当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第十九聯隊

戦国時代、名将・大谷吉継の領国だった事で知られる敦賀市に歩兵第十九聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第百十九聯隊歩兵第六十七聯隊歩兵第三百五十聯隊歩兵第三百五十一聯隊歩兵第三百六十四聯隊歩兵第四百四十一聯隊歩兵第四百四十三聯隊歩兵第五百二十三聯隊が編成されます。
歩兵第十九聯隊 A 歩哨舎(敦賀)
▲兵営跡地に遺る歩哨舎

【探索日時】
平成22年8月4日

【改訂情報】
平成29年4月29日 体裁改定





歩兵第十九聯隊 関連諸施設配置
歩兵第十九聯隊 敦賀 陸地測量部(明治26測図・42年修正・大正5発行)(敦賀)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図16 敦賀近傍』(明治26測図・明治42年修正)

歩兵第十九聯隊 敦賀 現在(敦賀)
▲現在の地図に転写
① 歩兵第十九聯隊 兵営
② 歩兵第十八旅團司令部
③ 敦賀聯隊區司令部
④ 敦賀陸軍病院
⑤ 敦賀陸軍練兵場
⑥ 敦賀陸軍射撃場
⑦ 敦賀陸軍演習場
⑧ 敦賀憲兵分隊

⑨ 旧敦賀陸軍墓地
※名称は昭和12(1937)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
① 歩兵第十九聯隊 兵営
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が政府はこれらの外圧、特にロシアの侵攻に備え安全保障のため、明治29(1896)年1月、軍備増強を決定し、陸軍省は福井県下に1個旅団の設置を計画します。

旅団設置の情報を得た敦賀郡(現、市)では相次ぐ洪水で疲弊した町勢活性化を狙い、実業家・大和田荘七氏に誘致陳情を一任、3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成を決定、29日、敦賀郡に歩兵第十八旅團司令部の新設、歩兵第十九聯隊の名古屋からの転営を決定します。

兵営用地は粟野村金山の畑地・原野に選定、大和田荘七氏の献納、及び陸軍省の買収により用地を取得、兵営建設が開始され、明治31(1898)年3月27日、留守隊の第一大隊(聯隊主力は威海衛の守備に派遣中)、5月24日、任務を終えた聯隊主力が竣工間近の兵営に転営、11月25日、兵営の全設備が竣工します。
歩兵第十九聯隊 聯隊兵営(敦賀)
▲北側上空から見た歩兵第十九聯隊兵営(撮影時期不明)

明治37(1904)年5月9日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において歩兵第十九聯隊補充大隊、大正8(1919)年3月23日から大正10(1921)年4月21日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年2月8日から5月31日、上海事變、昭和10(1935)年6月から、昭和12(1937)年5月、満洲駐剳、昭和12(1937)年9月9日から昭和14(1939)年6月15日、支那事變において、聯隊の出征に伴い同聯隊留守隊が編成されます。
昭和12(1937)年9月3日、留守隊において歩兵第百十九聯隊、昭和13(1938)年4月、歩兵第六十七聯隊が臨時動員され、夫々北支、中支に出征します。
昭和15(1940)年10月5日、歩兵第十九聯隊の滿洲移駐に伴い、再度歩兵第百十九聯隊が編成されます。
昭和18(1943)年12月13日、歩兵第百十九聯隊の臨時動員に伴い、同聯隊補充隊が編成、同補充隊において、昭和20(1945)年1月20日、歩兵第四百四十一聯隊、歩兵第四百四十三聯隊、歩兵第五百二十三聯隊が編成されます。
4月1日、歩兵第百十九聯隊補充隊は京都師管區歩兵第二補充隊に改編、同補充隊において、5月23日、歩兵第三百五十聯隊、歩兵第三百五十一聯隊、歩兵第三百六十四聯隊が編成され、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸海軍施設は大蔵省に移管されます。

9月25日、米第1軍団第33歩兵師団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、10月25日、第136歩兵連隊の一部(ランバータ少佐以下317名)が敦賀に進駐し、旧歩兵第十九聯隊兵営以下陸軍施設を接収、12月28日、第103軍政中隊(ハイランド中佐)が併置され、福井県全域を占領します。
昭和21(1946)年2月3日、米歩兵連隊は撤収、6月10日、兵営は引揚者住宅「金山高岡(ハイランド中佐から)寮」に転用、10月2日、軍政中隊が福井市内に移駐したのに伴い、内務省に返還され、大蔵省に移管されます。

その後の兵営の推移は不明ですが、現在2/3が市営住宅、1/3が一般住宅になっている事から、他の軍施設と同様に米軍の接収解除に伴い内務省を通じ大蔵省に移管され敦賀市に払い下げられたと思われます。

歩兵第十九聯隊は歴史も古く輝かしい戦歴を誇りますが、その偉業を偲ぶ遺構は残念ながら殆ど遺されていません。

A 歩哨舎 ・ 境界石標
営門の脇にあった歩哨舎が遺されています。
歩兵第十九聯隊 A(敦賀)
▲歩哨舎下部は非常に大きな造りです。

歩哨舎の脇には境界石標が移設されています。
歩兵第十九聯隊 A 歩哨舎横の「陸軍省」境界石標(敦賀)
▲陸軍省(所轄地?)

歩兵第十九聯隊 営門(敦賀)
▲陸軍時代の営門

歩兵第十九聯隊 営門 跡(敦賀)
▲現在の営門付近

あ 敦賀連隊史蹟碑
昭和39(1964)年11月、敦賀連隊史蹟碑保存会により建立されました。
揮毫は支那大陸において蒋介石と対峙した岡村寧次大将です。
歩兵第十九聯隊 あ 敦賀連隊史蹟碑(敦賀)

歩兵第十九聯隊 あ 敦賀連隊史蹟碑裏面の聯隊歌(敦賀)
▲裏面は聯隊歌の一節が刻字されています。
刻字は1番だけですが、聯隊歌は16番まであります。

B コンクリート柵
金山保育園前に当時のコンクリート柵が遺ります。
歩兵第十九聯隊 B 塀 北東から(敦賀)

C コンクリート柵
市営住宅前に当時のコンクリート柵が遺ります。
歩兵第十九聯隊 C 塀 塀 団地前 南東から(敦賀)
▲表側(道路側)

歩兵第十九聯隊 C 塀 塀 北東から(敦賀)
▲内側

D 側溝
兵営南側の側溝が遺ります。
歩兵第十九聯隊 D 側溝 西から(敦賀)
▲護岸の石組が見えます。


い 金山橋
聯隊とは直接関係ありませんが、昭和8(1933)年9月に竣工しました。
歩兵第十九聯隊 い 金山橋(昭8、9竣功)南から(敦賀)

