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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

佐野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校 佐野分教所)

大阪府泉佐野市の北西部に佐野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校 佐野分教所) がありました。
ア 門柱 東から(佐野陸軍飛行場)
▲民家に遺るコンクリート製の門柱

【探索日時】
平成21年5月10日

【更新情報】
平成24(2012)年11月6日:大幅改訂(書式変更、探索記分離)





佐野陸軍飛行場の場所
佐野陸軍飛行場は大阪府泉南郡佐野町・長滝村(現、泉佐野市)に設定され、滑走路・誘導路・掩体壕等の飛行場主要施設が現在の泉佐野市西端、新安松、南中安松、長滝、高松南、高松東、中町、葵町、市場西一帯に、航空機掩蔽地が市場南の壇波羅公園、中大細利池周辺にありました。
佐野陸軍飛行場 国土地理院 NI-53-15-10 (21.6.6)
▲昭和21(1946)年6月6日の佐野陸軍飛行場跡(国土地理院 NI-53-15-10
 ※複数の空撮を繋ぎ施設を明るく加工しています。

佐野陸軍飛行場
▲現在の地図に施設を転写
①滑走路(幅60×長1,500m)
②誘導路(橙線:一部道路に転用) 
③整備場
④居住区(黄塗:本部・兵舎・生徒舎)
⑤掩体壕(緑色)
⑥排水溝(水色線:飛行場敷地) 
⑦昭和19年拡張部分
⑧飛行機掩蔽地
※誘導路・掩体壕は空撮からの推定


飛行場の概要
昭和19(1944)年6月14日、空中勤務者を対象に戦技教育を行う実施学校、明野陸軍飛行學校の分教所として佐野陸軍飛行場が設定、明野陸軍飛行學校 佐野分教所が開校します。
昭和20(1945)年3月31日、戦局の推移に伴い作戦飛行場として特別攻撃隊の編成、さらに7月18日、防空飛行場として制號作戰(本土防空作戦)に転用(4月18日、B29迎撃のため秋水の配備が計画されるも未成)され、8月17日、停戦を迎えます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し逐次近畿地方に進駐を開始、佐野陸軍飛行場も接収され、軍需品の処分が行われます。
11月3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、接収中の各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達、地元の陳情を受け飛行場は塩田として払い下げられ、さらに農地として開墾され現在に至ります。

名称について『泉佐野市史』では陸軍泉佐野飛行場と記載されていますが、泉佐野は戦後の地名なので誤りです。

要目
・用地:2,640,000㎡
・居住区:約300名収容(面積不明)
・滑走路:90,000㎡(60×1,500mコンクリート舗装x1本、他1本設定予定)
・誘導路:長さ不明
・掩体壕:小型19基


遺構について※青字は地図にリンクしています。
(遺構場所など、上掲地図参照)
① 滑走路
全長1,500m、舗装幅60m(周囲を排水溝で囲む)の滑走路1本が設定されていました。

現在は滑走路の形状が土地区画として辛うじて遺されています。
滑走路北側 南東から(佐野陸軍飛行場)
▲滑走路北側の区画は直線の道路となり姿を留めています。


② 誘導路
誘導路の全長や形状、場所等の詳細は不明です。

現在は一部が道路区画として遺っていると推定される程度で遺構は遺されていません。
滑走路北東端 北側誘導路接合部付近 南西から(佐野陸軍飛行場)
▲滑走路北側に伸びていた誘導路跡の道路

参考資料によると長滝テニスコートの北側にコンクリート敷が100㎡程残っているとのことでしたが周辺は畑が広がり、それらしい場所はありません。
周辺では唯一カナメ配送センターの敷地に平坦部があり、観察してみると古いコンクリートの残骸が敷いてありました。
確証は持てませんが、これが誘導路のコンクリート舗装かも知れません。
南側の誘導路のコンクリート?(佐野陸軍飛行場)
▲骨材に玉砂利を多用しているコンクリート敷


③ 整備場
完成した滑走路の南側に2ヶ所、未成滑走路東側に1ヶ所ありましたが、現在は一部が土地区画として遺っている程度で遺構は遺されていません。


④ 居住区
分教所本館・戦隊本部、生徒舎・航空隊兵舎、食堂、調理場、浴場、格納庫など居住区がありました。
史料が皆無のため詳細は不明です。

ア 門柱
参考資料には「正門」と記されていますが、分教所本館・戦隊本部は“あ”の位置にあり、通常校門・隊門はその前に設置される事から校門・隊門では無く、通用門と思われます。

