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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第17回「直江兼続誕生」

天正9(1581)年9月9日の毛利秀広による山崎秀仙、直江信綱殺害事件から天正10(1582)年4月の織田勢による魚津城攻囲までです。





毛利秀広が唐突に現れ秀仙と信綱を襲撃、理由を「御館の乱の恩賞授与が兼続を始めとした〝上田衆″を優遇していることへの不満」としていました。理由としては間違っていませんが、説明不足の感が否めません。しかも信綱を目標に襲撃したように描かれていましたが、実際は秀仙が目標で信綱はたまたま居合わせたがゆえに巻き沿いに合っただけです。

毛利秀広は乱勃発に際し元々景虎に与していた(日和見を決め込んでいたとも言われる)ものの安田顕元の説得により景勝側に寝返ります。その後、武田家との和睦調停を成功させますが、乱後の恩賞が山崎秀仙の進言(寝返り組には恩賞を与え無い方がよい)を入れた景勝により充分でなかったのを恨み秀仙を襲撃にいたります。
また、秀広は元々越中方面の総司令官・河田長親の与力であった際に付与されていた給地が、長親の病没により修公されたままになっており、再付与を訴えたものの秀仙により再三却下されたため恨んでいた、とも言われます。

ドラマでは兼続が武田家との和睦調停を成功させてしまったため秀広の出番はなく、また史実通り言わば武田家の攻撃をかわせた最大の功労者に恩賞を与えない景勝を悪者にさせないために唐突な出番となったのでしょか?

信綱の死去を受け、主命により晴れてお船と結ばれ「直江兼続」となった訳です。
前回の「家老昇進」の時には言及しなかったのですが、樋口家の家格(守護代家の一門の家臣)では上杉家(守護代のち関東管領家)の家老には身分的になれません。
そこで直江家(守護代家の重臣)を継ぐことでようやく家老になれる訳です。

乱後7年にも及ぶ「新発田重家の乱」がこれまた唐突にセリフのみで登場します。
重家もまた秀広同様、安田顕元の説得で景勝に属し、上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏、伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍したにも関わらず、恩賞は大半が〝上田衆″に渡り、乱後急死した兄・新発田長敦の家督相続を認める、と言うものだけでした。
その不満に乗じて織田、蘆名、伊達の凋略により謀反を起こし、全方面に敵を迎えた上杉家の状態とも相まって上杉家に危機的な状況を作り出します。
せめてナレーションで詳しく説明してほしいとこですが、これまた景勝が悪者になるので暗に伏せたのでしょうか?

一瞬でしたが、泉沢久秀のセリフの中に「・・・揚北衆の村上・・・」と聞こえたのですが、村上氏は言わずと知れた信濃の名族で謙信を頼ってきた村上義清、この時期なら子(実子とも養子とも)の国清(山浦姓を賜っている)ですが、揚北衆ではありません。
他に「揚北衆、村上」という単語であれば、本庄繁長の居城が村上城ですが・・・?
詳細は不明です。

いよいよ来週は籠城していた13人の将が壮烈な最期を遂げ、涙なしには語れない魚津城の籠城戦です。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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