。

歩兵聯隊跡
歩兵第四十三聯隊 ア 歩兵聯隊跡 碑(徳島)
▲昭和48年3月、歩四三会により建立されました。

ビルマ派遣第五十五師団(楯のち壮)歩兵第百四十三聯隊之碑
歩兵第四十三聯隊 ア ビルマ派遣第五十五師団(楯のち壮)歩兵第百四十三聯隊之碑(徳島)
▲昭和54年9月、歩兵第一四三連隊戦友会により建立されました。

歩兵第二三五聯隊 鯨部隊発祥之地
歩兵第四十三聯隊 ア 歩兵第二三五聯隊 鯨部隊発祥之地 碑(徳島)
▲昭和51年4月、歩兵第二三五聯隊戦友会により建立されました。


エ 土堤
練兵場北側の境界を示す土堤が僅かに遺ります。
歩兵第四十三聯隊 エ 東側土堤 南から(徳島)

また、隣接する加茂中学校の北側に石列が立っていますが、関係有る物か不明です。
歩兵第四十三聯隊 加茂名中内の石柱(石柵か?関係ない?)(徳島)


⑤ 徳島陸軍射撃場
明治41(1908)年10月、聯隊兵営、衛戍病院、練兵場とともに徳島陸軍射撃場として竣工します。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、大蔵省に移管の後、払い下げられ住宅地に転用、遺構は何も遺されていません
歩兵第四十三聯隊 射撃場 西側(徳島)
▲射撃場跡(道路右側が射撃場)


⑥ 徳島憲兵分隊
明治40年(1907)10月、善通寺憲兵隊徳島憲兵分隊が開設されます。
昭和20(1945)年3月30日、「決號作戰」(本土決戦)に向け善通寺憲兵隊が四國憲兵隊司令部に改編されたのに伴い、徳島憲兵分隊は同徳島地區隊に改編、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

跡地は区画整理に伴い道路が造られ削減、僅かに遺った敷地はゴルフ用品店になり遺構は何も遺されていません


⑦ 徳島聯隊區司令部
明治21(1888)年5月、徳島町(現、新蔵町)に徳島大隊區司令部が開設、明治29(1896)年4月、徳島聯隊區司令部に改称、昭和20(1945)年3月24日、徳島聯隊區司令部内に徳島地區司令部が設置されますが、7月4日、徳島大空襲に際し庁舎は焼失してしまいます。

徳島聯隊區司令部、同地區司令部ともに疎開し業務を継続していたと思われますが、詳細は不明です。

大東亜戦争停戦に伴い、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により敷地は内務省を通じ大蔵省に移管、四国財務局の管理下に置かれます。
現在、跡地は徳島県警官舎になっており、遺構は何も遺されていません


⑧ 徳島陸軍歩兵作業場
明治41(1908)年10月、聯隊兵営設置とともに開設され、昭和20(1945)年8月28日、大東亜戦争停戦に伴い内務省を通じ大蔵省に移管、四国財務局の管理下に置かれたのち払い下げられ、現在は住宅地になっており、遺構は何も遺されていません。
歩兵第四十三聯隊 歩兵作業場 北西から(徳島)
▲現在の歩兵作業場跡


衛戍・編成部隊
歩兵第六十二聯隊(討四二三四)
明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、内地の常備師團全てが出征してしまったため、戦役後の軍備増強の一環として新たに第十三から第十六師團の4個師團の臨時動員が決定します。
7月17日、第五十二次動員により後備歩兵第十聯隊により第一大隊、第十二、二十二、四十三、四十四各聯隊により第二、第三大隊が編成され、26日、丸亀において動員完結(児島八二郎大佐)、明治38(1905)年8月8日、宮中において軍旗を拝受、7月18日に新設された第十六師團(山中信儀中将)編組の歩兵第三十一旅團隷下に編入されます。

8月10日、第十六師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され滿洲に出征、21日、聯隊は大連に上陸しますが、戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結、10月18日、關東總督(大島義昌大将)の隷下に編入され滿洲の警備に当り、明治40(1907)年3月26日、内地に帰還、復員完結します。

歩六十二は明治三十七八年戰役に際した臨時編成のため衛戍地がなかったため、大阪府天下茶屋の仮兵営に入りました。
明治40(1907)年9月18日、軍令陸第四百號『陸軍常備團隊配備表』改定により、聯隊は第十一師團(土屋光春中将、善通寺)隷下に隷属転移します。
明治41(1908)年11月20日、徳島県の誘致により名東郡加茂名村に建設された新兵営に転営しました。

明治42(1909)年4月20日、第十一師團に滿洲駐箚が内命、8月9日、陸相より滿洲駐箚が下命、9月25日、聯隊は御吉之丸に乗船し小松島港を出航、29日旅順に上陸、旅順に屯営し鉄道沿線の警備にあたり、明治44(1911)年4月20日、旅順を出発、、5月11日、徳島に帰還します。

大正9(1920)年7月6日、シベリア出兵に第十旅團とともに出征、10月4日、追求してきた師團主力に復帰、ニコリスク、スウチャン・シコトワ、ラズドリノーエ、ニコリスク、アヌチノに屯営し警備、治安維持に当たり、ワッシャノフカ、レッチホーフカの匪賊を討伐します。

大正11(1911)年4月4日、師團はスバスカヤに集結、日露協約を無視してブッセフカに侵入してきた赤軍をズローズドフ駅、アレキサンロフカにおいて撃破し赤軍を敗走させました。
10日、師團に内地帰還が下命、5月12~28日、第九師團と交代、6月7日、ウラジオストクを出航、12日、詫間湾に上陸、13日、徳島に帰還しました。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)のため歩兵第六十二聯隊は復帰、軍旗を奉還しました。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発します。

昭和13(1938)年4月4日、軍令陸甲第二十一號『新設師團編成布達』により、歩兵第十二聯隊(丸亀)において聯隊本部、歩兵砲、通信隊、歩兵第二十二聯隊(松山)において第一大隊、歩兵第四十三聯隊(徳島)において第二大隊、歩兵第四十四聯隊(高知)において第三大隊が編成、歩兵第六十二聯隊は再編(澤田保富大佐)され、7月14日、宮中において軍旗を拝受します。

聯隊は第二十一師團(鷲津鈆平中将、金沢)隷下に編入され、9月9日、坂出港を出港、中華民國河北省塘沽に上陸、安徽省宿県に到着、桃山集以南蚌埠までの津浦線周辺の警備、治安維持にあたります。

昭和14(1939)年2月15日、軍の蘇北作戰に参加、22日、磎湾鎮において支那第五七師を撃破、25日、曹家集付近で第五中隊により敵正面を牽制、聯隊主力は北方より迂回し支那第五七軍の1,000名を撃破、27日、浗陽付近に前進、陣家庄付近で敵前渡河を敢行、第七中隊により敵退路を遮断、聯隊主力は歩兵砲の支援のもと浗陽城を攻略、3月15日、作戦を終了しました。

3月24日、聯隊は山東省に侵攻してきた于学忠(3個師)を26日、葛店子付近において側撃、支那第一一四師を湿地帯に圧迫し撃破、続いて撤退する敵を王家集に追撃し撃破、さらに残敵を淮河に圧迫死潰走させ、28日、作戦を終了しました。

昭和15(1940)年11月14日、聯隊は第三大隊を基幹として大田支隊(聯隊長・大田龍太郎大佐)を編成し軍の渦河々畔掃討作戰に参加、16日、陣家庄対岸、続いて王家集において支那八路軍800を撃破、北肥川を渡河し板橋集に進撃、18日、蒙城を攻略、19日、渦陽に進撃し、29日、作戦を終了しました。

昭和16(1941)年3月12日、申集付近に趙シ匪川軍300及び後続軍が侵攻してきたため、13日、十河隊(第一機關銃中隊基幹)を胡集付近に進撃させ退路を遮断、14日、主力は申集付近の敵を3方から包囲攻撃し沱湖において殲滅します。
また、第一大隊は行軍中に鳳凰集付近で支那軍1,000と遭遇、砲兵支援のもと檜河河畔において包囲殲滅し、19日、帰還します。

5月8日、中支那方面軍は南部太行山・中條両山脈を根拠地として北支の治安を擾乱する衛立煌(支那中央軍26個師18万)を補足殲滅すべく百號作戰(中原會戰)を下令、聯隊は師團とともに進撃を開始、済源城を攻略し、封門口、劭源を経て、11日、西揚村を攻略し支那軍を潰走させ、10日には胡領付近において多数の軍需品を鹵獲します。
21日以降、聯隊は東部、西部警備隊を編成、南下してくる敗残兵を補足するとともに、警備地域内の掃討、及び軍需品の探索にあたります。

6月、河北省保定に移駐、警備にあたり、晋察冀辺區粛正作戰に参加、10月、警備を第百十師團と交代し青島に移駐、警備にあたり、第二次魯南剿共作戰に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年2月16日、第二十一師團から抽出された永野支隊(第二十一歩兵團長・永野龜一郎少将)主力として比島攻略作戦増援のため青島を出港、26日、ルソン島リンガエン湾ダモルテースに上陸(第二十一師團主力は仏印に進駐)、27日、グアグアに集結し、密林機動、野戦陣地攻撃、険峻な地形突破、鉄条網啓開等の訓練を実施します。
4月3日、支隊は第十四軍(本間雅晴中将)の左翼として第二次バターン攻略戦に参加、6日、カボット台、オリオン山付近 、9日、カブカーベンの敵陣を突破し、マリベレスを攻略、12日まで残敵掃討にあたり、コレヒドール島攻略を準備しますが、支隊内にデング熱が発症したためコレヒドール島攻略は断念し、グアグア付近に集結します。

