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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第26回「関白を叱る」

今回も前回に引き続き上洛中の天正14(1586)年6月中ごろから、帰越の天正14(1586)年6月24日までの話です。





今回は第一回の放送の兼続が秀吉による引き抜きを断る場面でした。
この会見に赴く景勝が遺書をしたためていた(もちろん創作)ようで、内容は「もし景勝と兼続の身に万が一のことがあれば、上杉家臣団4千人はたとえ4人になっても今日から越後に帰りつき、秀吉に対し徹底抗戦を行なうように」と。
いわば、全員殉死しろという遺言で、ありえない話です。
景勝が死亡した場合、景勝にこの時点で定勝は生まれてませんので同じく養子だった上条義春(上条政繁養子、畠山義続子)か山浦景国(村上義清子)が継ぎ、まぁ現実的に見て先代の罪を詫び秀吉に臣従するでしょう。
戦国武将の究極の目標は家名を残すことですから。

景勝が秀吉の推挙で従四位下 左近衛権少将に任官したので、その御礼と帰国の報告として秀吉に再度謁見したが、実際はこのとき兼続も同時に従五位下に叙任されたにも関わらず、意図的に隠されていました。秀吉による引き抜き工作が兼続の生死に関わる一大事件にされてしまったので、兼続が死を覚悟して臨んだ謁見と従五位下に叙せらたという史実が相いれなくなってしまうからです。
相変わらず無理な創作をして、史実と辻褄が合わなくなり、その辻褄を合せるためにまた無理な話になってしまいます。

この場面、小早川隆景が初登場しましたが、なぜか居並ぶ豊臣家の家臣の上座に座り兼続に偉そうに言葉をかけ、兼続も敬語でしゃべっていました。
隆景が位を賜るのはこの2年後の天正16(1588)年7月25日で、しかも兼続と同じ従五位下です。
俳優や武将の年齢で序列を付けているよですが、当時は年齢が若かろうが家格、官位が全てであり年齢は関係ありません。基本ができてませんね。

近江水口4万石の大名になっていた(天正13:1585年)石田三成が初音(架空)を救うため、秀吉においとまが欲しい(禄を返上する)と言っていましたが、意味が分かりません。
情に流されないのが三成ですのに・・・。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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