また、兵営に隣接して入営者が利用した郵便局の建物が遺されています。
歩兵第十九聯隊 旧郵便局(兵営北東向い)(敦賀)


② 歩兵第十八旅團司令部
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成、及び敦賀郡に歩兵第十八旅團司令部の新設、歩兵第十九聯隊の転営を決定します。

明治30(1897)年10月1日、歩兵第十八旅團司令部(山内長人少将)が歩兵第六旅團司令部内(金沢)で新設され、明治31(1898)年3月26日、粟野村金山に転営、10月1日、新設された第九師團(金沢)隷下に編入されますが、明治41(1908)年11月1日、第十六師團(京都)に隷属転移、大正14(1925)年5月1日、再び第九師團に隷属転移します。

明治37(1904)年5月9日、明治三十七八年戰役(日露戦争)、大正8(1919)年3月23日から大正10(1921)年4月21日、滿洲駐箚において、旅團司令部の出征に伴い留守歩兵第十八旅團司令部が編成されます。

昭和15(1940)年7月10日、『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』による既設師團の3単位(歩兵4個聯隊から3個聯隊へ)への改変に伴い師團内旅團の復帰、歩兵團への改変が決定、8月1日、第九師團の滿洲移駐に伴う編成改正により歩兵第十八旅團司令部は復帰します。
その後の旅團司令部庁舎の動向は不明ですが、昭和23(1948)年3月31日の空撮にも写っている事から、解体される事無く陸軍施設として使用されていた様です。

現在は隣接する国立病院機構敦賀医療センターの敷地に包含され、跡形もありません
歩兵第十九聯隊 ②旅團司令部跡 北東から(敦賀)
▲病院入口になっている辺に旅團司令部がありました。


③ 敦賀聯隊區司令部
明治40(1907)年9月17日、陸軍省は内地19個師団体制に対応すべく陸軍管区表を改正、敦賀聯隊區(福井県・滋賀県の一部)が設置され、12月29日、司令部は敦賀郡粟野村金山の新築庁舎に移転します。
昭和16(1941)年4月1日、敦賀聯隊區は中部軍管區京都師管へ移管され、11月1日、敦賀聯隊區司令部は復帰、福井聯隊區司令部に統合されます。
その後の聯隊區司令部庁舎の動向は不明ですが、昭和23(1948)年3月31日の空撮にも写っている事から、解体される事無く陸軍施設として使用されていた様です。

現在は隣接する国立病院機構敦賀医療センターの敷地に包含され、跡形もありません


④ 敦賀陸軍病院
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成、及び敦賀郡に歩兵第十八旅團司令部の新設、歩兵第十九聯隊の転営を決定します。
明治31(1898)年3月26日、敦賀衛戍病院が開院、27日、留守隊の歩兵第十九聯隊第一大隊(聯隊主力は威海衛の守備に派遣中)、5月24日、任務を終えた聯隊主力が新兵営へ転営して来ます。
昭和11(1936)年11月10日、敦賀衛戍病院は敦賀陸軍病院に改称、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の病院長は四方京一医大佐、病床数330、分類は三等甲病院でした。

11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、全国の陸海軍病院は厚生省に移管され敦賀陸軍病院は国立敦賀病院に改組されます。
昭和26(1951)年4月1日、国立療養所敦賀病院に改称、平成15(2003)年7月1日、国立療養所福井病院と統合し国立福井病院に改称、平成16(2004)年4月1日、独立行政法人国立病院機構福井病院、平成27(2015)年4月1日、国立病院機構敦賀医療センターと改称し現在に至ります。

遺構は何も遺されていない様です。


⑤ 敦賀陸軍練兵場
⑥ 敦賀陸軍射撃場
⑦ 敦賀陸軍演習場
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定し敦賀郡に歩兵第十九聯隊の転営を決定します。
明治31(1898)年3月27日、留守隊の歩兵第十九聯隊第一大隊(聯隊主力は威海衛の守備に派遣中)、5月24日、任務を終えた聯隊主力が新兵営へ転営し、練兵場、射撃場、演習場の供用が開始されます。

大東亜戦争停戦に伴い、8月28日、練兵場、射撃場、演習場は大蔵省に移管されます。
11月9日、政府は『緊急開拓事業実施要領』を閣議決定、練兵場、演習場は食糧増産のため戦災罹災者、復員者の帰農希望者に払い下げられ農耕地として開墾されます。

現在、練兵場は全域が住宅地、農地、演習場は農地、ゴルフ場になっています。
歩兵第十九聯隊 練兵場北東端から (敦賀)
▲敦賀陸軍練兵場跡

射撃場は大蔵省に移管後も払い下げられる事は無く、現在も国有地のままの様です。
歩兵第十九聯隊 射撃場 北端から南側(敦賀)
▲敦賀陸軍射撃場跡
四方を山に囲まれており、天然の跳弾除けとなっています。


⑧ 旧敦賀憲兵分隊
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定し敦賀郡に歩兵第十九聯隊の転営を決定します。
明治30(1897)年1月、陸軍省による買収、内務省用地の移管、地権者からの献納により、粟野村に新設憲兵屯所の用地を取得、明治31(1898)年3月27日、歩兵第十九聯隊第一大隊が名古屋より新築された敦賀の兵営に転営、12月、第九憲兵隊敦賀憲兵分隊が開設します。
明治40(1907)年10月7日、第九憲兵隊敦賀憲兵分隊は金澤憲兵隊敦賀憲兵分隊に改称、明治41(1908)年6月5日、憲兵隊管区が改正され、敦賀憲兵分隊は京都憲兵隊管下に編入されます。
大正8(1919)年2月1日、シベリア出兵の輸送業務に対応すべく、蓬萊町に出張所を開設、大正14(1925)年5月1日、再び金澤憲兵隊管下に編入されます。
昭和2(1927)年6月、粟野村の庁舎は狭隘なため、津内の用地を買収し庁舎を新築、12月20日、移転します。

昭和20(1945)年3月30日、決號作戰(本土決戦)に向け憲兵が増強され、中部憲兵隊司令部 京都地區憲兵隊 敦賀憲兵分隊に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

その後の憲兵分隊の動向は不明ですが、現在はガソリンスタンド、散髪屋になり遺構は何も遺されていない様です。


衛戍・編成部隊
歩兵第十九聯隊(武一五二八、滿洲八〇二)
明治18(1885)年5月30日、名古屋において第一大隊、明治19(1886)年6月12日、聯隊本部(比志島義輝中佐)、第二大隊が編成、8月23日、宮中において軍旗を拝受、明治20(1887)年5月16日、第三大隊が編成され編成完結します。
歩兵第十九聯隊 歩十九 軍旗(敦賀)
▲歩兵第十九聯隊 軍旗