5月21日、ビサヤ諸島戡定作戰に参加、ネグロス島、ボホール島、サマール島、レイテ島に分散配置され匪賊討伐にあたります。

12月5日、第二十一師團へ復帰のためマニラ港を出港、サイゴンに上陸しハイフォン付近の警備にあたります。
昭和18(1943)年5月、ヴインエンに移駐し北部仏印の警備にあたります。

昭和19(1943)年4月、永安に移駐、5月、ビルマ作戰の策応陽動作戦、11月~昭和20(1945)年1月、一號作戰(大陸打通作戦)に、3月~5月、明號作戰に参加し仏印軍の武装解除にあたり、6月~7月、ヴインシンに移駐し越盟剿共作戰に参加します。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

27日、軍旗奉焼、昭和21(1946)年4月、復員のためハイフォンを出港し、浦賀に上陸、復員完結しました。


歩兵第四十三聯隊(錦二四二五、滿洲第七一二部隊)
明治29(1896)年5月21日、歩兵第十二聯隊(丸亀)において聯隊本部、第一大隊を編成、明治30(1897)年8月1日、善通寺に移駐、12月、第二大隊が編成され、第十一師團(乃木希典中将、善通寺)隷下の歩兵第二十二旅團(小嶋政利少将、丸亀)に編入され、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受(三上晉太郎中佐)します。
歩兵第四十三聯隊 軍旗(徳島)
▲歩兵第四十三聯隊 軍旗
 
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、聯隊に動員下令、6月6日、塩大澳に上陸し、第十一師團(土屋光春中将)は第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、26日、聯隊は旅順要塞(松樹山、二龍山、東鶏冠山北の3永久堡塁)攻略の要地・剣山を攻略、27日、歩十二が大白山、28日、大鉄匠山を攻略します。
7月2日、露軍は砲兵の支援射撃のもと逆襲を開始、歩十二が守備していた大白山、老左山が奪還されてしまいますが剣山は歩二十二、歩四十三が野戰砲十一の援護を受け堅守し撃退します。
26日、聯隊主力は歩十二とともに師團左翼に、第三大隊は予備隊として、野戰砲十一の支援射撃のもと攻撃を開始、老左山を攻略、次いで第三大隊は苦戦する右翼隊(歩二十二、四十四)に加わり激戦ののち28日、大白山を攻略します。

8月17日、師團は旅順要塞(東鶏冠山北堡塁)攻撃を部署、聯隊は最左翼となり、19日、砲兵の準備射撃に続いて、21日、歩四十四、次いで歩二十二は東鶏冠山北堡塁を攻撃しますが、露軍の反撃により大損害を受け攻撃は遅滞、23日、師團は東鶏冠山の攻撃を中断し、望台方面に攻撃を変更、歩十二が突撃するも露軍の防御は堅牢で損害が増加、弾薬の欠乏により第三軍命令により攻撃は中止されます(歩四十三は他の攻撃が進展しなかったため、殆ど戦闘には参加せず)。

9月2日、師團は敵の銃砲火を避けるべく交通塹壕掘削を開始、10月26日、本土から輸送された二十八糎榴弾砲の支援を、第一師團は松樹山堡塁前方散兵壕、第九師團(大島久直中将、金沢)は盤龍山東堡塁を攻略、、続いて夫々松樹山、二龍山永久堡塁を攻撃、10月30日、第十一師團は東鶏冠山北堡塁への攻撃を再開しますが露軍の銃火は凄まじく、旅順要塞攻略には至らず、11月1日、歩二十二の突撃を最後に攻撃は中止されます。

軍は各師團の目標に対する交通塹壕をさらに強化、11月23日、東鶏冠山砲台中腹の交通壕設定が進展したため、土屋中将は総攻撃に先立ち歩十二(突撃隊:第三大隊、右翼射撃隊:第二大隊、中央射撃隊:第一大隊)に夜襲を下命、第三大隊は左翼射撃隊として突撃隊を援護、突撃隊は敵散兵壕に突撃しますが、敵の激烈な銃撃を受け損害が増加、攻撃は中止されます。

26日、軍は各師團の目標に対する交通塹壕を強化、二十八糎榴弾砲の支援のもと、師團は北側から東鶏冠山北堡塁攻撃を開始、またも露軍の激烈な反撃により甚大な損害を受け、師團長・土屋中将も頭部に重傷をおい後送(12月1日、鮫島重雄中将着任)、第一・第九師團の突撃も遅滞し攻撃は一時中止されます。
同日、第三軍は戦局を打開すべく歩十二第一大隊(児玉少佐以下332名)を含む特別豫備隊(歩兵第二旅團ち長・中村覚少将)を特別支隊(白襷隊、3,100名)に改編し、松樹山第四砲台を奇襲しますが、地雷源、及び敵の照射射撃により大損害を受け、27日、遂に攻撃は中止されます。
27日、軍は大本營の意見を入れ第一師團、22日に戦場に到着した第七師團(大迫尚敏中将、旭川)に二百三高地攻略を下命、12月5日、第一、第七師團により二百三高地が攻略され、高地攻略の牽制にあたりつつ坑道掘削を行っていた師團は東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始、18日、坑道に装填した爆薬を爆破、正面胸墻、備砲を破壊し歩二十二、次いで後備歩三十八の突撃により、遂に堡塁を攻略、29日、第九師團が二龍山堡塁、31日、第一師團が松樹山堡塁を攻略、明治38(1905)年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将が降伏を申し入れ、旅順要塞は陥落します。
3度に及ぶ旅順要塞攻撃による師團の損害は4,072名散華、師團長・土屋中将以下10,259名負傷、(うち聯隊は604名散華、1,496名負傷)でした。

12日、師團は鴨緑江軍(川村景明大将)戦闘序列に編入され、2月21日、陽動作戦の清河城攻略戦に参加、24日、清河城を攻略、3月10日、第一、第二、第三、第四軍により奉天城が攻略され、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結します。
16日、両国軍は休戦に入り、明治39(1906)1月6日、奉天を出発、奉天駅より大連駅に列車で移動、9日、若狭丸に乗船し、12日、多度津港に上陸、郷土の歓迎を受け善通寺に凱旋、17日、復員完結します。

明治42(1909)年8月9日第十一師團に滿洲駐箚が下命、9月9日、聯隊は二十二旅司令部とともに辰丸に乗船し詫間港を出航、12日、大連に上陸、鉄嶺に屯営し鉄道沿線の警備にあたり、明治44(1911)年4月20日、鉄嶺を出発、5月12日、善通寺に帰還します。

大正9(1920)年9月17日、臨時編成下令、シベリア出兵に参加のため、26、27日、第十一師團とともに善通寺を出発し詫間湾を出航、9月30日、10月1日、ウラジオストクに上陸、ウラジオストク北方8kmの二番河に屯営し治安・交通の維持にあたります。
10月、第一大隊(第七、第八中隊欠)は歩兵第十二聯隊の一部とともに南部烏蘇里守備隊に編入され間島事件鎮圧のため、10月中旬からロシア-支那国境を守備、支那領土門子付近に出動し琿春河谷一帯の掃討を実施、大正10(1910)年3月31日、浦潮政変においてウラジオストクに侵攻してきた反過激派のカッペリー軍をロシアとの協約に基づき武装解除します。
5月、ニコリスクに移駐、8月5日、スパスカヤに移駐し警備、匪賊の討伐にあたります。
大正11(1911)年4月4日、師團はスバスカヤに集結、日露協約を無視してブッセフカに侵入してきた赤軍をズローズドフ駅、アレキサンロフカにおいて撃破し赤軍を敗走させました。
10日、師團に内地帰還が下命、5月12~28日、第九師團と交代、6月7日、ウラジオストクを出航、12日、詫間湾に上陸、13日、善通寺に帰還しました。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第六十二聯隊が復帰、2日、聯隊は善通寺を出発、3日、徳島の旧歩兵第六十二聯隊兵営に移転、復帰した歩兵第六十二聯隊の半数を加え新編されます。
同日、第十旅團司令部が徳島から善通寺へ、第二十二旅團司令部が善通寺から徳島に移駐します。

昭和7(1932)年2月23日、上海事變に出動のため師團に動員下令、27日、聯隊は徳島を出発、師團司令部とともに第二艦隊に乗艦し小松島港を出航、同日、第十一師團は第九、第十四師團とともに上海派遣軍(白川義則大将)戦闘序列に編入され、3月1日、聯隊は師團第一陣として長江七了口に敵前上陸、茜経営、2日、瀏河鎮、3日、婁塘鎮において支那国府軍を撃破、嘉定城を攻略、4日1100、停戦命令を受領、3月14日、師團に復員下令、21日、瀏河鎮を出発し上海に集結、23日、上海を出航、28日、徳島に凱旋し、4月3日、復員完結します。

昭和12(1937)年8月13日、支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事行動により第二次上海事變が発生、14日、聯隊に動員下令、第十一師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、16日、動員完結、20日、第一大隊は師團第一梯団として多度津港から重巡「衣笠」に乗艦し出航、22日、長江川沙口沖に進入、21日、聯隊主力は師團第二梯団として小松島港から戦艦「長門」に乗艦し出航、23日、川沙口に敵前上陸を敢行、聯隊は師團右隊として長江沿岸の敵陣地に進撃し31日、劉家鎮、同浦鎮、孟家宅、獅子林砲台を攻略、10月27日、南翔作戰に参加、敗走する国府軍を追撃し、11月18日、聯隊は師團を離れ水上機動により昆城湖を横断、莫城鎮に上陸し、常熱-蘇州道を突破、26日、無錫城に進撃します。

