当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

三國陸軍飛行場

関西の奥座敷と言われる北陸屈指の温泉街である、あわら温泉の北側に三國陸軍飛行場がありました。
三國陸軍飛行場 掩体壕 後端土堤から右側土堤(福井)
▲林の中に遺る無蓋掩体壕(土堤上から内部を俯瞰)

【探索日時】
平成22年11月25日、平成28年12月18日

【改訂情報】
平成23年7月2日・・・滑走路位置訂正
平成29年6月5日・・・遺構追加、体裁改訂





飛行場の概要
三國陸軍飛行場
昭和18(1943)年、陸軍航空本部は福井県坂井郡三國町池上に重爆の練習用飛行場設定を計画、4月18日、池上區長に対し、池上集落の東方、向野の畑、山林に飛行場の新設を通達します。

21日、中部軍経理部は該当用地地権者を芦原町の福原劇場に招集、同部部員が時局の推移から該当用地113町歩(339,000坪)の必要性を説明し売却を懇請、用地買収承諾書が交わされます。
土地買収価格は宅地(坪)3円、田(反)600円、畑(反)480円、山林(反)210円で、他に立木、果樹園、離作料、地上物件除去補償料などが支払われます。
22日、飛行場の外郭測量を開始、用地内にあった民家3軒が移転します。
5月、中部軍経理部の指揮のもと、郷工務店(大垣市)が主体となり、近隣の勤労奉仕團、勤労學徒、青年團の協力を得て滑走路造成の予備工事が開始され、50×500mの予備滑走路が完成します。
27日、陸軍飛行場設定練習部(秋山徳三郎中将、豊橋)の九七戦1機が離着陸試験を実施、6月中旬、飛行場の総設計が完成、28日、陸軍航空本部経理部三國工事本部が開設されます。
8月、昼夜連続の設定作業が開始され、昭和19(1944)年春、主滑走路(南北方向300×1,800m)が完成、続いて副滑走路(北西-南東方向400m×1,800m)が着工しますが、戦局の急迫、米軍による本土空襲の本格化から滑走路設定を中断し掩体壕などの防護施設設定を優先します。

10月15日、九九軍偵、九七重爆各1機により離着陸試験が実施され、12月6日、第一航空軍教育隊(安東貞雄大佐、鈴鹿)の飛行機(機種不明)13機が進出、7日、東南海地震発災により、明野教導飛行師團(青木武三中将、明野)の戦闘機(機種不明)約40機が退避してきます。

昭和20(1945)年3月29日、一式双高練12機(所属不明)、4月、濱松教導飛行師團(星駒太郎少将、浜松)教導第三隊の百式重爆約10機が進出してきます。

陸軍航空本部経理部三國工事本部は決號作戰(本土決戦)に向け飛行場の設定を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い設定工事は中止、11月17日、飛行場は米軍(福井に進駐した第136歩兵連隊?)に接収され、所在飛行機が焼却されます。
昭和21(1946)年、米軍の撤収に伴い飛行場は内務省を通じ大蔵省に返還、昭和25(1950)年2月1日、『自作農特別措置法』に基づき元地権者で結成(昭和23年12月25日)された池上開拓農業協同組合に払い下げられ開墾、現在に至ります。


遺構について
現在、三國陸軍飛行場は地元で三国飛行場芦原飛行場と呼ばれている様です。

戦後、飛行場や誘導路は開墾され、建物も解体されてしまったため平成22年の探訪時、遺構は皆無と思っていましたが、再度精査したところ無蓋掩体壕が遺っている可能性があり、再度踏査してみたところ・・・。
三國陸軍飛行場 坂井郡三国町池上城ヶ原地区現況平面図(福井)
▲飛行場払い下げに際し作られた『坂井郡三国町池上城ヶ原地区現況平面図』
  方角を合わせ飛行場外周を赤線で強調しました

三國陸軍飛行場 三國陸軍飛行場(福井)
▲昭和23(1948)年7月の米軍空撮を貼り合わせたもの
  当飛行場は払下げが昭和25(1950)年のため、まだ原型を留めています

三國陸軍飛行場 三國陸軍飛行場 現在(空撮)(福井)
▲現在の空撮に上掲図面、空撮を重ね施設を転写したもの

三國陸軍飛行場 三國陸軍飛行場 現在(福井)
▲現在の地図に転写したもの
紫線:飛行場境界 オレンジ:誘導路 緑:掩体壕 淡赤:滑走路 淡黄:居住区

三國陸軍飛行場 主滑走路(南-北)南東(道路左側が滑走路)南から(福井)
▲現在の飛行場跡
  主滑走路南端付近から北側


無蓋掩体壕
林の中に遺ります。
三國陸軍飛行場 滑走路から掩体壕のある茂み(福井)
▲奥の林の中にあります

当飛行場の掩体壕は全て土製無蓋でしたが、戦後の開墾でほぼ滅失、唯一この1基のみが遺されています、
三國陸軍飛行場 三國陸軍飛行場掩体壕 (2)(福井)
▲無蓋掩体壕平面図

