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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第三十三聯隊 (旧歩兵第五十一聯隊)

三重県津市久居の陸上自衛隊・久居駐屯地には歩兵第三十三聯隊の兵営がありました。
兵営は先に歩兵第五十一聯隊が衛戍、後に歩兵第百三十三聯隊歩兵第百五十一聯隊歩兵第四百十二聯隊歩兵第三百三十九聯隊が編成されます。
歩三十三・歩五十一 G 聯隊本部 北西から (2)(津 久居)
▲聯隊本部(手前)と大隊本部(経理部?)(奥)

歩兵第三十三聯隊はプロ野球草創期の伝説の名投手・澤村榮治氏(巨人)が入営(徴集:昭和13年1月10日~昭和15年1月、召集:昭和16年10月8日~昭和18年1月11日、昭和19年10月2日に2度目の召集に応じますが、その際は留守第五十三師團司令部に応召、12月2日、台湾沖で海没散華)した事で知られます。

【探索日時】
平成21年7月15日、平成24年5月3日、平成25年4月21日

【更新情報】
平成25年6月22日:大幅改訂(遺構追加、地図訂正、加筆訂正)
平成31年4月11日:遺構の現状情報改訂





歩兵第三十三聯隊兵営周辺の陸軍施設配置
陸地測量部 久居(大正9測図・昭和7鉄道書込)着色
▲昭和7年頃の地図(大正9測図・昭和7鉄道書込 大日本帝國陸地測量部)

歩兵第三十三聯隊22923(久居駐屯地)国土地理院NI-53-9-9
▲昭和22(1947)年9月23日の久居周辺の空撮(国土地理院 NI-53-9-9
 ※空撮は加工しています。

久居 (現在)
▲現在の地図に施設を転写

※緑文字が当記事の紹介施設
歩兵第三十三聯隊 兵営
②歩兵第三十旅團司令部
③津陸軍病院
④津陸軍練兵場
⑤津陸軍墓地
⑥津陸軍墓地跡地
⑦津陸軍射撃場
⑩歩兵営拡張地
⑪陸軍病院 〃
※⑧津憲兵分隊・⑨津聯隊區司令部・⑫津歩兵作業場は別記事にて紹介します。
名称については一般的な昭和11(1936)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(アルファベット・カタカナ等は上掲地図の表記)
① 歩兵第三十三聯隊 兵営
明治38(1905)年12月23日、聯隊誘致を望む三重県議会により『兵舎設置に關する意見書』が政府に提出されます。
明治40(1907)年5月、三重県一志郡久居町(現、津市久居)に朝鮮駐箚中の歩兵第五十一聯隊兵営の設置が決定、久居町により用地買収が行われ、施設建築が開始されます。
明治41(1908)年11月21日、歩兵第五十一聯隊が朝鮮から帰還、新兵営に入ります。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十一聯隊は復帰したのに替り、5月5日、愛知県東春日井郡守山町(現、名古屋市守山区)から歩兵第三十三聯隊が転営してきます。

昭和12(1937)年9月4日、歩兵第三十三聯隊の支那事變出征に伴い歩兵第三十三聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和16(1941)年10月5日、歩兵第三十三聯隊補充隊は歩兵第百五十一聯隊に改編されます。
昭和18(1943)年11月18日、歩兵第百五十一聯隊の臨時動員に伴い歩兵第百五十一聯隊補充隊が編成され名古屋師管區に移管、昭和20(1945)年2月28日、第百五十一聯隊補充隊に復員下令、名古屋師管區歩兵第四補充隊が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、大蔵省名古屋財務局の所管となり、戦災により消失した企業、学校等に貸与されます。
昭和27(1932)年7月10日、警察予備隊(第7普通科連隊第3大隊)が舞鶴より移駐(10月15日、保安隊、昭和29年7月1日、自衛隊に改称)し久居駐屯地発足、昭和37(1962)年1月、帝國陸軍の郷土部隊である歩兵三十三聯隊と同一連隊名を冠し、同一兵営に衛戍する唯一の陸上自衛隊・第33普通科連隊が編成、現在も我が国の平和を護っています。
第33普通科連隊の名称決定に関しては歩三三会(歩兵第三十三聯隊戦友会)の尽力によるところが大きかった様です。
歩三十三・歩五十一 現在の営門跡(津 久居)
▲現在の久居駐屯地 正門

歩三十三・歩五十一 営門 (津 久居)
▲歩兵第三十三聯隊 兵営営門
 営門は久居駐屯地正門(上掲写真と同じ位置)にありました。

※見学については事前連絡にて見学許可を得て日程を調整、または毎年3月下旬~4月上旬の「さくら祭り」、4月末の「駐屯地創立記念行事」などの際に可能です。
詳細は陸上自衛隊 久居駐屯地 広報室にお問い合わせ下さい。


A 厩舎
外壁や屋根などが改築されていますが、全体の形状を留めています。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
歩三十三・歩五十一 A 厩舎 北東から(津 久居)


B 歩兵砲・通信班兵舎
駐屯地内に遺る遺構中最大の建物です。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
第33普通科連隊発足時は連隊本部として使用されました。
歩三十三・歩五十一 B 兵舎 北西から(津 久居)
▲北西側(正面)

歩三十三・歩五十一 B 兵舎 南西から(津 久居)
▲正面側 近影

歩三十三・歩五十一 B 兵舎 南側入口(津 久居)
▲正面玄関

歩三十三・歩五十一 B 兵舎 北東から(津 久居)
▲北東側(裏側)
 裏側にも正面玄関と同様の入り口があります。

歩三十三・歩五十一 B 兵舎 西側の塀(津 久居)
▲B建物の西側にあるコンクリート製の柱
 場所からして馬繋柱でしょうか?


C 建物
A厩舎に隣接する小型建物で、用途など詳細は不明です。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
歩三十三・歩五十一 C 北東から(津 久居)


D 建物
B建物の北側にある小型建物で、用途など詳細は不明です。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
歩三十三・歩五十一 D 南西から(津 久居)


E 建物
A厩舎の前にある建物で、用途など詳細は不明です。
場所、大きさからして輓馬具庫か糧秣庫かも知れません。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
歩三十三・歩五十一 E 南西から(津 久居)


F 建物
同じくA厩舎の前にある建物で、上記Eと用途など詳細は不明です。
平成30(2018)年4月、惜しくも滅失しました。
歩三十三・歩五十一 F 南西から(津 久居)

※A・B・C・D・E・Fのある区画は平成21年の訪問時に「近々撤去解体予定」との事でしたが、平成25年現在も幸い遺されています。
この位置を地図で見て頂ければ分かると思いますが、久居駅東側出口周辺の北側の市有地が東側(駐屯地側)に、南側の駐屯地敷地が西側(線路側)に出ており歪な形状のため、市との間で土地を東西に2等分する計画が進んでいる様です。
この計画が進むと該当全ての建物が予定地に掛かるため、残念ながら以前の計画通り破壊される事になります。
見学希望の方は早目に行かれる事をお勧めします。

平成30(2018)年4月、計画が進行、上記6棟は残念ながら滅失しました。


イ 誠心
駐屯地正門を入って正面の築山にあります。
昭和7(1932)年1月4日、『陸海軍軍人ニ賜ハリタル敕諭』(軍人勅諭)拝受50周年を記念し建立されました。
歩三十三・歩五十一 イ 誠心碑(津 久居)
▲揮毫は時の第十六師團長・南次郎大将で、「誠心」は勅諭の説く「忠節」・「礼儀」・「武勇」・「信義」・「質素」の真髄を示す言葉です。
上掲の陸軍時代の営門写真にも写っています。


G 聯隊本部 庁舎
陸軍時代の写真では無塗装の外観だった様ですが、現在は白色に塗装されています。
歩三十三・歩五十一 G 聯隊本部 北西から(津 久居)
▲北西から

歩三十三・歩五十一 G 聯隊本部 西から(津 久居)
▲元々の入り口は西側にあった様ですが、閉鎖されています。
 また、軒下に星章が掲げられていますが、聯隊本部は通常「菊の御紋」を頂くので、戦後に掲揚されたのかもしれません。

歩三十三・歩五十一 G 聯隊本部 南東から(津 久居)
▲東側に比べ簡素な東側

歩三十三・歩五十一 G 聯隊本部 北側入口(津 久居)
▲聯隊本部庁舎 現在の入り口

歩三十三・歩五十一 歩兵三十三聯隊本部庁舎・大隊本部庁舎(津 久居)
▲写真左側の建物が聯隊本部庁舎(歩兵第五十一聯隊当時)


