当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

工兵第十六聯隊

江戸時代、伏見奉行所が所在した京都市伏見区東奉行町、西奉行町一帯に工兵第十六聯隊の兵営がありました。

兵営では後に工兵第百十六聯隊、工兵第五十三聯隊、獨立工兵第十二聯隊、獨立工兵第七十七大隊が編成されます。
工兵第十六聯隊 A愛馬の碑(京都伏見)
▲兵営跡に建つ「愛馬の碑」

【探索日時】
平成20年11月1日、23年2月16日





工兵第十六聯隊兵営 概略
寛永2(1625)年7月、当代きっての文化人だった伏見奉行・小堀政一は堀内村清水谷から奉行所を風致の優れた伏見の富田信高邸跡に移転、北側に奉行所・奉行屋敷、南側、西側に与力・同心屋敷を配置、寛永9(1932)年、館舎が竣工します。

慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いにおいて旧伏見奉行所に旧幕府軍が籠城、御香宮神社に布陣した新政府軍と交戦し豪奢を極めた奉行所は焼失してしまいます。

明治元(1868)年2月20日、御所警護のため御親兵が創設され、奉行所跡は御親兵屯所になります。
明治4(1871)年7月14日、廃藩置県が実施され、8月2日、全国一律の兵制が可能となったことから東京、仙台、熊本と並び大阪鎭臺が創設され、京都府紀伊郡伏見町(現、京都市伏見区)の奉行所跡は大阪鎭臺管理下に置かれます。

明治7(1874)年4月19日、大阪鎭臺第五大隊が奉行所跡に屯営、第一営と呼称します。
6月1日、大阪において歩兵第九聯隊の編成着手、第五大隊は同聯隊第一大隊に改称し、10月1日、知恩院に移駐、明治8(1875)年3月8日、聯隊は大阪から別所村(現、大津市)に移駐、明治9(1876)年4月1日、第三大隊が編成され編成完結、第三大隊は第一営に屯営します。
明治17(1884)年6月28日、第三大隊は別所村に移駐、明治19(1886)年5月20日、大阪から工兵第二大隊(明治21年5月14日、工兵第四大隊に改編)が第一営に転営してきます。

明治42(1909)年3月22日、工兵第四大隊は高槻に転営、31日、工兵第十六大隊が大阪から転営して来ます。
工兵第十六聯隊 営門(京都伏見)
▲昭和年間の営門付近

工兵第十六聯隊 E営門跡 西から(京都伏見)
▲現在の営門付近

大正8(1919)年4月20日から大正10(1921)年4月27日、及び昭和9(1934)年8月17日から昭和11(1936)年7月7日、滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変において留守隊が編成されます。
昭和12(1937)年9月11日、留守隊において獨立工兵第十二聯隊、昭和13(1938)年5月15日、工兵第百十六聯隊が編成され、それぞれ中支に出征します。

昭和16年(1941)年9月16日、工兵第十六聯隊補充隊(昭和15年7月1日、留守隊から改称)は工兵第五十三聯隊に改編、昭和18(1943)年12月11日、工兵第五十三聯隊のビルマ出征に伴い同聯隊補充隊が編成、昭和20(1945)年2月28日、獨立工兵第七十七大隊を編成します。

昭和20(1945)年2月28日、工兵第五十三聯隊補充隊に復員下令、4月8日、京都師管區工兵補充隊が編成され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
工兵第十六聯隊 兵営配置図(京都伏見)
▲昭和16年頃の兵営見取り図(『全員玉砕によって幕を閉じた工兵第十六大[連]隊史』より)

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により工兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置し、10月5日、工兵営は第3153通信隊により接収されます。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和條約の発行を前に工兵営は大蔵省に返還、昭和34(1959)年3月、建物は破却され桃陵団地が建設、現在に至ります。


遺構について
工兵第十六聯隊 現在(京都伏見)
▲工兵第十六聯隊周辺の陸軍施設、遺構配置
① 工兵第十六聯隊
② 伏見南陸軍練兵場
③ 伏見工兵作業場
④ 伏見東陸軍練兵場
⑤ 架橋材料庫
⑥ 鉄舟庫
⑦ 架橋漕舟演習場(渡河訓練場)