三國陸軍飛行場 三國陸軍飛行場掩体壕(福井)
▲同イラスト

灌木に覆われていますが状態は非常に良く、70年経っているとは思えません。
三國陸軍飛行場 掩体壕 左側土堤先端 北から(福井)
▲左側の土堤先端

三國陸軍飛行場 掩体壕 右側土堤先端 東から(福井)
▲右側の土堤先端

三國陸軍飛行場 掩体壕 左側土堤上から奥(福井)
▲左側の土堤上から奥

三國陸軍飛行場 掩体壕 内部(福井)
▲掩体壕正面から内部
  低木部分が内部、奥の土堤が掩体壕後端

三國陸軍飛行場 掩体壕 後端土堤西から(福井)
▲掩体壕背面土堤
  左側の土堤が掩体壕後端外側

三國陸軍飛行場 掩体壕背後の円形窪地⑥(福井)
▲掩体壕後部にある円形窪地
  他地域の掩体壕にもよく見られる個人用の掩体と思われます。

三國陸軍飛行場 掩体壕背後の円形窪地②(福井)
▲同じく掩体壕後部にある円形窪地


滑走路跡中央付近に戦後、飛行場跡を開拓したことを記念し開拓碑が建立されています。
三國陸軍飛行場 開拓碑(福井)

三國陸軍飛行場 開拓碑裏にある飛行場跡碑(福井)
▲開拓碑の裏にある飛行場跡碑


展開部隊
濱松教導飛行師團 教導第三隊
大正14(1925)年5月1日、飛行第七聯隊が編成(立川→浜松)、昭和5(1930)年5月1日、同聯隊練習部が発足し爆撃機の教育訓練を開始します。

昭和8(1933)年8月1日、爆撃術の実施学校として同練習部を基幹に濱松陸軍飛行學校が開校します。
同校では航空兵科現役下士官、幹部候補生、下士官候補者に対する爆撃機操縦術教育を実施しました。

昭和15(1940)年12月1日、濱松陸軍飛行學校内に軽爆の実施学校である鉾田分校が開校、昭和16(1941)年1月15日、茨城県に移転します。

昭和19(1944)年6月20日、戦局の急迫に伴い飛行学校5校・1分校、航空整備学校1校は軍隊化、濱松教導飛行師團に改編(司令部、教導第一隊、教導第三隊、教導整備隊、通信隊、教育隊、学生(化学戰教導隊は三方原教導團に改編))され、10月、教導第三隊は飛行第百十戰隊を編成します。

昭和20年4月、教導第一隊は富山陸軍飛行場、第三隊は三國陸軍飛行場に移駐します。

7月10日、軍令陸甲第百三號により各教導飛行師團は復帰、作戦部隊に再編され、浜松教導飛行師團を基幹として第二十七飛行團司令部、教育部隊は第四教導飛行隊(新原秀人中佐)に改編され教導飛行師團(橋本秀信中将)隷下に編入され、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

29日、復員完結します。


主要参考文献
『池上区誌』 (平成14年12月 池上区誌編集委員会)

『続 陸軍航空の鎮魂』 (昭和57年4月 航空碑奉賛会)
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No Title

はじめまして。
三国町池上出身の者です。
滑走路の方向が間違っていますよ。
実際は南北方向と北西から南東にかけて存在していました。
競艇場のあたりは一段下がった土地になっており高低差を考えても不可能です。
地図上でもその方がしっくりくると思いますよ。

わざわざ足を運んで頂きありがとうございました。
興味を持って頂いて嬉しいです。

ご指摘ありがとうございます

さるさん、こんにちは。
確かに作図していて航空写真に写った幹線道路や誘導路、滑走路の区画が現在の地図とほとんど合致しないのが、おかしいと思っていました。
航空写真を複数枚継ぎ足したので、ズレたか?と思い、また戦後の農地開発が大規模に行われた?などと勝手に解釈し、航空写真をそのまま見た目で判断して現在の地図に転写したのですが・・・

ご指摘を受け、再度『池上区誌』の該当箇所を読み返してみると“副風向滑走路「南東幅員四〇〇米、延長一八〇〇米」の工事は完成を待たず・・・”となっており、最初に読んだ時も完成した主滑走路が短過ぎる事、未完成のはずの副滑走路が航空写真ではほぼ完成しているように見える事などが疑問だったのですが、再度地図と空撮を考察して謎が解けました。

飛行場の空撮北側に写っている海岸線の位置から、国土地理院の航空写真が右回りに45℃ズレている事に気づきました。
国土地理院の地図は方角が時々ずれているのですが、不覚でした。

改めて写真の方角を合わせてみると、現在の地図に滑走路や誘導路がぴったり合い、確かにこちらの方がしっくりきますね。

都会暮らしの私としては、池上地区の風景は子供のころ育った群馬の風景を思い出し懐かしく感じました。
また、何かお気づきの点が御座いましたら、宜しくお願いいたします。
記事は近日中に訂正させていただきます。
ありがとうございました。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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