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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

三重海軍航空隊

三重県津市香良洲町に三重海軍航空隊がありました。
三重海軍航空隊 ア 短艇用具庫 北西から(三重)
▲今は無き唯一の現存建物だった短艇用具庫

【探索日時】
平成21年7月16日、平成25年4月20日、10月8日

【更新情報】
平成25(2013)年10月28日:大幅改訂(遺構追加、文章加筆訂正)
平成29(2017)年5月29日:情報追加





三重海軍航空隊 隊歌
音楽を聞くにはプラグインが必要です

三重海軍航空隊 周辺
三重海軍航空隊は雲出川河口の広大な三角州の東半分に、營外宿舎が北西端に、専用滑走路が鈴鹿市(飛行科)にありました。
三重海軍航空隊 (国土地理院 22923 NI-53-9-5)(三重)
▲昭和22(1947)年9月23日の三重空跡空撮(国土地理院 NI-53-9-5)

三重海軍航空隊 現在の空撮(三重)
▲現在の空撮(敷地北東付近に多くの基礎が遺っていますが、現在は造成により消失)

三重海軍航空隊 三重空 模型(三重)
▲「香良洲歴史料館」に展示の三重空ダイオラマ(現在は撮影禁止

三重海軍航空隊 (三重)
▲現在の地図に転写(敷地北西に多くの基礎が遺ります)
 ①三重海軍航空隊
 ②滑走路(緊急用)
 :工場建設により滅失
 :造成により滅失
 :私有地(資材置場)になり滅失
 濃緑:雑木林化しており踏査せず


遺構について※青字は地図にリンクしています。
(番号・遺構配置は上掲地図参照)
① 三重海軍航空隊
昭和14(1939)3月31日、第七十四回帝國議會において可決された『第四次海軍軍備充実計畫』(通称「マル四計畫」)により、霞ヶ浦海軍航空隊に次いで搭乗員志願者が基礎学習を行う海軍飛行豫科練習生(豫科練)の教育航空隊として三重県一志郡香良洲町に開隊が決定します。
4月1日、横須賀海軍建築部の指揮のもと、佐藤工業㈱名古屋支店が施工にあたり、約3,000名の作業員により建築が開始されます。
昭和17(1943)年8月1日、三重海軍航空隊(内田市太郎大佐)が開隊しました。
昭和18(1943)年12月20日、教育設備の一部を除き、隊内設備が完成します。
昭和19(1944)12月7日、東南海地震により被災、施設の一部が損壊してしまいます。
昭和20(1945)年3月20日、戦局の悪化に伴い隊内警備隊を除き、全練習生は各基地・実施部隊などに派遣、5月1日、空襲対策のため、施設疎開(建物解体)を開始、7月20日、各地に派遣中の練習生が帰隊、解体材料の整理、隊内警備のため陸戦訓練、退避壕強化作業にあたる中、8月15日1300、『大東亞戰爭終結ノ詔書』に関する訓示を受け、16日、停戦を迎えました。
9月30日、残務処理が完了し復員完結、三重海軍航空隊は解隊されました。

停戦に伴い、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により航空隊は内務省を通じ大蔵省に移管、名古屋財務局津地方部の管理下に置かれます。
備品類は香良洲町民に払い下げられ、施設はさらに香良洲町、三重県、農商省に移管され、香良洲小学校、香良洲中学校、三重師範学校、三重水産専門学校の校舎、または水田として、また解体資材は戦災学校の復旧資材として利用されます。

現在は住宅地、大型工場、資材置き場、農林水産省用地、財務省管理売却予定地になっており、遺構は殆ど遺されていません。
当時の写真も殆ど遺っていない三重空ですが、♪男命の散る時は 香りゆかしき若桜~で始まる戦時歌謡『今ぞ決戰』を主題歌とした東宝映画『敵は幾万ありとても』(昭和19年8月31日封切り)は三重空でロケが行われており、本編に当時の建物が多数登場します。

※平成29年、航空隊跡地全域が太陽光発電所になり下記の「短艇庫」、「建物基礎」は全て破壊されてしまいました。

ア 短艇用具庫
三重空で唯一現存している建物です。
当時は運用科・航海科・水雷科が使用、生徒に術科教育を行っていました。
土地の方によると停戦後、三重水産専門学校の一部となった後、繋船池(現、香良洲漁港)とともに民間人に払い下げられ、養鰻業(現在も建物裏に養鰻池が遺る)に使用されていた様です。
現在は倉庫として使用されている様ですが、かなり状態が悪いです。
三重海軍航空隊 ア 短艇用具庫 北東から(三重)
▲北東から
 写真右端の倒れかけた小屋は戦後に建てられた手洗い

三重海軍航空隊 ア 短艇用具庫 北東から (2)(三重)
▲正面側(北側)の近影
 庇の付いている部分が扉ですが、窓とともに殆ど閉鎖されています。

三重海軍航空隊 ア 短艇用具庫 南西から(三重)
▲南西(裏側)から
 窓は全部閉鎖されています。

三重海軍航空隊 繫船池 北西から(三重)
▲現在の繫船池(現、香良洲港)


A 三重海軍航空隊 隊門(移設)
B地点にあった隊門が香良洲歴史資料館(旧若桜会館)の門として移設されています。
三重海軍航空隊 隊門(移設)(三重)
▲門柱に続く煉瓦塀も下記の現存煉瓦塀と同様の物である事から、当時の物と思われます。

三重海軍航空隊 隊門(移設) (2)(三重)
▲門柱近影
 御影石の門札が嵌め込んでありますが、戦後の物です。
 因みに下に掲載の当時の写真と比べると切石の模様から現在の正面側は本来の正面では無く、この右側面が本来の正面側の様です。

三重海軍航空隊 三重空 門札(三重)
▲「若桜会館」に展示してあった三重海軍航空隊と第十一聯合練習航空隊(三重空上級部隊)の門札(現在は撮影禁止

三重海軍航空隊 隊門(三重)
▲三重海軍航空隊隊門

三重海軍航空隊 隊門跡(B南側)から東(三重)
▲現在の三重海軍航空隊隊門付近


資料館は昭和55(1980)年5月25日、三重空で学んだ方々が福祉活動の拠点とする保養所、戦友・先輩の慰霊・顕彰施設「若桜会館」として完成、関係者の高齢化に伴い香良洲町に移管されました。
展示内容は三重空関連(3階)、郷土資料(2階)で構成されていましたが、平成24年4月17日から「香良洲歴史料館」と改称、三重空関連(3階)、津市全域の戦時中に関連する展示(2階)に大幅に変更されました。
香良洲歴史料館は若桜会館からの方針を受け継ぎ英霊・先人の顕彰を旨とし、小さい資料館ながら貴重な史料が多く、特に三重空関連の展示は必見です。

前庭は昭和43(1968)年10月1日、第一一期甲飛会が中心となり、豫科練出身の英霊を顕彰・慰霊する「若櫻の碑霊苑」となっており、各期ごとに散華された英霊の御芳名が刻字された慰霊・顕彰碑が建立されています。
三重海軍航空隊 若櫻乃碑霊苑(三重)
▲中央の「三重海軍航空隊飛行予科練習生戦歿者慰霊 若櫻乃碑」を中心に左側に「十九期之碑」(乙飛)、「海軍第二十期乙種飛行予科練習生 戦没者慰霊碑」、「留魂之碑」(二十一期乙種)、「雄飛靖国」(二十二期乙飛)、「二十三期之碑」(乙飛)、「豫科練教育に捧げられた隊員の碑」、右側に「海軍甲種飛行予科練習生第十一期戦没者銘碑」、「十三期の碑」(甲飛)、「五期の碑」(特飛第五期)、「十五期之碑」(甲飛)、「三期之碑」(特飛)、「二十四期の碑」(乙飛)、「十五期之碑」(丙飛)、「三重海軍航空隊隊歌」の各種慰霊・顕彰碑が並びます。


「若櫻の碑霊苑」の周囲には境界石標、消火栓など三重空の遺構、「白菊」・「震洋」の部品などが移設・展示されています。
※野外展示は平成21年時点の物が含まれます。
三重海軍航空隊 屋外展示(三重)
▲屋外展示
 殆ど雨ざらしに近く、劣化が著しいです。

三重海軍航空隊 白菊 翼(三重)
▲機上作業練習機「白菊」の翼?

三重海軍航空隊 震洋 発動機(三重)
▲「震洋」の発動機
 嵐山美術館に展示されていた物と思われますが、絶望的な状態です。

三重海軍航空隊 発動機(三重)
▲複列14気筒の航空機用発動機(平成24年から館内に移設)
 詳細は不明です。

三重海軍航空隊 消火栓⑦⑧⑨⑩(三重)
▲消火栓
 2種類11本移設されています。

三重海軍航空隊 消火栓①(三重)
▲下記の物とは形状が異なります。

三重海軍航空隊 消火栓③(三重)
▲細身の消火栓

三重海軍航空隊 消火栓③ (2)(三重)
▲消火栓の銘板
 「三共工業㈱」が製造しましたが、この会社の詳細は不明です。

三重海軍航空隊 海軍用地②(三重)
▲コンクリート製「海軍用地」境界石標
 当時のままと思われる赤色の塗装が遺ります。
 3種類4本移設されています。

三重海軍航空隊 海軍用地①(三重)
▲「海軍用地」境界石標
 通常赤色で塗装されるので、この黒字の「海軍用地」は戦後塗られた物と思われます。

三重海軍航空隊 海軍用地③(三重)
▲「海軍用地」境界石標
 上記の石標に有る2重波型(海軍の地図記号)刻字がありません。

三重海軍航空隊 昭和十七年八月二日 自動車部開隊記念(三重)
▲昭和十七年八月二日 自動車部開隊記念 石版
 昭和18年5月5日時点の三重空組織図には「自動車部」は見当たらず、詳細は不明です。

三重海軍航空隊 鈴鹿海軍航空隊 点鐘台(移設)(三重)
▲鈴鹿海軍航空隊の点鐘台

三重海軍航空隊 聯合艦隊凱旋記念塔(三重)
▲明治三十七八年戰役 聯合艦隊凱旋記念塔
昭和9(1929)年10月、東郷平八郎元帥の遺徳を偲び津市海友會・在郷軍人津海軍部の寄付により津市皆楽公園に建立された物ですが、昭和53(1978)年4月29日、永久保存のため海の友鋼鉄会から寄贈、予科練有志一同により移設されました。
「塔」と言う名称から、元々は塔状だったのでしょうか?
錨の詳細は不明です。


B 煉瓦塀
民家の塀として20m程が遺りますが傾いており、崩れそうです。
三重海軍航空隊 B 塀 南から(三重)
▲隊門から続く煉瓦塀の一部

三重海軍航空隊 海軍道路 東から(三重)
▲隊門から香良洲大橋へ続く道は「海軍道路」と呼ばれていました。


C 第十講堂(通信) 基礎
基礎は東西に寸断されて遺されています。
三重海軍航空隊 C 第十講堂(通信) 西側基礎 西から(三重)
▲西側の基礎は外周の布基礎のみが遺ります。

三重海軍航空隊 C 第十講堂(通信) 東側基礎 北東から(三重)
▲東側の基礎は外周の布基礎に加え、束石が遺ります。

三重海軍航空隊 三重空 講堂(三重)
▲戦後すぐの講堂(どの講堂かは不明)


D 第十講堂付属 基礎
第十講堂に隣接している、ベタ基礎です。
三重海軍航空隊 D 基礎 西から(三重)


E 第四講堂 基礎
中央が盛土により埋まっています。
外周の布基礎のみが遺ります。
三重海軍航空隊 E 第四講堂 西側基礎 北西から(三重)
▲西端付近

三重海軍航空隊 E 第四講堂 東側基礎 北東から(三重)
▲東端付近


F 便所 基礎
北側にあった第十三兵舎の便所と思われる基礎です。
三重海軍航空隊 F 便所 基礎 北東から(三重)


G 第十一講堂(通信) 基礎
外周の布基礎、入口・廊下のベタ基礎、床部の束石が完存し、建物の規模が明確に分かります。
三重海軍航空隊 G 第十一講堂(通信) 西から(三重)
▲多数の束石が遺ります(西から)。

三重海軍航空隊 G 第十一講堂(通信) 北東から(三重)
▲講堂裏側(北側)には廊下のベタ基礎があります。


H 第十二講堂(航運) 基礎
外周の布基礎、入口・廊下のベタ基礎が完存し、建物の規模が明確に分かります。
G第十一講堂にある束石は1個もありません。
三重海軍航空隊 H 第十二講堂(航運) 基礎 北東から(三重)
▲北東から

三重海軍航空隊 H 第十二講堂(航運) 中央基礎 北東から(三重)
▲講堂入口付近(写真左側)
 講堂は中央、裏側に廊下を配し、左右に教室があった様です。

三重海軍航空隊 H 北側の射爆講堂 基礎(滅失)(三重)
▲平成21年にはH第十二講堂の北に射爆講堂の基礎が遺っていましたが、滅失してしまいました。


I 便所
G第十一とH第十二講堂のちょうど中間にあります。
三重海軍航空隊 I 便所 北から(三重)
▲大便器の床が1基遺ります。


J 煉瓦基礎
一見、竈の様に見えますが、講堂地区に竈があるのも不自然ですし、何より便所(IとL)の間に竈があるのは考えにくいです。
施工も雑な事から、戦後に造られた物かも知れません。
三重海軍航空隊 J 基礎 南東から(三重)


K コンクリート製構造物
内部が空洞な事から基礎では無いと思われ、棺桶の様な構造物です。
三重海軍航空隊 K 基礎 南東から(三重)


L 便所
両側に小便器(開放式)、中央に大便器が2列並んでいます。
三重海軍航空隊 L 便所 北西から(三重)
▲東西に出入り口があります。

三重海軍航空隊 L 便所 内部 北西から(三重)
▲便所内部
 分かり難いですが、中央で左右に区切り、夫々大便器(左)と小便器(右)がありました。

三重海軍航空隊 L 便所 南側小便器(三重)
▲小便器


M 便槽
L便器に隣接して上部に直径40cm程の潜孔(マンホール)のある便槽が遺ります。
三重海軍航空隊 M 便槽 北東から(三重)


N 適性検査場 基礎
外周は高さがあり、全周四角い窪みを有する布基礎が完存、建物の規模が明確に分かります。
三重海軍航空隊 N 適性検査場 西から(三重)
▲平成25年4月時点

三重海軍航空隊 N 適性検査場 北側建物 北東から(三重)
▲適性検査場の北側に付属する建物の残骸

三重海軍航空隊 N 適性検査場 東から(三重)
▲平成25年4月時点では基礎が完存していましたが、10月時点で土地が買収され東側が破壊されてしまいました。
 近日中に滅失する可能性が大きいです。


O 煙突 基礎
汽缶場の煙突の物と思われる円形(直径5m、南南東に切欠)の基礎が遺ります。
三重海軍航空隊 O 煙突 基礎 東から(三重)


P 汽缶場 基礎
西側の壁の一部と思われる基礎が遺ります。
三重海軍航空隊 P 汽缶場 基礎 南西から(三重)


Q コンクリート製構造物
煉瓦躯体のモルタル仕上げで、南側にあった物品販売所の付属建物の一部と思われます。
三重海軍航空隊 Q 基礎 西から(三重)
▲西側の壁
 この奥に倒れた東側の壁があります。


R 身體検査場
身體検査場とその北側に繋がる付属屋の基礎が遺ります。
西側には第一病舎が繋がっていましたが、この先は写真の様に荒れた雑木林になっており踏査していません。
三重海軍航空隊 R 身体検査場 南側基礎 東から(三重)
▲身体検査場の基礎

三重海軍航空隊 R 身体検査場 北側基礎 南東から(三重)
▲身体検査場北側付属屋の壁


S 病舎 基礎
第二病舎に付属する病舎の基礎と思われますが、詳細は不明です。
この荒れた雑木林を踏査すれば第一・第二病舎の基礎が遺っている可能性があります。
三重海軍航空隊 S 病舎 基礎 北西から(三重)
▲分かり難いですが、右側草むらの中に道路(左)と並行してコンクリート製基礎があります。


② 滑走路
三重空の滑走路は初代副長兼教頭・高橋俊策中佐の提言により鈴鹿市に設営(第二鈴鹿海軍航空基地)され、飛行科を移転し適正飛行作業、体験飛行作業に使用(設営完了までは第一鈴鹿を間借)しました。
後(時期不明)、航空本部により三重空練兵場が滑走路として使用可能かの問合せがあり、試験飛行を実施したところ使用可能と確認され、緊急時の滑走路として使用されました。
三重海軍航空隊 ②滑走路 北から(三重)
▲滑走路の一部区画が遺る道路


