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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

野砲兵第四聯隊

大阪府和泉市伯太(はかた)町に所在する陸上自衛隊・信太山駐屯地は野砲兵第四聯隊の兵営跡にあります。
兵営では後に野砲兵第百四聯隊同第三十四聯隊同第四十四聯隊が編成されます。
また、隣接して大阪陸軍病院 信太山分院伯太陸軍練兵場がありました。
野砲兵第四聯隊   M 砲廠 南西から(信太山)
▲信太山駐屯地に遺る野砲廠

【探索日時】
平成21年5月10日、平成22年4月29日
平成23年12月27日、平成24年4月29日

【更新情報】
平成24年10月26日:大幅改訂(地図訂正、写真追加、書式変更)
平成25年9月5日:和泉憲兵分遣隊追加(地図改訂、位置訂正)
平成26年12月10日:和泉憲兵分遣隊追加(別記事に分離)





野砲兵第四聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
野砲兵第四聯隊(大正11)(信太山)
▲大正11年頃の地図(大正11年測量 大日本帝國陸地測量部)

野砲兵第四聯隊2166(信太山)
▲昭和21(1946)年6月6日の伯太周辺の空撮(NI-53-15-10
 ※空撮は加工しています。

野砲兵第四聯隊 野砲兵第四聯隊(現在)(信太山)
▲現在の地図に施設を転写
 ※兵営南東端(現、官舎地区)付近、伯太陸軍練兵場の明確な境界(特に西側)は不明です。

※緑文字が当記事の紹介施設
①野砲兵第四聯隊
②大阪陸軍病院 信太山分院
③伯太陸軍練兵場

④信太山陸軍墓地
⑤和泉憲兵分遣隊
なお、射撃場は隣接する信太山陸軍演習場内にありました。
名称については一般的な昭和17(1942)年頃のものです。

野砲兵第四聯隊(配置図・昭和11年11月)(信太山)
▲駐屯地資料館「修史館」展示を元に
 一部訂正を加え作図した兵営見取図(昭和11年11月頃、以下『見取図』)
 

遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
野砲兵第四聯隊
大正7(1918)年8月、泉北郡伯太村の新兵営用地(49,935坪)を買収、大正8(1919)年7月、新兵営が竣工、8月、備品・用具を運搬、11月24日、野砲兵第四聯隊が大阪市東区法円坂町(現、大阪市中央区大手前)から将兵600名・馬匹400頭・火砲26門が転営して来ます。

昭和12(1937)年4月26、第四師團の滿洲駐箚に伴い野砲兵第四聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和17(1942)年6月12日、野砲兵第四聯隊・同補充隊に復員下令、7月20日、聯隊は兵営に凱旋します。

昭和18(1943)年10月5日、野砲兵第四聯隊のスマトラ島出征後、野砲兵第四聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月6日、野砲兵第四聯隊補充隊は野砲兵第四十四聯隊に改編、7月6日、野砲兵第四十四聯隊が動員されたため、再び野砲兵第四聯隊補充隊が編成されます。
昭和20(1945)年2月28日、野砲兵第四聯隊補充隊に復員下令、大阪師管區砲兵補充隊が編成され、8月15日、停戦を迎えます。

停戦後、10月5日、兵営は米軍工兵隊に接収され、のちに調理学校・海軍兵学校(海兵隊)が設置、昭和25(1950)年8月10日、警察予備隊(昭和27年10月15日から保安隊)の発足に伴い、兵営を日米共同で使用します。
昭和32(1957)年9月2日、接収解除され、和泉市の誘致活動を受け、陸上自衛隊(昭和29年7月1日、保安隊から改称)第7普通科連隊第3大隊、及び第4陸曹教育隊等が駐屯します。
昭和37(1962)年1月、師団改編に伴い第7普通科連隊第3大隊を基幹とし、帝國陸軍の郷土部隊である歩兵三十七聯隊と同一連隊名を冠し楠公精神・菊水部隊の伝統を継承する第37普通科連隊が発足、現在も我が国の平和を護っています。

ちなみに僕の母方の祖父は昭和15(1940)年、現役応召時にこの野砲兵第四聯隊に入営、北支戦線、続くバターン半島攻略戦に参加します(マラリアに罹患し復員下令により戦友に連れられて帰還、九死に一生を得ます)。
また、隣接する信太山陸軍演習場(現、陸上自衛隊・信太山演習場)は僕の両祖父(歩兵第七十聯隊、野砲兵第四聯隊)が演習に励んだ場所です。
そのため、信太山は僕にとって今は亡き両祖父の若かりし頃に思いを馳せることができ、感慨深いものがあります。
博 野砲兵第四聯隊時代(一門の軍歴)
▲野砲兵第四聯隊時代の祖父

A 建物
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
場所や全体の感じからして「面会所」では無いでしょうか?
野砲兵第四聯隊   A 各委員工場 南東から(信太山)


B 建物
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
野砲兵第四聯隊   B 北から(信太山)
▲裏表に入口のある物置の様な建物です。


C 各委員工場
『見取図』によると「各委員工場」となっていますが、何工場か不明です。
野砲兵第四聯隊   C 各種委員工場 南西から(信太山)

陸軍入営者は本科(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵)以外に特業教育を受けました。
砲兵営では観測手・通信手・喇叭手・衛生兵・工務兵を中隊ごとに数名づつ選定、各教育担当者に付いて技術を習得しました。
工務兵には鉄工・鞍工・木工(兵器委員)、縫工・靴工(経理委員)、蹄鉄工(獣医)、火工(火薬庫)があり、それぞれがカッコ内の教育担当長に通勤し専門技術を習得、聯隊内で各専門分野の施工・補修・修繕などを行いました。


D 各委員工場
『見取図』によると「各委員工場」となっていますが、同じく何工場か不明です。
平成23(2011)年、惜しくも破壊されてしまいました。
野砲兵第四聯隊   D 各種委員工場 南西から(信太山)


E 各委員工場
『見取図』によると「各委員工場」となっていますが、同じく何工場か不明です。
平成23(2011)年、惜しくも破壊されてしまいました。
野砲兵第四聯隊   D・E 各種委員工場 南東から(信太山)
▲手前の平屋がE、奥に見える2階建がDです。


F 兵器庫
『見取図』によると「兵器庫」となっています。
平成23(2011)年、惜しくも破壊されてしまいました。
野砲兵第四聯隊   F 兵器庫 南西から(信太山)


G 建物
当時の建物の様ですが、詳細は不明です。
場所や全体の感じからして「営倉」では無いでしょうか?
平成24(2012)年、屋根が瓦からスレートに葺き替えられていました。
野砲兵第四聯隊   G 南東から(信太山)


