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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第32回「世継ぎの運命」

だいぶ遅くなりましたが、今回は文禄2(1593)年8月の文禄の役(朝鮮出兵)における上杉景勝勢の撤退開始、文禄4(1595)年春の豊臣秀次失脚までの話でした。





豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)が登場しました。
今はやりの所謂「おバカ」キャラの上地雄輔を使っていました。
能天気な雰囲気で、戦国「おバカ」キャラとしての秀俊、なかなか良かったと思います。

文禄の役の撤退理由が「秀吉に実子の拾(のちの秀頼)が産まれたから」、と言うような描写になっていました。そう言えば、開戦理由も「鶴松を失ったから」、と受け止められるような脚本でした。
理由が小さすぎると思うのですが・・・
文禄の役の撤退理由は「明の介入による戦線の膠着」と「秀吉軍、明軍双方の実地部隊が穏便な講和を望んでそれぞれの本国に敵が降伏したとの偽情報をもたらした」からです。

豊臣秀俊の養子問題で、秀俊を毛利家の養子にしようとする秀吉に対し、毛利輝元が景勝に「秀吉に秀俊を上杉の養子に欲しいと言ってくれ」、と頼む場面で、景勝の席が輝元より上座になっていました。
前田利家と初対面の時、小早川隆景登場の時はおかしな席次になっていましたが、この時の官途は景勝が「従三位 近衛中将」で、輝元が「従四位下 参議」なので合っていました。

文禄3(1594)年、直江兼続に待望の男子が産まれました。のちの直江景明ですが、生来病弱で慶長20(1615)年に亡くなってしまいます。

文禄4(1595)年、秀吉に実子・拾が誕生したことに端を発する豊臣秀次失脚、所謂「秀次事件」が発生します。
ドラマの終盤でしたが、石田三成が悪い顔で出て来ました。
以前は秀次事件に三成の関与があったのではないかとされてきましたが、近年では否定されており、むしろ秀次無罪を主張していたことが分かっています。
ちなみに秀次の高野山行きを促したのは三成ではなく、「三成以外の五奉行」です。
悪い顔と言えば、御館の乱の際の上杉景虎の服臣・遠山康光を思い出しましたが、景虎の元を去る際に見せた康光の悪い顔もその後の何の伏線にもなっていませんでしたが、今回の三成はどうなんでしょう?
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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