当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第一飛行集團司令部 (のち第五十一教育飛行師團司令部、第五十一航空師團司令部)

戦国時代、長篠の合戦の要因となった奥平信昌が初代藩主で知られる岐阜県・加納城阯には第一飛行集團司令部がありました。
同司令部は後に第五十一教育飛行師團司令部、さらに第五十一航空師團司令部に改編されます。
第一飛行集團司令部 正門門柱 (7)(岐阜)
▲加納城阯に遺る正門門柱

【探索日時】
平成22年7月24日





遺構について ※青字は地図にリンクしています
第一飛行集團司令部
第五十一教育飛行師團司令部
第五十一航空師團司令部

岐阜県加納丸之内にある加納城阯の本丸内に司令部がありました。
当時の陸軍省通牒には「第一飛行集團司令部ハ、昭和十四年度岐阜縣各務原ニ移轉セラルル豫定ニ付キ、ソノ準備ニ着手セラレタク依命通牒ス。」となっており、各務原陸軍飛行場にあったと思われがちですが、当時この辺りも含め「各務原」と呼ばれていた事から混同されているようです。
また名称の似た第一飛行團司令部が各務原陸軍飛行場の北側にあった事も混同の一因と思われます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、航空兵團司令部が北支に派遣され、7月15日、内地に留守航空兵團司令部が編成されます。
昭和13(1938)年6月3日、留守航空兵團司令部は第一飛行集團司令部に改編され、昭和13(1938)年夏頃、加納城阯に庁舎が起工(昭和14年11月中旬説あり)、城跡南側に東西方向の軍用道路を敷設、本丸石垣の南北中央を開口し正門・通用門を設置、城南通り3丁目に集團長副官両官舎が新築されます。

昭和14(1939)年8月1日、第一飛行集團司令部は東京(陸軍航空本部内)から岐阜県の加納城本丸跡に竣工した新庁舎に移駐します。
第一飛行集團司令部 第一飛行集團司令部(昭和15年)(岐阜)
▲昭和15年、司令部庁舎前における増野周萬中将(最前列中央)と参謀部職員
司令部は参謀部、副官部(両部を合わせ幕僚部)、兵器部、経理部、軍醫部により構成されていました。

昭和17(1942)年4月13日、第一飛行集團は第五十一教育飛行師團に改編、昭和19(1944)年7月7日、我が国は絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、10月20日、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸、昭和20(1945)年1月9日、米軍がルソン島に上陸を開始、20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)の準備に入ります。

昭和20(1945)年2月13日、第五十一教育飛行師團は第五十一航空師團に改編され、全軍特攻化よる航空決戦の準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月26日、米第27歩兵連隊が各務原陸軍飛行場に進駐し軍施設を接収、第五十一航空師團司令部も接収され娯楽施設として転用されます。

12月末、石川愛中将以下数名が残務整理を終え復員完結します。
昭和31(1956)年10月、航空自衛隊臨時岐阜補給隊が各務原に移駐、一部が旧師團司令部に入り(諸説あり)、昭和37(1962)年11月30日、陸上自衛隊・第10対戦車隊が編成され、昭和50(1975)年3月1日、同隊の春日井駐屯地移駐に伴い敷地は岐阜市に返還され、昭和58(1983)年10月28日、本丸が国史跡に指定され現在に至ります。
第一飛行集團司令部 USA-R567-No1-175(221119)(岐阜)
▲昭和23年11月19日の司令部跡空撮(国土地理院 USA-R567-No1-175)
  中央の加納城本丸跡に建物が見えます。

第一飛行集團司令部 CCB7527-C12B-21(501006)(岐阜)
▲昭和50年10月6日の空撮(国土地理院 CCB7527-C12B-21)
  陸上自衛隊・第10対戦車隊が移駐した直後の司令部跡で、上掲空撮と
  比べると陸軍時代の建物が殆どそのまま転用されているのが分かります。

建物群がいつ破壊されたかは不明ですが、国土地理院の空撮写真を追って行くと昭和63年には既に更地になっている事から、昭和50年に陸上自衛隊が移転、城阯が岐阜市に返還された直後に破壊されてしまった様です。

第一飛行集團司令部 司令部 配置(岐阜)
▲第一飛行集團司令部 見取図(『中山道加納宿 第32号』所収)