H 建物
『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』には「大隊本部」、兵営設置当初の『歩兵第五十一聯隊絵圖』では「経理部」となっています。
G聯隊本部庁舎同様に陸軍時代の写真では無塗装の外観ですが、現在は白色に塗装されています。
歩三十三・歩五十一 H 経理部 南西から(津 久居)


I 厠
G聯隊本部庁舎とH建物を渡廊下で繋ぎ、その中間に設けられています。
現在も手洗いとして使用されています。
歩三十三・歩五十一 I 南西から(津 久居)


ウ 哨舎
第十六師團隷下部隊に見られる、コンクリート製六角柱の歩哨舎です。
場所からして移設された物と思われます。
歩三十三・歩五十一 ウ 歩哨舎 西から(津 久居)


J 将校集会所
大正10(1921)年、将校集会所として建築された様です。
歩三十三・歩五十一 J 将校集会所 北から(津 久居)
▲北側(正面)

歩三十三・歩五十一 J 将校集会所 北側外廊下 北西から(津 久居)
▲将校集会所の北側には外廊下が付いています。

歩三十三・歩五十一 J 将校集会所 東側付属屋 北東から(津 久居)
▲東側には小さい建物が連結しています。


歩三十三・歩五十一 J 将校集会所 南西から (2)(津 久居)
▲正面(北側)に比べ簡素な裏側(南側)

歩三十三・歩五十一 歩兵三十三聯隊 将校集会所(津 久居)
▲歩兵第五十一聯隊当時の将校集会所南側


エ 歩哨舎
火薬庫地区の入り口にウと同型のコンクリート製六角柱歩哨舎があります。
元々ここにあった物か不明です。
詳細は控えます。


K 火薬庫
防爆土堤に囲まれており、駐屯地外周から屋根しか見えません。
詳細は控えます。


L 火薬庫
高床式コンクリート製の建物です。
詳細は控えます。


M 火薬庫
全体がコンクリートで造られた建物です。
詳細は控えます。


N 火薬庫関連建物
木造モルタル仕上げの建物です。
詳細は控えます。


O 建物
駐屯地内で数少ない星章のある鬼瓦を頂く建物です。
用途など詳細は不明です。
歩三十三・歩五十一 O 南西から(津 久居)

歩三十三・歩五十一 O 西側の鬼瓦(津 久居)
▲鬼瓦の星章


P 建物
小型の木造建物ですが、用途など詳細は不明です。
物置でしょうか?
歩三十三・歩五十一 P 南から(津 久居)


ア 境界石標?
駐屯地外周の民家の脇にあります。
数字の様な刻字が見えますが、破損が酷く判読不能です。
歩三十三・歩五十一 ア 石標(津 久居)


衛戍・編成・補充部隊
歩兵第三十三聯隊(垣六五五六、中部第三十八部隊)
明治29(1896)年9月25日、歩兵第六聯隊(名古屋)において編成完結、第三師團(長谷川好道中将、名古屋)隷下の歩兵第五旅團(大久保利貞少将、名古屋)に隷属、明治30(1897)年8月27日、守山の新兵営に転営、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第三十三聯隊 軍旗(津 久居)
▲歩兵第三十三聯隊 軍旗

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発にともない、3月6日、第三師團に動員下令、第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列となり、25日、守山を出発、4月10日、韓国鎮南浦に集結、5月、遼東半島に上陸、26日、南山攻略戦に参加、ロシア軍の地雷原・銃砲火に苦戦するも攻略、6月15日、得利寺攻略戦、7月24日、大石橋攻略戦、31日、第四軍の析木城攻略戦、8月26日、遼陽會戰に参加し、28日、要地・首山堡を攻略、10月11日、沙河會戰に参加します。
明治38(1905)年3月1日、奉天會戰では、7日未明、聯隊は李官堡に集結、干洪屯南方から三軒家一帯の敵陣に攻撃を開始、平坦地で遮蔽物の少ない不利な状況下、敵の激烈な銃砲火、逆襲により大きな損害を出しながらも第三大隊により三軒家南堡塁を攻略します。
しかし、凍土により防御工事が遅滞、聯隊主力(第一・第三大隊)は1個師団相当の敵の逆襲を受け、午後になり第ニ大隊が合流しますが、聯隊は将校の大半を失う大損害を受け敵中に孤立、敵軍は遂に陣地内に侵入し白兵戦が展開、生存者が約300名に減少する事態となり聯隊長・吉岡友愛中佐は重要書類を焼却、軍旗を歩兵第五旅團司令部に後送、生存者に歩兵第六聯隊(名古屋)に合流すべく命じ、直後に喉に敵弾を受け散華(後任、香月三郎中佐)してしまいます。
第二軍司令官・奥大将は第三師團の損害を考慮し後退を下命、聯隊の生存者は夜半、李官堡に集結します(聯隊長以下801名散華、1,080名が負傷)。
聯隊の死闘により敵の攻勢は失敗、我が軍の包囲作戦を促進させる事に成功し、3月8日、滿洲軍總司令官・大山巌大将から第三師團に対し感状が付与、17日、故吉岡中佐は大佐に進級、奥大将から全軍布告の賞詞を受けます。

5月27日、日本海海戦で聯合艦隊(東郷平八郎大将)がバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー中将)を撃滅、9月1日、講和条約が締結され、16日、両軍は停戦、明治39(1906)年1月15日、聯隊は守山に凱旋し復員完結します。

大正3(1914)年7月28日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発します。
大正7(1918)年8月、第三師團に動員下令(シベリア出兵)、9月9日、守山を出発、ペリゾヨフカ付近に集結、 大正8(1919)年10月24日、守山に凱旋し復員完結します。
大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第三十三聯隊(堀吉彦大佐)は第三師團(井上幾太郎中将、名古屋)編合から第十六師團(山田良之助中将、京都)編合に変更され、5月5日、守山から三重県一志郡久居町(軍備整備により復帰した歩兵第五十一聯隊兵営)に転営します。

昭和2(1927)年2月7日、大正天皇御大喪儀に軍旗を捧持し代表者が参列、昭和3(1928)年11月10日、昭和天皇即位の礼のため遥拝式に参列します。
昭和4(1929)年2月、第十六師團に滿洲駐箚が下令、4月10日、聯隊は鳥羽港を出航、14日、大連に上陸、18日、奉天に屯営し警備にあたり、昭和5(1930)年10月5日、三軒家に戰跡記念碑を建立、昭和6(1931)年4月、久居に帰還します。

昭和6(1931)年9月19日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、久居を出発、大阪港を出航、20日、第三大隊は斉斉哈爾に、24日、聯隊主力は龍江省克山県泰安鎮に到着し警備にあたります。
11月、第二大隊を残置し聯隊主力は斉斉哈爾に移駐、第一次・第三次秋季討伐作戰に参加、昭和11(1936)年3月下旬、第一大隊は朝鮮国境の湯山城に、聯隊主力は遼陽に移駐、6月27日、大連を出航、7月4日、大阪に上陸、5日、久居に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月4日、久居を出発し列車にて大阪港に集結、11日、塘沽に上陸し北寧鉄道を貨物列車により移動、13日、天津に到着、子牙河に沿って進撃、21日、第二軍の子牙河作戰に参加、11月10日、大連に移動、12日、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、13日、大連を出航、18日、中支長江岸常熱市滸浦鎮に上陸し支那国民党政府の首都・南京に向かって進撃を開始、22日、無錫の敵堅陣に攻撃を開始、26日、無錫を攻略、12月1日、大本營は南京攻略を下令、聯隊主力(第二・第三大隊)は師團予備として師團司令部とともに句陽に布陣、8日、第一大隊は師團前衛とし湯水鎮を攻略し聯隊に復帰、聯隊は歩兵第九(金沢)、第三十八(鯖江)とともに南京城東側の要地・紫金山の攻略に前進します。
10日、聯隊は第三大隊を左第一線に紫金山最東端の第一峰に、第二大隊を右第一線に紫金山東北方向から攻撃を開始、国府軍の頑強な守備に苦戦しつつ速射砲でトーチカを撃破しながら前進、夜半、第二大隊第六中隊は第二峰北側から迂回し夜襲に成功しますが、師團命令により第一大隊を抽出され2個大隊で攻撃を続行、11日早朝、第二大隊は大きな損害を受けながらも第二峰を攻略、12日、直協砲兵の支援射撃のもと突撃、1800、遂に第一峰を攻略します。
13日、中支那方面軍隷下部隊の攻囲に、南京防衛の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、我が軍は南京城を攻略、聯隊は師團命令により下関方面に転進、残敵の掃討にあたり、17日、入城式に第二大隊が代表として参列、聯隊は周辺の警備にあたります。

