当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍飛行場

大阪府東大阪市に大阪陸軍飛行場がありました。
大阪陸軍飛行場 滑走路南東端中央付近の「陸軍用地」標柱 南東から (2)(大阪)
▲民家の塀に遺る境界石標

【探索日時】
平成22年12月22日






大阪陸軍飛行場の概略※青字は地図にリンクしています。
大阪陸軍飛行場は昭和9(1934)年2月、(財)大阪防空飛行場(笹川良一、藤本忠兵衞)により大阪府中河内郡盾津村大字本庄、同新庄(現、東大阪市本庄中、新庄)に民間搭乗員養成用の大阪防空飛行場として建設が開始されますが、完成直後の9月30日、用地・施設全てが陸軍省に献納されます。
昭和10(1935)年6月1日、受納式が挙行され大阪陸軍飛行場として発足しますが、地盤が軟弱なうえ狭隘だったため給油地程度にしか運用されず、主に民間の國粹義勇飛行隊(笹川良一)の訓練を始めグライダー大会、模型飛行機大会、新聞社の記事輸送等に使用されていました。
後に海軍省に移管?(昭和17年頃か?この件については後述)、昭和19(1944)年、拡張を開始しますが、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、拡張中に停戦を迎えました。

8月28日、陸海軍所轄地、建物、施設等の国有財産を大蔵省に移管し食糧増産、民生安定、財政上の財源確保をすべく政府(東久邇宮稔彦王)は『戰争終結ニ伴フ國有財産ノ処理ニ関スル件』を閣議決定しますが、9月29日、飛行場・練兵場は占領政策の一環として米軍により接収され、再び内務省を経て大蔵省に移管、昭和22(1947)年4月20日、居住施設・格納庫跡が盾津町に払い下げられ、町立盾津中学校が開校します。
昭和25(1950)年8月1日、旧飛行場・練兵場は入植者、元の地権者を中心に農地として払い下げられます。
昭和44(1969)年1月、大阪府が飛行場跡地の大半を購入し、流通業務団地地区、トラックターミナルとして整備がされ現在に至ります。

現在は地名から、一般に盾津飛行場と呼ばれている様です。

要目
・用地 : 76,779坪(253,800㎡)
・建物 : 格納庫3棟(774㎡)、発動機工場、木工場、教育隊舎等10棟、
      寄宿舎、隊長宿舎、講堂兼道場、食堂、浴場等
・滑走路 : 2,460㎡(平面填圧)
※以上完成時、最終時は不明
大阪陸軍飛行場 昭和17年 大阪陸軍練兵場・同飛行場(大阪)
▲昭和17(1942)年の空撮
  右側が大阪陸軍飛行場、左側は大阪陸軍練兵場

大阪陸軍飛行場 USA-R500-37(231230)着色(大阪)
▲昭和23(1948)年12月30日の空撮(国土地理院 USA-R500-37)

大阪陸軍飛行場 大阪陸軍飛行場 現在(大阪)
▲現在の地図に境界を転写
① 竣工当初の飛行場範囲(第一期・第二期工事範囲)
② 格納庫・講堂
③ 拡張部 (昭和15年、陸軍による第三期工事)
④ 拡張部 (海軍移管後 昭和19年から)
⑤ 填圧滑走路 ( 〃 )
⑥ 飛行機運搬路 ( 〃 )
⑦ 大阪陸軍練兵場(昭和15年1月14日、開場)
※空撮から紫色点線まで拡張予定だったと思われますが、海軍移管後の詳細は不明です。


遺構について
現在は流通業務団地地区、トラックターミナル、学校などになり遺構は皆無ですが、僅かに外周境界線及び飛行機運搬路(誘導路)の一部が道路として遺ります。

A 境界石標
民家の塀に埋まり辛うじて遺ります。
大半が埋まっているため文字の全文は不明です。
大阪陸軍飛行場 滑走路南東端中央付近の「陸軍用地」標柱 南東から (2)(大阪)
▲寸法は15㎝角で、上部の17㎝のみが地表に露出、「陸」の字の
 「坴」のみが見えます。

