当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第六十八聯隊

岐阜県岐阜市に「ろっぱち」の愛称で知られた歩兵第六十八聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第百九十八聯隊歩兵第三百三十八聯隊歩兵第四百十一聯隊が編成されます。
また隣接して岐阜陸軍練兵場、北1.5kmに岐阜陸軍射撃場がありました。
歩兵第六十八聯隊 h コンクリート②③入口(岐阜)
▲野一色山に遺る演習陣地

【探索日時】
平成22年7月24日、平成28年12月5日





歩兵第六十八聯隊周辺の陸軍施設
歩兵第六十八聯隊 陸地測量部測図 歩兵営(岐阜)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図35 岐阜近傍』

歩兵第六十八聯隊 歩六十八 兵営周辺(岐阜)
▲遺構の配置
① 歩兵第六十八聯隊
② 岐阜陸軍練兵場

③ 岐阜陸軍病院
※緑文字が当記事の紹介施設

遺構について
① 歩兵第六十八聯隊
明治三十七八年戰役(日露戦争)勝利後、陸軍省は安全保障の観点から戦役中に動員された4個師團の常設化、及び2個師團の新設を決定します。
明治40(1907)年9月19日、『陸軍平時編成』・『常備團體表』を改正し、歩兵第六十八聯隊を岐阜県稲葉郡北長森村野一色(現、岐阜市)に新設する事を決定、聯隊設置を歓迎する地元民からの献納地と合わせ第三師團経理部により用地買収が行われます。
7月、㈱大林組により営舎建設が開始され、明治41(1908)年3月1・2日、隈部中佐が経理部より兵営を受領、7日、聯隊本部・第一大隊が大津から、第二大隊が敦賀から凡そ竣工した新兵営に移駐、9月、営舎及び関連施設が竣工します。
歩兵第六十八聯隊 営門(岐阜)
▲営門

歩兵第六十八聯隊 営門跡(野一色公園入口)(岐阜)
▲現在の営門付近(何も遺されていません)

大正8(1919)年8月24日、シベリア派遣、昭和9(1935)年4月1日、滿洲駐箚、昭和12(1937)年7月14日、支那事変に際し歩兵第六十八聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成、昭和19(1944)年7月6日、補充隊により歩兵第百九十八聯隊が編成されます。
4月1日、歩兵第六十八聯隊補充隊は名古屋師管區歩兵第三補充隊に改編され、4月6日、歩兵第四百十一聯隊、5月23日、歩兵第三百三十八聯隊が編成され、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後の兵営の経緯は資料が無く不明ですが他の軍施設と同様、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により内務省を通じ大蔵省に移管、名古屋財務局の管理下に置かれ、10月26日、各務原陸軍飛行場を接収した米第27歩兵連隊により接収、軍需品の処理が終了した後、早期に大蔵省に返還されたと思われます。
その後、岐阜市に払い下げられた様で、昭和22(1947)年、兵営西側1/3に兵舎を転用して市立第六中学校(現、長森中学校)が開校、昭和32(1957)年4月、東側1/3に岐阜東高校が、中央1/3が野一色公園になり、遺構は殆ど遺されていません。

ア 弾薬庫土堤
長森中学校のプール外周に遺ります。
歩兵第六十八聯隊 ア 火薬庫土塁 北西から(岐阜)
▲シートが掛けられている部分が土堤らしいです・・・


イ 『岐阜陸軍病院』の記事参照


ウ 側溝
兵営南東端の石組側溝が、岐阜県総合医療センター駐車場に遺ります。
歩兵第六十八聯隊 ウ 側溝(岐阜)


あ 岐阜聨隊史蹟碑
野一色公園中央にあります。
昭和36(1961)年5月10日、岐阜聨隊史蹟碑保存会により建立されました。
歩兵第六十八聯隊 あ 岐阜聨隊史蹟碑(岐阜)
▲かなり破損しています

歩兵第六十八聯隊 兵営(岐阜)
▲野一色山から見た兵営
  現在は見る影もなく何も遺されていません


演習陣地
兵営南側の野一色山北麓に演習用と思われる陣地が遺ります。
山際に住宅が密集しているため、病院駐車場付近のみ踏査しましたが、未だ遺されている可能性があります。

a 棲息部・交通壕
最深部に棲息部と思われる地下壕、前方に屈曲した交通壕があります。
本来、地下壕はもっと長かったと思われますが、崩落して後退しています。
歩兵第六十八聯隊 a 壕口 (2)(岐阜)
▲壕口付近

歩兵第六十八聯隊 a 壕口(岐阜)
▲壕口

歩兵第六十八聯隊 a 交通壕(岐阜)
▲交通壕

b 棲息部・交通壕
aと同じ仕様ですが、交通壕が逆向きになっています。
歩兵第六十八聯隊 b 壕口(岐阜)
▲壕口

歩兵第六十八聯隊 b 交通壕(岐阜)
▲交通壕

c 棲息部・交通壕
bと同じ仕様です。
歩兵第六十八聯隊 c 壕口(岐阜)
▲壕口

d 交通壕
棲息部は無く、直角の交通壕のみです。
歩兵第六十八聯隊 d 交通壕(岐阜)
▲交通壕

e 交通壕
dと同じ仕様です。
歩兵第六十八聯隊 e 交通壕(岐阜)

f 交通壕
e・dと同じ仕様ですが、方向が逆向きです。
歩兵第六十八聯隊 f 交通壕(岐阜)

g 円形窪地
円形の大きな窪地があります。
歩兵第六十八聯隊 g 円形窪地(岐阜)

h 方形窪地
窪地法面がコンクリートで補強されています。
歩兵第六十八聯隊 h コンクリート①②(岐阜)
▲法面前後にコンクリート補強があります
  右側が出入口