府道64号線沿いのはサワノ(株)と民家の隙間にあります。
ア 門柱付近 南から(佐野陸軍飛行場)
▲通用門付近
 写真左側の電柱付近に門柱があります。

ア 門柱 東から(佐野陸軍飛行場)
▲門柱
 寸法は高さ140cm、幅・奥行が59cmです。

ア 門柱 蝶番跡(佐野陸軍飛行場)
▲蝶番は上下2ヶ所とも外されセメントで埋めてあります。

門柱の構成は不明(2本、3本の袖門付き、4本の両袖門付き)ですが、蝶番の位置から一番西側の門柱のようです。

民家の塀の一部に組み込まれ、かつ奥まった場所にあるので破壊を免れたようです。
説明板も何も無いので、一般人にはまったく何か分かりませんし、まず目に付きません。


イ 建物基礎
参考資料には「兵舎基礎」と記されていますが、詳細は不明です。

ユーエーテクニカルサービス(株)の東側の畑のあぜ道にコンクリート製の台形基礎が3基、L型基礎が1基並んでいます。

形状は木製掩体壕の基礎の様にも見えますが、かなり小さい物で掩体壕では無い様です。
イ 建物基礎①②③④ 東から(佐野陸軍飛行場)
▲建物基礎 遠景

イ 建物基礎① 西から(佐野陸軍飛行場)
▲建物基礎 A

イ 建物基礎② 西から(佐野陸軍飛行場)
▲建物基礎 B

イ 建物基礎③ 西から(佐野陸軍飛行場)
▲建物基礎 C

イ 建物基礎④ 東から(佐野陸軍飛行場)
▲建物基礎 D


⑤ 掩体壕
当飛行場は『戦史叢書19 本土防空作戦』収用の『陸軍飛行場要覧』によると小型19基の掩体壕があった様ですが、全て土製の無蓋掩体壕だったため昭和30年代にほぼ全て破壊されてしまった様です。


⑥ 排水溝
滑走路の四周、飛行場外周に造られていましたが、現在は飛行場外周の排水路の大半が用水路に転用され遺されています。
飛行場北西端 排水路 北東から(佐野陸軍飛行場)
▲飛行場北西端付近の排水路跡
 用水路に転用されています。


⑦ 昭和19年拡張部分
昭和19(1944)年6月20日、滑走路増設のため用地買収が行われ飛行場用地が拡張されますが、滑走路は設定されず停戦を迎えます。

遺構は何も遺されていません


⑧ 飛行機掩蔽地
飛行場北東側の丘陵地に飛行機掩蔽地が設定されていました。

未踏査のため遺構は不明です。


上記以外にも近年まで「油脂庫の煉瓦壁」、「大井戸」(防火水槽か?)が遺されてた様ですが、いずれも破壊されてしまった様です。

当飛行場は米軍接収後、早期に塩田として払い下げられ、さらに全域が農地として開墾され、近年は住宅地への転用が進んでいるようで自治体の無関心も相まって僅かに遺っていた遺構も殆んどが破壊されています。

当飛行場は大東亜戰争末期の戦局が逼迫した時期に完成、大正と並び近畿防空に重要な位置を占めた飛行場だけにその遺構が消えてしまうのは非常に残念でなりません。
せめて今現在、保存状態の比較的マシでな門柱だけでも案内標識を立てるか、最悪公園等に移転してでも保存してもらいたいものです。


佐野陸軍飛行場の設定
昭和12(1937)年7月7日に勃発した支那事變の長期化、さらに対米関係の悪化(昭和16年12月8日大東亜戦争勃発)により飛行機の重要性が高まる中、我が陸軍は戦闘機の戦技教育を実施する明野陸軍飛行學校(三重)の分教所を各地に増設し、より多くの空中勤務候補者を採用、育成する事が急務となります。

近辺に飛行場が少ない大阪地域(当時の阪神地区の主要飛行場は大正、加古川、伊丹各陸軍飛行場)では、泉南地区の広大な平野が適地とされ、泉南郡佐野町一帯に飛行場と分教所の設定が決定します。

陸軍航空本部(以下、陸航本)は新設飛行場を総面積約798,600坪(約2,640,000㎡)、滑走路長1,500mx幅60m、地域は佐野町、長滝村、日根野村、南中通村一帯に計画、昭和17(1942)年3月26日、土地価格に関する照会書類を関係町村長宛に届け、4月7日、地権者から一括して土地売渡しの承諾を得ます。

5月6日、陸軍航空本部第三部第十課長の村田保三主計大尉は岸和田市大北町の料亭泉州楼に出向き、内原佐野町長ら関係町村長に軍用地境界の決定と価格協定を手交、関係4ヶ町村は土地売渡委員各5名を選出し、地権者から価格・補償料決定に関する白紙委任状を取り付けました。

陸航本は地元民への配慮として、相場より遥かに高い田圃1反辺り1,600円(相場は1,000円)での買収、在来潅漑用水の代替用水改良工事費の全額負担、さらに買収用地内居住者の住宅移転改築用セメントを用意する等の対応を提示しました。
田圃以外の買収価格は府道沿い宅地:坪10円・その他:8円、畑:反920円、墓地:坪10円、山林:反460円、池:反345円等で、地上物件は家屋、倉庫のみならず作物、溜池漁業、井戸、肥溜め、肥甕、庭木、灯籠、果樹、立木等多岐に渡り補償が行われました。

8月15日、地上物件移転価格協定が、10月15日、土地売渡関係者と買収契約が締結され、長滝村野添24戸、河内3戸、大津屋2戸、日根野村一里山15戸、南中通村南村5戸、松屋25戸、400戸分の農地、墓地、神社が移転、19の溜池が埋め立てられ飛行場用地となります。

飛行場建設により土地を売却した地権者の「国の大事に、土地の売り渡が国の役に立つなら歓迎する」といった言葉が残ります。

8月15日、地上物件移転価格協定が締結されたのを受け、応募した労務者が中心となり滑走路部分の地均し等の予備工事が開始、昭和18(1943)年には學校報國隊、10月1日に地元國民學校高学年・岸和田中學(現、岸和田高校)・南海商業(現、岸和田産業高校)・佐野工業、岸和田女學校(現、和泉高校)・佐野女學校(現、佐野高校)生徒で編成された陸航本佐野建築場勤労奉仕隊、地元婦人会、勤労奉仕の協力の元、本格的な設定が開始されます。

昭和19(1944)年6月14日、コンクリート舗装の滑走路1本、誘導路、分教所本館、生徒舎、食堂、浴場などの居住施設が竣工、明野陸軍飛行學校 佐野分教所(島田安也中佐)が開校します。