遺構について
正門門柱
加納城阯(加納公園)の入口として使用されています。
第一飛行集團司令部 正門門柱(岐阜)
▲門柱両側の土留、石塀も当時の物と思われます。

第一飛行集團司令部 司令部庁舎(岐阜)
▲第一飛行集團司令部時代の門柱と庁舎

第一飛行集團司令部 正門門柱 (2)(岐阜)
▲東側の正門と袖門門柱

第一飛行集團司令部 正門門柱 (5)(岐阜)
▲西側の正門門柱には門札の跡が遺ります。

第一飛行集團司令部 正門門柱 (4)(岐阜)
▲西側の正門門柱

第一飛行集團司令部 正門門柱 上部門灯跡(岐阜)
▲正門頂部には門灯の配線孔が遺ります。

第一飛行集團司令部 正門門柱 (6)(岐阜)
▲内部から見た正門


通用門門柱
第一飛行集團司令部 通用門門柱(岐阜)
▲外側から見た通用門門柱

第一飛行集團司令部 通用門門柱 (2)(岐阜)
▲西側の門柱には門札の跡が遺ります。

第一飛行集團司令部 通用門門柱 (3)(岐阜)
▲正門同様に門柱両側の塀も当時の物と思われます。

第一飛行集團司令部 通用門東側のコンクリート構造物(岐阜)
通用門東側に詳細不明のコンクリート製遺構があります。


大東亜戦争開戦までの陸軍航空部隊概略
明治29(1896)年11月28日、明治二十七八年戰役(日清戦争)の教訓から鐡道大隊(鐡道2個中隊、電信1個中隊、陸軍士官學校内から中野)が創設(吉見精中佐、近衞師團長隷下)され、明治35(1902)年10月29日、大隊から電信中隊が分離独立し陸軍電信教導大隊が創設(陸軍省内から中野)されました。

明治38(1905)年10月、陸軍電信教導大隊内に氣球班が新設され、明治40(1907)年10月、氣球班は氣球隊に改編します。
明治40(1907)年12月1日、交通兵旅團が新設(千葉)、鐡道聯隊(10月9日、大隊から改編)、陸軍電信大隊、同氣球隊を隷下に編入します。
同旅團長は近衛師團長に隷属、交通兵部隊を指揮、教育しました。

大正4(1915)年1月30日、交通兵旅團は交通兵團に改編、近衛師團長に隷属し諸隊を統率、教育、軍紀、風紀、内務、経理、衛生、動員計画を統監しました。

12月14日、氣球隊は航空大隊に改編(有川鷹一大佐、所沢)され、我が国初の平時編制飛行部隊が創設されます。

大正6(1817)年12月1日、航空大隊は航空第一大隊に改編、同大隊内において航空第二大隊が新設されます。

大正8(1819)年4月10日、陸軍航空部(安滿欽一中将)が新設され航空に関する事項の調査研究、立案、航空兵諸隊の本科専門教育、航空に関する器材の製造、修理、購買、貯蔵、補給、検査を管掌します。
陸軍省は陸軍航空部の新設とともに、陸軍省軍務局に航空課を新設、大正9(1920)年8月、参謀本部は第三部第七課が分掌していた航空関係の事務を第一部第二課内に新設した航空班に移管します。

大正8(1819)年4月15日、交通兵團は復帰、鐡道聯隊、電信大隊は工兵監の隷下に編入、航空第一大隊は近衞師團長・、第二大隊は第三師團長隷下に編入されます。

大正13(1924)年までに
飛行第一大隊(第三師團隷下、岐阜県那加村)
飛行第二大隊(第三師團〃、岐阜県鵠沼村)
飛行第三大隊(第十六師團〃、滋賀県御園村)
飛行第四大隊(第十八師團〃、福岡県三輪村)
飛行第五大隊(近衞師團〃、東京府立川町)
飛行第六大隊(第二十師團〃、朝鮮平壌)
氣球隊(近衛師團〃、埼玉県所沢町)
が新設されました。

大正14(1925)年5月1日、陸軍航空部は復帰、陸軍航空に関する事項の調査、研究、試験、立案、航空兵諸隊の専門教育、航空に関する器材の審査、制式の統一、修理、購買、貯蔵、補給、検査を管掌する陸軍航空本部(安滿欽一 中将)が新設されました。

陸軍航空本部の設立に伴い、各飛行大隊は飛行聯隊に改編され、飛行第七聯隊(立川)、第八聯隊(大刀洗)が新設されました。

昭和5(1930)年1月、
飛行第一聯隊(戦闘4個中隊、第三師團隷下、各務原)
飛行第二聯隊(偵察2個中隊、第三師團〃、各務原)
飛行第三聯隊(戦闘3個中隊第十六師團〃、八日市)
飛行第四聯隊(偵察2個、戦闘2個中隊、第十二師團〃、太刀洗)
飛行第五聯隊(偵察4個中隊、近衛師團〃、立川)
飛行第六聯隊(偵察2個、戦闘2個中隊、第二十師團〃、平壌)
飛行第七聯隊(重爆2個、軽爆2個中隊、第三師團〃、浜松)
飛行第八聯隊(偵察1個、戦闘1個中隊、臺灣軍〃、屏東)
気球隊(気球2個中隊、近衛師團〃、千葉)
の編成改編が完了します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和7(1932)年1月28日、上海事變の勃発に伴い、滿洲に5個飛行中隊、上海に3個飛行中隊、1個飛行場大隊、1個氣球中隊が派遣されました。
上海派遣部隊は事変解決に伴い復員しますが、滿洲派遣部隊は昭和7(1932)年3月1日の滿洲國建国に伴い同国に3個大隊(9個中隊)と航空廠の設置が決定、滿洲派遣部隊に内地から派遣された3個大隊本部と4個飛行中隊を加え、6月、關東軍飛行隊關東軍野戰航空廠が關東軍司令官隷下に新設されました。

航空兵科の教育が複雑になり専門化してきたことに伴い、昭和13(1938)年12月10日、教育を管掌する陸軍航空總監部が設立されました。
航空總監は天皇に直隷し、航空兵科の教育を管掌、陸軍航空士官學校や航空関係各種学校を管轄、軍政・人事に関しては陸軍大臣、作戦・動員計画に関しては 参謀總長、教育に関しては教育總監の区処を受けました。