H 演武場
『見取図』によると「剣道場」となっていますが、他の兵営の例から演武場と思われます。
平成24(2012)年、屋根が瓦からスレートに葺き替えられていました。
野砲兵第四聯隊   H 北西から(信太山)


ア 営門門柱
当時門柱は4本ありましたが、現在は両外側の袖門門柱2本が駐屯地正門として使用されています。
野砲兵第四聯隊   ア 営門跡(信太山)
▲現在の信太山駐屯地正門

野砲兵第四聯隊   砲四 営門(信太山)
▲野砲兵第四聯隊時代の営門

野砲兵第四聯隊   砲四 営門 (2)(信太山)
▲中部第二十七部隊(野砲兵第四聯隊補充隊)時代の営門
 両外側の門柱のみが遺ります。


イ 「陸」
営門のすぐ前に境界石標があります。
「陸」の文字を四角で囲っている珍しい刻字です。
野砲兵第四聯隊   イ 営門東側の「陸」石標(信太山)


シ 境界石標?
イの境界石標の門を挟んだ対面にあります。
地面に完全に埋まっているため詳細は不明ですが、寸法、現在も使用されている事からして境界石標と思われます。
野砲兵第四聯隊 シ 境界石標(欠損)?(信太山)


ウ 三八式野砲
  馬魂碑

三八式野砲は明治40(1907)年、ドイツのクルップ社より輸入した火砲に小改良を加え制式採用され、野砲兵第四聯隊には6月から配備されました。
聯隊での当砲は32年間の内地の平時訓練に使用されたのみで実戦には使用されず、昭和11(1936)年から砲架を改修し射程距離を延伸した改造三八式が配備されました。
野砲兵第四聯隊   ウ 三八式野砲(信太山)
▲保存状態は良好です。

野砲兵第四聯隊   ウ 三八式七糎野砲(信太山)
▲こういった展示にありがちな「ペンキゴテゴテ」ではありません。

野砲兵第四聯隊   ウ 三八式野砲 (2)(信太山)
▲改造三八式野砲の砲架はY型に分かれています。


馬魂碑は昭和19(1944)年4月7日、中部第二十七部隊(野砲兵第四聯隊補充隊)一同により建立されました。
元々この場所にあったものかは不明です。
野砲兵第四聯隊   ウ 馬魂碑(信太山)


エ 「野砲兵第四聯隊址」碑
昭和35(1960)年4月、砲四会により建立されました。
以前はなぜか石碑の前に植え込みがあったのですが、平成24年に再訪した際、植え込みは抜かれ見易いようになっていました。
野砲兵第四聯隊   エ 「野砲兵第四聯隊址」碑(信太山)
▲石碑の横には大口径弾が2個置かれていますが、詳細は不明です。


オ 「陸軍」
庭園に境界石標が移設されています。
野砲兵第四聯隊   オ 「陸軍」石標(移設)(信太山)
▲番号や矢印の刻字はありません。


カ さざれ石・営門門柱
国歌に歌われている「さざれ石」が設置されていますが、撤去された営門門柱が分解され4ッ並べられ台として使用されています。
野砲兵第四聯隊   カ さざれ石の台に転用された営門門柱(信太山)


I 酒保
『見取図』によると「酒保」となっています。
酒保とは兵営内に設置されていた売店です。
野砲兵第四聯隊   I 南西から(信太山)

酒保の西側には煉瓦躯体セメント塗の建物基礎があります。
野砲兵第四聯隊   I 西側の基礎(信太山)


J 建物
木造の建物ですが、当時の物かは不明です。
野砲兵第四聯隊   J 北東から(信太山)


L 砲廠
建物正面側の支柱が鉄骨に替えられていたり、扉なども一部改変されていますが、保存状態は良好です。
野砲兵第四聯隊 L 砲廠 北西から(信太山)
▲正面・裏面には斜めの控柱が付いています。

野砲兵第四聯隊   L 砲廠 南東から(信太山)
▲側面(南東側)
 屋根は正面側が短く、裏側が長い特徴的な構造です。


M 砲廠
L・Nと同様に一部改変されていますが、扉巾は当時のママで最も原型に近い状態の様です。
野砲兵第四聯隊   M 砲廠 南西から(信太山)


N 砲廠
窓が全てアルミサッシ化されるなど、3棟ある砲廠の中で最も改変されています。
野砲兵第四聯隊   N 砲廠 北から(信太山)
▲砲廠正面(北側)

野砲兵第四聯隊   N 砲廠 南東から(信太山)
▲側面(南東側)
 屋根の頂部に小屋根、流れに明り採りが付いていますが、当時の写真にはありません。

野砲兵第四聯隊   砲四 兵営(信太山)
▲将校集会所前(ク付近)から撮影した砲廠
 写真中央左側がN、右側の見切れてる建物がMの砲廠です。


P 医務室
『見取図』によると「医務室」となっています。
野砲兵第四聯隊   P 医務室 南から(信太山)
▲医務室全景

野砲兵第四聯隊   P 医務室 南西から(信太山)
▲西側の張出し部分

野砲兵第四聯隊   P 医務室 北西から(信太山)
▲裏側(北側)

野砲兵第四聯隊   P 医務室 北側廊下(信太山)
▲北側には内廊下があります。


Q 将校集会所
現在は駐屯地資料館「修史館」となっています。
大正8(1919)年11月、野砲兵第四聯隊が当地に移駐してきた際に、当時の第一大隊長・北白川宮成久王砲兵少佐(明治天皇の娘婿、在任:大正8年3月15日~大正9年3月31日)の執務室として建設され、殿下が陸軍士官學校附として御転出の後、将校集会場として使用されました。
陸上自衛隊移管後は幹部集会所を経て、建物の半分が駐屯地資料館「修史館」として活用されています。
野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館) 南から(信太山)
▲大きすぎて写真に収まりきれていませんが、右側にも左側に見える張出しが付いています。

野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館) 正面入口(信太山)
▲正面入口
 入口上部の現在、陸上自衛隊の印である桜が描かれている場所に当時は★が描かれていました。

野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館) 南側廊下(信太山)
▲正面側には外廊下が設けられ格調高い造りになっています。

野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館) 東側張出 内部(信太山)
▲正面に向かって右側の部屋

野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館) 北西から(信太山)
▲裏側は正面と違い質素な造りです。