12月23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内寿一大将)戦闘序列に編入、聯隊は北支転進のため南京を出発、上海に集結し海路にて28日、大連に上陸します。

5月9日、師團とともに徐州會戰に参加、19日、徐州包囲に参加するも国府軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。
聯隊は敗敵を追撃しますが、敵は我が追撃を阻止すべく黄河を決壊させたため追撃を中止し、第十六師團(藤江恵輔中将)の第二軍戦闘序列編入に伴い、15日、漢口に転進となり徐州を出発、9月7日、武漢作戰に参加、10月17日、大別山付近の国府軍を撃滅しつつ踏破し、11月、漢口に入城し付近の警備にあたります。
12月、第十六師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、昭和14(1939)年5月1日、第十一軍の襄東會戦に師團とともに参加、5月12日、湖陽鎮において聯隊長・山田喜蔵大佐が散華(後任、横田豊一郎大佐)してしまいます。
7月11日、第十六師團に復員が下令、14日、第十六師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、漢口に集結、8月17日、久居に凱旋し復員完結します。
歩三十三・山田喜蔵大佐(津 久居)
▲第22代聯隊長・山田喜蔵大佐

当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。
昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。

9月16日、第十六師團に臨時編成、25日、動員が下令、10月3日、聯隊の動員完結、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

11月17日、聯隊は久居を出発、20日、名古屋港において第十六歩兵團司令部(木村直樹少将)と合流、同港を出航、26日、パラオに上陸、戦闘訓練を実施後、12月8日、聯隊(第一大隊欠)は第十六師團主力を離れ敵飛行場、及びルソン島北西部の攻略を任務とする木村支隊主力として輸送船に乗船しパラオを出航、同日、我が国は米英に対し宣戦布告、大東亜戰争が開戦、12日、レガスピーに上陸し飛行場を攻略、米比軍陣地を突破しつつ北上、18日、ナガ、21日、ダキト、27日、カラワグを攻略し師團主力と連絡しマニラに進撃、昭和17(1942)年1月2日、第十四軍はマニラを攻略、聯隊はマニラ南方60kmのタガイタイ付近の警備にあたります。

12月16日、第一大隊(三浦俊雄中佐)は三浦支隊として、第五十六師團(渡邊正夫中将、久留米)隷下の混成第五十六歩兵團(坂口静夫少将、歩兵第百四十六聯隊、野砲兵第五十六聯隊第一大隊基幹、坂口支隊)指揮下に入りパラオを出航、第四航空戰隊(角田覚治少将、空母龍驤)の直掩により、12月20日、ダバオに上陸しますが、直後に海軍機の誤爆により50名が散華してしまったため坂口支隊主力が追加投入され、同日中にダバオを攻略し在留邦人を救出、25日、ホロ島を攻略します。
支隊は昭和17(1942)年3月8日からのミンダナオ島・ビザヤ諸島攻略第二期作戦において、5月7日、カバカン、次いでキバウエを攻略します。

1月9日、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将、第九聯隊を配属)はバターン半島ナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地に阻まれ攻撃は進展せず、13日、第十四軍は第十六師團に歩兵第六十五旅團への2個大隊の増援を下命します。

15日、聯隊から聯隊砲中隊(寺林中尉)、速射砲中隊(日高中尉)が木村支隊(歩兵第二十聯隊第二・第三大隊基幹)に編入され、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け前進は遅滞、そのため支隊はナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断するため歩二十第七中隊(難波喜太郎大尉)を派遣(29日、マルチカに進出、31日、歩兵第六十五旅團と連絡)、21日、モロン南方の敵前進陣地を攻略し、バガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。
22日、木村少将はバガック周辺の敵陣後方に舟艇機動により奇襲上陸し敵を包囲殲滅するため上陸部隊を編成、23日夜半、歩三十三速射砲中隊主力は歩二十第二大隊(恒廣成良中佐、240名)に配属、速射砲1個小隊(杉野少尉)は同第五中隊(横場孝介中尉、90名)に配属されともにマヤガオ岬を大発で出発、24日未明、第二大隊はカイボボ岬付近に上陸しますが、激しい潮流と視界不良により実際は5km南の敵集結地近辺のキナウアン岬に上陸、25日、戦車を伴う敵の激烈な攻撃を受け損害が増加、第五中隊は途中舟艇の故障により大隊を見失い大隊よりさらに9km南のロンゴスカワヤン付近の海岸に上陸、敵の陸海からの攻撃を受け、2月4日、弾薬を撃ち尽くした後、玉砕してしまいます。

24日、木村少将は第二大隊へ補給のため歩兵・砲兵1個小隊・軍需品を舟艇により派遣しますが、敵の砲火に妨げられ一部しか揚陸できませんでした。

25日、第十四軍は第十六師團にバターン半島攻略を下命します。
同日、第二大隊救援のため、歩二十第一中隊(小林高一大尉、170名)がオロンガポより出発、27日未明、カナス岬に上陸し第二大隊との連絡に努めますが戦車を伴う敵部隊に包囲され苦戦に陥ってしまいます。

28日、歩三十三第二大隊が増援として木村支隊に配属されます。
29日、木村支隊主力、歩二十(吉岡頼勝大佐、第三大隊基幹、930名)はバガック南側から攻撃を開始、激戦ののち敵陣を突破しバガック-バランガ道に進撃、歩二十はさらにツォール川付近に進撃しますが、バターン半島防衛の主抵抗陣地確保のため配備された米比軍1個師団7,000名と遭遇し包囲されてしまいます。

27日、歩三十三聯隊砲中隊は軍直轄から歩二十聯隊に復帰した第一大隊(木村三雄中佐、480名)に配属されオロンガポに集結、2月2日、歩二十第二大隊、同第一中隊救援のため、適砲撃下カナス岬に上陸し第一中隊と合流、さらに第二大隊と連絡のため南下を試みるも敵戦車に阻まれ進撃は遅滞、損害増加のため南下を断念、7日、大隊の苦戦を受信した師團は転進を下命、大隊は北上を開始、11日、敵中に孤立した歩二十第一大隊長・木村中佐とともに、聯隊砲中隊長・寺林中尉は砲を埋設し敵陣に切込み散華、16日(8日とも)、歩二十第二大隊長・恒廣中佐とともに速射砲中隊長・日高中尉が敵陣に総攻撃を敢行し玉砕、21日、歩二十第一大隊生存者14名は敵の包囲を突破、歩二十主力は歩三十三第二大隊に収容されます。

2月13日、敵の重囲に陥った歩二十救援のため歩三十三第二大隊はツォール川付近に急行しますが戦車を伴う敵の攻撃に苦戦、肉迫攻撃を行うなど敵包囲網を突破し歩二十と連絡、15日、脱出に成功しオロンガポに転進します。

27日、第二次バターン半島攻略戦に向け半島の封鎖を強化するため鈴木支隊(歩三十三聯隊長・鈴木辰之助大佐、第三大隊基幹)が編成され、半島南部のミンドロ島カラパンに上陸、島北部の主要部を攻略、3月、マニラ南方のバタンガス、22日、バランガに移駐、第二大隊が復帰します。

4月3日、大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。
9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、聯隊はバターン南端のマリベレス山を攻略、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。
続いて、5月7日、第四師團らによってコレヒドール島も陥落し、比島作戰は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、7月、ダガイタイ、バターン半島西海岸地区、マニラ湾口要塞、コレヒドール島に移駐し警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍(黒田重徳中将)は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下命、13日、第一大隊は師團とともにレイテ島に上陸、師團司令部をタクロバン(後にサンタフェ、次いでダガミ)に置き、第一大隊はカリガラ平原に陣地構築を開始します。
7月、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に昇格、8月9日、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ)が新設され、第十六師團は第三十五軍に隷属します。

9月13日、聯隊主力は輸送船に乗船しマニラを出航、途中米軍艦載機の空襲を受けますが、17日、無事セブ島北端に上陸、大発に乗船し、19日、オルモックに逐次集結します。
20日、車両輸送により、リモン峠、カリガラ平原を経て、レイテ島北東タクロバン地区に前進、聯隊本部をパロ北西の五二二高地(十字架山)、第一大隊(鎌田義信大尉)をパロ-サンホセ間の海岸線、第三大隊(中岡正治大尉)をパロ南方、第二中隊をオルモック、第十中隊をアブヨク南方20km、第三中隊をサマール島、第二大隊(藤本清良少佐)は第十六師團予備としてドラグに配置し、陣地構築を開始します。

第十六師團はレイテ島に移駐後、長大な海岸線に北から歩兵第三十三聯隊、歩兵第九聯隊(神谷保孝大佐、京都)、歩兵第二十聯隊(鉾田慶次郎大佐、福知山)の順に布陣、防御態勢を固めます。