三重海軍航空隊 概略
第七十回帝國議會(昭和11年12月26日~昭和12年3月31日)において練習航空隊の設置が上程されますが、可決された『第三次海軍軍備補充計畫』では霞ヶ浦にのみ予算化が認められ、三重海軍航空隊は見送られてしまいます。
海軍省は三重県一志郡香良洲町と下準備に関する折衝、整地作業等予備工事を開始しつつ、次回予算化を期します。

昭和14(1939)3月7日、第七十四回帝國議會(昭和13年12月26日~昭和14年3月25日)において可決された『第四次海軍軍備充実計畫』(通称「マル四計畫」)により、31日、三重県一志郡香良洲町に航空隊設置が正式に決定します。
4月1日、横須賀海軍建築部(工事主任官・天野俊一少佐)により着工、航空隊用地買収、造成が実施され、昭和16(1941)年10月、横須賀海軍建築部四日市市支部において建物建設の入札が行われ、第一期工事は180万円で佐藤工業㈱が落札、12月、契約調印され、横須賀海軍建築部の指揮のもと、佐藤工業㈱名古屋支店(現場主任・塚本典蔵氏)が建設にあたり、約3,000名の作業員により建築が開始されます。

昭和17(1943)年1月16日、大田實大佐が三重海軍航空隊設立準備委員長に発令、1月31日、工事主任官が肥後盛史少佐に交替、4月28日、航空隊設立準備委員長が内田市太郎大佐に交替、5月17日、隊名が「三重海軍航空隊」と正式に決定、6月15日、ミッドウェー海戦で多くの有能な搭乗員を喪失してまった事を受け、急遽開隊は8月1日に決定、工事促進のため作業員増員、昼夜兼行工事になります。

7月30日、第十六期海軍乙種飛行豫科練習生(乙飛十六期、以下他種期も同様に略)650名が土浦空、乙飛十七期650名が岩國空から三重空に転隊、8月1日、工事未完継続中のまま、海軍飛行豫科練習生(豫科練)の教育航空隊(飛行科志願者が実機に触れるまでの基礎学習を実施)として土浦海軍航空隊に次いで、三重海軍航空隊(内田市太郎大佐)が開隊、横須賀鎭守府麾下の第十一聯合練習航空隊(戸塚進太郎中将)に所属にします。
内田市太郎大佐(三重)
▲三重海軍航空隊初代司令・内田市太郎大佐

当初は海軍も「香良洲の航空隊」と呼称していましたが、香良洲町の全国的な知名度、海鷲を育てるのに「香良洲(カラス)」という音訓は不適切との判断から「三重」の名が冠されました(『新設海軍航空隊名称ニ關スル最終決定通告書』)。

9月末、河曲郡玉垣村に専用滑走路(第二鈴鹿海軍航空基地(鈴鹿海軍航空隊の北側))を設営、飛行科を移転し操偵別(操縦・偵察適正選別)の適性飛行作業を実施します。

9月30日、第十一期85名・十二期飛行専修豫備學生61名が入隊、甲飛十期550名が土浦空より転隊、10月1日、甲飛十一期606名が入隊、31日、乙飛十八期750名が土浦空より転隊、11月1日、丙飛十五期282名が入隊、同日、新軍装(七ッボタン)が制定され、12月5日、乙飛十九期700名が入隊してきます。
三重空では土浦空で潜在的に存在した甲種・乙種の反目・対抗意識を解消するため甲、乙分離とし、主に乙種飛行生を受け入れる計画でしたが、開隊直前のミッドウェー海戦の結果を受け、修業期間の短い甲種の受け入れも行う事になりました。

昭和18(1943)年3月25日、丙飛十五期が卒業し、三十一期飛練として各航空隊へ配置退隊、4月1日、機構改正により練習聯合航空總隊麾下の第十九練習聯合航空隊(久邇宮朝融王少将)に編入、5日、甲飛十二期886名が入隊、5月1日、乙飛二十期1,000名が入隊、24~26日、甲飛十期・乙飛十六期が卒業し、三十二期飛練として各航空隊へ配置退隊します。