大阪陸軍飛行場 滑走路南東端中央付近の「陸軍用地」標柱 上部(大阪)
▲頂部はセメントで汚れていますが、辛うじて方向表示が見えます。


B 記念碑の一部
盾津中学校の校門を入ってすぐ右側に飛行場が陸軍に献納された際に建立された「記念碑」を戦後、別の碑に転用した部分が遺ります。
大阪陸軍飛行場 元飛行場献納記念碑 (2)(大阪)
▲飛行場献納記念碑を戦後、表面を削り上半分を転用した碑

大阪陸軍飛行場 飛行場献納記念碑(大阪)
▲記念碑の元々の姿

大阪陸軍飛行場 盾津中学内銘盤 (2)(大阪)
▲転用碑の隣にある盾津飛行場跡地碑


C 西六郷耕地整理記念碑
六郷神社の境内にあります。
大阪陸軍飛行場 六郷神社の開拓記念碑(大阪)
▲盾津村村民が飛行場設定に尽力した事を顕彰しています。


⑤ 填圧滑走路跡
陸軍への献納後に設定されました。
現在は区画すら遺されていません。
大阪陸軍飛行場 新滑走路 東から (2)(大阪)
▲正面のコンビニ方向に滑走路が伸びていました。


⑥ 飛行機運搬路
大阪陸軍飛行場は海軍指定会社の松下航空機㈱の試験飛行場として海軍により拡張された様で、飛行場から松下航空機㈱まで飛行機運搬路が敷設されていました。
大阪陸軍飛行場 北・北西誘導路合流部 南から(大阪)
▲滑走路北端から松下航空機㈱(現、三洋電機)方向に伸びる飛行機運搬路(右)


大阪陸軍飛行場 略歴
第一次世界大戦(大正3・1914年7月28日~大正7・1918年11月11日)において初めて航空機が兵器として運用され、その技術は急速に発展、各国は技術開発、搭乗員育成に注力していきます。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)、昭和7(1932)年1月28日、上海事變の勃発に伴い、現地慰問に赴き戦場を視察した國粹大衆党党首・笹川良一氏は民間における航空体制の一刻も早い整備を痛感、民間において飛行士・整備士を養成、有事に際し国防に寄与する事を目的とし國粹航空聯盟を結成します。

昭和7(1932)年9月、國粹航空聯盟は國粹義勇飛行隊に改組し、陸相・荒木貞夫大将、逓信相・南弘、第四師團長・寺内壽一中将、第十六師團長・山本鶴一中将らの賛助を受け、陸軍省から甲式二型練習機(ニューポール83E2型)2機の払下げを受け、奈良陸軍練兵場を借り訓練を開始します。

当時、関西には本格的な飛行場が無く(木津川河口の大阪飛行場は狭隘なうえ工場煤煙により視界不良)、笹川氏は有事の際に大阪防空を担うべく、大阪近郊に國粹義勇飛行隊専用飛行場の建設を計画、大阪防空飛行場建設委員會(笹川良一、勝本忠兵衞、湯川忠三郎、田中季太郎)を発足、住友家、三井家、岩崎家から寄付を集めます。

笹川氏は灌漑の便が悪く耕地整理事業中であり、かつ工場地帯の煤煙の影響を受けない盾津村に着目、昭和8(1933)年9月19日、笹川氏と該当用地所有者45名から専任された大阪防空飛行場設置委員12名(長・木村匡雄盾津村村長)との間で申合書が作成されました。
11月15日迄に大半の土地を買収(1反=650円)、財團法人大阪防空飛行場(笹川良一、藤本忠兵衛)が発足します。
12月8日10:00、地鎮祭が挙行され、昭和9(1934)年2月、建設工事が起工されます。
建物の設計・監督は永田工務店、建築請負は錢高組・上田組・小緑組、土木工事設計・監督は杉森益次郎氏、土木工事請負は西尾組、水道工事は淺野物産、電気工事は磯野工業所が施工します。

8月頃、追加の第三期工事の用地買収と工事が実施され、9月、第一・第二期工事が完了、大阪防空飛行場は完成しますが、9月30日、笹川氏は用地全てを陸軍省に献納します。
笹川氏の国を思い将来を見据え、且つ滅私奉公精神の発露からの行動と思われます。
大阪陸軍飛行場 昭和9年10月30日 大阪陸軍飛行場(大阪)
▲飛行場竣工直後の空撮(昭和9年10月30日撮影)

昭和10(1935)年6月1日1030、第四師團長・東久邇宮稔彦王中将御台臨のもと受納式が挙行され、大阪防空飛行場は大阪陸軍飛行場と改称します。
陸軍省への献納後も國粹義勇飛行隊は予定通り当飛行場において訓練を実施しますが、地盤が軟弱で且つ大型化する飛行機の運用には既に当飛行場は狭隘で不向きな事から、軍が本格的に運用する事は無く中継の給油に用いられる程度で、専ら民間のグライダー大会や模型飛行機大会、新聞社の記事輸送等に使用されます。

昭和14(1939)年8月25日、第四師團隷下の歩兵第八、同第三十七聯隊が使用していた城東陸軍練兵場を陸軍造兵廠大阪工廠の拡張に充当する事が決定、昭和15(1940)年1月14日、大阪陸軍飛行場の西隣に大阪陸軍練兵場が開場します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。
その後、大阪陸軍飛行場は海軍省に移管?され、昭和19(1944)年、飛行場の拡張が開始されます。

海軍省に移管(そもそも移管されたかどうかも不明)された時期は不明ですが、昭和17(1942)年10月、飛行場北東の北河内郡住道町(現、大東市三洋町の三洋電機、大東朋来住宅)に海軍の要請で松下幸之助氏が設立した海軍指定工場の松下航空機株式會社(井植歳男社長)が竣工し、試験飛行場が必要な事から、移管されたのであればこの頃と思われます。

昭和19(1944)年春頃、松下航空機㈱は九九艦爆を基礎にした木製練習機「明星」の試作を開始、昭和20(1945)年1月31日、試作1号機の進空式が大阪陸軍飛行場(海軍移管後の正式名称は不明)において実施されますが、離陸直後に墜落し破損してしまいます。
大阪陸軍飛行場 明星の進空式(20年1月、盾津において、右端が松下幸之助)(大阪)
▲昭和20年1月31日、明星の試作1号機の進空式(右端が松下幸之助)

明星は停戦までに4機完成しましたが、実用化には至りませんでした。

飛行場は海軍により拡張・設営を急ぐ中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、陸海軍所轄地、建物、施設等の国有財産を大蔵省に移管し食糧増産、民生安定、財政上の財源確保をすべく政府(東久邇宮稔彦王)は『戰争終結ニ伴フ國有財産ノ処理ニ関スル件』を閣議決定しますが、28日、横浜に本部を設置した連合軍は31日、占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達します。

9月29日、飛行場・練兵場は大阪に進駐して来た米軍により接収され、9月24日に我が政府がGHQと交付した『日本軍隊より受領し、且受領すべき資材、補給品、装備品に関する件』により 内務省を経て大蔵省に移管されます。
昭和22(1947)年4月20日、居住施設・格納庫跡が盾津町に払い下げられ、町立盾津中学校が開校します。
昭和25(1950)年8月1日、旧飛行場・練兵場は入植者、元の地権者を中心に農地として払い下げられます。
昭和44(1969)年1月、大阪府が飛行場跡地の大半を購入し、流通業務団地地区、トラックターミナルとして整備がされ現在に至ります。


