徳島海軍航空基地 (徳島海軍航空隊)
徳島県板野郡松茂町に所在する海上自衛隊 徳島航空基地は徳島海軍航空基地の跡地にあります。

▲徳島海軍航空基地跡に遺る弾薬庫
【探索日時】
平成22(2010)年2月26日、9月25日、
平成25(2013)年3月26日
【更新情報】
平成27(2015)年7月4日:大幅改訂(遺構追加、地図訂正、加筆訂正)

<徳島海軍航空基地周辺の関連施設>

※緑文字が当記事の紹介施設
①徳島海軍航空基地 滑走路
②徳島海軍航空隊
③ 〃 燃料置場
④飛行機運搬路(誘導路)
⑤徳島海軍航空隊 射撃場
⑥第十一海軍航空廠 徳島補給工場
⑦徳島海軍航空隊 短波方位測定所
⑧東北方高角砲陣地
⑨矢倉高角砲陣地
⑩斎田照空隊陣地
⑪堀江村水源地
⑫徳島海軍航空隊 送信所
⑬木津隧道
⑭姫田隧道(燃弾庫)
⑮営外士官・下士官宿舎
⑯第十一海軍航空廠徳島補給工場 将校宿舎
⑰ 〃 工員宿舎
<徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊)概略>
昭和13(1938)年10月、海軍航空本部は徳島県板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)の水田地帯に練習航空隊設営を計画、昭和14(1939)年9月1日、工事が起工され、昭和17(1942)年4月1日、徳島海軍航空隊が開隊、昭和18(1943)年6月2日、徳島海軍航空基地の竣工式が挙行されます。
徳島海軍航空隊は発足当初、艦上戦闘機の実用機教程航空隊でしたが、昭和18(1943)年10月1日、偵察術練習生教育へ変換、昭和20(1945)年5月5日、練習航空隊の指定を解除され全機が特攻機に指定、神風特別攻撃隊徳島白菊隊を編成します。
<徳島海軍航空基地 要目>
航空基地・航空隊用地 : 1,490,000㎡(砂埋地)
※用地は『引渡し目録』(上記)と『松茂町誌』(後述)ではかなりの開きがあります。
建物 : 73,800㎡(120棟)
滑走路 : 540,000㎡(平面滑走路、アスファルト200×600m、芝張100×800m 2本)
飛行機運搬路(誘導路) : 6,000m(填圧10×6000m)
掩体壕 : 無蓋小型13基
残存航空機 : なし
<遺構について>
徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊)の跡地は航空自衛隊・徳島基地、及び学校、住宅地になっており、殆ど何も遺っていません。
徳島海軍航空基地
① 徳島海軍航空基地 滑走路
② 徳島海軍航空隊
弾薬庫
海上自衛隊徳島航空基地東側にあり、現在は民間倉庫会社の倉庫として使用されています。
鉄筋コンクリート製半土中式で112,000mあり、『施設引渡目録 徳島航空基地』によると停戦時、航空基地の建物の中で唯一無傷だった様です。
停戦時、二十五粍機銃弾10,600、十二糎高角砲弾192発、小銃弾11,480、小銃空砲1,455、焼夷筒168、信管1,319、伝火筒1,255、火管918、打殻若干数が格納されていた様です。

▲北側の道路から
土日は倉庫会社が休みのため駐車場にトラックが停まっており殆ど見通せなくなります。
見学は平日が良いかも知れません。

▲入口は中央に大きな扉、その左右にそれぞれ大きさの違う出入口があります。
屋根の上に換気塔の様な物が見えます。

▲西から

▲ 西側は屋根付近に小さな窓があるのみです。
※見学の際は企業の特性上、管理に非常に厳格なため、駐車場など敷地内は絶対に立ち入らない様、注意が必要です。
また、海上自衛隊徳島航空基地の南東隅に建物基礎の様なコンクリート塊が遺されていますが、詳細は不明です。

③ 徳島海軍航空隊 燃料置場
停戦後、米軍の接収を経て、現在は海上自衛隊徳島航空基地の燃料庫になっています。
④ 飛行機運搬路(誘導路)
平面滑走路の東西に設営されていました。
停戦後、農地として払い下げられますが、東側は昭和25(1950)年の地図に描かれている事から、しばらくは手付かずで放置されていた様です。
現在は全て農地になり痕跡はありません。
⑤ 徳島海軍航空隊 射撃場
滑走路から紀伊水道に向け射線500mの小銃射撃場が設置されていました。
現在も僅かに区画が遺ります。
⑥ 第十一海軍航空廠 徳島補給工場
昭和18(1943)年4月、第十一海軍航空廠 徳島徳島補給工場の用地買収を開始します(設立時期を徳島空と同じ“昭和17年4月1日”とする資料もありますが、詳細は不明)。
第十一海軍航空廠(広島県呉市広)管下の補給工場として設置されます。
昭和20(1945)年8月16日、停戦に伴い、徳島海軍航空基地、同航空隊とともに米軍により接収、建物は解体され焼却、農地として払い下げられます。
現在は松茂中学(昭和33年5月19日、海上自衛隊徳島航空隊設置に伴い、現在地に移転)、団地、住宅地、畑になり痕跡はありません。
⑦ 徳島海軍航空隊 短波方位測定所
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると「板野郡川内村」(現、徳島市平石夷野付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
木造2階建ての方位測定所がありました。
「設立後、嘗て使用せしことなし」と記載されており、使用されなかった(基地機能が第二徳島に移転されたため?)様です。
⑧ 飛行場東北方高角砲陣地 (森隊)
松茂町豊久豊久開拓の出雲神社付近にありました。
『松茂町誌』には「この頃には陸軍の高射砲陣地が移動してきており」と記載されていますが、『施設引渡目録 徳島航空基地』に記載の「飛行場東北方高角砲陣地」と思われます。
また、矢倉に加え増設されている様な表現である事から、矢倉より後に設営された様です。
十二糎高角砲が4門、木造平屋建て兵舎2棟、弾庫2棟がありました。
⑨ 矢倉高角砲陣地 (鹿海隊)
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると大津村矢倉(現、鳴門市大津町矢倉付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
『呉海軍警備隊戦時日誌』によると昭和19(1944)年10月時点で高角砲×4(工事中)となっており、上記の理由から矢倉高角砲陣地の事と思われます。
十二糎高角砲が4門、弾庫1棟がありました。
⑪ 堀江村水源地
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると板野郡堀江村(現、徳島市藍住町勝瑞付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
木造平屋建ての喞筒室、番舎、附属建物各1棟がありました。
⑫ 徳島海軍航空隊 送信所
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると板野郡坂東町(現、鳴門市大麻町川崎)にありました。
送信所については後日ご紹介いたします。
<徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊) 概略>
昭和13(1938)年10月、海軍省は航空軍備充実のため『第三次軍備補充計畫』(通称「マル三計畫」)の完成とともに『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)を先行実施、実用航空隊、練習航空隊、既存航空隊の拡張を開始、海軍航空本部は徳島縣板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)の水田地帯に練習航空隊設営を計画します。
4月、呉鎭守府参謀長・戸苅隆治少将は参謀・貴志少佐、呉海軍建築部第一課長・高木海軍技師を伴い松茂村を訪問、三木正三郎村長に協力を要請し、実地調査をします。
松茂村では村会、土木委員会、関係地区の総代会等で協議の結果、国策遂行のため協力を決します。
8月15日、航空基地用地458,400坪が確定、10月25日、海軍航空本部は呉海軍経理部を通じ1反800~950円で用地買収を開始、買収用地内の民家の移転作業が始まります。
昭和14(1939)年3月7日、第七十四回帝國議會(昭和13年12月26日~昭和14年3月25日)において『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)が承認、正式に松茂村に航空隊設置が決定します。
9月1日、呉海軍建築部の指揮のもと阪神築港㈱により、今切川、旧吉野川からサンドポンプを使用し埋め立てが開始され、昭和15(1940)年6月25日、周辺の軍用道路用地を買収、航空隊施設が起工されます。
昭和17(1942)年4月1日、未完成の徳島海軍航空基地において艦上戦闘機の実用機教程航空隊として徳島海軍航空隊が開隊(九六艦戦、零戦使用)、8月19日、隊外酒保、営外宿舎、工員宿舎等隊外施設が起工、昭和18(1943)年4月、第十一海軍航空廠徳島徳島補給工場用地、第二期航空基地拡張用地を買収、6月2日、平面転圧で南側に200×600mのアスファルト張り駐機場、北側に100×800mの芝張滑走路をV時に2本備えた徳島海軍航空基地が完成し、軍官民関係者、地元住民を招き竣工式が挙行され、続いて祝賀飛行、祝宴が行われます。
昭和19(1944)年4月、第三期航空基地拡張用地を買収(航空基地用地673,500坪、補給工場用地574,800坪『松茂町誌』より)します。