昭和19(1944)年6月20日、滑走路増設のため野添22戸が再度移転します。

昭和20(1945)年3月31日、戦局の推移に伴い作戦飛行場として転用され、4月8日、『本土航空基地使用ニ關スル陸海軍中央協定』により「秋水」配備のため整備が示達(未成)されます。

21日、明野教導飛行師團に特別攻撃隊編成が下命、佐野分教所は振武隊隊長4名が銓衡、7月22日、飛行第百十一戰隊(8月13日、小牧へ)、8月13日、飛行第五十五戰隊が進出し阪神地区の防空にあたるなか、8月17日、停戦を迎えます。


展開部隊
陸軍航空士官學校 第五十七期
陸軍士官學校第五十七期(実戦参加の最後の期)は支那事變の長期化により定員が大幅に増員され、昭和16(1941)年4月1日、2,448名が陸軍豫科士官學校に入学、同年の大東亜戰争の勃発により、通常2年の教育期間が短縮され、昭和17(1942)年7月11日に卒業しました。

卒業生のうち地上兵科(1,686名)は士官候補生として約3ヶ月の隊附勤務の後、10月1日、陸軍士官學校に入校、昭和19(1944)年4月20日、1,552名が卒業、航空兵科(762名)は豫科卒業後、航空士官學校に入校し、昭和19(1944)年3月20日、751名が卒業します。

航空重視の観点から卒業前後に3度、地上兵科士官から航空士官への転科が勧奨され、陸士五十七期の半分に当たる535名が航空士官(合計1,173名)に転科、陸士五十七期卒業航空士官のうち475名が戦闘飛行隊(戦闘機)に進みました。

戦闘飛行隊の戦技訓練は教官・戰隊長要員を甲種學生、基本戦技教育を受ける航空士官學校卒業生を乙種學生として明野陸軍飛行學校(三重/陸軍航空総監部隷下の「実施學校」:現役将校・下士官に再教育を実施し施し、高度な技術を教育する学校)で行われましたが、学生の増加により、原町(福島)、北伊勢(三重)、天龍(静岡)、佐野(大阪)、高松、都城に分教場が開校しました。

昭和19(1944)年6月14日、五十七期卒業生の第一次乙種學生70名が、明野陸軍飛行學校から佐野分教所へ進出してきます。
当初、機材は九七戰でしたが、8月初旬から甲・乙・丙班に分かれ佐野、明野、北伊勢、天龍、都城を移動しつつ一式戰、二式単戰、三式戰、四式戰で訓練を実施、9月下旬、明野と都城に移動、10月25日、68名(訓練中に2名が殉職)が全課程を修了します。

第一次乙種學生が訓練に入って間も無い6月20日、戦局の緊迫化に伴い軍学校の戦力化が検討され、各飛行學校は教導飛行師團に改編、明野陸軍飛行學校は廃校となり戦技訓練と防空任務を兼務する明野教導飛行師團(青木武三少将)に改編、佐野分教所も「明野教導飛行師團 第四飛行隊(通称:佐野隊)」(牧野靖雄中佐)に改編されました。

8月9日、捷一號作戰における機動予備兵力として教導飛行師團を編合した教導航空軍(司令官は陸軍航空総監・菅原道大中将が兼務)が編成されます。

9月26日、転科航空士官の五十七期57名(他にビルマ派遣留学生ヌウンダン以下10名、他兵科・他飛行分科からの佐尉官學生約30名)が、第二次乙種學生として明野教導飛行師團に入校し第四飛行隊(佐野)に進出します。
当初は第一次乙種学生同様に飛行場内の生徒舎で起居しますが、本土空襲が開始されると周辺の民家に分宿します。

10月中旬、全学生が新設された高松陸軍飛行場に移転、11月初旬、うち35名が再び第四飛行隊(佐野)に移転し訓練を実施します。
12月30日、9名が三式戰要員として明野教導飛行師團に転出、昭和20(1945)年3月30日、24名(訓練中に2名が殉職)が全課程を修了しました。

陸軍航空士官學校五十七期(以下、五十七期)の戦闘機操縦将校475名中、佐野分教所で127名が乙種學生として教育訓練を受け、後に53名(殉職4名、特別攻撃隊19名)が国難に殉じました。

12月26日、比島航空戦の退勢により主戦場が本土周辺に接近する可能性が高くなる中、内地に作戦航空軍である第六航空軍(菅原道大中将)が新編されます。

昭和20(1945)年3月18日、九州方面への米機動部隊の来襲(22日まで「九州沖航空戰」)を受け、3月20日、大本營は陸海軍に天一號作戰(沖縄・台湾など沖縄以南の東シナ海周辺海域の敵勢力に対し、航空攻撃を主として航空・艦艇全兵力を投入する総力戦)を下令、26日、聯合艦隊司令長官・豐田副武大将により発動され、佐野陸軍飛行場は作戦飛行場としての運用が決定し搭乗員の育成は中止されます。

4月8日、決號作戰(本土決戦)準備として航空作戦・教育面で隷・指揮下航空戦力を一元化運用・統率する航空總軍(河邊正三大将)が新設、航空総監部の人員が充当され明野教導飛行師團も航空總軍隷下となります。


