当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

伊丹飛行場

大阪府豊中市と兵庫県伊丹市にまたがり所在する大阪国際空港(伊丹空港)は伊丹飛行場の跡地にあり、北6kmの五月山北麓、北東6kmの箕面山南麓には横穴式格納壕がありました。
箕面 B 壕口 北西から(伊丹陸軍飛行場)
▲箕面山南麓に遺る格納壕

【探索日時】
平成22年3月14日、平成25年1月20日

【更新情報】
平成28年4月20日
・「箕面格納壕」追加。本文改訂。





伊丹飛行場の概要
伊丹飛行場は兵庫縣川邊郡伊丹町、同神津村(ともに現、伊丹市)、現在の県道99号線以北の大阪国際空港の範囲とほぼ同じ敷地にに所在しました。

同飛行場は昭和14(1939)年1月17日、逓信省により純民間の大阪第二飛行場として開場しますが、完成直後に発展する飛行業界に対応すべく拡張を開始、昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争開戦に伴い陸軍の防空飛行場として転用され伊丹飛行場に改称します。
昭和19(1944)年末、敵機の空襲が激化、周辺に掩体壕、横穴式格納壕の設定が開始され、昭和20(1945)年3月、海軍機が進出、共同で本土防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月、米軍により接収されITAMI AIR BASEと改称、昭和26(1951)年10月25日、民間航空と共用を開始、昭和33(1958)年3月18日、米軍より全面返還され大阪空港と改称、昭和34(1959)年7月3日、第1種空港として国際路線を開設、大阪国際空港と改称します。
昭和41(1966)年12月、敷地が拡張され、現在に至ります。

なお陸軍飛行場関係の資料によっては伊丹の西側に「攝津(摂津)」と記載されているものを散見しますが、攝津飛行場は伊丹の通称であり、同一飛行場を別々と誤認したものです。


伊丹飛行場 要目
用地 : 開場時 142,406坪 (520,000㎡)
     : 昭和15年拡張時 538,079坪 (1,650,000㎡)
     : 昭和20 562,228坪 (1,860,000㎡)

建物 : 格納庫9棟、兵舎等75棟、他36棟 (収容人員2,000名)

滑走路 : 1200×100m、1000×60、800×60 コンクリート舗装

掩体壕 : 大型6、小型20


遺構について※青字は地図にリンクしています
伊丹飛行場
残念ながら飛行場は戦後に大幅に改修されてしまい、遺構は皆無です。
わずかに飛行場の区画、及び主滑走路(1200×100m)の区画が現在も滑走路としてほぼそのまま遺っていますが、当然舗装などは改修されています。
伊丹陸軍飛行場(米軍偵察写真)(伊丹陸軍飛行場)
▲米軍偵察写真

伊丹陸軍飛行場 現在(伊丹陸軍飛行場)
▲現在の地図に当時の区画を転写
 ①緑枠・・・「大阪第二飛行場」(昭和14年)
 ②青枠・・・逓信省による拡張(昭和15年) : 陸軍飛行場時
 ③赤枠・・・陸軍による拡張(昭和20年)
 ④点線内・・・兵舎地区

伊丹 滑走路 北から(伊丹陸軍飛行場)
▲主滑走路と同じ区画にある現在の滑走路

伊丹 掩体壕跡(伊丹陸軍飛行場)
▲猪名川河川敷には当時、大型掩体壕が4基ありましたが、河川改修で滅失したと思われます。
 土山がありますが、掩体壕の痕跡???


東山横穴 (中川原横穴)
伊丹飛行場から北に6km、五月山北麓にありました。
東山横穴は対艦攻撃部隊として第七六二海軍航空隊(通称「T攻撃部隊」)麾下に編入された陸軍の飛行第七戰隊に対し雷装を実施する第五十二魚雷調整班が魚雷格納庫として使用した横穴式格納壕です。

地元では「五月山地下壕」、「五月山魚雷格納庫」、「中川原地下壕」、「中川原魚雷格納庫」などと呼ばれている地下壕ですが、残念ながら戦後に米軍により爆破されてしまい完全に崩落しており、壕口が僅かに遺る程度です。

名称については大阪警備府の『引渡目録』や第五十二魚雷調整班の『保管兵器目録』に「東山横穴」または「中川原横穴」の記載があります。

東山横穴については『引渡目録』と下記参考文献の聞き取りでは規模、形状が異なりますが、「引渡目録あるある」と思われます。
東山横穴(伊丹陸軍飛行場)
▲『第五十二魚雷調整班』 所収の「東山横穴略圖」(全長約230m)

以下に主な証言を列挙します。
1,壕口は100mづつ離れ3ヶ所あった。(魚雷調整班員)
2,壕口は11ヶ所あり、壕の形状はそれぞれ直線、J型×各1、U型×3、10mおきの4ヶ所の壕口が内部で1ツの部屋に接続(住民)
3,壕口6~7ヶ所(〃)
4,壕口13ヶ所、30mづつ

① 壕口
南組資材置場の裏にありますが、西側から回りこんで行けます。
壕本体は完全に崩落して谷状になっていますが、壕口両側に施工されたコンクリート補強が遺ります。
30㎝程の石をコンクリートで固め補強しています。
池田 ①坑 中央(伊丹陸軍飛行場)
▲左右の苔生した部分が石積み補強

池田 ①坑 右側(伊丹陸軍飛行場)
▲向かって右側の補強

池田 ①坑 左側(伊丹陸軍飛行場)
▲同左側の補強


② 壕口
道路の突き当り、砂防壁に埋まるように壕口右側の擁壁のみが遺ります。
池田 ②坑 右側(伊丹陸軍飛行場)
▲①同様に30㎝大の石をコンクリートで固めて築造されています。


④ 壕口
証言によると②の壕口から東に進んだ辺りに③、さらに進んで④の壕口があり、内部で大部屋に繋がっていたと言われますが、残念ながら砂防工事で破壊され痕跡すらありません。


イ 陥没孔
直径3×深さ3。
①壕口西側にある山道を登って行くと①・②の壕口から続く壕本体の陥没孔と思われる孔が斜面に開いています。
池田 ①坑 崩落部イ(伊丹陸軍飛行場)


ロ 陥没孔
直径5×深さ4m。
池田 ①坑 崩落部ロ(伊丹陸軍飛行場)


ハ 陥没孔
直径4×深さ5m。
池田 ①坑 崩落部ハ(伊丹陸軍飛行場)


ニ 陥没孔
直径5×深さ2m。
証言の様に「大きな部屋」があったとすれば大規模な陥没(この辺りは地盤が緩い)があると思うのですが、この様に点々と陥没しているところを見ると、『引渡目録』にある様な通路状の地下壕だったと思われます。
池田 ①坑 崩落部ニ(伊丹陸軍飛行場)

池田 東山横穴 目録(伊丹陸軍飛行場)
▲『目録』を元にした配置

池田 東山横穴 証言(伊丹陸軍飛行場)
▲証言を元にした配置

証言によると、この格納壕の他にも隧道があった様なので、東側の排水溝を挟んだ斜面も見てみました。
崩落跡の様な谷状の窪地がありますが、これが地下壕跡なのかは判然としません。


箕面地下壕
有名な箕面大滝に続く車道の登り口、箕面浄水場の横に遺ります。
該当地下壕は取材から軍関係は間違い無い様ですが、飛行場関連の施設かは不明です。
紹介遺構が乏しい伊丹飛行場(^_^;)と敢えて抱合せましたが、近隣には東京第一陸軍造兵廠大宮製造所池田工場もあったので、もしかしたらそちらの関係かも知れません。
箕面(伊丹陸軍飛行場)
▲地下壕配置(オレンジ色ぼ線は旧道)

地下壕は全てコの字型の典型的な格納壕で、道路に沿って6ヶ所設定されていましたが、現在は5ヶ所が崩落、1ヶ所のみ遺されています。
A 崩落跡
浄水場北側にありますが、東側が道路建設により滅失しています。
箕面 A 西側(本体崩落部)西から(伊丹陸軍飛行場)

B 地下壕
道路から見えます。
内部は不法投棄がされていますが、通行が困難なほどではありません。
箕面 B 壕口 西側(伊丹陸軍飛行場)
▲西側壕口
 巾は1.5m、高さは2m程です。

箕面 B 内部 西から(伊丹陸軍飛行場)
▲5m程進むと直角に曲がります。

箕面 B 内部 東から(伊丹陸軍飛行場)
▲15m程でもう一箇所の壕口に接続します。

箕面 B 壕口 東側(伊丹陸軍飛行場)
▲東側壕口


C 崩落跡
箕面 C 北側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲北側壕口跡
 崩落して溝状になっています。

箕面 C 南側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲南側壕口跡
 崩落して溝状になっています。

箕面 C 南側(本体崩落部) 南から(伊丹陸軍飛行場)
▲壕本体は崩落して埋まっています。


D 崩落跡
箕面 D 北側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲北側壕口跡
 崩落して溝状になっています。

箕面 D 南側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲南側壕口跡
 崩落して溝状になっています。

箕面 D 北側(本体崩落部) 北から(伊丹陸軍飛行場)
▲壕本体は殆ど崩落しています。


E 崩落跡
箕面 E 北側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲北側壕口跡
 崩落して溝状になっています。

箕面 E 南側壕口(伊丹陸軍飛行場)
▲南側壕口跡
 崩落して溝状になっています。


F 崩落跡
箕面 F 東側(本体崩落部)東から(伊丹陸軍飛行場)
▲崩落して溝状になっています。


その他
伊丹飛行場近隣の駒の森十二神社にコンクリート製の民間防空壕が遺ります。
昭和18(1943)年に築造された様で、入口は閉鎖されていますが内部は遺っています。
池田 防空壕 南側入り口(伊丹陸軍飛行場)
▲防空壕全体

池田 防空壕 南側入り口から(伊丹陸軍飛行場)
▲南側入口から見た内部


伊丹飛行場 略史
大正8(1919)年2月5日、ドイツにおいてベルリン-ワイマール間の世界初の定期航空便が開設され、航空機による貨物、人員の輸送が開始されます。

大正10(1921)年、我が国も定期航空便の開設を急ぐべく、逓信省航空局は木津川河口右岸の船町埋立地70,000坪を飛行場用地として選定し、大阪飛行場が開場します。
大阪飛行場は陸軍省と大阪市港湾部の共同所管となり、大正12(1923)年、南側に西田飛行機研究所と日本航空會社の飛行機発着場が完成し、大阪-別府間の水上飛行機による定期路線が開設されます。

昭和2(1927)年6月1日、『航空法』が施行、逓信省航空局は近隣諸国間に民間定期航空輸送路線の開設を立案、東京(立川)、大阪、福岡(太刀洗)に公共用飛行場を設置し、東京-大連、大阪-上海路線を開設することを提示しました。

昭和4(1929)年4月1日、大阪飛行場は118,000坪に拡張、東西720m、南北400mの水陸両用飛行場として再整備されますが、、同飛行場は寒暖の差による濃霧の頻発、工場煤煙による視界不良、さらに航空機の大型化などに加え、大阪港の堤防設置計画による水上機発着の支障により次第に不便さが増していきます。

昭和6(1931)年9月5日、大阪市は大和川河口280,000坪を新たに埋め立て、大阪飛行場の代替として新飛行場の建設を逓信省航空局に提示、昭和8(1933)年7月、新飛行場が認可され、工事を開始します。

大阪市の飛行場新設計画に産業の転出を懸念した兵庫県が反対、新たに鳴尾村(現、西宮市)への誘致を開始します(鳴尾案は用地確保が進捗せず、新たに大庄村に変更)。

大阪市と兵庫県の飛行場誘致闘争は操縦士団体も絡んだ複雑な様相を呈し、逓信省の曖昧な態度、昭和9(1934)年に大阪飛行場で起きた夜間飛行中の事故、9月21日発災のの室戸台風からの復興による財源不足と相まって新飛行場の開場は迷走しながら大幅に遅延(昭和14年頃、大和川河口の埋め立てが完了するも、昭和17年5月29日、事業を断念)します。

逓信省は大阪市の遅々として進まない飛行場新設に対し新飛行場の用地調査を開始、独自に大阪近郊に第二飛行場新設構想を模索します。

昭和11(1935)年7月、逓信省は候補地の中から、兵庫縣川邊郡神津村、大阪府豊能郡池田町、同豐中市にまたがる地域(142,406坪)に大阪第二飛行場を建設することを決定、伊丹村、神津村は地域の発展に寄与するとして歓迎、10月、兵庫縣と逓信省の間で工事委託契約が調印され、用地買収が開始されます。
該当用地には農家が2件しか無かった事、水利が悪く痩地であった事工業地化を望む地主の要望もあり、移転交渉及び用地買収は迅速に行われ、昭和11(1935)年12月9日、飛行場正門の小坂田で地鎮祭と起工式が挙行されました。
大阪第二飛行場 測量(伊丹陸軍飛行場)
▲大阪第二飛行場の測量作業

大阪第二飛行場 地鎮祭(伊丹陸軍飛行場)
▲地鎮祭後の記念撮影

新飛行場用地は高低差のある土地に加え軟弱な地盤、さらに昭和13(1938)年7月3日~5日、阪神大風水害が発災し、現場が被災したうえ復旧に労働力が流れ工事は難航します。
大阪第二飛行場 設定作業(伊丹陸軍飛行場)
▲軽便鉄道を用いた建設作業の様子

昭和13(1938)年4月1日、『國家総動員法』(法律第五十五號)が施行、6月9日、文部省より『集團的勤労作業運動實施ニ關スル件』の通牒が出され近隣学校の學校報國隊13,710名が作業に加わります。

昭和13(1938)年末、滑走路2本(830×60m、670×60m)、本部事務所、格納庫3棟、夜間照明設備が完成、日本航空輸送㈱の事務所が進出してきます。

昭和14(1939)年1月14日、大阪飛行場の解散式が挙行(大阪飛行場は水上機の専用空港として継続使用)され職員は新飛行場に移転、17日、大阪第二飛行場の開場式(松尾静麿所長)が挙行されし陸軍機による模擬空中戦が行われます。

純民間飛行場として大きな期待を持って運用が開始された大阪第二飛行場でしたが航空業界の急激な発展は著しく、狭隘なうえ着陸設備も不十分な事から開場とともに時代遅れな飛行場として国際便は大阪を利用せず福岡から東京に直航するようになります。

昭和14(1939)年1月16日、大阪商工會議所において池田清大阪府知事、坂間棟治大阪市長、中部防衛司令官・谷壽夫中将を始め府市関係者200名が会合、大阪第二飛行場に変わる新飛行場(「大阪中央飛行場」と呼称しますが、後に兵庫県、神戸市も参入し「阪神國際飛行場」と呼称)建設を提言し、政府に陳情しますが、最終的に第二飛行場の拡張を決定します。
政府は支那事變(昭和12年7月7日、勃発)の拡大に伴う都市防空の観点から阪神國際飛行場(旧大阪第二飛行場)を軍民共用を計画しますが、大阪府、兵庫県は飽くまで純民間にこだわり反対、両府県民の協力により別に軍用飛行場の設定を計画します。

昭和15(1940)年8月28日、陸軍航空本部は大阪府中河内郡大正村(現、八尾市)に所在した阪神飛行學校の設備全部の献納を受け、これを防空飛行場として拡張する事に決定、大阪府、兵庫県はその拡張、買収費用の一部を負担する事で阪神國際飛行場の純民間運用計画を維持します。

逓信省は直ちに陸軍の協力を得て阪神國際飛行場用地買収を開始、小坂田52戸、東桑津19戸の両集落が移転・解村し、10月28日、大阪第二飛行場において地鎮祭が挙行されます。
拡張工事は大阪府土木部の指揮のもと、募集に応じた労務者を中心に近隣の勤労奉仕隊、學校報國隊の協力により進められます。

昭和16(1941)年9月、一時的に飛行第十三戰隊第二中隊が進出し、防空にあたります。
12月8日、大東亜戰争が開戦、拡張・建設中の阪神國際飛行場は陸軍の防空飛行場として転用が決定、伊丹飛行場と改称され拡張は続行されます。

12月28日、飛行第十三戰隊第二中隊は柏飛行場(千葉)に移駐します。

昭和18(1943)年4月、飛行第二百四十六戰隊が伊丹飛行場に進出、12月5日、鳳山陸軍飛行場(台湾)に移駐、同日、伊丹において飛行第二十戰隊が編成され、大正陸軍飛行場に移駐します。