内地飛行部隊は各所属師團司令部の隷下にありましたが、飛行戦力強化のため内地、朝鮮、台湾、滿洲の航空部隊改編が行われ、昭和11(1936)年8月、飛行聯隊を統率する第一・第二・第三飛行團が新設、同時に飛行第九・第十四聯隊が新設されます。

飛行團はそれぞれ独立、統括する上級司令部は設置されませんでした。
第一飛行團司令部(儀峨徹二少将、各務原)
※昭和10(1935)年8月1日、第三師團司令部において編成
・飛行第一聯隊(各務原)
・飛行第二聯隊(各務原)
・飛行第七聯隊(浜松)

第二飛行團司令部(木下敏少将、朝鮮会寧)
※昭和11(1936)年8月1日、編成
・飛行第六聯隊(朝鮮平壌)
・飛行第九聯隊(朝鮮平壌)

第三飛行團司令部(値賀忠治少将、台湾屏東)
※昭和11(1936)年8月1日、編成
・飛行第八聯隊(台湾屏東)
・飛行第十四聯隊(台湾嘉義)

飛行第三聯隊(八日市)

飛行第四聯隊(太刀洗)

飛行第五聯隊(立川)

氣球隊(千葉)

昭和10年3月、關東軍飛行隊は關東軍飛行集團に、飛行第十二聯隊以外の飛行大隊が飛行聯隊に改編、また飛行第十五聯隊が新設されます。
關東軍飛行集團司令部(小笠原敏夫少将、新京)
・飛行第十聯隊(齊齊哈爾)
・飛行第十一聯隊(哈爾濱)
・飛行第十二聯隊(公主嶺)
・飛行第十五聯隊(新京)
・飛行第十六聯隊(牡丹江)

昭和10(1935)年8月、航空本部の編制改正に伴い、補給、技術部門が陸軍航空補給廠陸軍航空技術研究所として分立します。

昭和11(1936)年8月1日、内地・朝鮮・台湾の飛行部隊を統率する航空兵團司令部が編成されます。
航空兵團司令部(徳川好敏少将、東京)
 第一飛行團司令部(儀峨徹二少将、各務原)
  飛行第一聯隊(岐阜)
  飛行第二聯隊(岐阜)
  飛行第三聯隊(八日市)
  飛行第七聯隊(浜松)
  飛行第十三聯隊(加古川)

 第二飛行團司令部(木下敏少将、会寧)
  飛行第六聯隊(平壌)
  飛行第九聯隊(会寧)

 第三飛行團司令部(値賀忠治少将、屏東)
  飛行第八聯隊(屏東)
  飛行第十四聯隊(嘉義)
  飛行第四聯隊(太刀洗)

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月11日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。

7月15日、留守航空兵團司令部は近衛師團長(飯田貞固中将)の管理により東京で編成着手、堀丈夫中将が兵團長に着任し編成完結します。

7月15日、『臨参命第五十八號』により以下の部隊が
第一飛行團司令部
 飛行第一大隊(甲)
 飛行第二大隊(乙)
 飛行第三大隊(甲)
 飛行第五大隊(丙)
 飛行第六大隊(丁)
 飛行第八大隊(乙)
 飛行第九大隊(丙)

獨立飛行第三中隊(丁)
獨立飛行第四中隊(甲)
獨立飛行第六中隊(甲)
獨立飛行第九中隊(乙)

飛行場勤務第一中隊
飛行場勤務第二中隊

第九野戰高射砲隊
第十野戰高射砲隊
無線電信第八小隊
無線電信第九小隊
兵站自動車第一中隊 
第二野戰航空廠
※甲:偵察、乙:戦闘、丙:軽爆、丁:重爆
 他、臺灣軍、内地留守師團における動員は割愛

動員され、以上の部隊で臨時航空兵團(徳川好敏少将)が編成され、7月26日、支那駐屯軍(香月清司中将)隷下に編入(第三野戰航空廠を隷下編入)、北支展開の準備段階として滿洲に移駐、司令部を新京に設置し、隷下飛行部隊を奉天、山海関、大連間の地区に展開しました。

9月、北京、天津を確保した我が軍は南進を開始します。
8月31日、臨時航空兵團は支那駐屯軍戦闘序列より新設された北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に隷属転移、昭和13(1938)年1月、司令部を北京に前進させ地上部隊の直接協同任務にあたります。

昭和12年8月13日、蒋介石は上海郊外において我軍を一挙に撃滅すべく上海在留一般邦人に対し度重なる不法行為を行い挑発、邦人保護を任務とする我が海軍陸戰隊と戦闘が発生(第二次上海事變)します。
事變を解決すべく、我が政府は上海派遣軍(松井石根大将)、次いで第十軍(柳川平助中将)の上海派遣を決定します。

9月11日、臨時航空兵團に第四飛行團司令部と飛行第七大隊が増派されます。
上海派遣軍と第十軍は中支那方面軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、12月13日、中支那方面軍は中華民国首都・南京を攻略、昭和13(1938)年2月、大本営は北支-中支を連絡すべく除州の攻略を企図します。

臨時航空兵團は司令部を北京から南京に移設、また戦闘司令所を済南、九江、漢口と前進させ北支、中支方面で地上部隊を支援します(航空兵力に関しては北支方面は主に陸軍が、中支方面は海軍が担当します)。