第百四十五振武隊
昭和20(1945)年4月21日、明野教導飛行師團に特別攻撃隊編成が下命、佐野陸軍飛行場で待機中の石澤精三中尉は明野陸軍飛行場に移動、5月5日、第百四十五振武隊長を拝命(隊長以下6名、一式戰6機)します。
6日、佐野陸軍飛行場に前進、7月26日、第二十戰闘飛行集團司令部(青木武三中将)隷下となり、加古川陸軍飛行場、鈴鹿陸軍飛行場に移動、8月15日、訓練・待命中に停戦を迎えます。


第百四十六振武隊
昭和20(1945)年4月21日、明野教導飛行師團に特別攻撃隊編成が下命、佐野陸軍飛行場で待機中の藤原正明中尉は明野陸軍飛行場に移動、5月5日、第百四十六振武隊長を拝命(隊長以下6名、一式戰6機)します。
6日、佐野陸軍飛行場に前進、7月26日、第二十戰闘飛行集團司令部(青木武三中将)隷下となり、加古川陸軍飛行場、鈴鹿陸軍飛行場に移動、8月15日、訓練・待命中に停戦を迎えます。


第百六十五振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團に特別攻撃隊編成が下命、佐野陸軍飛行場で待機中の園部昌光少尉は明野陸軍飛行場に移動、5月5日、第百六十五振武隊長を拝命(隊員:枝幹二少尉、杉本明少尉、中川勝少尉、渡邊静少尉、和田照次少尉、三式戰6機)します。
第百六十五振武隊(前列左より中川勝少尉、隊長:園部昌光少尉、杉本明少尉、後列左より和田照次少尉、枝幹二少尉、渡辺静少尉)(佐野陸軍飛行場)
▲佐野陸軍飛行場における第百六十五振武隊隊員
 前列左より中川勝少尉、隊長:園部昌光少尉、杉本明少尉、後列左より和田照次少尉、枝幹二少尉、渡辺静少尉

第百六十五振武隊 三式戦一型(佐野陸軍飛行場)
▲第百六十五振武隊の三式戰「飛燕」

6日、佐野陸軍飛行場に前進、隊員の宿舎として砂川駅前の旅館花房が貸し切られます。
 
30日、第百六十五振武隊は第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり、第四飛行隊長・川田少佐以下石澤、藤原、坂田各隊隊員臨席のもと出陣式が挙行され、地上勤務者総出の見送りのなか芦屋陸軍飛行場(福岡)に向け出発しますが、同日、園部隊長機は発動機の故障により山口県光市の海岸に不時着、重傷を負い入院してしまいます(6月10日、中尉進級、14日、福岡に移駐、30日、飛五十九に転属)。

第百六十五振武隊はさらに知覧陸軍飛行場(鹿児島)に前進するも天候不良により出撃中止が続きますが、6月6日13:33、第十次航空總攻撃に加わり知覧より出撃、隊長を欠く5名全員が沖縄西方海上の敵艦船群に突入して散華しました。

渡邊少尉は投手として小諸商業から朝日軍(現、横浜ベイスターズ)に入団活躍し、出撃に際し「野球生活八年間ワガ心鍛ヘクレシ野球カナ」の辞世を残して征きました。
昭和20年6月6日、出撃にあたり三式戦の水平尾翼に地図を広げ沖縄までの行程の最終確認を行う第百六十五振武隊隊員の最後の姿(佐野陸軍飛行場)
▲昭和20年6月6日、出撃直前に三式戦の水平尾翼に地図を広げ、沖縄までの進路の最終確認を行う第百六十五振武隊隊員最期の姿


第百六十六振武隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團に特別攻撃隊編成が下命、佐野陸軍飛行場で待機中の坂田瑞男中尉は明野陸軍飛行場に移動、5月5日、第百六十六振武隊長を拝命(隊長以下7名、三式戰7機)します。
6日、佐野陸軍飛行場に前進、7月27日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下となり、8月15日、訓練・待命中に停戦を迎えます。


飛行第百十一戰隊(帥三四二一七)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向けに策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』に基づき、4月8日、複雑多岐であった陸軍飛行部隊の指揮系統を一新し、統一指揮するため航空總軍(川邊正三大将)を設置します。
6月30日、大本營は決號作戰(本土決戦)に向けた飛行戦力温存策を転換、臨機応変に敵大型爆撃機を要撃する制號作戰(本土防空作戦)を発令します。

7月18日、明野教導飛行師團は実戦部隊と教育部隊の分離が実施され、明野教導飛行師團は第二十戰闘飛行集團(青木武三中将、明野のち小牧)に改編され航空總軍直轄となり、実戦部隊として第一教導飛行隊を基幹に飛行第百十一戰隊(石川正中佐、佐野、五式戰4個中隊)・常陸教導飛行師團教導飛行隊を基幹に飛行第百十二戰隊(檮原秀見中佐、新田、五式戰3個・四式戰1個中隊)が編成され飛行集團隷下に入ります。
教育部隊は第一教導飛行隊(松村黄次郎大佐)が第五十一航空師團(石川愛中将、岐阜)隷下に編入され、明野・北伊勢・八日市で教育・錬成を実施します。

22日、飛行第百十一戰隊は編成完結し佐野陸軍飛行場に展開(第三中隊・伊東久暁大尉は由良に派遣)しますが、空中勤務者は編隊長以上を教官・助教の中から優秀者を選抜・編成されたものの、列機は航士五十七期・特操を主体とする未熟舎が多く、訓練用燃料の不足もあり急速な練度向上は困難な状況でした。
飛行第百十一戰隊 五式戦一型(キ一〇〇-I)(佐野陸軍飛行場)
▲飛行第百十一戰隊の五式戰一型(キ一〇〇-I)
 尾翼に「明野」の「明」を図案化した部隊章が描かれています