昭和19(1944)年3月中旬、飛行第十九戰隊が明野陸軍飛行場から、4月28日、飛行第五十六戰隊が大正から伊丹に進出、5月20日、飛十九は比島に、同日、、飛五十六は小牧陸軍飛行場に移駐(その後、飛五十六は伊丹に帰還、停戦まで近畿防空に当たります)、9月1日、飛行第七十二戰隊が北伊勢陸軍飛行場から進出、11月30日、相模原陸軍飛行場に移駐、12月11日、飛行第百三戰隊が北伊勢から進出、昭和20(1945)年3月10日、熊之庄陸軍飛行場に移駐、3月、第三三二海軍海軍航空隊が進出、6月29日、飛行第七戰隊本部が伊丹に進出し近畿、中部地方の防空飛行場として運用されるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月、伊丹飛行場は米軍に接収されITAMI AIR BASEと改称されます。

昭和26(1951)年10月25日、民間航空との共用を開始、昭和33(1958)年3月18日、米軍から全面返還され大阪空港と改称します。

昭和34(1959)年7月3日、第1種空港として国際路線を開設、大阪国際空港と改称、昭和41(1966)年12月、敷地が拡張され、航空機のジェット化、大型化が進む中、昭和45(1970)年2月5日、3,000mのB滑走路が供用開始され、現在の大阪国際空港がほぼ完成します。


東山横穴 略歴
明治期から昭和初期にかけ、地元の住民が磨き砂を採取すべく横穴1本を掘削します。
昭和20(1945)年3月、大阪海軍施設部(部隊の詳細不明)主導のもと、労務者2,500~3,000名を中心に、近隣からの勤労奉仕隊、學校報國隊の協力を得て既存の横穴を転用・拡張を実施、6月中旬、隧道式格納壕が完成します。
壕口のみコンクリート巻立が施工され、内部は支保工で補強されました。

完成とともに細河國民學校に進出していた第五十二魚雷調整班に引き渡され、九一式航空魚雷、及び実用頭部の格納に利用されましたが、飛行第七戰隊に出撃の機会は訪れず、魚雷が使用されること無く、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月、東山横穴は米陸軍により接収され、11月、支保工の木材が近隣住民に払い下げられ撤去されるとともに、壕口は爆破処理されます。
昭和21(1946)年から昭和24(1949)年にかけ、米軍により一番坑が掘削され魚雷を運び出し「ITAMI AIR BASE」に運搬され処分されました。


展開部隊
飛行第十三戰隊(誠一一七〇三)
昭和12(1937)年9月、飛行第四聯隊(近藤時習大佐、太刀洗)に飛行第十三聯隊の編成下令、12月1日、加古川陸軍飛行場(兵庫)において編成完結(神谷正男中佐)、昭和13(1938)年3月15日、開隊式が挙行されます。
聯隊は当初、本部と九五式戦闘機Ⅱ型1個中隊からなる変則編制で本土防空を主任務とし、第一飛行集團司令部(牧野正迪中将)に隷属しましたが、防空戦闘において防衛總司令官の指揮下に入り中部軍に配属されました。

昭和13(1938)年8月30日、飛行第十三戰隊に改編されます。

昭和14(1939)年7月、戰隊内に練習部が設置され、下士官操縦者の戦技教育を開始します。

昭和15(1940)年9月、近畿の防空任務を担当していた第一中隊は九五戦から九七戦に機種改変、練習部は第二中隊に改編されます。
飛行第十三戰隊(伊丹陸軍飛行場)
▲飛行第十三戰隊の九七式戦闘機(加古川陸軍飛行場において)
 尾翼に加古川の「カコ」と川を図案化した部隊章が描かれています。

昭和16(1941)年9月、大正陸軍飛行場(大阪)に移駐し、第二中隊を新設された大阪第二飛行場(後、伊丹飛行場)に派遣します(戰隊戦力は九七戦25機)。
11月、明野陸軍飛行場の獨立飛行第百二中隊を編入し第三中隊とし、司偵1個中隊を新設します(戰隊戦力は九七戦37機、司偵不明)。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。
28日、1個中隊を大正に残置し、柏陸軍飛行場(千葉)に移駐し、第十七飛行團司令部(中西良介中将)指揮下に編入され、帝都・東部軍防空演習に参加、昭和17(1932)年1月、大正に帰還します。

3月上旬、第一中隊を京城陸軍飛行場に、5月上旬、第二中隊を札幌飛行場に派遣し、それぞれ防空に当たります。

4月、キ45改二式複座戦闘機(後の屠龍)に機種改変が決定します。

8月、第二中隊は加古川に移駐、10日、飛行第二百四十六戰隊新編の基幹要員となります。
戰隊は新編された第十八飛行團司令部(北島熊男大佐、大正)の隷下に編入されます。
8月20日、二式複戦甲型3機が配備され、伝習教育を開始します。

昭和18(1943)年3月中旬、南東方面転出の内示があるも、二式複戦は定数揃わず、訓練も未了でしたが、下旬、戦隊長機を含む定数37機の受領を完了(甲型34機、乙型3機)します(乙型は甲型下面の二十粍機関砲を三十七粍戦車砲搭載に改造)。

4月2日、南東方面転用が正式発令され、第六飛行師團司令部(板花義一中将)に隷属転移します。
二式複戦は定数の37機が配備されましたが訓練が不十分だったため、戦隊長秋田熊雄中佐は出発延期を具申、4月20日、先発隊20機(うち乙型3機)と整備員、川崎航空機技術者と機材を載せた輸送機6機が秋田中佐に率いられ大正を出発しラバウルに向かうも故障機が続出し進出は困難を極めます。
21日、地上勤務者が青木五三郎大尉に率いられ2隻の輸送船に分乗し宇品を出港します。

5月11日、先発隊9機がラバウル南飛行場(ココポ)に到着(先発隊の全機進出は6月下旬)します。
17日、地上勤務者を載せた輸送船の1隻「英蘭丸」が敵潜水艦グレイバックの雷撃により沈没、7名が散華、多くの器材を失ってしまいます。
20日頃、P38の偵察型F5、1機を撃墜します。
23日、後続12機(横山利男中尉)は空母「雲鷹」と「冲鷹」に搭載され横須賀を出航、トラック島春島飛行場で訓練の後、6月末にラバウルに前進し全34機がラバウルに集結完了(うち稼動機31機)します。
元獨立飛行第八十四中隊長長野綱男少佐が新戦隊長として着任します。

7月8日、第二(新制)、第三中隊をウエワク東飛行場へ分遣するも、途中、敵機と交戦、横山利男中尉(操縦)・流田軍曹(同乗)が散華(部隊初)してしまいます。
戦隊は主に船団護衛及び夜間防空任務に就きますが、軽快な単発機相手の空戦に苦戦します。

8月16日深夜、ウエワクにB17、B24爆撃機計48機が来襲、邀撃により2機(不確実1機)を撃墜します。

17日未明、再びB25爆撃機32機、P38戦闘機85機の奇襲攻撃を受け、18機が地上撃破され稼動機が2機になってしまいます(第四航空軍の保有機約130機も約40機に激減)が、3月に戦力消耗により内地に帰還した第十二飛行團がラバウルに残置した一式戦を加えた変則編成となります。

21日、一式戦3機で出撃し、P38戦闘機2機を撃墜するも2機を失い、8月末の稼動機は一式戰10数機、二式複戰数機に減少してしまいます。

9月、第一中隊がウエワクに前進し、連日ウエワク邀撃、船団護衛、ホポイ進攻援護に当たります(9月23日時点での稼動機は一式戦6機、二式複戦2機)。
9月末、マニラに転進した飛二十四・五十九戰隊が残置した一式戰を加えてウエワク邀撃戦に参加します。
11月6~9日、4回に渡り他戰隊と合同でマーカム河谷の敵飛行場攻撃を実施します。
16日、ウエワク上空で長野戦隊長が散華してしまいます。
30日、ワクデ島に後退し、第七飛行師團司令部(須藤栄之助中将)に隷属転移します。
戰隊の稼働機は一式戰7機、空中勤務者は16名でした。

12月、再度二式複戰に機種改変するも1ヶ月程で一式戰装備に戻り、補充者と補充機を迎え戦力の再建に務めながらカメリー、リアン、ガレラ飛行場を機動しつつバンダ海周辺の防空・船団護衛に当たります。

昭和19(1944)年4月、ハルマヘラ島ワシレ飛行場に移駐し、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変します。
4月23日、米軍がホランジアに上陸して来たため、26機でヌンホル島カメリー飛行場に前進します。

5月16~17日、P38戦闘機の攻撃で空中勤務者4名が散華、ムミに転進します。
27日、米軍がビアク島に上陸、28日未明、8機でビアク沖の敵艦船を攻撃します。

6月1日、ムミが空襲を受けて稼動機が2、3機に激減、6月3日、ワシレへ転進します。

7月27日、ハルマヘラ島に敵機来襲、邀撃するも、P38戦闘機の奇襲を受け3名が散華してしまいます。

8月、アンボンに転進、17日、11機でB24、P38戦爆連合の敵編隊の邀撃を行うも、戦果は無く3機が撃墜されてしまい、戦力低下を防ぐため暫く邀撃戦が中止されます。

8月下旬、ケンダリに転進、9月16日、B24爆撃機の空襲により14機が地上撃破される大損害を受けてしまいます。

9月16・18日、米軍がモロタイ島に上陸、少数の一式戦に爆弾を懸吊して出撃するも3機が未帰還となってしまいます。
25日・28日・30日、敵機邀撃戦で4機が撃墜されてしまい、10月上旬の稼動機は3機にまで減少してしまったため、10月9日、伊丹に帰還して戦力回復にあたり一式戰Ⅲ型を受領し錬成に努めます。

11月19日、先発隊(一式戰Ⅲ型)27機が伊丹を出発、12月3日、ボーラック飛行場(フィリピン)に前進し捷號作戰に参加します。
戰隊は12月6日、ブラウエン降下部隊の援護、船団護衛、タ彈攻撃など連日出撃、114日、特別攻撃隊「菊水隊」(丸山義正大尉以下49名、百式重爆9機)の援護にあたった3機が敵機と交戦し撃墜されるなど戰隊長・中野和彦大尉以下を失い戦力が半減してしまいます。

12月中旬、後発隊(沓掛良治少尉)がルソン島に前進するも空襲により稼動機が減少、12月29日の出撃を最後に台湾に転進します。

先発隊もまた月末までに稼動機が払底してしまったため、九七重爆で臺灣に転進し後発隊と合流、昭和20(1945)年1月16日、第三航空軍司令部(木下敏中将)に隷属転移、昭南島(シンガポール)テンガー飛行場に集結、四式戰に機種改変します。

3月上旬、獨立第二十五飛行團司令部(北川潔水少将)に隷属転移、四式戰約10機と一式戰Ⅲ型約20機でサイゴンに展開し防空及び対潜警戒に当たりB24爆撃機3機を撃墜します。
3月末、コンポンクーナン飛行場に移駐、4月上旬、コンポントラッシュ飛行場に移駐、5月28日、コタバル飛行場(馬来)に展開し、す號作戰(油槽船団の護衛)に参加します。

7月15日、米軍に占領された沖縄を攻撃すべく第二十五飛行團(山崎武治中佐)とともに台湾屏東に移駐し、第八飛行師團司令部(山本健児中将)に隷属転移するも、練度低下による不時着機が続出、稼動機はコタバル出発時の20機から数機にまで減少してしまいます。

8月15日、決號作戰(本土決戦)参加のため九州に移駐する準備中に『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。昭和21(1946)年3月、復員完結します。


飛行第二百四十六戰隊(天鷲一九一九六)
※「大正陸軍飛行場」の記事参照


飛行第二十戰隊(誠一八九六八)
昭和18(1943)年12月1日、伊丹において飛行第二百四十六戰隊及び飛行第二百四十八戰隊から抽出された要員を基幹として編成開始、12月5日、一式戰Ⅱ型2個中隊で編成完結(山本五郎中佐)します。
しかし、実戦経験者が数名しかおらず戦力的に未熟だったため第十八飛行團司令部(北島熊男大佐、大正)隷下に編入され、大正に移駐し阪神地区の防空任務に当たりつつ錬成に務めます。

昭和19(1944)年2月14日、北方軍司令部(樋口季一郎中将、札幌)に隷属転移、立川陸軍飛行場に移駐し耐寒準備を実施、千島に進出する予定でしたが、2月下旬、米軍艦載機のマリアナ諸島来襲により柏陸軍飛行場に移駐し帝都防空任務に当たります。

4月、新設された第一飛行師團(原田宇一郎中将、札幌)隷下に隷属転移、当初の予定通り千島列島中南部に分散配備(戰隊本部、第一中隊:得撫島東雲原、第二中隊:松輪島)され防空任務に当たります。
しかし、千島方面への空襲は散発的なものであったため、逼迫している南方戦線に転用(当初ビルマ方面に予定されるも台湾に変更)されることとなり、6月12日、南方転進命令を受領し帯廣陸軍飛行場を経由し立川に移駐、7月1日までに沖縄に集結します。
同月、空地分離を実施、飛行3個中隊と整備1個中隊に改編します(8月上旬の戦力は一式戰Ⅱ型31機(可動23機)でした)。

8月25日頃、台湾南部の小港陸軍飛行場に移駐し、防空任務に当たります。

10月12日、米艦載機群が台湾に来襲、全力32機で邀撃をしますが、離陸直後の不利な体勢をF6Fに攻撃され11機を失ってしまいます。
在台各戰隊は各個出撃し大きな損害を出してしまった戦訓から、残存機は台北に集結し、統一指導の下防空戦を実施することとなり、戰隊も残存13機が台北に移駐します。
21日、捷一號作戰に参加すべく18機でルソン島バンバン飛行場に前進し、第四飛行師團司令部(三上喜三中将)指揮下に入ります(のち第三十戰闘飛行集團指揮下に)。

23日、カローラン飛行場に移駐し、マニラ防空、船団護衛に当たりますが、11月2日、ファブリカにおいて空襲を受け保有機の大半が地上撃破されてしまい、空中勤務者はマニラに復帰します。

10日、多號第三次船団護衛、12日、特別攻撃隊・萬朶隊直掩、27日、八紘隊直掩、14日、マニラ上空邀撃戦、12月6日、高千穂空挺隊直掩の任務に当たりますが、15日、可動機が払底してしまい、戰隊長・村岡英夫少佐以下主力は台湾に復帰、大里常大尉以下7名はファブリカに分遣され、7日、米軍のオルモック上陸に対する反撃、10日、特別攻撃隊・丹心隊直掩、11~13日、船団護衛任務を続行します。

12月30日、ファブリカの大里大尉以下3名も台湾に復帰し、戦力回復に努めます。

昭和20(1945)年2~3月、台中・台北を機動しつつ台湾防空に当たりつつ、一式戰Ⅲ型に機種改変、3月、龍潭陸軍飛行場に移駐し、保有機は約30機に回復します。

3月26日、米軍の慶良間列島上陸により沖縄戦が開始されたのに伴い、宜蘭、花蓮港、石垣島、宮古島を前進基地として特攻隊の誘導、直掩に当たります。

4月、戰隊も特別攻撃隊を編成し、5月3日、須見洋少尉以下5名、5機、5月29日、石橋志郎少尉以下5名5機、6月1日、猪俣寛少尉以下2名2機、6日、及川真輔少尉以下4名4機が嘉手納、沖縄西方洋上、慶良間周辺の敵艦船に突入し、6月までに空中勤務者の大半が散華してしまいます。

6月23日、沖縄防衛の第三十二軍玉砕により、7月、敵機動部隊に対し索敵攻撃に出撃するも、会敵の機会は無く、7月末には戰隊の残存全機による沖縄強行着陸計画も立案されますが、実施には至らず、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


飛行第十九戰隊(誠一五三五二)
昭和19(1944)年2月5日、『軍令陸甲第百二十號』により明野陸軍飛行學校に編成下令、2月10日に編成完結(瀬戸六朗少佐)し、各務原陸軍飛行場において編成された飛行第十七戰隊とともに三式戰を装備し、第二十二飛行團(土田兵吾大佐)に編入されます。

3月6日、初度巡視を受け、中旬、伊丹に移駐し、所在の第三三二海軍航空隊とともに阪神地区の防空に当たりながら錬成を続けます。

5月12日、『大陸命第千十號』により第二十二飛行團は第二飛行師團(山瀬昌雄中将)への編入と比島進出が決定します。
20日~6月10日までにニルソン飛行場(マニラ)に前進する予定でしたが、故障機続出のため全38機が前進を完了したのは7月3日になります。

8日、21機はH31船團護衛のため、11日、アンボンに前進、第七飛行師團(須藤栄之助中将)第三飛行團(長浜秀明大佐)指揮下に入ります。
19日、H31船團入泊の護衛に当たり、来襲したB24爆撃機11機を邀撃し1機を撃墜するも4機が被弾、2機が地上大破の損害を受けてしまいます。
26日、アンボンからマニラに帰還中の27日、ハルマヘラ島ミティにおいて、戦爆連合約100機の空襲を受け6機が地上撃破されてしまい、可動機が2機に減少してしまいます。

8月3日、第一中隊(三田村正一大尉)をマニラのサブラン飛行場に残置し、アンヘレス西飛行場に移駐し機材の補充を受け戦力回復に努めます(9月中旬までに可動機23機に)。

