当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

敦賀城と大谷吉継

8月4日(水)に敦賀港において海上自衛隊 護衛艦「ひゅうが」一般公開が行われました。

その際に訪れた「敦賀城」の遺構について書きたいと思います







敦賀城と言えば、名将・大谷吉継の居城として知られていますが、現在では市街地化しており遺構は全く残っていません
僅かな痕跡が城地に建った寺などに残されているので尋ねました。

永賞寺(栄新町11-20) 【地図】 (無料駐車場あり)
こちらの寺は大谷吉継の菩提寺です。
永賞寺(吉継の菩提寺)本堂

本堂の向かって右側に大谷吉継の供養塔があります。
大谷吉継公の供養塔

また、山門を入ってすぐ左側に柴田勝家の甥、勝豐の家臣・前田長兵衛の五輪塔があります。
前田長兵衛の五輪塔
説明板等は無く、この武将の詳細は不明です。

敦賀西小学校 【地図】 (駐車場なし)
小学校の南東角に敦賀城、敦賀町奉行所・代官所、敦賀県庁の跡碑があります。
敦賀城跡碑

真願寺(結城町14-1) 【地図】 (無料駐車場あり)
山門前に城址銘碑
城址銘碑

本堂前に乾門礎石があります。
乾門礎石

正八幡神社(三島町1) 【地図】 (無料駐車場あり)
拝殿の向かって左側の奥に吉継奉納の石灯篭(基礎と笠より上部のみ)
吉継奉納の石灯篭

拝殿前の天井の伝吉継奉納の木彫り龍(綺麗に塗装されていますが)
吉継奉納の木彫り龍

また併設されている敦賀郷土博物館の前に表門の礎石、石瓦が置いてあります。
表門の礎石と石瓦

灯籠以外は案内看板が無く、知らない人には全く分かりません。

来迎寺(松島町2-5-32)  【地図】 (無料駐車場あり)
こちらには敦賀城最大の遺構である中門が移設されています。
敦賀城の表門

大 谷 吉 継 ~大義と友情に散った名将~
大谷吉継 (2)
永禄2(1559)年(永禄8(1565)年説あり)~慶長5(1600)年9月15日
幼名:桂松(慶松)
紀之介、平馬、吉隆
刑部少輔
永禄2(1559)年、に近江国で出生。父は六角家臣・大谷吉房。母は羽柴秀吉の正室・高台院の侍女、東殿といわれます。
天正初年、秀吉の小姓となります。
天正6(1578)年、三木城攻略戦に馬廻として出陣、150石(250石?)を与えられます。
天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家の甥で長浜城主・柴田勝豊を内応させ、本戦においても七本槍に匹敵する三振の太刀と賞されます。
紀州征伐において、増田長盛と共に2,000の兵を率いて出陣、紀州勢の杉本荒法師を討ち取ります。
この頃から文書の発給を行います。
天正13(1585)年7月、従五位下、刑部少輔に叙任されます。
天正14(1586)年、九州征伐において三成と共に兵站奉行を務めます。
同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当しました。
天正17(1589)年、越前国内の敦賀郡・南条郡・今立郡5万石を与えられ、敦賀城主となります。
蜂屋頼隆の築いた敦賀城を大々的に拡大改修し現在の福井県結城町と三島町にまたがる広壮な近代城郭としたほか、三層の天守も造営し、笙ノ川、児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い町割を川西、川中、川東の三町に改めました。
吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能しました。
天正18(1590)年、小田原の役、続いて奥州仕置にも出陣し出羽国の検地を担当しました。

文禄元(1592)年、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送を務めます。
同年6月、秀吉の命で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めました。

慶長5(1600)年、徳川家康が上杉景勝に謀反の嫌疑があると称して上杉討伐軍を起こすと、秀吉没後に家康とも懇意であった吉継は3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく進軍、途中で失脚していた三成の居城・佐和山城へと立ち寄ります。
吉継は三成と家康の仲を取り持つべく三成の嫡男・重家を従軍させようとしたが、そこで三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられます。
吉継は、「無謀であり、三成に勝機は無い」と説得するが三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも三成とともに西軍として挙兵することを決断します。
吉継は敦賀へ帰城、東軍の前田利長を牽制すべく越前・加賀における諸大名の調略を行ない、丹羽長重、山口宗永、上田重安らを見方にせしめます。
さらに虚報を流して利長を撤退させ、丹羽長重が追撃し損害を与えます(浅井畷の戦い)。

9月15日、関ヶ原の戦いにおいては松尾山に布陣する西軍・小早川秀秋の寝返りを警戒して関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田重政、平塚為広の諸隊、あわせて5,700人で布陣します。
吉継は業病(ハンセン病)に侵されており、失明し顔が崩れ手足も不自由だったため輿に乗って指揮し東軍の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦します(大谷勢の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとも言われます)。
正午頃、吉継の予見通り小早川秀秋隊1万5,000人が寝返り、大谷隊に突撃してきますが予め小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田重政・平塚為広とともに兵力で圧倒する小早川隊を一時は5町(500m)押し戻し2、3回と山へ追い返します。
しかし突然、秀秋の寝返りに備えて配置していたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の4隊4,200人が東軍に寝返り反転、伸び切った大谷隊の側面に攻撃をかけてきます。
大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲攻撃を受け壊滅、前線で戦っていた平塚為広より敵将の首とともに送られてきた辞世「君がため 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」に対し「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」と辞世を返歌すると側近の湯浅隆貞の介錯で自刃しました。
吉継の首は隆貞により関ヶ原に埋められ、東軍側に発見されることはありませんでした。
大谷隊の壊滅により西軍の諸隊は動揺、混乱し小西行長隊、宇喜多秀家隊に続いて石田三成隊も壊滅、西軍敗走の端緒となります。
大谷吉継 墓
~大谷吉継 墓(岐阜県関ケ原町)

湯浅隆貞 墓
~吉継墓の隣にある湯浅隆貞の墓

生前の秀吉は「紀之介(吉継)に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と語ったと伝えられます。

三成との友情を示す逸話としては、天正15(1587)年、大坂城内で開催された茶会において諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。
この時既に業病に感染していた吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い後の者たちは飲むふりをするだけでしたが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、気軽に話しかけてきた(吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者たちはその茶を飲むのをためらったが、三成だけが膿ごと茶を飲み干し、「おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしい」と気を利かせたとも言われます)。
その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる逸話が有名です。

敦賀城
天正3(1575)年、織田信長は越前を平定し敦賀郡代に武藤宗右衛門を命じます。
天正10(1582)年、本能寺の変で信長が横死すると、天正11(1583)年、蜂屋頼隆が敦賀5万石の領主となります。
頼隆は、それまでの花城山城を廃し、敦賀城を築城しました。

天正17(1589)年、頼隆が九州征伐中に病没、替わって大谷吉継が57,000石で入封しました。 

吉継は敦賀城を水城として大改修し、庄ノ川河口の入り江を埋め立てて奉行所を設置し、港の掌握に務めるなどし、三層の天守も造営しました。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで吉継が西軍に与し自刃したため所領は没収され、城は大谷家臣・蜂屋将監によって東軍に引き渡されます。

その後、越前を領した結城秀康によって代官が派遣されていましたが、元和2(1616)年の一国一城令により、敦賀城は廃城となります。

小浜酒井家によって支藩の敦賀酒井家(敦賀藩)が敦賀に置かれましたが、陣屋は敦賀城跡地には建てられず旧金ヶ崎城ちかくの鞠山に建てられました。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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