関西方面の防空は東海方面担当の第二十戦闘飛行集團隷下の飛行第百十一・第百十二戰隊、四国方面担当の第百飛行團(牟田弘国中佐、高松)隷下の飛行第百一(高松)・第百三戰隊(由良)の4個戦隊を機動兵力として、中部地方の固定兵力である第十一飛行師團(北島熊男中将、大正)隷下の飛行第五(清洲)・五十五(小牧)・五十六(伊丹)・二百四十六戦隊(大正、各四式戦主力約80機)の4個戦隊が防空任務に就きます。

戰隊は佐野~三木陸軍飛行場(兵庫)間を機動しながら哨戒につき、来襲するB29や護衛のP51の邀撃にあたりました。

7月16日、硫黄島を出撃した米陸軍第21・第506戦闘機群のP51、250機が来襲、佐野陸軍飛行場から第一大隊(江藤豊喜少佐、五式戦12機)、第二大隊(檜與平少佐、五式戦12機)が邀撃、松阪市上空でP51、12機を捕捉交戦(伊勢灣航空戰)、敵機の増援が加わり不利な状況になりながらも撃墜6機・不確実5機の戦果を挙げますが我も5機4名を失ってしまいます。

直後、戰隊は三木陸軍飛行場に移駐しますが、26日、佐野陸軍飛行場に復帰します。

30日、米艦載機約130機が関西一帯に来襲、港湾・飛行場・駅・列車等が空襲を受け、戰隊の機材1機が地上において中破してしまいます。
戰隊本部は上之郷國民學校に疎開します。

8月13日、戰隊は小牧陸軍飛行場に移駐(由良から第三中隊復帰)しますが、空戦の機会は無く、15日、停戦を迎えます。


飛行第五十五戰隊(天鷲一八四二七)
昭和19(1944)年3月23日、大正陸軍飛行場(大阪)において臨時編成下令、4月30日、編成完結(岩橋重夫少佐、三式戦)しますが、実戦経験者は数名で大半は少飛十三期生・特操一期生が主体で夜間戦闘可能者も少なく低練度でした。

5月25日、戰隊は小牧陸軍飛行場に移駐し第十八飛行團(北島熊男少将、大正~7月17日、第十一飛行師團に改編)隷下に入り、8月、第十一飛行師團隷下の第二十三飛行團(二田原憲治郎大佐)に編入され、中京地区の防空を担当します。

11月6日、戰隊は捷號作戰への転用が下命、特操を中心とした未熟者約20名の留守隊(代田実中尉)を小牧に残置し錬成にあたらせ、11月11日、主力の三式戦38機・輸送機3機(地上勤務者約25名)は沖縄、台湾を経由して18・19日、ルソン島クラーク基地群アンヘレス西飛行場に進出し第二飛行師團(木下勇中将)の指揮下に入り、11月23日、20機がネグロス島タリサイ飛行場に前進します。    

24日、第二次航空総攻撃に戰隊12機は第三十一・五十四戰隊(一式戦、13機)、第二百戰隊(四式戦、13機)・他14機ととも参加、米軍のP38と交戦し6機(第三十一戰隊5機、第二百戰隊4機)が撃墜(戦隊長・岩橋少佐散華、矢野武文大尉が代理)され、帰還機も全機被弾し戦力の大半を喪失してしまいます。

その後、ネグロス島パゴドロ飛行場、次いでマナプラ飛行場に前進し残存機によりレイテ進攻、オルモック湾の船団護衛等にあたり、緒方畩重少尉がP38、5機(うち不確実2)を撃墜する戦果等を挙げますが人員・機材を損耗してしまいます。
緒方少尉等は機材補充にためアンヘレス飛行場に後退し6機を受領しますが、昭和20(1945)年1月、米軍のリンガエン湾上陸を受けアンヘレスに残留、特別攻撃隊の掩護、爆装攻撃を実施した後、2月上旬、台湾に後退しました。
ネグロス島残留の主力は残存機でレイテ島への夜間攻撃を続行しますが、1月17日、矢野大尉が単機で夜間のタ彈攻撃に出撃、散華してしまいます(上村一一大尉が代理)。

一方、小牧の留守隊は昭和19年12月以降、少数機でB29邀撃戦に出撃、昭和20年1月3日夜間、留守隊長・代田中尉はB29に体当たりを敢行し散華、安達武夫少尉は昭和19年12月18日の初陣でB29、1機、22日に2機、1月3日に1機を撃墜しますが、19日の邀撃戦において散華してしまいます。

1月15日、戰隊主力の内地帰還が決定、1月下旬、上村大尉以下7名の空中勤務者は三式戰3機・九九式襲撃機1機に分乗しネグロス島を出発しますが、パラワン島上空において九九式襲撃機が撃墜され上村大尉以下2名が散華、僚機はクチン-昭南島(シンガポール)を経由し、3月、小牧陸軍飛行場に帰還します。

3月中旬、戰隊は新戰隊長・小林賢二郎少佐を迎え、戦力の回復に務めつつ、18日未明、名古屋防空戰に出撃しB29、4機を撃墜します。

31日、天一號作戰(沖縄方面航空戦)参加のため戰隊から8機が抽出され芦屋陸軍飛行場(福岡)に前進、第六航空軍隷下の第一攻撃集團(川原八郎大佐)に編入され、さらに萬世陸軍飛行場(鹿児島)に前進し特別攻撃隊の前路警戒にあたります。