9月21日、米機動部隊の艦載機が大挙来襲、アンヘレス及びサブラン飛行場の可動全力20機で邀撃、午前・午後の空戦でF6F戦闘機10機(不確実3)を撃墜するも11機が未帰還となってしまい、残存機は夕方、リパに移駐しました。
22日、マニラ湾上空に敵機約100機が来襲、7機で邀撃するも戦果はありませんでした。
9月末の戦力は定数56機に対し保有36機、可動8機でした。

10月15日午前、米機動部隊の艦載機をマニラ上空で邀撃し、13機(不確実4)を撃墜、午後から海軍の中攻隊を援護し4機を失ってしまいます。
18日、米軍がレイテ島に上陸を開始、14機で攻撃に向かいますが2機を失ってしまいます。
19日、レイテ島上陸の敵船団攻撃に参加すべく瀬戸戰隊長以下6機がリパに前進し、うち3機が爆装して飛行第十七、二百四戰隊とともに艦船攻撃に出撃します。
23日までに2回の艦船攻撃を実施(のべ5機)するも可動機は1機になってしまい、24日のレイテ島航空総攻撃には参加せず飛行第十七戰隊とともにバコロド飛行場群の出撃援護に当たります。
しかし、敵機約20機の奇襲を受け、瀬戸戰隊長が地上で散華、将校空中勤務者は皆無となってしまい戦力も払底してしまったことから、内地で戦力回復を図ることが決定、11月10日、小牧に帰還(本田辰造少佐)し戦力回復に努めます。

12月31日、戰隊長・吉田昌明大尉以下約30機で台湾に向かい、1月2日、台中に移駐します。

昭和20(1945)年1月3、4日に空襲を受け2機を失ってしまいます。
5日、比島に向けて出発しましたが、戦隊長機が故障したため大半は屏東に引き返し、第二中隊(進藤正博中尉)他数機のみが前進します。
比島前進の部隊は特別攻撃隊の直掩に当りますが、8日、進藤中尉以下3機が未帰還となってしまいます。

2月16日、台湾の主力は第八飛行師團司令部(山本健児中将)に隷属転移、大勢の決した比島への前進は中止され、比島から転進してきた飛行第十八、五十五戰隊の生存者、在台湾部隊から抽出した地上勤務者が編入されます。

3月8日、第二十二飛行團司令部(藤田隆中佐)に隷属転移し、屏東へ移駐し台湾南部の防空に当たりながら戦力回復に努めます。
26日、「天一號作戰」発動により戰隊では熟練者は爆装による敵艦船攻撃、未熟者は特別攻撃隊を編成し沖縄決戦に備えます。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始します。
7日、台湾北部の宜蘭陸軍飛行場に移駐、11日、特攻機5機と直掩機5機が出撃し、特別攻撃機3機(大出博昭少尉、山縣徹少尉、新屋勇軍曹)と直掩機2機が未帰還となります。

18日、特攻機2機(倉沢和孝少尉、根本敏雄少尉)、22日、3機(渡部國臣少尉、小野博少尉、坂元茂少尉)、30日、1機(栗田常雄軍曹)、5月4日、2機(長沼不二人少尉、橋下郁治軍曹)、18日、3機(大立目公雄少尉、飯野武一少尉、中村憲二少尉)、21日、2機(澤田卓三少尉、細見儀作軍曹)が敵艦船群に突入散華、爆装戦闘機も払暁、薄暮に敵艦を求め単機で出撃します。

6月6日、沖縄戦の戦局が悪化するなか、保有機は三式戰11機に減少したため沖縄への出撃を中止し、戦力温存を図ります。
16日、特攻隊2隊(各4機)を編成し、敵機動部隊の台湾来襲に備えますが、出撃する機会は訪れず、6月中旬、花蓮港陸軍飛行場に移駐し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
昭和21(1946)年3月、復員完結します。

一方、比島に前進していた地上勤務者(鈴木慶五郎大尉以下約400名)は急造の歩兵部隊となり、昭和20(1945)年1月、カガヤン渓谷に転進、3月、地上部隊に編入されますが、5月1日、バギオ東方の戦闘で大損害を受け、停戦を迎えます。


飛行第五十六戰隊(天鷲一八四二八)
昭和19(1944)年3月23日、『軍令陸甲第三十四號』により大正(八尾)において編成開始、3月26日、編成完結(古川治良少佐)、第十八飛行團(北島熊男少将、大正)に編入されます。

明野において三式戦5機、一式戦2機を受領、4月28日、伊丹に移駐し錬成を開始するも、空中勤務者のうち実戦経験者は戰隊長・古川治良少佐と飛行隊長・緒方醇一大尉以外はほぼ皆無の状態でした。
飛行第五十六戰隊(伊丹陸軍飛行場)
▲空中勤務者を指導する古川少佐(中央)、手前後ろ向きは緒方大尉

5月20日、小牧に移駐し錬成を続行、6月末、夜間飛行訓練を開始します。

7月、第十一飛行師團司令部(7月17日、第十八飛行團が昇格)に隷属転移、中京地区の防空に当たり近々来襲の予測されるB29爆撃機に備え、毎日1個分隊が高度8,000mの哨戒任務に当たります。

6月中旬、支那大陸奥地からB29爆撃機が北九州に来襲するようになったため、8月21日、「航い號作戰」発令により西部軍司令部(横山勇中将)指揮下に編入され、三式戰17機で大刀洗陸軍飛行場に前進します。

9月1日、B29爆撃機を要地侵入前に邀撃すべく、済州島陸軍飛行場に前進します。

10月25日、済州島の電波警戒機がB29を補足、全力で邀撃に向かうも会敵できず帰還燃料補給を行い、再発進し大村など西九州地区攻撃後のB29(第58爆撃航空団/40爆撃群)58機を補足、1機撃墜、6機撃破の戦果を挙げます(我が損害は負傷2名、被弾6機)。

11月9日、済州島から大刀洗に帰還します。
15日、伊丹に帰還しますが、20日、「航い號作戰」発動により再び14機で大刀洗に前進します。
21日、B29爆撃機を有明海上空で邀撃し3機撃墜・1機撃破し、22日、伊丹に帰還します。

12月3日、再び大刀洗に移動するも敵機の来襲は無く、12月8日、伊丹に帰還します。
当時の戰隊は可動機36機、夜間出撃可能者約15名と安定した戦力を保有していました。

12月8日、第十一飛行師團司令部に特別攻撃隊の編成内示、昭和20(1945)年1月29日、『陸亞密第八百十九號』により、師團隷下部隊から12名が選抜され、第三振武隊(後に第二十振武隊に改称)が編成されます。
戰隊からは吉田市少尉(3月30日、出撃前進中に不時着散華)、山本英四少尉(4月2日、徳之島より出撃、散華)、重政正男軍曹(5月4日、知覧より出撃、散華)が選出されます。

支那大陸に代わりマリアナ諸島からのB29爆撃機来襲が頻発し、13日、B29(73爆撃航空団)80機の名古屋(三菱重工)初来襲を邀撃するも、高度9,000mを飛行するB29に到達できず、戦果は挙げられませんでした。
戦訓より戰隊では酸素吸入装置を改良、防弾装備と主翼の二十粍機関砲を撤去し、18日の第2次空襲に対する邀撃戦(B29・63機)では2機撃墜、2機撃破します。
22日、名古屋の第3次空襲(B-29・48機)を邀撃、3機撃墜します。

昭和20(1945)年1月3日、名古屋の第4次空襲(B-29・74機)を邀撃、涌井俊郎中尉は体当たりを敢行し1機撃墜し散華、高向軍曹も体当たりを敢行し1機撃破し生還(合計5機撃墜)します。

3月13日2357、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機274機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、夜間飛行と炎上する大阪の街から吹き上がる火煙に妨げられながらも、1機を撃墜します。

16日、第21爆撃機軍団(第73、313、314航空団)のB29爆撃機307機が神戸に来襲、飛行隊長・緒方大尉以下8機で邀撃、緒方大尉は1機を撃墜した後、さらに体当たりを敢行し1機撃墜するも散華してしまいます(3機撃墜、2機損失)。

31日、「航い号作戰」発動により、27機で芦屋陸軍飛行場(福岡)に前進、第十二飛行師團(三好康之少将)指揮下、北九州の防空に当たります。

4月18日、太刀洗空襲(B-29・112機)、第一國分海軍航空基地が攻撃を受けます(戦果、2機撃墜)。
29日、足摺岬上空でB29爆撃機を邀撃すべく、佐伯海軍航空基地に前進、5月4日、B29の奇襲爆撃を受けて10機が地上撃破され可動機は3機に低下してしまいます。