歩兵第六十八聯隊 h コンクリート①奥(岐阜)
▲奥側の補強

歩兵第六十八聯隊 h コンクリート②③入口 (2)(岐阜)
▲出入口側の補強

歩兵第六十八聯隊 h コンクリート②③入口(岐阜)
▲出入口両側の補強

i  円形窪地
歩兵第六十八聯隊 i 円形窪地(岐阜)

j 上下2段窪地
上段に方形窪地、下段に円形窪地があります。
歩兵第六十八聯隊 j 上部削平地(岐阜)
▲上段の方形窪地

歩兵第六十八聯隊 i 円形窪地(岐阜)
▲下段の円形窪地


② 岐阜陸軍練兵場
④ 岐阜陸軍射撃場
明治40(1907)年9月19日、歩兵第六十八聯隊の岐阜県稲葉郡北長森村野一色(現、岐阜市)設置が決定、聯隊設置を歓迎する地元民からの献納地と合わせ第三師團経理部により用地買収が行われます。
明治41(1908)年3月7日、聯隊移駐に伴い供用が開始されます。
昭和20(1945)年8月16日、停戦に伴い、28日、大蔵省に移管されたと思われますが、資料不足により詳細は不明です。

岐阜陸軍練兵場は『緊急開拓事業実施要領』(11月9日、閣議決定)もしくは『自作農特別措置法』(昭和21年10月21日、法律第四十三号)により食糧難解消のため海外引揚者、復員軍人、戦災者より入植希望者を募集し払下げられたと思われ、現在は住宅、農地になり境界も滅失し何も遺されていない様です。

岐阜陸軍射撃場は北側が払い下げられ民有地になり境界は滅失、南側は防衛庁(現、防衛省)に移管され陸上自衛隊の射撃場になっています。
自衛隊射撃場西側の山際を探ってみましたが、何も遺されていない様です。
歩兵第六十八聯隊 射撃場(岐阜)
▲岐阜陸軍射撃場範囲

歩兵第六十八聯隊 射撃場 南から(岐阜)
▲現在の岐阜陸軍射撃場


衛戍部隊
歩兵第六十八聯隊(幸三七〇四、中部第四部隊→東海第二十六部隊)
明治三十七八年戰役(日露戦争)勝利後、陸軍省は安全保障の観点から戦役中に動員された4個師團の常設化、及び2個師團の新設を決定します。
明治40(1907)年9月19日、『陸軍平時編成』・『常備團體表』を改正し、歩兵第六十八聯隊を岐阜県稲葉郡北長森村野一色に新設し、第三師團(大久保春野中将、名古屋)隷下の歩兵第五旅團(黒沢源三郎少将)に配属が決定します。

10月22日、福原鐵太郎中佐が発令、30日、歩兵第九聯隊(大津)将校集会所内に聯隊本部・第一大隊本部を、歩兵第十九聯隊本部庁舎内に第二大隊本部を開設し、歩兵第一、第十五聯隊より准士官・下士官、歩兵第九、第十九、第三十八聯隊より准士官、下士官、兵を転属させ、11月1日、幹部が編成され、12月1日、入営の壮丁を加え第一大隊(歩九第三大隊兵舎にて)、第二大隊(歩十九第一大隊兵舎にて)の編成を完結します。

明治41(1908)年3月7日、聯隊本部、両大隊は各仮兵営を出発、岐阜県稲葉郡北長森村野一色の新兵営に転営し、5月8日、福原中佐が宮中において軍旗を拝受し、11月14日、第三大隊の編成着手、12月1日、入営の壮丁を加え大隊が編成、聯隊の編成が完結します。
歩兵第六十八聯隊 歩兵第六十八聯隊 軍旗(岐阜)
▲歩兵第六十八聯隊 軍旗

大正6(1917)年末から大正7(1918)年にかけロシアもいおて革命が発生、排外主義を唱える共産パルチザンによりシベリア地方が騒擾状態になり外国人襲撃事件が多発、8月23日、政府は英米と国際共同歩調を採り、シベリア出兵み関する宣言を公布し、第十二師團(大井成元中将、小倉)に続き、8月24日、第三師團に動員下令、31日、聯隊の動員が完結します。
2日、聯隊は5梯団に別れ岐阜を出発、広島に移動し、8・9日、宇品港を出航、10・11日、釜山に上陸、14日、長春に集結、9月24日、長春を出発、10月1日、アンチビーハーに到着、5・6日、ペスチャンカ(チタ東部)に移駐します。
9日、第八中隊はハルピン特務機關長・武藤信義少将一行の護衛にあたり、大正8(1919)年3月19日、復帰します。

