当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

各務原陸軍飛行場

岐阜県各務原市に所在する航空自衛隊・岐阜基地は各務原陸軍飛行場の跡地にあります。
各務原陸軍飛行場 ウ 南西から(岐阜)
▲山林に遺る有蓋掩体壕

【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年4月10日

【改訂情報】
平成29年6月10日・・・遺構追加・記事分割





各務原陸軍飛行場 概要
各務原陸軍飛行場は県道を挟み東西に飛行場滑走面があり、現在西側が航空自衛隊、東側が住宅地・商工業地になっています。

明治12(1879)年2月、陸軍省は各務野台地の30町歩を買収し大砲射的場を開場しますが、火薬の飛躍的な発展により火砲の射程が延伸、明治32(1899)年、周辺住民に危害が及ぶ可能性が出てきたため射撃演習は中止され、歩兵用の各務原陸軍演習場として転換されます。

大正4(1915)年10月、陸軍省は航空戦力を整備すべく、各務原陸軍演習場を飛行場として転用し飛行場設定を開始、大正6(1917)年6月11日、各務原陸軍飛行場(1,175,576坪)が竣工、16日、開場式が挙行されます。

開場後、各務原陸軍飛行場周辺には陸軍飛行隊、同航空廠、川崎航空機工業㈱等が開設され、随時設備が整えられて行きます。
開場当初は作戦部隊が所在しましたが、支那事変の勃発に伴い作戦部隊は出征し、飛行場には教育部隊、整備学校等が所在しました。
※部隊の詳細は後述

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、陸軍施設は大蔵省に移管されます。

10月8日、米第27歩兵連隊が名古屋港に上陸、米軍先遣隊が各務原に進駐を開始、26日、27連隊により飛行場が接収され、Camp Gihuに改称されます。

昭和21(1946)年10月21日、東飛行場、航空廠技能者養成所は元地権者、海外引揚者、復員軍人、戦災者(各務原開拓団)に払い下げられ開墾が開始されます。

昭和25(1950)年9月2日、朝鮮戦争の勃発に伴い警察予備隊がCamp Gihuの一角に移駐、昭和29(1954)年6月1日、航空自衛隊が発足、昭和32(1957)年1月28日、臨時岐阜補給隊がCamp Gihuに移駐、3月31日、実験航空隊も浜松から移駐してきます。
昭和33(1958)年6月、Camp Gihuは全面返還され、航空自衛隊・岐阜基地として発足、現在は第2補給処、飛行開発実験団、第4高射群等が所在し我が国の平和を護っています。
各務原陸軍飛行場 97F16-C1-13(岐阜)
▲昭和20(1945)年4月5日、空撮(国土地理院 97F16-C1-13)

昭和20(岐阜各務原)
▲現在の地図に転写 配置は昭和20(1945)年の停戦時
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)

③ 第十教育飛行隊(北側)・第四航空教育團岐阜第二航空教育隊(南側)
④ 第四航空教育團司令部・同岐阜第一航空教育隊・第四十教育飛行隊
⑤ 各務原陸軍航空廠
⑥ 各務原陸軍病院
⑦ 各務原憲兵分隊
⑧ 各務原陸軍航空廠 技能者養成所
⑨ 川崎航空機工業㈱岐阜工場
⑩ 三菱重工業㈱名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫     〃             雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介遺構


遺構について
誘導路跨道橋
各務原陸軍飛行場は県道を挟み東西に別れていたため、県道を跨ぐ誘導路跨道橋が造られました。
大正9(1920)年測図(昭和7(1932)年修正)の陸地測量部地図には描かれておらず、材質からも昭和期の築造の様です。
各務原陸軍飛行場 ア 旧道と跨道誘導路 南から(岐阜)
▲旧県道と跨道橋

各務原陸軍飛行場 ア 跨道誘導路 南から(岐阜)
▲跨道橋近影
  現在、覆い土が失われ単なるトンネルの様になっています。

各務原陸軍飛行場 ア 跨道誘導路 内部 (2)(岐阜)
▲跨道橋内部

現在、岐阜基地南側を中心に各種掩体壕等が遺されています。
各務原陸軍飛行場 各務原陸軍飛行場 掩体壕(岐阜)
▲掩体壕配置
赤:コンクリート 青:掘り込み 薄緑:滅失