臨時航空兵團
 第一飛行團司令部(儀峨徹二少将)・・・北支方面
  飛行第一大隊(偵察2個中隊)
  飛行第二大隊(戦闘2個中隊)
  飛行第五大隊第十二中隊(軽爆)
  飛行第六大隊(重爆2個中隊)
  飛行第七大隊(偵察2個中隊)
  飛行第九大隊(軽爆2個中隊)

 獨立飛行第一中隊(偵察)
 獨立飛行第三中隊(重爆)
 獨立飛行第九中隊(戦闘)

 第三飛行團司令部(値賀忠治少将)・・・中支方面
  飛行第三大隊(偵察2個中隊)
  飛行第五大隊第二中隊(軽爆)
  飛行第八大隊(戦闘2個中隊)

 獨立飛行第四中隊(偵察)
 獨立飛行第六中隊(偵察)
 獨立飛行第十中隊(戦闘)
 獨立飛行第十一中隊(軽爆)
 獨立飛行第十五中隊(重爆)

 第四飛行團司令部(藤田朋少将)・・・南支方面

昭和13(1938)年3月、臨時航空兵團の編制が改正され、8月、航空兵團に復称します。
6月4日、軍令陸第十號『飛行集團司令部令』に基づき、10日、内地、朝鮮、台湾の航空部隊を統率する留守航空兵團司令部を改編し第一飛行集團(牧野正迪中将、東京)が、滿洲の飛行部隊を統率していた關東軍飛行集團を改編し第二飛行集團(安藤三郎少将、牡丹江)が発足します。

昭和13(1938)年8月22日、中支那方面軍は漢口に撤退した蒋介石軍を捕捉するべく武漢作戰を発動、航空兵團は中支那派遣軍(中支那方面軍を改編)戦闘序列に編入、また一部は北支那派遣軍飛行隊(須藤栄之助大佐)を編成して北支那派遣軍戦闘序列に編入されました。

昭和13(1938)年9月19日、派遣軍は事変解決の契機とすべく、援将ルートの揚陸地である広東を攻略するため広東作戰を発動します。
広東攻略のために第二十一軍(古荘幹郎中将)が編成され、その航空直協部隊として第四飛行團(藤田朋少将)が作戦に参加します。

10月21日、広東を占領し広東作戰が、11月11日、岳州を占領して武漢作戰が終結しますが、蒋介石軍はさらに重慶に撤退します。

現時点で我が陸軍の現有戦力は内地に近衛師團のみ、支那に24個師團、満州・朝鮮に9個師團を派遣し、これ以上の進攻は限界に達した事から、以降の対支戦線は現状を維持しつつ長期持久体制に移行します。

昭和14(1914)年5月11日、ソ滿国境を越えてソ連影響下の外蒙軍が滿洲に侵攻、第一次ノモンハン事件が発生します。
ソ連は自国、及び影響下(属国)の軍に国境を越境させ紛争を生起、防衛出動して来る相手軍に対し紛争解決を装ったソ連軍が大規模攻勢をかけ相手領土を強奪する事を常套手段とし、我が軍は第二十三師團(小松原道太郎中将、熊本)を派遣、航空兵團、第二飛行集團から臨時部隊を編成し第二十三師團指揮下に編入、外蒙軍を撃退します。
しかし、我が軍が撤収後、ソ連軍が再び侵攻し滿州側を占拠します(第二次ノモンハン事件)。
我が軍は第二十三師團指揮下に第七師團の一部、第一戰車團を編入し航空戦力として第二飛行集團を派遣します。
地上戦において寡兵を持って良く圧倒的な戦力のソ連軍に大損害を与えますが、我が方もまた大きな損害を受け、航空戦においても戦力的に余裕が無いうえ補給が滞り苦戦を強いられます。

昭和14(1939)年9月1日、北支における作戦を担当すべく第三飛行集團司令部(木下敏中将、南京)が編成され北支那方面軍戦闘序列に編入、『大陸命第三百四十四號』により、航空兵團司令部(江橋英次郎中将)は任務を第三飛行集團長に引き継ぎ、北支那方面軍戦闘序列から關東軍戦闘序列に隷属転移し滿洲に移駐、司令部を新京に設置し第二飛行集團から滿洲内航空部隊の統率を引き継ぎ、6日、ノモンハン事件に出動します。
9日、我が国はソ連に停戦を申し入れ、15日、日ソ政府間で停戦協定が結ばれます。

昭和15(1940)年6月17日、フランスがドイツに降伏したのに伴い、大本營では援将ルート遮断のために北部仏印進駐を計画、南支那方面軍(安藤利吉中将、大本營直轄)が担当し、支援のために第三飛行集團(木下敏中将)が南支那方面軍司令官の指揮下に編入されます。
9月22日、フランス政府と平和進駐協定が成立しますが、米、英、蘭は我が国に対し経済制裁を断行します。
11月末頃までに北部仏印進駐に派遣された各航空部隊は原隊に復帰します。

12月1日、滿洲において第十飛行團司令部、2日、第五飛行集團司令部が、昭和16(1941)年7月29日、第十三飛行團司令部が設置され、各飛行團隷下にあった航空教育隊は内地に移駐、第一飛行集團隷下に集約され航空要員、飛行・補給部隊の教育養成を統一管掌します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。
開戦時の航空部隊展開
○第一飛行集團(天皇直隷:安部定中将、岐阜)