大正8(1919)年1月18日、第三大隊はウラジオストク派遣が下令され、21日、アンチビーハーを出発、2月3日、ウラジオストクに到着、俘虜収容所の警備にあたり、24日、ラゴエスチェンスク方面の過激派に備えるべく、第十一中隊をスーチャン城に派遣します。

5月17日、第二大隊はペスチャンカを出発、19日、列国軍の宿営する滿洲里に移駐します。

6月9日、聯隊主力はウラジオストク移駐を下令され、12日、ペスチャンカを出発、19日、ウラジオストクに到着し第三大隊を掌握し、浦塩派遣軍司令官・大谷喜久蔵大将の指揮下に編入されます。
7月5日、聯隊は歩十一第一大隊、騎兵、工兵各1個小隊を指揮下に編入され南部掃討隊となり、スーチャン、タウビ両渓谷の過激派拠点を覆滅すべく、8日、ウラジオストクを出航、アメリカ湾チニユーウェイに上陸、第十二中隊がウラジミーロアレキサンドロフスコエ、次いでウナーシを攻略、スーチャン城の第十一中隊は6月10日、ノウイツカヤ、7月3日、カザンカ、5日、ピリヤチノと米軍4個中隊と共同し過激派を掃討します。
7月11日、聯隊はピリヤチノ、ノウイツコエ、エカテリフカ、ゴルドブカを、14日、セルゲーエフカ、メリニーヤを、17日、フロロフカを掃討し、19日、任務を解かれ、21日、ウラジオストクに帰還します。

23日、ウラジオストクを出発、25日、第三大隊が聯隊に復帰、26日、イワノフカに移駐し南部烏蘇里討伐隊とあり、イボリトフカ駅-ムチナヤ駅間東地区の13箇所に分駐し、森林内に潜む過激派の掃討にあたります。

8月25日、聯隊は任務を解かれ、25日、ニコリスクに移駐し警備にあたり、9月16日、第二大隊が復帰、10月12日、聯隊本部・第二大隊、13日、第一大隊、14日、第三大隊・機關銃隊がニコリスクを出発、宇品に上陸し、25日、岐阜に凱旋します。

昭和3(1928)年4月、奉天軍閥(張作霖)の北伐に向かう国民党革命軍(国府軍:蒋介石)が山東省に侵攻したため、政府は居留民と我が国の権益保護のため、4月19日、第六師團を派遣、5月3日、国府軍が邦人居留民を虐殺(済南事件)に及んだため、8日、政府は居留民と我が国の権益保護のため1個師団の派遣を決定、9日、第三師團に動員が下令(第二次山東出兵)されます。
第六師團は済南攻撃に出動したため兵站の膠済鉄道沿線の警備が手薄になっている事から、歩兵第五旅團は師團先遣隊に部署され歩六十八、歩六は宇品に直行、15日、旅團は宇品を出航、17・18日、青島に上陸、聯隊は主舎人庄、張店、坊子、高密、青島に分駐し守備にあたります。
師團主力は数梯団に別れ宇品を出航、5月23日~6月5日、青島に上陸し済南-青島間の「宣言区域」(第六師團と蒋介石、張作霖間にかわされた我軍の不可侵守備区域)の守備に就いたため、聯隊は青島付近の守備にあたります。

7月16日、第三師團は帰還する第六師團から警備を移譲され、聯隊は済南周辺にに移駐しますが、天津、北京の要所を攻略した蒋軍、及び蒋軍と共謀した山東地区の匪賊はしばしば宣言区域を侵犯、7月15日、匪賊5,000が高密警備隊(歩六十八第一大隊長・春見少佐)に発砲、警備隊は歩三十四2個中隊の増援を得て匪賊の本拠・周陽集を撃退します。

昭和4(1929)年3月28日、日支間の協定が締結されたため、18~20日、青島を出航し、岐阜に帰還します。

昭和9(1935)年4月1日、第三師團に滿洲駐箚のため編成下令、5日、聯隊は編成完結、11日、岐阜を出発し、12日、敦賀港を出航、15日、清新に上陸、滿ソ国境付近の梨樹鎮地区の警備にあたり治安維持、匪賊の討伐を実施、さらに国境線において匪賊を煽動するソ聯軍の侵攻を封鎖、昭和11(1936)年3月、師團は警備地区全域に渡り1ヶ月間匪賊討伐を実施、4月26日、第十二師團に警備を移譲し哈爾濱に集結、5月1日、奉天に移駐、關東軍總豫備隊に部署され緊急事態に備え、明治三十七八年戰役(日露戦争)の旧跡を訪ね英霊の慰霊祭を挙行、5月13日、總豫備隊を解除され、14日、大連に移駐、15日、大連を出航、17日、宇品に上陸し、岐阜に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発します。
我が国は不拡大方針を堅持、和平解決にあたりますが、8月7日、支那国民党政府(蒋介石)による在留邦人に対する度重なる違法行為、軍事的挑発行動は日増しに激化、第三師團は参謀本部より中支方面派遣の内示を受領、11日、師團に動員下令に関する内示が伝達されます。
13日、支那軍が上海海軍特別陸戦隊に攻撃を開始、第二次上海事變が勃発します。
14日、第三師團に応急動員下令、上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入されます。
18日、第二大隊(矢住政光少佐)は師團先遣隊として名古屋港を出航、19日、師團主力が名古屋港を出航、25日、聯隊(鷹森孝大佐)ほか後続部隊の動員が完結、26日、各兵営を出発、28・29日、宇品港を出航します。

