FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第24回「戸惑いの上洛」

天正14(1586)年5月20日の上杉景勝の上洛出発から同天正14(1586)年6月中ごろまでです。





この時の景勝の上洛は『天正十四年上洛日帳』という史料が残っており、かなり詳しく分かります。
まず上洛に兼続とともに同道した千坂景親が出て来ません
御館の乱の際に武田家への使者となったのは景親ですが、ドラマでは兼続に取って代わられていました
のちの関ヶ原の戦いの際にも石田三成敗戦後、徳川家康側近本多正信とともに景勝に降伏を勧め、徳川家との和睦のために奔走する重要な人物ですが、これまた兼続に取って代わられそうな予感です

28日、前田利家の兄である前田安勝を始めとする加賀、能登の侍が「不残一人」景勝一行を迎えたとあります。また、石田三成も森本近辺まで出迎え、互いに馬から下りて挨拶を交わし、前田利家もまた同所まで迎えに出、金沢城に案内しました。
三成と兼続の対面は本来ならこの時が初めてと思われます。
28日は金沢に宿泊、翌29日、金沢城にて歓待を受け、利家の次男・又若丸(利政、当時9歳)が能の太夫を務めました。
29日も金沢に宿泊し、5月30日に金沢を出発し、京に向かいます。
上記のように丁重に迎えられていますが、ドラマでは利家が上段から偉そうに景勝一行を謁見していました。利家は大大名とは言え、秀吉の家臣に過ぎず、景勝は弱体化しているとは言え関東管領の家柄であり、秀吉の主家である織田家を遥かにしのぐ名門の家柄です。さらに言えばその織田家と対峙していた訳です。利家ごときが上段から謁見できる訳ありません。
それに、この上洛の目的は秀吉と対等な立場の景勝が、秀吉に臣従して利家と同じ立場になる催しなわけで、この時点では景勝が上段に座るべきです

架空の人物の千利休の娘(木村佳乃)が出て来ましたが、千利休は出て来ませんでした
『上洛日帳』によると「十六日、 関白様江御茶之湯朝会ニ御出候、 関白様直々御加用、同御手前にて御茶被進候、さて御会おさまり候而、直江山城・千坂対馬二人、かの御座敷為御見候、其時宗易手前ニ被出候、御道具ハ、一、初花、すり壷、一、月之絵、一、かふらなしの花生、其外名物色々被出候事・・・・」とあり、すでに会っています。

何より、お涼が上洛した5日間で景勝が37の大名家を回ったと説明していましたが、んなアホな
『上洛日帳』には「・・・中将殿ニ而御会、是ハ美濃守殿之御事なり、是も中将殿直之御加用御手前也。・・・」と景勝が会ったのは中将殿(美濃守殿=羽柴秀長)だけであり、北政所や福島正則には会っていません
その他には14日、秀吉との対面の際に陪席者として織田長益、前田利勝(利長)、石川数正、榊原康政が列席しています。
相変わらず福島正則がバカに描かれていました
正則は好きではありませんが、あの描き方は可哀そうです
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。

リンク
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる