当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第五十三聯隊、のち歩兵第三十八聯隊(雷三二一一)、歩兵第百三十八聯隊(烈一〇三五三)

今日は先月29日に探索した、奈良県に衛戍した歩兵第五十三聯隊、のち歩兵第三十八聯隊、歩兵第百三十八聯隊の兵營跡他、関連の軍跡を紹介します。






衛戍地の場所
聯隊の衛戍地及び関連施設は奈良縣奈良市高畠村、現在の奈良県奈良市高畑町一帯にありました。
歩兵第三十八聯隊 全図
~現在の地図

歩兵第三十八聯隊211002
~昭和21年10月の兵営跡周辺

聯隊兵営:奈良教育大学、同付属小学校、同付属幼稚園
奈良陸軍病院:高畑合同宿舎
練兵場:東紀寺町1、3丁目の奈良女子大付属中学、奈良病院、県営住宅
聯隊道路:奈良教育大学西側(正門前)国道80号線
軍人會館:紀寺町の奈良県遺族会・至誠会館、飛鳥幼稚園
聯隊區司令部:奈良第二地方合同庁舎
作業場:白毫寺町の高円山北西一帯
水源地:佐保川上流
射撃場:古市町、藤原町の奈良基地司令施設、自衛官官舎、住宅地
陸軍墓地:古市町の平尾池東側
中部憲兵司令部奈良地區憲兵隊:元興寺の北東の自衛隊官舎
奈良縣護國神社:古市町の高円山南麓

遺構について
※青字は地図、参考サイトにリンク、現状・行き方・見学方法は後述の探索記参照
歩兵第三十八聯隊 拡大
※カタカナ:兵営外の遺構位置
 アルファベット:兵営内の遺構位置

聯隊兵営(奈良教育大内)
營庭築山

吉備塚

糧秣倉庫:玄関内に「陸軍用地9」標柱。

汽罐室付属建物?

北門(通用門):門柱2本完存。

煉瓦構造物

将校集会所池泉式庭園跡:庭園に使用されていた庭石が散乱、池の跡が完存。

桜広場

酒保前のコンクリート製の階段

煉瓦基礎

地蔵集積場
 
南門(陸軍病院への門)の土堤の土留め石

弾薬庫・周囲の土塁

兵営周辺部土堤:一部滅失していますが、ほぼ残存しています。

同側溝・柵基礎:側溝は北・東・西に、特に北側は良好に残存しています。

※F、Gは附属小学校内にあるため、平日は許可がいります。

奈良陸軍病院(高畑合同宿舎)
エ:西側土堤の一部と土堤上に植えられたカラタチの生け垣

オ:向かって右側の通用門門柱(1本)

練兵場
ア:駐機場の跡が道路となっています。

聯隊道路
イ:スズカケの街路樹1本

軍人會館(奈良県遺族会)
駐車場に石垣があります。

奈良聯隊區司令部(奈良第二地方合同庁舎)
ウ:「奈良聯隊記念碑」

作業場
コンクリート製の建物跡

歩兵第三十八聯隊 射撃場・陸軍墓地

歩兵第三十八聯隊211002射撃場・陸軍墓地

射撃場
東側の斜面が残存しており、形状を留めています。

陸軍墓地
歩兵第三十八聯隊英霊合祀之碑滿洲事變戰病没者合同墓碑将校下士官兵個人墓、参道付近には「陸軍用地」(34番号不明)の3本があります。

中部憲兵司令部奈良地區憲兵隊(自衛隊官舎)
正面のコンクリート塀銀杏東側の塀の基礎

奈良縣護國神→別記事に詳細記入


軍跡探索
朝8時に起床、8:45に出発、途中ガソリンスタンドに寄り、一般道を通って奈良に向かいます。
10:15に最も東にある⑪中部憲兵司令部奈良地區憲兵隊跡(自衛隊官舎)に到着します。
前の道路に路駐して見学します。
全景 北から
~奈良地區憲兵隊跡地に建つ自衛隊官舎

正面のコンクリート塀は良好な状態で残っています。
北側の塀 北東から

今も昔も軍とともに育った銀杏は70年以上の歳月で軍の様な力強い巨木に育っています。
東側の塀の基礎には石柱を支えた鉄筋が残っていました。
東側の塀基礎 北東から

続いて①聯隊兵営跡(奈良教育大学)に向かいます。
途中、練兵場跡の市営団地の来客用駐車場に駐車して、周りを見回しますが綺麗に区画整理されてしまい駐機場跡の道路(ア)が唯一当時の面影を伝えています。
南東端付近から西を(滑走路跡)

