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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

堺市北部の高射第三師團 高射砲・照空隊陣地

堺市には高射砲及び照空隊陣地の物と思われる遺構が遺されています。
大浜照空陣地 ウ 北側台座(堺 防空陣地)
▲大浜北公園(照空陣地跡)に遺る台座

【探索日時】
平成21年2月26日

【更新情報】
平成24年10月12日:地図訂正、書式変更






大泉緑地堺市北部の高射砲配置(堺 防空陣地)
▲今回探索した陣地跡
 ※堺方面の全てではありません

大泉地の陣地※青地は地図にリンクしています
大泉池周辺には高射第三師團隷下の獨立高射砲第十三大隊(藤野毅一少佐、炸四一一六)の第一中隊(七高)、第二中隊(八高)、第三中隊(照空灯)が配備されていました。
※高射砲は『高射戦史』では各6門、『砲兵沿革史』では各4門となっています。

停戦時、第一中隊は空襲により大損害を受けた大阪から、殆ど無傷の京都防衛のため移駐しています。
また、第三中隊(照空灯)が中隊単位で配備されていたとは考えにくいのですが、何分隊が当地に配備されていたかは不明です。
大泉緑地大泉池の陣地(国土地理院 M157-A-6)210606(堺 防空陣地)
▲昭和21年6月6日の大泉池周辺の空撮(国土地理院 M157-A-6
 ※画像は加工しています。

大泉緑地大泉池 現況(堺 防空陣地)
▲現在の空撮に写した物(点線は滅失境界)

大泉緑地大泉池周辺の陣地(堺 防空陣地)
▲現在の地図に境界を転写

現在、大泉池周辺は大泉緑地公園として大幅に造成されてしまい高射砲陣地としての遺構は殆ど遺されていませんが、唯一東側の畑の中に「東側の陣地跡」(便宜上“A陣地”、以下同様に北の陣地=B、西の陣地=C、南の陣地=D)の遺構が遺されています。

A 陣地
詳細は不明です。
直径150m程の円形をしており、停戦時、周辺には防空壕や木造建屋が残っていた様です。
現在もコンクリート製の建物基礎と外周の7/10程が用水路に転用されて遺り、辛うじて円形区画が確認できます。
大泉緑地A陣地 現況(堺 防空陣地)
▲現在のA陣地周辺の空撮
①建物基礎
②円形の陣地跡(黄線は滅失部分)
③軍道跡の道路

陣地南西にコンクリート製の建物礎石のようなものが3ヶ所並んでいます。
大泉緑地A陣地 南西建物礎石? (堺 防空陣地)
▲コンクリート製の基礎(南から)
 一番南側は畑になっています。

大泉緑地A陣地 南西建物礎石?(堺 防空陣地)
▲コンクリート製基礎(北から)
 一番北側は30cm程の孔がある小さく区切られた部屋(便所?)が並び、中央(写真奥)は土間状になっています。

大泉緑地A陣地 南西側溝(堺 防空陣地)
▲陣地周囲には溝が巡っています。

B 陣地
停戦後の昭和23(1948)年の空撮から、高射砲砲座が2ヶ所(西側5門、東側不明)確認できます。
現在は大泉緑地公園の駐車場に造成され、遺構は何も遺されていません。

C 陣地
詳細は不明です。
A・D陣地同様、直径150m程の円形をしており、昭和23(1948)年の空撮から西側を向いた砲座(2門?)が確認できます。
現在は公園に造成され、遺構は何も遺されていません
大泉緑地C陣地 付近(堺 防空陣地)
▲何の痕跡もありません。

D 陣地
詳細は不明です。
A・C陣地同様、直径150m程の円形をしており、停戦時は芋畑が造られていたとも言われています。
現在は駐車場・球場に造成され、軍道跡が駐車場進入路になっています。
大泉緑地D陣地 付近(堺 防空陣地)
▲何の痕跡もありません。

当地と同様の円形の高射砲陣地は八尾にもあり、可動式の高射砲が4門配備されていました。
空撮ではC陣地は高射砲陣地(だった?設定中?)の様ですが、A陣地、D陣地は何も写っておらず用途不明です(停戦から1年経過しているので不確実ですが)。