10月17日、米軍(マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。
第十六師團は敵の上陸はレイテ島南東のダガミ方面に主力、アブヨクに副次と予測していましたが、敵は島北東のタクロバン方面・ダガミ方面の2方面に上陸を指向、米軍は第7艦隊(T・キンケード中将)の戦艦6隻を中心に艦砲射撃を開始、早朝から五二二高地頂上に敵情視察に出向いていた鈴木聯隊長は下山の途中で敵艦砲弾の至近弾片を全身26ヶ所に被弾、大腿部に重傷を受けますがハロの臨時野戦病院に下がるのを拒否し、前線で指揮を執るべく付近の洞穴に移動、サンホセ南方2kmの海岸線に布陣した第一大隊は艦砲射撃により甚大な損害を受けてしまい山際に後退します。

20日0600、米軍は再びレイテ湾口の戦艦6隻を中心に艦砲射撃を開始、続いて敵艦載機がカトモン山(ドラグ北方)-ドラグ間を空襲、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と同第1騎兵師団(マッジ少将)がレイテ島タクロバン方面に、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と同第96師団(ブラッドレー少将)がドラグ方面に上陸(約60,000名)を開始します。

タクロバン方面の敵上陸正面北側は第一大隊が甚大な損害を受け後退したため、米第1騎兵師団に対して有効な反撃ができませんでしたが、南側の海岸線を守備する第三大隊は野砲二十二第一大隊とともに米第24師団の第一波の上陸を無視、第二波を引きつけた時点で射撃を開始し、戦車揚陸艦4隻に命中弾を与え、うち1隻を炎上撃破、さらに敵師団司令部に多大な損害を与え、混乱を生じさせます。

しかし、白鱗弾、火炎放射器を伴い次々に上陸して来る敵部隊の攻撃に損害が増加、水際陣地は突破され、激戦ののち米24師団19連隊により五二二高地頂上付近を占領されてしまいます。
大隊は増援の歩二十第一大隊(泉長夫少佐)とともに高地頂上奪還を試み、また斬込みにより敵の侵攻を拒止しますが、艦砲射撃、迫撃砲によりパロの防御陣地が破壊され甚大な損害を受け、22日、パロを失陥、これ以上の継戦は困難と判断した聯隊長・鈴木大佐は聯隊本部のある五二二高地洞窟内で軍旗を奉焼、23日、未明に自決、生存者約40名はパロ市内の敵に斬込みを敢行、効果的な夜襲により武器・弾薬を多数炎上させますが、体勢を立て直した敵の攻撃を受け玉砕してしまいました。
歩三十三・鈴木辰之助大佐(津 久居)
▲第24代聯隊長・鈴木辰之助大佐
 大佐は第十六師團長・牧野四郎中将の陸士1期先輩(25期)で、他者が同席する場所では部下の礼をとっていましたが、2人きりの際は「おい、牧野」と呼ぶ仲でした。

ドラグにあった第二大隊は19日、敵の艦砲射撃開始に伴い、師團命令によりブラウエンに転進、22日、歩九の守備するカトモン山の増援としてヒンダン(ブラウエン-カトモン山の中間)に進撃しますが、歩二十の防御陣地を突破した敵上陸部隊と遭遇、大損害を受け、26日、師團命令によりダガミに転進します。

第一線・第二線陣地を失った師團は脊梁山地東麓のハロ-ダガミ-ブラウエンの線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行しますが戦果は挙がらず、27日、ファロより聯隊追及中の第一大隊第二中隊(柴田辰夫中尉)、アブヨク南方の第三大隊第十中隊(中森敏哉中尉)が、28日、ダガミ防衛の第二大隊が相次いで玉砕、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、第十六師團司令部は脊梁山地に転進、この頃には第十六師團の防御体制は悉く崩壊してしまいます。

米軍は断続的に戦力を増強、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸します。
その後も我が軍の増援は行われ兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の輸送により海上で兵力、物資が大損害を受け戦力的には低下していきました。
兵力、物資の安全補給のため地上部隊は敵飛行場への攻撃が必要となり、11月26日、臺灣高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團残存部隊(11月末時点総兵力2,030、内歩兵1,400)は歩兵第九聯隊長・神谷保孝大佐の指揮下、敵占領下のブラウエン北飛行場に対し攻撃(和號作戰)を実施しますが、歩九・神谷聯隊長が散華、12月11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから作戰は中止、我が軍はパロンポン方面へ転進します。

昭和19(1944)年10月21日、サマール島に上陸した米軍を迎撃した第一大第三中隊(上田英一中尉)は昭和20(1945)年5月30日、サマール島北部のモントラゴン東南で玉砕、聯隊は最期を迎えました。


歩兵第五十一聯隊 (祭七三七〇、中部第三十七部隊)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦、戦役の進展に伴い内地守備のため4個師團の増設が決定します。
明治38(1905)年3月31日、に動員下令、後備歩兵第十八旅團(比志島義輝少将)隷下の後備歩兵第十九(敦賀)、同第三十六(鯖江)聯隊に増設された2個中隊を基幹として、4月10日、動員完結(中野廣中佐)、聯隊本部、第一、第二大隊は歩兵第六聯隊(名古屋)、第三大隊は歩兵第九聯隊(金沢)兵営に分屯、新設された第十三師團(原口兼済中将、高田)隷下の歩兵第二十六旅團(内藤新一郎少将)に隷属、4月15日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第五十一聯隊 軍旗(津 久居)
▲歩兵第五十一聯隊 軍旗

4月中旬、戦役の講和を有利に導くべく樺太遠征が企図され第十三師團に下令、5月4日、敦賀に集結するもロシア・バルチック艦隊来航中のため待機、6月17日、師團に獨立第十三師團戦闘序列が下令、7月6日、師團は敦賀を出発、12日、横浜港出航、21日、小樽を経由し、24日、アレキサンドロフ海岸沖合に投錨、同日、北部樺太第一アルコワに上陸しアレキサンドロフを、26日、ルイ・コウフでロシア軍を撃破しテルベンスコエを、27日、ルイ・コウフを攻略、30日、リヤップノフ中将以下3,100名が降伏し樺太全土を平定、9月1日、アレキサンドロフ、ツイモフ両州の警備にあたり、5日、ポーツマスで講和条約が締結され戦役は終結、南樺太は我が国の領土となります。

9月中旬から10月上旬、第二・第三大隊が内地に帰還、9月22日、獨立第十三師團戦闘序列が解かれ、ポーツマス講和条約により認められた保護国・韓国守備のため、10月18日、第二・第三大隊は宇品港を出航、20日、北樺太をロシアに引渡し、25日、聯隊本部・第一大隊はアレキサンドロフを出航、28日、宇品港を経由、11月8日、元山に上陸、師團は韓國駐箚軍司令部(長谷川好道大将)隷下となり咸鏡南道の警備にあたり、明治40(1907)年2月22日、守備変更のため西湖津を出発、27日、仁川に上陸し京城以南釜山にいたる要地に分屯して警備にあたり、7月19日、第三次日韓協約に反発する韓国軍による反日武装反乱に第三大隊は布徳門を攻略、昭義門付近で反乱軍と交戦し鎮圧にあたります。

明治41(1908)年10月1日、聯隊は第三師團(大久保春野中将、名古屋)隷下の歩兵第三十旅團(小原芳次郎少将、久居)隷属が決定、11月7日、韓国駐箚を終え釜山港を出航、12日、三重県一志郡久居の新兵営に入ります。
明治42(1909)年5月23日、第一中隊を韓国に派遣(明治43年5月、帰還)します。
明治44(1911)年11月28日、機關銃中隊を編成、北清に派遣(大正元年11月、帰還)します。