修史館には楠木正成公、皇族方、野砲兵第四聯隊(大阪)、歩兵第三十七聯隊(大阪)、同第八聯隊(大阪)、同第六十一聯隊(和歌山)、同二百十八聯隊(和歌山)、陸自37普通科連隊関連と郷土にゆかりのある部隊の資料が展示してあります。
野砲兵第四聯隊   大楠公(信太山)
▲修史館を入ると楠公の旗印でもあり、歩兵第三十七聯隊の象徴でもあり、第37普通科連隊の部隊章でもある菊水紋が迎えてくれます。

野砲兵第四聯隊   砲四 関連 (5)(信太山)
▲野砲兵第四聯隊関連の展示

野砲兵第四聯隊   鬼瓦(信太山)
▲兵営内にあった建物の鬼瓦


キ 門柱?
将校集会所(修史館)の裏(北側)に営門、若しくは将校集会所の門柱と思われる残骸が置かれていますが、詳細は不明です。
野砲兵第四聯隊   キ 門柱残骸②(営門?) (3)(信太山)

野砲兵第四聯隊   キ 門柱残骸②(営門?)(信太山)
▲営門と同じ加工をされた門柱の残骸が2ッあります。


ク 北白川宮成久王砲兵少佐 御着任記念植樹のクスノキ
殿下は兵営に御到着後、聯隊長・宮地忠文大佐、御附武官太田中佐が御立会申し上げ、将校集会所の一隅に当番兵・中村彌三郎上等兵が御手伝い申し上げ、御手づから記念にクスノキを植えられました。
野砲兵第四聯隊   ク 北白川宮成久王殿下 御着任記念植樹(信太山)

クスノキの根本には「陸軍」の境界石標が移設されています。
元々どこにあったものかは不明です。
野砲兵第四聯隊   ク 北白川宮成久王殿下 御着任記念植樹 下の「陸軍」石標(移設)(信太山)

クスノキの後ろには火砲の車輪が置いてあります。
野砲兵第四聯隊   野砲車輪(信太山)

クスノキの前には海軍の艦砲弾があります。
野砲兵第四聯隊   海軍砲弾(信太山)
▲左から15㎝、26cm、12cm砲弾ですが、詳細は不明です。


ケ 門柱
将校集会所に上がる坂の入口に門柱があります。
近くでよく見ると上部に接合部の鉄筋が剥き出しになり、整合性の無い金具が付いています。
当兵営の営門門柱はダルマ落とし状の形状をしており分解が可能なため、さざれ石の台座カ、将校集会所裏の残骸キと合わせて営門の門柱の残り部分が移設された物かも知れません。
野砲兵第四聯隊   ケ 将校集会所(現修史館) 門柱(信太山)


R 火薬庫
本来は2棟あったようですが、現在は1棟が現役で使用されています。
湿気を防ぐため高床式になっており、鬼瓦には★印が輝きます。
※防諜・防犯上の事もありますので、写真は敢えて掲載しません。
野砲兵第四聯隊   R 火薬庫 周辺の土塁(信太山)
▲火薬庫の防爆土塁


S 建物
木造の建物ですが、当時の物かは不明です。
野砲兵第四聯隊 S 北東から(信太山)


大阪陸軍病院 信太山分院
大正7(1918)年8月、用地買収(3,244坪)が行われ病舎建設が開始され、大正8(1919)年11月24日、野砲兵第四聯隊が法円坂町から転営、25日、大阪衛戍病院信太山分院が開院します。
昭和11(1936)年11月10日、大阪陸軍病院信太山分院に改称します。
職員は医務室と兼務でした。

O 大阪陸軍病院 信太山分院
兵営の北東隅の高台が大阪陸軍病院信太山分院の敷地ですが、砲兵営との境界は不明です。
野砲兵第四聯隊   O 大阪陸軍病院 信太山分院 南東から(信太山)
▲正面側
 奥(西側)に小型の建物が付属していますが、当時の物ではありません。

野砲兵第四聯隊   O 大阪陸軍病院 信太山分院 西側入口 南東から(信太山)
▲正面西側の入口
 閉鎖されていますが、軒は当時のママと思われます。

野砲兵第四聯隊   O 大阪陸軍病院 信太山分院 東から(信太山)
▲裏側

K 建物
煉瓦基礎のコンクリート製建物ですが、当時の物かは不明です。
野砲兵第四聯隊   K 北東から(信太山)


その他
鍋塚
兵営内の北側には第17代履中天皇の皇子である市辺押歯皇子の墓といわれる鍋塚があります。

浄水施設?
将校集会所の東側高台には煉瓦躯体にセメント塗りの浄水施設のような構造物があります。
当時の物かは不明です。
野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館)東側台地上にあるコンクリート製の構造物(浄化水槽?)(信太山)
▲煉瓦の基礎が見えます。

野砲兵第四聯隊   Q 将校集会所(現修史館)東側台地上にあるコンクリート製の構造物(浄化水槽?) (2)(信太山)
▲構造物の上部
 仕切りを入れた様な溝が多数あります。

南門の石組
南門外側には当時の物と思われる石組や石橋が遺されています。
野砲兵第四聯隊   南門の側溝(信太山)

兵営西側の石組
兵営外周の西側には当時の物と思われる石組が遺されています。
野砲兵第四聯隊   兵営西側の石組(信太山)

排水桝
兵営内の各所に煉瓦の会所に石造の飾りを載せた排水桝が遺ります。
野砲兵第四聯隊   ア 営門西側の排水溝(信太山)
▲写真は営門の西側にある物

自衛隊駐屯地は比較的陸軍時代の建物が多く遺されていますが、その中でも信太山駐屯地は屈指の遺り具合だと思います。
野砲兵第四聯隊は個人的に縁がある場所なので、嬉しい限りです。
耐震や居住性、士気の問題もあると思いますが、できれば長く遺して欲しいものです。


伯太陸軍練兵場
大正7(1918)年8月、新兵営用地とともに甲練兵場用地(45,105坪)が買収されました。
大正8(1919)年1月、南西隣接地(66,075坪)が乙練兵場用地が買収されます。
甲練兵場は後に伯太陸軍練兵場と改称した様です。
乙練兵場の明確な位置は不明ですが、後に信太山陸軍演習場の拡張に伴い包含され消滅した様です。

停戦後、昭和20(1945)10月19日から伯太陸軍練兵場は希望者に1人3反ずつ分配、現在は住宅地化され遺構は何も遺されていないと思われます。

コ 「陸」
営門前の境界石標と同様「陸」の文字を四角で囲っています。
周囲に陸軍施設が無いので何の境界か不明です。
信太山陸軍墓地にしては遠いですし、兵営から信太山陸軍演習場に砲車を運搬するための軍道でしょうか?
野砲兵第四聯隊   コ「陸」石標(黒鳥山公園駐車場入口)(信太山)
▲フェンスぎりぎりの場所にあります。