3ヶ所の円形陣地は防空緑地や艤装陣地等の証言があるようですが、防空緑地(全ての陣地を囲む線が緑地か?)としては余りに狭過ぎですし、艤装陣地であれば建物基礎の様な遺構があるのも不自然です。
元々は八尾の様に可動式の高射砲が配備されており、停戦時は空襲で壊滅してしまった大阪から他方面に転用されたため高射砲が無く、もしくは設定中だったので近隣の方が陣地跡と感じたのかも知れません。
何れにせよ資料が全く無いので詳細は不明です。


銭塚古墳、銅亀山古墳の陣地
両者とも国民の精神的主柱である仁徳天皇御稜を防衛し、且つ大阪湾から侵入し堺市街や大阪方面を襲う敵機を撃墜するための高射砲陣地と言われます。
また、当地は高射砲では無く照空隊陣地とも言われますが、詳細は不明です。
当地に配備された部隊も資料に記載がなく不明です。
仁徳天皇御陵 仁徳陵 陣地(国土地理院NI-53-15-9)230220(堺 防空陣地)
▲昭和23年2月20日の仁徳天皇御陵周辺の空撮(国土地理院 NI-53-15-9
 ※画像は加工しています。

仁徳天皇御陵 仁徳陵 陣地 現在(堺 防空陣地)
▲現在の地図に転写

銭塚古墳の陣地
現在、古墳は堺市支援学校内にあり残念ながら立ち入りできません(頼んだら入れるかも知れませんが)。
外周から覗くと他の高射砲陣地に転用された古墳と同様、頂部が削平されています。
遺構としてはコンクリート製の構造物のあるそうです。
仁徳天皇御陵 砲座跡 銭塚古墳 東から(堺 防空陣地)
▲円墳の頂部が削平されています。

ただ、銭塚古墳のみに高射砲(甲編成6門、乙編成4門ともに)を設置するには狭過ぎるため、高射砲陣地であれば古墳西方の丘(現、学校校舎建設で滅失)に分散配置、あるいは高射砲陣地では無く照空隊陣地だったのかも知れません。

銅亀山古墳
銅亀山古墳は仁徳天皇陵の陪塚ですが規模も小さく形が崩れており、頂部に何か施設を造るのは無理があります。
古墳周囲には粗いコンクリート片やレンガが多数散乱しており何かの施設があったようですが、高射砲陣地としては無理があります。
照空灯の管制機程度なら設置できると思いますが・・・
仁徳天皇御陵 銅亀山古墳 全体(堺 防空陣地)
▲分かり難いですが、周囲にはコンクリート片や煉瓦が転がっています。

上掲の空撮を見ると、上記の古墳以外に白く抜いた部分に円形の土塁(地図あいうえ)が見えます。
照空隊陣地の可能性がありますが、詳細は不明です。


石津川 高射砲陣地
石津川右岸には高射第三師團隷下の高射砲第百二十一聯隊第一大隊(小畠理少佐)第五中隊(8高×6門)が配備されていました。
現在は住宅地になっており、遺構は何も遺されていません

またこの陣地対岸には照空隊(電波評定機装備)陣地があったようですが、詳細は不明です。
石津川高射砲陣地(国土地理院NI-53-15-9)210606・230901(堺 防空陣地)
▲昭和21年・23年の石津川高射砲陣地周辺の空撮(国土地理院 NI-53-15-9①
 南西を向いた砲座6基と指揮所、陣地北西側には兵舎が確認できます。

石津川高射砲陣地 現在(堺 防空陣地)
▲現在の地図に転写

石津川高射砲陣地見取り図(堺 防空陣地)
▲陣地見取図(屯営していた方の回想より)

石津川高射砲陣地昭和19年(堺 防空陣地)
▲昭和19(1944)年の陣地写真(指揮所から砲座方向)