大東亜戰争末期の昭和19(1944)年4月より、兵営は歩兵聯隊に代わり岐阜陸軍航空整備學校奈良教育隊が設置され、練兵場もまた整備訓練場となり格納庫、整備工場、駐機場、高射砲等が配備されました。
そのため、練兵場は当地北側一帯に広がる春日野が利用されます。

車を大学南側の薬局に停めさせてもらい、まずは兵営の周囲を探索します。
軍人會館跡は建物どころか、区画さえも変わっています。
現在の遺族会館「八重桜」、至誠会館、飛鳥幼稚園の一部が會館敷地です。
当時の入口は現在の市立飛鳥幼稚園の正門東側(向かって右側)にありました。
正門付近
~中央の2本の樹木の辺りが正門跡

會館正門跡付近には大きな木が繁っていますが、当時の築山に植樹されていた木かも知れません。
會館跡に建つ奈良県遺族会の駐車場には当時の物と思われる谷積みの石垣が残っています。
敷地南側(内部)の谷積みの石組

軍人會館跡の東側にある国道80号線は当時④聯隊道路と呼ばれていました。
当時からあるスズカケの街路樹(イ)のうち1本だけが残っています。
聯隊道路 北から(スズカケの街路樹)
~落葉して分かりにくいですが中央付近にスズカケの大木があります

この道を挟んで東側(大学北側)に⑥奈良聯隊區司令部跡に建つ、奈良第二地方合同庁舎があります。
綺麗な建物になっており、当時の遺構は皆無ですが前庭(駐車場)に「奈良聯隊記念碑」(ウ)が建てられています。
記念碑上部には大宮島(グアム)において歩兵第三十八聯隊が玉砕する際に奉焼された軍旗の像が設置されています。碑文とともに先人達がいかにして我が国を護るべく国難に殉じられたかの偉業が伝わってきます。
奈良聯隊跡記念碑
~奈良聯隊跡記念碑

そのまま外周に沿って(北側半分、東側は民家が密接しており道路が無い)北側を探索します。
北門(通用門)には左右の門柱2本が完存しています。
北門(通用)北東から

この門は出入り業者等の通用口として使用されていました。
北門東西の土堤は側溝も含め兵営周辺では最も良好な状態で残っており、土堤上にあった柵の基礎も並んでいます。
北側の側溝と土堤 東から
~左側に見える煉瓦建物が後述の「糧秣倉庫」

外周をぐるっと回り南側に出ます。
この一角には②奈良陸軍病院がありました。
現在は高畑合同宿舎の団地が立ち並んでおり、当時の面影は区画と西側の門柱(オ)と土堤(エ)くらいしかありません。
西側の門柱は向かって右側の門柱1本のみが残っています。
西門(通用) 西から

この門柱は蝶番の位置から上半分(下半分は埋没)だけが露出し、表札を掛けた金具、頂部にはボルトが着いています。
この門柱の北側土堤上にはカラタチの生け垣が、南側土堤には土押さえの石垣が僅かに残っています。
西側土堤 北から
~土堤とカラタチの生け垣

陸軍病院の正門付近は団地の駐車場になっており痕跡は全くありませんが、大学側(兵営)にはL南門の土堤の土押さえの石材が残っています。

そのまま大学正門に進み構内に入ります。
大学は一般人の立ち入りも自由で、特に許可はいりません。
営門(大学正門)
~奈良教育大正門

昭和4年 長春に向け出発
~昭和4年、長春駐箚のため出発する歩兵第三十八聯隊
 上掲の正門写真とほぼ同じ位置から撮影

両側の門柱の裏にはかつての門柱の残骸が残っていますが間口も広く、煉瓦造りだった聯隊兵営のものとは違うようです。
正門裏側(北側)の門柱跡?

構内は北側から順に時計回りに見て行きます。

營庭築山は「研究緑地」と称する手入れされていない広場となっており不明瞭です。
石で囲った樹木がありましたが、当時の物かは不明です。
A築山跡?
~築山跡?