12月3日、師團主力は南支方面の作戦に転用が決定、第五軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移、15日、上海を出航し東シナ海を南下中、作戦は中止されたため、23日、台湾高雄州坊寮に上陸、屏東以南地区に集結し広東上陸作戦に備えますが、28日、師團に復員下令、昭和13(1938)年3月6日、高雄を出航、23日、坂出港に入港し徳島に凱旋、4月12日、復員完結します。

9月22日、軍令陸甲第六十五號『滿洲派遣臨時編成』により第十一師團の滿洲駐箚が決定し、臨時編成下令、10月6日、聯隊は師團とともに坂出港を出航、9日、釜山に上陸、12日、關東軍(植田謙吉大将)戦闘序列に編入、13日、奉天に到着、訓練を実施しつつ北満移駐の準備にあたり、12月9日、奉天を出発、14日、聯隊本部、第三大隊、通信隊は虎林、第二大隊、工兵小隊は虎頭、第一大隊、砲兵砲隊、第十一中隊は密山に移駐、警備にあたります。

昭和14(1939)6月15日、大陸命第三〇二號により第十一師團は新編された第五軍(土肥原賢二中将)に隷属転移、担任地区は虎林、密山に加え饒河(饒穆区)に更改、警備・訓練にあたります。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で滿洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、8月26日、聯隊から吉田一郎中尉以下速射砲中隊96名が応急増派され、10月6日、原隊に復帰します。

8月5日、聯隊(聯隊長・村田孝生大佐指揮、2個中隊、滿軍1個旅、警察隊)は虎林及び饒虎県境一帯、9月15日、聯隊(村田大佐指揮、2個大隊)は饒賓虎県境一帯の匪賊討伐を実施(12月25日まで)します。

12月6日、第一大隊、11日、聯隊主力は東安省虎林縣虎林の屯営に移駐、饒河・虎林県など滿洲東部国境地帯の警備・訓練にあたります。

昭和16(1941)年7月7日、關東軍特種演習動員下令(特臨編第一號(第百一次動員))、7月3日、国境防衛強化のため聯隊の機関銃1個中隊を關東軍野戰兵器廠の防空に派遣します。

16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令、28日、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月1~15日、編成完結、師團は渡河材料を前線に輸送、防衛地区内の道路改修、偵察班を国境に配備、国境河川の気象観測、糧秣の集積をするなど対ソ連戦を見越した作戦準備を完了しますが、準備中の8月9日、対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化にあたります。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和19(1944)年2月18日、中部太平洋方面の防衛のため第三十一軍(小畑英良中将)が新設、22日、『陸亞密第百號』により第十一師團にろ號演習(第六派遣隊の編成)下令、第十一師團から下記部隊2,662名が抽出され、第一師團(中澤三夫中将、東京)から抽出された歩兵第一聯隊第二大隊、歩兵第四十九聯隊第三大隊、歩兵第五十七聯隊第三大隊、野砲兵第一聯隊第三大隊、工兵第一聯隊第三中隊2,438名とともに、25日、編成完結、26日、出陣式を挙行し虎林を出発します。
-第十一師團 第六派遣隊抽出部隊-
第十一歩兵團司令部(第十一歩兵團長・重松潔少将 以下256名)
歩兵第十二聯隊第三大隊(中村義久大尉 以下617名)
歩兵第四十三聯隊第三大隊(古川義政大尉 以下617名)
歩兵第四十四聯隊第一大隊(濱田速雄少佐 以下617名)
山砲兵第十一聯隊第三大隊(加藤三夫大尉 以下367名:山砲3個中隊24門)
工兵第十一聯隊第三中隊(三宅乙松大尉 以下188名)
※歩兵大隊は大隊本部、歩兵4個中隊、機關銃中隊(重機関銃15)、歩兵砲小隊(大隊砲4)

3月1日、抽出部隊は釜山に集結、第一師團抽出部隊と合流、夏服を支給され玉鉾丸に乗船、3日、釜山を出航、4日、門司港を経由、8日、東京湾に入港、海没に備えた避難訓練を実施、12日、東松二號船團(輸送船12隻)として第十一水雷戰隊(高間完少将、旗艦・軽巡「龍田」、駆逐艦4、他5隻)の護衛を受け木更津を出航、13日1300頃、八丈島西南西付近で敵潜サンドランスの雷撃を受け龍田、國陽丸(1657名散華)が沈没してしまいますが、19日、サイパン島を経由、20日、派遣隊は無傷で大宮島(グアム島)に到着します。

23日、歩兵團は歩三十八(末長常太郎大佐)から守備地域を移譲、第二十九師團戰車隊(佐藤秀夫少佐)を配属され敵上陸正面と予測される島西側の明石湾に主力を、2個大隊基幹を箱屋以南の東南海岸に、工兵中隊は夫々大隊に分散、砲兵隊は朝井海岸、明石湾、富田湾に配し陣地構築を開始しますが、セメントの不足、軟弱な椰子の木に築城は進展せず、また4月頃から伝染病が蔓延し益々遅滞、さらに対空監視、飛行場設定など部外勤務が増加、訓練を行う余裕がありませんでした。

5月22日、歩兵團及び第十一師團隷下部隊は獨立混成第四十八旅團(重松潔少将)に改編されます。
-獨立混成第四十八旅團-
獨立混成第四十八旅團長 (重松潔少将)
獨立歩兵第三百十九大隊 (宮西竹一大尉) 各大隊から1個中隊を抽出
獨立歩兵第三百二十大隊 (中村義久大尉) 旧歩十二第三大隊
獨立歩兵第三百二十一大隊 (古川義政大尉) 旧歩四十三第三大隊
獨立歩兵第三百二十二大隊 (濱田速雄少佐) 旧歩四十四第一大隊
同旅團砲兵隊 (加藤三夫大尉) 旧山砲十一第三大隊 第二中隊(旧第八中隊)はロタ島に
同旅團工兵隊 (三宅乙松大尉) 旧工十一第三中隊
同旅團通信隊 (鎌倉平和少尉) 各部隊から抽出

6月11日、米軍が大宮島に空襲を開始、15日、米軍はサイパン島に上陸、7月8日、大宮島に艦砲射撃が開始されます。
9日、サイパン島守備の中部太平洋方面艦隊(南雲忠一中将)、第三十一軍(井桁敬治少将(軍司令官代理))が総攻撃を決行し玉砕してしまいます。

18日、大宮島に空母15隻による本格的な空襲が開始、旅團正面には戦艦4、巡洋艦3、駆逐艦4による艦砲射撃が開始されます(大宮島全体で戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57)が、守備隊は強固な陣地に拠っていたため人的損害は90名散華に留まりました。

7月21日0500、戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57隻による艦砲射撃、0600、艦載機による空襲の後、0730、昭和湾、明石湾の2ヶ所から米軍が上陸を指向、旅團正面の明石湾には米第3海兵師団(西から第9・第21・第3海兵連隊)が見晴岬(明石湾西側)から上陸を企図して来ます。
見晴岬配備の旅團砲兵隊(加藤大尉)第一中隊(益山和夫大尉)は後方の本田台(マンガン山東側)配備の獨混十聯隊砲兵大隊(矢島正喜少佐)の野砲、速射砲とともに敵上陸用舟艇第1波10隻超を水際で撃破するも、敵は10数波に分かれて後続部隊が上陸を強行、敵上陸部隊を浅間岬配備の獨歩三百二十大隊(中村大尉)第九(勇野喜正泰中尉)、肥後岬-見晴岬配備の第十中隊(鈴木中尉)、旅團工兵隊(三宅大尉)が迎撃、大隊は肥後台配備の第十一中隊(長尾中尉)を加え迫撃砲、白兵戦で敵上陸の阻止に努めますが、4kmにも及ぶ守備地域に続々と上陸してくる米軍は次第に大隊陣地に浸透、さらに敵の砲爆撃により大半の火砲が破壊されてしまい、大隊は大損害を受け遂に見晴岬西側に敵の上陸を許してしまいます。

0810、敵はM3、M4戦車を揚陸、旅團工兵隊が敷設した地雷により3両を擱座させますが、続々と揚陸される戦車に火砲の全損した大隊は苦戦、工兵隊長・三宅大尉は点火した対戦車爆薬8㎏を抱いて肉迫攻撃を敢行し散華、部下工兵も肉迫攻撃、また戦車に取り付き手榴弾を天蓋から投げ入れる等し戦車8両を撃破するも工兵隊は玉砕、見晴岬を失陥してしまいます。

中村大尉は第十中隊の生存者を収容するとともに明石市に続くチョットニ断崖に兵力を部署し手榴弾戦、逆襲により敵の東侵を拒止、旅團砲兵隊長・加藤大尉は敵の浸透状況に鑑み明石湾、富岡、富田湾に配備の第三中隊(玉振美澄大尉)を的野高地(マンガン山南側)付近へ陣地変換を下達し、隊本部を明石台からマンガン山東側に前進させ集結してくる大隊主力を指揮して見晴岬の敵上陸部隊に火力を集中させます。