4月9日、戰隊主力は錬成中の一部を残置し萬世に前進し三式戦Ⅱ型へ機種改編を実施、特別攻撃隊の直掩任務、制空任務にあたります。

7月中旬、沖縄の失陥により戰隊は小牧に帰還、8月13日、飛行第百十一戰隊に代わり佐野陸軍飛行場に前進、阪神地区防空任務にあたり、小牧残置隊は三木陸軍飛行場(兵庫)に前進し錬成にあたります。

14日、阪神地区にP47が来襲、戰隊は飛行隊長・前田茂大尉以下全機が出撃、飛行第二百四十六戰隊(大正)、大和海軍航空基地(奈良)の六〇一空戰闘第三〇八飛行隊とともに邀撃(琵琶湖上空邀撃戰)しますが、飛行隊長・前田大尉、藤本研二准尉(飛行第二百四十六戰隊)、兵頭寛一中尉、松山英二少尉(以上戦三〇八)が散華してしまいます。
前田大尉は奈良県上空で敵編隊を捕捉、単機にて交戦しますが、被弾し水田に墜落、操縦桿を握ったまま壮絶な最期を遂げました。

15日正午、佐野陸軍飛行場において大東亜戦争終結ノ詔書を拝聴します。

17日、「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、全機爆装し出撃準備を完了、待命しますが、直後に誤報と判明し出撃中止が下令されます(土佐湾沖海戦)。

8月末、佐野陸軍飛行場は米軍に接収され、戰隊は機材、器具を引渡し、一部は残務処理に残留します。
11月1日 、戦隊長・小林賢二郎少佐以下が残務処理を完了し復員します。


第百四獨立整備隊(帥一八九六二)
当初、各飛行戰隊の飛行機材の整備(中間整備)は元々同一部隊であった飛行場大隊(空地分離により分割、整備1個・警備1個中隊)が担当していました。
しかし、戦域の拡大に伴い外地に進出する飛行戰隊に飛行場大隊が追及できず機材の円滑な運用が困難な状況になったため、飛行場大隊内の整備中隊の人員・資器材を飛行戰隊に転属させると共に、整備中隊を基幹として獨立整備隊を編成し、飛行場大隊は警備・補給中隊のみに改編され補給・警備・飛行場管理等が主任務とになります。

第百四獨立整備隊は、昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號』により第百一~第百五十獨立整備隊(各113名)とともに臨時編成(川西義雄大尉)され四式戰の整備を主任務とし、立川陸軍航空廠(田辺収四郎大佐)隷下に編入されます。

昭和20(1945)年3月14日、佐野陸軍飛行場に展開し飛行第百十一戰隊に配属され整備、武装、機体修理等の中間整備にあたります。
5月以降、沖縄に向かう特別攻撃隊機のト號改装(特別攻撃隊用の改装)を実施しました。

8月15日、停戦を迎え、31日、復員完結します。


第七十一飛行場大隊(羽八三七一)
昭和16(1941)年3月1日、滿洲國三江省杏樹飛行場において編成完結、航空兵團(鈴木率道中将、新京)隷下となります。

昭和17(1942)年、航空兵團隷下の第二飛行集團(寺本熊市中将、4月、第二飛行師團に改編)に編入されます。
5月、航空兵團は第二航空軍に改編されます。

昭和19(1944)年5月12日、捷號作戰に向け第二・第四飛行師團に飛行部隊を集中運用する為、師團を離れ第二航空軍直轄となります。
6月21日、杏樹飛行場を出発、22日、主力は八面通、一部を鶏寧、下城鎮飛行場に展開します。

第二航空軍隷下の飛行部隊は南方への転用、及び支那方面での作戦従事等で約100機に消耗していましたが、多数の地上部隊は殆ど無傷でした。

昭和20(1945)年5月8日、第二航空軍は關東軍から航空總軍隷下となります。

6月2日、大隊(蝦名俊彦少佐)は約110名を第三十飛行場大隊に転属、主力は八面通飛行場を出発、12日、佐野陸軍飛行場に展開、天神山(現、泉佐野市中庄)に大隊本部を設置、警備・補給各中隊は各所に分散配置し飛行場の管理にあたります。

7月30日、米艦載機約130機が関西一帯に来襲、港湾・飛行場・駅・列車等が空襲を受け、戰隊の機材1機が地上において中破してしまいます。

大隊は獨立整備隊とともに空襲から飛行機を護るべく、學校報國隊の協力を得て機材を壇波羅山や掩体濠に退避させ、滑走路付近には國民學校毎に1台の製作を依頼した木製模擬飛行機を並べ欺瞞、航空燃料はドラム缶200本が土丸の松林、100本が樫井の祇園神社、潤滑油は新家の山中に退避保管させるなか、8月15日、停戦を迎えます。


残存飛行機
五式戦:3
三式戦:21
一式戦:14
九七戦:2
練習機:11
合計 51機


主要参考文献
『戦時下陸軍佐野飛行場の建設と機能の推移』(平成8年3月 横山篤夫『泉佐野市研究』第二号)

『戦史叢書19 本土防空作戦』(昭和43年10月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『戦史叢書97 陸軍航空作戦基盤の建設運用』( 昭和54年4月 防衛庁防衛研究所戦史室)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』(平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『陸軍特別攻撃隊』(平成7年7月 モデルアート社)