○航空兵團(關東軍司令官隷下:鈴木率道中将、新京)
 ●第二飛行集團(寺本熊市中将、牡丹江)

○第一飛行團(支那派遣軍總司令官隷下:秋山豐次少将、南京)

○南方軍直属航空部隊(南方軍總司令・官寺内壽一大将、サイゴン)
 ●第三飛行集團(菅原道大中将、プノンペン)
 ●第五飛行集團(小畑英良中将、台湾屏東)


司令部略歴
第一飛行集團司令部(中部第九十二部隊)
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収集のため「北支派兵二關スル政府声明」を発表、7月11日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。
7月15日、留守航空兵團司令部は近衛師團長(飯田貞固中将)の管理により東京で編成着手、堀丈夫中将が兵團長に着任し編成完結します。

昭和13(1538)年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により在滿支の飛行部隊に対し飛行部隊(飛行戦隊)と地上部隊(飛行場大隊、航空分廠)を分離運用する「空地分離」が実施されますが、内地・朝鮮・台湾の飛行部隊は「戦隊内空地分離」とし、飛行場大隊を飛行戦隊と分離せず、そのまま戦隊内に設置されました。
7月1日から8月31日にかけ各飛行聯隊は飛行戰隊に改編されます。

昭和13(1938)年6月3日、軍令陸乙第十六號により、10日、留守航空兵團司令部は第一飛行集團司令部に改編され、留守航空兵團司令部の任務を引き継ぎ内地航空部隊を指揮統率します。
第一飛行集團司令部(牧野正迪中将、東京のち岐阜)
 飛行第一戰隊(各務原)
 飛行第二戰隊(各務原) 
 飛行第三戰隊(八日市) 
 飛行第四戰隊(太刀洗)
 飛行第五戰隊(立川、昭和13年11月、柏に移転)
 飛行第七戰隊(浜松)
 飛行第十三戰隊(加古川)

第二飛行團司令部(佐藤覚一大佐、会寧)
 飛行第六戰隊 (平壌)
 飛行第九戰隊(会寧)
 飛行第六十五戰隊(咸興)
 第二航空教育隊 (平壌)

第四飛行團司令部 (本郷義夫少将、屏東)
 飛行第八戰隊 (屏東)
 飛行第十四戰隊(嘉義)
第三航空教育隊(嘉義、昭和19年松山に移転)
第一航空教育隊  (各務原)
第四航空教育隊  (立川、昭和15年柏に移転)
第五航空教育隊  (太刀洗)

12月15日、第二飛行團司令部及び隷下部隊は、第二飛行集團司令部(儀峨徹二中将、公主嶺)隷下に編入されます。

昭和15(1940)年7月17日、軍令陸甲第二十五號『陸軍航空部隊編制』により各飛行團隷下の教育隊は内地に移駐、第一飛行集團隷下に集約され航空要員、飛行・補給部隊の教育養成を統一管掌します。
第一飛行集團(菅原道大中将、岐阜)
 第四飛行團(河原利明 少将)
  飛行第八戰隊(司偵1個中隊、軽爆2個中隊)
  飛行第十四戰隊(重爆3個中隊)
  飛行第五十戰隊(戦闘2個中隊)

 第百一教育飛行團(吉田定男少将)
  第百一教育飛行戰隊(戦闘教育4個中隊、飛行場大隊)
  第四航空教育隊
  第六航空教育隊
  第十一航空教育隊
  第十二航空教育隊

 第百二教育飛行團 (加藤尹義少将)
  飛行第三戰隊(司偵1個中隊、軽爆3個中隊)
  飛行第七戰隊(重爆3個中隊)
  第一航空教育隊
  第二航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊

 第百三教育飛行團(小澤武夫少将)
  飛行第四戰隊(戦闘教育2個中隊、飛行場大隊)
  第三航空教育隊
  第五航空教育隊
  第九航空教育隊

 飛行第二戰隊(司偵1個中隊、直協1個中隊、飛行場大隊)
 飛行第五戰隊(戦闘2個中隊、飛行場大隊)
 飛行第十三戰隊(戦闘2個中隊、飛行場大隊)
 飛行第六十二戰隊(重爆3個中隊)

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。
第一飛行集團(安部定中将、岐阜)
 第十七飛行團司令部(佐藤正一少将)
  獨立飛行第百一中隊(司偵)
  飛行第五戰隊(戦闘)
  飛行第百四十四戰隊(戦闘)
  第十四航空通信隊
 
 第百一教育飛行團司令部(吉田定男少将)
  第百一教育飛行戰隊(戦闘)
  第四航空教育隊
  第六航空教育隊
  第十一航空教育隊
  第十二航空教育隊
 
 第百二教育飛行團司令部(神谷正男 大佐)
  飛行第三戰隊(司偵、軽爆)
  第百五教育飛行戰隊(遠爆)
  第一航空教育隊
  第二航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊
 
 第百三教育飛行團司令部(小澤武夫少将)
  飛行第四戰隊(偵察・戦闘)
  第百六教育飛行戰隊(戦闘)
  第百七教育飛行戰隊(挺進)
  第三航空教育隊
  第五航空教育隊
  第九航空教育隊
  
 飛行第二戰隊(偵察)
 飛行第十三戰隊(戦闘)

