当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第七航空通信聯隊

三重県多気郡明和町大字斎宮に第七航空通信聯隊の兵営がありました。
兵営では後に第十一航空通信聯隊第十七航空通信隊第二十二航空通信隊第五十五対空無線隊が編成されます。
第七航空通信聯隊 C 送信所 南から(三重)
▲送信所

【探索日時】
平成21年7月16日、平成25年4月20日、10月8日

【更新情報】
平成25(2013)年7月20日:大幅改訂(遺構追加、文章加筆訂正)
平成25(2013)年10月22日:遺構追加





第七航空通信聯隊 周辺
第七航空通信聯隊(231217 NI-53-9-5)(三重斎宮)
▲昭和23(1948)年12月17日の斎宮村(現、明和町)付近の空撮(国土地理院 NI-53-9-5)

第七航空通信聯隊(流れ星様了解済)
▲兵営配置図(『幻の航空通信聯隊』から転載 管理人・流れ星様の了解済)

第七航空通信聯隊 遺構配置(三重)
▲現在の地図と遺構


遺構について※青字は地図にリンクしています
(アルファベット・カタカナ等は上掲地図の表記)
第七航空通信聯隊 兵営
昭和16(1941)年3月13日、食糧自給の強化を図るため『農地開發法』(昭和十六年法律第六十五號)が公布、5月1日、施行され、15日、農地開發營團が設立します。
三重県多気郡斎宮村(現、明和町大字斎宮)に設立された斎宮農地開發營團は斎宮村大字斎宮・同竹内、北隣の上御糸村の山林212町歩を地権者の快諾を得て、立木は地権者により伐採、土地は1反110円にて買収し開墾を開始します。
昭和17(1942)年5月、斎宮村内の開拓用地の一部が航空軍・飛行師團の各拠点間の通信従事者を養成するための第七航空通信聯隊の兵営用地として指定され農林省から陸軍省に移管、山林42町、畑17町、田圃9反、宅地345坪の計60町1畝15歩(595,160㎡)が新たに買収されされ、兵営の建設が開始されます。
買収価格は宅地坪4円、田圃1反歩572円、畑1反歩316円、山林1反歩210円でした。
(昭和12年に売却したとの方もあり、詳細は不明)

10月15日、大刀洗から第七航空通信聯隊(田坂國三中佐)が、ほぼ完成した兵営に移駐してきます。
昭和20(1945)年4月15日(6月25日?)、第七航空通信聯隊は復帰、在営将兵・修業兵の転属等、残務処理中?の8月16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、名古屋財務局津地方部の管理下に置かれ、31日、同部飯南多気地方事務所により物資は県警察部に移管、備品類は付近町村に払下げられます。
また、大型建物は戦災により損傷した学校校舎の部材として解体、小型建物は個人会社、開拓団住宅に転用されます。
敷地は『緊急開拓事業実施要領』(11月9日、閣議決定)に基づき食糧難解消のため、斎宮開拓団に農耕地として払い下げられます。

現在は農地が更に住宅地に転用され開発が進んでいます。


※以下の遺構の大半は私有地(畑・庭・更地)の中にあり、調査に際して許可を得て撮影(春先は畑仕事で出ておられる方が多いので許可が得やすい)しています。
所有者不在の際は充分に注意して見学して下さい。


A 御真影奉安壕
畑の中にあります。
元々は十字型をしていましたが、東側(写真奥)は住宅建設に伴い破壊されてしまい、丁字型になっています。
第七航空通信聯隊 A 御真影奉納壕 南西から(三重斎宮)
▲御真影奉安壕 北西から

第七航空通信聯隊 A 御真影奉安壕 南西から(三重斎宮)
▲御真影奉納壕 近影

第七航空通信聯隊 A 御真影奉安壕 入口 北西から(三重斎宮)
▲入口

第七航空通信聯隊 A 御真影奉納壕 西側入口(三重斎宮)
▲奉安壕内部
 南北に部屋があります。

第七航空通信聯隊 A 御真影奉安壕 内部 北側部屋入口(三重斎宮)
▲北側は爆風避けに屈曲させた奥に棚が有り御真影が奉安されていた様です。

第七航空通信聯隊 A 御真影奉安壕 内部 北側部屋の棚跡 下部(三重斎宮)
▲御真影が奉安されていたと思われる棚の跡

第七航空通信聯隊 A 御真影奉安壕 内部 南側部屋(三重斎宮)
▲南側は小部屋になっており、御真影奉護の兵の詰所だった様です。


B 自動車燃料庫
民家の裏庭にあります。
第七航空通信聯隊 B 自動車燃料庫 南西から(三重斎宮)

第七航空通信聯隊 B 自動車燃料庫 西から(三重斎宮)
▲鉄扉も当時のままの様です。


C 送信所
運輸業者事務所・住居に転用されて遺ります。
外壁・屋根はやり変えられていますが、良好な状態です。
第七航空通信聯隊 C 送信所 南西から(三重)
▲南西(本来は裏側)から見た送信所
 手前と奥で外壁・屋根の状態が異なりますが、1棟の建物です。
 写真左端の増築部分は戦後の物です。

第七航空通信聯隊 C 送信所 北から(三重)
▲北(本来は正面)から見た送信所
 外壁がやり変えられ、当時の面影はありません。

第七航空通信聯隊 C 送信所 北側基礎(三重)
▲他の場所(下記)に遺る基礎と同質の基礎


D 受信所
物置に転用され遺りますが、状態は悪いです。
第七航空通信聯隊 D 受信所(右側) 南西から(三重)
▲奥の背の高い建物が受信所、手前は戦後増築された物置です。

第七航空通信聯隊 D 受信所(右側) 南から(三重)
▲受信所 南から

第七航空通信聯隊 D 受信所(左側) 北から(三重)
▲受信所 北から
 廃屋のような状態です。

第七航空通信聯隊 D 受信所(左側) 北東から(三重)
▲受信所 北東から
 最も当時の状況に近いと思われる角度からの写真


ア 洗面台
聯隊本部庁舎跡の西側に放置されています。
当時の物か不明です。
第七航空通信聯隊 ア 聯隊本部庁舎 手洗い(移設?) 南西から(三重斎宮)


イ 第一中隊兵舎 基礎
一部が畑の枠として遺されています。
第七航空通信聯隊 イ 第一中隊兵舎 基礎 東から(三重斎宮)

近隣の方の話では兵舎の基礎は鉄筋が余り入っておらず、撤去は比較的容易との事です。


ウ 第二中隊兵舎 基礎
設備会社の敷地内にあり、一部が遺されています。
第七航空通信聯隊 ウ 第二中隊兵舎 南側基礎 北西から(三重斎宮)
▲塩ビパイプの下と奥の空き地との境


エ 第三中隊兵舎 基礎
聯隊内の残存基礎中最大の規模で、且つ完存と思われ状態も良好です。
第七航空通信聯隊 エ 第三中隊兵舎 基礎 西から(三重斎宮)
▲西から

第七航空通信聯隊 エ 第三中隊兵舎 基礎 南東から(三重斎宮)
▲南東から


オ   〃    厠
北側(小便器)が雑草で埋もれていますが、兵舎同様に完存と思われ状態も良好です。
第七航空通信聯隊 オ 第三中隊厠 西から(三重斎宮)
▲大便器
 左側の方形の穴の用途は不明です。


カ 第四中隊兵舎 基礎
民家の境界として一部が遺されています。
第七航空通信聯隊 カ 第四中隊兵舎 基礎 北西から(三重斎宮)


キ 第七中隊兵舎 基礎
民家の庭に一部が遺されています。
第七航空通信聯隊 キ 第七中隊兵舎 基礎 北西から(三重斎宮)


ク 第八中隊兵舎 基礎
畑の境界として一部が遺されています。
第七航空通信聯隊 ク 第八中隊兵舎 基礎 北東から(三重斎宮)


ケ 防火水槽
時期によっては竹に覆われています。
数ヶ所あった防火水槽で唯一遺っています。
第七航空通信聯隊 ケ 貯水槽 南西から(三重斎宮)


コ 下士官集会所 基礎
畑の中に一部が遺されています。
第七航空通信聯隊 コ 下士官集会所 基礎 北西から(三重斎宮)


サ 學科講堂 基礎?
他の基礎は立上りですが、布基礎です。
第七航空通信聯隊 サ 学科講堂 基礎? 南東から(三重斎宮)