野砲兵第四聯隊   コ「陸」石標(黒鳥山公園駐車場入口) (2)(信太山)
▲フェンスの向こう側から見ると何とか「陸」の文字が見えました。


衛戍・編成部隊
野砲兵第四聯隊(淀四〇七七・中部第二十七部隊)
明治3(1870)年11月11日、大村益次郎永敏卿は西国異変に備え砲兵隊の設置を急ぎ、兵部省大阪出張所において大阪砲兵隊一番大隊(川崎知顕大尉、2個小隊、人員306名、馬匹100頭、四斤山砲6門)を新編し、大阪市東區馬場町(現、大阪市中央区大手前)に兵営が設置されます。
明治4(1871)年8月2日、大阪鎭臺(四条隆謌少将)が新編され、大隊は大阪鎭臺隷下に編入されます。
明治5(1872)年4月、法円坂町(現、大阪市中央区大手前)の新兵営に転営します。
明治7(1874)年2月4日、江藤新平により佐賀の乱が勃発、大隊は大阪鎭臺を追求し福岡県二日市まで進出しますが、3月29日、乱は鎮定されたため戦闘には参加せず大阪に帰還します。
明治8(1875)年5月、大阪砲兵隊一番大隊は砲兵第四大隊と改称します。
明治9(1876)年10月29日、前原一誠により萩の乱が勃発、11月1日、大隊は歩兵第八聯隊第一大隊とともに大阪を出発、4日、萩に進出し廣島鎭臺(三浦梧樓少将)の指揮下に入り観音橋に砲列を敷き明倫館-金谷天神-椿八幡の敵陣に砲撃を実施、5日、歩兵部隊が萩市内に突入し前原軍を敗走させ乱を鎮定します。

明治10(1877)年2月10日、西郷隆盛により西南の役が勃発、20日、大隊(宇都宮義政大尉指揮)は大阪鎭臺隷下の歩兵第八、第九、第十聯隊、後備歩兵第一大隊、工兵第二大隊、輜重兵第四小隊、豫備砲兵第二大隊(山砲6門)とともに大阪を出発、神戸から海路、23日、博多に上陸、27日、玉名-高瀬の線に前進、後退する第二旅團(三好重臣少将)を追撃してきた薩軍(西郷小兵衛)を砲撃により撃退、3月4日、田原坂の戦いに参加、薩軍の斬込みを受けながらも火砲により反撃、大隊の活躍は薩軍に「近衞徴募に砲兵なけりゃ、花のお江戸へ躍り込む」と恐れられます。
9月24日、西郷隆盛が鹿児島県城山において自刃し、戦役は終結します。

明治17(1884)年5月24日、砲兵第四聯隊(高島茂徳少佐、七糎山砲24門)に改編されます。
明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團に改編されます。
明治22(1889)年3月、『陸軍平時編制』改正に伴い、砲兵第四聯隊は野戰砲兵第四聯隊に改称します。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、11月26日、聯隊に動員下令、聯隊から抽出された1個中隊(荒井信雄大尉、山砲6門)・中隊段列(堀藤太中尉)が比志島支隊(比志島義輝大佐)に属し、南方派遣艦隊(伊東祐了中将)の指揮下に入り、明治28(1995)年3月23日、台湾・澎湖島裏正角に上陸、拱北砲台・馬公城・金亀頭砲台ほ砲撃、25日、清國軍(郭潤馨)が降伏し作戦は終結、4月、中隊は台湾・台北に進出し兵站の警備にあたり、戦役終結後の明治29(1896)年1月、近衞師團(北白川宮能久親王中将)隷下の混成旅團(大久保春野少将)の指揮下に入り、礁渓付近で匪賊討伐にあたり、7月、大阪に凱旋します。
聯隊主力は4月29日、大阪を出発し大連湾に上陸しますが、4月17日、仮条約締結のため戦闘に参加する事無く遼東半島の警備に就き、12月、大阪に帰還します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、第四師團に動員下令、3月15日、第四師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入、5月18日、聯隊(福永宗之助大佐、三十一年式速射砲36門)は遼東半島の張家屯に上陸、23日、金州城攻略戦で援護射撃を実施、25日、南山の戦いでは南山蘇家屯の露軍火砲陣地(野砲52・加農砲77)を制圧、26日、歩兵第八聯隊の南山突撃を支援します。

第二軍は反転北上し南下する露軍を得利寺付近で補足、6月12日、聯隊は野砲兵第五聯隊より2個中隊の増援を受け、14日、二道房付近で敵騎・歩兵を砲撃し潰走させ、次いで蓋平の戦いでは黄子披南方の敵歩兵を急襲射撃し撃退します。
7月23日、大石橋の戦いでは遮蔽された敵火砲陣地に苦戦、24日、大損害(戦死6、戦傷82)を受けながらも敵砲兵を潰走させます。
8月1日、海城の戦いでは停車場を砲撃し、22日、遼陽會戰では悪天候により進撃が遅滞し、28日、首山堡の敵火砲陣地に砲撃を開始、第二軍の総攻撃を援護、9月1日、歩三十四(静岡)が百四十八高地、歩三十三(津)が北大山を攻略し、敵は退却します。
10月9日、沙河會戰において前線の張良堡北端に砲列布陣、大損害を受けながらも逆襲を謀る敵を撃退、その後、戦線は膠着し沙河対陣となります。
3月1日、聯隊は第四師團の進撃を援護すべく野戰砲兵第十三聯隊・後備砲兵第三大隊を指揮下に編入され、敵兵を砲撃しつつ奉天に進撃しますが、奉天西南20kmの二台子東方地区に達した10日、歩三十七(大阪)が奉天城に突入、敵は潰走を開始、聯隊は敗敵を追撃し昌図に進撃し布陣します。
5月27日、日本海海戦で聯合艦隊(東郷平八郎大将)がバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー中将)を撃滅、9月1日、講和条約が締結され、16日、両軍は停戦、12月1日、第二軍司令官・奥保鞏大将より感状を授与、明治39(1906)年1月、大阪に凱旋し復員完結します。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い、野戰砲兵第四聯隊は野砲第四聯隊に改称、火砲が三八式野砲26門に更新されます。