誘導路・掩体壕設定時期については、他の航空基地同様、『防空法』改正(昭和18年10月31日、法律第百四號)により改正された『防空法施行令』(昭和19年1月8日、勅令第二十一號)の「飛行場の偽装・防弾設備の整備推進」示達に則り、昭和19(1944)年初旬に開始されたと思われます。

ア 無蓋掩体壕
長根山(長平山)南麓の雑木林内に遺ります。
斜面を掘り込み、先端に土盛をし爆風除けの土堤を形成しています。
各務原陸軍飛行場 ア 掘り込み後部と溝 内部東から(岐阜)
▲左側の斜面
  内部に土堤に沿って溝(排水溝?)があります。

各務原陸軍飛行場 イ 掘り込み 後端 内部南東から(岐阜)
▲後端部の斜面


イ 無蓋掩体壕
長根山南麓の雑木林内に遺ります。
同じく斜面を掘り込み設定されています。
細長い形状から航空機以外の用途と思われます。
各務原陸軍飛行場 イ 掘り込み 後端 内部南東から(岐阜)
▲後端部の斜面

各務原陸軍飛行場 イ 掘り込み 左側 内部北西から(岐阜)
▲左側の斜面


ウ 有蓋掩体壕
各務原で最も有名な掩体壕で、幅22X奥行22X高さ6mあります。
長根山南麓の雑木林内に遺り、運送会社の倉庫として使用されておりパレットが大量に積まれています。
各務原陸軍飛行場 ウ 南西から (3)(岐阜)
▲正面入口

各務原陸軍飛行場 ウ 内部 (5)(岐阜)
▲内部は丁寧に仕上げられています

各務原陸軍飛行場 ウ 前縁庇(岐阜)
▲陸軍の大型掩体壕に見られる庇が付き、内部に梁がある典型的な形状です
  よく見ると庇、左側付け根等亀裂が入りヤバメの状態です

各務原陸軍飛行場 ウ 北から(岐阜)
▲後部から

掩体壕後端、及び東側は大きく掘り込まれています。
各務原陸軍飛行場 ウa ウから(岐阜)
▲後部の掘り込みa

各務原陸軍飛行場 ウb 北東から(岐阜)
▲東側の掘り込みb


エ 木製掩体壕基礎
竹林内に遺り、幅16X奥行17mあります。
道路から基礎aの先端が見えます。
各務原陸軍飛行場 エa前端 西から(岐阜)
▲基礎a

基礎bの後端は埋まっていますが、恐らく完存していると思われます。
各務原陸軍飛行場 エb 南から(岐阜)
▲基礎b


オ 掩体壕(滅失)
土砂置場になっており、滅失しています。


A コンクリート基礎
長根山西端麓、飛行場から南側に抜ける誘導路沿いにあります。
各務原陸軍飛行場 A 南西から(岐阜)

各務原陸軍飛行場 カ-サ間誘導路 南から(岐阜)
▲飛行場から南側に抜ける誘導路跡


カ 木製掩体壕基礎
長根山北麓、航空自衛隊との境に遺ります。
斜面を半円形に掘り込み、内部に木製掩体壕のコンクリート基礎が遺ります。
全体的に埋もれ、後端部が一部滅失しています。
各務原陸軍飛行場 カ 掘り込み 南西から(岐阜)
▲斜面上から内部を俯瞰

各務原陸軍飛行場 カa 南から(岐阜)
▲a側の基礎

各務原陸軍飛行場 カb 西から(岐阜)
▲b側の基礎
基礎はブロック状に分割されています


キ 無蓋掩体壕
長根山北麓、航空自衛隊との境に遺ります。
斜面を半円形に掘り込み設定されています。
内部は灌木、倒木で埋もれていますが、コンクリート基礎等はありませんでした。
各務原陸軍飛行場 キ 掘り込み右 内部から(岐阜)
▲内部右側の斜面