22日、第十一師團乗船の船団とともに長江川口馬鞍群島に集結、23日0300、第二大隊は師團上陸援護隊として海軍の艦砲射撃のもと呉淞付近の長江江岸に敵前上陸を敢行、上陸援護にあたります。
聯隊は右翼隊として左翼隊の歩兵第六聯隊(倉永辰治大佐、名古屋)とともに周辺の確保にあたりますが、支那上海総司令(胡宗南)の逆襲を承け、29日、歩六聯隊長・倉永大佐、歩六十八第二大隊長・矢住少佐が相次いで散華、歩六十八聯隊長・鷹森大佐も顔面に重傷を負う等大損害を受けながらも、支那軍を撃退、橋頭堡を確保します。

28日、第十一師團が支那軍要地・羅店鎮を攻略、呉淞確保中の第三師團は第十一師團の側背を援護すべく呉淞鎮、宝山城の確保を下令されたため、30日、聯隊は橋頭堡の守備を歩六に移譲し北進、31日、聯隊は海軍砲艦支援のもと、敵陣を撃破しつつ進撃、9月2日、呉淞砲台を攻略クリーク、城壁に拠る支那軍を撃破し、5日、天谷支隊(歩十旅團長・天谷直次郎少将)と連絡、、6日、宝山城を攻略します。
11日、聯隊は師團主力の右側背(北方)援護にあたりつつ西進し、12日、東沈巷に前進し師團予備隊となり、15日、第二大隊は師團左側背(南方)援護にあたっていた歩十八・第二大隊が宝宅に進出、支那軍の逆襲を撃退します。
21日、聯隊は師團右翼隊に部署され、15日、敵主陣地第二抵抗線に進撃、27日、歩十八、戰車第五大隊とともに無電台、帰家衝、金家湾等の堅陣を攻略、28日、第三抵抗線に進撃し、30日、張家角、10月1日、主陣地帯全線を攻略します。

9月27日、第九師團、10月1日、第十三師團が上陸、2日、軍主力は劉家行、碩家宅を攻略し左旋回し、薀藻浜クリークに進撃します。
10月8日、聯隊は師團予備隊に部署され老檣宅に集結し右翼隊・歩兵第五旅團(歩六基幹)の後方を前進、9日、薀藻浜クリークを渡河、聯隊は歩六左側に進撃し戦線に加入、18日、敵の逆襲を撃破しつつ、黄港、湖里宅を突破、24日、師團は走馬塘クリークに進撃、26日、大場鎮を攻略、27日、敗敵を追撃し蘇州河に進撃します。
27日、聯隊は右翼隊に部署され、31日、渡河を開始しますが、敵の激烈な抵抗を受け進撃は遅滞、11月5日、第十軍(柳川平助中将)が杭州湾に上陸したため、8日、支那軍は退却を開始、同日、第三師團の攻撃は進展し、9日、龍華鎮に進撃、11日、上海租界南方の南市を掃討し、同市を封鎖します。
11日、師團は南京への追撃命令を受領、南翔を経て途中、第十一師團と交差したうえ、道路状況の悪さから進撃は遅れますが、14日、太倉に進出、同日、師團は中支那派遣軍直轄となり、上海後方要地の守備にあたります。

18日、師團は上海派遣軍に復帰、12月2日、蘇州に移駐、第九師團に続行しますが、11日、第九師團右翼隊に連携を下令されたため、聯隊は師團を離れ南京城に急進、13日、第六中隊が武定門を攻略します。

事後、師團は南京-上海間の要地・鎮江、丹陽、金壇、常州、江陰、江北の揚州の警備にあたり鉄道沿線沿いに布陣し出没する支那遊撃隊の掃討にあたります。

昭和13(1938)年2月14日、上海派遣軍は復帰、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入されます。

3月13日、第六、第十八師團の警備地区中間、広徳に拠る支那軍3個師(顧祝同)を撃滅すべく、聯隊は第五旅團討伐隊の基幹として第二十九旅團討伐隊に呼応し、埠鎮-金壇の線を出発、21日、三州系の敵陣に攻撃を開始、29日、撃滅します。
4月1日、帰還する際に敵が追尾して来たため、13日、敵を誘引し、4月5日、戴埠鎮において撃退、14日、張猪鎮で撃破します。

5月5日、徐州会戦に参加のため、15日、大営集に集結、19日、南平鎮の敵陣を攻略、21日、符離集北方-夾溝西北方の要地を確保し敗敵捕捉に備えますが、支那軍は19日、北支那方面軍の徐州進撃に伴い宿県方面より撤退してしまったため、師團は21日、淮河河畔に集結します。