明治20(1887)年5月12日、配属予定の名古屋鎭臺は第三師團(黒川通軌中将)に改編、第三師團歩兵第六旅團(岡本兵四郎少将)に配属されます。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発、4日、聯隊に動員下令、30日、動員完結、31日、師團とともに名古屋を出発、9月4日、宇品を出航、9~16日、朝鮮仁川に上陸し京城に集結、第三師團は第一軍(山縣有朋大将)戦闘序列に編入されます。
26~29日、聯隊は黄州、鳳山に集結、10月17日、第一軍直轄となり主力は安州(11月23日、安東県に前進)、第三大隊は平壌の守備にあたり、12月3、4日、聯隊は第三大隊を安東県の守備に残置し軍末隊となり出発、12日、板子屯において敗敵を殲滅、13日、海城を攻略、19日、師團とともに清軍砲撃に苦戦しつつ卸瓦寨を攻略します。
明治28(1895)年1月8日、21・22日、2月16日、21日、聯隊は海城付近に侵攻してきた清軍を度々撃退します。
28日、聯隊は攻撃隊(歩兵第六旅團長・大島久直少将)に部署され沙河沿いを進撃、東北沙河沿、白廟子の清軍を撃破、石頭山子、平耳房、鞍山站、3月4日、要所・牛荘城を攻略します。
3月7日、大高刊に進撃、8日、火砲30を擁する清軍10,000を師團とともに撃破、敵兵站の田庄台市街地に放火し敵補給線を寸断させ、牛荘城付近の守備中、休戦命令を受領、4月17日、講和条約が締結され、21日、戦役は終結、21日、蓋平を出発、6月30日~7月5日、名古屋に凱旋しました。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成、29日、敦賀郡に歩兵第十八旅團司令部(益満邦介少将)の新設、歩兵第十九聯隊の第九師團(大島久直中将、金沢)への隷属転移、及び名古屋から敦賀への転営を決定します。

明治30(1897)年5月18日、聯隊は威海衛守備のため第一大隊を留守隊として残置し兵営を出発、明治31(1898)年3月27日、第一大隊が敦賀に転営、5月24日、任務を終えた聯隊主力が敦賀の新兵営に帰還します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、5月9日、聯隊に動員下令、6月27・28日、聯隊は兵営を出発、広島に終結、7月14日、宇品を出航、18日、柳樹屯に上陸、第九師團は第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入されます。

23日、師團は旅順要塞第一線陣地を攻撃中の第一・第十一師團に加わり、聯隊は韓家屯北方高地から盤道北方・西方高地付近の線に進撃、25日、大周家屯北方高地、26日、要所・三四八高地に前進、激烈な敵機関銃掃射に聯隊長・佐治爲善大佐が負傷する等、大損害を受けながらも、28日、工兵隊が敵掩蔽部を爆破、同高地を攻略します。

8月18日、聯隊主力は師團予備、第二大隊は師團右翼隊に部署され水師営東北高地に前進、19日、砲兵の準備射撃の後、第二大隊の援護射撃にあたるなか、歩三十六が鉄条網を突破し龍眼北方堡塁に突撃しますが、敵機関銃掃射を受け損害が増加、20日、第一大隊が三里庄南方高地に進撃するも、甚大な損害を受けた歩三十六は遂に転進、第一・第二大隊は収容にあたります。

19日、師團左翼隊(歩七主力)もまた盤龍山東・西堡塁に突撃しますが敵銃砲火に戦力は半減し進撃は遅滞します。
21日、第三大隊は呉家房西方谷地に前進、歩三十五とともに盤龍山東堡塁に突撃しますが敵銃砲火に阻まれ大隊長・山本三郎少佐が散華する等大損害を受けてしまいます。
22日、歩七は第三大隊、歩三十五、山砲九、工九の支援のもと突撃を開始、激戦ののち東堡塁の突角を攻略、後備歩八の増援を受け遂に東堡塁を攻略、堡塁確保のため聯隊から第五・第六中隊が抽出され、両中隊は師團命令により敵機関銃掃射に大損害を受けながらも西堡塁を攻略するも、敵の度重なる逆襲を受け損害が増加、23日、前進攻撃は中止され、盤龍山東・西堡塁の守備にあたります。
27日、軍隊区分変更により聯隊は盤龍山守備隊に部署され、敵の激烈な銃砲火、数度の逆襲を受けながら本部・第一・第三大隊は東堡塁、第二大隊は引き続き西堡塁の守備にあたります。

9月9日、第三大隊は右翼隊に加わり龍眼北方堡塁攻撃作業の後、師團予備隊に部署されます。

17日、第二回総攻撃が下令、第二大隊は右翼隊、第一・第四中隊は左翼隊に部署され、龍眼北方堡塁に前進、19日、重砲の準備射撃の後、第二大隊は突撃を開始しますが敵機関銃掃射を受け進撃は遅滞、聯隊長・服部直彦中佐は第一・第三大隊を率い右翼隊に加わり夜襲を決行するも敵の銃砲火に阻まれ奏功せず、20日、攻撃拠点陣地に転進します。
9月9日、聯隊主力は盤龍山とニ龍山の中間谷地の守備にあたります。

10月16日、第一大隊はニ龍山中腹散兵壕突撃隊として前進、ニ龍山中腹散兵壕を攻略、第三大隊は松樹溝東北高地の散兵壕を攻略、攻撃拠点陣地を構築します。
26日、聯隊は第二大隊を主力、第一・第三大隊を援護部隊とし二十八珊砲、重砲の準備射撃の後、ニ龍山斜堤散兵壕に突撃、敵銃砲火に大損害を受けながらも攻略、29日、ニ龍山堡塁攻撃を準備しますが、敵の激烈な逆襲を受け攻撃準備は遅滞、31日、総攻撃は中止され、聯隊は歩三十六とともに攻撃準備作業にあたります。

11月25日、総攻撃が下令され、26日、聯隊は第一大隊を突撃隊、第二大隊を予備隊としてニ龍山堡塁に、第三大隊を同堡塁右側背、及び盤龍山第三砲台に突撃を開始、敵の激烈な銃砲火を受けながら堡塁外壕破壊作業にあたり胸墻を目指しますが、聯隊長・服部中佐が散華する等大損害を受け、27日、攻撃は中止され、歩三十六第三大隊と交替し転進、聯隊主力は右翼隊予備、第三大隊ニ龍山堡塁-盤龍山北堡塁中間谷地の攻撃陣地守備にあたりつつ、次期攻撃準備作業にあたります。
12月3日、第一大隊は師團予備となり東八里庄鉄道橋付近に移駐し胸墻爆破作業にあたり、4日、各聯隊はニ龍山堡塁に対し坑道作業を開始、27日、坑道5条が完成します。
12月24日、聯隊は特別中隊(加納大尉、175名)の1個中隊、第三大隊を突撃隊、第六中隊を牽制隊に部署、28日1004、工九によりニ龍山堡塁胸墻が爆砕、重砲の準備射撃ののち、第三大隊は突撃を開始、敵銃砲火に損害を受けながらも爆破孔を突破、敵軽砲線を攻略、続いて聯隊長・山田良水中佐は軍旗とともに大隊に続行、1620、歩三十六とともに重砲線を攻略、1950、ニ龍山堡塁を攻略し、守備にあたります。
12月18日、第十一師團が東鶏冠山北堡塁を攻略します。
31日、第一師團の松樹山堡塁攻撃の援護として烏帽子山の攻略を下令されますが、偵察準備中に第四・第六中隊が独断で同山を攻略、損害を出しながらも敵の逆襲を撃退、同日、第一師團が松樹山堡塁を攻略します。

