当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第35回「家康の陰謀」

今回は慶長3(1598)年3月の上杉家の会津移封から、慶長4(1599)年閏3月の前田利家病没までの話でした。





徳川家康が北政所に接近していました。
結局、家康・北政所-対-三成・淀殿・上杉の形になりそうです。

慶長3(1598)年8月18日、一代の英傑・豊臣秀吉が没しました。
慶長4(1599)年正月、五大老、五奉行の集まる席で、福島正則が主座を指して小早川秀秋に「あの席には本来なら秀秋殿が座るはず・・・」のような事を言っていました。
これは秀吉により取りたてられた正則が秀吉の実子である秀頼をないがしろにする発言であり、とうていあり得ません。
この後、正則が豊臣家を離れ家康に接近、さらに関ヶ原の際に秀秋と書簡をやりとりする伏線でしょうか?

三成が家康の挑発に乗って家康の襲撃を企て、兼続の諌言により思い留まっていました。
三成の人物像から考えて、あのような簡単な挑発に乗るとは思えません。
確かに三成陣営から家康の襲撃計画は数回計画されているようですが(信憑性は低い)、三成の重臣・島清興(左近)が発案し、三成が許可しないというものでした。

史実では秀吉没後に家康は露骨な秀吉の遺言破りを行い、それに対して諸将が前田利家と家康それぞれの元に終結、一触即発の事態となります。
この事態は両者の和解で事なきを得ますが、史実でない三成単独挙兵を描くより、この史実を描いて首謀者を三成として兼続の諌言により思い留まらせる方が話が面白いと思いますが?

最後に病床の利家を見舞いにきた家康に利家が刀を突き付ける話が出て来ました。
病床の利家を見舞いにきた家康に利家が抜き身の刀を布団に忍ばせて会見した、とする逸話を元にしたようです。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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