▲徳島海軍航空基地 北西上空から
徳島海軍航空隊、第十一海軍航空廠徳島補給工場の施設が見えます。
昭和20(1945)年1月6日1000、艦載機数10機が来襲し機銃掃射、被害軽微、3月19日、戦爆連合の艦載機数10機が来襲し、高角砲の対空砲火により1機撃墜、被害軽微、7月24日0730、米英機動部隊艦載機など数十機が来襲、高角砲、機銃の対空砲火により3機撃墜(不確実3機、報道は15機)しますが、本部庁舎、士官舎、兵舎、講堂、指揮所、烹炊所、病室など等主要建物多数がが破壊されてしまい、施設復旧にあたるなか、8月16日、停戦を迎えました。
同日、敵に施設を渡すのを潔しとしない隊員が兵舎に放火、類焼により殆どの建物が焼失してしまいます。
10月21日、米第6軍第24歩兵師団(ウッドルフ少将、12,000名)が三津浜港に入港、22日、将兵の上陸、26日、物資の揚陸が完了、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設し、四国地方に進駐を開始します。
航空基地は米軍により接収されますが、昭和21(1946)年、接収が解除され大蔵省に返還、四國財務局の管理下に置かれ、『自作農創設特別措置法』(昭和21年10月21日、法律第四十三号)に基づき農林省(現、農林水産省)に移管され、舗装された滑走路以外は開拓団に農地として払い下げられます。
昭和22(1947)年3月1日、兵舎1棟が松茂中学に払い下げられ校舎に改装、他の残存していた建物は解体され徳島大学や鳴門高校の校舎部材に、格納庫は徳島市民会館などに移設されます。
昭和32(1957)年3月21日、海上自衛隊徳島航空隊の設置が決定し、施設工事が起工され、11月26日、呉地方隊に徳島航空隊設立準備室が設置されます。
昭和33(1958)年3月16日、海上自衛隊 呉地方隊隷下の徳島航空隊が発足し、滑走路改修を開始、12月、1,500×35mの滑走路が完成し、海上自衛隊徳島航空基地として運用開始、昭和37(1962)年10月19日、徳島飛行場は公共用飛行場に指定されます。
昭和62(1987)年4月24、滑走路を海側に500m延長(2,000×45m)、平成(1996)年12月13日、さらに500m延長(2,500×45m)します。
その後、徳島航空隊は数度の改編を経て、昭和48(1973)年3月1日、徳島教育航空群となり現在に至ります。
徳島航空基地は徳島海軍航空基地時の滑走路を北東方向に拡張、海上自衛隊施設も滑走路に沿って建てられており、海軍航空隊時代の面影はありません。

▲『飛行場水上機基地平面図 (鳴尾・姫路・大和・徳島・小松島・串本各基地)』より

▲昭和23(1948)年3月4日の徳島海軍航空基地空撮 (国土地理院所蔵NI-53-21-8)
※画像は加工しています。

▲現在の徳島海軍航空基地周辺の空撮(白抜き部分が基地跡)
旧滑走路を中心に海上自衛隊、空港の施設があります。
<展開部隊>
徳島海軍航空隊
昭和9(1934)年3月27日、米国は所謂ヴィンソン・トランメル法(第一次ヴィンソン案)を成立させ海軍軍備の拡張を計画、昭和10(1935)年12月9日、第二次ロンドン海軍軍縮会議において、我が国は既存の不公正な比率主義を廃し公正妥当な同一保有最大限を設定する事を提案しますが、米英に黙殺されたため、昭和11(1936)年1月15日、会議を脱退し再び軍備拡張期に入ります。
昭和11(1936)年、米国はさらに第一次ヴィンソン案を補強する海軍増強予算(戦艦2、駆逐艦20、潜水艦6、飛行機335)を成立させます。
海軍省は米国の軍備増強に対抗すべく『第三次海軍軍備補充計畫(通称「マル三計画」)』を策定し、第七十回帝國議會(昭和11(1936)年12月26日~(昭和12(1937)年3月31日)において承認されます。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国の早期解決の方針は支那国民党政府の度重なる不法行為により尽く反故にされ、事変は長期化していきます。
海軍は事変の完遂、第三国の干渉を防ぐため戦備の強化を促進するとともに、航空隊の大幅増備を計画、『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)を策定し、昭和14(1939)3月7日、第七十四回帝國議會(昭和13(1938)年12月26日~昭和14(1939)年3月25日)において承認され、昭和18年末までに実用航空隊10個、練習航空隊8個を新設、既存航空隊8個の拡張を実施します。
昭和17(1942)年4月1日、マル四計畫に基づき、徳島縣板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)に設営中の徳島航空基地において徳島海軍航空隊(小西成三大佐)が開隊、呉鎭守府麾下の第十二聯合航空隊(松永貞市少将)に編入されます。
徳島空は練習航空隊に指定され、艦上戦闘機実用機教程を担当、呉鎭守府部隊(呉鎭守府司令長官指揮)第十二聯合航空隊(第十二聯合航空隊司令官指揮)に部署され、教育、警戒、攻撃に従事します。
同日、土浦海軍航空隊(茨城)より海軍丙種飛行豫科練習生(以下「丙飛」)・第六期生30名が入隊、第三十二期飛行練習生(以下「飛練」)として九六艦戦、零戦による実用機教程を開始します。

▲徳島海軍航空隊、開隊後初の軍艦旗掲揚

▲この道路上に軍艦旗掲揚台がありました。
上掲写真はこの写真左側(白い建物付近)にあった航空隊本部庁舎から
撮影された様です。
10月、操縦専修飛行學生、飛行練習生、豫備學生、豫備練習生の実用機教程を開始します。
昭和17(1942)年11月3日、土浦空より甲飛・第十期150名が入隊、飛練三十二期生として実用機教程を開始、昭和18(1943)年11月1日、飛練三十二期生が卒業、各航空隊に着任します。
昭和18(1943)年2月1日、第十二聯合航空隊は呉鎭守府麾下から新編された練習聯合航空總隊(戸塚道太郎中将、海軍大臣麾下)に編入(作戦に関しては従来通り呉鎭守府部隊に部署)されます。
5月22日、『大海幕一機密第百六十五號』に基づき、大本營海軍部は練習航空隊に日施哨戒で1月1回の対潜哨戒、及び船団護衛に一直1機以内での実施を下令します。
7月15日、司令・小西成三大佐は第一南遣艦隊司令部附を経て第九三六海軍航空隊司令に転出し、高橋農夫吉大佐が四五二空司令から横須賀鎭守府附を経て徳島空司令に着任します。
昭和18(1943)年10月1日、徳島空は艦上戦闘機実用機教程から偵察術練習生教育への変換に入り、九七式艦上攻撃機、九〇式機上作業練習機、機上作業練習機「白菊」の配備が開始されます。
同日、司令・高橋農夫吉大佐は舘山空司令に転出、小松島空司令・前原富義大佐が徳島空司令を兼務、12月1日、徳島空副長兼教頭・川元徳次郎大佐が徳島空司令兼副長に就任します。

▲徳島海軍航空基地の駐機場に並ぶ機上作業練習機「白菊」

▲海上自衛隊徳島航空基地資料館に展示の「白菊」の座席と車輪
昭和19(1944)年2月1日、偵察術練習生教育の担当に変更終了、第十三聯合航空隊(市丸利之助少将)に編入されます。
5月28日、松山空宇和島分遣隊より飛練第三十八期生280名が転隊してきます。
7月25日、松山空宇和島分遣隊より飛練第三十九期生320名、三重空西宮分遣隊より同132名、美保空より111名が転隊してきます。
8月6日、『大海指第二百六十六號』に基づき、徳島空は大阪警備府司令長官の作戦指揮下に入り、船団護衛、対潜掃討の強化を下令されます。

▲讃岐山脈上空を飛ぶ徳島空の「白菊」五一二号機
9月1日、松山空より飛練第四十期生280名が転隊してきます。
11月1日、三重空奈良分遣隊より飛練四十一期生245名が転隊してきます。