重松少将は旅團司令部を品川から本田台南西に前進させるとともに、旅團予備として品川付近に配備の獨歩第三百十九大隊(宮西大尉)を見晴岬東方に転進させ、また第二十九師團長・高品彪中将(大宮島防衛の最高指揮官)も師團直轄の歩三十八第九中隊をパラソル台、島北部の白浜から転進してきた獨混十聯隊主力をマンガン山東側谷地に配備し師團長指揮下に編入、富田湾の明石地區海軍陸戦隊(第五十四海軍警備隊・杉本豐大佐)を旅團予備として部署します。

21日、重松少将は獨歩三百二十一(古川大尉)・三百二十二大隊(濱田少佐)を要地・マンガン山防衛のため部署します。

21日夜半、肥後台の獨歩三百十九大隊は肥後川河谷沿いに前進、米第3海兵師団橋頭堡東翼(米第3海兵連隊)に夜襲を決行しますが、艦砲射撃と機関銃掃射に阻まれ攻撃は頓挫、大隊長・宮西大尉以下殆ど散華(宮西大尉の最期は25日の総攻撃の際とも)、肉迫攻撃隊を編成した獨工七聯隊第二中隊は玉砕、22日払暁、獨歩三百二十大隊第九中隊は同じく橋頭堡東翼の敵水陸両用戦車群に夜襲を決行しますが機関銃掃射を受け中隊長・鈴木中尉以下60名が散華する等、ともに大損害を受けてしまいます。

22日、旅團命令により転進中の獨歩三百二十二大隊は、的野高地付近で夜襲に頓挫し転進中の獨混十聯隊第二・第三大隊を追撃してきた敵と遭遇戦になり、転進部隊誘導に当たっていた第二十九師團参謀・武田英之中佐は獨混十聯救援のため獨歩三百二十二大隊を本田台へ、獨歩第三百二十一大隊をマンガン山へ、陣地変換中の砲兵隊第三中隊、第一中隊成田小隊(成田春雄少尉)を兵勤高地(的野高地西側)へ部署し米軍を撃退しますが、獨歩第三百二十一大隊は敵の銃砲火、艦載機100による空襲のため部隊が分散、武田中佐の指示にマンガン山北側台地の攻撃に向かいます。

同日、夜襲により戦力が低下した獨歩三百二十大隊はチョットニ断崖を徹し歩三十八第九中隊(石井兼一中尉)が守備するパラソル台(マンガン山北側)に転進、獨歩三百十九大隊生存者は本田台の獨歩三百二十二大隊に収容され侵攻してくる米軍戦車に苦戦しつつ台上の確保にあたります。
同日2300、獨歩第三百二十一大隊の3個小隊はマンガン山北側の米軍に夜襲を決行し第一線機関銃陣地を破壊しますが、予定していた敵陣外からの手榴弾戦に反し陣地内に進攻してしまい機関銃掃射により大損害を受けてしまいます。

24日0000、浅間岬で孤立していた獨歩三百二十大隊第九中隊長・勇野喜中尉は生存者10名を率い米軍に斬込み玉砕、午後、本田台・マンガン山北側から敵戦車が侵攻、獨混十砲兵大隊の砲撃により数量を撃破するも、陣地後方に迂回した戦車の砲撃を受け火砲は全損、全員肉迫攻撃に転移し玉砕してしまいます。
1500、兵勤高地に砲台山(兵勤高地北西)から米軍が侵攻、獨歩三百二十一大隊が激戦の後、撃退しますが、大損害を受けてしまいます。
同日、第二十九師團長・高品彪中将は戦力の極度の低下に鑑み、総反撃を決し「25日2400、総反撃」の実施が下命されます。

25日、航空機・火砲に支援され戦車を伴う米軍が本田台・マンガン山に侵攻、本田台の獨歩三百二十二大隊は歩三十八第九中隊、獨混十砲兵大隊の残存十榴1門とともに反射面陣地を利用し、また肉攻により米軍を拒止しますが大隊長・濱田少佐、第九中隊長・石井中尉が散華するなど次第に損害が増加、マンガン山東側台上の獨混三百二十・三百二十一大隊も戦車を伴う敵の強襲をうけ兵力が半減してしまいます。
兵勤高地に布陣していた山砲隊(隊本部・第三中隊・成田小隊)は直接射撃、零距離射撃により敵戦車6両を撃破、一時敵の侵攻を拒止しますが、次々に現れる敵戦車の集中砲火を受け山砲は全損、大隊長・加藤大尉、中隊長・玉振大尉、小隊長・成田少尉が相次いで散華、山砲隊は玉砕してしまいます(8月2日、加藤大尉、石井中尉に第一線指揮官の模範として小畑中将より感状が授与されます)。

2400、50名程の三百二十二大隊(代理・田桑少佐)は本田台を出撃、パラソル台よりマンガン山北東に迫る米第21海兵連隊に夜襲を決行、敵防御砲火を突破し敵第一線の第1大隊を突破、迫撃砲陣地破壊、戦車を撃破、さらに朝井川沿いに前進し敵に大損害を与えますが、師団工兵の増援を受けた敵の逆襲を受け前進は遅滞、田桑少佐以下殆ど散華、玉砕してしまいます。

40名程の獨歩三百二十一は旅團主力、避難民志願者より編成した抜刀隊を配属され富田湾付近の火砲支援射撃のもとマンガン山から見晴岬方面の米第3海兵連隊正面に突撃、敵艦砲射撃を突破して前進、白兵戦を展開しますが大隊長・古川大尉以下殆どが散華、玉砕してしまいます。

中村大尉は敵上陸以来の将兵の敢闘に対する感謝と決別の辞を述べ、別杯を交わすと50名程の獨歩三百二十大隊を率いパラソル台付近の敵陣地に突撃、機関銃の十字砲火により損害が続出するも中村大尉は怯まず前進、生存者10名を率い抜刀、鉄条網を突破し敵陣に突入、敵兵を次々に切り倒した後、玉砕してしまいます。

26日0800、守備隊の総反撃は頓挫、旅團生存者はマンガン山北側台地に集結しますが、米軍は戦車数10両を先頭にマンガン山に侵攻、旅團は有効な対戦車装備の無いなか敵の侵攻を拒止するも損害が増加、敵の急速な浸透に旅團司令部が包囲されるに至り、重松少将は敵戦車の重囲のなか高品中将に宛てマンガン山の死守、師團の武運長久を祈念する最後の報告を伝令に託し散華、1900、マンガン山は陥落してしまいます。
27日、、師團は積極攻勢から戦略的持久に方針を転換、敵戦力の消耗を企図すべく第二線陣地の平塚(明石市東側)に転進、新たな兵力配備を策定します。

28日、敵は本田台に浸透、師團戦闘指揮所が包囲されため、司令部は的野高地に転進を開始しますが、参謀長・岡部英一少将が戦車の砲撃を受け散華、高品師團長、参謀・武田少佐、同佐藤清八少佐は脱出に成功するも本田台方向から浸透してきた敵戦車の銃撃を受け高品中将が散華してしまいます。

小畑軍司令官は残存部隊の指揮を継承、生存者は本田台南側谷地、的野高地付近から逐次、折田(明石市南東)に集結、春田山に左翼隊集成3個中隊、平塚に右翼隊集成5個中隊を配置(軍参謀長・田村義冨少将指揮)、米軍の拒止に努め、また重傷者の後送を指示し、軍司令官は徒歩で又木山(大宮島北端)に向かいます。

31日、艦砲射撃と航空機に支援された米軍は北方に指向し明石市、次いで南下を開始し品川、折田西部に侵攻、8月2日、春田山に、3日、平塚は戦車を伴う米軍が侵攻、火砲全損、将兵も大損害を受け突破されてしまいます。
軍は多久井岬の線で敵を拒止すべく部隊を右翼隊(藤井少佐指揮、250名)、中央隊(佐藤少佐指揮400名)、左翼隊(大川少佐指揮250名)に再編、武器弾薬の欠乏、さらに水不足のなか敵の侵攻を阻止にあたりますが、6日、中央隊守備の里井、右翼隊守備の宇久井陣地も突破され、7日、敵は高原山、又木山に浸透してきます。
9日、米軍戦車50両が軍司令部の又木山前面に侵攻、対戦車装備を持たない軍は苦戦、小畑中将は兵力の激減に鑑み11日黎明を期して総攻撃を決します。
10日1400、敵戦車の攻撃に又木山の防御線が突破されてしまい、司令部も敵の攻撃に晒されますが、敵は夜半に一旦集結地に後退します。

生存者約300名は司令部壕に集結、10日2000、小畑中将は大本營に決別電を打電、11日0000、通信機を破壊し、重要書類を焼却、0700、米軍戦車が再び侵攻を開始、戦闘指揮中に作戦参謀・橋田精中佐が散華、1435、小畑中将、田村少将は司令部壕内において拳銃で自決、12日、敵は又木山東側道路を突破、北島角方面に侵攻、13日、白浜海岸を見下ろす台端に達し、大宮島守備隊は玉砕してしまいました。

昭和20(1945)年3月16日、第十一師團は『陸亜機密第百五十號』により本土決戦に備えた内地転出が決定され、4月1日、警備を獨立混成第七十七旅團に引き継ぎ、2日、第一大隊は第一梯団、6日、聯隊主力が第二梯団として虎林を出発、朝鮮羅新を経由、5日・10日、釜山に集結、13日、釜山を出港、第一梯団は敦賀、第二梯団は博多に入港、作戦地である徳島に集結、聯隊は徳島中學校に入ります。