この位置には學科講堂があったのですが、戦後の空撮、上掲『配置図』と比べ位置がズレている様で、近所の方は「ここに来た時には既にあった」と言われていましたが、戦後の物かも知れません。


シ 通信講堂 基礎?
民家の際に一部が遺されています。
遺っている部分が小さすぎて当時の物か判断がつきません。
第七航空通信聯隊 シ 通信講堂 基礎 北西から(三重斎宮)


ス 被服庫 基礎
コンクリート布基礎に束石が5基づつ2列並びます。
第七航空通信聯隊 ス 被服庫 基礎 北東から(三重斎宮)

第七航空通信聯隊 ス 被服庫 基礎西側 束石 南東から(三重斎宮)
▲束石


あ 材料廠 門柱
工場の建物に沿って片方だけ遺っていましたが平成25年頃、工場撤去に伴い滅失してしまいました。
第七航空通信聯隊 あ 南西付近 材料廠門柱?(三重斎宮)


い 第七中隊兵舎 厠
民家の敷地内にコンクリート製の便器部分が遺されていましたが平成24年、残念ながら破壊整地されてしまいました。
所有者の方によると、建屋も当時のままだった様です。
第七航空通信聯隊 い 第七中隊 便所 北東から(三重斎宮)
▲大便器(左)と小便器(右)

第七航空通信聯隊 い 第七中隊 便所 北から(三重斎宮)
▲厠


斎宮陸軍射撃場
第七航空通信聯隊兵営の南西3.7kmの上村にありました。
現在は農地化していますが、辛うじて射垜の土堤が遺ります。
第七航空通信聯隊 斎宮射撃場 国土地理院(22922)NI-53-9-5(三重斎宮)
▲昭和22(1947)年9月22日の斎宮射撃場(国土地理院 NI-53-9-5)

第七航空通信聯隊 斎宮射撃場(三重斎宮)
▲現在の地図に転写


第七航空通信聯隊 斎宮射撃場 射垜 南から(三重)
▲射撃場北側に遺る射垜の土堤

第七航空通信聯隊 斎宮射撃場 南から(三重)
▲射撃場南端付近からの全景


衛戍・編成部隊
第七航空通信聯隊(中部第百二十八部隊、帥五五〇)
昭和17(1943)年4月13日、『軍令陸甲第三十一號 「在内地陸軍航空部隊の編成、復帰要領」』により、20日、第五航空教育隊(松本理教中佐、大刀洗)において編成着手、25日、聯隊本部が編成(田坂國三中佐)、28日、編成完結、6月15日、新設された第一航空軍司令部(安田武雄中将、岐阜のち東京)に隷属、中部軍(藤井洋治中将、大阪)指揮下に入ります。

8月4日、12月3日、改編が行われ将兵・修業兵が増員、本部(第一中隊:実戦)・3個錬成中隊(第二~四中隊)・4個教育隊(第五~第八中隊)・材料廠編制(定員1,750名)となります。

10月15日、三重県多気郡斎宮村に移駐します。

昭和19(1944)年2月5日、聯隊の人員・資材を基幹として兵庫縣多紀郡篠山町(旧歩兵第七十聯隊兵営)に第三十一航空通信聯隊(野口重義中佐)が編成(本部・2個有線中隊・5個無線中隊・1個固定無線中隊の8個教育中隊、材料廠、定員2090名・内修業兵1600名)されます。

4月、逼迫する戦局に伴い、第二~第八中隊は全て教育中隊に改編(定員2,174名)され、6月30日、聯隊は第三十一航空通信聯隊とともに新編された第二航空教育團司令部(安達三朗少将、松坂)隷下に編入されます。

昭和20(1945)年2月13日、『軍令陸甲第二十七號「在内地陸軍航空教育部隊編成、復帰要領」』・『陸亜機密第九十二號「同細則」』により聯隊の復帰が決定されます。

3月下旬、高松陸軍飛行場の作戦飛行場化に伴い、聯隊から1個中隊(第一中隊?長尾実中尉)が派遣され、高善寺(高松市勅使町)に中隊本部を設置、明野教導飛行師團第四飛行隊高松隊の本部が設置された鷺田公民館-飛行場間の通信線を架設します。

3月31日、航空總軍司令部(川邊正三大将、東京)が編成、4月7日、航空總軍戦闘序列発令により第二航空教育團司令部は航空總軍隷下となります。

4月15日、『軍令陸甲第二十七號』・『陸亞機密第九十二號』が施行、聯隊の人員・資材は管理官(航空總軍司令官:川邊正三大将)の定める部隊に転出し復帰します。

第七航空通信聯隊は大東亜戰争停戦直前に復帰しますが、その時期については『陸軍航空の鎮魂 総集編』では4月15日、『ふるさとの年輪』では6月25日となっています。
4月15日が『令甲』、『陸亜密』に従い復帰を開始した日、6月15日が復員完結した日か?