第一飛行集團隷下の実戦部隊は防空戦闘に関しては防衛總司令部(山田乙三大将)指揮下、東部軍(田中静壱中将、東京)、中部軍(藤井洋治中将、大阪)、西部軍(藤江恵輔中将、小倉)、臺灣軍(安藤利吉中将、台湾)に配属されました。

第一飛行集團團長
牧野正迪 中将 : 昭和13(1938)年6月1日 ~ 昭和14(1939)年8月1日
増野周萬 中将 : 昭和14(1939)年8月1日 ~ 昭和15(1940)年8月1日
菅原道大 中将 : 昭和15(1940)年8月1日 ~ 昭和16(1941)年9月15日
安倍定 中将 : 昭和16(1941)年9月15日 ~ 昭和17(1942)年4月15日


第五十一教育飛行師團司令部(中部第九十二部隊)
昭和17(1942)年4月13日、軍令陸甲第三十一號により第一飛行集團は第五十一教育飛行師團に改編、6月15日、第一航空軍司令部の編成完結により隷下に編入され、引き続き内地において飛行隊の教育、訓練にあたります。
5月16日、大陸命第六百三十一號により南方資源地帯攻略戦を終えた第一挺進團が内地に帰還、第五十一教育飛行師團で再編成を実施します。
第五十一教育飛行師團(安部定中将)
 飛行第二戰隊(偵察)
 第百一教育飛行團(吉田定男 少将)
  第百一教育飛行聯隊(戦闘)
  第百二教育飛行聯隊(重爆)
  第四航空教育隊
  第六航空教育隊
  第十一航空教育隊
  第一二航空教育隊

 第百二教育飛行團(神谷正男大佐)
  第百四教育飛行聯隊(軽爆)
  第百五教育飛行聯隊(遠爆)
  第一航空教育隊
  第二航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊
   
 第百三教育飛行團(小澤武夫少将)
   第百三教育飛行聯隊(偵察)
   第百七教育飛行聯隊(挺進)
   第三航空教育隊
   第五航空教育隊
   第九航空教育隊
   
 獨立第百四教育飛行團(本多農少将)
  第百六教育飛行聯隊(戦闘)
  第百八教育飛行聯隊(戦闘)
  第百九教育飛行聯隊(重爆)
   
 第一挺進團(久米精一大佐)
  挺進第一聯隊
  挺進第二聯隊
  挺進飛行戰隊(2個中隊欠)
※昭和17年4月13日、軍令陸甲第三十一號『在内地陸軍航空部隊編成、復歸要領』、陸機密第六六號『同細則』により各教育飛行戰隊は教育飛行聯隊に改編されます。

昭和17年5月19日、軍令陸第八號『航空軍司令部令』により、6月15日、第五十一教育飛行師團司令部において第一航空軍司令部(安田武雄中将)が編成されます(のち東京に移駐)。
第一航空軍司令部は編成完結をもって編組され第一飛行集團と同様、隷下部隊の内地防空に関しては防衛總司令官が指揮、東部軍、中部軍、西部軍に配属されました。
また防衛總司令官、陸軍航空總監、陸軍航空本部長の協定により、各軍司令官は陸軍航空總監隷下の学校、陸軍航空本部長隷下の官衙の特定飛行機を各機関の防空戦闘に関して区処できることになりました。

昭和17(1942)年8月31日、第百十教育飛行聯隊(司偵)、第百十三教育飛行聯隊(軽爆)の編成完結、それぞれ第百二教育飛行團、第百三教育飛行團に編入されました。

4月8日、大陸命第七百七十三號により飛行第二戰隊(偵察)が第四飛行師團(下山琢磨中将、斉斉哈爾)に、6月19日、大陸命第八百七號により第一挺進團が第六飛行師團(板花義一中将、ウエワク)に隷属転移、第五十一教育飛行師團の隷下は教育部隊だけとなります。

12月27日、軍令陸甲第百二十號、第百二十一號により教育飛行聯隊は教育飛行隊に改称されます。
第三航空教育隊、第五航空教育隊、第九航空教育隊は第百三教育飛行團から第五十一教育飛行師團直轄となります。
第五十一教育飛行師團(松岡勝臧中将)
 第百一教育飛行團(志方光之少将)
  第百一教育飛行聯隊(戦闘)
  第四航空教育隊
  第六航空教育隊
  第十二航空教育隊

 第百二教育飛行團(神谷正男大佐)
  第百五教育飛行聯隊(遠爆)
  第四教育飛行隊(軽爆)
  第十教育飛行隊(司偵)
  第一航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊

 第百三教育飛行團(弘中孫六大佐)
  第百十一教育飛行聯隊(戦闘)
  第百十三教育飛行聯隊(軽爆)
  第七教育飛行隊(挺身)
  第三十教育飛行隊(襲撃)

 獨立第百四教育飛行團(星駒太郎少将)
  第百六教育飛行聯隊(戦闘)
  第百八教育飛行聯隊(戦闘)
  第九教育飛行隊(重爆)
   