▲飛行科特修生 昭和19(1944)年7月15日

▲十三期飛行科予備学生 昭和19(1944)年7月
昭和20(1945)年2月16日、第十三聯合航空隊司令官・伊藤良秋少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員の訓練修了、及び徳島空の教官要員から半数、偵察専修豫備學生の最上級者90名から特攻要員の選抜を下令されます。
第十四期予備學生、飛練第三十八期生は教育機関を短縮し卒業、在隊の飛練第三十九、第四十、第四十一期生は空襲に備え疎開施設、決號作戰(本土決戦)に向け陸戦訓練、第二徳島海軍航空基地設営作業にあたります。
3月1日、練習聯合航空總隊は第十航空艦隊(聯合艦隊麾下)に改編(前田稔中将、霞ヶ浦)、第十三聯合航空隊は第十航空艦隊に編入されます。
徳島空と第十三聯合航空隊は第八基地航空部隊(第十航空艦隊司令長官指揮)に部署され、特攻要員の錬成にあたります。
17日、大本營海軍部は『天一號作戰 要領』を発令、第八基地航空部隊指揮官(第十航空艦隊司令長官・前田稔中将)は指揮下にある作戦可能部隊のうち、鈴鹿山脈以西の航空隊を第一機動基地航空部隊指揮官(第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将、鹿屋)の作戦指揮下への編入を、第一機動基地航空部隊指揮官は第八基地航空部隊から編入の戦力整理を下令します。
26日、米軍が慶良間諸島に上陸を開始、天一號作戰が発令されます。
4月上旬、徳島空において徳島第二海軍航空基地設営隊が編成され市場村に派遣されます。
5月5日、徳島空は第十三聯合航空隊の復帰に伴い、第五航空艦隊麾下の第十二航空戰隊(城島高次少将)に編入、徳島空は練習航空隊の指定を解除され、徳島空の兼教官は解職されます。
第十二航空戰隊(徳島、高知、西条、観音寺、福山、岩國、築城、博多、諫早、天草、光州、釜山空)は第一機動基地航空部隊特攻航空戰隊(第十二航空戰隊)に部署され、特攻作戦の準備を開始、徳島空保有の「白菊」120機(240名、4個中隊)全機が特攻機に指定されます。
12日、海軍總隊(聯合艦隊司令長官・豐田副武大将兼務)は第一機動基地航空部隊と第七基地航空部隊により聯合基地航空部隊(通称「天航空部隊」、第一機動基地航空部隊指揮官・宇垣纒中将)を編成、引き続き天號作戰の続行を下令します。
14日、菊水五號作戰が終了、実用機での出撃は終了し以降は機上作業練習機「白菊」を主体とする部隊の泊地夜間攻撃が開始されます。
20日、第十二航空戰隊司令官・城島少将は徳島空司令・川元大佐に対し、白菊30機の串良前進を下令、22日、聯合基地航空部隊は、第十二航空戰隊に麾下白菊隊による菊水七號作戰B法(鹿屋から300浬圏外)による沖縄周辺の敵艦船攻撃を下令、23日、川元大佐は「徳島白菊隊」第一中隊(大内藤郎大尉)30機を率い徳島空を出発、築城海軍航空基地(福岡)で燃料を補給、串良海軍航空基地(鹿児島)に前進します。
24日、菊水七號作戰発動に伴い、2050、徳島第一白菊隊14機は25番2発を懸吊し串良を発進、11機22名は鹿屋海軍航空基地を発進した菊水部隊白菊隊(高知空)8機16名ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華、揚陸艦・輸送駆逐艦各1隻を撃破します。
25日、第二中隊(岩崎保大尉)35機が串良に前進します。
27日、菊水八號作戦発動に伴い、2040、徳島第二白菊隊16機は25番2発を懸吊し串良を発進、7機14名は鹿屋を発進した菊水部隊白菊隊12機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
28日、1913、徳島第三白菊隊15機は25番2発を懸吊し串良を発進、4機8名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
6月6日、海軍總隊は決號作戰(本土決戦)における第十二航空戰隊の麾下練習機特攻隊の展開配備を、第一配備は九州方面、第二配備を高知沿岸と策定、7月上旬までに展開配備を下令します。
第一、第二中隊の待機者は一旦徳島空に帰隊、再編成されます。
13日、第十二航空戰隊は沖縄周辺海域の敵艦船に対する夜間攻撃準備を下令、15日、新編された徳島空白菊隊は串良に前進します。
20日、徳島空司令兼副長・川元徳次郎大佐は佐世保鎭守府附に転出、北東海軍航空隊司令・藤野寛大佐が横須賀鎭守府附を経て徳島空司令兼副長に就任します。
6月21日、菊水十號作戦発動に伴い、1927、徳島第四白菊隊8機は25番2発を懸吊し串良を発進、3機6名は鹿屋を発進した菊水部隊第二白菊隊5機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
23日、沖縄防衛にあたっていた第三十二軍(牛島滿中将)が玉砕してしまいます。
25日2003、徳島第五白菊隊8機は25番2発を懸吊し串良を発進、5機10名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
沖縄の失陥とともに白菊隊の待機者は次期作戰に備え徳島空に復帰します。
6月初旬、航空機、搭乗員の一部は阿波郡市場町(現、阿波市)に設営が進む第二徳島海軍航空基地(市場牧場(マキバ)に移駐、特攻訓練を続行します。
7月24日、徳島海軍航空基地に米英機動部隊艦載機が来襲、飛練生17名が散華してしまいます。
徳島空は徳島海軍航空基地の復旧、第二徳島海軍航空基地の設営、及び特攻訓練、陸戦訓練など決號作戰(本土決戦)の準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
21日、徳島空の中原一雄少尉、23日、退避壕内で森下茂中尉、長島良治少尉(徳島第五白菊隊予備機搭乗)が機関銃で自決します。
11月1日、残務処理が完了、徳島海軍航空隊は復帰します。
第六三四海軍航空隊 戦闘第一六三飛行隊
戦闘第一六七飛行隊
昭和19(1944)年8月1日、横須賀鎭守府所管の特設航空隊として新編(福田澄夫大尉(両飛行隊長兼務)、各艦戦48、内補用12)され、第六三四海軍航空隊(天谷孝久大佐、第三艦隊、第四航空戰隊、第一機動艦隊麾下)に編入、六三四空は機動部隊本隊(第一機動艦隊司令長官指揮)に部署され、岩國海軍航空基地において兵力整備と錬成にあたります。
9月1日時点の2隊の戦力は零戦二一型70機(稼働数不明)、紫電44機(稼働数17)でした。
10月1日、零戦59機(稼働数43)、搭乗員100名(実働64)で徳島海軍航空基地に移駐します。
10日、米機動部隊艦載機が南西諸島に来襲、聯合艦隊司令長官・豐田副武大将は四航戰(松田千秋少将)の作戦可能航空戦力に基地作戦準備を完了し、待機を下令します。
12日、米機動部隊艦載機が台湾に来襲、聯合艦隊は基地航空部隊に捷一號作戰を発動、第一機動艦隊司令長官・小澤治三郎中将に四航戰の基地作戦可能航空全力を第六基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官・福留繁中将)の指揮下編入を下令します。
13日、四航戰の零戦32機は二二一空、三四一空の零戦56機と第五十一航空戰隊司令官(山田定義少将)の指揮下、第一攻撃隊第一制空隊に部署され、14日、台湾に前進し敵機動部隊の攻撃を下令されます。
14日、四航戰の零戦40機は鹿屋海軍航空基地に集結、沖縄本島中陸軍飛行場を経由し、敵機動部隊を攻撃、20機が臺南海軍航空基地に進出します。
17日、鹿屋に残留した四航戰の戦闘機隊のうち、空母発着艦可能者は第三航空戰隊(第三艦隊司令長官直率)の空母「瑞鶴」・「瑞鳳」・「千代田」に分乗を下令されます。
三航戰に搭載された派遣部隊は機動部隊本隊主力(第一機動艦隊司令長官指揮)に部署され、19日0600までに出撃準備完了、捷一號作戰出撃を下令されます。
同日、聯合艦隊は第六基地航空部隊指揮官・福留繁中将に指揮下の戦力を台湾に集結、整備し、戦局の推移に伴い適宜、比島への転進を下令します。
19日、両飛行隊の空母派遣隊は大分海軍航空基地に集結、各空母に搭載され比島東方海上に向け、豊後水道を南下します。
21日、四航戰の零戦36機は第六基地航空部隊捷一號攻撃部署第一攻撃集團第三攻撃隊第三援護隊に部署され、台中からルソン島パムパム基地に前進を下令され、22日、クラーク基地群に前進します。
23日、四航戰零戦隊は第一攻撃集團主力とクラーク基地群から、ラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に出撃しますが、敵戦闘機に阻止され引き返します。
24日、再度、ラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に出撃しますが、またも敵戦闘機に阻止され、零戦7機が未帰還(集團全体で11機)、飛行隊長・福田大尉が散華してしまいます。
同日、空母派遣隊の零戦30機は攻撃隊の28機とともに敵機動部隊攻撃に発艦しますが、会敵できずルソン島北部のツゲガラオ基地などに着陸します。
25日、第五基地航空部隊(大西瀧治郎中将、第一航空艦隊)と第六基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官・福留繁中将)で第一聯合基地航空部隊を編成(福留繁中将)します。
機動部隊本隊主体は敵機動部隊の誘致に成功、直掩機の零戦以外を比島の航空基地に向かわせます(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田沈没)。
26日、四航戰零戦隊は第一遊撃部隊(栗田健男中将)の上空直掩のため、クラーク基地群からシブヤン海に出撃します。
29日、米機動部隊艦載機がマニラ、クラーク基地群に来襲、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに133機で邀撃、22機を喪失してしまいます。
以後、多號作戰(レイテ島増援部隊輸送の直掩)、レイテ島対地攻撃にあたり、一部がセブ基地に前進します。
同日、第一聯合基地航空部隊は在比島の戦闘機隊により第三神風特別攻撃隊16隊の編成を開始、戰一六三より梅花隊隊員として分隊長・尾辻是清中尉(隊長)、大下春男飛行兵長が選抜されます。
11月1日、大下飛長は25番1発を懸吊し第一ニコルス基地を発進、レイテ湾内の敵輸送船団に突入し散華します。
3日、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに6機でセブ基地を出撃、レイテ島タクロバンの対地攻撃に向かいますが、全機未帰還になり、猪口智中尉が散華してしまいます。
5.6日、米機動部隊艦載機がマニラ、クラーク基地群に来襲、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに68機で邀撃、9機を喪失してしまい、戦力が半減、士官搭乗員が皆無となり、内地に帰還します。
12日1645、尾辻中尉は25番1発を懸吊しセブ基地を発進、タクロバン沖の敵輸送船団に突入し散華します。
15日、戦闘第一六三飛行隊、戦闘第一六七飛行隊ともに復帰、第六三四海軍航空隊から除外されます。
第二一〇海軍航空隊
昭和20(1945)年1月5日、零戦1、紫電7、機上練習機2機が徳島海軍航空基地に派遣され、阪神地区防空にあたります。
※詳細は明治海軍航空基地の記事で執筆予定です。
神風特別攻撃隊 徳島白菊隊
昭和20(1945)年2月16日、第十三聯合航空隊司令官・伊藤良秋少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員の訓練修了、及び徳島空の教官要員から半数、偵察専修豫備學生の最上級者90名から特攻要員の選抜を下令されます。
5月5日、徳島空は第十三聯合航空隊の復帰に伴い、第五航空艦隊麾下の第十二航空戰隊(城島高次少将)に編入、徳島空は練習航空隊の指定を解除され、徳島空の兼教官は解職されます。
第十二航空戰隊は第一機動基地航空部隊特攻航空戰隊(第十二航空戰隊)に部署され、特攻作戦の準備を開始、徳島空保有の「白菊」120機(240名、4個中隊)全機が特攻機に指定されます。