5月2日、師團の作戦地は高知平野に変更となったため徳島を出発、軍用列車で高知県介良村本村(現、高知市東部)に到着、聯隊は師團左地區隊として浦戸湾-物部川に渡る海岸高地線の防衛を担当し、聯隊本部を仁井田に置き、15日、築城を開始、6月1日、築城作業と並行して敵上陸部隊の迎撃訓練を開始、7月、野戦陣地構築を進める中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、17日2200、停戦を迎えました。

18日1200、聯隊本部のある仁井田吹井において第十一師團長・大野廣一中将侍立のもと、聯隊将兵が注視するなか軍旗を奉焼、31日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、9月9日、復員完結しました。
歩兵第四十三聯隊 歩兵第四十三聯隊 軍旗(徳島)
▲歩兵第四十三聯隊 軍旗決別式(昭和20年8月18日)


歩兵第二百三十五聯隊(鯨六八八三)
昭和14(1939)年6月30日、軍令陸甲第二十一號により、留守第十一師團に第四十師團(大谷直次郎中将、善通寺)の編成下令、7日、編成完結(大谷直次郎中将、善通寺)します。
8月2日、歩兵第二百三十五聯隊の編成下令、7日、歩兵第四十三聯隊留守隊の2個大隊、歩兵第十二聯隊留守隊の1個大隊により編成完結(梨岡壽男大佐)、第四十師團隷下に編入され、9月13日、宮中において軍旗を拝受し、青野原陸軍演習場等で訓練にあたります。

10月7日、聯隊は徳島を出発、8日、坂出港を出港、16日、第四十師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され中華民國湖北省武昌に上陸、11月2日、横溝橋に聯隊本部を設置、咸寧、金牛鎮に屯営し治安維持にあたります。

11月30日、重慶に撤退した蒋介石は我が占領地に冬季反攻を開始、12月10日、支那第八軍(2個師)・第三〇集団軍(3個師)70,000が歩二百三十四第十中隊が守備する芭蕉嶺に侵攻、聯隊は歩二百三十四とともに石本支隊(第四十歩兵團長・石本貞直少将)に編入され、13日、支隊は西坑塘を出発、夏舗周辺で夜襲により撃破し宝石河に進撃、14日、騎四十は漆州を出撃、石盤山の険峻を踏破し龍港を攻略、龜川支隊は富水を敵前渡河、龍港にて騎四十と合流、15日、騎四十は高家を攻略、支隊は横石潭に進撃、支那軍を九官山以南に潰走させ、歩二百三十四・山砲四十第二大隊は楠林橋南方に侵攻してきた敵を芭蕉嶺付近で撃破します(第一次九官山作戰)。

24日、支那第三師、第一九七師の残敵が黄家章、藕塘付近に集結して来たため、聯隊は騎四十とともに楊芳林、新豊市、藕塘に進撃し殲滅します(第二次九官山作戰)。

12月中旬、隣接する第六師團が支那第九戦区軍100,000に急襲され苦戦、20日、石本支隊は輜重四十の車両により陸水右岸の支那軍を撃破しつつ大沙坪まで進撃します(第一次陸水作戰)。

昭和15(1940)年1月初旬、またも第六師團が支那軍の包囲を受けたため、聯隊は通城付近の山地に籠る支那軍を撃破し包囲を破り咸寧に帰還します。

4月15日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図、第一・第二大隊は歩二百三十六第三大隊、騎四十の一部、山砲四十〃、工四十〃とともに石本支隊を編成、21日、二十里橋に集結を完了します。

軍は漢水左岸・襄東地区の支那軍を補足撃滅すべく、30日、支隊は遊河付近に進撃、5月1日、武漢北西地区の小林店において支那第五戦区軍を攻撃、敵は有効な火網を形成、迫撃砲の集中射撃により支隊は思わぬ損害を受けたため、2日、支隊は攻撃重点を左翼の聯隊第二大隊に移し、4日、大隊は激戦ののち小林店を攻略、6日、桐泊、7日、西新集の敵陣を攻略、8日、湖陽鎮を攻略します。

21日、師團は九官山に集結しつつある支那軍の殲滅を企図、聯隊は一部を警備に残置し、23日、通山に集結、25日、師團は3縦隊となって進撃、中央隊(佐伯支隊:騎四十・佐伯靜夫中佐)配属の第三大隊(大塚少佐)は宝石河南方において支那第一九七師の一部500を撃破します。
夕刻、騎四十は九官山北麓に達しますが大隊は道に迷い到着が遅れたため佐伯大佐は騎兵独力での敵陣地攻略を決断、夜半、騎兵2個中隊、機関銃1個小隊、山砲1門、迫撃砲1門人員350名は登坂を開始、山頂の第一四師第三団3,000の拠る陣地に急進、敵の銃砲、迫撃砲に進撃は遅滞しますが、山砲の進出により攻勢に転移し九官山を攻略、26日、反転し、29日、大畈鎮において山砲四十集成第四中隊、5月1日、港背陳において第三大隊は支隊編入を解除されます(第三次九官山作戰)。

5月31日、師團は宜昌攻略にあたる軍の側背援護、支那第五戦区軍牽制にあたり、6月11日、随県を出発、連日40℃を超える酷暑のなか大洪山付近に進撃、客店披高地の支那第二九集団主力を3日間に渡る激戦ののち撃破、12日、第十一軍により宜昌が攻略され、6月26日、師團は咸寧に復帰します。

昭和16(1941)年1月25日、第十一軍は正月攻勢を策動する支那第三一集団(第一三・八五軍)を撃破すべく豫南作戰を発動、師團は信陽地区に集結しますが、敵の鉄道爆破により集結が27日に遅れるも、先行させた佐伯支隊(騎四十聯隊長・佐伯静夫中佐)が奇襲により汝南を攻略、30日、師團主力は汝南に入城、2月1日、北進し支那第八五軍の拠点・項城を攻略します。

9月1日、師團は軍が關特演前に支那第五戦区軍を撃破し、事変解決を有利に進めるべく企図した長沙作戰に参加のため咸寧を出発、10日、桃林に集結、長沙攻略を目指す軍主力の側背援護のため、11日、第二大隊は重松支隊(歩二百三十四)に編入され先遣隊として沙港河畔に向け進撃を開始、第六師團の掃討から漏れた支那軍と甘田付近で交戦、頑強な抵抗に苦戦しながら14日、敵の退却に伴い前進、18日、師團は軍左翼として南下を開始、支那第六〇師、第二六師を撃破、26日、金井に進出し軍の左翼援護にあたり、27日、第三・第四師團が長沙を攻略したため、30日、師團は反転、10月14日、逐次咸寧に復帰します。

12月17日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第二十三軍(酒井隆中将)のC作戰(香港攻略作戦)援護、支那軍の牽制のため第二次長沙作戰を発動、師團は咸寧を出発し、24日、聯隊は歩二百三十四とともに師團先頭として新牆河北岸の支那第一三四師(2個団)を撃破し攻撃準備を完了、聯隊は左側背援護にあたり師團主力は新牆河を渡河、支那第一三四師主力を撃破、支那軍と交戦しつつ、27日、汨水(長楽街付近)に集結、28日、聯隊が強行渡河を敢行し援護のなか、工四十により仮設橋を開設、師團主力は渡河に成功、30日、聯隊は天荊廟を攻略、長楽街南方高地の支那軍陣地を攻略します。

12月29日、第十一軍はさらに長沙への進攻を企図、師團は金井への進撃を下命され、31日、進撃を開始、昭和17(1942)1月1日、金井に到着、聯隊は歩二百三十六とともに長沙進撃中の第三・第六師團の側背援護のため蒲塘に進撃、甕江方面から進攻してきた支那第三七軍を迎撃、3日、軍は長沙攻撃中の第三・第六師團が重砲を伴う支那軍の逆襲により損害が増加している事に鑑み、両師團の転進援護のため第四十師團に長沙方面への進撃を下命、4日、師團は春華山北方に進撃、第三・第六師團の転進援護にあたり、9日、大山塘を出発し、転進した第十一軍を包囲殲滅すべく追撃してきた支那第九戦区軍(7個軍、31個師)、第六戦区軍(3個軍)を麻峯嘴、検市廠において撃破、古華山付近で包囲された第六師團を救援し、12日、長楽街に集結、15日、沙港河を渡河し、23日、咸寧に復帰します。

4月18日、本土が米空母を発艦した米陸軍機により初空襲を受けたため、内地防空を図るべく大本營は浙江・江西両省付近の米軍飛行場覆滅を企図し浙贛作戰を発動、第二大隊は河野混成旅團(第四十歩兵團長・河野毅少将)に編入され、第十三軍指揮下杭州から西進、5月15日、河野旅團は軍中央兵團として紹興を出発、西南下し、27日、衢州付近に集結、6月3日、軍主力とともに衢州攻撃を開始、樟樹潭南方高地の強固な前進陣地を攻略、4~6日、敵の砲撃により舟艇が殆ど破壊されたため爆破された鉄道橋を工兵が修理し烏渓江を渡河、衢州城に突入、7日、衢州城を攻略、12日、江山東側地区に進撃、8月19日まで前線から後送されてくる鹵獲軍需品を輸送する浙贛鉄道の警備にあたり、南京を経由し、9月30日、聯隊に復帰します。