 第三航空教育隊
 第五航空教育隊
 第九航空教育隊

昭和19(1944)3月27日、大陸命第九百七十六號による第一航空軍の編組更改、同日、第一航空教育團(第四航空教育隊、第六航空教育隊、第七航空教育隊、第八航空教育隊、第十二航空教育隊)が編成、第五十一教育飛行師團隷下に編入されます。
6月10日、第百四教育飛行團は大陸命第千二十三號により新設された第八飛行師團(山本健児少将、台湾)に隷属転移、12月15日、第百一教育飛行團は復帰し司令部は第二航空軍(板花義一中将、新京)に編入されました。

昭和19年末、軍令陸甲第百二十一號(昭和18年12月27日)により編成着手した錬成飛行隊が教育飛行團に編入されます。

第五十一教育飛行師團(松岡勝臧中将)
 第百二教育飛行團司令部(神谷正男大佐)
  第四教育飛行隊(軽爆)
  第五教育飛行隊(重爆)
  第十教育飛行隊(司偵)
  第三十九教育飛行隊(戦闘)
  第一錬成飛行隊(戦闘)
 
 第百三教育飛行團司令部(弘中孫六大佐)
  第一教育飛行隊(戦闘)
  第七教育飛行隊(挺身)
  第十一教育飛行隊(戦闘)
  第十三教育飛行隊(襲撃)
  第十九教育飛行隊(戦闘)
  第三十教育飛行隊(襲撃)
  第二錬成飛行隊(戦闘)
  第十二錬成飛行隊(戦闘)
  第一航空教育隊
  第十四航空教育隊
   
第一航空教育團
  第四航空教育隊
  第六航空教育隊
  第七航空教育隊、
  第八航空教育隊
  第十二航空教育隊

 第三航空教育隊
 第五航空教育隊
 第九航空教育隊

第五十一教育飛行師團師團長
安部定 中将 : 昭和17(1942)年4月15日  ~昭和18(1943)年5月1日
鳥田隆一 中将 : 昭和18(1943)年5月1日 ~ 12月1日
松岡勝臧 中将 : 昭和18(1943)年12月1日 ~ 昭和20(1945)年2月20日


第五十一航空師團司令部(空五〇一)
昭和19(1944)年7月7日、我が国は絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、10月20日、米軍はフィリピン・レイテ島に上陸、11月8日、師團の担当で特別攻撃隊八紘第三隊・靖國隊(出丸一男中尉以下10名)が編成されます。

昭和20(1945)年1月9日、米軍がルソン島に上陸を開始、20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)の準備に入ります。

昭和20(1945)年2月13日、軍令陸甲第二十七號により内地の飛行教育部隊は再編成され、第五十一教育飛行師團は第五十一航空師團に改編されます。
第五十一航空師團(松岡勝臧中将)
 第七練習飛行隊
 第八練習飛行隊
 第一教育飛行隊(戦闘)
 第十教育飛行隊(司偵)
 第四十教育飛行隊(戦闘)
 第六錬成飛行隊(司偵)
 第十錬成飛行隊(戦闘)
 第十一錬成飛行隊(戦闘)
 第三航空教育隊
 第五航空教育隊
 第九航空教育隊
 第四航空教育團
  岐阜第一航空教育隊
  岐阜第二航空教育隊
  奈良航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊

3月31日、決號作戰に向け複雑多岐に渡った陸軍飛行部隊を一元化し運用すべく軍令陸甲第五十四號により航空總軍(河邊正三大将、東京)が創設されました(航空總監部は復帰)。
4月8日、大陸命第千二百九十八號『航空總軍戰闘序列 附録』により、第五十一航空師團は第一航空軍司令部隷下から新設された航空總軍司令部に隷属転移します。

第五十一航空師團(松岡勝臧中将)
 第七練習飛行隊
 第八練習飛行隊
 第一教育飛行隊(戦闘)
 第十教育飛行隊(司偵)
 第四十教育飛行隊(戦闘)
 第六錬成飛行隊(司偵)
 第十錬成飛行隊(戦闘)
 第十一錬成飛行隊(戦闘)
 第三航空教育隊
 第五航空教育隊
 第九航空教育隊
 第四航空教育團司令部
  岐阜第一航空教育隊
  岐阜第二航空教育隊
  奈良航空教育隊
  第七航空教育隊
  第八航空教育隊

4月、師團の担当で特別攻撃隊・第二百十三、第二百十四、第二百十五振武隊が編成されます。

6月23日、軍令陸甲第九十九號により第三航空教育隊、第七航空教育隊が復帰します。

航空總軍は同時に新設された地上部隊である第一總軍(元帥杉山元大将、東京)、第二總軍(元帥畑俊六大将、広島)とともに作戦地域を内地(本土北東方面を除く)、朝鮮と想定、師團も主に全軍特攻化よる特別攻撃隊69隊を編成、航空決戦の準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月26日、米第27歩兵連隊が各務原陸軍飛行場に進駐し軍施設を接収、第五十一航空師團司令部も接収され娯楽施設として転用されます。
12月末、石川愛中将以下数名が残務整理を終え復員完結します。

第五十一航空師團師團長
松岡勝臧 中将 : 昭和20(1945)年2月20日 ~ 7月5日病没
石川 愛 中将 : 昭和20(1945)年7月5日 ~ 8月15日