ク 無蓋掩体壕
長根山北麓、航空自衛隊との境に遺ります。
斜面を半円形に掘り込み、右側には爆風除けの土堤が築造されています。
各務原陸軍飛行場 ク 掘り込み 南西から(岐阜)
▲斜面上から内部を俯瞰

各務原陸軍飛行場 ク 右側前端 西から(岐阜)
▲右側前端部は石積みで補強?されています

各務原陸軍飛行場 ク 掘り込み内部のコンクリート残骸(岐阜)
▲ク内部に転がるコンクリート残骸


B 円形窪地
斜面に巨大な円形の窪地があり、爆弾孔かも知れません。
各務原陸軍飛行場 B 円形窪地(弾痕?)(岐阜)

なお、長根山の北側斜面には、爆砕された有蓋掩体壕の物と思しき巨大なコンクリート塊が、あちこちに転がっています。
各務原陸軍飛行場 長根山のコンクリート残骸①(岐阜)
▲コンクリート塊

各務原陸軍飛行場 長根山のコンクリート残骸⑤(岐阜)
▲コンクリート塊


ケ 無蓋掩体壕
航空自衛隊内に遺ります。
フェンス越しに見るとただの林にしか見えませんが、空撮を見ると掩体壕の形状をしています。
各務原陸軍飛行場 ケ(中央森) 南西から(岐阜)


コ 無蓋掩体壕
航空自衛隊内に遺ります。
こちらもただの林にしか見えませんが、空撮を見ると掩体壕の形状をしています。
各務原陸軍飛行場 コ(右の森) 南西から(岐阜)

※ケ・コはフェンスに近付き過ぎると警戒線が発報し、警務隊が来ますので注意です。


サ 無蓋掩体壕 
荒井山の南麓にあり、養蜂場になっています。
斜面を半円形に掘り込み設定されているのですが、かなり破損しており遺構かどうか不明です。
各務原陸軍飛行場 サ 右側 東から(岐阜)
▲右側の斜面

各務原陸軍飛行場 サ 左側前のコンクリート残骸(岐阜)
▲左側の斜面


シ 掩体壕(滅失)
畑になっている場所が怪しいのですが農作業をされていた方に取材したところ、「この辺りは土建業者の材料置場になっていたそうで、その際に掩体壕も削られた」との事です。


ス 無蓋掩体壕 
民家裏の斜面が大きく削られ?崩れていますが、掩体壕跡か不明です。
各務原陸軍飛行場 ス 掘り込み 南から(岐阜)


セ 掩体壕(滅失)
民家建設の際に破壊されてしまいました。


ソ 掩体壕(滅失)
墓地造成の際に破壊されてしまいました。


タ 掩体壕(滅失)
土取り?により破壊されてしまった様です。
この辺りの斜面は道路から平面が続き、段差で一段上がりまた平面が続き、山際が直角に削られています。

掩体壕のあった場所付近に細長い塹壕状の掘り込みaがあります。
各務原陸軍飛行場 タa 南から(岐阜)


チ 無蓋掩体壕
荒井山南東端に遺ります。
斜面を掘り込み四角に設定されていますが、東側は土取で破壊されています。
開口部が狭く航空機用では無いと思われます。
内部から斜面上に上がる通路aがあり、その先にコ型の掘り込みbがあります。
各務原陸軍飛行場 チ 掘り込み 内部東から(岐阜)
▲内部西側

各務原陸軍飛行場 チ 掘り込み a 南から(岐阜)
▲内部から斜面上のコ型掘り込みに上がる通路a


ツ 無蓋掩体壕
荒井山南東端、航空自衛隊の通路際に遺ります。
斜面を掘り込み四角に設定されています。
掩体壕後端に交通壕a、左側に四角の掘り込みb交通壕を伴う円形の掘り込みcがあります。
各務原陸軍飛行場 ツ 掘り込み 後端 北東から(岐阜)
▲後端斜面上から内部を俯瞰

各務原陸軍飛行場 ツ 掘り込み 左側 南から(岐阜)
▲左側の斜面

各務原陸軍飛行場 ツa 南西から(岐阜)
▲交通壕a

各務原陸軍飛行場 ツb 方形窪地 北から(岐阜)
▲四角の掘り込みb

各務原陸軍飛行場 ツc 東から(岐阜)
▲交通壕(左)を伴う円形の掘り込みc(木の生えている場所)