・国土地理院 空撮(昭和21年6月6日 国土地理院 NI-53-15-10

・Yahoo!地図
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はじめまして

まだこの佐野飛行場についてだけですが、初めて読ませて頂き、驚きました!目からうろこがこぼれっぱなし!感嘆しました!
私は3月末前から10日間かけて九州の特攻隊ゆかりの地めぐりをしました。まず(福岡県)大刀洗へ行き→自衛隊目達原駐屯地→目達原飛行場跡→甘木生徒隊跡→(佐賀県)西往寺→鳥栖のピアノ→(鹿児島)万世平和祈念館→万世飛行場跡→知覧→鹿屋→(広島県)原爆ドーム→大和ミュージアムと。
そして先日4月の末前、ゴールデンウィークを利用して、再び万世平和祈念館へ行きました。
おかげで、前回西往寺さんでお借りしたDVDを手渡しでお返しすることができました。
一度目に万世平和祈念館へ行った時、娘が「大阪の佐野とか書いてた人がおったで」と言っていましたが、もう会館を出た後で確かめられませんでした。自分の目で見ていませんので半信半疑なところもありながら“佐野で飛行機が来る所って言ったら、もしかしてあの佐野飛行場って鳥居のある所かな…”と、ふと思いましたが深くは考えませんでした。
だけど、二度目の万世訪問でまた娘が「この人やで」と教えてくれた方。確かに『佐野飛行場(大阪)』とありました。しかも、出撃順に並んでいる一番最後の遺影の方でした。この約一ヶ月後には終戦だなんて…。涙です。
前おきが大変長くなりましたが、私は泉佐野市に住んでいます。佐野飛行場のことは鳥居のある『佐野飛行場神社』で知っていましたが、只単に“飛行安全祈願の神社”と今の今まで思っていました。『佐野飛行場』で検索し、こちらへたどり着きました。読ませて頂いて初めてその所以を知り余りに“灯台もと暗し”な自分が情けなくなりました。

今まではパソコンで別ウィンドウで見比べないといけない現地図と当時の飛行場跡を本当に解りやすく重ねてくださっているのには感涙です!!

私は家事育児で、なかなかじっくりと読ませて頂く時間が有りませんが、私が知りたい事がびっしり詰まっていると思いますので、ゆっくり拝読したく思います。

ご先祖様と日本を護ってくださった英霊の皆様に日々感謝です。


コメントありがとうございます

chengさん、初めまして!
10日間かけて九州特攻隊ゆかりの地めぐりとは凄いですね。
私も時たま英霊の故地を訪ねますが最長で4日くらいなので、10日となるとかなり密度が濃いものと拝察されます。

万世平和祈念館は今年開館した所ですね。
私もかねがね知覧とともに訪ねてみたいと思っているのですが、未だ行けていないのが現状です。

靖國神社を始め、江田島の教育参考館、各自衛隊駐屯地資料館には特別攻撃隊隊員の方々の遺書が展示されていますが、彼らの純忠至誠の精神、愛するモノを護ろうとする心には万感胸に迫る物があり、彼らを含む英霊の尊い犠牲の上に今の平和が成り立っている事を強く実感する次第です。
本当に感謝してもしきれないくらいです。

佐野飛行場は存在した期間が短く、また資料も少なく、その存在が戦史に興味ある方にしか知られていないのが現状ですので、お近くに住んでおられてもご存じないのは致し方ないと思います。
私が大阪市内在住ということもあり関西が中心ではありますが、この拙いブログで存在を知って頂ければ嬉しく思います。
拙ブログは英霊顕彰と陸海軍の遺構紹介がメインなのですが、他の雑多な記事が多数あるので、画面左手のカテゴリを選択して頂いた方が良いと思います。

お暇な時にでもご笑覧下されば幸いです。

佐野飛行場と枝幹二大尉

 元留守飛行兵団、大日本飛行協会関係者の縁者で、佐野飛行場の対岸の関西空港で働いていたものです。
 知覧から飛び立った第165振武隊の枝幹二大尉がこの泉佐野飛行場に一時滞在されたようですね。
 彼の遺書は平成7年のさだまさし「さよならにっぽん」というアルバムの中の「兵士の手紙ときよしこの夜」の中で朗読されており、現在もyou-tubeで視聴することができます。先年、知覧の記念館を訪問したときその遺書を見たと思います。
 それと縁者は戦争における戦闘軍人と戦争指導軍人の違いを指摘しているのですが、終戦時の陸軍航空本部長だった寺本熊市中将が責任をとって割腹自決を遂げたことに「あれは戦闘軍人であったのに責任をとった」と感じたようです。(なお中将の御子息は、和歌山県の隅田八幡宮にて宮司をされています。)
 さて航空兵として戦闘軍人として戦没された特攻隊の中に半島出身者の方が居たことはご存知でしょうか。
 知覧の記念館には私の確認した範囲で6名の半島出身者の方があり、訪問者ノートには数少ないながら彼の地の文字での書き込みがありました。
 高倉健さんが映画の題材に取り上げられていたかと思いますが、かの地では売国奴、この地では知られざる者、生命をかけた人が忘れられてはならないと思い、せめて追悼の拙詠を手向けたい。合掌。
 
 まさきくて あはむ日あれや なみはやの 佐野に分かれし 君にも君にも 
 あずさゆみ かけてぞちかふ かささぎの 羽の光も ますらをの風

※かささぎは彼の地の鳥類の象徴だそうです。

Re: 佐野飛行場と枝幹二大尉

空港出張所長様、初めまして。

関係者の方でしか知り得ない情報、興味深く拝読いたしました。
さだまさしの件は知りませんでした。

戦争・戦闘、結果に対しては指揮官と兵、階級、出身、中央と前線など立場により捉え方が違うので、手記や戦記など読んでいても同一の事柄を記述しながら論調は様々ありますね。
死人に口無しではありませんが、亡き上司に責任を全部被せて自己弁護に終始する参謀などの手記もありますが、どうかと思います。