石津川高射砲陣地砲座付近(堺 防空陣地)
▲現在の砲座跡付近


大浜北公園 照空隊陣地
大浜北公園には幕末、異国船の堺港侵入を阻止するための台場が築かれていました。

当地は高射第三師團隷下の高射砲第百二十一聯隊第四大隊本部(梅谷新喜大尉)と隷下の第十六中隊(照空中隊)が配備されていました。
ここも照空隊が中隊単位で配備されるとは考えにくいので、分隊だと思いますが詳細は不明です。
また、陣地の正確な位置、広さも不明です。
大浜照空隊陣地 大浜照空隊 230220(NI-53-15-9)(堺 防空陣地)
▲昭和23年2月20日の堺港湾付近の空撮(国土地理院 NI-53-15-9

現在の北波止地区一帯(写真の突端南半分)に黒色で迷彩された建物など数棟が見えます。
北半分に見える白い屋根の建物も兵営のように広場を囲んで建物が配置されるなど、それらしいですが詳細は不明(戦後の港湾施設か?)です。
戦後、当地の兵舎を堺市立市小学校が仮校舎として使用していたようですが、場所は不明です。

大浜照空隊陣地 大浜北公園照空隊~現在(堺 防空陣地)
▲現在の空撮
 ※画像は加工しています。

大浜照空隊陣地 大浜照空隊 現在(堺 防空陣地)
▲現在の地図に遺構を転写

照空隊の1個中隊は6個分隊で編成され、1個分隊につき照空灯、空中聽音機、離隔操縦機、發電自動車各1台を装備し、人員は約30~40名でした。
ただ当地の分隊は海沿いに配置されていることから、照空船(照空灯を搭載した船)の運用をしていたとも考えられ、そうなると複数の分隊が屯営していた可能性もあります。

ア 台座
南側にあります。
直径1mで中央がやや盛り上がり固定用のボルト穴が3ッ(孔間16cm)あります。
大浜照空隊陣地 ア 南側台座(堺 防空陣地)
▲ボルト1本が遺っています。

イ 台座
西側にあります。
寸法はアと同様です。
大浜照空隊陣地 イ 西側台座(堺 防空陣地)
▲こちらもボルト1本が遺ります。

ウ 台座
東側にあります。
直径87cmで中央に大きな孔(直径12cm)があり、その穴を囲むように孔が4つ(対角20cm)あります。
大浜照空隊陣地 ウ 北側台座(堺 防空陣地)
▲上掲2ッの台座とは形状が異なります。

大浜照空隊陣地 台座全体(加工)(堺 防空陣地)
▲3基の台座の位置関係(明るく抜いた部分)

陸軍で運用された主な照空灯の寸法は九三式、一式が直径150cm、三式が200cmありました。
照空灯は当然ながら敵機の動きに合わせて可動させるのですが、その巨大な照空灯の台座としては余りにも小さ過ぎますし、それ以前に陸軍の照空灯は地上に固定されず4輪車で移動運用される事が多かった様です。
また、このように至近距離で並べる事は考えられ無い(通常は数十m~数km離して設置)事から、これらの台座は照空灯の物では無いように思います。

また、照空隊が運用した空中聽音機もまた地上固定され無いので、聽音機の台座でも無いようです。

離隔操縦機(照空灯の管制機)は照空灯の光芒が入ると操作できないため照空灯から離れた場所に設置しましたが、わざわざ地上に固定する必要の無いものなので、これも違うと思います。

他に防空兵器として電波警戒機甲・乙、電波標定機等の電波兵器(レーダー)も考えられますが、運用方法からしてこの様な場所に設置することは無いと思います。

消去法で消していくと他に考えられるのは、陣地を敵機の近接攻撃から防御するための機関銃か機関砲の銃座、もしくは見張り用の双眼鏡の台座ではないでしょうか?

エ 擁壁
海側の護岸が40m程遺されています。
造成方法は各地に残る掩体壕と同様で約10cm幅の板やムシロで型枠を作ってコンクリートを流しこんでいるようですが、造りがかなり荒く押し込まれたムシロの形や型枠のトタン波板がそのまま残っており、またコンクリート同士の継ぎ目もズレていたりと急造した様子がよく分かります。
大浜照空隊陣地 岩壁 東側擁壁 西端(堺 防空陣地)
▲擁壁