テ 木製掩体壕基礎
矢熊山(不動山)北麓、養鶏場の対面の竹林に遺ります。
斜面を半円形に掘り込み、内部に木製掩体壕のコンクリート基礎が遺ります。
基礎は殆ど埋まっており、全体の形状は不明です。
各務原陸軍飛行場 テ 掘り込み 北東から(岐阜)
▲道路から見たテ

各務原陸軍飛行場 テa 南東から(岐阜)
▲コンクリート基礎a


ト 木製掩体壕基礎
有名な遺構で、幅26X奥行22mあります。
矢熊山(不動山)北麓、登山道の脇に遺ります。
巨大なコンクリート基礎が東西に完存しています。
各務原陸軍飛行場 トa 北から(岐阜)
▲基礎a 先端から

各務原陸軍飛行場 トa 北東から(岐阜)
▲基礎a 奥

各務原陸軍飛行場 トb 北西から(岐阜)
▲基礎b 全景

各務原陸軍飛行場 トb 鉄筋(岐阜)
▲基礎b 上部のボルト

各務原陸軍飛行場 トc 北東から(岐阜)
▲掩体壕東側にある交通壕


ナ 掩体壕(滅失)
民家建設の際に破壊されてしまいました。


ニ 木製掩体壕基礎
民家裏の畑に遺り、幅15X奥行15mあります。
右側a後端は埋まり、基礎上部に農機具小屋が建てられ見難いです。
各務原陸軍飛行場 ニ 北西から(岐阜)
▲掩体壕全景
  左側に僅かに基礎aの先端が見えます

各務原陸軍飛行場 ニ 北西から (2)(岐阜)
▲基礎aの先端

各務原陸軍飛行場 ニb 南東から(岐阜)
▲基礎b 背後の斜面から


ヌ 無蓋掩体壕
白髭神社北側に遺りますが、内部は灌木で覆われ見難いです。
斜面を掘り込み設定されています。
各務原陸軍飛行場 ヌ 掘り込み 西から(岐阜)
▲入口側から内部

各務原陸軍飛行場 ヌ 掘り込み 後端 南西から(岐阜)
▲後端斜面上から内部

各務原陸軍飛行場 ヌ-ニ間誘導路 南から(岐阜)
ニからヌにかけての誘導路跡


ネ 横穴式掩体壕
有名な掩体壕で、幅19X奥行29X高さ7mあります。
矢熊山(不動山)南麓の岩盤を掘り込み横穴式にしています。
掩体壕は民家敷地にあり、以前に許可を得て見学しましたが、現在は空家になっており側面からしか見えません。
各務原陸軍飛行場 ネ 南東から (2)(岐阜)
▲民家の屋根越しに僅かに開口部が見えます

各務原陸軍飛行場 ネ 南東から(岐阜)
▲側面側から

内部は一部にコンクリート巻立てが施工されています。
各務原陸軍飛行場 ネ 内部 (4)(岐阜)
▲内部

各務原陸軍飛行場 ネ 内部(岐阜)
▲最深部は掘削跡?が遺り、さらに掘り進める予定だった様です。

各務原陸軍飛行場 ネ 内部 (3)(岐阜)
▲側面

各務原陸軍飛行場 ネ 内部 (2)(岐阜)
▲内部から開口部


C 地下壕
ネに続く誘導沿いの斜面に地下壕がありますが、物置になっており調査ができず詳細は不明です。
各務原陸軍飛行場 C 地下壕?(岐阜)


各務原陸軍飛行場 沿革
明治4(1871)年8月2日、東京、仙臺、大阪、熊本各鎭臺が創設されます。
明治9(1876)年11月23日、陸軍省は岐阜県下に大砲射的場の新設を計画、岐阜県とともに調査を開始し岐阜県稲葉郡一帯に広がる各務野台地を選定します。
各務野台地は水利の便、土質が悪く農耕地に不適な事から江戸期より周辺村落が秣場として管理、嘉永年間(1848~54)に旗本・坪内定保が大砲演習場(大砲場)として使用、明治3(1870)8月、明治新政府でも大砲の試射が行われた実績がありました。