12月18日、第十一軍司令官・塚田攻中将、同高級参謀・藤原武大佐は南京で開催された軍司令官会同に出席した帰途、搭乗機が大別山系で遭難したため、軍は捜索のため大別山作戰を発動、第二大隊は急遽戸田支隊(歩二百三十四聯隊長・戸田義直大佐、同聯隊、歩二百三十六第三大隊、山砲四十第一大隊、工四十1個中隊)に編入され、20日、蘄水、英山地区を捜索、遭難機は英山南東30kmの彌陀寺付近で第三師團の捜索隊により発見(司令官、参謀ともに殉職)され、昭和18(1943)年1月5日、聯隊に復帰します。

2月13日、軍は師團警備地から長江を挟んだ対岸の支那軍・王勁哉(第一一八、第一二八師)に続けていた懐柔工作を打ち切り、江北殲滅作戰を発動、聯隊は仁科支隊(仁科馨大佐)として軍直轄となり、19日、赤壁山付近から長江を渡河、25日、秘河口に入城、敗敵は峰口付近で師團包囲下に入り殲滅、28日、師團は反転、華容地区に進撃し、掃討にあたり、3月26日、咸寧に復帰、4月29日、王勁哉を捕縛した師團騎兵隊に第十一軍司令官・横山勇中将より感状が授与されます。

7月1日、軍令陸甲第三十六號により師團は編制改正され、第四十歩兵團司令部、師團騎兵隊は復帰し各歩兵聯隊に乗馬小隊として配属されます。

7月、師團は咸陽南西の岳州に警備地が変更になり獨立混成第十七旅團より任務を継承、聯隊は湖南省臨湘県桃林(洞庭湖東側)に移駐し警備にあたります。

11月25日、支那大陸の飛行場から出撃した米支連合航空隊により新竹海軍航空基地(台湾)が空襲を受けた事から、大陸から本土への空襲の現実化、特に将来B29の出現による大陸南西部からの本土空襲が可能になると推測、大本營は大陸南西部の敵飛行場を覆滅すべく湘桂作戰を立案します。

昭和19(1944)年4月29日、第十一軍は湘桂作戰を発動、師團は軍第一線に部署され、5月初旬、獨混十七旅團に岳州一帯の警備を移譲し石首、華容に集結、27日、聯隊は歩二百三十六とともに石首から梅田湖を経て南県へ南下進撃しますが、6月1日、敵機の空襲により長安付近で聯隊長・仁科大佐が散華してしまいます。
30日、師團は永豊に進撃、支那軍集結の兆候を察知したため、7月6日、第一大隊は金蘭寺(永豊南方、衝陽北西)に陣地構築し支那軍を迎撃、9日、航空機を伴う支那軍の強襲により大隊は弾薬が欠乏、大損害を受けながらも支那軍の侵攻を拒止、24日、玉砕直前、聯隊主力が救援に到着、支那軍の包囲を破り大隊を収容、衝陽西方の鳴窩山に転進します。

7月中旬、第十一軍が攻囲する衝陽救援のため支那軍は衝陽西方に援軍を集結、31日、師團は衝陽攻撃中の第五十八師團の側背援護のため歩二百三十四を両母山、聯隊を鳴窩山、歩二百三十六を二塘山付近に配置、8月2日、航空機、火砲を伴う支那援軍が師團の正面に来襲しますが、各聯隊は支那軍の突撃を拒止、7日、第十一軍は衝陽を攻略します(第一次湘桂作戰)。

8月31日、師團は第五十八、第十三師團とともに衝陽を出発、9月15日、全県に集結、10月20日、第五十八、第三十七師團とともに桂林攻略が下命され、25日、霊田坪に前進、31日、昔陀山に進撃します。
11月2日、第十一軍は桂林攻撃を下命、8日、第二大隊が月牙山の敵陣地を攻略、9日、歩二百三十六が桂江を強行渡河し桂林東門に突入、北門から突入してきた第五十八師團とともに城内の支那軍を攻撃、10日、桂林を攻略、さらに敗走する敵を追撃、13日、西南進し古化、融県において撃破します(第二次湘桂作戰)。

12月14日、第二十軍(坂西一良中将)は粤漢鉄道線を無傷で攻略すべく南部粤漢打通作戰を発動、師團は第二十軍指揮下に編入され、第三大隊は丁挺進隊(人員各600)を編成、1月7日、丙挺進隊とともに3日に出発した甲挺進隊を追求、敵前哨線を潜入し夫々隠密行動を採り東進、19日0500、甲挺進隊は白石付近で粤漢鉄道線確保に成功、21日、丁挺進隊は楽昌に突入します。
粤漢鉄道線は一部破壊されますが、大部分は無傷で確保できます。
1月18日、師團は鉄道線確保を確実にすべく道県を出発、支那軍を撃破しつつ強行軍で進撃し、23日、各挺進隊を掌握、続いて韶関・南雄飛行場攻略を下命され、坪石付近に集結、25日、歩二百三十四、乙挺進隊を残置し、丙挺進隊を南雄飛行場に、師團主力は丁挺進隊を先遣隊として粤漢鉄道沿いに南下、25日、圓支隊(第百四師團歩百六十一聯隊・清水圓大佐)が南方から攻撃中の韶関北側に進撃、26日、丁挺進隊は韶関北側の星崗山の敵陣を山上から撃ち下ろされる機関銃に苦戦しながら攻略、27日、圓支隊が韶関を攻略します。
丁挺進隊追求中の師團主力は贛南方面の敵飛行場を下命され、31日、韶関を出発、始興から贛南公路を進撃し、2月3日、丙挺進隊は南雄飛行場を攻略、5日、師團主力は南安、7日、新城及び同飛行場を攻略、15日、師團は韶関に集結し、聯隊は始興に布陣、贛南公路の警備にあたります。

昭和20(1945)年3月1日、師團は第二十三軍(田中久一中将)戦闘序列に隷属転移、第百三十一師團新設のため聯隊は歩二百三十六両聯隊と共同で1個大隊分の人員を抽出し獨立歩兵第五百九十四大隊を編成し転属させ、師團主力は広東省南岸への米軍上陸に備えるべく粤漢線に沿って南下、広東を経て江門に進出、珠江デルタ地帯に展開し陣地構築、敵上陸部隊迎撃訓練を実施します。

4月1日、米軍が沖縄に上陸した事から広東方面への可能性が低下した事から、師團は支那派遣軍(岡村寧次大将)に隷属転移、軍予備隊に部署され南昌移駐のため支那第七戦区軍を撃破しつつ北上、7月初旬、贛県に進出、さらに北上中の8月15日、鄱陽湖畔付近において『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
17日、南昌県新渓塘において歩兵第二百三十五聯隊の軍旗が奉焼されます

19日、師團は南昌付近を出発、九江を経て、11月22日、南京郊外馬鞍山周辺に集結、28日、支那軍により武装解除され、聯隊主力は第三作業隊、一部が第六作業隊として劣悪な宿営、悪質な支那兵の強盗に遭うなか、昭和21(1946)年2月5日から第三作業隊は燕子劯-下関道の道路・通信線修復作業(特に溝掃除)、11日から第六作業隊は南京市外の清掃に従事、4月27日、作業を終了、5月1~9日、南京から上海に移駐、5月13日、支那住民の見送りを受け第一大隊が、17日、聯隊主力が夫々上海を出航し、20日、第一大隊は鹿児島港に、23日、聯隊主力は博多に上陸、復員完結しました。


歩兵第百四十三聯隊(西部第三十三部隊→中部第八十三部隊、壮八四一六)
昭和15(1940)年7月10日、軍令陸乙二十二號により歩兵第四十三聯隊留守隊に編成下令、8月3日、歩兵第四十三聯隊留守隊は歩兵第百四十三聯隊に改編(宇野節大佐)、7日、留守第十一師團を改編した第五十五師團(竹内寛中将、善通寺)隷下に編入され、9月27日、宮中において軍旗を拝受します。
編成完結後、営庭に設置された仮装船舶により舟艇移乗、吉野川での上陸演習を実施します。

昭和16(1941)年9月26日、第五十五師團に動員下令、10月8日、動員完結、11月6日、ビルマ攻略担当の第十五軍(飯田祥二郎中将)戦闘序列に編入、聯隊は宇野支隊(山砲五十五第四中隊、工五十五第三中隊配属)として第十五軍直轄となり、20日、多度津港を出航、26、27日、サイゴンに上陸します。

12月5日、サンジャック沖を出航、8日、大東亜戦争開戦に伴い、0400、泰国のチュンポンに主力、プラチャラプに第二大隊、バンドンに第三中隊、ナコンに第一大隊が上陸、攻勢前進を開始しますが、1200、日泰間に平和進駐協定が成立し停戦、11日、自動車でチュンポンを出発、ビルマ国境のクラ河畔に進出、14日、緬甸のビクトリアポイントを攻略し、馬来攻略にあたる第二十五軍(山下奉文中将)の後方安定を確保します。
12月11日、師團主力はハイフォンから南下、27日、バンコクに到着、支隊は師團に復帰、第二十五軍の側背援護にあたります。

21日、『日泰同盟条約』、昭和17(1942)年1月3日、『日泰共同作戰二關スル協定』が締結され、泰國軍4個師団が北方からの連合軍侵攻にあたる事になったため、第十五軍は第二十五軍の側背援護の任を解かれ、主力はモールメン攻略を下命されます。