▲徳島海軍航空基地指揮所前で撮影された徳島白菊隊隊員
14日、菊水五號作戰が終了、実用機での出撃は終了し以降は機上作業練習機「白菊」を主体とする部隊の泊地夜間攻撃が開始されます。

▲徳島白菊隊は垂直尾翼に菊水の部隊章を描いて出撃しました。
20日、第十二航空戰隊司令官・城島少将は徳島空司令・川元大佐に対し、白菊30機の串良前進を下令、22日、聯合基地航空部隊は、第十二航空戰隊に麾下白菊隊による菊水七號作戰B法(鹿屋から300浬圏外)による沖縄周辺の敵艦船攻撃を下令、23日、川元大佐は「徳島白菊隊」第一中隊(大内藤郎大尉)30機を率い徳島空を出発、築城海軍航空基地(福岡)で燃料を補給、串良海軍航空基地(鹿児島)に前進します。
24日、菊水七號作戰発動に伴い、2050、徳島第一白菊隊14機(隊長:山田基三中尉・本田清少尉/藤原一男上飛曹・脇田七郎ニ飛曹/須田治少尉・根本喜一少尉/井上博上飛曹・伊東勝義一飛曹/高野利雄上飛曹・江田耕二一飛曹/入江登二飛曹・坂井和真二飛曹/足立行平上飛曹・林隆ニ飛曹/栗木朝明一飛曹・真野敏弘少尉/山岸純一二飛曹・中山昭二飛曹/岡島勝二飛曹・浦上博一飛曹/佐藤四朗少尉・市野義春少尉/寺井政雄二飛曹・平島榮一飛曹/成田松之助二飛曹・渕本幸雄少尉/中岡保美二飛曹・三浦松義一飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、山田隊長機、山岸機、佐藤機は燃圧低下、発動機不調等で引き返しますが、11機22名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華、揚陸艦・駆逐艦各1隻を撃破します。

▲徳島第一白菊隊 記念撮影
前列左から本田少尉、山田隊長、飛行隊長・田中一郎大尉、徳島空司令・川元大佐、大内大尉、須田少尉、根本少尉
2列目同、井上上飛曹、高野上飛曹、坂井二飛曹、入江二飛曹、伊東一飛曹
3列目同、藤原上飛曹、脇田上飛曹、江田一飛曹、林二飛曹、足立上飛曹
25日、第二中隊(岩崎保大尉)35機が串良に前進します。

▲徳島白菊隊 第二中隊
27日、菊水八號作戦発動に伴い、2040、徳島第二白菊隊16機(隊長:大内藤郎大尉・岡久克己少尉/松橋新一少尉・高田眞一中尉/山下榮飛曹長・松本龜三郎一飛曹/田中正喜中尉・中野善弘少尉/井尻登良一二飛曹・岩崎正男一飛曹/清水盛正少尉・土屋亘少尉/鈴木坂男二飛曹・古川太郎二飛曹/山田基三中尉・本田清少尉/中尾照雄二飛曹・安藤正三二飛曹/荒木圭壱少尉・井上健吉少尉/石井正行二飛曹・稲子多喜男一飛曹/帯川文男二飛曹・能勢寛治少尉/植原廣昭二飛曹・相澤彬一一飛曹/佐藤四郎少尉・市野義春少尉/門田善次二飛曹・瀧本幸一二飛曹/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉)は25番2発を懸吊し出撃の準備をしますが、清水機、鈴木機、山田機は発進中止、13機は串良を発進、大内隊長機は発動機不調により鹿屋に、植原機は喜界島に、山口機は奄美大島に不時着、松橋機、山下機、門田機は引き返すなか、7機14名は鹿屋を発進した菊水部隊白菊隊12機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入、散華します。

▲前列左から松橋少尉、田中飛行隊長、川元司令、大内隊長、高田中尉、
2列目同、中の少尉、山田中尉、清水少尉、岡久少尉、本田少尉、土屋少尉、山下上飛曹
3列目同、安達二飛曹、中尾二飛曹、井尻二飛曹、鈴木二飛曹、古川二飛曹、岩崎一飛曹、松本一飛曹
28日、1913、徳島第三白菊隊15機(隊長:山田基三中尉・本田清少尉/清水盛正少尉・土屋亘少尉/鈴木坂男二飛曹・古川太郎二飛曹/大久保舜一少尉・山縣正美少尉/門田善次二飛曹・瀧本幸一二飛曹/山岸純一二飛曹・中山昭二飛曹/佐藤詮夫少尉・川田計少尉/大平雄助少尉・鹿谷徳一少尉/高橋義夫上飛曹・野田信太郎少尉/酒井稔二飛曹・野中欣吉二飛曹/上村早苗二飛曹・三宅四郎二飛曹/星野宗四郎少尉・松田惠夫少尉/松岡利光少尉・岩井月男少尉/北光園一飛曹・爲廣二晃二飛曹/竹村昭二二飛曹・小賀野隆治少尉)は25番2発を懸吊し出撃を準備しますが、大久保機、佐藤機、星野機、竹村機は天候悪化のため発進中止、他機は串良を発進、天候悪化により山田隊長機は引き返し、鈴木機(鹿屋)、大平機(諫早)、高橋機(屋久島、重傷)、酒井機(出水)、松岡機(隈庄)が不時着するなか、4機8名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入、散華します。

▲徳島海軍航空基地に駐機する徳島空の六二四号機
同機は北光一飛曹・爲廣二飛曹の乗機として昭和20(1945)年5月28日1913、串良を発進、沖縄周辺海域の敵艦船群に突入しました。
6月6日、海軍總隊は決號作戰(本土決戦)における第十二航空戰隊の麾下練習機特攻隊の展開配備を、第一配備は九州方面、第二配備を高知沿岸と策定、7月上旬までに展開配備を下令します。
徳島白菊隊の待機者は一旦徳島空に帰隊、再編成されます。
13日、第十二航空戰隊は沖縄周辺海域の敵艦船に対する夜間攻撃準備を下令、15日、新編された徳島白菊隊は串良に前進します。
6月21日、菊水十號作戦発動に伴い、1927、徳島第四白菊隊8機(隊長:井上國平中尉・末次直輔少尉/北脇博夫中尉・水無瀬勇少尉/大住博世上飛曹・萩原満三少尉/橋口治男上飛曹・小賀野隆治少尉/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉/宇都宮博二飛曹・松田憲夫少尉/今西登志男二飛曹・緒方秀一一飛曹/酒井稔二飛曹・野中欣吉二飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、天候不良により橋口機は上甑島に不時着、山口機は引き返し、宇都宮機は燃料欠乏により徳之島に不時着、機材不調により今西機は萬世に不時着、酒井機は引き返すなか、3機6名は鹿屋を発進した菊水部隊第二白菊隊5機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
2050、北脇中尉・水無瀬少尉は「ワレ健在ナリ」、2202、「白菊ニ幸アレ」を発信、0050、セト(戦艦突入)連送、続いて長符を発信し突入、散華しました。
23日、沖縄防衛にあたっていた第三十二軍(牛島滿中将)が玉砕してしまいます。
25日2003、徳島第五白菊隊8機16名(谷川喜之中尉・隊長:鹿谷徳一中尉/菅野繁蔵上飛曹・澤原昭夫二飛曹/水戸丈夫上飛曹・高木敏夫上飛曹/星野宗四郎中尉・關根榮昭中尉/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉/酒井稔二飛曹・大西一雄二飛曹/今西登志男二飛曹・緒方秀一一飛曹/隅今悦二二飛曹・木田由男一飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、天候不良により酒井機は鹿屋に不時着、星野機は引き返しますが、隊長機は宝島に不時着大破し谷川中尉は散華してしまいますが、5機10名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
2325、山口二飛曹・三浦少尉は「ワレ裏針ス」、2347、「ワレ意気天ヲ衝ク」、0036、テ連送、0039、「ワレ沖縄ニ来ル」、0042、「ワレ突入セントス」、0044、「天皇陛下萬歳」、0045、「ユタ連送喜ブ」、0113、長符発信、0123、突入、散華しました。
0057、菅野上飛曹・澤原二飛曹は「ワレ今ヨリ高度落ル」、0137、ユタ(輸送船体当たり)連送し突入、散華しました。
沖縄の失陥とともに白菊隊の待機者は次期作戰に備え徳島空に復帰、6月初旬、航空機、搭乗員の一部は第二徳島海軍航空基地に移駐、決號作戰(本土決戦)に向け特攻訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<主要参考文献>
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (二)』 (平成21年4月 渡辺博史 楽學庵)
『戦史叢書95 海軍航空概史』 (昭和51年6月 朝雲新聞社)
『神風特別攻撃隊』 (平成7年11月 モデルアート社)
『海軍 特別攻撃隊戦闘記録』 (平成138月 アテネ書房)
『施設引渡目録 徳島航空基地 第二徳島航空基地』(アジア歴史資料センター)
『兵器軍需品引渡目録 徳島航空基地』( 〃 )
『呉海軍警備隊戦時日誌』( 〃 )
『松茂町誌 上巻』 (昭和50年4月 松茂町誌編纂室)
『松茂町誌 中巻』 (昭和51年7月 松茂町誌編纂室)
国土地理院所蔵米軍空撮 (NI-53-21-8)
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▲徳島海軍航空基地跡に遺る弾薬庫
【探索日時】
平成22(2010)年2月26日、9月25日、
平成25(2013)年3月26日
【更新情報】
平成27(2015)年7月4日:大幅改訂(遺構追加、地図訂正、加筆訂正)