7日、芦屋に転進し、伊丹から追求してきた5名を加えます。
11日、B29爆撃機102機が阪神地区に来襲、飛行隊長・船越明大尉は伊丹残置の留守隊を率いて邀撃するも散華してしまいます。
24日、10機で伊丹に帰還し、三式戰Ⅱ型に機種改変します。

6月1日、B29爆撃機458機が大阪に来襲(第二次大阪大空襲)、戰隊はタ彈攻撃を実施し10機を撃墜します。
5日、B29爆撃機473機が神戸に来襲(第三次神戸大空襲)、11機を撃墜するも3名が散華してしまいます。
7日、B29爆撃機409機、P51戦闘機138機が大阪に来襲(第三次大阪大空襲)により、B29・2機、P-511機を撃墜するも、伊丹と周辺が空襲を受け、3名が散華してしまいます。
26日、米19爆撃群の戦爆連合を三重県名張上空で邀撃、中川裕少尉が体当たりを敢行、1機を撃墜するも散華(他2名散華)してしまいます。

7月9日、P51戦闘機が阪神地区に来襲、戰隊は全力17機にて邀撃するも中村純一少尉が撃墜され散華、飛行場に不時着した2機も地上撃破されてしまい以降、戦力温存のため昼間邀撃を中止(7月末の保有機は46機、可動機は20機)決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 中村純一中尉 慰霊碑(大阪)
JR星田駅北側にある「中村純一中尉慰霊碑」

東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 中村純一中尉機(三式戰Ⅱ型) ハ四〇發動機(大阪)
いきいきランド交野に展示されている中村機の部品(ハ四〇發動機)
※中村中尉は撃墜時に落下傘で脱出するも、敵機は卑劣にも落下傘の紐を翼で切断します。


飛行第七十二戰隊(威一八四三〇)
昭和19(1944)年3月23日、『軍令陸甲第三十四號』により明野陸軍飛行學校に編成下令、5月16日、第一次臨時編成完結、20日、編成完結(津崎栄介少佐)、飛行第七十一、七十三戰隊とともに第二十一飛行團司令部(吉岡洋中佐)隷下に編入されます。
9月1日、伊丹に移駐し阪神地区の防空にあたりつつ、錬成に努めます。
11月15日、動員下令、21日、第二十一飛行團の比島派遣が決定、28日、動員完結、31日、相模陸軍飛行場に集結、12月2日、相模を出発、3日、新田原陸軍飛行場(宮崎)を経由し、4日、台湾臺中陸軍飛行場に集結し、飛行團集中訓練、整備にあたります。
14日、飛行團長・吉岡中佐とともに戰隊主力は比島バンバン飛行場に向かいますが、リンガエン湾付近において敵機の奇襲を受け3機を撃墜するも、練度不足の戰隊は散り散りになり戸田公大尉以下半数が未帰還となってしまい、バンバンに前進できたのは7機のみでした。
15日、ミンドロ島サンホセ攻撃を準備しますが、可動機は4機に減少したため、出撃を中止します。
17日、ミンドロ島攻撃に出撃した飛行團長・吉岡中佐が散華してしまいます。
飛行團は18日までに約40機をバンバン、マバラカット東両飛行場に集結させますが、ルソン島東方、同南方海上船団攻撃、クラーク上空邀撃戦、26日、マバラカット東飛行場に移駐、27日、ルソン島西方船団攻撃、敵飛行場攻撃により損耗してしまいます。

昭和20(1945)年1月5日、戦力の低下から第三十戰鬪飛行集團司令官・青木武三少将は隷下・指揮下飛行戦隊に全機特攻待機を下令、飛行第一・十一・七十一・七十二・七十三・二百戰隊(全戰隊は四式戦装備)の志願者から2機編隊づつ34名を選抜、 長機が特攻機、僚機が援護機として出撃、次回は僚機が長機となり出撃する戦法を採り、10日、マバラカット西飛行場に移駐し、12日までリンガエン湾の敵船団に対し体当りを敢行します。

12日、可動機が払底してしまったため戰隊は飛行隊長・井上恒夫大尉に率いられ集團とともにマバラカットよりルソン島北部のエチャゲを目指して自動車(途中から徒歩)で転進を開始、23日、エチャゲニに到着しますが、13日、戦隊長・津崎栄介少佐は飛二百戰隊長・高橋中佐とともに一式双発高練に搭乗して出発しますが、途中行方不明になってしまい、敵機に撃墜と判定されます。

1月16日、戰隊はルソン島北端のカサンバランカンに転進、救援の友軍潜水艦を待ちますが、会合できずツゲガラオ、アパリに転進、2月末、爆撃機、輸送船により台湾に転進しました。
15日、戰隊は第一航空軍(李王垠中将)に隷属転移、5月2日、『軍令陸甲第七十七號』により飛行第七十二戰隊は復帰、要員は他戰隊に配属されます。

2月1日、ルソン島に残置した地上勤務者80名はカガヤン州レイナマルセデスに集結、飛行第七十二戰隊ルソン島残置隊を編成、15日、カガヤン付近の戦闘、次いでアイタオ付近の特別切込み戦に参加、4月25日、臨時歩兵第二十五大隊第二中隊に編入されサンビセンテ(一部はラロ東方山地)に展開しアリタオ付近の戦闘に参加、6月2日、ドモン河上流のピナバックに転進、9月2日、停戦を迎えます。


飛行第百三戰隊(靖一八九二二)
昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號「第百飛行團司令部等航空部隊一部の臨時編成(編制改正)、第二百九十三次復歸要領」』により陸軍航空總監部(菅原道大中将)に臨時編成下令、8月25日、北伊勢陸軍飛行場において編成完結(東條道明少佐)、飛行第百一、第百二戰隊とともに、10月10日に編成完結した第百飛行團(土井直人中佐)に編入されます。

装備機種は四式戦を予定していましたが、生産が遅れていたため一式戦で代替し錬成を開始、10月以降逐次四式戦を受領します。

12月11日、伊丹に移駐、第十一飛行師團(北島熊雄少将、大正)の指揮下に編入され阪神地区の防空にあたりますが、練度不足から戦隊長以下1個中隊単位で師團からの特令がある場合のみ出撃する体勢を採ります。

26日、第百飛行團は当初、比島進出を予定していましたが、第六航空軍(菅原道大中将、福岡)に隷属転移、沖縄戦に参加する事が決定します。

昭和20(1945)年1月19日、明石市(川崎航空機㈱明石工場)にB29爆撃機が63機が来襲、戰隊は邀撃にあたり潮岬南方において被弾離脱する1機を補足撃墜(不確実)します。
飛行第百三戰隊(伊丹陸軍飛行場)
▲昭和20年元旦、伊丹における飛行第百三戰隊将校団。
 前列左から6人目の長身痩躯が戦隊長・東條少佐、その左が飛行隊長・小川大尉

3月10日、隈庄陸軍飛行場(熊本)への前進が下令されますが、保有機は未だ半数程度だったため、東條中佐は宇都宮陸軍航空廠、中島飛行機㈱に赴き直談判で10数機を入手し、30機を揃え、隈庄に前進します。

20日、大本營は米機動部隊の九州方面来襲を受け天號作戰を下令、26日、聯合艦隊司令部は天號作戰を発動、戰隊は第六飛行團(今津正光大佐)の指揮下に編入され知覧陸軍飛行場に前進、1個中隊(飛行隊長・小川倶治郎大尉)は飛六十五、六十六戰隊とともにさらに徳之島陸軍飛行場に前進し、29日、沖縄に接近する敵船団攻撃に向かう友軍機を援護します。

31日、4月1日、2日、中隊は沖縄周辺の敵船団攻撃に出撃しますが、敵艦載機の攻撃により徳之島が損傷、可動機が3機まで損耗してしまったため、同日、東條中佐は4機を率い徳之島に前進します。
3日、徳之島に敵艦載機が来襲、戰隊可動機は全機損傷してしまいます。
15日、16日、22日、戰隊は知覧より出撃する特攻機援護にあたり、28日、東條中佐、小川大尉以下生存者は使用不能になった徳之島から知覧に帰還します。

5月4日、第六次航空總攻撃が下令、東條中佐は飛百一、百二の四式戦30機を指揮し、特攻機、及び飛六十五の攻撃援護にあたり、敵直掩機と交戦します(11日、14日と出撃)。