1月20日、師團主力は3縦隊(右:歩百四十三、左:騎五十五、中:歩百十二)となり進撃を開始、23日、コーカレーに集結、30日、騎五十五がモールメンに突入、聯隊は師團右翼隊としてモールメン東側のパゴタ高地に籠る英軍に苦戦しますが、夜襲により撃破攻略、31日、モールメンを攻略します。

2月20日、第一大隊がモールメン対岸メソードの英軍を撃破、3月3日、シッタン河を渡河、4日、ザヤトの英軍を撃破し、バヤギを攻略、敵戦車隊の逆襲に苦戦しながらも前進、第三十三師團(櫻井省三中将、仙台)がラングーンに進撃(8日、攻略)し、敵の退路遮断に入ったため、英軍は退却を開始、7日、ペグーを攻略します。

14日、緬甸援蒋ルート遮断のためさらに進撃、20日、聯隊は山砲五十五第三大隊を配属されニャングチドウク付近で戦車を伴う支那ビルマ遠征第一路軍500を撃破し、第二大隊がトングー飛行場を攻略、26日、聯隊は左翼隊として支那第二〇〇師3,000の籠るトングーを包囲、28日、重砲兵、航空機の支援を受け、30日、ラングーンに上陸した第五十六師團(渡邉正夫中将、久留米)が来援、聯隊は北方に迂回し退路遮断に入ったため、支那軍は退却を開始、同日、工五十五の爆破により城内に突入した歩百十二がトングーを攻略します。

4月5日、師團は追撃を開始し北上、エダッセで支那軍を4,000撃破、10日、聯隊は野戰重砲兵とともにスワ河北岸の敵陣を砲撃、支那軍は撤退し始めたたため、さらにマンダレー街道を追撃、12日、サガヤ、16日、ミヨラ、17日、タワジ、19日、ピンマナを攻略、戦力の損耗していた第五十五師團を追求してきた第十八師團と会同し、マンダレーに対し並進進撃を下命されます。

22日、師團は師團先頭として歩百十二第二大隊を自動車追撃隊に部署、追撃隊、第十八師團に続いて主力はピンマナを出発、25日、ヤナウンにおいて支那軍を、26日、カンダン付近で戦車10両、火砲を伴う英印軍を撃破、5月1日、第十八師團がマンダレーを攻略、4日、マンダレー西方で第三十三師團に攻撃され敗走する英印軍を補足するため師團主力はミンギャンに進撃しますが、英印軍は師團の間隙を突いて撤退してしまったため、再度東進し、マンダレーに集結、アバ及び対岸のザゲインを攻略します。

同日、第十五軍は隷下師團に英印軍をビルマより駆逐し主要拠点の確保を下命、同日、第十五軍は隷下師團に英印軍をビルマより駆逐し主要拠点の確保を下命、師團は各自動車追撃隊を編成、聯隊は12日、カーサ、14日、バーモ、17日、モーニン、6月12日、トーゴ地区、16日、ワローバン、17日、サンプラハムに夫々北上進撃し掃討を実施、英軍・支那軍を駆逐、第三大隊はモンロン付近において支那軍1個団を撃破、団旗を鹵獲します。

作戦終了後、師團は中管區に部署され、師團司令部をマンダレー、師團司令部をマンダレー、聯隊主力をミイトキーナ、ワインモー地区、第三大隊をバーモ地区、第一大隊をモーニン地区に配置し、警備・防衛にあたります。

12月1日、師團は緬甸南西沿岸アキャブの防衛を下命され、昭和18(1943)年1月中旬から移動を開始します。

11月末、第14英印軍が宮脇支隊(第三十三師團歩二百十三・宮脇幸助大佐)が守備するアキャブ方面で反攻に転じ、野砲20門、戦車30両を伴う英軍が侵攻、支隊はプチドン、モンドウの前進陣地を徹し防衛戦を縮小、昭和18(1943)年1月6日、ラテドン、11日、ドンペイグ(両地ともアキャブ北方のマユ河左右岸)に侵攻してきたため、支隊は肉迫攻撃、夜襲により敵を拒止します。

昭和18(1943)年1月24日、第五十五師團司令部、2月~3月初旬、師團主力がアラカン山脈を踏破しダンカップより舟艇機動によりアキャブに到着、2月29日、聯隊(宇野支隊)は宮脇支隊と交代し英印軍の侵攻を拒止、師團は攻勢に転移(第一次アキャブ作戦)、3月8日、宮脇支隊がカラダン河を渡河しアポーカを攻略、14日、棚橋支隊(歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐)がラテドンを出発、チズエの英印軍補給所を奇襲しマユ河畔に進撃、25日0030、英印軍の間隙を突いて工五十五(外賀猶一中佐)により渡河し、4月3日、密林と湿地に苦闘しつつベンガル湾に達し英軍の退路を遮断、4日、支隊主力は海岸道から、第一大隊はインデン東方山地から進撃、6日、インデンに突入、英軍第6旅団司令部を急襲し、第四中隊(黒田中尉)が旅団長・キャベンディッシュ准将以下英軍幹部を捕らえます。

8日、退路を絶たれた英印軍は撤退を開始、退路を啓開しようとする英軍の砲撃を受け支隊本部は大損害を受け、准将も爆死してしまいます。
13日、宇野支隊はランチャン、ドンペイグから北上を開始しますが、英第6旅団の逆襲を受けます(英軍主力は攻勢の態勢を維持しているため包囲殲滅できる態勢)。
14日、棚橋支隊が攻撃を開始、両支隊は英第6・47旅団を包囲、追撃し大損害を与え、戦車・装甲車40両、自動車73両を鹵獲、5月8日、プチドン、14日、モンドウを攻略し英軍を撃破、作戦終了後、師團は棚橋支隊をマユ高地に、土井部隊(歩二百十三第一大隊基幹、聯隊主力は6月、第三十三師團に復帰)をプチドン、モンドウに、聯隊は久保支隊(聯隊長・久保元武大佐)としてカラダン河谷の守備にあたります。

昭和18(1943)年11月頃から英第15軍団(英印第5・第7個師団)が再びコックスバザー付近から聯隊が守備するモンドウ-プチドンの線に南下、英印第7個師団の侵攻を第三大隊が拒止、昭和19(1944)年1月9日、第一大隊(辻本正文少佐)に火砲・爆撃機に支援され、戦車を伴う英印第5師団が侵攻してきますが、大隊は大損害を受けながらも引き付けて攻撃する至近距離戦法により昭和19(1944)年3月8日まで拒止します。

昭和18(1943)年1月11日、第五十五師團は第十五軍が準備中のウ號作戰(インパール作戦)を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戦(第二次アキャブ作戦)を準備、2月3日、第二大隊は櫻兵團(歩五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将、歩百十二、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊、山砲五十五、工五十五)に編入され、プチドン東方地区から進撃を開始、第七飛行師團の援護のもと、マユ河に沿って北上し、4日、マユ河上流のカラバンジン河で渡河、0400、英印軍150名をを奇襲しトングバザーを攻略、英印軍の背後に周り、南西進し歩百十二第一大隊がシンゼイワ西方マユ高地の道路を遮断、第三十三師團歩二百十三聯隊第一大隊(久保正雄少佐)は西進し、6日、ヌガンギャンを攻略し英印第5師団の後方連絡線を遮断し英第15軍団司令部を急襲するとともに、英軍の増援を阻止、7日、歩百十二主力は三一六高地の英印第7師団司令部を急襲し激戦ののち攻略、プチドンを守備していた聯隊第三大隊(黒岡金四郎少佐)も攻勢に転移し英印第7師団をシンゼイワ盆地に包囲します。

7日、、歩百十二は一気に包囲環の圧縮にかかりますが、昼間は盆地周辺の山地脚に分散、夜間は戦車・火砲を外周に配した円筒陣地に籠り頑強に抵抗する英印軍に攻撃は遅滞、さらに8日、英印軍の空中補給が開始されます。

10日、歩百十二は英印第7師団を2ヶ所の円筒陣地に圧縮包囲に成功しますが、密林に射界が妨げられ、また頑強な円筒陣地に次第に損害が増加、11日、夜間攻撃を開始しますが敵の持久戦に損害が増加、敵戦車破壊のため特別攻撃隊3班を投入するも奏功せず、次第に弾薬・糧食が欠乏、13日、第五飛行師團の戦爆連合75機が敵陣地を空襲するも、直協連絡が無く戦機を失してしまいます。

16日、シンゼイワ北方より英印第26師団が、カラダン河谷から英西阿第81師団が侵攻、川島支隊が拒止にあたりますが損害を受け兵團後方連絡線のアポークワまで転進します。

19日、櫻井少将は円筒陣地攻略のため英印第7師団を盆地外に誘引すべく包囲環を開き、敵を追い出すため歩百十二に総攻撃を下命しますが、歩百十二聯隊長・棚橋真作大佐は戦力の低下から総攻撃を22日に延期したうえ、最終的に攻撃を中止してしまいます。
26日、櫻井少将は戦線の維持が困難になった事から櫻兵團の転進を開始、28日、多数の重傷者を伴いながら英印軍の陣地を突破、追撃を撃退しつつプチドン東方地区に集結、3月3日、歩二百十三第一大隊が敵中60kmを突破しオーラビンに到着します。

師團は少数精鋭による挺進攻撃により英印軍火砲を破砕すべく、歩百十二第一大隊、歩百四十三第一大隊を選抜、3月5日、両大隊はマユ山系を横断しゼガンビン、ノーローダンにおいて英印軍砲兵隊を奇襲、火砲を破砕します。