大浜照空隊陣地 岩壁 西側擁壁(堺 防空陣地)
▲型枠に使用したトタンが遺ります。

大浜照空陣地 岩壁 東側擁壁(堺 防空陣地)
▲同じく蓆の跡。

オ 建物
擁壁の上にコンクリート製の小屋があります。
開口部はかなり大きかったようで、転用する際にブロックで塞ぎ扉が付けられています。
当時の物か不明です。
大浜照空陣地 コンクリート製建物~当時の物かは不明(堺 防空陣地)
▲コンクリート製の建物

また、周辺に陣地と関係あるかどうか分かりませんが、レンガが転がっていました。


三宝の高射砲陣地
高射第三師團隷下の高射砲第百二十一聯隊の中隊(第二大隊か?)が配備されたと思われますが詳細は不明です。
空撮で見ると高射砲陣地は野球場の内野あたりに指揮所、砲座6基が南西を指向し設定されていました。
現在は三宝公園になっており、何も遺されていません。
三宝陣地  三宝の高射砲陣地231113(国土地理院NI-53-15-9)(堺 防空陣地)
▲昭和23年11月13日の三宝高射砲陣地周辺の空撮(国土地理院 NI-53-15-9
 ※画像は加工しています。
 分かりにくいですが、陣地中央に西南西を指向した砲座、指揮所の跡が見えます。

三宝陣地  三宝の高射砲陣地(堺 防空陣地)
▲現在の地図に転写

三宝陣地  砲座跡(堺 防空陣地)
▲現在の砲座跡地付近(野球場)

遺構は何も遺されていませんが、野球場の西側の広場にコンクリートの塊が埋まっており、何かの残骸かも知れませんが詳細は不明です。
三宝陣地  西端砲座付近のコンクリート片(堺 防空陣地)


陸軍防空部隊 概要
第一次世界大戦(1914~1918年、大正三四年戦役)において航空機が新たに兵器として登場すると、欧州各国では国境が陸続きという地理的条件も相まって、開戦即空襲という事態を防ぐべく地上防空部隊を早期に整備運用していきました。

一方、我が国は四方を海で囲まれているうえ、当時は航空機の航続距離も短く空襲の心配も殆ど無く、我が国の「積極防空」(敵がせめて来る前に敵の拠点を叩く)思想と相まって高射砲部隊の整備は遅々としたものでした。
しかし、航空機が急速に進化を遂げてくなか我が国も大正14(1928)年、本格的な地上防空部隊として高射砲第一聯隊が豊橋に創設されました。

昭和10(1935)年までに高射8個聯隊が編成、朝鮮、台湾を含む本土に配置され、昭和12(1937)年までにそれまで師團管區で行われていた指揮系統を改め広域的に指揮統率する東部・中部・西部防衛司令部が新編されます。

近畿地方には加古川に高射砲第三聯隊(高射2個大隊、照空2個大隊、機関砲1個中隊、材料廠)が設置されます。

昭和15(1940)年、防衛司令部は上位組織である軍への昇格し、北部軍(東北北部・北海道)、東部軍(関東・東北南部・北陸)、中部軍(中部・関西)、西部軍(中国・四国・九州)が新たに設置されます。

昭和16(1941)年11月、東部、中部、西部軍に防空旅團が編成され、防空組織の大幅な強化が図られ大東亜戦争開戦を迎えます。
近畿地方には大阪天王寺に中部軍(藤井洋治中将)隷下の中部防空旅團(金岡嶠少将、防空第十一・第十二・第十五聯隊、獨立防空第十一・第十二・第十三大隊、第十一防空通信隊、第十一防空監視隊)が編成(高射戦力の2割程度は名古屋地区に派遣)されます。

昭和17(1942)年4月18日、米陸軍B25爆撃機、16機が空母から発艦し我が国を初空襲します(ドーリットル空襲)。
被害は僅少だったものの、軍が受けた衝撃は大きく陸軍は内地防空の強化を図り、それまで手薄だった北方方面に千島防空隊を新設、北海道地区に高射砲第二十四聯隊を中心とした戦力を増強配置し、各防空旅團を組織改編し防空集團へ昇格させました。
こうして高射砲部隊は軍集団組織としての支援組織が強化されて行きますが、急速に拡大する部隊に人員、装備機材が追いつかない事態が発生します。