7日、都城陸軍飛行場に移駐、25日、義號部隊(義烈空挺隊)の沖縄突入に呼応し第八次航空總攻撃が下令、小川大尉以下11機が荒天を突いて敵制圧下の沖縄本島北陸軍飛行場を銃撃しますが、敵戦闘機、対空砲火により小川大尉を除く10機が未帰還になってしまいます。

6月中旬、戦力が払底してしまったため成増陸軍飛行場(東京)に移駐、7月30日、復帰した飛百二の人員、機材の配属を受け編制改正、戦力の回復に努めます。

8月初旬、逐次由良陸軍飛行場(淡路島)に前進、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝します。

16日夕、高知沿岸の海軍監視哨から「米機動部隊が本土上陸を企図し土佐湾沖を航行中」の報を受け、17日未明、全機が爆装し始動しますが、直後に出撃中止命令を受け(土佐湾沖海戦)、停戦を迎えました。


飛行第七戰隊(靖二一二〇二)
大正14(1925)年5月1日、飛行第五聯隊(立川)において飛行第七聯隊が編成(堀池末雄航空兵大佐、我が陸軍初の重爆隊)されます。
編制は本部、第一大隊(重爆2個中隊)、第二大隊(軽爆2個中隊)、材料廠でした。

聯隊は当初豊橋に設置予定でしたが、飛行場用地の取得が難航、10月には濱松に変更になり、大正15(1926)年10月3日、聯隊は第三師團(安満欽一中将、名古屋)隷下に編入され、完成した濱松陸軍飛行場に移駐します。

昭和6(1931)年9月18日、滿洲事變が勃発、11月16日、聯隊から1個中隊が抽出され、飛行第七大隊第三中隊(軽爆)として派遣されます(のち關東軍飛行隊飛行第十二大隊第二中隊に改編)。

昭和7(1932)年1月28日、上海事變が勃発、上海派遣飛行第一中隊(軽爆)を派遣、事變終結後、濱松に帰還します。

昭和8(1933)年、航空軍備改変により、昭和9(1934)年11月、飛行第十二大隊の編成に重爆1個中隊を充当します。

昭和9(1934)年、航空軍備改変により、關東軍飛行隊増強のため飛行第二大隊が増派され、聯隊の重爆1個大隊が充当されます。
聯隊には重爆・軽爆各1個中隊が補填され、第一大隊(重爆3個中隊)、第二大隊(軽爆2個中隊)の編制となります。

昭和11(1936)年8月1日、内地、朝鮮、台湾の航空部隊を統括する航空兵團司令部(徳川好敏少将)が編成され、聯隊は隷下の第一飛行團(原田潔大佐、各務原)に編入されます。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變の勃発により、15日、獨立飛行第三中隊(重爆)、第五(偵察)、第六大隊(軽爆)を編成、臨時航空兵團(徳川好敏少将)隷下に編入され、北支に展開します。

昭和13(1938)年8月31日、濱松において飛行第七戰隊に改編(重爆1、超重爆1個中隊、1個練習部の予定でしたが、編成が遅れ重爆2個練習部と飛行場大隊の編成でした)、第一飛行集團司令部(牧野正迪中将、東京)隷下に編入されます。

昭和15(1939)年、在滿洲各飛行團隷下の航空教育隊が内地に移駐、第一飛行集團司令部に編入されたのに伴い、飛行第七戰隊(重爆3個中隊)は第百二教育飛行團司令部に隷属転移します。

昭和16(1941)年7月16日、航空兵團司令部(安藤三郎中将)に隷属転移、關東軍特種演習参加のため、公主嶺に移駐します。

昭和17(1942)9月、南方資源地帯攻略後の防衛のため第三航空軍(菅原道大中将、昭南島)第九飛行團(石川愛少将)に隷属転移、カリヂヤチ飛行場(ジャワ)に前進、バンダ海の哨戒に当たります。

昭和18(1943)年1月30日、第三航空軍直轄の第三飛行團、第九飛行團を基幹として第七飛行師團(須藤栄之助中将)が編成され、第九飛行團は隷下に編入されます。

4月、戰隊は濱松において百式重爆に機種改変を行います。

7月28日、第七飛行師團は第四航空軍戦闘序列に編入され、司令部と第九飛行團(飛行第七、六十一戰隊)は8月、ニューギニア・ブーツ飛行場に前進しますが、8月17日、米第5航空軍の奇襲を受け大損害を受けてしまいます(可動機約10機に低下)。
以後、残存機を持って地上部隊を援護しますが、損害が増加、昭和19(1944)年1月、第九飛行團を離れ濱松に復帰し、戦力回復に努めます。

2月22日、第一航空軍(李王垠中将)に隷属転移、四式重爆に機種改変します。

6月、聯合艦隊指揮下に編入され、洋上航法、対艦雷撃訓練を開始します。

7月24日、『大海令第三十一號』により飛行第九十八戰隊とともに第二航空艦隊(福留繁中将)の指揮下に編入され、9月25日、丹作戰(ウルシー泊地の米機動部隊奇襲)に向け編成された全天候型の精鋭部隊である第七六二海軍航空隊(柴田文三大佐、通称「T攻撃部隊」:局戦、艦攻、艦爆、艦偵、水偵、飛行艇、陸攻、重爆で編成)に編入され、鹿屋海軍航空基地に前進します。
(四式重爆「飛龍」は海軍側からは「靖國」、飛行第七戰隊は「靖國部隊」と呼ばれていたようです。内令等は無く飽くまで通称であり、兵團文字符の「靖」からか?)

10月10、11日、米第3艦隊(W・ハルゼー中将、空母17隻他78隻。艦載機約1,000)が沖縄及び周辺の我が拠点に来襲、12日、台湾が空襲されたのを受け、T攻撃部隊は12、13、14、16日と連日薄暮、夜間出撃(臺灣沖航空戰)により攻撃を実施、敵空母11隻撃沈の大戦果を挙げる(夜間の戦果確認で誤報が相次ぎ、実際は重巡1・軽巡1大破、空母1小破、艦載機89機撃墜)も、我が方は航空機312機を失い、七六二空も壊滅的な被害を受けてしまいます。

10月末、捷一號作戰に備え、第二航空艦隊が比島に前進したのに伴い、戰隊はクラーク飛行場に前進、比島、沖縄航空作戰に当たります。

11月1日、七六二空は第二航空艦隊から聯合艦隊麾下となり、消耗した戦力の回復に努めます。

12月、香取海軍航空基地に移駐し、敵占領下のサイパン島に12月25日、2機(テニアン島を爆撃、1機未帰還)、26日、5機(3機故障で引き返す。2機攻撃に成功するも帰途1機がパガン島に不時着)が爆撃を実施、28日、5機が硫黄島に向うも、滑走路損傷のため香取に引き返します。

昭和20(1945)年2月11日、七六二空は第五航空艦隊(宇垣纏中将)麾下に編入され、沖縄戦に備えます。

3月1日、戰隊は宮崎海軍航空基地に四式重爆27機で前進します(他に海軍攻撃第二六二飛行隊の銀河7機)。
18日、九州沖の敵機動部隊攻撃に飛行第九十八戰隊、海軍攻撃第五〇一飛行隊とともに出撃、3月26日、「天一號作戰」発動に伴い飛行第九十八戰隊、海軍攻撃第五〇一飛行隊とともに出撃します。

6月21日、決號作戰(本土決戦)に向け兵力温存のため七六二空主力は大社海軍航空基地(島根)に移駐します。

28日、『大海令第四十三號』により飛行第七戰隊、飛行第九十八戰隊は聯合艦隊司令長官の指揮下を離れ第二十七飛行團(野中俊雄大佐)に復帰します(移転時期は7月1日)。

29日、戰隊は伊丹に本部、各中隊を公主嶺飛行場(滿洲)、郡山海軍航空基地(福島)、三保海軍航空基地(鳥取)、北伊勢陸軍飛行場(三重)に展開し決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い各中隊は伊丹に集結します。


第三三二海軍航空隊(虹部隊)
※「鳴尾海軍航空基地」の記事参照


- 特別攻撃隊 -
第二十振武隊
※「大正陸軍飛行場」の記事参照


- 地上部隊 -
大阪陸軍航空廠 伊丹分廠(帥三四二〇四)
陸軍航空廠は陸軍航空に関する器材、燃料等の購買、保管および補給、修理を掌りました。

昭和19(1944)年10月16日、伊丹に設置(田口浩少佐)されますが、飛行場が空襲を受け始めたため、池田市中川原町の細河國民學校を借用し移転します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、8月31日、伊丹において復帰、残務処理のため分廠長以下64名が残留し、3月5日、復員完結します。