大正元(1912)年9月13日、明治天皇御大喪の儀に軍旗を捧持し代表者が参列します。
大正2(1913)年11月13~16日、特別大演習に参加します。
大正3(1914)年4月5日、第十中隊を朝鮮に派遣(大正5年4月、帰還)。
大正5(1916)年5月9日、歩兵第七十三聯隊(朝鮮羅南)編成に第三中隊を抽出、8月31日、第七中隊を青島に派遣(大正6年9月、帰還)します。
大正6(1917)年11月13~16日、彦根方面で行われた特別大演習に参加します。
大正7(1918)年8月21日、シベリア出兵のため第三師團に動員下令、30日、動員完結、9月13日、聯隊は師團とともに宇品港を出港、15日、釜山港に上陸、17日、奉天省奉天に到着、10月2~3日、奉天を出発、11~12日、師團はチタに到着、聯隊主力はペスチャンカ、第一大隊は吉江支隊となりペトロフスキー、第二中隊はウエルネフウージンスク、第四中隊は師團直轄となりモグソンに分屯し鉄道警備にあたり、24~30日、第四中隊は革命軍討伐を実施します。
大正8(1919)年3月5日、聯隊を基幹(第一大隊欠)にアムール派遣隊を編成、強行軍でポチカレオに進撃、12日、アンドロフ付近で革命軍と交戦、15日、敵を撃破し追撃に移り、26日、オセクレセノーカ付近で火砲2門を鹵獲、ポチカレオ-ブラゴエチェンスク間の警備にあたり、5月15日、ペスチャンカに帰還します。
9月18~21日、聯隊本部、第一大隊、第五・第九中隊はペスチャンカを出発、10月15日、久居に凱旋、10月30日、他の部隊も凱旋、復員完結します。
大正9(1920)4月7日、第八中隊を臨時朝鮮派遣第三大隊に派遣、4月15日、歩兵第七十五聯隊に第十二中隊を転出します。
大正10(1921)年11月17~20日、相模平野で行われた特別大演習に参加します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十一聯隊に復帰が交付され、4月15日、第二十二回軍旗祭を挙行、29日、除隊式挙行、30日、宮中において軍旗奉還、5月1日、復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、事変の長期化と戦域拡大による兵力不足を補うべく、昭和13(1938)年4月4日、『軍令陸甲第二十一號』により留守第十六師團(京都)に第十五師團の編成下令、20日、歩兵第九聯隊留守隊(京都)において聯隊本部・歩兵砲中隊・通信隊、歩二十留守隊(福知山)において第一大隊、歩三十三留守隊(久居)において第二大隊、歩三十八留守隊(鯖江)において第三大隊の編成開始、7月4日、師團は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列となり、10日、聯隊長・池田廉二大佐着任、14日、宮中において軍旗を再拝受、27日、編成完結、第十五師團(岩松義雄中将、京都)第十五歩兵團(田路朝一少将)に隷属します。

8月5日、中支派遣下令に伴い、聯隊(第二大隊欠)はたこま丸、總洋丸に乗船し大阪港を出航、8日、上海に上陸、第二大隊がりおん丸に乗船し大阪港を出航、12日、上海に上陸、18日、聯隊本部、第三大隊、歩兵砲中隊、通信隊は江蘇省溧(りつ)陽、第二大隊は金壇、20日、第一大隊は溧(りつ)水地区の警備、支那軍討伐にあたります。

9月29日、聯隊本部は金壇に移駐し警備にあたり、30日、第三大隊は南京に集結、高品支隊(歩六十聯隊長・高品彪大佐)に配属され、中支那派遣軍の武漢作戰に参加、10月12日、湖北省蔪春県湋源口に上陸、19日、湯圧鎮付近、20日、塘溝場付近の戦闘、31日、黄金山鎮付近の討伐に参加、11月12日、江蘇省句容県城に入り大隊は聯隊に復帰、警備にあたります。

昭和14(1939)年7月、速射砲1個小隊(日置少尉、砲2門)がノモンハン事件参加のため分遣、10月、關東軍に火砲を引き継ぎ聯隊に復帰します。

昭和15(1940)年2月15日、郎渓溧陽作戰、4月20日、春季皖南作戰、5月3日、宣城作戰、6月19日、両溧作戰、9月26日、秋季磨盤山作戰に参加します。

昭和16(1941)年2月11日、蘇北作戰に第一大隊の一部と第二大隊、第三大隊の集成1個中隊が野田別働隊として参加、高郵-興化-揚州において支那軍と交戦、3月5日、聯隊に復帰、18日、大湖西作戰、28日、斐湖南方作戰、4月10日、第一・第二大隊は赤鹿支隊(第十五歩兵團長・赤鹿理少将)に編入され、第二十二師團(太田勝海中将、宇都宮)の浙東作戰に参加、5月25日、聯隊に復帰、6月1日、第三大隊は鎮江に移駐、8月24日、皖江作戰、10月11日、宣北作戰、11月20日、金壇南方作戰に参加します。
12月8日、大東亜戰争が開戦、19日、皖浙作戰に参加、郎渓溧陽で支那軍と交戦します。

昭和17(1942)年4月18日、ドーリットル空襲の際、米軍機が帰投するのに使用された浙江省方面の敵飛行場を壊滅させるため、30日、浙贛作戰に参加、杭州南方5kmに集結、5月15日、義橋鎮において浦陽江を渡河、支那軍を撃破しつつ南下西進し、26日、蘭谿西南に進撃、支那第六十三師の退路を遮断し、師團主力の蘭谿攻略に寄与、敗走する敵を追撃、6月1日、第二十二師團と連携し獨立混成第二聯隊とともに衢州城外の10kmに渡る敵縦深陣地を突破、支那第四十師を退却させ、2日、烏渓江を敵前渡河、5日、支那軍を撃破し衢州城東門外飛行場を攻略、師團の衢州城攻略を容易にし、攻略とともに城内の掃討にあたり、西南の広豊県城に進撃、18日、第三大隊は県城東南の支那軍を撃破、22日、五都山北側高地に進撃、聯隊主力は19日、杉渓を攻略、五峯山・抜刀銭・七都尖の支那第百五師を撃破、20日、逆襲して来た支那第七十四軍を迎撃、豪雨の中激戦を展開し、22日、要所・岡山系を攻略、師團の広豊県確保を援護、8月13日、広豊県から反転、追撃に移る支那軍を拒止するため、湯渓県城東南丘陵地帯に布陣、9月12日、湯渓県城を急襲し支那第百五師を潰走させ溧陽に帰還します。

昭和18(1943)年3月2日、聯隊本部は鎮江に移駐、第一大隊は丹陽に移駐し清郷工作を実施、4月6日、『軍令陸甲第二十二號』により第十五師團の南方派遣が決定し、編成改正下令、20日、編成完結、5月13日、聯隊本部・第二・第三大隊は江蘇省筧橋に、第一大隊は蘇州に移駐し教育訓練を実施、6月17日、第十五師團(山内正文中将)は第十五軍(牟田口廉也中将、ビルマ)戦闘序列に編入、8月27日、江蘇省宝山県呉淞に集結します。

師團は10梯団に分かれ、7月16日、師團司令部先発隊・歩六十第三大隊を第一梯団として呉淞を出航しますが、外米輸送航路を利用したため船便が少なく、師團の集結は4ヶ月の長期に渡ります。
8月19日、第一大隊が出航、台湾馬公経由、9月9日、仏印サイゴンに上陸、9月19日、第二大隊が出航、台湾高雄経由、10月2日、サイゴンに上陸、10月3日、第十梯団として聯隊本部・第三大隊が出航、馬公経由、10月19日、サイゴンに上陸します。

上陸後、第一大隊は南方軍(寺内壽一大将)命令により、バンコクに前進し戦略上、泰緬聯接鉄道以外の自動車道路の必要性から師團第三作業隊として工十五・歩六十第三大隊・獨工二十三聯隊とともにチェンマイ-トングー間の道路改修工事に従事、10月20日、第二大隊はサイゴンを出発、11月9日、バンコクに到着、泰國駐屯軍(中村明人中将)の指揮下に入り、歩六十七(柳沢寛次大佐、敦賀)と交替、戦局の悪化に伴い不穏な動きを見せるタイ国の警備にあたり、11月6日、聯隊本部、18日、第三大隊はサイゴンを出発しますが、鉄道輸送能力の不足からプノンペンで待機、25日、ランパンに前進、ウ號作戰(インパール作戦)の準備を急ぐ第十五軍(牟田口廉也中将)の催促により、師團は道路構築の任を解かれ、12月5日、第一大隊はランパンにおいて聯隊に復帰します。

師團(歩六十七欠)は軍命令に従いウントー北方地区への展開を急ぎますが、南方軍より配属された自動車10個中隊では1個聯隊の輸送しかできず、歩六十(松村弘大佐、京都)を先行(1月上旬、ピンレブ着)させたため、歩五十一は行軍となり、3梯団に分かれランパンを出発、チェンライ-メサイ-モンパヤク-ケンタンと北上し、同地で昭和19(1944)年正月元旦を迎え、トンタ-モンレン-モンピンの山脈を西進、サルウィン河(怒江)を渡河、タカオに到着、敵機の空襲を避けるべく夜間行軍によりシャン高原ケシマンサン-シボウの800kmを踏破、鉄道輸送によりメイミョーを経由しマンダレーで下車、イラワジ河を渡河しサガインに到着、再び鉄道輸送によりウントーで下車、師團司令部の位置するピンレブを経由しジュピー山系を踏破、2月15日~末、チンドウィン河東数kmのレウに集結、輓馬編成から駄馬編成に改編します。