25日、新司令・古瀬貴季大佐が着任します。
古瀬貴季大佐(三重)
▲三重空第二代司令・古瀬貴季大佐

7月17日、甲飛十期偵察後期が卒業し、三十二・三十三期飛練として各航空隊へ配置退隊します。

8月18日、工事指揮にあたる横須賀鎭守府建築部四日市支部が横須賀鎭守府施設部名古屋支部(青木保雄技術大佐)に改編され、引き続き建設指揮にあたります。

9月3日、特乙飛三期の526名が岩國空から転隊、5日、十三期豫備學生2,500名が入隊、10月1日、甲飛十三期前期320名、特乙飛四期787名が入隊、11月25日、甲飛十一期が卒業し、三十五期飛練として各航空隊へ配置退隊、12月1日、甲飛十三期後期320名、乙飛二十一期2,500名、特乙飛五期938名が入隊します。

同日、奈良県山辺郡丹波市(現、天理市)に三重空奈良分遣隊(垣田照之大佐)が開隊、天理教の全面協力により信者宿泊施設を借用、甲飛十三期11,601名が入隊します。

12月20日、三重空隊内設備、教育施設の大半が完成します。

昭和19(1944)年2月1日、特乙飛六期715名、第一期海軍飛行専修豫備生徒1,993名が入隊します。

12日、新司令・澤勇夫大佐が着任します。
澤勇夫大佐(三重)
▲三重空第三代司令・澤勇夫大佐

19日、乙飛十七期、3月13日、特乙飛四期が卒業し三十六期飛練として各航空隊へ配置退隊します。

15日、兵庫県西宮市に三重空西宮分遣隊(向山總男中佐)が關西學院施設を借用して開隊、三重空本隊の甲飛十三期前期320名全員が転隊します。

22日、乙飛十八期、甲飛十二期が卒業し三十七期飛練として各航空隊へ配置退隊、4月1日、特乙飛七期253名が入隊、5月13日、豫一期の一部が虎尾空(台湾)に転隊、15日、特乙五期の射爆分隊が卒業し臺南空(台湾)に配置、25日、一期豫備生徒が卒業し各航空隊へ配置退隊、6月1日、乙飛二十二期1,929名、特乙飛八期520名が入隊します。

同日、滋賀県滋賀郡に三重空滋賀分遣隊が開隊、西宮分遣隊と合わせ甲飛十四期5,000名、8月1日、乙飛二十三期2,199名、特乙飛九期478名、10日、二期豫備生徒600名が入隊します。

8月15日、和歌山県伊都郡に三重空高野山分遣隊(千葉成男大佐)が高野山宿坊を借用して開隊、三重空本隊在隊中の特乙飛五期~九期全員が高野山分遣隊に転隊、滋賀分遣隊が滋賀海軍航空隊に改編され、西宮分遣隊が滋賀空に移管されます。

29日、海軍省人事局長、同教育局長、航空本部總務部長、練習聯合航空總隊、第十九聯合航空隊各司令連名の『◯兵器要員ノ選抜ニ關スル件』が通達、31日、乙飛十九・二十期に対し、水上特別攻撃隊(震洋)要員各100名の志願選抜が伝達、9月2日、第一次特攻要員の氏名が発表され、夕刻、在隊練習生の総員帽振れの合図の中、横須賀水雷學校に向け出発します。

9月15日、甲飛十五期2,663名、10月1日、高野山分遣隊に特乙飛十期330名が入隊、15日、甲飛十五期滋賀空西宮・宝塚分遣隊に分かれ転隊(28日、残留者は松山空宇和島分遣隊に転隊)、27日、甲飛十三期偵察専修飛行練習生(鈴鹿空飛練三十八期)が通信術再教育のため入隊します。

11月25日、第二次水上特別攻撃隊(震洋)要員として志願した乙飛十九・二十期250名が、在隊練習生の総員帽振れの合図の中、横須賀水雷學校に向け出発します。

12月1日、乙飛二十四期3,900名が入隊します。

7日、東南海地震が発災、三重空の施設は甚大な被害を受け機能停止しますが、幸い死傷者はありませんでした。
12日、復旧工事が開始されます。
12月10日、名古屋空襲により隊内第一配備となり、以降連続して第一配備が発令され日課が中断します。

13日、高野山分遣隊において特乙飛五期から特攻要員の志願選抜が伝達され、20日、第一次水上特別攻撃隊(震洋)要員として志願した249名が、在隊練習生の総員帽振れの合図の中、横須賀水雷學校に向け出発します。