第百四十三飛行場大隊(天鷲一八四六〇)
昭和19(1944)年7月30日、伊丹において編成(久保喜英少佐)完結。
昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、31日、伊丹において復帰します。


第百四十六飛行場大隊(靖一八四六三)
昭和19(1944)年7月30日、伊丹において編成(小田駒吉少佐)完結。
聯合艦隊の指揮下に編入され、鹿屋海軍航空基地に前進し陸軍機、及び特攻機の整備に当たります。

6月28日、『大海令第四十三號』により聯合艦隊司令長官の指揮下を離れ、第六航空軍(菅原道大中将)直轄となります(移転時期は7月1日)。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、8月31日、鹿屋において復帰します。


第百四十九飛行場大隊(翼一八四九三)
昭和18(1943)年6月25日、、伊丹において編成(一色鹿雄少佐)完結。
7月13日、門司港を出港し、22日、マニラに上陸し、26日、マリキナ飛行場に展開(28日、一部をマンダリン飛行場に派遣)します。

昭和20(1945)年1月5日、米軍のマニラ侵攻開始に伴いマリキナ飛行場を破壊し、アンチポロに転進します。
2月5日、第四十一軍(横山静雄中将、マニラ東方)の指揮下に編入され、烈火臺陣地の守備に就き、24日、マリキナ飛行場を攻撃、3月1日、大和山の敵陣地に夜襲を敢行します。

4月25日、モンタルバン河方面に移動集結、9月1日、停戦により投降します。


第三十五飛行場中隊(翔一五三四二)
昭和18(1943)年11月29日、伊丹において編成(中林正幸中尉)完結。

昭和19(1944)年2月10日、スマトラ島メダンに展開し、飛行場警備、クアラシンバン、タンジュンプーラ両飛行場の設定に当たります。
4月6日、中林中尉以下21名はマレーバトハバに移動、他は昭南島の星野作業隊に編入されます。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、9月29日、昭南島出港、10月23日、佐世保に上陸、復員完結します。


第四十二飛行場中隊(勢一五三六九)
昭和19(1944)年1月31日、伊丹において編成(辻中安治少佐)完結。
内地の防空任務に当たり、4月11日、出港しマニラを経て、5月9日、ハルマヘラ島に上陸します。
6月28日、ニューギニアのサラワティ島サマテに展開、7月1日~8月25日まで豪北作戰に参加します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、昭和21(1946)年5月15日、ソロに到着、6月13日、田辺に上陸、復員完結します。


第四十五飛行場中隊(司一五三七二)
昭和19(1944)年2月20日、伊丹において編成(木村榮一大尉)完結。
5月1日、ハルマヘラ島ワシレに上陸しガレラに展開します。
9月15日、米軍のモロタイ島上陸に対し、対空戦闘を実施、ハルマヘラ島防衛に当たります。

昭和20(1945)年6月24日、第三航空軍(木下敏中将)の隷下に編入されます。
9月2日、大東亜戦争停戦に伴い、11月11日、ベラワンに移駐し、昭和21(1946)5月9日、ベラワン出港、20日、名古屋港に上陸し復員します。


第六十二飛行場中隊(誠一八四七一)
昭和19(1944)年6月20日、伊丹において編成(坂之上篤則少佐)完結。
7月22日、台湾宜蘭陸軍飛行場に展開し、「天號作戰」に参加します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、昭和21(1946)年2月24日、復帰します。


第百三十獨立整備隊(帥一九〇〇二)
昭和19(1944)年7月25日、伊丹において編成(岡本吉二大尉)完結、当地に展開します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、昭和21(1946)年8月31日、復帰します。


第十三対空無線隊(中部第百二十二、靖一九一八九)
昭和19(1944)年7月30日、大正において、第十八飛行團(北島熊男少将)の第十一飛行師團への改編にともない第十八飛行團通信隊の人員、資材を増強して編成(望月利捷大尉)されます。

飛行師團司令部所在地の大正、及び隷下部隊が展開し、連絡が必要な伊丹、小牧、八日市、鳴尾各飛行場、御前崎、白濱、八幡濱に展開します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、昭和21(1946)年8月31日、復帰します。


第六十八対空無線隊(靖一九五五五)
昭和20(1945)年3月15日、大正において編成(河知波金一大尉)されます。
飛行師團司令部所在地の大正、及び隷下部隊が展開し、連絡が必要な伊丹、佐野、加古川、由良、松山西各飛行場に展開します。

昭和20(1945)年8月15日、大東亜戰争停戦に伴い、昭和21(1946)年8月31日、復帰します。


第五十二魚雷調整班
昭和20(1945)年6月1日、『大海幕機密第六〇八號ノ二五五』により垂水海軍航空隊において編成(山本卓夫大尉)されます。
垂水海軍航空隊(貴島盛次大佐)航空機は持たず、普通科雷爆練習生に主に航空魚雷の整備教育を実施する教育飛行隊です。
班は舞鶴鎭守府所管で、第五航空艦隊(宇垣纏中将、大分)に配属、第一機動基地航空部隊(五航艦司令長官指揮)に部署されます。

当初は三國陸軍飛行場(福井)に派遣される予定でしたが、伊丹に派遣され対艦雷撃を任務とする陸軍の飛行第七戰隊付属となり、池田市中川原町の細河國民學校の西半分を間借りし航空魚雷調整作業に当たりました。

航空魚雷(九一式航空魚雷)は海軍省航空本部第二部から支給、製品は三菱重工業㈱長崎兵器製作所大村工場(長崎)から鉄道で輸送されてきました。

飛行第七戰隊の出撃に際し自動貨車に魚雷2本を積載し飛行場まで輸送する計画でしたが、調整班、戰隊ともに決號作戰に備え待機中、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

昭和21(1946)年8月31日、復帰します。


残存主要兵器
-飛行場内航空機-
陸軍:不明

海軍:零戦(型不明)×3
    雷電×1
   月光×2(要修理)
    零練戦×1
    九三中練×2

東山横穴
九一式航空魚雷×105
実用頭部×110
練習頭部×15
自動貨車×4


主要参考文献
『池田市中川原旧海軍地下魚雷格納庫跡調査報告書』(平成元年7月 池田市戦争遺跡調査研究会)

『第五十二魚雷調整班 引渡し目録 保管兵器目録』(昭和21年 第二復員局)

『阪警管下軍需品保管目録』

『陸軍航空の鎮魂 総集編』(平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊―付・エース列伝』(昭和48年3月 酣燈社)

『世界の傑作機No.98「陸軍四式重爆撃機 飛龍」』(平成15年1月 文林堂)

『空港と歩んだ70年』(平成21年7月 伊丹市立博物館)

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初めまして

7月8日、ラバウルで戦死いたしました横山利男中尉(操縦)の遺族です。当時の状況があまり分からなかったので記事にしていただきありがとうございます。横山が戦死した翌月、娘が誕生しておりますが残念ながら59歳で亡くなりました。しかし妻は現在90歳でまだ元気に存命しておりますので、この記事を是非見せたいと思っております。ほんとうにありがとうございます。(拝)

Re: 初めまして

初めまして、こんばんは。
私の拙い記事で御親族の最期の様子が僅かながらも判明、嬉しく思います。
記事中の戦記部分は最も時間がかかる箇所ですが、その部隊に所属し、亡くなった方がおられるので手を抜く事は失礼に当たると思い、長文になるのを承知で書いています。
この様に心のこもったお便りを頂くと、今後の記述の励みになります。
こちらこそ、有難うございました。

池田市の魚雷格納庫跡の事

こんにちは。大変勉強になるサイトです。凄いです。

ところで、池田市の魚雷格納庫跡の事で、もしご存知無ければご覧下さい。
 私は池田郷土史学会の会員で、毎年、会報が発行されます。これまでの講演をテキスト化されているのですが、平成元年2月12日に『中川原海軍地下魚雷格納庫跡について』と題して、研究発表が行われています。会報の第13号に収められています。
 当時を知る、地元の方々の聞取り結果が発表されています。

Re: 池田市の魚雷格納庫跡の事

はじめまして、こんばんは。
拙ブログをお読み頂きありがとうございます。

『中川原海軍地下魚雷格納庫跡について』と言う論文は知りませんでした。
一度、読んでみたいと思います。
地下魚雷格納庫は一次資料と聞き取りではかなりの差があるので、その差が少しでも縮まったら良いかなと思っています。

貴重な情報、ありがとうございました!
今後ともよろしくお願いいたします。
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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