明治38(1905)年1月1日、第十一中隊が盤龍山第三砲台の北方高地、続いて第三大隊が同砲台を攻略するなか、旅順要塞司令官ステッセル中将が我軍に降伏を申し入れ、旅順要塞は陥落、2日、開城規約が調印され、13日、旅順入城式が挙行されます。
3度に及ぶ旅順要塞攻撃による聯隊の損害は聯隊長・服部中佐以下762名散華、2,327名負傷でした。

28・29日、第三軍は北上を開始、聯隊は列車輸送にて遼陽に前進、30・31日、集結、金山屯付近に前進します。
2月27日、第三軍は滿洲軍の左側より敵後方に迂回すべく渾河-遼河間地区に進撃を開始、27・2日、8聯隊は大蓮花泡に進撃、3月1日、第二大隊は師團とともに四方台を攻略、2日、彰駅站に前進、第三大隊は付近に先行した歩三十六第一中隊の増援に向かい会敵、聯隊は救援に出動し敵を撃破し付近を占領します。
4日、揚士屯付近で頑強な陣地に拠る敵と交戦、師團の大石橋方面への転進に伴い、戦線を第八師團に移譲し、7日、造化屯において優勢な露軍を撃破、8日、露軍が撤退(奉天会戦)を始め、退路遮断にあたる第三軍戦線に侵攻してきたため、聯隊は小辛屯において敗敵を撃破、10日、虎石台に進撃し歪樹子の敵攻撃中、滿洲軍により奉天城が攻略されたため、聯隊は追撃に移り、13日、何家咼泡に進撃戦力回復にあたり、5月4日、三眼井に移駐、9月5日、講和条約が締結され、16日、休戦、10月16日、戦役は終結します。
明治39(1906)年1月11~16日、聯隊は敦賀に凱旋します。

明治41(1908)年11月1日、第十九聯隊は第十六師團(山中信儀中将、京都)に隷属転移します。

明治42(1909)年6月12日、第十中隊は清國に派遣、天津駐屯歩兵隊に編入されます(明治43年6月29日、帰還)。
明治44(1911)年4月1日、第十一中隊は朝鮮に派遣、臨時朝鮮派遣歩兵聯隊に編入されます(大正2年4月29日、帰還)。
大正5(1916)年4月1日、第一中隊は新設歩兵第七十八聯隊の編成要員として朝鮮龍山に転出します。

大正8(1919)年3月1日、第十六師團に滿洲駐箚が下令、23日、聯隊は先発隊(藤井邦太郎大尉以下50名)を先行させ、

4月17日、聯隊主力は兵営を出発し、敦賀港を出航、21日、大連に上陸、24日、聯隊主力は鉄嶺、25日、第三大隊は遼陽の警備にあたるなか、7月21日、寛城子事件(支那軍による邦人殴打事件に端を発した軍事衝突)が発生、第一大隊は長春に派遣され兩角支隊(歩兵第十八旅團長・兩角三郎少将)に編入、警備にあたり、8月11日、聯隊に復帰します。
大正9(1920)年4月19日、第二大隊は鉄嶺を出発、20日、寛城子に移駐、警備にあたり、12月13日、鉄嶺に帰還します。
9月12日、第三大隊は遼陽を徹し鉄嶺に移駐、警備にあたります。
10月13日、聯隊(第三大隊主力)に間島出動が下令され、23日、鉄嶺を出発、間島の警備にあたり、12月6日、鉄嶺に帰還します。
12月4日、寛城子守備隊の編成が改正され、12日、第二・第三大隊より守備隊要員74名が抽出され寛城子に移駐、大正10(1921)年4月12日、聯隊は鉄嶺を出発、19日、敦賀に帰還します。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発災、10月4日、雨森耕三軍曹以下27名が關東震災地補助憲兵として派遣され、治安維持にあたります。

大正14(1925)年5月1日、再び第九師團(伊丹松雄中将、金沢)に隷属転移します。

昭和2(1927)年9月28日、第九中隊(難波元吉大尉)は支那駐屯軍臨時増加部隊として敦賀を出発します。
昭和3(1928)年4月、北上する蒋介石軍より居留民を保護すべく、26日、中隊は臨時済南派遣隊(小泉中佐)に編入され天津を出発、邦人民家を略奪中の支那軍を掃討(済南事件)、13日、第六師團と交替し、天津に帰還します。

昭和6(1931)年6月7日、第二中隊(笠克己大尉)は北支駐屯部隊として敦賀を出発、天津に派遣されます。
11月8日、救国軍と称する反日団体が天津市街地を襲撃、日本租界に侵攻して来たため、中隊は中地區警備隊として暴徒を撃退し警備にあたります。
26~29日、支那軍が天津に来襲するも、撃退します。

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府一九路軍(蔡廷楷、第六〇・六一・七八師、33,000)が発砲した事から上海事變が勃発します。

2月2日、第九師團、混成第二十四旅團(第十二師團歩兵第二十四旅團基幹)の派遣が決定、同日、聯隊に応急動員下令、7・8日、逐次敦賀を出発し広島に集結、10日、宇品を出航、14日、上海に上陸、16日、聯隊は師團先頭として閘北に移駐、上海海軍特別陸戰隊とともに守備にあたります。
17日、警備責任は陸軍に移譲され、聯隊は第一大隊を左地區隊、第二大隊を中地區隊、第三大隊を右地區隊、第五中隊は聯隊予備、第十一中隊は旅團予備として女学校に配置し守備にあたり、18日、第九中隊正面に来襲した支那軍50を撃退します。