吉備塚は吉備真備の墓と伝承される古墳で、聯隊遺構ではありませんが当時からありました。

糧秣倉庫は聯隊遺構の中で最も大きく有名です。
C糧秣倉庫 南西から パノラマ
~南西から(玄関は資料館改装時に付けられたもの)

C糧秣倉庫 北西から
~北西から

現在は一部改変されているものの保存状態は良好で「教育資料館」として一般公開されており、平日の13:00~17:00まででしたら見学ができます。
詳細はリンク先の公式サイトをご覧ください。
今回は特別展が催されており、土曜に開館していました。
玄関内(開館時しか見れません)に「陸軍用地9」(15×15×89㎝)標柱が転がっています。
C糧秣倉庫内の「陸軍用地9」
~どこにあったものかは不明です

糧秣倉庫の東側には汽罐室がありましたが、その付近にD木造の建物があります。
D汽罐室付属建物 南から

北側の窓がセメントで閉鎖されています。
鬼瓦に星章が無く、昭和21年の空中写真にもそれらしい建物が写っていないので戦後建てられた物かも知れません。
詳細は不明です。

次に付属小学校に向かいます。
大学と小学校の境の北端に先程のE北門(通用門)の門柱があります。
小学校は平日に立ち入る際には許可が必要ですが、土日は誰もいないようです。
校舎北側に土堤に食い込むようにF煉瓦構造物があります。
F煉瓦構造物 南東から
~南東から

F煉瓦構造物 西から
~西から
 兵営周囲の土堤(左側)に食い込んでいます

F煉瓦構造物 上部(南東付近)
~上部
 煉瓦が長手巾のブルーワーク状に囲われています

大きさは巾920×奥行320×高290(石段基礎80㎝)の煉瓦造りで、西から240㎝の所に巾140×高20㎝12段の階段があります。
上部は巾20㎝程の囲いになっているだけで内部は土と雑草で覆われており建物では無いようです。
基礎には変わった装飾のある石材で組まれており、煉瓦は建物本体は長手積み5段+小口積み1段の交互で積まれ、階段は英国済みで積まれています。

大戦末期には「高射砲があった」との証言があるようですが、大きさからしてせいぜい高射機関砲程度しか設置出来ません。
詳細は不明です。
 
将校集会所は聯隊敷地東端の15m程の高台にありました。
平成20年に新薬師寺金堂跡が発掘された事で有名になった場所です。
現在は敷地北側に当時のG池泉式庭園跡の空になった池が完存し、庭園に使用されていた庭石が散乱しています。
G将校集会所池泉式庭園跡 南から
~池跡

小学校を後にし、H桜広場の枝だけの桜を見ながら敷地南東端の土手に沿って歩いて行きます。
H桜広場
~桜広場

付属幼稚園沿いに斜面を歩いて行くと、土堤上にJ煉瓦基礎がありますが、何か分かりません。
J煉瓦基礎 南から

酒保に続くコンクリート製の階段は部室の裏に完存しています。
I酒保前の階段 南から
~酒保へと続く階段
 画面左端に上掲の煉瓦基礎が見えます

この階段下に排水槽のようなコンクリート製の水槽、階段南側の土堤上には会所と配水槽の跡があります。
配水槽は造りがきれいなので戦後の物かも知れません。
I酒保前の階段 北西の水槽?
~コンクリート製の水槽

I酒保前の階段南側の会所
~会所

I酒保前の階段南側の配水槽? 東上から
~配水槽?

そのまま土堤沿いに兵営建設時に敷地にあった地蔵類を集積した一画があり、陸軍病院との堺にはL南門の土留め石が残っています。
K野仏集積場
~集められた地蔵

L南門(内側から) 北から
~南門の土留め石

再び正門付近に戻ると、守衛室の裏手に木造の古い建物があります。
衛兵所裏の建物(当時の物ではない?)

ただ、こちらも鬼瓦に星章が無く、昭和21年の空中写真にもそれらしい建物が写っていないので戦後建てられた物と思われます。

大学敷地の南西隅にはM弾薬庫と周囲の土塁が残っています。
弾薬庫は煉瓦にコンクリートを塗って補強し、扉と窓は全て鉄製で弾薬庫特有の造りをしています。
M火薬庫 北から
~火薬庫

M火薬庫 北側入り口
~正面入り口

M火薬庫  西側の窓
~両側に梯子の付いた鉄製の窓があります

戦後、前面に軒が増設され使用されていたようですが、現在は瓦の脱落が目立ち廃屋化しています。
星章が燦然と輝く東側の鬼瓦が辛うじて残っており、威厳を讃えています。
M火薬庫 星章入り鬼瓦

火薬庫土塁 西側
~敷地外から見た火薬庫の土塁

これにて大学を後にします。

続いて奈良縣護國神社にて英霊に感謝の誠を捧げ、⑨射撃場に向かいます。
射撃場は区画がそのまま奈良基地司令施設、自衛官官舎、住宅地に転用されており形状が良く残されています。
東側の斜面は完存しており、射撃場特有の形状を留めています。
北東端から東の的場を
~東端の的場付近の土堤
 右側の建物は空自奈良基地司令施設