明治12(1879)年2月、陸軍省は該当村落(新加納、前洞、山後、長塚、西市場、桐野、岩地、前渡、鵜沼)と用地買収を締結、30町歩(約96,000坪)を買収し大砲射的場を開場、砲兵第三大隊(名古屋)の射撃演習を開始します。

明治22(1889)年、陸軍省は230町歩(690,000坪)を買収し射的場を拡張します。

明治二十七八年戦役(日清戦争:明治27・28年)後、火薬の飛躍的な発展により火砲の射程が延伸、明治32(1899)年、三ツ池新田(射的場東端)から発射した砲弾が更池村上戸(同南西端)に着弾するなど、周辺住民に危害が及ぶ可能性が出てきたため火砲の射撃演習は中止され、歩兵用の各務原陸軍演習場として転換されます。
各務原陸軍飛行場 大正2年(岐阜)
▲大正2(1913)年頃の各務原陸軍演習場

大正三四年戦役(第一次大戦:大正3・4年)において航空機が兵器として登場、大正4(1915)年10月、陸軍省は航空戦力を整備すべく既設の所澤陸軍飛行場に次いで各務原陸軍演習場を飛行場として転用する事を決定、演習場周辺の用地を買収し飛行場設定を開始、大正6(1917)年6月16日、各務原陸軍飛行場(1,175,576坪)が開場します。

大正7(1918)年11月10日、航空第二大隊が所沢から稲葉郡鵜沼村に移駐、21日、岐阜憲兵分隊各務原憲兵分遣所が鵜沼村(航空第二大隊東側)に開設されます。

大正9(1920)年5月6日、航空第一大隊が所沢から稲葉郡那加村に移駐、12月1日、同大隊において航空第三大隊が編成されます。
大正9(1920)年9月28日、蘇原村野村陸軍航空部補給部各務原支部が開設、11月30日、各務原憲兵分遣所蘇原村三柿野に移転します。

大正10(1922)年、那加村岐阜衛戍病院各務原分院が開院、11月7日、航空第三大隊は八日市に移駐、12月13日、航空第二大隊内で航空第五大隊が編成されます。

大正11(1922)年8月9日、航空第一、第二、第五大隊は飛行第一、第二、第五大隊(11月10日、立川に移駐)に改称、9月7日、蘇原村㈱川崎造船所飛行機部各務原分工場が設置されます。
各務原陸軍飛行場 大正13(岐阜)
▲大正13(1924)年頃の各務原陸軍飛行場
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)
③ 飛行第一大隊
④ 飛行第二大隊
⑤ 陸軍航空部補給部各務原支部
⑥ 岐阜衛戍病院各務原分院
⑦ 各務原憲兵分遣所
⑨ ㈱川崎造船所飛行機部各務原分工場

大正14(1925)年5月1日、飛行第一、第二大隊は夫々飛行第一、第二聯隊に改称、陸軍航空部は陸軍航空本部に改編され、陸軍航空部補給部各務原支部は陸軍航空本部補給部各務原支部に改編されます。

昭和2(1927)年3月、蘇原村三柿野三菱内燃機㈱名古屋製作所各務原格納庫が設立されます。

昭和10(1935)年8月1日、陸軍航空本部補給部各務原支部は各務原陸軍航空支廠に改称、同支廠西側第一飛行團司令部が開設します。
各務原陸軍飛行場 陸地測量部測図 各務原(大正9年測図、昭和7年修正)(岐阜)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図35岐阜近傍』(大正9年測図、昭和7年修正)

昭和11(1936)年11月10日、岐阜衛戍病院が岐阜陸軍病院に改称したのに伴い、岐阜衛戍病院 各務原分院は岐阜陸軍病院 各務原分院に改称します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事変勃発に伴い、15日、飛行第二聯隊は飛行第三大隊を編成し北支に派遣、26日、第一飛行團司令部は北京に移駐します。
12月10日、第一飛行教育隊那加村(飛行第一聯隊南側)に新設されます。