特攻隊員に半島出身者が居たことは勿論存じています。
手元の資料では陸軍の判明分しかありませんが、14名が突入散華されています。
戦没者名簿には日本名で書かれているので総数は不明のようです。
彼らに対し戦後、想像や脚色でおかしな解釈がされる事が多いですが、出身地に関係無く日本人の一人として日本人同様に国や愛する人・物のために純忠至誠の精神で征かれたと思います。
現在の平和が彼らの尊い犠牲の上に成立している事は忘れてはならず、今を生きる我々が彼らの顕彰慰霊を行うのは当然だと考えます。

初めまして

タジヒノマヒトシマと申します。
私は、55FRに所属しておりました北村幸男少尉について調べております。
北村少尉は昭和20年1月18日、常陸KFDより55FRへ赴任しました。
昭和20年2月12日、編隊長として小牧より出撃、お昼過ぎにB29に体当たり、これを撃墜、でもパラシュートが半開きのため、岐阜県で戦死とゆうのが墜落現場の方々のお話なんです。
ところが、北村少尉の戸籍は、14日午前の戦死と記載されています。
北村少尉の親戚一同、私以外は14日が命日だと思っております。
でもいろいろな記録を照らし合わせると、14日では辻褄が合わないのです。
北村少尉の墜落現場には慰霊碑がありまして、慰霊碑の日付は12日なんです。
私は12日として、北村少尉のお墓の文字を彫り替えようと考えております。

前置きが長くなってしまいましたが、12日の出撃記録とかってのは調べる方法があるのでしょうか?
ご存じでしたら、ご教授願えないでしょうか?

Re: 初めまして

丹比真人嶋様
はじめまして。

航空関係の知識にはそれほど明るく無いので何とも言えませんが、一応私の知りうる限りをお書きします。

まず一次史料です。
飛五十五の出撃記録ですが、戦隊の『戦闘詳報』が閲覧できればすぐ分かると思います。
ただ、戦後に散逸してしまったりで無い可能性もあり、一度防衛省の防衛研究所図書館に問い合わせてみるのが良いと思います。
http://www.nids.go.jp/military_archives/

次に二次資料として、戦隊史はどうでしょうか?
飛五十五の戦隊史は以下があります。
『飛行第五十五戦隊の記録』(昭和63年、増田雅久著、五五会事務局出版)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001954228-00

『南溟の果てに 飛行第五十五戦隊』(平成5年、大江卓二著、星雲社出版)

『~記録』の方は公共図書館も所蔵しており、図書館相互協力を使えば送料だけで最寄りの図書館に引っ張れると思います。

戸籍が14日戦没となっている事から、可能性は低いですが兵籍簿の開示はされましたでしょうか?
兵籍簿の原本が見れれば、散華された際の詳しい状況が書かれている可能性があります。
陸軍なので本籍地の都道府県の福祉関係の部署に問い合わせれば手順を教えて頂けます。
因みに拙ブログにも手順は上げていますが、自治体により手順が若干異なります。
http://shinkokunippon.blog122.fc2.com/blog-entry-19.html

こちらも可能性は低いですが飛五十五が展開していた小牧陸軍飛行場の跡地にある空自・小牧基地の資料館に関連資料が所蔵されている事もあります。
広報に確認すれば教えて貰えると思います。

また、戦友会(飛五十五であれば「五五会」)が何か資料を持っているかも知れませんが、近年高齢化に伴い解散が相次いでいるので、愛知県護國神社等に確認すれば何か教えてもらえるかも知れません。

因みに手持ちの資料『日本陸軍戦闘機隊』にも北村少尉の戦死日時は「20.2.14 名古屋 B29体当り」と記載されています。

かなり調べてらっしゃると推察しますので、もう既に実行していたらすみません。

私の大叔父も19.3.18に散華しましたが、祖父(大叔父の兄)が建てた墓標の刻字は「19.3.17 戦死」となっており、間違っています。
祖父母とも他界しており何を元にしたのか不明ですが、兵籍簿、靖国神社、護國神社の記録は全て「19.3.18」になっており、私も正しい表示に改修を考えています。

命日と散華の日

もしかしたら、大叔父様のご命日と戦死の日を混同されて17日と彫られたのかもしれませんね
18日が散華の日で17日が命日となりますからね
大叔父様は英霊様ですので、日本神道の基準はわかりませんが…
仏教では、そうなります

北村少尉は私の大叔父なんですが、12日散華、建国記念日が命日となります
我が家では私の父親がお坊さんなんで、仏教で北村少尉を弔っております

それと、ありがとうございました
めっちゃ参考になりました
調査が行き詰まっていて、突破口が見つかりました

Re: 命日と散華の日

丹比直人嶋 様
なるほど!そういう事だったのですね!
墓石の表記は「昭和19年3月17日 於ブーゲンビル島 戦死」となっているので、おそらく祖父は命日と散華日を混同したのかも知れませんね。
お陰さまで墓石の謎が解けました。
ありがとうございました。

私の拙い知識が少しでもお役にたったら嬉しく思います。
北村少尉の謎も解けることをお祈り致します。

追伸
訂正ですが「戦闘詳報」は主に海軍の呼び方で、陸軍は同じ性質のものでも呼び方は主に「陣中日誌」でした。
陸軍と海軍では兵器や組織でも同じ物なのに呼び名が異なるのでややこしいです・・・
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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