北側斜面、北西端から東を
~射撃場北側斜面(左側)、道路と民家が場内

射撃場北側に⑩陸軍墓地があります。
墓地参道前に車を停め、坂道を登ります。
参道入り口には「陸軍墓地」の標柱があり、その南側に「陸軍用地4」、西側10mの森の中に「陸軍用地3」があります。
a墓地標柱
~「陸軍墓地」標柱

d陸軍用地4
~陸軍用地4 標柱

b陸軍用地3
~陸軍用地3 標柱

と言うことは、さらに西側の森の中に1と2があるのでは?と思い森の中をウロウロしてみましたが、斜面が崩れ用水路が造られていたので滅失したのかもしれません。

一旦参道に戻り、坂道を登りきったところに墓地入口があり、門柱の脇にも半分埋まった「陸軍用地」標柱があります。
c陸軍用地
~半分埋まった陸軍用地標柱

入口
~入口
 星章の付いた手水鉢が見えます

全景
~墓地全景

墓地には歩兵第三十八聯隊英霊合祀之碑滿洲事變戰病没者合同墓碑将校下士官兵個人墓が整然と配置されています。
当墓地はきれいに管理されており、当日は僕以外にも2名の方が参拝されていました。
歩兵第三十八聯隊英霊合祀之碑
~歩兵第三十八聯隊英霊合祀之碑(昭和9年3月建立)

滿洲事變戰病没者合同墓碑
~滿洲事變戰病没者合同墓碑(昭和11年5月30日建立)
 
将校墓
~将校墓

下士官墓
~下士官墓

兵卒墓
~兵卒墓

続いて⑦作業場に向かいます。
作業場なので境界も不明ですし、特に何があるか分かりませんが適当に車を停めて覗いてみます。
表面がきれいなので当時の物かは不明ですが、コンクリート製の建物跡塹壕の様な人工的な掘削跡がありました。
コンクリート建物①
~コンクリート建物①(巾480×奥行300×高140、石垣高90、間口190㎝)
 
コンクリート建物②
~コンクリート建物②巾250×奥行230㎝、1mの所に仕切り)

塹壕?
~丁字の塹壕?(巾480m、深さ3m)

最後に佐保川上流の⑧水源地を探索に行きます。
柳生街道沿いに歩く事30分、人工的な堰がありましたがコレが取水口なのかは不明です。
取水口?

約1,500名の上水を確保するのにこの程度で足りるのか疑問なので、さらに上流に行ってみましたが結局それらしい施設は見つからず、日も暮れてきた事ですし帰ることにしました。
敷地外にいた鹿の群れ
~佐保川周辺にいた鹿の群れ!

衛戍部隊の歴史
歩兵第五十三聯隊(月七三八四)
明治38(1905)年4月17日、大阪において編成下命、21日、編成完結(岩田正吉中佐)し、歩兵第五十四(善通寺)、五十五(廣島)、五十六(熊本)聯隊とともに第十四師團(鮫島重雄中将、小倉)管下に入ります。
6月13日、宮中において天皇陛下より軍旗を拝受、15日、大阪城東練兵場において軍旗奉戴式が挙行されます。
歩五三軍旗
~歩兵第五十三聯隊軍旗

7月14日、天下茶屋の仮兵営を出発、30日、大阪港より明治三十七八年戰役(日露戦争)に参加のため壮途に就き、8月、第十四師團は関東軍第三軍(乃木希典大将)の隷下に入り大興屯付近に宿営するも、9月16日、休戦となります。
11月1日、關東總軍の隷下に入り、鳳凰の警備に就き、1月18日、第十四師團に復帰、11月7日、姫路の仮兵営に帰還します。

明治41(1908)年10月23日、第十四師團から第十六師團(山中信儀中将、京都)歩兵第十九旅團(馬場命英少将)の管下に入り、明治42(1909)年3月20日、姫路を出発し、翌21日、奈良縣奈良市高畠村の新兵営に入ります。

明治43(1910)年6月11日、第十二中隊が北京に派遣(43年6月29日、帰還)、明治44(1911)年4月1日、第九中隊が朝鮮に派遣(45年4月29日、帰還)されます。

大正8(1919)年4月29日、シベリア出兵に伴い哈爾濱の警備に就き、6月15日、スラウランカで共産ゲリラと、19日、寛城子で支那軍と交戦します。
大正10(1921)年4月5日、歩兵第十七旅團と守備を交代し、16日、奈良に凱旋します。
大正14(1925)年3月7日、軍令陸甲第一號により聯隊の廃止が決定(宇垣軍縮)、26日、官民合同による軍旗の告別式が挙行され、5月1日、第十六師団司令部に軍旗を奉還し、聯隊は廃止されます。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発。
昭和13(1938)年4月18日、事變の拡大により軍令陸甲第二十一號『新設師團編成派遣要領』により、留守第四師團(大阪)において歩兵第五十三聯隊の編成が令せられ、4月24日、編成完結(6月26日、聯隊長・坂本末雄大佐着任)、7月14日、軍旗が再親授され、第十七師團(広野太吉中将、姫路、通称号:月)隷下となります。