<徳島海軍航空基地周辺の関連施設>

※緑文字が当記事の紹介施設
①徳島海軍航空基地 滑走路
②徳島海軍航空隊
③ 〃 燃料置場
④飛行機運搬路(誘導路)
⑤徳島海軍航空隊 射撃場
⑥第十一海軍航空廠 徳島補給工場
⑦徳島海軍航空隊 短波方位測定所
⑧東北方高角砲陣地
⑨矢倉高角砲陣地
⑩斎田照空隊陣地
⑪堀江村水源地
⑫徳島海軍航空隊 送信所
⑬木津隧道
⑭姫田隧道(燃弾庫)
⑮営外士官・下士官宿舎
⑯第十一海軍航空廠徳島補給工場 将校宿舎
⑰ 〃 工員宿舎
<徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊)概略>
昭和13(1938)年10月、海軍航空本部は徳島県板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)の水田地帯に練習航空隊設営を計画、昭和14(1939)年9月1日、工事が起工され、昭和17(1942)年4月1日、徳島海軍航空隊が開隊、昭和18(1943)年6月2日、徳島海軍航空基地の竣工式が挙行されます。
徳島海軍航空隊は発足当初、艦上戦闘機の実用機教程航空隊でしたが、昭和18(1943)年10月1日、偵察術練習生教育へ変換、昭和20(1945)年5月5日、練習航空隊の指定を解除され全機が特攻機に指定、神風特別攻撃隊徳島白菊隊を編成します。
<徳島海軍航空基地 要目>
航空基地・航空隊用地 : 1,490,000㎡(砂埋地)
※用地は『引渡し目録』(上記)と『松茂町誌』(後述)ではかなりの開きがあります。
建物 : 73,800㎡(120棟)
滑走路 : 540,000㎡(平面滑走路、アスファルト200×600m、芝張100×800m 2本)
飛行機運搬路(誘導路) : 6,000m(填圧10×6000m)
掩体壕 : 無蓋小型13基
残存航空機 : なし
<遺構について>
徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊)の跡地は航空自衛隊・徳島基地、及び学校、住宅地になっており、殆ど何も遺っていません。
徳島海軍航空基地
① 徳島海軍航空基地 滑走路
② 徳島海軍航空隊
弾薬庫
海上自衛隊徳島航空基地東側にあり、現在は民間倉庫会社の倉庫として使用されています。
鉄筋コンクリート製半土中式で112,000mあり、『施設引渡目録 徳島航空基地』によると停戦時、航空基地の建物の中で唯一無傷だった様です。
停戦時、二十五粍機銃弾10,600、十二糎高角砲弾192発、小銃弾11,480、小銃空砲1,455、焼夷筒168、信管1,319、伝火筒1,255、火管918、打殻若干数が格納されていた様です。

▲北側の道路から
土日は倉庫会社が休みのため駐車場にトラックが停まっており殆ど見通せなくなります。
見学は平日が良いかも知れません。

▲入口は中央に大きな扉、その左右にそれぞれ大きさの違う出入口があります。
屋根の上に換気塔の様な物が見えます。

▲西から

▲ 西側は屋根付近に小さな窓があるのみです。
※見学の際は企業の特性上、管理に非常に厳格なため、駐車場など敷地内は絶対に立ち入らない様、注意が必要です。
また、海上自衛隊徳島航空基地の南東隅に建物基礎の様なコンクリート塊が遺されていますが、詳細は不明です。

③ 徳島海軍航空隊 燃料置場
停戦後、米軍の接収を経て、現在は海上自衛隊徳島航空基地の燃料庫になっています。
④ 飛行機運搬路(誘導路)
平面滑走路の東西に設営されていました。
停戦後、農地として払い下げられますが、東側は昭和25(1950)年の地図に描かれている事から、しばらくは手付かずで放置されていた様です。
現在は全て農地になり痕跡はありません。
⑤ 徳島海軍航空隊 射撃場
滑走路から紀伊水道に向け射線500mの小銃射撃場が設置されていました。
現在も僅かに区画が遺ります。
⑥ 第十一海軍航空廠 徳島補給工場
昭和18(1943)年4月、第十一海軍航空廠 徳島徳島補給工場の用地買収を開始します(設立時期を徳島空と同じ“昭和17年4月1日”とする資料もありますが、詳細は不明)。
第十一海軍航空廠(広島県呉市広)管下の補給工場として設置されます。
昭和20(1945)年8月16日、停戦に伴い、徳島海軍航空基地、同航空隊とともに米軍により接収、建物は解体され焼却、農地として払い下げられます。
現在は松茂中学(昭和33年5月19日、海上自衛隊徳島航空隊設置に伴い、現在地に移転)、団地、住宅地、畑になり痕跡はありません。
⑦ 徳島海軍航空隊 短波方位測定所
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると「板野郡川内村」(現、徳島市平石夷野付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
木造2階建ての方位測定所がありました。
「設立後、嘗て使用せしことなし」と記載されており、使用されなかった(基地機能が第二徳島に移転されたため?)様です。
⑧ 飛行場東北方高角砲陣地 (森隊)
松茂町豊久豊久開拓の出雲神社付近にありました。
『松茂町誌』には「この頃には陸軍の高射砲陣地が移動してきており」と記載されていますが、『施設引渡目録 徳島航空基地』に記載の「飛行場東北方高角砲陣地」と思われます。
また、矢倉に加え増設されている様な表現である事から、矢倉より後に設営された様です。
十二糎高角砲が4門、木造平屋建て兵舎2棟、弾庫2棟がありました。
⑨ 矢倉高角砲陣地 (鹿海隊)
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると大津村矢倉(現、鳴門市大津町矢倉付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
『呉海軍警備隊戦時日誌』によると昭和19(1944)年10月時点で高角砲×4(工事中)となっており、上記の理由から矢倉高角砲陣地の事と思われます。
十二糎高角砲が4門、弾庫1棟がありました。
⑪ 堀江村水源地
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると板野郡堀江村(現、徳島市藍住町勝瑞付近)にあった様ですが、詳細は不明です。
木造平屋建ての喞筒室、番舎、附属建物各1棟がありました。
⑫ 徳島海軍航空隊 送信所
『施設引渡目録 徳島航空基地』によると板野郡坂東町(現、鳴門市大麻町川崎)にありました。
送信所については後日ご紹介いたします。
<徳島海軍航空基地(徳島海軍航空隊) 概略>
昭和13(1938)年10月、海軍省は航空軍備充実のため『第三次軍備補充計畫』(通称「マル三計畫」)の完成とともに『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)を先行実施、実用航空隊、練習航空隊、既存航空隊の拡張を開始、海軍航空本部は徳島縣板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)の水田地帯に練習航空隊設営を計画します。
4月、呉鎭守府参謀長・戸苅隆治少将は参謀・貴志少佐、呉海軍建築部第一課長・高木海軍技師を伴い松茂村を訪問、三木正三郎村長に協力を要請し、実地調査をします。
松茂村では村会、土木委員会、関係地区の総代会等で協議の結果、国策遂行のため協力を決します。
8月15日、航空基地用地458,400坪が確定、10月25日、海軍航空本部は呉海軍経理部を通じ1反800~950円で用地買収を開始、買収用地内の民家の移転作業が始まります。
昭和14(1939)年3月7日、第七十四回帝國議會(昭和13年12月26日~昭和14年3月25日)において『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)が承認、正式に松茂村に航空隊設置が決定します。
9月1日、呉海軍建築部の指揮のもと阪神築港㈱により、今切川、旧吉野川からサンドポンプを使用し埋め立てが開始され、昭和15(1940)年6月25日、周辺の軍用道路用地を買収、航空隊施設が起工されます。
昭和17(1942)年4月1日、未完成の徳島海軍航空基地において艦上戦闘機の実用機教程航空隊として徳島海軍航空隊が開隊(九六艦戦、零戦使用)、8月19日、隊外酒保、営外宿舎、工員宿舎等隊外施設が起工、昭和18(1943)年4月、第十一海軍航空廠徳島徳島補給工場用地、第二期航空基地拡張用地を買収、6月2日、平面転圧で南側に200×600mのアスファルト張り駐機場、北側に100×800mの芝張滑走路をV時に2本備えた徳島海軍航空基地が完成し、軍官民関係者、地元住民を招き竣工式が挙行され、続いて祝賀飛行、祝宴が行われます。
昭和19(1944)年4月、第三期航空基地拡張用地を買収(航空基地用地673,500坪、補給工場用地574,800坪『松茂町誌』より)します。