5月26日、師團は寿県、淮南炭鉱の攻略を下令され、30日、懐遠付近を出撃、6月3日、淮南炭鉱、5日、寿県を攻略します。
11日、支那軍は我軍の進撃を拒止すべく、鄭州北方において黄河を決壊させ河南、安徽、江蘇各省の住民もろとも水没させたため、我軍は淮河遡江を放棄し住民の救助にあたりつつ、27日、師團は中支那派遣軍直轄となり南京付近の警備にあたります。

中支那派遣軍は隷下2個軍により長江江岸及び大別山系を夫々西進させ武漢方面の要地攻略をするとともに、敵に打撃を与え継戦意志の挫折を企図します。
4月2日、師團は第十、第十三、第十六師團とともに第二軍(東久邇宮稔彦王中将)戦闘序列に配属されます。
8月17日、聯隊(加藤鑰平大佐)は加藤支隊として長江江岸、大磯、揚山磯間に上陸し支那軍を掃討、長江江岸の安全を確保し、9月17日、師團に復帰します。

8月23日、師團は警備を第十五師團に移譲、9月10日、蘆洲に集結、軍主力を追及し、10月2日、信陽攻略を下令され、4日、敵を撃破しつつ進撃を開始、12日、信陽を攻略し、守備にあたります。
聯隊は上村支隊(第五旅團長・上村少将)に編入され大別山系の急峻な山岳地を踏破し応山方面に出撃し支那軍を撃破、22日、支那軍を撃退し信陽、応山の守備(第十一軍指揮下に編入)にあたります。

昭和14(1939)年3月下旬、支那第五戦区軍第三一集団軍(湯恩伯)が反攻の兆しを見せているため、4月20日、敵の機先を制するべく、師團は軍主力の攻撃に先立ち敵を陽動誘致を下令されます。
5月1日、師團は徐家河東岸の敵陣地を撃破、西進し、5日、高城鎮南北に展開する敵陣を攻撃し、6日、同陣地を攻略し、棗陽東北高地に拘束、第十三師團が敵背後に迂回し包囲し、11日、合河付近で支那3乃至4個師を殲滅します(襄東会戦)。
13日、師團は反転を開始し、大供山系長崗付近において敵敗残兵を捕捉殲滅し、聯隊は平請関付近の警備にあたります。

8月15日、軍は武漢失陥後、我が後方の治安を撹乱する支那第九戦区軍の捕捉殲滅を企図、26日、聯隊は上村支隊(歩十八第三大隊、野砲三第三大隊、工三)の基幹として列車にて漢口に進出、9月10日、舟艇にて臨湘、城陵磯付近に集結、22日、舟艇に分乗し岳州を出発、洞庭湖を80kmに渡り機動し、友軍機の支援のもと支那第九五師の側背陣地・営田付近に敵前上陸を敢行、敵第一九師の来援に苦戦しますが、25日、牌楼峰東北地区に進撃、26日、敵陣を突破し支那第九五師を撃破します。
27日、軍主力は汨水河畔に進撃、27日、支隊は平江に進撃を下令され、大娘橋付近に進出、敗敵を撃破しつつ、28日、青山市、麻林市、上沙市に進撃し軍の右側背援護にあたり、30日、軍主力は平江付近に進撃し北方より敗走する支那軍を捕捉殲滅します。
30日、聯隊は支隊とともに反転を開始、10月16日、応山に帰還します。

12月7日、6月より行われていた支那軍第二次整備訓練が完了し、第十三師團の警備地区(信陽、応山、浙河)に来襲、歩六十八第一大隊は野砲三第二大隊、戰車第十三聯隊(第三師團指揮下)とともに信陽地區警備隊(歩第二十九旅團長・大城戸少将)に編入されます。
12日、支那軍は全線に渡り攻勢を開始、19日、第一大隊は高野支隊(歩十八聯隊長・高野直滿大佐)に配属、昭和15(1940)年1月5日、長台関西方の支那第六八軍、次いで淮河南地区の第三〇軍を撃破します。
一方、応山地区には敵10個師が来襲、師團は各陣地に拠り敵の侵攻を拒止、1月15日、聯隊は歩五旅團(歩兵8個大隊基幹)と策応し泉口店を出撃し、郝家大店-大花朶間の支那軍を撃破、21日、大王頂、呉家大店南側高地に進撃し支那軍を撃破します。

4月27日、師團は信陽に集結、宜昌作戰(援蒋ルート防衛拠点の攻略)の準備に入り、聯隊主力は中央隊、 第一大隊は左翼隊(歩兵第五旅團主力・片村少将)に部署され、5月1日、長台関を出発、攻撃前進を開始、4日、泌陽を攻略、7日、沘源、8日、韓庄に進撃、左右翼隊とともに唐河沿岸を西進、三合鎮付近で支那第五戦区軍第三三集団(張自忠)の西方部隊を牽制、第十三、第三十九師團により南方の敵主力を包囲殲滅し、張自忠を敗死させます。
19日、師團は攻勢転移、侵攻してきた支那軍を白河以西に撃退します。