7月24日、第十七師團に動員下令、31日、大阪港を出港、8月4日、上海郊外呉淞に上陸、6日、江蘇省無錫、常州、宜興の警備に就きます。
9月14日、宜興南方地区の戦闘に参加、10月4日、第三大隊が第十七師團歩兵旅團(鈴木春松少将)の指揮下に武漢攻略戦に参加します。
昭和14(1939)年3月26日、5月2日、宜興の付近の戦闘、29日、湟里鎮付近の戦闘、6月17日、高瑞鎮作戰、9月9日、安家橋の戦闘、18日、東戴鎮付近の戦闘、10月1日、(シ夏)渓鎮・嘉澤鎮付近の戦闘、7日、成章鎮付近の戦闘、20日、第二次湟里鎮作戰に参加します。
昭和15(1940)年2月8日、片倉支隊が錢塘江南作戰に、4月14日、森岡集成中隊が春季皖南作戰に、10月1日、江南作戰(第十一號作戰)に、12月25日、宜興南方作戰(太平薹の戦闘)参加します。

昭和16(1941)年1月、宜興南方作戰に、2月、第二大隊が准南作戰に、3月、太湖西方作戰(第十四號作戰)に、4月、警備を獨立混成第十一旅團に引き継ぎ、北支に移駐し徐州付近の警備に就き、9月19日、第一大隊が長沙作戰に、10月9日、浙南作戰に、11月、第二大隊が第二魯南作戰に参加します。
12月8日、大東亜戰争が勃発します。

昭和17(1942)年2月1日、第二大隊主力が第十七師團とともに渦河作戰に、4月30日、浙カン作戰、12月18日、魯南辺境作戰、12月31日、第二大隊が第二次皖中作戰に参加します。

昭和18(1943)年8月4日、上海に移駐、9月11日、大本營は第十七師團の南太平洋方面への派遣を発令、24日、上海出航、10月2日、トラック島を経由、5日、ニューブリテン島ラバウル港到着、聯隊主力は同島西部のツルブに前進し第六十五旅團(松田巌少将、垣九八五五)指揮下に入り、第三大隊はブーゲンビル島に進出します。
11月1日、第六中隊がブーゲンビル島タロキナに逆上陸を敢行します。
12月26日、敵主力がナタモ、タワレに上陸を開始、シリマチ岬守備隊、第一中隊蔵森小隊が玉砕、28日、エボシ岬守備の第一中隊野々村小隊と歩兵砲中隊主力が玉砕、ナタモ附近の敵攻撃の第一大隊第一機關銃中隊主力、第一歩兵砲小隊の主力が玉砕、12月29日、第三・第四中隊がタワレの敵を攻撃玉砕してしまいます。
12月30日、第一大隊残存兵力はエボシ山付近で激戦、聯隊は戦線を整理、聯隊長・角谷弘毅大佐は残存兵力をもって玉砕を決意するも、松田巌少将の中止命令を受けツルブ飛行場での持久戦を決定します。

昭和19(1944)年1月3日、第二大隊、三角山西方で激戦、第二・第七機關銃中隊が玉砕、10日、聯隊主力は敵の攻撃を阻止しつつナタモ正面、29日、次いでカブブ、ラバウル富士見台に転進、5月、第六師團(神田正種中将、熊本)の補充を受け戦力を再建、7月25日、編成改正により歩兵第八十一聯隊第一大隊(石田誠一大尉、姫路)の残存兵力を編合、ブーゲンビル島の第三大隊は歩兵第八十一聯隊に編合され、持久戦を実施します。

【昭和18(1943)年10月5日、第三大隊はブーゲンビル島タリナに上陸、20日、テンブツの守備に就きます。
11月1日、米軍がタロキナに上陸を開始、第六師團歩兵第二十三聯隊(河野孝次大佐、都城、月七三八四)が攻撃するも不成功に終わってしまいます。
昭和19(1944)年3月10日、第六師團歩兵第四十五聯隊(真方勲大佐、鹿児島、月九〇二〇)指揮下、第二次タロキナ作戰に参加するも、敵の圧倒的な火力に阻まれ兵力が半減、27日、中止命令により友軍の撤退援護を実施、4月3日、ヌマヌマに転進、同地において防御戦を実施します。】