▲徳島海軍航空基地 北西上空から
徳島海軍航空隊、第十一海軍航空廠徳島補給工場の施設が見えます。
昭和20(1945)年1月6日1000、艦載機数10機が来襲し機銃掃射、被害軽微、3月19日、戦爆連合の艦載機数10機が来襲し、高角砲の対空砲火により1機撃墜、被害軽微、7月24日0730、米英機動部隊艦載機など数十機が来襲、高角砲、機銃の対空砲火により3機撃墜(不確実3機、報道は15機)しますが、本部庁舎、士官舎、兵舎、講堂、指揮所、烹炊所、病室など等主要建物多数がが破壊されてしまい、施設復旧にあたるなか、8月16日、停戦を迎えました。
同日、敵に施設を渡すのを潔しとしない隊員が兵舎に放火、類焼により殆どの建物が焼失してしまいます。
10月21日、米第6軍第24歩兵師団(ウッドルフ少将、12,000名)が三津浜港に入港、22日、将兵の上陸、26日、物資の揚陸が完了、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設し、四国地方に進駐を開始します。
航空基地は米軍により接収されますが、昭和21(1946)年、接収が解除され大蔵省に返還、四國財務局の管理下に置かれ、『自作農創設特別措置法』(昭和21年10月21日、法律第四十三号)に基づき農林省(現、農林水産省)に移管され、舗装された滑走路以外は開拓団に農地として払い下げられます。
昭和22(1947)年3月1日、兵舎1棟が松茂中学に払い下げられ校舎に改装、他の残存していた建物は解体され徳島大学や鳴門高校の校舎部材に、格納庫は徳島市民会館などに移設されます。
昭和32(1957)年3月21日、海上自衛隊徳島航空隊の設置が決定し、施設工事が起工され、11月26日、呉地方隊に徳島航空隊設立準備室が設置されます。
昭和33(1958)年3月16日、海上自衛隊 呉地方隊隷下の徳島航空隊が発足し、滑走路改修を開始、12月、1,500×35mの滑走路が完成し、海上自衛隊徳島航空基地として運用開始、昭和37(1962)年10月19日、徳島飛行場は公共用飛行場に指定されます。
昭和62(1987)年4月24、滑走路を海側に500m延長(2,000×45m)、平成(1996)年12月13日、さらに500m延長(2,500×45m)します。
その後、徳島航空隊は数度の改編を経て、昭和48(1973)年3月1日、徳島教育航空群となり現在に至ります。
徳島航空基地は徳島海軍航空基地時の滑走路を北東方向に拡張、海上自衛隊施設も滑走路に沿って建てられており、海軍航空隊時代の面影はありません。

▲『飛行場水上機基地平面図 (鳴尾・姫路・大和・徳島・小松島・串本各基地)』より

▲昭和23(1948)年3月4日の徳島海軍航空基地空撮 (国土地理院所蔵NI-53-21-8)
※画像は加工しています。

▲現在の徳島海軍航空基地周辺の空撮(白抜き部分が基地跡)
旧滑走路を中心に海上自衛隊、空港の施設があります。
<展開部隊>
徳島海軍航空隊
昭和9(1934)年3月27日、米国は所謂ヴィンソン・トランメル法(第一次ヴィンソン案)を成立させ海軍軍備の拡張を計画、昭和10(1935)年12月9日、第二次ロンドン海軍軍縮会議において、我が国は既存の不公正な比率主義を廃し公正妥当な同一保有最大限を設定する事を提案しますが、米英に黙殺されたため、昭和11(1936)年1月15日、会議を脱退し再び軍備拡張期に入ります。
昭和11(1936)年、米国はさらに第一次ヴィンソン案を補強する海軍増強予算(戦艦2、駆逐艦20、潜水艦6、飛行機335)を成立させます。
海軍省は米国の軍備増強に対抗すべく『第三次海軍軍備補充計畫(通称「マル三計画」)』を策定し、第七十回帝國議會(昭和11(1936)年12月26日~(昭和12(1937)年3月31日)において承認されます。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国の早期解決の方針は支那国民党政府の度重なる不法行為により尽く反故にされ、事変は長期化していきます。
海軍は事変の完遂、第三国の干渉を防ぐため戦備の強化を促進するとともに、航空隊の大幅増備を計画、『第四次海軍軍備充實計畫』(通称「マル四計畫」)を策定し、昭和14(1939)3月7日、第七十四回帝國議會(昭和13(1938)年12月26日~昭和14(1939)年3月25日)において承認され、昭和18年末までに実用航空隊10個、練習航空隊8個を新設、既存航空隊8個の拡張を実施します。
昭和17(1942)年4月1日、マル四計畫に基づき、徳島縣板野郡松茂村(現、徳島県板野郡松茂町)に設営中の徳島航空基地において徳島海軍航空隊(小西成三大佐)が開隊、呉鎭守府麾下の第十二聯合航空隊(松永貞市少将)に編入されます。
徳島空は練習航空隊に指定され、艦上戦闘機実用機教程を担当、呉鎭守府部隊(呉鎭守府司令長官指揮)第十二聯合航空隊(第十二聯合航空隊司令官指揮)に部署され、教育、警戒、攻撃に従事します。
同日、土浦海軍航空隊(茨城)より海軍丙種飛行豫科練習生(以下「丙飛」)・第六期生30名が入隊、第三十二期飛行練習生(以下「飛練」)として九六艦戦、零戦による実用機教程を開始します。

▲徳島海軍航空隊、開隊後初の軍艦旗掲揚

▲この道路上に軍艦旗掲揚台がありました。
上掲写真はこの写真左側(白い建物付近)にあった航空隊本部庁舎から
撮影された様です。
10月、操縦専修飛行學生、飛行練習生、豫備學生、豫備練習生の実用機教程を開始します。
昭和17(1942)年11月3日、土浦空より甲飛・第十期150名が入隊、飛練三十二期生として実用機教程を開始、昭和18(1943)年11月1日、飛練三十二期生が卒業、各航空隊に着任します。
昭和18(1943)年2月1日、第十二聯合航空隊は呉鎭守府麾下から新編された練習聯合航空總隊(戸塚道太郎中将、海軍大臣麾下)に編入(作戦に関しては従来通り呉鎭守府部隊に部署)されます。
5月22日、『大海幕一機密第百六十五號』に基づき、大本營海軍部は練習航空隊に日施哨戒で1月1回の対潜哨戒、及び船団護衛に一直1機以内での実施を下令します。
7月15日、司令・小西成三大佐は第一南遣艦隊司令部附を経て第九三六海軍航空隊司令に転出し、高橋農夫吉大佐が四五二空司令から横須賀鎭守府附を経て徳島空司令に着任します。
昭和18(1943)年10月1日、徳島空は艦上戦闘機実用機教程から偵察術練習生教育への変換に入り、九七式艦上攻撃機、九〇式機上作業練習機、機上作業練習機「白菊」の配備が開始されます。
同日、司令・高橋農夫吉大佐は舘山空司令に転出、小松島空司令・前原富義大佐が徳島空司令を兼務、12月1日、徳島空副長兼教頭・川元徳次郎大佐が徳島空司令兼副長に就任します。

▲徳島海軍航空基地の駐機場に並ぶ機上作業練習機「白菊」

▲海上自衛隊徳島航空基地資料館に展示の「白菊」の座席と車輪
昭和19(1944)年2月1日、偵察術練習生教育の担当に変更終了、第十三聯合航空隊(市丸利之助少将)に編入されます。
5月28日、松山空宇和島分遣隊より飛練第三十八期生280名が転隊してきます。
7月25日、松山空宇和島分遣隊より飛練第三十九期生320名、三重空西宮分遣隊より同132名、美保空より111名が転隊してきます。
8月6日、『大海指第二百六十六號』に基づき、徳島空は大阪警備府司令長官の作戦指揮下に入り、船団護衛、対潜掃討の強化を下令されます。

▲讃岐山脈上空を飛ぶ徳島空の「白菊」五一二号機
9月1日、松山空より飛練第四十期生280名が転隊してきます。
11月1日、三重空奈良分遣隊より飛練四十一期生245名が転隊してきます。