昭和19(1944)年、戦局が悪化する6月に米B29爆撃機が完成し、いよいよ本格的な本土空襲が予測されるなか、逐次増強された防空集團は高射砲集團と改称します。
近畿地方には中部高射砲集團(伊藤範治少将)
高射砲第百二十一聯隊(大阪、神戸地区・七高12個中隊、照空6個中隊(一部装備未受領))
 〃 第百二十二聯隊(大阪、敦賀滋賀地区・七高12個中隊、照空6個中隊(一部装備未受領))
 〃 第百二十三聯隊(神戸地区、第九中隊は名古屋・七高6個中隊、照空2個中隊(一部装備未受領))
獨立高射砲第十一大隊(尼崎地区)
 〃高射砲第十二大隊(京都地区)
 〃高射砲第十三大隊(大阪南部地区)
 〃機関砲第十一大隊(大阪要地・多連×3、双連×3、単装×1)
が設置されます。
中部防空旅團は中部・近畿・中国地方の広範囲を担当していましたが、名古屋高射砲隊の新設により近畿・中国地方のみの担当に軽減されました。
しかし、東西に長い地域と点在する重工業地帯、大阪・神戸・広島といった大都市を防備するには戦力不足は否めず、しかも機材の補充は東部、西部高射砲集團へ優先されたため、兵器の定数完備が遅々として進まず苦戦を強いられます。

同年7月、絶対國防圏の要であるサイパン島を失陥、本土空襲が確実視されるなか、さらなる防空強化が図られ高射砲集團は高射師團に随時改編され12月26日、高射第一師團(金岡嶠中将、旧東部高射砲集團)が新編されます。

近畿地方では昭和20(1945)年1月19日の川崎航空機明石工場(明石)を始め、2月4日、11日の神戸、そして3月13日の大阪・堺が大空襲を受け甚大な被害を受けます。
先述したように中部高射砲集團は少ない装備をさらに分散配置せざるを得ない状況で大正陸軍飛行場(八尾)に展開する第十一飛行師團(北島熊男 少将)とともに必死に防空に努めますが、広大な担任区を効果的に防備することはできませんでした。
4月には倉敷など瀬戸内工業地帯が空襲を受け始め、京阪神地区の被害が更に拡大、5月6日、高射第二師團(入江莞爾少将、旧名古屋高射砲隊)、高射第四師團(伊藤範治中将、旧西部高射砲集団)とともに高射第三師團(河合潔少将、旧中部高射砲集團)が新編され、被害を僅かでも抑えるべく以下の部隊が増強されるなか、8月15日、停戦を迎えます。
獨立高射砲第四十五大隊(新居浜)
〃 高射砲第五十七大隊(停戦時、編成中)
〃 高射砲第五十八大隊(停戦時、編成中)
〃 機關砲第四十七中隊(大阪)
〃 機關砲第四十八中隊(守口)
〃 機関砲第四十九中隊(神戸)
〃 機関砲第五十中隊 (米原)
〃 機関砲第五十一中隊(京都)


参考文献
『高射戦史』(昭和53年 下志津(高射学校)修親会)

『砲兵沿革史4 下-2』(昭和47年 偕行社)

国土地理院地図 各種(本文参照)

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昨日、検索すると

このHPが有ったので三宝公園と大浜北公園に行って来ました。詳しい情報ありがとうざいますm(__)m
高射砲陣地は興味有りです(^^)

Re: 昨日、検索すると

kousen様、はじめまして。

堺市はこういった遺構の調査・保全に熱心では無いようなので資料が殆ど無いうえに、情報が非常に少なく中途半端な内容ですが、ご参考いただきありがとうございます。

三宝公園の砲座は土製だったようで、結構早い段階で更地になってしまったようす。
お陰で?遺構は全くありません(^_^;)

大浜北公園の台座は正直何か分かりません。
感じからすると機関銃程度の銃座と思うのですが・・・

次回は大泉緑地東側の謎の円形陣地も訪ねてみてください(^^)

大泉緑地の陣地ですが、正確にはC陣地の北側(現在、噴水・駐車場がある辺り)にも砲座跡がありました。
まだ訂正できておらず、申し訳ありませんm(_ _)m
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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