昭和20(1945)年8月15日、勅語、停戦奉勅命令を受領、戦闘行動を停止します。
8月31日、栄光に輝く軍旗奉焼、昭和21(1946)年4~5月、内地帰還後復員します。


歩兵第三十八聯隊(雷三二一一)
明治29(1896)年12月1日、歩兵第九聯隊(大津)内において編成完結(波多野毅大佐)、第四師團歩兵第十九旅團(大阪)の隷下に入り、明治30(1897)年、京都深草に転営、明治31(1898)年3月24日、軍旗を拝受します。
歩38軍旗
~歩兵第三十八聯隊軍旗

明治34(1901)年、臺灣征討に派遣、明治36(1903)年、朝鮮駐屯に各々混成大隊を編成して参加します。
明治37(1904)年2月、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月、師團とともに大阪港を出港、5月10日、遼東半島塩大澳に上陸、金州、得利寺、遼陽の戦闘に参加、明治38(1905)年3月、奉天會戰に参加、12月、深草に凱旋します。

明治40(1907)年、編成改編により第十六師團(山中信儀中将、京都)隷下に編入されます。
大正8(1919)年、滿洲に移駐、約2年間旅順、大聯の警備に就きます。
大正14(1925)年、軍縮により廃止された歩兵第五十三聯隊に代わり奈良市高畠村に移駐、補充地も奈良県下に改編されます。

昭和4(1929)年4月から滿洲長春に、昭和9(1934)年4月から斉斉哈爾に屯営し治安警備に当たります。
昭和4年 長春に向け出発 送別会
~長春出発前に營庭で挙行された送別会

長春の兵舎
~長春の兵舎

昭和9 滿洲事變 春日神社前を国鉄奈良駅に向かう
~昭和9年、滿洲事變に際し春日神社前を国鉄奈良駅に向かう聯隊

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発。
8月末、北支派遣のため動員下令、9月5日、大阪港を出航、12日、塘沽に上陸し北寧鉄道に沿って天津に進み、津浦沿線獨流鎮より浸水した河北平野を子冴河に添い南趙扶鎮に進出、歩兵第六十三聯隊(福栄真平大佐、松江)の戦線を継承、9月20日より大城付近の敵陣を攻撃し、22日、安慶屯、24日、東馬村を占領、26日、支那軍の水陸の要衝沙河橋鎮を激戦の末に占領します。
29日、献県に進出、10月10日、寧普、12日、南和を経て京漢線に達し、浸水の河北平野約400kmを縦断、11月5日、正定から鉄路大聯に集結、上海派遣軍(朝香宮鳩彦王中将)に編入され、11日、大聯を出航、長江を溯上し14日、徐六経口に上陸、16日、常熱に進出し、23日、無錫周辺陣地を寺頭鎮付近において撃破、24日、停車場を占領、12日、南京城外郭陣地を尭化門付近にて突破、13日、南京城和平門を占領します。
昭和13(1938)年2月、北支へ転進し、高邑付近の警備に付きます。
徐州作戰参加のため済南を経て5月2日、済寧に集結、11日から進撃を開始、14日、金郷を、19日、徐州北方高地九里山を、20日、徐州を占領します。
21日、敗走する支那軍を追撃すべく反転して隴海線沿いに西進、24日、碭山を占領、31日、睢県に入り、6月1日、杞県を占領、4日、尉氏に進出、挺進隊を新鄭付近に進出させ京漢線を遮断します。
9日、支那軍第三十二軍軍長商震は蒋介石の命により我が軍の追撃阻止のため黄河の堤防を爆破(黄河決壊作戦)、15日には氾濫が尉氏付近に及び聯隊は孤立、第十師團(佐々木到一中将、姫路、通称号:鐡)に救出されるも追撃は停滞してしまい、東方に反転、7月7日、睢県付近に集結します。
八月末、漢口攻略作戰参加のため盧州に集結、9月4日、六安を経て17日、商城を占領、大別山系の突破作戰を開始、山上に布陣する支那軍に苦戦しながらも約1ヶ月後突破に成功、麻城を経て孝感に進出、雲夢、安陸に進出します。
昭和14(1939)年4月、南昌作戰に呼応して漠水左岸の要衝鐘祥を占領、漢水を渡る支那軍の反撃を阻止し、5月、には襄東作戰に参加した後、安陸、孝感に終結、漢口より奈良の兵営に凱旋します。

昭和16(1941)年4月、關東軍隷下の戦略予備師團である第二十九師團(上村利道中将、名古屋、通称号:雷)に歩兵第十八(石井信大佐、豊橋、雷三二一九)、第五十聯隊(緒方敬志大佐、岐阜、雷三二一五)とともに編合され、滿洲遼陽に移駐し警備に就きます。