17日、臨時上海派遣軍参謀長(支那公使館付武官)・田代皖一郎少将は支那軍との交戦を避けるべく、支那一九路軍参謀・范其務と数回に渡り会見しますが、我が国を侮蔑する范其務に誠意が無く奏功せず、18日2100、最後通牒として共同租界より20kmの線外へ撤退する事を要求します。
対して蔡廷楷は隷下部隊に我軍の殲滅を下令したため、19日0800、師團長・植田謙吉中将は総攻撃を下令します。
20日、師團右翼隊の第六旅團は江湾鎮の敵陣に攻撃を開始しますが敵銃砲火に損害が増加、聯隊は海軍に警備を移譲し旅團増援のため進撃、方潟、邸家宅、韓家濱の線を攻略、21日、師團命令により新たに師團右翼隊に部署された第十八旅團に復帰します。
同日、混成第二十四旅團の攻撃が進展したため、聯隊は同旅團の左側に連携、斎家宅、呉家宅の線に前進、25日、航空直協、砲兵の準備射撃の後、攻撃前進を開始、田園東方陣地を攻略、混成旅團、歩三十六と連絡のため前進を停止し陣地を増強、聯隊は第二大隊を残置し師團予備として天楽寺に集結、27日、歩七が大損害を受けながらも江湾鎮を攻略します。

28日、聯隊は師團左翼隊(第六旅團長・前原宏行少将)指揮下に編入され斎家宅に集結、29日、労働大学、周家宅を攻略しますが虹口クリークに阻まれ進撃は遅滞します。
3月1日、上海派遣軍司令部(白川義則大将)が呉淞に、第十一師團が七了口に上陸、第三次攻撃が下令され、聯隊はクリークを迂回、江湾鎮西側に集結し歩七左側に連絡し渡河、巍村橋西端に進撃、2日、揚家宅、馬橋の敵を撃破、敗敵を追撃し西銭塘、大張宅、3日、真茹を攻略し、守備にあたります。

5月5日、停戦協定が成立、11日、師團に復員下令、21日、聯隊主力は上海を出航、27日、敦賀に、第一大隊は24日、出航、31日、敦賀に凱旋します。

6月26日、天津より第二中隊が帰還します。

昭和10(1935)年6月、第九師團に満洲駐剳が下令、聯隊は敦賀を出発、大連に上陸、鉄嶺の警備にあたり、9月末、哈爾浜に移駐、賓江省各地に分屯し警備にあたり、昭和12(1937)年5月、敦賀に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、9月9日、聯隊に動員下令、第九師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、28日、呉淞に上陸、クリークに阻まれ大損害を受けながらも南梅宅、北梅宅、陳家行を攻略します。
11月5日、第十軍(柳川平助中将)が抗州湾に上陸すると支那軍は敗走を開始します。
11日、上海において内地からの補充兵を加え戦力を回復します。

15日、聯隊は師團とともに進撃を開始、19日、師團主力として蘇州河の敵前渡河に成功し蘇州の警備にあたり、26日、第一大隊は追撃隊(歩兵第十八旅團長・井出宣時少将)に編入され蘇州、常州間の敗敵を追撃、12月2日、金壇を突破、同日、第九師團に支那国民党政府の首都・南京攻略が下令され、上海派遣軍(朝香宮鳩彦王中将)戦闘序列に編入されます。

12月5日、師團主力は南京へ進撃を開始、8日、聯隊は師團主力を追求、七里崗において師團に復帰、左翼隊(歩兵第十八旅團長・井出宣時少将)に編入(第二大隊は軍予備隊に)、第一線に部署され、同日、上坊門に進撃、9日、同門を突破し追撃に移行、10日、燕子根を攻略、支那軍の逆襲に苦戦しつつ、武定門東側の要所・雨花台に進撃、12日、第百十四師團が雨花台に到着した事により、聯隊は師團命令により防空學校付近に集結します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、午前5時、歩三十六は遂に光華門を攻略し城内に突入、聯隊は歩三十六に続き入城し、13日、残敵掃討を完了します。

昭和13(1938)年1月5日、崑山に移駐、太湖以東の警備にあたります。

2月14日、師團は新設された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、4月7日、大本營は支那第五戦区軍(李宗仁、60万)を包囲殲滅すべく徐州作戰を下令、5月5日、中支那派遣軍は第九師團に前進を下令、聯隊は師團とともにに北上しますが、支那軍が徐州を放棄し撤退してしまいます。

5月下旬、太湖に帰還、警備にあたり宣興に屯営、8月22日、第九師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、武漢作戰に参加、11月11日、岳州を攻略します。
昭和14(1939)年6月15日、敦賀に凱旋します。

昭和15(1940)年9月、第九師團は大陸命百六十二號により滿州への移駐が決定、10月5日、聯隊は編成改正完結、17日、滿州國穆稜に到着、警備にあたるとともに対ソ聯との戦闘に備え訓練を実施します。

昭和19(1944)年6月20日、沖縄防衛のため第九師團に動員下令、第三十二軍(渡邉正夫中将)戦闘序列に編入され、7月12日、聯隊は沖縄県那覇に上陸します。
古豪・第九師團は士気も高く、戦力も充実、最精鋭師團として絶大な信頼を受け、第三十二軍の中核を担うべく島尻(糸満、豊見城)地区に配置され、築城を開始、敵上陸部隊撃砕を目指し訓練にあたります。

10月20日、米軍がレイテ島に上陸を開始、大本營は捷一號作戰捷を発動、11月17日、第九師團は第三十二軍から抽出され比島方面への転用が決定し、12月30日、台湾に移駐します。

第九師團の抽出により第三十二軍は作戦計画を根底から改め、積極撃滅策から戦略的持久策に転換せざるを得ない状況となります。

師團の台湾移駐時、我が国は既に比島方面の制空、制海権を喪失、輸送は困難な事から師團は台湾防衛にあたります。

台湾移駐後、聯隊は新竹州竹南北部に配置、台湾海峡正面の防衛を担当、1月5日、防御陣地の築城を開始、敵上陸に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月1日、聯隊長・露口同中佐は第十方面軍司令官・安藤利吉大将に軍旗を奉還、3日、臺北帝國大學付属農場において他の在台湾各部隊の軍旗とともに奉焼されます。

昭和21(1946)年1月下旬、復員完結します。

古豪・第九師團は士気、練度も高く、装備品も充実、国軍の中でも最精鋭を誇りますが、その真価を一度も発揮しないまま停戦を迎えます。


歩兵第百十九聯隊(安一〇二〇、中部第三十六部隊)
昭和12(1937)年8月20日、歩兵第十九聯隊留守隊に臨時動員下令、、30日、宮中において軍旗を拝受、9月3日、動員完結(石田金蔵大佐)、第百九師團(山岡重厚予中将、金沢)隷下の歩兵第百十八旅團(本川省三少将、敦賀)に配属されます。