昭和13(1938)年、陸軍航空本部は蘇原村野村一帯を各務原陸軍航空支廠拡張用地として買収を開始、随時建物を建設します(昭和15年拡張完了)。
6月27日、熊谷陸軍飛行學校桶川分教所飛行第二戰隊兵営内に移駐して来ます。
7月5日、飛行第一聯隊は飛行第一戰隊、飛行第五十九戰隊、第二十一飛行場大隊に分離改編、31日、飛行第二聯隊は飛行第二戰隊に改編します。

7月5日、第一飛行教育隊は第一航空教育隊に改称します。

11月11日、陸軍航空本部は飛行第二戰隊兵営・東飛行場が狭隘な事から拡張を決定、昭和14(1939)年3月29日、第三師團経理部は鵜沼村の東側隣接地を買収、拡張整備を行います。

5月11日、ノモンハン事件が勃発、27日、第二十一飛行場大隊は海拉爾飛行場、6月2日、飛行第一戰隊は孫家飛行場に移駐します。
6月1日、熊谷陸軍飛行學校桶川分教所は甲府陸軍飛行場に移転、8月21日、各務原陸軍航空支廠は陸軍航空廠各務原支廠に改称します。

昭和15(1940)年4月1日、買収した飛行第二戰隊兵営東側隣接地熊谷陸軍飛行學校各務原分教所が開校します。

8月1日、飛行第二戰隊は那加村(飛行第一戰隊兵営)に移駐、同日、熊谷陸軍飛行學校各務原分教所は岐阜陸軍飛行學校に改称し旧飛二兵営を包含します。
昭和14(岐阜各務原)
▲昭和14(1939)年頃の各務原陸軍飛行場
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)
③ 飛行第一戰隊
④ 飛行第二戰隊
⑤ 各務原陸軍航空支廠
⑥ 岐阜陸軍病院各務原分院
⑦ 各務原憲兵分遣隊
⑧ 第一飛行團司令部
⑨ 川崎航空機工業㈱各務原工場
⑩ 三菱重工業㈱名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫     〃             雄飛寮

昭和15(1940)年4月1日、陸軍航空本部は三池の支廠東側隣接地を買収し各務原陸軍航空支廠 教育隊を開設、廠内の職工養成所を移設します。
7月10日、岐阜陸軍病院 各務原分院は各務原陸軍病院に改編されます。

昭和16(1941)年6月1日、陸軍航空廠各務原支廠は各務原陸軍航空支廠に複称、昭和17(1942)年10月15日、各務原陸軍航空支廠は各務原陸軍航空廠に改編します。

昭和17(1942)年8月31日、那加村(飛行第二戰隊兵営)第百十教育飛行聯隊が開隊します。

昭和18(1943)年4月1日、岐阜陸軍飛行學校は廃校、跡地に岐阜陸軍航空整備學校が開校、15日、飛行第二戰隊は斉斉哈爾に、27日、第一航空教育隊は平壌に移駐し、飛行第二戰隊兵営は第百十教育飛行聯隊兵営に転用、第一航空教育隊兵営岐阜陸軍航空整備學校分校(第二教育隊)が開校(鵜沼村の本校は第一教育隊に)します。

昭和19(1944)年2月25日、第百十教育飛行聯隊は第十教育飛行隊に改称します。

昭和20(1945)年、第五十一教育飛行師團司令部経理部は岐阜陸軍航空整備學校の東側隣接地20町歩(60,000坪)を買収、用地を拡張し格納庫の建設を開始します。
2月13日、岐阜陸軍航空整備學校に第四航空教育團司令部が新編、21日、岐阜陸軍航空整備學校第一教育隊は第四航空教育團岐阜第一航空教育隊、第二教育隊は同岐阜第二航空教育隊に改称します。
4月10日、第四十教育飛行隊が菊池より鵜沼村(岐阜第一航空教育隊内)に移転してきます。

6月9日、P51戦闘機(艦載機とも)8機が飛行場、航空廠に来襲、第百十教育飛行隊の高射機關砲中隊が1機を撃墜、22日、B29爆撃機44機が来襲、飛行場、技能者養成所、川崎航空機工業㈱岐阜工場が爆撃され169名が爆死(周辺民間人も含む。以下同じ)、川崎航空機工業㈱は甚大な被害を受け、26日、B29爆撃機101機が来襲、飛行場、航空廠、技能者養成所、川崎航空機工業㈱が爆撃され58名が爆死してしまいます。