大阪陸軍飛行場の海軍省移管について
同件に関しては『東大阪市史 近代1』に「戦争末期、飛行場は海軍に移管されており」との記述があるのみで、同飛行場について最も詳述されている『かたりべたてつの飛行場』には海軍省移管についての記述(同書は戦時中の経緯は殆ど触れず)は無く、戦後の移り変わりの部分に「飛行場の北にあった松下海軍飛行場」とあるのみです。
また浪速鉄道について記述された資料にも「海軍省はこの時に飛行機開発と併行し、片町線鴻池新田 - 住道間の南側に新たな滑走路(海軍省直轄飛行場)を建設」と同様の記述があり、両資料は海軍省は別の飛行場を設営していたと捉えています。

因みに一次資料である『陸軍飛行場要覧』に当飛行場の記載は無く、『試製基地要図第五(近畿地区)』(当飛行場は通称の“盾津”、大正が”大阪”の記載)には「民間」の表示になっており、略図は完成時の形状です。

『東大阪市史 近代1』によると当飛行場が海軍省に移管されたばかりか、隣接する大阪陸軍練兵場ごと海軍に移管されたと思われる記述があります。
参考までに以下に該当部分を抜粋します。

飛行場・練兵場に買収された土地の、所有移動のようすを断片的な記録をもとに追ってみると、昭和九年笹川良一・勝本忠兵衛が買得した土地は昭和九年九月三〇日に陸軍省に寄付されている。
また、拡張の一回目は同一五年で陸軍省が購入している。これが練兵場設置の時期であろう。
二回目は海軍移管後で、昭和一九年に海軍省が購入している。このときは現在の中央環状線の西側、七軒家のあたりまで拡張した。  ※円内数字、下線は便宜上加筆

この記述は飛行場と練兵場を合わせた“軍用地”との捉え方なので少々ややこしいですが、下線部通りであれば、海軍省は既に練兵場を飛行場に組み込んでいる様に取れます。
また、練兵場がそのままであれば昭和19年の拡張は飛行場から練兵場を跨いだ西側に飛び地を買収した事になり不自然です。
当飛行場はかなり狭隘な事から新鋭機を運用するには練兵場(少なくとも北側一帯)ごと飛行場に組み込むのが手っ取り早いのですが、練兵場も必要な事から、下線部は③の文章の後ろでは無く、②の後ろに来るのではないでしょうか?

同市史によると海軍に移管された大阪陸軍飛行場ですが、『陸軍航空の鎮魂 総集編』によると昭和20(1945)年5月、第五十一航空師團(岐阜)において編成された特別攻撃隊(第三百六十七、三百六十八、三百六十九、三百七十、三百八十五、三百八十六、三百八十七、三百八十八、三百八十九、三百九十、三百九十一、三百九十二振武隊:各6名、九五式練習機装備)が進出、錬成中に停戦を迎えている事から停戦まで陸軍が使用していた様です。

一次資料から海軍省が松下航空機㈱の南西一帯(飛行場北側)の買収を進めていた事は事実の様なので、個人的には当飛行場は海軍省への移管では無く、松下航空機㈱の試験飛行場の必要性から海軍省が隣接地を買収し、拡張したのでは無いかと思います。


主要参考文献
『かたりべたてつの飛行場』 (平成12年1月 わかくす文芸研究会)

『東大阪市史 近代1』 (昭和48年 東大阪市史編纂委員会編 )

『同行二人松下幸之助と歩む旅』(平成20年4月 北康利)

国土地理院地図(USA-R500-37)
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No Title

盾津に住んでいる者です
地元の歴史に興味があり元々飛行場だったことを知ってから、色々調べていました。
こんなにも詳しくまとめてくださってありがとうございます!

Re: No Title

コメント、ありがとうございます。

大阪陸軍飛行場は設置の経緯や陸軍に献納されたところまでは参考文献に詳細が書かれており、判明しているのですが、戦時中の事は殆ど史料が無く判りません。

『東大阪市史』には「海軍省に移管後云々」となっているのですが、陸軍飛行隊略史には戦争末期に度々「盾津」の名称が出てきており、隣接する陸軍練兵場を挟んだ西側を海軍がなぜか買収する等、良く分からない事だらけです。

本文中では東大阪市史の記述から「練兵場も海軍に移管」と記しましたが、これはどうやら誤りの様です。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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