昭和19(1944)年2月20日、第二十九師團(高品彪中将)は南方(マリアナ諸島)派遣が下令され、砲兵1個大隊、工兵・補給・通信・衛生各1個中隊からなる聯隊に改編されます。
20日、遼陽を出発し釜山に集結、24日、師團司令部とともに安藝丸に乗船して出航(松輸送船團)、25日、宇品沖(広島)に仮泊し物資を補給、駆逐艦「岸波」、「朝霜」、「沖波」の護衛の下マリアナに向かいます。
2月29日、沖大東島南方200kmにおいて敵潜トラウトの雷撃を受け、安藝丸大破(30名散華)、東山丸小破(不発)、崎戸丸が沈没(歩兵第十八聯隊長・門間健太郎大佐を含む2,358名、船員52名、船舶砲兵65名散華)してしまいます(トラウトは朝霜が撃沈)。
3月4日、大宮(グアム)島に上陸し、聯隊は南部の昭和(アガット)湾防衛のため陣地構築を開始、以降6月に掛けて友軍守備隊が逐次派遣されます。

6月11日未明、マリアナ諸島に米機動部隊が来襲し上陸事前空襲が開始され、飛行場、港湾施設が破壊、6月18日、グアム島は空襲に加え艦砲射撃が始まります。
6月21日、マリアナ防衛の第三十一軍司令官・小畑英良中将がパラオより大宮島に来着(司令部はサイパンにあるも、米軍の来寇により帰島が不可能に)します。
7月に入ると昼間の単独兵の行動、夜間の陣地補修が困難となります。
7月7日、サイパン島の我が守備隊は玉砕してしまいます。

21日0700、米軍約55,000名は猛烈な砲撃に援護されながら昭和(アガット)湾の歩兵第三十八聯隊第一大隊(大原大尉)正面と、浅間(アサン)の混成第四十八旅團中村大隊正面との二方面に同時に上陸を開始します。

聯隊は米軍を海岸近くまで引き付けて一斉に砲撃を開始、第一波を撃退するも米軍は砲爆撃を集中、第一大隊は壊滅、1000、大原大尉は有羽山(アリファン)山裾に布陣した第二線部隊である第一中隊を指揮して反撃に転じるも敵の機関銃に阻まれ散華、第一大隊、第一中隊は30名を残して壊滅してしまいます。

有羽山(アリファン)山頂北斜面洞窟の聯隊長・末長常太郎大佐は直ちに残存全兵力を投入し夜襲により敵橋頭堡破砕を決意、各隊に夜間攻撃を下令します。

出撃に際し末長聯隊長は聯隊本部洞窟において軍旗を奉焼、2000、第一大隊の残存兵力、聯隊本部要員、戦車第九聯隊第一中隊の軽戦車5両を自ら指揮して出撃、昭和町の北方から第二大隊が南下、竹矢海岸配備の第三大隊(長縄大尉)が北上し昭和町船着き場の米軍橋頭保に総攻撃を開始します。

しかし、米軍のM4戦車、対戦車砲による激烈な防御放火に阻まれ聯隊長以下壮絶な最期を遂げ、米軍上陸初日、ほぼ健在であった第三大隊は翌日まで勇戦敢闘しますが明朝、遂に玉砕してしまいます。
残存兵は密林に後退し、遊激戦に移行します。

7月28日、守備隊は折田(オルドット)に集結、高品師團長が陣地移動中に的野高地(マカジナ)中腹で散華、小畑軍司令官が代わって指揮を継承します。
8月10日、叉木山(マタグアック)の戦闘により守備隊は殆ど壊滅、小畑軍指令官は大本営に決別電を打電します。
8月11日、防衛陣地が突破され、1435、小畑軍司令官、軍参謀・田村義冨少将が自決、守備隊は玉砕してしまいます。

昭和20(1945)年9月15日、残存兵の主力が米軍に正式投降します。
(守備隊総員20,810名、19,135名散華、1,305名生還)
昭和47(1972)年2月2日、歩兵第三十八聯隊の輜重兵・横井庄一氏が現地人に発見され、帰還しました。