明治42(1909)年7月31日・8月1日、北の大火、明治45(1912)年1月16日、南の大火に出動し消火及び住民の救護、警備に当たります。

大正6(1917)年11月、淀川の氾濫に出動、被災者救援に当たります。

大正7(1918)年8月12~18日、暴徒化した米騒動の鎮撫に大阪府知事の要請を受け出動、治安維持、警備に当たります。

大正7(1918)年8月、泉北郡伯太村の新兵営用地(49,935坪)を買収、大正8(1919)年7月、新兵営が竣工、8月、備品・用具を運搬、11月24日、大阪市東区法円坂町(現、大阪市中央区大手前)から伯太村に転営(宮地忠文大佐以下将兵600名・馬匹400頭・火砲26門)します。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に替わり滿洲駐箚が決定、4月20日、第四師團に編成下令、關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入されます。
20日、野砲兵第四聯隊(鈴木敏行大佐)に編成下令、26日、編成完結、第三大隊を留守隊として残置し、29日、第四師團とともに大阪港を出航、5月2日、釜山に上陸、4日、大連北方の關東州周水子に屯営し国境警備に任じるなか、7月7日、支那事變が勃発します。

29日、野砲兵第四聯隊(大生壇城大佐、2個大隊・改三八式野砲16門)に応急派兵が下令され、聯隊は第四師團を離れ獨立混成第一旅團(本多政材少将)に編入、8月1日、天津に進出し白河において第五(板垣征四郎中将、広島)・第十師團(磯谷廉介中将、姫路)の上陸援護を実施、12日、獨混第一旅團は察哈爾(チャハル)への転用が決定、13日、聯隊は鉄道で承徳に終結、砲手・弾薬を自動貨車に搭載、火砲は牽引(馭者、馬匹は追及)し、19日、張北に集結、20日、長城線攻略の歩兵第三聯隊(湯浅政雄大佐、東京)の支援に任じ、蒙古軍砲兵隊と共同で長城線の支那軍(劉汝明)に砲撃を開始、22日、歩三は長城を突破、万全県の付近の敵地雷原、頑強な陣地を砲撃援護し攻略、張家口に進撃し敵砲兵を砲撃戦ののち敵を撤退させ、9月3日、大橋上において歩三を援護、9日、歩三が攻略した陽高城に入城、聚楽堡の敵陣地に砲撃を開始しますが、13日、砲戦指揮中に聯隊長・大生大佐が敵弾の破片を受け散華してしまいます(後任は伴健雄大佐)。
聚楽堡を突破し大同城に入城、24日、敗敵を追撃し西桑乾河、内城線、10月7日、惇県城攻略戦に参加後、獨混第一旅團の原隊復帰が決定、11月8日、聯隊は周水子に凱旋し第四師團に復帰します。
12月22日、周水子を出発、列車により聯隊主力は三江省佳木斯(チャムス)に、第一大隊は密山に移駐、国境警備、匪族討伐にあたります。

昭和14(1939)年8月29日、同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として応急派兵の命を受け、30日、屯営を出発、列車輸送でノモンハンに向かいますが、到着前の9月15日、停戦協定成立により佳木斯に帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、中支那派遣のため第四師團に臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月11日、聯隊(井上辰三大佐、将兵1,284名、馬匹919頭、三八式野砲24・九一式榴弾砲8~四一式山砲に改編)、は佳木斯を出発、列車と船舶輸送により聯隊主力は湖北省皂(ソウ)県、第一大隊は安陸に集結し警備にあたり、11月16日、師團とともに第十一軍の漢水作戰に参加、漢水東方の支那軍残敵掃討にあたり、12月24日、聯隊主力と第一大隊は警備地を交替し帰還します。

昭和16(1941)年1月2日、第四師團で編成された奥津支隊(歩八聯隊長・奥津啓三郎大佐)に聯隊から山砲編成の第四・第五中隊が編入、支隊は第三師團(豊島房太郎中将、名古屋)指揮下に編入され、9日、第二軍の予南作戰に参加、20日、信陽に集結、24日、第三師團は重慶軍第68軍(湯恩伯)を攻撃し、30日、第68軍を撃破、31日、保安鎮に集結し、2月1日、重慶軍が集結中の南陽に進撃、4日、南陽を攻略し信陽に帰還しますが、両中隊は火力を発揮する機会に恵まれず行軍に終始し、16日、作戰は終了し聯隊に復帰します。

4月5日、第四師團とともに第十一軍の大洪山作戰に参加、9日、天門の集結地を出発、作戦地が山岳のため山砲の臂力搬送、野砲の縄掛による人力搬送に苦闘しながら火砲を前進させ、14日、歩八への支援射撃を実施、15日、三里崗、21日、馬家高地、22日、黄色集に前進し火力支援を実施、26日、作戦は終了し、27日、皂県に帰還します。

5月3日、支那派遣軍(西尾寿造大将)の中原會戰に呼応する第十一軍の江北作戰に師團とともに参加、警備地区北方の敵第五戦区軍(李宗仁、50個師)牽制、陽動します。

9月18日、第一次長沙作戰に参加、憧憬街への第四師團の総攻撃を火力支援し、敗走する敵を追撃、汨水を超え、22日、新市付近、25日、同楽橋の敵を砲撃、影珠山を突破し、栗橋付近の敵を撃破、10月1日、長沙東方に進撃しますが、敵は湘江を渡り西方に撤退したため、第十一軍命令により追撃を停止し、31日、皂県に帰還します。

11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり上海付近に移動集結します。
12月8日、大東亜戦争が勃発します。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團は比島(フィリピン)攻略に苦戦する第十四軍(本間雅晴中将)隷下となり、2月21日、4梯団に別れ呉淞沖を出航、28日、聯隊はルソン島リンガエン湾マビラオに上陸、四一式山砲を再び九一式榴弾砲8に改編、3月6日、逐次サマール地区に集結します。

4月3日払暁、聯隊は第十四軍砲兵隊とともに第2次バターン半島攻撃の攻撃準備射撃に参加し、マリベレス、サマット両山を中核とする敵陣地に対し砲撃を実施、第一線の突撃を支援します。
我が歩兵第一線は次々に敵陣地を攻略、聯隊は配給された自動貨車、鹵獲牽引車を駆使して砲列を前進し支援射撃を継続、10日、バターン半島は第十四軍により攻略されます。
この頃より師團隷下部隊ではマラリア、デング熱が発生、高熱患者が続出し戦力が低下します。