また、最終聯隊長についても『陸軍航空の鎮魂 総集編』では平山彌市中佐、『帝国陸軍編制総覧』では竹内和信大佐(但し『総覧』は第十三航空通信聯隊長が同じ7月11日着任で竹内大佐と表記されている)となっています。

聯隊の復帰に伴い、将兵・修業兵は他隊への転属、残務処理が行われたと思いますが、詳細は不明です。


第十一航空通信聯隊(司一五三三六)
昭和18(1943)年11月5日、『軍令陸甲第九十九號』により編成下令、29日、第七航空通信聯隊内において同聯隊、第一航測聯隊から抽出された人員を基幹として編成開始、第三・第十航空通信聯隊から抽出された人員を編入し編成完結(村山春一大佐)します。

聯隊は兵営を出発し門司港に移動、12月17~23日、数梯団に分かれ門司港を出航、26日~昭和19(1944)年1月2日、台湾高雄-海南島楡林-仏印シーラン-サイゴンを経由、下旬、バンコク、及びパクナムに上陸、20~30日、タイ国-馬來国境を通過、22~2月3日、昭南島(シンガポール)に集結、1月31日、昭南島において第三・第十航空通信聯隊からの抽出人員を編入、第三航空軍(木下敏中将、昭南)戦闘序列の第三航空通信司令部(真崎久滿雄中将)隷下となり聯隊本部を昭南島に置き、各中隊を周辺に配置し、通信業務を開始します。

7月25日、『軍令陸甲第九十三號』により2個中隊を増設し編成改正完結、聯隊本部・材料廠は引き続き昭南島、第一中隊をジャカルタ、馬來スンゲイパタニに、第二中隊をジャカルタ、クアラルンプールに、第三中隊は昭南島防衛、後にスマトラ島テクロユポン及びタンチョンプーラーに移駐し当地の防衛、第四中隊は昭南島において教育訓練後、スマトラ島パガンパルに、第五中隊はスマトラ島パレンバン及びメダンに、第七中隊は昭南島、ジャワ島に配置し、昭和20(1945)年6月25日、第六航空通信聯隊のボルネオ派遣隊を第七中隊に編入、ボルネオ島ケンゴウに配置し通信・防衛にあたるなか、8月16日、停戦を迎えました。


第二十二航空通信隊(威一五三三七)
昭和18(1943)年11月10日、第七航空通信聯隊に動員下令、昭和19(1944)年1月10日、編成完結(横尾純義少佐)、第二航空通信司令部(藤沢繁三少将、新京→マニラ)隷下となります。
4月17日、門司港を出航、5月2日、マニラに上陸、5日、ルソン島クラークフィールドに移駐、ツゲガラオ北・中・東、ラオアグ、パスコ、サンマルセリナ各飛行場に展開、ルソン島北部の通信網を構築します。

昭和20(1945)年1月9日、米軍がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始したのに伴い、20日、クラーク飛行場群西方の山岳地帯に転進、同地の警備にあたる中、9月10日、停戦を迎えます。


第十六航空通信聯隊(誠一八四九九)
昭和19(1944)年6月8日、『軍令陸甲第六十一號』により編成下令、第七航空通信聯隊において第十六航空通信隊の臨時編成完結(宇佐川武雄中佐)、第八飛行師團(山本健児中将、台北)隷下となり、8月10日、台湾移駐のため兵営を出発、25日、台北に到着、師團の指揮通信網を構築、昭和20(1945)年2月28日、『軍令陸甲第二十四號』により第十六航空通信聯隊に編成改正、3月20日、大本營によ「天號作戰」発動に伴い、台湾及び南西諸島の航空防衛作戦に参加、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
昭和21(1946)年3月16日、大竹において復員完結します。