師團は北支那方面軍戦闘序列に編入され、聯隊は敦賀を出発、9月19日、中華民国河北省長辛店に到着、啄県の警備にあたり、10月4日、天津に移駐、19日、塩山に移駐、11月13日、武定に移駐、昭和13(1938)年1月24日、済南に移駐、津浦線沿いに支那国府軍を撃破・追撃、黄河の奇襲渡河を敢行し、作戦終了後は山西省の警備、共産匪族の討伐を実施します。
昭和14(1939)年12月14日、青島を出航、16日、門司に上陸、昭和15(1940)年1月11日、敦賀に凱旋、復員完結し軍旗を奉還します。

昭和15(1940)年7月20日、歩兵第十九聯隊に編成下令、10月5日、歩兵第百十九聯隊の編成完結(谷口呉郎大佐)、第五十二師團(草場辰巳中将、金沢)隷下の歩兵第百十八旅團(本川省三少将、敦賀)に配属され、12月4日、軍旗を再拝授します。

昭和16(1941)年10月1日、第五十二師團から新設された第五十三師團(馬場正郎中将、京都)に隷属転移します。

昭和18(1943)年11月19日、聯隊に臨時動員下令、12月13日、動員完結(淺野庫一大佐)、15日、饗庭野陸軍演習廠舎に移駐、南方作戦に備え訓練を実施します。

昭和19(1944)年1月15日、聯隊は第二大隊を残置し師團第三梯團として大阪港に集結、18日、三池丸、能登丸に分乗し大阪港を出港、29日、昭南島(シンガポール)に上陸、2月8日、昭南島を出発、14日、マラッカに移駐し警備にあたります。
3月15日、師團は第二十九軍戦闘序列(石黒貞蔵中将)に編入されます。
20日、第三大隊はセンビラン諸島の匪賊討伐にあたります(4月2日まで)。
28日、第二大隊は師團第四梯團として宇品港を出航、4月17日、昭南島に上陸します。
4月20日、重火器部隊(第一大隊長・野中正雄少佐指揮)はクアラルンプールを出発、空路にてビルマに前進、緬甸方面軍指揮下に編入されます。

4月15日、師團はビルマ方面作戦参加を下令され、緬甸方面軍戦闘序列に隷属転移、5月3日、聯隊はタンピンに集結、4日、列車にて前進を開始、12日、泰國-緬甸国境を越えた際に緬甸方面軍戦闘序列に隷属転移します。
6月2日、第二大隊は昭南港を出航、6日、サイゴンに上陸、聯隊主力を追及します(7月24日、復帰)。

6月4日、聯隊はマンダレーに到着、第五十三師團に復帰し北上を開始、第一大隊は第三十三軍指揮下に編入されラシオに進出、支那-ビルマ国境守備にあたる第五十六師團(松山祐三中将、久留米)の増援として龍陵に前進します。

26日、聯隊主力はサーモに到着、モガウン東方のパッポクを確保し、フーコンより転進中の第十八師團(田中新一中将、久留米)、歩兵第百二十八聯隊(岡田博二大佐、京都)を収容、7月7日、追撃してきた英軍を拒止します。

8日、聯隊はサーモ河畔への転進を下令され、第十中隊1個小隊をサーモ西方2kmの三叉路に配置、主力によりサーモ河畔において航空機、火砲を伴い追撃してきた英軍を拒止しますが、8月5日、敵の激烈な空襲、砲撃により聯隊は大損害を受け、6日、師團命令により第十中隊を残置しピンボウに転進、7日、第二大隊を前進陣地タイクワゴン、主力を主陣地ピンボウ-インジゴンに配置します(斷作戰)。
12日、聯隊陣地に英軍が侵攻、優勢な敵の攻撃に前進陣地を失陥、25日、敵は航空機、火砲を投入して来たため聯隊の損害は増加しますが、連日の夜襲により敵の侵攻を拒止、師團主力の第二線陣地への転進を容易にします。

27日、師團命令により聯隊は第五中隊をナムクイン、第七中隊をアランボに残置しモーハンに転進、9月4日、同地に到着し陣地占領します。

10月15日、師團は米・英・支・印からなる連合軍の侵攻拒止(盤作戰)のため、モーハン以南、ミイトキーナ沿線において縦深反撃陣地を築城すべく、モーハンの守備を歩百二十八に交替し、聯隊にピンウエ付近への転進を下令、19日、聯隊は第二大隊を前進陣地としてモール、主力をピンウエに配置します。
10日末、敵はモールに侵攻、敵の侵攻を遅滞させつつ大隊はピンウエに転進、聯隊は敵の激烈な攻撃を受けながらも侵攻を拒止します。
11月12日、敵は聯隊陣前に円筒陣地を築城し拠点化したため、14日、聯隊は攻勢に転移しますが、敵の堅陣に攻撃は頓挫、聯隊長・淺野大佐は攻撃方向を転換、2日間に渡り敵後方に進撃し敵の補給路を遮断、敵の撃退に成功します。
28日、聯隊は師團命令によりナバ、30日、テジャインに転進、12月5日、イラワジ川を渡河しミヤダンに転進、17日、タガウンに集結し、第二大隊を師團直轄に抽出、昭和20(1945)年1月8日、マンダレーに到着します。

11日、シング方面の戦況急迫に伴い聯隊(第一・第二大隊欠)は自動車輸送により北上、獨工二十、第十五師團工兵隊の各1個小隊を配属され、第十五師團(柴田夘一中将、京都)の指揮下に編入、シング支隊としてシング南側地域に布陣し敵の渡河阻にあたります。
14日、英印軍はイラワジ川を強襲渡河、第十五師團歩百五十一、歩六十八の間隙を突いてシング北方のナベインに上陸、歩百五十一が奪還に向かいますが逐次兵力を増加した敵の逆襲を受け攻撃は頓挫します。

22日、第十五師團は聯隊に要所・クレ北方高地の奪還を下令、23日夜間、第三大隊は師團砲兵の支援射撃の後、高地南側より攻撃を開始、払暁には高地中腹の黒パゴタまで進撃しますが、築城不能な岩山で遮蔽物が無いため激烈な英印軍の砲撃を受け損害が増加、止むなく東北方高地に転進します。
24日、第三大隊は砲兵支援無しの奇襲を企図し再度攻撃するも敵銃砲火に損害が増加、25日夜間、歩百二十八小阪大隊の増援を加え、砲兵支援のもと聯隊全力で夜襲を敢行、クレ北方高地の一角を奪還しますがまたも英印軍の逆襲を受け損害が続出、攻撃は頓挫してしまいます。