29日、コレヒドール島攻略戦に参加、聯隊はバターン半島南端のバクト岬付近に布陣し、コレヒドール島マリンタ高地に対し攻撃準備射撃を開始、5月4日まで交通遮断射撃、偽装剥脱射撃、夜間上陸に向け地点標示射撃を実施します。
5月5日0800、歩兵の敵前上陸に支援射撃を開始、2315、敵前上陸に成功、再び敵陣地に対し支援射撃を実施、6日正午、マッカーサーの後任ウェインライト中将は降伏し、コレヒドール島は第十四軍により攻略されます。
6月12日、第四師團に復員下令、7月20日、大阪に凱旋、師團は中部軍隷下となり戦力回復に務めます。

聯隊はこの間、高師之浜・大浜・住吉・平野・八尾・吹田等に改造三八式野砲を据付けた防空陣地を構築、防空訓練、防衛任務に任じます。

昭和18(1943)年4月11日、北支出動以来国難に殉じた254柱の英霊の慰霊祭が挙行されます。

9月23日、第四師團に臨時動員が下令され第二十五軍(田辺盛武中将)隷下となります。
22日、野砲兵第四聯隊に動員下令、10月3日、動員完結(井上辰三大佐、三八式野砲24・九一式榴弾砲12、輓馬から自動貨車に改編)、9日、一〇五船團(輸送船8隻)に分乗し宇品を出航、29日、昭南島(シンガポール)に入港、11月4~9日、聯隊主力はインドネシア・スマトラ島ベラワンに上陸し、島中部西岸のタマヌリ州パダンジンパンに、第二大隊は歩三十七の指揮下に入り島中部のサワールントに、第三大隊は昭南島で聯隊を離れパレンバンに上陸し聯隊を追及、教育訓練(対空挺・対舟艇、密林内機動、自動車と砲車の連携、夜間無灯火進攻、夜間戦闘、熱地用天幕展張露営など)、陣地構築を実施します。

昭和19(1944)年4月1日、パダン市中央広場に防空陣地を構築、5月24日、第九中隊(小島大尉以下118名、九一式榴弾砲4門)は『四師作命第六十壕』により歩六十一(佐藤源八大佐、和歌山)の指揮下に入り源演習(ウ號作戰参加のためビルマ派遣)に派遣されます。

6月2日、第二中隊は獨立混成第二十五旅團(谷萩那華雄少将)の指揮下に入りタパヌリ州シボルガに移駐、7日、聯隊主力は西海岸州インダルンに、第四中隊は歩三十七の指揮下に入り西海岸州パダンに移駐、13日、第一大隊は獨立混成第二十六旅團(河田槌太郎少将)の指揮下に入り島南部スマトラベンクーレン州ベンククーレンに移駐(11月14日、復帰)、大隊主力はベンククーレンに、第一中隊はランボン州テレクベトンにおいて英印軍の侵攻に備え陣地構築を開始します。

昭和20(1945)年1月、第四師團は緬甸方面の戦局悪化に伴い第三十九軍(中村明人中将)戦闘序列に編入が決定、2月5日、分散配置されている聯隊はタイ国へ移駐を開始、4月9日、聯隊主力がタイ北部のナコンナヨークに到着、4月中旬、聯隊の集結が完了、兵舎・連絡道路の建設を開始します。

6月20日、第四師團の第十五軍(片村四八中将)に編入に伴い、聯隊は師團を離れ第三十七師團(佐藤賢了中将、熊本)の指揮下に入り、7月18日、第三十七師團の馬来転進に伴い、第五工兵隊司令部の指揮下に入ります。
その間、4月14日、第二大隊は歩三十七の指揮下に入り(第八中隊は歩八の指揮下にラーヘン、モンカオを経て8月10日、スワンカロークに)、5月1日、ランパンに、4月25日、ケントンに、6月初旬、第一中隊はドンムアン飛行場に、6月25日、第四中隊はチェンマイに移駐後、7月24日、モンカオに、7月27日、聯隊主力はモンパヤックにそれぞれ移駐し陣地構築、英印軍の侵攻に備えるなか、8月15日、『大東亜戦争終結ノ詔書』を拝し停戦を迎えます。

20日~12月15日、聯隊は第三十七師團の指揮下に入りナコンナヨークに集結、9月29日、英軍により武装解除、収容所兵舎・道路建設に使役され、収容所に収容、12月24日、第四師團に復帰、昭和21(1946)年6月3日、プラチンブリ-バンコクを経由しメナム川河口において復員船に乗船、24日、鹿児島港に入港、26日、鹿児島市内の高島屋屋上において聯隊長・森利邦中佐の下、復員・聯隊解散式が挙行され復員完結します。


野砲兵第百四聯隊(鳳八九六一)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により野砲兵第四聯隊留守隊の担当で編成(湯屋繁治中佐、将兵1,500名、馬匹1,200頭、三八式野砲36門)され、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)隷下となります。

6月20日、編成完結、7月9日、大阪を出発し10日、錦県に上陸集結、教育訓練に任じるなか、7月11日、張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え、8月11日、師團とともに大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、同日、停戦となりますが、13日、滿ソ東部国境の渾春・図們・延吉の警備にあたります。

9月7日、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列となり、滿ソ東部国境を出発、17日、聯隊は大連に集結、9月29日、大連を出航し南支に向かい、10月14日、バイアス湾に上陸、12日に奇襲上陸した師團を追及し広東攻略戦に参加しますが、火力発揮の場はありませんでした。

11月9日、第二十一軍の従北作戰に師團とともに参加、従北付近に屯営し、広東奪還を目論む支那第四戰區軍を撃退、昭和14(1939)年4月4日、第百四師團の四月作戰に第二大隊が参加、9月1日、第二十一軍の花県作戰に第一・第三大隊が増加の山砲装備で参加、両大隊は師團隷下の歩兵聯隊に配備され険峻な地形と敵の抵抗に進撃は遅滞するも、花県北方山地敵陣を攻略、6日、龍頭墟付近に進撃し敵陣地を撃破、9日、作戦は終了します。

11月20日、広東付近の支那第四戰區軍を撃滅するため、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に師團とともに参加、第三大隊は西山支隊(歩兵第百七旅團長・西山福太郎少将)に配属され先遣隊として、聯隊主力は師團とともに北江両岸に沿って進撃、歩兵部隊を支援し、12月30日、広東北方の英徳を攻略、昭和15(1940)年1月3日、作戦は終了します。