特別攻撃隊
●比島方面
八紘第三隊 靖國隊
昭和19(1944)年11月6日、第五十一教育飛行師團に編成下令、隷下教育部隊の志願者から第二錬成飛行隊教官・出丸一男中尉を隊長に大坪明、谷川昌弘、秦音次郎各少尉、河島鐵臧、寺島忠正、石井一十四、松井秀雄、五十嵐四郎各伍長、村岡義人、木下顕吾、松浦一郎各軍曹の14名が選抜され編成完結(第一次特別攻撃隊)します。
第一飛行集團司令部  出丸一男中尉と愛機(岐阜)
▲八紘第三隊 靖國隊隊長 出丸一男中尉と愛機
 熊本県出身。陸士五十六期より航空に転科、第九十二期操縦學生を経て
 戦闘機空中勤務者に。

9日、隊員は立川陸軍航空廠において一式戦三型を受領、知覧、屏東両陸軍飛行場を経由し、20日、カロカン飛行場(ルソン島)に移駐、第四航空軍(富永恭司中将、フィリピン)隷下に編入、富永中将より「靖國隊」と命名されます。

第一飛行集團司令部  出丸中尉機(岐阜)
▲11月9日、第二錬成飛行隊(京城陸軍飛行場)より立川陸軍航空廠に向け離陸する出丸中尉機

21日、レイテ航空戦参加のためシライ飛行場(ネグロス島)に前進、待機します。
24日1500、偵察機が敵艦隊を発見、隊に出撃が下令され、1800、夜間飛行が可能な出丸隊長、村岡軍曹、木下軍曹は第三飛行團長・木下敏中将の壮行を受け25番1発を懸吊し発進、マニカニ島付近において村岡軍曹は大型艦船に突入撃破させます。
26日、出丸隊長、谷垣少尉がレイテ湾内の敵艦船群に突入散華、29日0435、大坪、秦両少尉、河島、寺島、石井、松井各伍長が25番1発を懸吊し発進、レイテ湾内の敵艦船軍に突入散華、12月3日、南方軍総司令官・寺内壽一大将より感状が授与、12月7日、五十嵐伍長がオルモック湾の敵艦船群に突入散華し任務を完遂しました。
木下、松浦軍曹は後途を期して原隊に復帰したと思われますが、資料がなく不明です。


●沖縄方面
第二百十三振武隊
※「加古川陸軍飛行場」 参照


第二百十四振武隊
※「加古川陸軍飛行場」 参照


第二百十五振武隊
昭和20(1945)年4月、第五十一航空師團に特別攻撃隊の編成準備下令、5月、第四十教育飛行隊(川崎統司少佐、知覧)において志願者から中川一雄(隊長)、南雲定雄、平野行雄、高木公一、麻生隆、藤井孝一少尉(九七戦)が選抜され編成完結、5月14日、第六航空軍(菅原道大中将)隷下に編入されます。
6月3日、第六航空軍は第十次航空總攻撃発動、11日0520、悪天候の中、麻生、南雲少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、南雲少尉は機材不調により古仁屋付近で引き返しますが、麻生少尉は沖縄西方海上の敵艦船群に突入散華、任務を完遂しました。
他の方は何らかの事情で突入を回避した様ですが、資料が無く動向は不明です・


-待機特別攻撃隊-
第五十一航空師團司令部は決號作戰(本土決戦)に向け69隊の特別攻撃隊を編成しますが、全隊錬成・待機待命中に停戦を迎えました。
余りにも膨大で煩雑になるので、隊員名、略歴は省略し隊名だけ記します。
第二十八(九九式襲撃機)、八十二、八十三、八十四、八十五、八十六(以上、九五練)、百五十五、百五十六、百五十七、百五十八(以上、三式戦)、二百十六、二百十七、二百十八、二百十九、二百二十(九七戦)、三百三十二、三百三十三、三百三十四、三百三十五、三百三十六、三百三十七、三百三十八、三百三十九、三百四十、三百四十一、三百四十二、三百四十三、三百四十四、三百四十五、三百四十六、三百四十七、三百四十八、三百四十九、三百五十、三百五十一、三百五十二、三百五十三、三百五十四、三百五十五、三百五十六、三百六十七、三百六十八、三百六十九、三百七十、三百七十一、三百七十二、三百七十三、三百七十四、三百七十五、三百七十六、三百七十七、三百七十八、三百七十九、三百八十、三百八十一、三百八十二、三百八十三、三百八十四、三百八十五、三百八十六、三百八十七、三百八十八、三百八十九、三百九十、三百九十一、三百九十二、三百九十三、三百九十四、三百九十五振武隊(以上、九五練)


主要参考文献
『戦史叢書 第19巻 本土防空作戦』 (昭和43年10月 防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)

『戦史叢書 第52巻 陸軍航空の軍備と運用(1)』 (昭和46年12月 防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)
 
『戦史叢書第78巻 陸軍航空の軍備と運用(2)』 (昭和49年11月 防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)
 
『戦史叢書第94巻 陸軍航空の軍備と運用(3)』 (昭和51年5月 防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)

『戦史叢書第97巻 陸軍航空作戦基盤の建設運用』 (昭和54年4月 防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)

『中山道 加納宿 第31号 「加納城本丸跡の岐阜飛行師団司令部について」 』 (横山住雄)

『中山道 加納宿 第32号「―戦中の加納城本丸跡― 岐阜飛行師団司令部」』 (永田鈴子)

『中山道 加納宿 第33号「岐阜飛行師団司令部の思い出と近況」』 (永田鈴子)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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