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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第23回「愛の兜」

天正14(1586)年正月から同天正14(1586)年5月の上杉景勝の上洛出発までです。





今回はこれと言って話の進展はありませんでしたが、上杉家が豊臣政権の中央集権派に組み込まれていく過程の初期段階の話でした。

冒頭で石田三成からの上洛要請の書状を見た兼続が上洛を渋る景勝に対し、「もしも先に家康が上洛したら不利になる」と言っていましたが、この台詞が今回の最も重要な場面でした
豊臣政権内には後に石田三成らを中心とした中央集権派と徳川家康に代表される自力で領国の保持・拡大をはかる領国分権派が形成されます(実際はもっと複雑ですが・・・)。
この時期はその初期段階で徳川家を東国統治の中心として置き、徳川家を宥和的に政権に取り込もうという動きと上杉家を東国統治の中心として置き、徳川・北条を抑えこもうという考えの対立がありました。
この対立はその後も続き関ヶ原の合戦となるわけですが、この時点で国力の劣る上杉家が存続を図るには豊臣家に頼るしかなく、豊臣政権内で生き残るには中央集権派に属するしかありません。
その結果、秀吉の後援で新発田重家を討伐し越後を統一、さらに佐渡、庄内の支配を任されました。
さらに秀吉の信頼が厚く集権派で徳川、伊達の牽制に配された会津の蒲生氏郷の死後、徳川家に接近した蒲生家に変わり、越後時代を大幅に上回る120万石の「大大名」として会津に配されます。

しかし、これが結果的にのちの徳川家との対立につながっていくわけで、歴史の必然性と言えます。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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