2月9日、第二十一軍が廃止され、第百四師團は南支那方面軍(安藤利吉中将)戰闘序列に編入、5月26日、師團とともに第十一軍の宜昌作戰の牽制のための良口作戰に参加、6月12日、第十一軍が宜昌を攻略したため作戦は終了し、広東に帰還、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月1日、『軍令陸甲第三十六號』により3個大隊編成から6個中隊(四一式山砲12門)編成に改正されます。
9月8日、中支那方面軍の長沙方面の作戦を容易にするため第二十三軍(今村均中将、6月28日、南支那方面軍を改編)の四邑北江作戰に師團とともに参加、粤漢線に沿って北上し重慶軍を牽制、昭和17(1942)年2月10日、澄海付近の戦闘に第二大隊が、3月16日、南部順徳県の重慶軍掃討に第三大隊が参加します。

昭和18(1943)年12月3日、第二十三軍の廣九作戰に第一・第二中隊が参加、廣九鉄道に沿って南下進撃し重慶軍を駆逐、28日、広東-九龍間が開通します。

昭和19(1944)年3月1日、獨立歩兵第十三旅團(落合松二郎少将)の編成に際し、聯隊からは獨立歩兵第二百四十二大隊歩兵砲中隊の編成に要員の抽出が行われます。

3月、一號作戰(大陸打通作戰)に備え鶴辺に集結、6月27日、第二段湘桂作戦に各中隊を師團隷下歩兵聯隊に分属し参加、9月16日、広東省肇慶、11月4日、広西省武宣、6日、象県を攻略占領します。

昭和20(1945)年1月17日、第二十三軍の粤漢作戰に各中隊を師團隷下歩兵聯隊に分属し参加、北江に沿って北上、1月27日、韶関、富国丹田を攻略占領します。

3月1日、第二十三軍のセ號戦備(米軍の支那南部上陸に備えた陣地構築)として第百四師團は海豊、陸豊地区に集結、聯隊は2月9日~12日に到着し師團隷下歩兵部隊に分属し陣地構築を開始します。
4月1日、米軍は沖縄に上陸を開始し広東方面への接近は無くなったため、陣地構築を中止、第二十三軍隷下2個師團の中支方面転用にともなう戦線縮小により第百四師團は聯隊の各中隊を本部に復帰させ広東省恵州に移駐、8月16日、停戦を迎えます。

10月下旬、支那第七戦区軍(余漢謀上将)により武装解除、11月1日、嵐湖の収容所に収容され、昭和21(1946)年4月1日、虎門を出航、20日、浦賀に上陸し重砲兵學校に入り、23日、聯隊長・横川止知少佐より聯隊解散、現役解除が宣せられ復員完結します。


野砲兵第三十四聯隊(通称号不明)
昭和14(1939)年3月11日、『軍令陸甲第六號』において野砲兵第四聯隊留守隊に編成下令、20日、編成完結(長林勝由中佐、1個観測中隊・3個野砲大隊、九五式野砲24門・九一式榴弾砲12門、輓馬編成)、3月1日、乙編成師團として編成完結した第三十四師團(關亀治中将、大阪)に隷属、4月、師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。

4月3日、大阪を出発、15日、中支湖北省礼山県漢口に上陸し、18日、聯隊本部は劉福、第一大隊は河口鎮、第二大隊は用家頭、第三大隊は岐亭を中心に中隊単位で湖北省一帯の警備に従事、5月16日、第三十四師團の一號作戰に第一大隊が歩二百十七の直協として参加、七里坪付近に進撃しますが、国府軍は逸早く退却します。
以降、聯隊は大隊・中隊単位で警備・治安戦に従事します。
11月31日、第三十四師團は第三十九師團(村上啓作中将、広島)に任務を引継ぎ、漢口に集結し、11月17日、江西省南昌県南昌に移駐、国府軍第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備に従事、26日、冬季攻勢撃滅戦、22日、沙古岺付近の戦闘に参加します。

昭和15(1940)年2月26日、京岡岺付近の戦闘、4月5日、南昌南方敵戦力破砕作戰、11日、石崗市付近の戦闘、20日、塘陵上西山付近の戦闘、25日、師團の六號作戰、29日、同七號作戰、6月7日、同九號作戰、10月12日、同十號作戰、12月22日、南昌東方沈口鎮付近の戦闘、30日、陸家店付近の戦闘に参加します。

昭和16(1941)年1月7日、師團の十二號作戰、2月17日、同十三號作戰、3月13日、同第一次錦江作戰、4月13日、武渓市付近の戦闘、8月20日、第一次長沙作戰、9月27日、奉新攻略戦、10月3日、市叉街攻略戦、12月23日、第二次錦江作戰に参加します。

昭和17(1942)年4月28日、ドーリットルの本土空襲機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため、第十一軍の浙贛作戰に師團参加、南昌から東進し、5月31日、謝埠市付近撫河の渡河支援射撃を実施、6月2日、進賢付近の戦闘、14日、鄧埠・華村清河の渡河支援射撃、16日、貴谿付近の戦闘、7月10日、双樹街付近・流口付近の戦闘に参加します。

昭和18(1943)年4月16日、第十一軍の江南殲滅作戰(宜昌作戰)に師團参加します。
5月10日、江西省南昌において各大隊の九一式十糎榴弾砲装備の第三・第六・第九中隊(第三大隊長・多田源孝少佐指揮)が抽出され、第十五師團(山内正文中将、京都)隷下の野砲兵第二十一聯隊(藤岡勇大佐)に転属、9月18日、呉淞を出航し、12月11日、泰国ランパンに上陸しウ號作戰(インパール作戦)に参加します。
6月22日、『軍令陸甲第四十一號』により野砲兵第三十四聯隊は解隊され、山砲1個中隊を第三十四師團に残置し、聯隊長・大塚昇大佐以下主力は朝鮮平壌に向かい、7月5日、第三十師團(小林淺三郎中将、平壌)隷下の野砲兵第三十聯隊編成の基幹要員として転属します。


野砲兵第四十四聯隊(橘第一四一五七、中部第五十七部隊)
昭和19(1944)年4月6日、『軍令陸甲第三十七號』において野砲兵第四聯隊補充隊は野砲兵第四十四聯隊(高雄實中佐)に改編、4月4日に留守第四師團から改編された第四十四師團(關原六中将、大阪)に編入され、教育訓練を実施します。
7月6日、『軍令陸甲第七十五號』により臨時動員下令、同日、動員完結、聯隊本部は観測中隊兵舎に、第一大隊は旧伯太小學校跡地に、第三大隊は國分國民學校に入り、同日、新たに野砲兵第四聯隊補充隊(鳥川光雄中佐)が編成されます。
第四十四師團(川並密中将)は動員完結とともに信太山に移駐、主力を大阪府南部に、一部を和歌山に配置し本土防衛にあたります。
昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力は第十二方面軍戦闘序列に編入され、列車により作戦地である関東平野に進出します。
4月8日、師團は新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入、機動打撃師團として司令部を石岡(のち小川に前進)に、隷下の歩九十三(大沢勝二大佐)を涸沼(ひぬま)に、歩九十二(伊奈重誠大佐)を徳宿に、歩九十四(工藤豊雄大佐)を烟田(かまた)に配置、野砲兵第四十四聯隊は本部・第二大隊を小川(のち鉾田に前進)に配置、第三大隊を歩九十三に、第七中隊を歩九十二に、第一大隊を歩九十四に分属し、鹿島灘への上陸が予測される米軍迎撃の陣地構築中、8月15日、停戦を迎えました。
9月1日、『軍令陸甲第百十六號』により復員下令、同日、鉾田において復員完結します。