昭和19(1944)年1月6日、第二大隊はバンコクを出発、列車輸送にてピンサローク-ウトラジットを経由し、1月14~16日、ランバンに到着、行軍にてチェンライ-ケンタン-タカオ-ワンコンタン-ケシマンサン-カンパイピンを経て、3月2日、シボウに前進し第十五軍直轄(命令は2月24日)となり、5日、軍後方のインドウ、カーサ付近に降下した英軍空挺部隊(ウインゲート旅団)を殲滅(九號作戰)、するため、7日、シボウを出発、列車輸送にてマンダレー-サガインを経由、15日、インドウに前進し索敵を開始します。

3月15日、ウ號作戰発動、聯隊は野砲二十一第三大隊(多田少佐、三一式山砲3門)を配属され第十五師團左突進隊として同右突進隊(歩六十)、本多挺進隊(歩六十七第三大隊)、第三十一師團(佐藤幸徳中将、甲府)とともにチンドウィン河の奇襲渡河に成功、ミンタミ山系二四六六高地付近の英軍を撃破、カポー谷地を進撃、3月17日、印緬国境を突破、パトカイ山系カンパット-サーバン-ソルデ-モイリン-ラングを踏破、24日、サレイコンに進撃、25日、英軍収容陣地を攻略しますが、山岳踏破のため軽装の聯隊は大きな損害を受けてしまいます。
28日、サレイコンを出発、次第に敵機の哨戒が増加したため夜間行軍となり、レイマ谷地-エンドポーク-ドンサムー-ラブラック-サダン-イリル谷地を経て、4月1日、激戦の後、インパール北方15kmの要地・マバオ高地一帯、次いで敵の堅陣を撃破し三八三三高地・四〇五七高地を攻略しますが、敵の榴弾砲、戦車、航空機を伴う度重なる逆襲を受け損害が増加してしまいます。

3月17日、第二大隊はインドウ北方カーサ地区モール、ケイン付近において、ウインゲート旅団に攻撃を開始しますが、優勢な火力を有する強固な陣地に損害が増加、25日、獨立混成第二十四旅團(林義秀少将)の指揮下に入り、ウインゲート旅団殲滅任務を交替、3月下旬、聯隊主力追及のため列車輸送によりインドウを出発、4月2日、サガインに集結します。

4月3日、第十五軍からインパール南方要線進出命令を受領し、聯隊主力は三八三三高地を徹しチンダイに集結するも、敵の激烈な逆襲に第一大隊は四〇五七高地を失陥してしまい、弾薬・糧食の補給も途絶、さらに例年より早く訪れた雨季による連日の豪雨で披露が蓄積、加えて悪性マラリア、アメーバ赤痢が発生し損害は増加、聯隊後方に敵が浸透して来た事により、5月4日、師團命令により転進を開始、聯隊本部をラブラック、第一大隊をサダン、第三大隊をドンサムに配置し再起を図ります。

4月15日、第二大隊はシボウに前進、第三十三師團右突進隊の山本支隊(第三十三歩兵團長・山本募少将)の指揮下に入り、さらに野戰重砲兵第三聯隊(光井一雄大佐)に配属され、6日、テグノパール北方に前進、歩二百十三(温井親光大佐、水戸)が攻撃中の四五六二高地に進撃しますが、敵の航空機を伴う砲爆撃に攻撃は遅滞します。
26日、野重三聯隊命令により北上し、パレル東方10kmのクーデークノーに転進、29日、パレル飛行場に夜襲を敢行しますが、暗夜に進路を誤認し敵戦車の野営地に突入、不期戦となり大損害を受け攻撃は頓挫、クーデークノーに集結、5月7日、再びテグノパールに集結、火砲援護のもと歩二百十三とともに四五六二高地を攻撃しますが、堅固な敵陣に攻撃は進展せず損害が増加、5月10・13・17・24日、高地西側の二子山陣地を再三攻撃しますが、予定されていた航空支援及び支援射撃は敵観測機の飛来で急遽中止され、歩兵のみの進撃は敵の迫撃砲を伴う堅固な陣地に阻まれ、19日、第二大隊長・竹村杢之助大尉が散華(24日、後任の岩崎弘一中尉散華、後任は斎藤晧中尉)するなど大損害を受け攻撃は頓挫、テグノパールに集結します。

6月13日、聯隊は師團命令により第三大隊を陣地防衛に残置し、18日、アイシャンに進撃、24日、インパール再進撃のための要地・柿陣地に攻撃を開始、26日、激戦の後、柿陣地を攻略、及び南西の四二四一高地を攻略しますが、28日、ラム付近にあった師團司令部北方に英印軍が侵攻、29日、師團司令部はサンジャックに転進したため前線にあった歩五十一、歩六十七との連絡が遮断されてしまいます。
師團は第十五軍からインパール東方山地への進撃命令を受領、歩五十一、歩六十七にサンジャック南方への転進集結を下命、歩六十七が転進したため聯隊南方のインパール-サンジャック街道は敵軍が侵攻、北方のアイシャン、東方のチェップも敵軍が侵攻、聯隊は退路を遮断され敵中に孤立、糧食の補給は完全に途絶してしまいます。

6月中旬、第二大隊は歩二百十三(温井親光大佐、水戸)の指揮下に入り、16日、クンピーに前進、21日、クンピーを出発し南下、パレル攻撃のため東方5kmの馬背高地に進出し陣地構築を開始、23日から連日、敵は戦車、迫撃砲を伴い大隊陣地に来襲してきますが、大隊は損害を出しながらも陣地を堅守し、敵を撃退しますが、29日、歩二百十三命令により陣地を徹し転進、30日、テグノパールに集結、歩六十第一大隊(吉岡少佐)の指揮下に入り、同地西方高地で苦戦する吉岡大隊陣地に急進、7月7日、クデクノー西方高地に侵攻してきた敵陣に夜襲を敢行しますが、敵を撃退するに至らず、山本支隊命令によりモーレに転進を開始します。

7月3日、ウ號作戰の中止が正式に決定、7日、聯隊は師團命令により転進を開始、8日、チェップの敵と交戦しチェップ北方稜線沿いに北上離脱、火砲を放棄し重症患者護送にあたっていた聯隊砲中隊は追撃してきた敵に捕捉され、中隊長・杉山憲治大尉が自決、9日、連日の豪雨により増水したトーバル河を渡河、直後に敵襲を受け第一大隊長・永田龍三郎大尉、大隊長代理・浦田登徹大尉が散華、13日、ソクパオ付近でインパール-サンジャック街道を横断、15日、280名を失うも敵の包囲環を突破し、21日、ナムヘンコウ付近で第三十一師團第一線陣地に、22日、ナンペシヤの師團司令部に達します。
27日、印緬国境を通過、カボー谷地を横断、ミンタミ山系を踏破、8月1日、連日の豪雨の中、トンヘ北方2kmのウエマテに集結、26日、舟艇によりチンドウィン河を渡河、レウを通過しジュピー山系を踏破、ワヨンゴン-ピンレブ-ウントーを経て、9月12日、ウントー東方のアマンガンに集結しますが、行軍中にアメーバー赤痢、悪性マラリア、飢えと疲労のため多くの将兵を失ってしまいます(聯隊は作戦期間中、792名が散華、1,000名超の戦傷者が出ます)。

7月下旬、第二大隊はモーレにおいて歩二百十三の配属を解除され、豪雨の中タムを経由しヤナンにおいてユー河を渡河、シッタンで補給を受け、8月上旬、舟艇によりチンドウィン河を下り、モーライクを経てシエジンに到着、行軍によりキヌに移動、列車輸送により北上、8月上旬、インドウに到着、西進しウントー北方80kmのバンモーク付近に集結し聯隊に復帰、12月1日、ウントーに集結し聯隊に合流、聯隊は内地からの補充兵を加え戦力回復に努めます。

11月、聯隊(第二大隊欠)はウントーを出発、ナンカン付近で北方のメザ方面から南下侵攻してきた敵を撃破、多大な戦果を挙げます。

12月初旬、師團命令により侵攻してくる英印軍を拒止撃破するため第一大隊を後衛にウントーを出発、敵と交戦しつつナンカン-テセゴン-キャウクタウン-コンヂーを進撃、イラワジ河右岸カペットに到着、第一大隊は師團直轄となり右岸地区に、聯隊主力は昭和20(1945)年正月元旦、イラワジ河を渡河、シエンジ-エシンの間に陣地を構築します。
1月8日、第一大隊はイラワジ河右岸に侵攻して来た航空機、戦車を伴う敵を損害を受けながらも拒止します。
17日、敵はエシン方面からイラワジ河を強行渡河、第三大隊は水際で迎撃するも大損害を受け、20日、第二大隊長・森川優治少佐が散華、下旬、第一大隊は師團命令によりイラワジ河を渡河、迂回し再び渡河し敵後方より斬込みを敢行し、大戦果を挙げ、イラワジ河を渡河し聯隊に復帰します。