第十七航空通信隊(威一八九一五)
昭和19(1944)年8月15日、第七航空通信聯隊において編成完結(森下俊士少佐)、第二航空通信司令部(藤沢繁三少将、マニラ)隷下となり新田原陸軍飛行場に移駐、9月20日、聯隊本部の一部、無線中隊主力は先発隊として航空輸送により、10月5日、比島クラーク飛行場に前進、マニラ市街マビニ小学校に集結します。
10月4日、聯隊本部主力・有線中隊・無線中隊の一部・材料廠は新田原を出発、門司に集結、7日、大彰丸、泰洋丸に分乗、8日、門司港を出航、敵機動部隊が台湾沖に来襲の情報を受け伊万里湾に退避し仮泊、16日、伊万里湾を出航、五島列島付近で比島に向かう陸軍部隊乗船の輸送船10隻(大博丸、廣明丸、天昭丸、辰浦丸、江差丸、道了丸、ぱしふいっく丸、青木丸、杉山丸)とモマ05船團(輸送船12、護衛艦6隻)を編成、24日、台湾高雄を経由し南下しますが、26日、カラヤン島西方において米潜アイスフイッシュ・ドラムの雷撃を受け大彰丸(将兵1,557・船員45名散華)、泰洋丸(将兵2,200・船員13名散華)、大博丸が沈没しラボック湾において他船に分乗するも、30日、米潜ギターロ、ブリーム、レイトンの雷撃を受けぱしふいっく丸、廣明丸が沈没する損害を受けながら、11月2日、北サンフェルナンドに上陸、12月20日、クラーク北・中・南、バンバン各飛行場、一部をバギオに展開、バンバン飛行場の部隊は100名の補充を受けバンバン地區通信隊に改編されます。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機によりリンガエン湾一帯に爆撃が、6日、艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

10日、聯隊はエチアゲ北・南、ツゲガラオ各飛行場に移駐、4月25日、聯隊において臨時集成通信隊(成瀬大尉以下140名)を編成、第四飛行師團により編成された臨時集成飛行隊(諸角善一中佐)の指揮下に、聯隊は臨時歩兵第十九大隊に改編され、戰車第二師團(岩仲義治中将)隷下の戰車第十聯隊(原田一夫中佐)指揮下に入り、米第32師団(兵力約20,000、火砲70門)の侵攻を拒止するためサラクサク峠に前進しますが、火砲を伴う敵の攻撃に損害が増加してしまいます。
5月25日、サンタフェを攻略した米第25師団により戰車第二師團の後方連絡線が遮断され敵中に孤立、6月4日、方面軍命令により転進北上を開始するも大隊は壊滅的な損害を受けてしまいす。

13日、エチアゲの臨時集成通信隊は米軍の侵攻に伴い、ミヌリ付近に転進を開始、25日、ミヌリにおいて自戦自活態勢に意向、8月10日、侵攻してきた米軍と交戦、東海岸のカシグランに転進、9月10日、玉砕寸前で停戦を迎えます。


第五十五対空無線隊(靖一九一五三)
昭和20(1945)年2月28日、第七航空通信聯隊において編成完結(鈴木勝夫少尉)、第一航空通信司令部(三木勝一大佐、福岡)隷下となります。
3月4日、北支派遣のため兵営を出発、9日、門司港を出航、11日、朝鮮釜山に上陸、12日、朝鮮-滿洲国境の安東を通過、13日、滿洲-支那国境の山海関を通過、14日、北京郊外の南苑飛行場に到着、付近の警備にあたります。
5月15日、南苑飛行場を出発、20日、朝鮮京城に移駐、海州、金浦、龍山、水原に展開、通信網を構築します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
10月7日、舞鶴において復員完結します。


参考文献
『陸軍航空の鎮魂 総集編』(平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『ふるさとの年輪 明和町制40周年記念誌』(平成10年9月 明和町)

『明和町史 資料編』(平成18年3月 明和町史編さん委員会)

幻の航空通信聯隊

明和町歴史的風致維持向上計画』(明和町公式サイト)

国土地理院 昭和23(1948)年12月17日 斎宮村(現、明和町)付近の空撮(国土地理院 NI-53-9-5)

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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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