3月上旬、師團前衛であるモンドウ-プチドン北側の全陣地に爆撃機・火砲に支援され戦車を伴う英第15軍団(英印第5・第7師団・第254戦車旅団)が侵攻、8日、歩百十二が守備するプチドン北方25kmの一二一高地、10日、プチドンが奪取され、12日、プチドン南方3kmのバグナに浸透、18日、歩百四十三、歩百四十四が守備するマユ山系以西の一三〇一、七〇一高地が包囲され、要地・トンネル東方高地が奪取されます。

師團は敵の浸透を受けながらも各陣地を堅守し敵の侵攻を拒止、2月20日~4月3日、マユ半島海岸方面守備の歩百四十四は、艦砲射撃を伴いインデン付近から上陸を企図した英印軍を3度に渡り撃退します。

3月8日、ウ號作戰の開始に伴い師團前面の英印軍機甲部隊がインパール方面に移動、英印軍がシンゼイワ以北に後退したため、師團は英軍をアキャブ方面に抑止すべくトングバザー-ポリパザーの線に追撃を下命しますが、師團戦力は著しく低下しており、英印第25・第26・英第36師団の逆襲を受け、4月6日、山砲五十五聯隊長・小林五一中佐、17日、歩百十二聯隊長・棚橋大佐が相次いで病気により後送されるなど進撃は頓挫、師團は逐次陣地整理を実施、少数精鋭による挺進奇襲攻撃により英軍の擾乱にあたります。

5月5日、師團は英印軍により奪取されたプチドン-モンドウの要線を奪還すべく櫻兵團(歩百十二、歩百四十三第三大隊、歩二百十三第一大隊、山砲五十五)を編成、兵團は南北より攻勢に転移、同日、英印第26師団を北西に撃滅し要線の奪取に成功しますが、プチドン西方高地において戦闘指揮中、聯隊長・土井元武大佐が散華するなど大損害を受けます。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻してきたため、師團はアキャブを徹する事が決定、8月中旬、第二十八軍(櫻井省三中将)直轄となった櫻井支隊(櫻井徳太郎少将、隷下歩兵聯隊の1個大隊、騎五十五、山砲五十五集成1個大隊)の転進援護(敵陽動、偽装陣地構築)を受けつつ、ベンガル湾沿いで英軍を拒止すべく、雨季で泥濘化した山道を南下、9月上旬~下旬、イラワジ河下流三角州(イラワジデルタ)地帯に集結、陣地構築を開始します。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻してきたため、師團はアキャブを徹する事が決定、8月中旬、第二大隊は櫻支隊(櫻井徳太郎少将、隷下歩兵聯隊の1個大隊、騎五十五、山砲五十五)に編入され、支隊主力と離れマユ河左岸を南下、モンドーク山系を踏破しカラダン河右岸に進撃、第五十四師團で編成された松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)とともに師團主力の転進援護(敵陽動、偽装陣地構築)にあたります。

昭和20(1945)年1月25日、師團は軍の立案したイラワジ會戰に策応すべく干城兵團(歩百十二聯隊長・古谷朔郎大佐、同聯隊基幹)を編成しメイクテーラ北方50kmのパポ山付近に配置、神威部隊(騎五十五聯隊長・杉本泰雄大佐、騎五十五基幹)を英軍に策応し背叛、我軍の作戦の妨害にあたるビルマ国民軍の討伐にあたらせます。

3月中旬、イラワジ會戰の各戦線は逼迫、緬甸方面軍は敵の侵攻をトングー付近で拒止すべく隷下部隊の転進集結の援護を第二十八軍に下命、第五十五師團は方面軍直轄となり、聯隊は振武兵團(第五十五歩兵團長・長澤貫一大佐、第五十五歩兵團司令部、歩百四十四第二中隊、山砲五十五、輜重五十五第一中隊)の主力としてイラワジデルタに残置され、師團主力は忠兵團(歩百四十四基幹)を編成しトングーに3縦隊となり前進を開始します。

5月3日、ラングーンが陥落、第二十八軍は緬甸方面軍との連絡線が遮断され敵中に孤立、軍司令官・櫻井中将は隷下・指揮下兵團にペグー山系に集結後、シッタン平地次いでシッタン河を渡河しシャン高原西麓を突破、モールメンへ転進を下命されたため、兵團はイラワジデルタ地帯を出発します。
11日、ニヤンピン東方に集結、第五十四師團の集結を待ち、6月下旬、兵團はペグー山系南側に向け転進を開始、7月20日、兵團は3縦隊になり東進を開始(邁作戰)、広大な湿地。池沼地帯のため行軍が遅れ30日、右縦隊、8月4日、中縦隊、5日、左縦隊は濁流と化したシッタン河を渡河、8月15日、キャウキー付近に集結、停戦を迎えます。

26日、シャン高原西麓シュエジン北方のゴム林において、軍旗を奉焼、ジイジャインに到着し英軍により武装解除され、昭和21(1946)年1月26日、山砲五十五とともにプロームに移駐、労役に使役され、昭和22(1947)年3月8日、ラングーン港を出航、22日、復員完結しました。


歩兵第四百五十聯隊(護土二二七五四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、歩兵第百四十三聯隊補充隊は臨時動員(下村肇大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、聯隊は軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編制改正・称號變更並第三百二十八次復員要領』に基づき、留守第五十五軍司令部を臨時動員した沿岸配備師團である第百五十五師團(岩永汪中将)隷下に編入されます。

4月8日、第百五十五師團は四国南部を作戦地域とする第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入、聯隊は軍直轄として、4月上旬、徳島県吉野川南部に移駐、聯隊本部・第四大隊を櫛渕、第一大隊を立江、第二大隊を眉山(本部は竹林院)、第三大隊を学原(本部は天理教教会)に配置し拠点陣地を構築中に停戦を迎え、18日、軍旗を奉焼、9月16日、復員完結します。


補充部隊
歩兵第二百四十三聯隊
(市一三〇五一)
昭和19(1944年)年7月12日、『軍令陸甲第八十二號「在滿師團等臨時編成(編制改正)、第二百八十七次復帰要領」により、滿洲國綏陽において第九獨立守備隊(安藤忠一郎少将)と南方に転出された各部隊の残置隊により編成(佐藤健吉大佐)、8月17日、宮中において軍旗を拝受します。
7月12日、滿洲國綏陽において編成され、第三軍(根本博中将)に編入された第百十一師團(岩崎民男中将)の隷下に入り、滿洲國東部国境地帯の警備・治安維持にあたります。

昭和20(1945)年4月、第百十一師團は朝鮮防衛のため滿洲から朝鮮半島南部への移駐が決定、第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列の第五十八軍(永津佐比重中将)隷下に入ります。
5月、師團とともに済州島に移駐、米軍の上陸に備え坑道陣地、沿岸防禦陣地の築城を行うなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、軍旗を奉焼、11月11日、復員完結しました。


歩兵第二百六十聯隊(邁進一三九五二)
昭和19(1944年)年11月12日、『軍令陸甲第百五十九號「在滿師團等臨時編成(編制改正)、第三百十一次復帰要領(第十二師團、第百二十師團等)」により滿洲國において警備・治安維持にあたっていた第十二師團(人見秀三中将、久留米)の台湾移駐が決定、11月21日、滿洲國東寧において第十二師團の残留者を基幹に第百二十師團(柳川真一中将)が編成され、第三軍(根本博中将)に編入されます。
歩兵第二百六十聯隊(橋本孝一大佐)は12月23日、宮中において軍旗を拝受し、滿洲國東部の警備・治安維持に当ります。

3月、第百二十師團は朝鮮防衛のため滿洲から朝鮮半島南部への移駐が決定、第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列に入り、慶山に師團司令部を設置、釜山、大邱方面を作戦地とし、聯隊は釜山に移駐し陣地構築を開始します。

8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、滿洲國に侵攻を開始、ソ連軍迎撃のため師團主力は京城、歩二百六十一(大西角一大佐)は平壌に前進しますが、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、軍旗を奉焼、10月2日、復員完結しました。


歩兵第二百六十三聯隊(榮光一三九六三)
昭和20(1945)1月16日、『軍令陸甲第九號「在滿師團等臨時編成(編制改正)、第三百十七次復帰要領」により滿洲國の防衛強化のため8個師團の編成が下令、3月30日、第二十八師團(納見敏郎中将)の滿洲國から宮古島への転出に伴う残置隊を基幹に騎兵第三旅團隷下の騎砲兵第三聯隊、同旅團輜重隊を編入し、浜江省成高子において第百二十一師團(正井義人中将)が編成完結します。

歩兵第二百六十三聯隊(井野八郎大佐)は昭和20(1945)年3月28日、宮中において軍旗を拝受します。

6月、師團とともに朝鮮防衛のため滿洲から朝鮮半島南部への移駐が決定、第五十八軍(永津佐比重中将)戦闘序列に入り、済州島に移駐、島東部で米軍の上陸に備え坑道陣地、沿岸防禦陣地の築城を行うなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、軍旗を奉焼、11月8日、復員完結しました。


主要参考文献
『四国師団史』 (昭和47年4月 陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会)

『土佐湾本土決戦史』 (平成18年11月 山崎善啓 高知新聞企業)

『徳島県史 第6巻 近代2』(昭和42年 徳島県史編さん委員会)

『徳島市史 第3巻 産業経済編/交通通信編』(昭和58年3月 市史編さん室)

『写真集 わが聯隊』(昭和53年 ノーベル書房)

現地説明板、記念碑
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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