昭和20(1945)年1月15日、奈良分遣隊に乙飛九期整備練習生3,597名が入隊、24日、高野山分遣隊において特乙飛五期から第二次水上特別攻撃隊(震洋)要員として志願した119名が、在隊練習生の総員帽振れの合図の中、横須賀水雷學校に向け出発、25日、三重空の乙飛十九期生が一部の補習生を残し卒業、川棚突撃隊(長崎)など各突撃隊基地へ配置退隊します。

2月8日、『空襲対策緊急要領(強化)及緊急施設措置等』の閣議決定を受け、海軍省令により三重空練習生分散措置(疎開)のため、乙飛二十一期以降の各期練習生の一部は倉敷空に転隊します。

15日、奈良分遣隊に乙飛十期整備練習生4,729名が入隊、3月1日、三重空は第二十聯合航空隊(久邇宮朝融王少将)に編入され、奈良分遣隊、高野山分遣隊は夫々航空隊に改編されます。

3月12日、乙飛十九期生の残留者のうち400名が川棚突撃隊に転隊、20日、空襲激化に伴い練習生の安全を確保すべく隊内警備隊(定員分隊)、乙飛二十期の一部(施設解体作業の補助担当)を除き、全練習生は志摩半島を中心に、愛知、静岡、神奈川等関東一円の水中・水上特攻基地の設営、航空基地での飛行作業補助・艤装、松根油精製、軍需物資用地下壕建設作業に派遣(疎開)されます。

25日、建設業者により建物解体が開始、4月1日、新司令・加藤尚雄少将が着任、5月1日、在隊練習生による建物解体が開始されます。
加藤尚雄少将(三重)
▲三重空第四代司令・加藤尚雄少将

6月1日、官房機密『飛行専修豫備學生、同豫備生徒及飛行豫科練習生教育ニ対スル非常措置』が通達され、豫科練教育は停止され、三重空は航空特攻要員の教育のみが実施されます。
16日、乙飛二十期(三重空・土浦空・土浦空・鹿児島空)・甲飛十四期(松山空・浦戸空・滋賀空・小松空・美保空)の一部が三重空に集結、特一部(三重空野辺山派遣隊、1,196名、隊長・二村知行大尉)が編成され、26日、長野県野辺山の“野辺山牧場”に移駐し文部省一型初級滑空機、次いで十七試初歩滑空練習機「若草」により「秋水」の錬成を開始します。
※特一部は「特攻要員の訓練部隊」との説がありますが、戦後の回想で元隊長・二村大尉が「飛練と同じ扱いで、特攻要員では無い」と否定しています。

7月1日、第一次各基地派遣練習生が三重空等の原隊に復帰、20日、全派遣練習生が三重空に帰隊、建物解体資材の整理、退避壕の強化作業、隊内警備、米軍の志摩半島上陸に備え陸戦訓練を行います。

8月2日、第二次各基地派遣要請に対する準備を実施、5~14日、各期より特攻要員の志願選抜が行われ逐次退隊していくなか、15日1300、午後の課業整列時に分隊長より『大東亞戰爭終結ノ詔書』に関する訓示を受けますが、練習生約700名が徹底抗戦を唱える厚木空に呼応する姿勢を見せます。

17日0300、第二期海軍飛行専修豫備生徒・森崎湊少尉候補生が両親・上官・級友に遺書を遺し香良洲浜で短刀を用いて自決、三重空の暴発の空気も沈静化します。
三重海軍航空隊 森崎湊 生徒(三重)
▲森崎湊少尉候補生

20日、豫科練習生の復員が開始され、25日、練習生の復員完結、豫備生徒の復員が開始、隊内の備品類は香良洲町民に払い下げられ、30日、定員分隊の復員が開始、9月2日、下士官以上の復員が開始、30日、残務処理が完了し、三重海軍航空隊は解隊されました。

三重空では甲飛十・十一・十二・十三・十四・十五期、乙飛十六・十七・十八・十九・二十・二十一・二十二・二十三・二十四期、特乙飛三・四・五・六・七・八・九・十期、丙飛十五期、豫備學生十一・十二・十三期、豫備生徒一・二期、合計33,180名が入隊、教育を受けました。


主要参考文献
『三重海軍航空隊史』 (昭和56年5月 梶山治・赤平弘編纂 若桜福祉会)

『香良洲町史』(平成5年3月 香良洲町教育委員会)

・Yahoo地図

・googleマップ

・国土地理院地図
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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