5月31日、聯隊は左翼隊・歩五旅團とともに漢水を奇襲渡河、襄陽西方に進撃し敵を撃破、6月2日、歩五旅團は右縦隊となり敗敵を追撃、6日、観音寺、荊門に進撃、10日、険峻な地形を活かした堅陣に拠る支那第二軍を撃破し峡口北方青渓場に進撃、12日、第十三師團が宜昌を攻略し、17日、聯隊は当陽付近の守備にあたり敵の逆襲を撃退します。
12日、宜昌作戰は支那軍50万を撃破、沙市、宜昌を攻略し、敵南北戦区を分断、且つ前進飛行場を確保し成功のもと終結します。
7月14日、歩五旅團は軍直轄の片村兵團となり引き続き当陽の守備にあたり(9月中旬、復帰)、師團は応山に反転し警備にあたります。
10月以降、支那軍4個師が我軍正面の随県付近に浸出して来たため、25日、軍は機先を制し随県、漢水左岸、及び右岸の敵を撃破すべく二號作戦(漢水作戦)を下令、聯隊は片村部隊(歩五旅團)的野部隊(聯隊長・的野憲三郎大佐、第三大隊欠)、第三大隊は片村部隊直轄に部署され、厲山に進撃し次いで南方に旋回、浄明舗の敵陣を撃破、環潭に進撃し支那軍を包囲殲滅し随県付近に集結、原駐地に復帰します。

昭和16(1941)年1月、支那支那第五戦区軍(李宗仁)は40個師をもって正月攻勢を企図、第三一集団軍(湯恩伯)が信陽北方に移動を開始したため、25日、軍は和號作戦(予南作戦)を発動、中央兵団の第十七師團は上蔡、西平に進撃し第三一集団軍を圧迫、左翼兵団の第三師團は大別山系の急峻な山岳地帯に拠る支那軍を攻撃、泌陽、春水を攻略し、30日、敵第一三軍の本拠・舞陽を攻略し、2月9日、援軍として来援した敵第五九軍を南陽において撃破し、第三一集団軍を壊滅させます。

4月22日、師團は時期作戦準備のため、郝家大店に集結、5月5日、軍は北支那方面軍の中原会戦を援護し、且つ江北地区の敵撃破を企図し江北作戦を発動、師團は敵を撃破しつつ進撃を開始、10日、環潭付近で包囲態勢に入りますが、敵は既に撤退しており戦果は挙がりませんでした(第一期作戦)。
13日、支那第二二集団軍を棗陽付近で捕捉殲滅(第二期作戦)、15日、棗陽南方において支那軍8,000、17日、小板橋付近で敵第二九軍、信陽方面で第五五軍の一部を撃破します。

8月中旬、軍は活発化する支那第九戦区軍(薜岳、40個師)の株州以西の敵を撃破すべく加號作戦(第一次長沙作戦)を発動、9月4日、師團は応山を出発し岳州東南に集結、22日、長寿街南方泪水左岸地区より攻撃を開始、第四師團と連携し、24日、敵第一四〇師を撃破、来援した第一〇軍の半数を撃破し、25日、第六師團と連絡します。
26日、撈刀河の線に進出、歩二十九旅團が永安に進撃、歩五旅團は永安に来襲した支那軍の側背を攻撃し殲滅します。
27日、支那軍は長沙を放棄し撤退を開始したため、師團は珠州に敗敵を追撃し、敵軍事施設を破壊し、10月7日、反転し原駐地に復帰します。

10月6日、加號作戦の間隙をついて支那軍13個師(陳誠)が宜昌に侵攻して来たため、第三師團は第四師團とともに救援に進撃、支那軍は撤退します。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。
第十一軍は第二十三軍の香港攻略戦に策応すべく、15日、師團は作戦準備を開始、25日、龍湾橋に集結、第六師團とともに粤漢線西側地区を南下、27日、泪水を渡河し、29日、支那第三七軍を撃破し界頭市に進撃、12月25日に第二十三軍が香港を攻略したのに伴い支那軍が移動し始めたため、29日、師團は長沙攻略を下令され、昭和17(1942)年1月1日、長沙東南の敵第一〇軍を攻撃しますが、激烈な抵抗を受け攻撃は遅滞、2日、第六師團が攻撃に加入、さらに飛行部隊の直協を受け、4日、長沙城を攻略します。
同日、支那軍が大挙来襲し包囲態勢に入ったため、第三・第六師團は反転、敵の追撃を受けつつ、7日、来援に到着した第四十師團の援護を受け、13日、泪水に到達、15日、新檣河北岸に集結します。

4月18日、ドーリットルによる本土初空襲を受け、再度の奇襲を封じるべく、5月15日、支那派遣軍は第十三軍主力により東部第三戦区軍を攻撃、浙江省方面の敵飛行場(金華、玉山、衢州、麗水各飛行場)、及び敵軍事施設を覆滅し、且つ第十一軍の一部により南昌付近より西部第三戦区軍を挟撃する浙贛作戰を策定します。

5月27日、聯隊は師團とともに南昌付近に集結、31日、師團は支那軍を撃破しつつ、三江口東側に集結、6月2日、渡河を開始し、支那七五師を撃破、3日、雲山、進賢に進撃、5日、撫州を攻略、11日、建昌周辺の敵を撃破し建昌、及び同飛行場を攻略、15日、金渓を攻略します。
25日、師團は撫河を渡河、29日、宜黄、梨渓付近において支那第四軍を包囲殲滅、7月5日、崇仁に進撃し、7日、清豊橋において支那第五八軍を撃破します。
7月中旬、師團は原駐地に復帰、聯隊は黄陂付近の警備にあたります。