聯隊以下の編成・補充部隊
四號砲兵情報班(昭和12年9月4日、編成)

獨立混成第二旅團砲兵隊第三中隊(昭和13年3月24日、編成)

野砲兵第四十二聯隊第五中隊(昭和16年7月16日、編成)

獨立野戰高射砲第三十二中隊(昭和17年1月13日、動員)

第五野戰補充隊砲兵隊(昭和19年3月10日、編成)

獨立混成第百二十三旅團砲兵隊(昭和20年6月、編成)


主要参考文献
『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』(昭和57年4月 野砲兵第四聯隊史編纂委員会)

信太山駐屯地「修史館」(資料館) 展示資料

『アジア歴史資料センター 各資料』

『大日本帝國陸地測量部地形図 42 大阪近傍』

国土地理院 昭和21(1946)年6月6日 和泉市周辺空撮(NI-53-15-10)

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なるほど

若いときに勤務してた駐屯地です 古い建物多数ありましたが そうですかあ 厩舎とかの後だったのですね (^O^)

こんにちは

ひろしさん、コメありがとうございます!
個人的には日夜厳しい訓練に励んでおられる隊員の方には、施設くらいはもっと綺麗で過ごしやすい建物で快適に勤務に就いて頂きたいとこです。
ただ、戦跡好きとしては予算的に厳しいとは言え、当時の建物を大切に使ってらっしゃるのは嬉しく思いますv-290

こんばんわ

レス感謝です 私は 今五十前ですが 以外と古寺とか 古墳とか高射砲陣地後とか好きなもので(^O^)現役時 銃剣道訓練は旧軍の武道場でした記憶があります 堺市の近畿中央病院や警察学校は四師団の騎兵他の駐屯地だったそうで二十年以上昔は営門が残ってましたよね 衛兵詰め所とか。今はすっかり近代化(≧∇≦)

ありがとうございます

度々のコメ、感謝です(^-^)/
赴きのある古寺や古代のロマン溢れる古墳、なかなか良いですね!
高射砲陣地はご存じかも知れませんが、近畿では東淀川にあるものが保存状態も良く素晴らしい遺構と思います。ただ、住人がいらっしゃるので余りジックリ見れませんが・・・(笑)
他にも尼崎の橘公園、神戸の摩耶山にある物もある程度形状を留めていて見応えがあると思います。
この両者は拙ブログでも記事にしていますので、お暇な時にでも覗いてみて下さい。

>銃剣道訓練は旧軍の武道場でした
手元の「野砲兵第四聯隊要図」では駐屯地西側に「剣道場」の表示がありますが、旧軍時代と同じ用途で使われていたのですか!
貴重な証言、ありがとうございます<(_ _)>

堺市金岡の第四師團隷下部隊の戦跡も一昨年探索しましたが、おっしゃる通り殆ど何も残っていませんね(;^_^A
騎兵第四聯隊跡の警察学校内に兵舎と思しき建物が数棟ありますが、立ち入りできないのが残念です・・・
こちらも拙ブログで記事にしていますので、お暇な時にでもまた覗いてみて下さい。

武道場

たしか 今の官舎沿いの道 裏門から山手方向に ん百メートル行ったあたりにあったような(?_?) ちなみに旧軍厩の一部が我々2中隊倉庫になってて 予備隊時代は浴場に改装されてたので 浴槽がそのまま残ってましたわ そこに備品(防具とか色々)がゴミの山(笑)のようにつまれてました 隅をつつくと 加給食の乾パン(喰えるのか?)や 赤マムシドリンク(飲めるのか?)が埃かぶって積んであるから 倉庫に用事でいったときに たまにいただきました(^O^)お腹壊さなかったから 喰えるやつだったのでしょな(^O^)

長曽我部氏の記事にもコメントさせていただきました(^O^) ちなみに 私も 共●主義者や さよ●団体や 似非反戦市民団体や にっきょーそのクソどもが大嫌いでーす(^O^)こいつら皆 日本をよくする事を考えない奴らで 売国思想ですもんね

貴重な体験談

ありがとうございます!
昭和40、50年代の空撮を見ると、確かに裏門から入って数百m程の現在の官舎付近に切り妻屋根の古そうな建物があるので、それが武道場だったのかも知れませんね。
体験談、古き良き体育会系のノリで興味深いです(笑)

まったくです!

我が国に巣食うサヨクと言うのは他国の左翼と違い、根底に国を愛する心が微塵も無く、単なる売国毀日集団でしかないので、本当に日本の為になりません(`ε´)

ヤツらの行動を見ているとダブルスタンダードの単なる反日活動で虫唾がはしりますよね(`ε´)

度々返事ありがとです私 一応 剣道と銃剣道を使うのですが まあ…段はありますが 素質がないのか どちらも 弱いもんで (≧ε≦) 徒手格闘など論外の下手さだから 現役時は「実戦なったら俺すぐに戦死やろなあ…輸送科か需品科にしとけばよかったかな」と後悔しつつ ♪やま~のおとこの普通科きんむ~げつげつか~すいもくインキン♪と 水虫と痔とインキンと嫌な先輩からのいじめになんとかのらりくらり耐え(笑)四年やりましたわ まだ友人先輩は頑張ってるのがいてますちなみに陰湿ないじめは 配属されて最初の三ヶ月から五ヶ月すぎれば次々と新兵がくるからだんだんなくなり 慣れたらまあまあたのしく?なる かな?みたいなかんじっすよ まあ 暗部のねた話しで(≧ε≦)(^O^)

いつも

カキコ、ありがとうございます(^∇^)
僕なんか体はでかいけど、武道はからっきしなんで・・・(汗
銃剣道なんてカッコ良いじゃないですか(^∇^)

組織である以上、良い人もいれば嫌な人もいるのは世の常ですね。
あとあと話のタネになる事もありますが・・・(笑)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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