2月3日、龍陵より第一大隊が聯隊に復帰します。

7日、クレ高地の英印軍が攻勢に転移、航空機、火砲の支援下、戦車を伴いにクレ集落に南下、聯隊第一線は突破され集落に侵入を許してしまいます。

聯隊は一部をクレ東北高地に残置、集落を奪還すべく夜襲を敢行しますが、天明とともに敵は航空機、火砲、戦車、歩兵を増強し逆襲に転じ聯隊は損害が増加、戦闘指揮中に負傷した聯隊長・淺野大佐は軍旗を後退させると、同じく重傷を負った第一大隊長・野中少佐とともに爆薬を抱いて敵戦車に体当たりを敢行し散華、クレ東北高地も敵の侵攻を受け失陥してしまいます。

9日、師團直轄、次いで第十五師團指揮下にあった第二大隊がクレ付近に到着、軍旗、聯隊の生存者を収容、9日、師團命令により転進し、10日、シンガーに布陣、12日、さらにシュエレ、カンパに転進、ジビゴン、インマ湖付近に布陣し南下してくる英印軍の拒止にあたります。
3月1日、メイクテイラ方面の戦況急迫に伴い聯隊は第十五師團指揮下を離れ第十五軍直轄となり、自動車輸送により、3日、マンダレーに到着、第十八師團の進出援護にあたります。
6日、第十八師團(中永太郎中将、久留米)の進出とともに聯隊は同師團指揮下に編入されメイクテーラ飛行場奪還作戦に参加、第三大隊は師団直轄としてマンダレー西方高地を確保、聯隊主力はアマトエ飛行場を経てターパンを攻略しマンダレー道上4kmに攻撃陣地を築城します。
15日、シャンデに転進、メイクテイラ東飛行場北側に進撃し、敵の飛行場使用を阻止するとともに対戦車陣地を築城、23日、新聯隊長・芳賀芳男大佐が着任、連日に渡り激烈な逆襲を受けますが、肉迫攻撃(敵戦車への体当攻撃)等により敵戦車数十両を撃破し東飛行場の封鎖に成功します。

29日、師團命令により聯隊はサジ東方、次いでヨゾンに転進、第三十三師團(田中信男中将、仙台)の補給路打通、及び確保にあたり、7日、ラインデに転進、第三十三軍直轄となり、敵戦車の侵攻を拒止すべくマゴジンに急進、4月13日、ジゴン北方において第十八師團指揮下に編入されマンダレー本道上-シンテ河の線、ヤメセンにおいて敵の侵攻を拒止、軍主力の収容にあたります。
18日、ピンマナに移駐、敵の侵攻を拒止、第十八師團、第四十九師團(竹原三郎中将、京城)の収容にあたり、第五十五師團(花谷正中将、善通寺)の到着により同師團の指揮下に編入、22日、師團命令によりエラに転進、24日、シッタン河を渡河し、左岸地区を南下、25日、モチ街道北方に集結、29日、同街道8km地点において第五十三師團に復帰します。
4月30日、シュエンジに向かい南下、モン河付近で第一大隊は師團直轄先遣隊となり、5月11日、シュエンジ北側に転進します。
17日、師團の転進に伴い第二大隊は師團直轄となりザウデキュンコン、ウインカネ、聯隊主力はビインガンに布陣、28日、聯隊主力は師團左翼隊としてシッタン河左岸地区アカイクに前進、一部を対岸オポに配置します。
30日、第一大隊を師團直轄としてイワレに残置、主力はザロギに前進し築城、6月16日、歩百二十八の到着に伴い守備を移譲、再びアカイクに布陣します。

6月30日、、聯隊は師團命令によりアカイクを出撃、敵機の機銃掃射を受けつつシッタン河を渡河しオポに上陸、湿地帯を夜間機動により踏破しバカンに進撃、7月3日、敵砲撃下、ボンパンアナウクを攻略、敵の逆襲を撃退しミイチョに拠る英印軍の退路を遮断します。
同日、師團命令により転進を開始、一部をタンゴン、オポに配置し、6日、主力はアカイクに復帰します。
13日、第一大隊を残置、聯隊主力は歩百二十八第三大隊を配属され、ドンゼーク対岸を掃討、23日、タパンセークにおいて第二大隊が復帰、第三大隊をシュエンジに前進させ、第二十八軍(櫻井省三中将)を収容するなか、23日、停戦を迎えます。

29日、聯隊はウインガンに移駐を開始、31日、集結を完了、9月18日、トネンズに移駐し武装解除され、24日、タウンズ、26日、モパリンコリン、29日、パヤジーに移駐、収容所に入り使役され、11月1日、パヤジーからラングーン、アーロン収容所に移駐し、使役されます。

昭和21(1946)年6月23日、先発隊はラングーンを出航、7月10日、宇品に上陸、昭和22(1947)年6月19日、聯隊主力は熊野丸に乗船、ラングーンを出航、7月1日、宇品に入港、4日、上陸、5日、復員完結します。


歩兵第六十七聯隊(祭七三七一)
明治40(907)年10月9日、陸軍省は『陸軍平時編制表』を改定、歩兵第六十七聯隊の浜松への設置が決定します。
22日、聯隊長・江木精夫中佐が発令、近衞歩兵第四、歩兵第二、第三、第十八、第三十四聯隊より要員を抽出、26日、聯隊本部・第一大隊は歩十八兵営内(豊橋)、第二大隊は歩三十四兵営内(静岡)において事務を開始、12月1日、入営の新兵により第一、第二大隊の編成完結、明治41(1908)年3月、浜松に新築中の兵営の第一期工事が完成したため、25日、聯隊本部・第一大隊は豊橋を出発、24日、第二大隊は静岡を出発、26日、浜松駅に集結し、新兵営に移駐します。
5月8日、宮中において軍旗を拝受、11月1日、第十五師團司令部(平佐良蔵中将、豊橋)が編成完結、聯隊は師團隷下の歩兵第二十九旅團に配属され、12月1日、第三大隊が編成され、聯隊の編成が完結します。

大正3(1914)年8月23日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、9月26日、歩兵第二十九旅團に臨時編成下令、10月5日、浜松を出発、7日、聯隊は歩三十四とともに大阪港を出航、10日、栄城湾に入航、11日、聯隊主力は攻城戦力、第三大隊は鉄道警備に部署され、上陸を開始、敵陣地を攻略しつつ前進、29日、青島要塞への攻撃を開始、11月7日、遂に要塞を占領します。
12月16日、沙子口港を出航、27日、浜松に凱旋します。
大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)のため歩兵第六十七聯隊は第十五師團とともに復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、4月、歩兵第十九聯隊留守隊において歩兵第六十七聯隊が編成され、第十五師團(岩松義雄中将、京都)隷下に編入され、7月、宮中において軍旗を再拝受、8月、敦賀に出発、大阪港より出航、11日、上海に上陸、南京に進出し警備にあたります。

9月、師團とともに句容県内の討伐、11月、蕪湖地区内の討伐にあたります。
11月10日、第三大隊は高品支隊(歩六十聯隊長・高品彪大佐)指揮下に編入され武漢作戰に参加します。
12月、聯隊は六合、天長県城を攻略します。