12月18日、第十一軍司令官・塚田攻中将、同高級参謀・藤原武大佐は南京で開催された軍司令官会同に出席した帰途、搭乗機が大別山系で遭難したため、軍は捜索のため大別山作戰を発動、捜索を兼ね敵陣地を攻撃し、20日、彌陀寺付近で司令官、参謀の遺体を収容、遺体略奪に来た支那軍を撃退します。

昭和18(1943)年1月、聯隊は孝感地区に移駐、同地の警備にあたります。

4月14日、宜昌西方地区の支那第六戦区軍殲滅のため師團は江南殲滅作戦の準備を開始、20日、孝感に集結、5月2日、聯隊は第三大隊を守備に残置し進撃を開始、3日、長江を渡河、6日、火門土地に進撃、敵線を分断します。
12日、津市北方水郷地帯において支那軍の堅陣を突破、15日、支那第五五師を撃破、18日、松滋を攻略します。
24日、聯隊は第三十九師團指揮下に編入され長江対岸・二郎(マダレに由)に集結、羅家埧に進撃し日暮台の敵陣を突破、26日、柳林市を攻略、28日、龍譚坪の敵陣を攻略し、29日、四方湾、三宮岩の敵陣を攻略し、大朱家に進撃します。
31日、作戦終了に伴い、聯隊は反転を開始、6月12日、孝感に帰還します。

10月9日、師團は軍の常徳殲滅作戦計画の内示を受け、14日、聯隊は師團先遣隊として郝穴付近に前進し掃討を実施、15日、師團は作戦を開始、31日、聯隊は呉達河に集結します。
11月2日、聯隊は進撃を開始、霧気河を渡河し西進、支那第九八師第二九二団、3日、黄金堤において第二九三団を撃破、6日、第七七師を撃破、8日、同子渓を攻略し杉本橋付近に集結します。
13日、杉本橋付近を出発、13日、仙鳳山、14日、毛家峡を攻略、飛行部隊の直協を受け塘坊西南高地の敵陣を攻略し支那第七七師、第一五師を圧迫、石門北西に進撃、15日、澧水を渡河、鞍子峡に西進し第十三師團の澧水北岸殲滅戦に協力ののち、宗家崗に進撃します。
19日、聯隊は揚家荘に進撃し再び第十三師團に協力、20日、漆家河西方において侵攻して来た支那第一〇〇軍を第六十八師團とともに包囲殲滅します。

12月1日、聯隊は第六十八師團とともに帝公嘴付近において支那第一〇軍を奇襲し包囲殲滅、2日、常徳より撤退する支那第五七師を奇襲し殲滅します。
3日、師團は常徳を攻略、12日、反転を開始、15日、追撃してきた支那軍を撃破、昭和19(1944)年1月5日、原駐地に復帰します。

5月10日、師團は応山地区の警備を獨立混成第十一旅團に移譲し応山を出発、24日、一號作戦(湘桂作戦、大陸打通作戦)命令を受領、25日、崇陽に集結、27日、前進を開始、6月10日、師團は第十三師團とともに瀏陽(敵4個師)を攻撃、第六十八師團が敵の後方連絡線を遮断したため、敵は潰走、22日、第十三師團が萍郷を攻略、周辺の支那軍8個師を撃破します。

28日、支那軍が醴陵に侵攻しつつあるため、師團主力は同地南方の茶陵付近に進撃し騎兵第三聯隊、歩六八第一大隊を醴陵守備に、歩六八聯隊主力は安仁に急行、進行してきた支那軍の拒止にあたります。
師團各部隊は優勢な支那軍の攻撃に損害が増加しますが、7月19日、第二十七師團、21日、第三十四師團が到着、敵は蓮花方面に撤退します。

8月5日、師團は来陽に集結、8日、第十一軍により衡陽が攻略されます。
29日、聯隊は第三大隊を予備隊として師團主力に抽出、聯隊主力は師團先遣隊となり来陽を出発、30日、龍門隘に集結し、第二大隊を突進大隊として進撃を開始、支那第九五師を撃破、第一大隊は鳥髪山、金塘の第六〇師を撃破、9月1日、常寧を攻撃しますが、優勢な敵の抵抗に攻撃は遅滞、5日、師團命令により攻撃を中止し常寧北方に集結、6日、歩三十四が零陵飛行場を攻略します。
10日、聯隊は常寧北方を出発、師團主力を追及、16日、瀟水を渡河し、同地の確保にあたっていた第二大隊を掌握、敵機の襲撃を受けつつ南下、19日、白馬渡に集結します。