しかし、敵の侵攻を拒止するには至らず、2月中旬、聯隊は師團砲兵隊の支援のもと夜襲によりカンパ付近の敵陣地を攻略しますが、18日、聯隊本部が敵迫撃砲弾の集中射撃を受け聯隊長・折田一雄大佐他幹部が散華、第二大隊長・角田寅吉大尉が指揮を継承します。
歩五十一・折田一雄大佐(津 久居)
▲第二次編成、第4代聯隊長・折田一雄大佐

下旬、第一大隊はニャンワン、八五〇高地に、第三大隊はその東に布陣、3月上旬、戦車を伴い南下する敵と激戦を展開し拒止に努め、中旬、師團のマンダレー防衛のため聯隊は敵中を突破、敵と交戦しつつマンダレー城に入り、城外南側に陣地を構築します。

18日、聯隊は第十五軍命令によりマンダレーを徹し、敵に攻略されたミシゲを避けタモクソに向かいますが、戦車を伴う敵の急襲を受け、21日、聯隊長・上田孝中佐が散華する等大損害を受けますが、師團砲兵隊の零距離射撃により敵を撃破、同日、ミシゲ河を渡河、23日、キンワ付近を通過、シャン高原に入り、4月15日、アンパンに到着、角田寅吉少佐を聯隊長代理(5月上旬、山内清之中佐着任)とし2個大隊編成に改編します。
歩五十一・上田孝中佐(津 久居)
▲第二次編成、第5代聯隊長・上田孝中佐

聯隊はトングー防衛のためロイコ-ヤド-タウンザウンを踏破し、5月2日、トングー-モチ道7km地点に進出しますが、付近には既に航空機、戦車、砲兵を伴う敵が侵攻、中旬、聯隊は歩兵砲射撃、肉迫攻撃で拒止に努めますが損害が増加、30日、29km付近に後退し陣地構築、27日、防御戦闘を第五十六師團と交替しモチに転進を開始します。
雨季による豪雨の中、泥濘悪路に苦戦、飢餓と戦いながら、30日、ケマピューを通過、険峻な山道の行軍に悪性マラリア、赤痢、栄養失調で多くの将兵を失い、7月14日、パブン北方に到着、27日、重症患者を舟便によりサルウィン河を下航させ、聯隊主力は湿地帯を踏破し、8月初旬、モールメンを通過、7日、ムドンに集結、10日、泰緬聯接鉄道により国境ニイケを通過、14日、タイ国カンチャナブリ県ワンポーに到着、糧秣集積所に分宿中の16日、停戦を迎えます。

30日、第十五師團長・渡左近中将臨席のもと、聯隊全将兵参列し軍旗決別遥拝式が挙行され、軍旗が奉焼されます。
9月2日、武装解除、10月10日、ホイロンに移駐、兵器集積所、オランダ軍兵舎及び家族の宿舎などの建設工事に従事、自活のため農耕牧畜を実施、5月1日、ノンブラドックを経由し、2日、バンコクに移駐、連合軍命令の諸作業に従事、19・20日、「永禄丸」・駆逐艦「神風」に分乗しバンコクを出航、6月7・13日、浦賀に上陸、10・15日、聯隊長・山内清之中佐以下983名が復員完結します。


歩兵第百三十三聯隊(嵐六二一四)
昭和13(1938)年5月13日、歩兵第三十三聯隊留守隊において編成完結(石谷甚三郎大佐)、15日に編成された第百十六師團(清水喜重中将、京都)隷下の歩兵第百三十旅團(高橋為一郎少将、久居)に隷属、22日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百三十三聯隊 軍旗(津 久居)
▲歩兵第百三十三聯隊 軍旗

6月20日、第百十六師團の中支那派遣軍(畑俊六大将、南京)戦闘序列編入に伴い、阿漕駅から列車輸送により大阪港に移動、21日、大阪港を出航、25日、上海に上陸、7月1日、浙江省杭州嘉興地区の警備にあたり、9月18日、長江沿いに安徽省安慶に移駐し警備にあたり、第一大隊は大通地区の戡定戦に参加します。

10月11日、聯隊は安慶を出発、長江を遡上し湖北省薪春北方9kmの嵐頭磯に第三大隊が、その北方の小乱泥灘に聯隊主力(第一大隊欠)が上陸、14日、中支那派遣軍の武漢作戰に師團とともに参加、聯隊は石原支隊(歩兵第百十九旅團長・石原常太郎少将)の基幹として、15日、黄白城に進撃、歩兵第百二十聯隊(志摩源吉大佐、福知山)と攻撃を交替、支那軍3,000の展開する堅陣に苦戦するも、17日、激戦ののち敵を退却させ、18日、第三大隊が黄白城に入城、27日、支那派遣軍が武漢を攻略、聯隊は漢陽に入城し江北の警備にあたります。

11月14日、第一大隊は聯隊に復帰、大通に移駐し、聯隊本部を銅陵に設置し付近の戡定作戰にあたり、以降5年間の江南警備の基礎を固めます。

昭和14(1939)年9月4日、第百十六師團は第十三軍(西尾寿三大将)戦闘序列となり、12月16日、聯隊は支那軍冬季攻勢反撃戦に参加、長江の交通遮断に来襲した支那第十五師を撃破し、敵の企図を挫き反撃を加えます。

昭和15(1940)年4月20日、春季皖南作戰に参加、九華山の天嶮を突破し支那軍を背後から急襲、敵主力の退路を遮断し捕捉殲滅、5月1日、第十三軍司令官・藤田進中将より感状を授与されます。
作戦終了後、銅陵に復帰し湖東作戰、哀安付近の戦闘、順安東南地区の戦闘、秋季皖北作戰、北部潯陽作戰、淮南作戰に参加します。

昭和16(1941)年2月27日、青陽東北地区の戦闘、皖浙作戰等に参加、警備地区の清郷工作を実施し長江航行の安全を確保します。
4月、第百十六師團は第十一軍(阿南惟幾中将)戦闘序列に入ります。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年4月18日、ドーリットル空襲の際、米軍機が帰投するのに使用された浙江省方面の敵飛行場を壊滅させるため、30日、浙贛作戰に参加、6月3日、浙江省内最大の衛州飛行場撃滅のため進撃し衛州會戰において衛州城外北方、西方の敵陣地を突破、敗走する敵の退路を遮断する大戦果を挙げます。
9月30日、銅陵に加え、江南の無為地区の警備にあたり、昭和18(1943)年7月1日、定員3,250名から4,098名、馬匹752頭に編成改編されます。

昭和18(1943)年9月20日、聯隊主力(第二大隊欠、後追及)は師團とともに第十一軍の常徳作戰に参加、渡河作戦を連続して水濠地帯を踏破、11月26日、常徳城北門の突破に成功、激烈な市街戦を展開し、12月3日、敵兵6,000を降伏させ、第十一軍司令官・横山勇中将より感状を授与され、警備にあたり、昭和19(1944)年4月10日、武昌東方30kmの湖北省萬店地区に移駐、警備にあたります。

5月30日、師團とともに第十一軍の湘桂作戰に参加、泊水の敵陣を突破、湘潭、湘郷を経て、6月30日、衡陽城攻略戦に参加、40日に及ぶ激戦で第一、二、三大隊長7名が相次いで散華する等大損害を受けますが、7月2日、要所・クロ高地を攻略、8月7日、支那軍守備隊4個師団を降伏させ、8月8日、衡陽城を攻略し、感状を授与されます。
9月、第十一軍の全県進出にあたり、師團は軍の北翼兵団として洪橋西方地区に進撃し支那軍を包囲、作戦終了後、宝慶地区の警備に就き、大陸打通成功した我が軍の右側背の安全を確保します。

昭和20(1945)年4月1日、師團とともに支那派遣軍(岡村寧次大将)の湘西作戰(芷江)作戦に参加、芷江の敵飛行場群を撃滅するため天台界~青岩の線に進出しますが、険峻な地形、米式装備の支那軍に阻まれ損害が増加、5月6日、作戦中止により転進を開始、再び宝慶地区の警備に就くなか、8月17日、停戦を迎えます。
8月29日、宝慶において軍旗奉焼、9月、岳州南方洞庭湖付近に集結、昭和21(1946)年5~7月、聯隊長・加川勝永大佐以下2,494名は浦賀に上陸し復員完結します。