昭和14(1939)年10月、高郵作戦を実施、昭和15(1940)年2月、郎渓漂陽作戦に参加、4月、春季皖南作戦、宜城作戦に参加します。

昭和15(1940)年5月、第二次竹鎮集討伐を実施、第二、第三大隊は赤山周辺地区の討伐を実施します。
6月、第三大隊は第十七歩兵團指揮下に編入され宜昌作戦に参加します。
9月、三河作戦に参加、第二大隊は秋季唐盤作戦に参加します。
10月、江南作戦に参加します。
11月、第二大隊は第百十六師團の指揮下に編入され北部濤陽作戦に参加、11月、聯隊は漢水作戦に参加します。

昭和16(1941)年1月、第二大隊は江浦地区進駐討伐を実施、続いて予南作戦、4月、巣湖南方作戦に参加し、江北地区の警備にあたり、5月、江岸作戦に参加します。
7月、第一・第二大隊の一部は合山付近の討伐を実施、8月、引き続き皖江作戦に参加、10月、聯隊は江陰、次いで江蘇省松江に移駐、12月、第二大隊は第二次長沙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月、聯隊は京漢沿線地区掃討作戦、武灘周辺粛清討伐に参加、4月、南京に帰還、第二・第三大隊は折贛作戦に参加、昭和18(1943)年2月、安徽省巣県に移駐し警備にあたり、3月、巣湖南岸地区討伐を実施します。

4月、軍令陸甲第二十二號により編制改正します。

5月、聯隊は南京に集結、6月、第十五師團(山内正文中将)は第十五軍(牟田口廉也中将、ビルマ)戦闘序列に編入、8月、上海に集結の後、呉淞を出航、9月、サイゴンに上陸し警備にあたり、10月、バンコクに前進、1s1月、タイ北部チェンマイに進出し、チェンマイ-トングー間の道路建設にあたります。

昭和19(1944)年1月、チェンマイを出発、2月、ウ號作戰(インパール作戰)準備のためビルマに進出します。

聯隊主力は第十五軍直轄となり、3月15日、第三大隊は本多挺進隊(第三大隊長・本多宇喜久郎大尉)として第十五師團とともにチンドウィン川の渡河に成功します。
挺進隊は師團の最右翼に部署されアラカン山脈を踏破、27日、コヒマ-インパール街道に前進、28日、ミッション付近で橋梁、電線を破壊し、コヒマ-インパール間の敵連絡線を遮断します。
ミッションを攻略した挺進隊にインパール進撃が下令され、挺進隊は急進しますが前線の戦局が急迫、インパールに10数キロと迫った地点で前進中止命令を受領、歩兵第六十聯隊(松村弘大佐、京都)とともにインパール北方高地に陣地築城し英印軍の侵攻を拒止します。

4月、軍直轄となっていた聯隊主力はビルマ領内に侵入したウィンゲート空挺旅團の掃討作戦を終了し軍直轄を解かれ、インパールへ進撃、5月8日、第十五師團に復帰します。

6月10日、要地・三五二四高地に対し攻撃を開始するも、英印軍の激烈な銃砲火、逆襲を受け損害が増加します。
補給の途絶、雨期の到来、英印軍の本格的な攻勢転移により第十五軍の戦線は急迫、7月2日、ウ號作戰の中止に伴い、聯隊はウクルル、さらにチンドウィン河畔まで大損害(戦死883名、戦病死661名、行方不明約300名)を受けながら転進します。

10月、米・英・支・印からなる連合軍をイラワジ河畔で拒止すべく盤作戰、次いでイラワジ会戦が開始されますが、戦力回復ができない状態で師團とともに参加、甚大な損害を受けてしまいます。
昭和20(1945)年4月、克作戦に参加、8月、ビルマ南部モールメンを出港、泰國パンポンに転進、警備にあたるなか停戦を迎えました。


歩兵第四百四十一聯隊(護京二二六五三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、4月10日、京都師管區歩兵第二補充隊により臨時動員(松本昌次大佐)、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

4月8日、軍令陸甲第三十四號に基づき、留守第五十三師團司令部により編成された沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豐二郎中将、京都)に隷属しました。

聯隊は師團の作戦地である愛知県渥美半島に進出、伊勢湾の沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第四百四十三聯隊(護京二二六五五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、4月28日、京都師管區歩兵第二補充隊により臨時動員(山本信輝大佐)、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

4月8日、軍令陸甲第三十四號に基づき、留守第五十三師團司令部により編成された沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豐二郎中将、京都)に隷属しました。

聯隊は師團の作戦地である愛知県渥美半島に進出、伊勢湾の沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第五百二十三聯隊(比叡一〇二四五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、6月10日、京都師管區歩兵第二補充隊により臨時動員(平井重文大佐)され、11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月23日、軍令陸甲第六十一號に基づき、京都師管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、京都)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である熊本県宇土町に進出、熊本平野において沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎え、9月23日、復員完結します。


歩兵第三百五十一聯隊(山城二八二二九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、8月15日、京都師管區歩兵第二補充隊に編成が下令(堀田俊大佐)されます。

5月23日、軍令陸甲第八十四號に基づき京都師管區司令部において編成された沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、京都)に隷属します。

聯隊は逐次、師團の作戦地である神奈川県伊勢原、平塚に移動し、相模湾の防御を準備中に茅ヶ崎において停戦を迎え、8月30日、復員完結します。


歩兵第三百六十四聯隊(積二八二四五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、京都師管區歩兵第二補充隊に編成が下令(竹之内繁男大佐)され、7月12日、宮中において軍旗を拝受します。

昭和19(1944)年4月4日、留守第五十六師團(久留米)を改編した機動打撃師團である第八十六師團(芳仲和太郎中将、久留米)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である鹿児島志布志湾沿岸に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月28日、復員完結します。


歩兵第三百五十聯隊(山城二八二二八)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、8月15日、京都師管區歩兵第二補充隊に編成が下令(高村慶之輔大佐)されます。

5月23日、軍令陸甲第八十四號に基づき京都師管區司令部において編成された沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、京都)に隷属します。

聯隊は逐次、師團の作戦地である神奈川県伊勢原、平塚に移動し、相模湾の防御を準備中に茅ヶ崎において停戦を迎え、8月30日、復員完結します。


主要参考文献
『敦賀市史 通史編下巻』 (昭和63年3月 敦賀市史編さん委員会)

『歩兵第十九聯隊史』 (昭和10年5月 歩兵第十九聯隊)

『歩兵第六十七聯隊史』 (大正8年5月 帝國聯隊史刊行會)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』 (昭和53年10月 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

アジア歴史資料センター 各種史料
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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