10月23日、師團は柳桂作戦参加のため各部隊は常山(マダレに由)に集結、27日、作戦が下令され、28日、2縦隊(聯隊は右縦隊最後尾)となり進撃を開始、広西省に進出し、11月1日、二塘墟の敵陣を撃破、同日、平楽を攻略します。
5日、聯隊は四排圩より西南進し、10日、柳州飛行場に進撃し、歩百六十一と連絡、同日、歩三十四が柳州南部を攻略し、事後、師團は柳州守備に騎三を残置し敗敵を追撃、聯隊は刺保街から、14日、宜山、さらに折城に進撃します。
12月3日、聯隊は反転命令を受領し、4日、師團主力の援護にあたりつつ、7日、洛平に集結、9日、師團司令部は遷江地区に、聯隊は来賓対岸大湾墟地区の警備にあたります。
3月25日、聯隊は遷江地区に集結、警備地域の南方及び確山地区に進撃し支那軍を掃討(都安作戦)します。

5月4日、師團は他方面への転用のため南京への集結が下令され、師團各隊は梯団に別れ逐次警備地区を出発、4日、聯隊は来賓を出発、遷江-象県-茘浦-桂林-零陵-来陽-醴陵-高安を経由、九江において、8月20日、停戦命令を受領しました。
聯隊は鎮江地区に集結を下令され、池州郊外まで南下を通過、26日1000、長江岸安徽省池州郊外草原において聯隊総員が整列注視のなか軍旗を奉焼し、橋頭鎮集結、次いで師團集結地の鎮江地区に集結、昭和21(1946)年2月26日、聯隊主力、2月22日、第二大隊が上海を出航、20日、博多、25日、鹿児島に夫々上陸し復員完結します。

第三師團は建軍以来連戦連勝、支那事変、大東亜戦争においては常に優勢な支那軍相手に無敗を誇った古豪師團でした。


歩兵第百九十八聯隊(怒一四三〇五)
昭和19(1944)年7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により歩兵第六十八聯隊補充隊に臨時動員下令、歩兵第百九十八聯隊は臨時動員され、20日、宮中において軍旗を拝受(吉川元大佐)、第七十三師團(河田末三郎中将、名古屋)隷下の第七十三歩兵團に配属されます。

師團は知多半島から駿河湾にかけての防衛を担当し陣地築城を開始しますが、後に防衛地区は豊橋南方から浜名湖までの区域に縮小されます。
聯隊は田原地区に移動、陣地築城、軍需物資集積にあたるなか、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月23日、田原において復員完結します。


歩兵第四百十一聯隊(護古二二二五五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、歩兵第六十八聯隊補充隊により編成(森本辨三郎大佐)され、5月2日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、聯隊は軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編制改正・称號變更並第三百二十八次復員要領』に基づき、留守第三師團司令部により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十三師團(鈴木貞次中将、名古屋)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である静岡県の浜松地区において防御陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月21日、浜松において復員完結します。


歩兵第三百三十八聯隊(高師二一七七三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、名古屋師管區歩兵第三補充隊により編成(廣中豐大佐)され、7月23日、宮中において軍旗を拝受します。

6月1日、聯隊は軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき名古屋師管區司令部により臨時動員された第三百三師團(石田榮熊中将、名古屋)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である鹿児島県吹上浜の川内地区において沿岸防御準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月19日、川内において復員完結します。


編成(大隊以下)、補充を担当した部隊
歩兵第五十聯隊(明治38年3月31日、編成)

獨立歩兵第十二聯隊(昭和9年10月15日)

歩兵第百三十六聯隊(昭和12年8月20日)

獨立混成第六旅團司令部(昭和14年1月)

獨立歩兵第二十一大隊(昭和14年1月)

獨立歩兵第二十二大隊(昭和14年1月)

歩兵第二百二十九聯隊(昭和14年6月30日)

第八國境守備隊第二地區隊(昭和16年7月16日)

第八國境守備隊第三地區隊(昭和16年7月16日)

獨立歩兵第五十七大隊(昭和18年5月1日)

獨立歩兵第五十八大隊(昭和18年5月1日)

獨立歩兵第六旅團司令部(昭和18年12月10日)

獨立歩兵第二百十一大隊(昭和18年12月10日)

獨立歩兵第二百十二大隊(昭和18年12月10日)

獨立歩兵第百六十五大隊(昭和19年6月15日)

獨立歩兵第百六十十七大隊(昭和19年6月15日)

獨立歩兵第三百五十三大隊(昭和19年6月15日)

獨立混成第三十八旅團司令部(昭和19年6月24日)

歩兵第二百七十聯隊(昭和20年1月16日)

獨立歩兵第六百二十七大隊(昭和20年2月1日)

獨立歩兵第六百二十八大隊(昭和20年2月1日)

獨立警備歩兵第二十六大隊(昭和20年2月1日)

獨立歩兵第六百六十三大隊(昭和20年2月6日)

獨立歩兵第七百二十六大隊(昭和20年2月6日)

獨立歩兵第七百二十七大隊(昭和20年2月6日)

獨立警備歩兵第六十三大隊(昭和20年4月12日)

獨立警備歩兵第六十四大隊(昭和20年4月12日)

獨立警備歩兵第七十一大隊(昭和20年4月12日)

獨立警備歩兵第七十二大隊(昭和20年4月12日)


主要参考文献
『岐阜県史 通史 近代上』 (昭和55年 大衆書房)

『第三師団郷土部隊史』 (昭和42年 郷土部隊史保存会,郷土部隊史保存会)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』 (ノーベル書房 昭和53年10)

『日本陸軍連隊総覧』 (新人物往来社 平成2年9月)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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