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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

天地人 第40回「上杉転落」

今回は慶長6(1601)年7月の上杉景勝、直江兼続上洛から、8月16日の徳川家康より出羽国米沢30万石への減転封までの話でした。





景勝、兼続主従が伏見城で家康に謝罪(ドラマではしていませんが)していました。
伏見城は前年の関ヶ原合戦の前哨戦、伏見城の戦いで東軍の鳥居元忠が籠城し、西軍の攻撃を受けて炎上していますが、立派な漆喰塗5層の天守が上がっていました
その後慶長6(1601)年から家康により再建に着手され、慶長10(1605)年に完成します
景勝、兼続が上洛した際に天守はあったのでしょうか?

福島正則と小早川秀秋が上杉家存続に尽力、帆走していました
前回の三成面会話に続き聞いたことがありません
関ヶ原合戦で裏切り者として強烈に印象の悪い1位、2位のこの2人の名誉回復?の脚本のようです
実際、この2人関ヶ原の戦功で加増転封(福島:尾張清州20万→安芸広島49.8万、小早川:筑前名島35.7万→備前岡山51万)されており、領内統治に忙しくドラマのようにいつまでも京、大坂に居てるとは考えにくいです

兼続が直江家に本多正信の次子・政重を迎え、直江家を家康重臣の正信に預けることで上杉家存続を図ろうとしていました。
だいぶ論理に飛躍があるように思います。
本多正信に接近を図った兼続の画策により、政重が兼続の養子になるのは3年後の慶長9(1604)年です。
今回、本多政重の名が突然出て来ましたが、かなり変わった人物でほぼ一貫して豊臣家の武将である大谷吉継、宇喜多秀家に仕え、関ヶ原では秀家隊で1軍を率いています。
飽くの強そうな人物だけに、もう少し早めに出して、兼続と接点を持たしておいたほうが面白かったのではないでしょうか?
ドラマでは全く触れられていませんが、兼続には政重の前にも本庄繁長の子・長房も養子にしているので、実子・景明の上に養子2人がいます。

会津移封となり、上杉家の家臣が多数出て来ました。
松田勝重、井上高広、白井義忠、市川景清、長沼満政・・・・誰やねん
名字からすると上野、信濃の他国衆の武将のようですが、実在するのでしょうか?
せっかく配役するのなら、誰もが知っている上杉家武将で、活躍があるにも関わらず、なぜかドラマには出てこない例えば千坂景親、色部光長、本庄繁長、安田能元、須田長義、平林正恒などにしたほうが良かったと思います。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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