▲飛行科特修生 昭和19(1944)年7月15日

▲十三期飛行科予備学生 昭和19(1944)年7月
昭和20(1945)年2月16日、第十三聯合航空隊司令官・伊藤良秋少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員の訓練修了、及び徳島空の教官要員から半数、偵察専修豫備學生の最上級者90名から特攻要員の選抜を下令されます。
第十四期予備學生、飛練第三十八期生は教育機関を短縮し卒業、在隊の飛練第三十九、第四十、第四十一期生は空襲に備え疎開施設、決號作戰(本土決戦)に向け陸戦訓練、第二徳島海軍航空基地設営作業にあたります。
3月1日、練習聯合航空總隊は第十航空艦隊(聯合艦隊麾下)に改編(前田稔中将、霞ヶ浦)、第十三聯合航空隊は第十航空艦隊に編入されます。
徳島空と第十三聯合航空隊は第八基地航空部隊(第十航空艦隊司令長官指揮)に部署され、特攻要員の錬成にあたります。
17日、大本營海軍部は『天一號作戰 要領』を発令、第八基地航空部隊指揮官(第十航空艦隊司令長官・前田稔中将)は指揮下にある作戦可能部隊のうち、鈴鹿山脈以西の航空隊を第一機動基地航空部隊指揮官(第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将、鹿屋)の作戦指揮下への編入を、第一機動基地航空部隊指揮官は第八基地航空部隊から編入の戦力整理を下令します。
26日、米軍が慶良間諸島に上陸を開始、天一號作戰が発令されます。
4月上旬、徳島空において徳島第二海軍航空基地設営隊が編成され市場村に派遣されます。
5月5日、徳島空は第十三聯合航空隊の復帰に伴い、第五航空艦隊麾下の第十二航空戰隊(城島高次少将)に編入、徳島空は練習航空隊の指定を解除され、徳島空の兼教官は解職されます。
第十二航空戰隊(徳島、高知、西条、観音寺、福山、岩國、築城、博多、諫早、天草、光州、釜山空)は第一機動基地航空部隊特攻航空戰隊(第十二航空戰隊)に部署され、特攻作戦の準備を開始、徳島空保有の「白菊」120機(240名、4個中隊)全機が特攻機に指定されます。
12日、海軍總隊(聯合艦隊司令長官・豐田副武大将兼務)は第一機動基地航空部隊と第七基地航空部隊により聯合基地航空部隊(通称「天航空部隊」、第一機動基地航空部隊指揮官・宇垣纒中将)を編成、引き続き天號作戰の続行を下令します。
14日、菊水五號作戰が終了、実用機での出撃は終了し以降は機上作業練習機「白菊」を主体とする部隊の泊地夜間攻撃が開始されます。
20日、第十二航空戰隊司令官・城島少将は徳島空司令・川元大佐に対し、白菊30機の串良前進を下令、22日、聯合基地航空部隊は、第十二航空戰隊に麾下白菊隊による菊水七號作戰B法(鹿屋から300浬圏外)による沖縄周辺の敵艦船攻撃を下令、23日、川元大佐は「徳島白菊隊」第一中隊(大内藤郎大尉)30機を率い徳島空を出発、築城海軍航空基地(福岡)で燃料を補給、串良海軍航空基地(鹿児島)に前進します。
24日、菊水七號作戰発動に伴い、2050、徳島第一白菊隊14機は25番2発を懸吊し串良を発進、11機22名は鹿屋海軍航空基地を発進した菊水部隊白菊隊(高知空)8機16名ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華、揚陸艦・輸送駆逐艦各1隻を撃破します。
25日、第二中隊(岩崎保大尉)35機が串良に前進します。
27日、菊水八號作戦発動に伴い、2040、徳島第二白菊隊16機は25番2発を懸吊し串良を発進、7機14名は鹿屋を発進した菊水部隊白菊隊12機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
28日、1913、徳島第三白菊隊15機は25番2発を懸吊し串良を発進、4機8名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
6月6日、海軍總隊は決號作戰(本土決戦)における第十二航空戰隊の麾下練習機特攻隊の展開配備を、第一配備は九州方面、第二配備を高知沿岸と策定、7月上旬までに展開配備を下令します。
第一、第二中隊の待機者は一旦徳島空に帰隊、再編成されます。
13日、第十二航空戰隊は沖縄周辺海域の敵艦船に対する夜間攻撃準備を下令、15日、新編された徳島空白菊隊は串良に前進します。
20日、徳島空司令兼副長・川元徳次郎大佐は佐世保鎭守府附に転出、北東海軍航空隊司令・藤野寛大佐が横須賀鎭守府附を経て徳島空司令兼副長に就任します。
6月21日、菊水十號作戦発動に伴い、1927、徳島第四白菊隊8機は25番2発を懸吊し串良を発進、3機6名は鹿屋を発進した菊水部隊第二白菊隊5機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
23日、沖縄防衛にあたっていた第三十二軍(牛島滿中将)が玉砕してしまいます。
25日2003、徳島第五白菊隊8機は25番2発を懸吊し串良を発進、5機10名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
沖縄の失陥とともに白菊隊の待機者は次期作戰に備え徳島空に復帰します。
6月初旬、航空機、搭乗員の一部は阿波郡市場町(現、阿波市)に設営が進む第二徳島海軍航空基地(市場牧場(マキバ)に移駐、特攻訓練を続行します。
7月24日、徳島海軍航空基地に米英機動部隊艦載機が来襲、飛練生17名が散華してしまいます。
徳島空は徳島海軍航空基地の復旧、第二徳島海軍航空基地の設営、及び特攻訓練、陸戦訓練など決號作戰(本土決戦)の準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
21日、徳島空の中原一雄少尉、23日、退避壕内で森下茂中尉、長島良治少尉(徳島第五白菊隊予備機搭乗)が機関銃で自決します。
11月1日、残務処理が完了、徳島海軍航空隊は復帰します。
第六三四海軍航空隊 戦闘第一六三飛行隊
戦闘第一六七飛行隊
昭和19(1944)年8月1日、横須賀鎭守府所管の特設航空隊として新編(福田澄夫大尉(両飛行隊長兼務)、各艦戦48、内補用12)され、第六三四海軍航空隊(天谷孝久大佐、第三艦隊、第四航空戰隊、第一機動艦隊麾下)に編入、六三四空は機動部隊本隊(第一機動艦隊司令長官指揮)に部署され、岩國海軍航空基地において兵力整備と錬成にあたります。
9月1日時点の2隊の戦力は零戦二一型70機(稼働数不明)、紫電44機(稼働数17)でした。
10月1日、零戦59機(稼働数43)、搭乗員100名(実働64)で徳島海軍航空基地に移駐します。
10日、米機動部隊艦載機が南西諸島に来襲、聯合艦隊司令長官・豐田副武大将は四航戰(松田千秋少将)の作戦可能航空戦力に基地作戦準備を完了し、待機を下令します。
12日、米機動部隊艦載機が台湾に来襲、聯合艦隊は基地航空部隊に捷一號作戰を発動、第一機動艦隊司令長官・小澤治三郎中将に四航戰の基地作戦可能航空全力を第六基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官・福留繁中将)の指揮下編入を下令します。
13日、四航戰の零戦32機は二二一空、三四一空の零戦56機と第五十一航空戰隊司令官(山田定義少将)の指揮下、第一攻撃隊第一制空隊に部署され、14日、台湾に前進し敵機動部隊の攻撃を下令されます。
14日、四航戰の零戦40機は鹿屋海軍航空基地に集結、沖縄本島中陸軍飛行場を経由し、敵機動部隊を攻撃、20機が臺南海軍航空基地に進出します。
17日、鹿屋に残留した四航戰の戦闘機隊のうち、空母発着艦可能者は第三航空戰隊(第三艦隊司令長官直率)の空母「瑞鶴」・「瑞鳳」・「千代田」に分乗を下令されます。
三航戰に搭載された派遣部隊は機動部隊本隊主力(第一機動艦隊司令長官指揮)に部署され、19日0600までに出撃準備完了、捷一號作戰出撃を下令されます。
同日、聯合艦隊は第六基地航空部隊指揮官・福留繁中将に指揮下の戦力を台湾に集結、整備し、戦局の推移に伴い適宜、比島への転進を下令します。
19日、両飛行隊の空母派遣隊は大分海軍航空基地に集結、各空母に搭載され比島東方海上に向け、豊後水道を南下します。
21日、四航戰の零戦36機は第六基地航空部隊捷一號攻撃部署第一攻撃集團第三攻撃隊第三援護隊に部署され、台中からルソン島パムパム基地に前進を下令され、22日、クラーク基地群に前進します。
23日、四航戰零戦隊は第一攻撃集團主力とクラーク基地群から、ラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に出撃しますが、敵戦闘機に阻止され引き返します。
24日、再度、ラモン湾東方の敵機動部隊攻撃に出撃しますが、またも敵戦闘機に阻止され、零戦7機が未帰還(集團全体で11機)、飛行隊長・福田大尉が散華してしまいます。
同日、空母派遣隊の零戦30機は攻撃隊の28機とともに敵機動部隊攻撃に発艦しますが、会敵できずルソン島北部のツゲガラオ基地などに着陸します。
25日、第五基地航空部隊(大西瀧治郎中将、第一航空艦隊)と第六基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官・福留繁中将)で第一聯合基地航空部隊を編成(福留繁中将)します。
機動部隊本隊主体は敵機動部隊の誘致に成功、直掩機の零戦以外を比島の航空基地に向かわせます(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田沈没)。
26日、四航戰零戦隊は第一遊撃部隊(栗田健男中将)の上空直掩のため、クラーク基地群からシブヤン海に出撃します。
29日、米機動部隊艦載機がマニラ、クラーク基地群に来襲、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに133機で邀撃、22機を喪失してしまいます。
以後、多號作戰(レイテ島増援部隊輸送の直掩)、レイテ島対地攻撃にあたり、一部がセブ基地に前進します。
同日、第一聯合基地航空部隊は在比島の戦闘機隊により第三神風特別攻撃隊16隊の編成を開始、戰一六三より梅花隊隊員として分隊長・尾辻是清中尉(隊長)、大下春男飛行兵長が選抜されます。
11月1日、大下飛長は25番1発を懸吊し第一ニコルス基地を発進、レイテ湾内の敵輸送船団に突入し散華します。
3日、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに6機でセブ基地を出撃、レイテ島タクロバンの対地攻撃に向かいますが、全機未帰還になり、猪口智中尉が散華してしまいます。
5.6日、米機動部隊艦載機がマニラ、クラーク基地群に来襲、四航戰零戦隊は僚隊の零戦とともに68機で邀撃、9機を喪失してしまい、戦力が半減、士官搭乗員が皆無となり、内地に帰還します。
12日1645、尾辻中尉は25番1発を懸吊しセブ基地を発進、タクロバン沖の敵輸送船団に突入し散華します。
15日、戦闘第一六三飛行隊、戦闘第一六七飛行隊ともに復帰、第六三四海軍航空隊から除外されます。
第二一〇海軍航空隊
昭和20(1945)年1月5日、零戦1、紫電7、機上練習機2機が徳島海軍航空基地に派遣され、阪神地区防空にあたります。
※詳細は明治海軍航空基地の記事で執筆予定です。
神風特別攻撃隊 徳島白菊隊
昭和20(1945)年2月16日、第十三聯合航空隊司令官・伊藤良秋少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員の訓練修了、及び徳島空の教官要員から半数、偵察専修豫備學生の最上級者90名から特攻要員の選抜を下令されます。
5月5日、徳島空は第十三聯合航空隊の復帰に伴い、第五航空艦隊麾下の第十二航空戰隊(城島高次少将)に編入、徳島空は練習航空隊の指定を解除され、徳島空の兼教官は解職されます。
第十二航空戰隊は第一機動基地航空部隊特攻航空戰隊(第十二航空戰隊)に部署され、特攻作戦の準備を開始、徳島空保有の「白菊」120機(240名、4個中隊)全機が特攻機に指定されます。