歩兵第百五十一聯隊(安一〇〇二二)
昭和16(1941)年10月5日、歩兵第三十三聯隊補充隊は歩兵第百五十一聯隊に改編(橋本熊五郎大佐)され、11月21日、軍旗を拝受、第五十三師團(馬場正郎中将、京都)第五十三歩兵團(加藤章少将)に編入されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和18(1943)年11月18日、第五十三師團(河野悦次郎中将)に臨時動員下令、師團は南方軍(寺内寿一大将)予備となり、昭和19(1944)年3月28日、歩兵第百五十一聯隊は宇品港を出航しサイゴンに上陸、訓練を実施します。

3月30日、第五十三師團は緬甸方面軍(河邊正三中将)に編入され、4月7日、緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)に編入、5月2日、北部ビルマに前進しますが、聯隊は師團を離れ、11日、ウ號作戰(インパール作戦)の援軍としてシッタン河を渡河、14日、列車輸送によりインパールを目指しますが、敵の爆撃により線路が寸断されており、エダチェ付近からは行軍により前進します。
しかし、例年より早く訪れた雨季の影響で橋梁は流失、膝まで浸かる泥濘悪路に苦闘、通常2時間の行程を10時間かけて前進、16日、13日に第五十三師團が攻略したモールに到着、第十五軍(牟田口廉也中将)指揮下に入り、イエウに集結します。
26日、イエウを出発、チンドウィン河を渡河、アラカン山脈を踏破し、6月8日、チュラチャンプールに集結し、第三十三師團(田中信男少将、宇都宮)の指揮下に入り、21日、「林の陣地」を僅少の損害で迅速に攻略します。
しかし、敵砲兵の激烈な急襲射を受け大損害を受けながらも、敵の逆襲を再三に渡り撃退しますが、26日、遂に「林の陣地」を失陥してしまいます。

7月3日、ウ號作戰の中止が決定、5日、聯隊は第三十三師團の転進掩護のためクワイモール付近に陣地を構築、11日、追撃してきた敵と傷病兵、負傷兵も加わり激烈な白兵戦を展開し拒止、15日、クワイモール陣地を徹し、コインレッタに陣地を構築しますが、急速な敵の侵攻に補給路が絶たれてしまいます。
18日、転進掩護の任務を歩兵第二百十五聯隊(笹原政彦大佐、高崎)と交代し聯隊は転進を開始、8月7日、シンゲルに集結、24日、第五十三師團への復帰命令が下りシンゲルを出発、9月23日、インドウに到着し第五十三師團に復帰しますが、行軍中にアメーバー赤痢、悪性マラリア、飢えと疲労のため多くの将兵を失ってしまいます。

10月1日、盤作戰に参加し、オークトウ付近で敵と交戦します。

12月初旬、師團命令により侵攻してくる英印軍を拒止撃破するため、昭和20(1945)1月11日、イラワジ會戰に参加、キヤウセ付近からイラワジ河沿いに北上、エシン付近に陣地を構築、17日、渡河してきた敵を迎撃するも大損害を受けてしまい、敵の侵攻を拒止するには至らず、2月中旬、転進を開始、3月29日、克作戰に参加、シャン州マンダレー方面で敵と交戦、5月18日、シッタン作戰に参加します。

8月1日、編制改正により第十八師團(中永太郎中将、久留米)隷下の歩兵第百十四聯隊(大塚宏大佐、福岡)との統合が決定、軍旗決別式が挙行され、ミッチョニ三角地帯陣地にて停戦を迎えました。
9月2日、シッタン河上流のウインガンにおいて軍旗奉焼、連合軍管理下に入り、昭和22(1947)年7月24日、復員完結します。


歩兵第四百十二聯隊(護古二二二五六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、名古屋師管區歩兵第四補充隊(東海第五十九部隊/旧歩兵第百五十一聯隊補充隊)により編成(笠原善修大佐)され、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第三師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十三師團(鈴木貞次中将)に隷属します。

第百四十三師團は東海地方を作戦地域とする第五十四軍(小林信男中将)に隷属、聯隊は静岡県浜北地区に沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月21日、復員完結します。


歩兵第三百三十九聯隊(高師二一七七四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により5月23日、名古屋師管區歩兵第四補充隊(東海第五十九部隊/旧歩兵第百五十一聯隊補充隊)により編成(平井定大佐)され、7月23日、宮中において軍旗を拝受します。

5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編制改正・称號變更)第三四七次復員(復帰)要領』に基づき、留守第三師團により臨時動員された沿岸配備師團である第三百三師團(野副昌徳中将)に隷属します。

第三百三師團は南九州を作戦地域とする第四十軍(中澤三夫中将)に隷属、聯隊は川内地区に沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月19日、復員完結します。


聯隊以下の編成・補充部隊
獨立歩兵第十一聯隊(昭和12年9月30日、編成)

獨立歩兵第十五大隊(昭和13年2月10日、編成)

歩兵第二十旅團司令部(昭和13年5月15日、編成)

歩兵第百三十八聯隊( 〃 )

歩兵第百六十一聯隊(昭和13年6月16日、編成)

陸上勤務第八十五中隊(昭和16年7月7日、編成)

陸上勤務第八十六中隊( 〃 )

水上勤務第三十八中隊( 〃 )

第十二野戰勤務隊本部(昭和16年7月16日、編成)

機動歩兵第二聯隊(昭和17年6月24日、編成)

特設陸上勤務第十一中隊(昭和18年2月17日、編成)

特設陸上勤務第十二中隊( 〃 )

獨立歩兵第五十九大隊(昭和18年5月1日、編成)

獨立歩兵第百三十五大隊( 〃 )

獨立歩兵第百三十六大隊( 〃 )

野戰機關砲第三十六中隊(昭和18年8月31日、編成)

獨立歩兵第二百八大隊(昭和18年12月10日、編成)

獨立歩兵第二百九大隊( 〃 )

歩兵第七十五旅團司令部(昭和19年6月15日、編成)

獨立歩兵第百六十三大隊( 〃 )

獨立混成第三十八旅團 衞生隊(昭和19年6月24日、編成)

海上挺進基地第二十一大隊(昭和19年8月9日、編成)

歩兵第二百六十九聯隊(昭和20年1月16日、編成)

獨立歩兵第五百八十二大隊(昭和20年1月16日、編成)

獨立混成第七十九旅團挺進大隊( 〃 )

第五獨立警備隊司令部(昭和20年2月1日、編成)

獨立警備歩兵第二十五大隊( 〃 )

第十二獨立警備隊司令部(昭和20年4月12日、編成)

獨立警備歩兵第六十一大隊( 〃 )

獨立警備歩兵第六十二大隊( 〃 )

獨立警備歩兵第六十九大隊(昭和20年4月12日、編成)

獨立警備歩兵第七十大隊( 〃 )

獨立自動車第二百六十四中隊(昭和20年4月12日、編成)

獨立自動車第二百六十五中隊( 〃 )

患者輸送第九十七小隊(昭和20年4月14日、編成)

患者輸送第九十八小隊( 〃 )

第百四十三師團 速射砲隊(昭和20年5月5日、編成)

海上輸送第二十四大隊(昭和20年5月23日、編成)

第百二十三師團挺進大隊(昭和20年7月10日、編成)

獨立歩兵第七百二十一大隊(昭和20年7月26日、編成)

獨立歩兵第七百二十二大隊( 〃 )


主要参考文献
『歩兵第三十三聯隊史 栄光五十年の歩み』(昭和47年 島田勝巳 歩兵第三十三聯隊史刊行会』

『歩兵第五十一聯隊史』(昭和45年 歩兵第五十一連隊史編集委員会)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10月 ノーベル書房)

『三重の戦争遺跡』(平成18年6月 つむぎ出版)

『大日本帝國陸地測量部地形図 津』

・陸上自衛隊 久居駐屯地資料館 展示資料及び駐屯地内説明板

・国土地理院 昭和22(1947)年9月23日の久居周辺の空撮(NI-53-9-9

・Yahoo!地図
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ブーゲンビル島

私の祖父が中部第38部隊に御世話になっていました。が、戦死したのはブーゲンビル島です。調べるうちに疑問がいっぱいになり行き詰まってしまって、、、。助けて下さい。

Re: ブーゲンビル島

徳冨様、はじめまして。
コメントありがとうございます。

実はブログに何度か記載していますが、私の大叔父もブーゲンビル島で散華しています。

内容が少し長くなりますので、メールにてお返事させて頂きます。
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

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