7月17日、P51戦闘機100機、19日、P51及び艦載機60機、20日、P51戦闘機100機、24日、戦爆連合(機数不明)、28日、艦載機120機、30日、P51及び艦載機(機数不明)、8月2日、P51戦闘機50機及び艦載機数十機が来襲、飛行場、航空廠、川崎航空機工業㈱岐阜工場が機銃掃射を受けます。

各務原陸軍航空廠、第十教育飛行隊、第四航空教育團司令部(岐阜第一航空教育隊、同岐阜第二航空教育隊)、第四十教育飛行隊、川崎航空機工業㈱岐阜工場は決號作戰(本土決戦)に備え、工場疎開、建物疎開、軍需品の分散疎開、航空機の秘匿等を行うなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸軍施設は大蔵省に移管されます。

10月8日、米第6軍第25歩兵師団第27歩兵連隊4,132名が名古屋港に上陸、米軍先遣隊(ショー少佐以下250名)が各務原に進駐、第十教育飛行隊が、26日、第27歩兵連隊先遣隊の第8野砲隊(約100名)が進駐し各務原陸軍航空廠及び西飛行場が接収され、Camp Gihuに改称されます。
東飛行場は軍需品、兵器の処理ののち内務省を通じ大蔵省に返還されます。

昭和21(1946)年2月、農耕隊(旧岐阜第一教育隊の沖縄、朝鮮、台湾出身者)、県入植者(県斡旋、引揚者)が仮入植、4月、海外引揚者、復員軍人、戦災者を中心に各務原開拓団が創設、10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)が公布され、東飛行場の北半分は元地権者、南半分と航空廠技能者養成所は各務原開拓団に払い下げられ開墾が開始されます。

昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発、7月24・25日、米第27歩兵連隊主力は渡鮮、9月2日、警察予備隊がCamp Gihuの一角に移駐、昭和29(1954)年6月1日、航空自衛隊が発足、昭和31(1956)年、臨時岐阜補給隊(昭和33年1月10日、第二補給処に改称)が木更津において編成され、昭和32(1957)年1月28日、Camp Gihuに移駐、3月31日、実験航空隊が浜松から移駐してきます。
昭和33(1958)年6月、Camp Gihuは全面返還され、航空自衛隊・岐阜基地として発足、現在は第2補給処、飛行開発実験団、第4高射群等が所在し我が国の平和を護っています。


主要参考文献
『各務原市民の戦時記録』 (平成11年3月 各務原市戦時記録編集委員会 各務原市教育委員会)

『続 陸軍航空の鎮魂』(昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊』(昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『官報』
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No Title

岐阜基地の近辺に住んでいますが、これほどの情報量の記事ははじめて見ました
岐阜基地をこんなに書いてもらいえるなんてとてもうれしいです
周辺に掩体があるなんて初めて知りました
ちなみに岐阜基地から西の神社に軍人さんの慰霊碑(?)がありますよ
大きな砲弾のような形をしています
座標は
35°22'44.9"N 136°50'21.2"E
また機会があったらぜひ岐阜に来てください

Re: No Title

田中様、初めましてこんばんは。
この度は拙ブログをご覧頂きありがとうございます。

岐阜基地の前身、各務原陸軍飛行場は陸軍航空の一大拠点として多くの部隊が編成され、現在もかなり滅失はしていますが多くの遺構が遺されています。
記事中の遺構は時間が無かったうえ、夏場の探索には最悪の時期だったため、ほんの一部でしかありません。
しかも、ブログの文体が定まっていない時期と言う事もあり、少々お恥ずかしいです(^_^;)

基地内の見学も当日は資料館のみでしたが、格納庫を初め建物も数棟遺っている様で、基地祭の際などにご覧いただけたらと思います。

各務原の掩体壕は岩山に横穴を掘った全国的に見ても珍しい形状の物もあり、しかもかなり大きいです。

慰霊碑の情報、ありがとうございます!
各務原はまだまだ未消化のため、再訪の予定ですので、その際は是非行ってみたいと思います。

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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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