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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第38回「ふたつの関ヶ原」

今回は慶長5(1600)年8月の福島正則、池田輝政ら東軍先鋒による岐阜城攻略から同慶長5(1600)年9月29日の上杉勢撤退までの話でした。





またまたまた史実では上杉景虎とともに死んだはずの遠山康光が出て来ました。
もぉええわ、です。

家康の江戸城出陣場面と、直後の若松城が同じ城を使っていました。
関東に多く見られる、石垣の無い土塁に水掘りを配した、他の番組でも「地方の城」の場面でよく出てくる城です。

一方の上杉勢による最上義光攻撃ですが、畑谷城(江口光清)攻略、別動隊(篠井康信、横田旨俊)による上山城(里見民部)、援軍・小野寺義道による湯沢城(楯岡満茂)攻撃は全く描かれず、いきなりの 長谷堂城(志村光安)の戦いでした。
しかも、景勝が援軍として出陣してきました。家康からは結城秀康が上杉の押さえに配置されており、景勝は若松城から出陣していないはずです。
さらに、初戦で白石城を奪われた甘粕景継が何事もなかったように参陣していました。
理由は若松城での軍議、妻の葬儀などあり詳細は不明ですが、有名な話だけにせっかくパパイヤ鈴木を配したのなら描いても面白かったと思います。

関ヶ原本戦において、動かない小早川秀秋に合戦中にも関わらず、西軍から石田三成、東軍から遠山康光が催促の使者として直談判に行っていました。
当然ありえません。激戦の中どうやって行くのでしょうか?
西軍からは狼煙と使者が、東軍からは目付として奥平貞治が初めからついています。
東軍の目付が最初からついていることから秀秋は初めから寝返るつもりだった可能性があります。

秀秋を動かすために三成が「関白叙任」を言っていましたが、合戦当日ではなく挙兵当初から去就が怪しかった秀秋に大谷吉継とともに三成が事前に提示していたものです。

西軍敗走が決定的となった秀秋の寝返りに続く赤座、朽木、小川、脇坂の寝返りは描かれませんでした。

石田三成の陣に福島正則が突撃してきましたが、石田隊には細川忠興、黒田長政が当たり、福島は宇喜多隊と当たっています。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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