歩兵第百三十八聯隊(烈一〇三五三)
昭和13(1938)年5月23日、軍旗を拝受(小松茂久萬大佐)、5月15日に編成された第百十六師團に歩兵第百九(上住良吉大佐、京都、嵐六二一三)、第百二十(志摩源吉大佐、福知山、嵐六二一二)、第百三十三聯隊(石谷甚三郎大佐、久居、嵐六二一四)とともに編合されます。
6月、中支に出征し中支那派遣軍(山田乙三大将)戦闘序列に入り、漢口と南京を結ぶ長江河畔の警備に従事します。
昭和17(1942)年12月、編成改正により、歩兵第二十六旅團(宮崎繁三郎少将)に編合となります。
昭和18(1943)年2月10日、南方派遣が決定し、昭南島(シンガポール)に上陸、馬来半島の警備に就きます。
3月22日、第三十一師團(佐藤幸徳中将、通称号:烈)臨時編成(第十五軍戦闘序列)が下令、5月25日、歩兵第五十八(稲毛譲大佐、高田、烈一〇三五二))、第百二十四(福沢定和大佐、福岡、烈八九〇六)、山砲兵第三十一(大矢部省三大佐)、工兵第三十一(鈴木孝大佐)、輜重兵第三十一聯隊(野中久治大佐)等とともに編成地であるビルマ・ペグーに集結します。
10月、チンドウィン河畔の警備に就きつつ、ウ號作戰(インパール作戰)の準備にかかります。

昭和19(1944)年3月15日、チンドウィン河の渡河によりウ號作戰が開始されると、聯隊はインパール北方の要衝コヒマ攻略の命を受け、アラカン山脈を突破し、3月27日、印度国境を越え、4月6日、第一大隊がコヒマに突入し敵倉庫群を占領します。
しかし、先にコヒマに突入していた歩兵第五十八聯隊から、当地は旧コヒマであり新コヒマは別にある旨の報告を受け、第三十一師團隷下の各部隊は新コヒマ(旧コヒマは特に軍事施設は無いが、新コヒマは高地に頑強な敵陣地がある)に向け進撃します。
4月8日、第一大隊は英印軍の主陣地であるイヌ高地、第二大隊はコヒマ病院陣地に攻撃を開始するも、猛烈な攻撃を受け、2日間で損害が続出し後退します。
4月23日、第一大隊は再度イヌ高地を攻撃し激しい白兵戦を展開しますが大損害を受けてしまい攻勢から防戦に転じ、この頃より食糧補給も途絶え絶食が続きます。
5月14日、英印軍の圧倒的な火力に三叉路高地を放棄、5月19日には我が軍の拠点五一二〇高地が英印軍の2度に渡る総攻撃を受けるも死守します。

6月1日、師團長・佐藤幸徳中将は第十五軍から食料が供給されない事に抗議、コヒマを放棄し独断で撤退命令を下し、2日、豪雨の中、飢餓、疫病、疲労に加え敵襲を受けながらの撤退が開始されます。

7月9日、インド国境を越え(7月10日、ウ號作戰中止)、9月12日、サガインに集結します。

第十五軍は英第14軍の追撃を受けつつビルマ中部のマンダレー付近のイラワジ河まで後退、10月1日、英軍を撃滅すべく盤作戰に参加します。
昭和20(1945)1月11日、イラワジ會戰、2月17日、メイクテーラー會戰と戦闘を続け、怒河(サルウィン河)防衛戦の最中に停戦を迎えます。


岐阜陸軍航空整備學校(空五六五)
昭和18(1943)年3月27日、陸軍飛行兵養成機関の拡張のため、「勅令第二百二十四號」により昭和18(1943)年4月、陸軍航空総監部隷下の岐阜陸軍航空整備學校(田中誠三 大佐)が各務原に新設(岐阜陸軍飛行學校跡地)されました。
所沢陸軍航空整備學校の操縦、通信、整備部門のうち整備部門の要員が各務原に転属し、教育が開始されます。
また、東京陸軍航空學校に入校予定の少年飛行兵第十四期500余名が組織改編により各務原に転属、6ヶ月の初歩教育と1年間の専門教育を受けました。

昭和19(1944)年4月、奈良教育隊(分校、奈良校)が旧歩兵第三十八、百五十三聯隊兵営に開設され、練兵場に格納庫、整備場等を建設し、航空機整備要員の教育が実施されます。

昭和20(1945)年2月21日、第四航空教育團(谷内誠一大佐、空五一四)隷下となり奈良航空教育隊(島田仁市郎大佐、空五六五)と改称されます。

主要参考文献
『歩兵第五十三聯隊史』(歩兵第五十三聯隊戦友会 昭和56年5月)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(ノーベル書房 昭和53年10月)

『日本陸軍連隊総覧』(新人物往来社 平成2年9月)

『グアム島玉砕戦記』(光人社 佐藤和正 平成11年8月)

『大阪・奈良 戦争遺跡歴史ガイドマップ〈2〉』(日本機関紙出版センター平成15年1月)

米軍撮影空中写真(昭和21年10月 国土地理院)

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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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