▲徳島海軍航空基地指揮所前で撮影された徳島白菊隊隊員
14日、菊水五號作戰が終了、実用機での出撃は終了し以降は機上作業練習機「白菊」を主体とする部隊の泊地夜間攻撃が開始されます。

▲徳島白菊隊は垂直尾翼に菊水の部隊章を描いて出撃しました。
20日、第十二航空戰隊司令官・城島少将は徳島空司令・川元大佐に対し、白菊30機の串良前進を下令、22日、聯合基地航空部隊は、第十二航空戰隊に麾下白菊隊による菊水七號作戰B法(鹿屋から300浬圏外)による沖縄周辺の敵艦船攻撃を下令、23日、川元大佐は「徳島白菊隊」第一中隊(大内藤郎大尉)30機を率い徳島空を出発、築城海軍航空基地(福岡)で燃料を補給、串良海軍航空基地(鹿児島)に前進します。
24日、菊水七號作戰発動に伴い、2050、徳島第一白菊隊14機(隊長:山田基三中尉・本田清少尉/藤原一男上飛曹・脇田七郎ニ飛曹/須田治少尉・根本喜一少尉/井上博上飛曹・伊東勝義一飛曹/高野利雄上飛曹・江田耕二一飛曹/入江登二飛曹・坂井和真二飛曹/足立行平上飛曹・林隆ニ飛曹/栗木朝明一飛曹・真野敏弘少尉/山岸純一二飛曹・中山昭二飛曹/岡島勝二飛曹・浦上博一飛曹/佐藤四朗少尉・市野義春少尉/寺井政雄二飛曹・平島榮一飛曹/成田松之助二飛曹・渕本幸雄少尉/中岡保美二飛曹・三浦松義一飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、山田隊長機、山岸機、佐藤機は燃圧低下、発動機不調等で引き返しますが、11機22名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華、揚陸艦・駆逐艦各1隻を撃破します。

▲徳島第一白菊隊 記念撮影
前列左から本田少尉、山田隊長、飛行隊長・田中一郎大尉、徳島空司令・川元大佐、大内大尉、須田少尉、根本少尉
2列目同、井上上飛曹、高野上飛曹、坂井二飛曹、入江二飛曹、伊東一飛曹
3列目同、藤原上飛曹、脇田上飛曹、江田一飛曹、林二飛曹、足立上飛曹
25日、第二中隊(岩崎保大尉)35機が串良に前進します。

▲徳島白菊隊 第二中隊
27日、菊水八號作戦発動に伴い、2040、徳島第二白菊隊16機(隊長:大内藤郎大尉・岡久克己少尉/松橋新一少尉・高田眞一中尉/山下榮飛曹長・松本龜三郎一飛曹/田中正喜中尉・中野善弘少尉/井尻登良一二飛曹・岩崎正男一飛曹/清水盛正少尉・土屋亘少尉/鈴木坂男二飛曹・古川太郎二飛曹/山田基三中尉・本田清少尉/中尾照雄二飛曹・安藤正三二飛曹/荒木圭壱少尉・井上健吉少尉/石井正行二飛曹・稲子多喜男一飛曹/帯川文男二飛曹・能勢寛治少尉/植原廣昭二飛曹・相澤彬一一飛曹/佐藤四郎少尉・市野義春少尉/門田善次二飛曹・瀧本幸一二飛曹/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉)は25番2発を懸吊し出撃の準備をしますが、清水機、鈴木機、山田機は発進中止、13機は串良を発進、大内隊長機は発動機不調により鹿屋に、植原機は喜界島に、山口機は奄美大島に不時着、松橋機、山下機、門田機は引き返すなか、7機14名は鹿屋を発進した菊水部隊白菊隊12機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入、散華します。

▲前列左から松橋少尉、田中飛行隊長、川元司令、大内隊長、高田中尉、
2列目同、中の少尉、山田中尉、清水少尉、岡久少尉、本田少尉、土屋少尉、山下上飛曹
3列目同、安達二飛曹、中尾二飛曹、井尻二飛曹、鈴木二飛曹、古川二飛曹、岩崎一飛曹、松本一飛曹
28日、1913、徳島第三白菊隊15機(隊長:山田基三中尉・本田清少尉/清水盛正少尉・土屋亘少尉/鈴木坂男二飛曹・古川太郎二飛曹/大久保舜一少尉・山縣正美少尉/門田善次二飛曹・瀧本幸一二飛曹/山岸純一二飛曹・中山昭二飛曹/佐藤詮夫少尉・川田計少尉/大平雄助少尉・鹿谷徳一少尉/高橋義夫上飛曹・野田信太郎少尉/酒井稔二飛曹・野中欣吉二飛曹/上村早苗二飛曹・三宅四郎二飛曹/星野宗四郎少尉・松田惠夫少尉/松岡利光少尉・岩井月男少尉/北光園一飛曹・爲廣二晃二飛曹/竹村昭二二飛曹・小賀野隆治少尉)は25番2発を懸吊し出撃を準備しますが、大久保機、佐藤機、星野機、竹村機は天候悪化のため発進中止、他機は串良を発進、天候悪化により山田隊長機は引き返し、鈴木機(鹿屋)、大平機(諫早)、高橋機(屋久島、重傷)、酒井機(出水)、松岡機(隈庄)が不時着するなか、4機8名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入、散華します。

▲徳島海軍航空基地に駐機する徳島空の六二四号機
同機は北光一飛曹・爲廣二飛曹の乗機として昭和20(1945)年5月28日1913、串良を発進、沖縄周辺海域の敵艦船群に突入しました。
6月6日、海軍總隊は決號作戰(本土決戦)における第十二航空戰隊の麾下練習機特攻隊の展開配備を、第一配備は九州方面、第二配備を高知沿岸と策定、7月上旬までに展開配備を下令します。
徳島白菊隊の待機者は一旦徳島空に帰隊、再編成されます。
13日、第十二航空戰隊は沖縄周辺海域の敵艦船に対する夜間攻撃準備を下令、15日、新編された徳島白菊隊は串良に前進します。
6月21日、菊水十號作戦発動に伴い、1927、徳島第四白菊隊8機(隊長:井上國平中尉・末次直輔少尉/北脇博夫中尉・水無瀬勇少尉/大住博世上飛曹・萩原満三少尉/橋口治男上飛曹・小賀野隆治少尉/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉/宇都宮博二飛曹・松田憲夫少尉/今西登志男二飛曹・緒方秀一一飛曹/酒井稔二飛曹・野中欣吉二飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、天候不良により橋口機は上甑島に不時着、山口機は引き返し、宇都宮機は燃料欠乏により徳之島に不時着、機材不調により今西機は萬世に不時着、酒井機は引き返すなか、3機6名は鹿屋を発進した菊水部隊第二白菊隊5機ととともに沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
2050、北脇中尉・水無瀬少尉は「ワレ健在ナリ」、2202、「白菊ニ幸アレ」を発信、0050、セト(戦艦突入)連送、続いて長符を発信し突入、散華しました。
23日、沖縄防衛にあたっていた第三十二軍(牛島滿中将)が玉砕してしまいます。
25日2003、徳島第五白菊隊8機16名(谷川喜之中尉・隊長:鹿谷徳一中尉/菅野繁蔵上飛曹・澤原昭夫二飛曹/水戸丈夫上飛曹・高木敏夫上飛曹/星野宗四郎中尉・關根榮昭中尉/山口清三郎二飛曹・三浦猛輝少尉/酒井稔二飛曹・大西一雄二飛曹/今西登志男二飛曹・緒方秀一一飛曹/隅今悦二二飛曹・木田由男一飛曹)は25番2発を懸吊し串良を発進、天候不良により酒井機は鹿屋に不時着、星野機は引き返しますが、隊長機は宝島に不時着大破し谷川中尉は散華してしまいますが、5機10名は沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華します。
2325、山口二飛曹・三浦少尉は「ワレ裏針ス」、2347、「ワレ意気天ヲ衝ク」、0036、テ連送、0039、「ワレ沖縄ニ来ル」、0042、「ワレ突入セントス」、0044、「天皇陛下萬歳」、0045、「ユタ連送喜ブ」、0113、長符発信、0123、突入、散華しました。
0057、菅野上飛曹・澤原二飛曹は「ワレ今ヨリ高度落ル」、0137、ユタ(輸送船体当たり)連送し突入、散華しました。
沖縄の失陥とともに白菊隊の待機者は次期作戰に備え徳島空に復帰、6月初旬、航空機、搭乗員の一部は第二徳島海軍航空基地に移駐、決號作戰(本土決戦)に向け特攻訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<主要参考文献>
『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (二)』 (平成21年4月 渡辺博史 楽學庵)
『戦史叢書95 海軍航空概史』 (昭和51年6月 朝雲新聞社)
『神風特別攻撃隊』 (平成7年11月 モデルアート社)
『海軍 特別攻撃隊戦闘記録』 (平成138月 アテネ書房)
『施設引渡目録 徳島航空基地 第二徳島航空基地』(アジア歴史資料センター)
『兵器軍需品引渡目録 徳島航空基地』( 〃 )
『呉海軍警備隊戦時日誌』( 〃 )
『松茂町誌 上巻』 (昭和50年4月 松茂町誌編纂室)
『松茂町誌 中巻』 (昭和51年7月 松茂町誌編纂室)
国土地理院所蔵米軍空撮 (NI-53-21-8)
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