※緑文字が当記事の紹介施設

① 工兵第十六聯隊
先述の様に現在、全域が団地となってしまい建物等は全く遺されていませんが、外周に塀や境界石標、石碑類が遺されています。
境界石標は「陸軍用地」と「陸軍省所轄地」が混在しています。

A 愛馬の碑
兵営跡の北西端にあります。
元々ここにあった物か不明です。
工兵第十六聯隊 A愛馬の碑(京都伏見)

え 陸軍用地 五
道路と民家の境にあり、正面に数字の刻字があります。
工兵第十六聯隊 え 五陸軍用地 東から(京都伏見)

お 陸軍用地
フェンスの向こう側、民家内にあり見づらいです。
工兵第十六聯隊 お陸軍用地 東から(京都伏見)

か 境界石標
同じく民家内にあり、前に板が置いてあるため文字が見えません。
工兵第十六聯隊 か(陸軍用地)? 南東から(京都伏見)

き 陸軍用地 七
道路際にあります。
工兵第十六聯隊 き 七陸軍用地 南から(京都伏見)

く 陸軍省所轄地
フェンスの向こう側、民家内にあり見づらいです。
工兵第十六聯隊 く陸軍省所轄地 南から(京都伏見)

B 石積み
フェンスの向こう側、民家外周に遺ります。
工兵第十六聯隊 B兵営北端 南から(京都伏見)

け 陸軍省所轄地
フェンスの向こう側、民家内にあり見づらいです。
工兵第十六聯隊 け陸軍用地 西から(京都伏見)

こ 陸軍用地
フェンスの向こう側、民家内にあり見づらいです。
工兵第十六聯隊 こ陸軍省所轄地 西から(京都伏見)

D コンクリート塀
民家の塀として転用されています。
工兵第十六聯隊 D兵営東側塀 南西から(京都伏見)

E 桃陵団地の歴史 碑
団地入口(営門跡)にあり、工兵営の簡単な説明版が付いています。
石碑上部の笠石は営門両側の塀の物です。
工兵第十六聯隊 E敷地説明板と塀の飾り石(京都伏見)

a 伏見工兵第十六大隊跡 碑
同じく営門跡に建立されています。
工兵第十六聯隊 a伏見工兵第十六大隊跡碑(京都伏見)

C コンクリート塀
団地の塀として転用されています。
工兵第十六聯隊 C兵営西端塀 北西から(京都伏見)

F 石積み
団地の駐車場に東西100mづつ遺ります。
工兵第十六聯隊 F兵営中央の石垣(京都伏見)
▲現在

工兵第十六聯隊 F石垣(京都伏見)
▲団地建て替え時

b 常盤就捕處 碑
源義経の母・常磐御前がこの辺りで平家の追手に捕まった事を示す石碑で、工兵第十六大隊第3代大隊長・佐藤正武工兵大佐により建立されました。
元々は東側50mの位置にありましたが、団地建て直しの際に現在地に移設されました。
工兵第十六聯隊 b常盤就捕處の碑(京都伏見)
▲塀際に建てられているため裏面の碑文が非常に見にくいです

工兵第十六聯隊 b常盤御前補縛地 裏(京都伏見)
▲移設前の写真(裏面)

G 石積み
団地南西にあります。
元々は奉行所の遺構を陸軍がそのまま転用、団地建て直しの際に撤去、再度積み直したものです。
工兵第十六聯隊 G兵営南西端の石垣 南西から(京都伏見)

d 石積みとコンクリート塀
団地建て直し前の状況。
工兵第十六聯隊 G石垣とコンクリート製塀(京都伏見)

工兵第十六聯隊 G石垣とコンクリート製塀 (2)(京都伏見)

-平成20(2018)年11月1日の現地説明会の際に展示された遺構・遺物-
工兵第十六聯隊 A地区~兵舎遺構(京都伏見)
▲兵器庫基礎

工兵第十六聯隊 A地区~高射砲?遺構(京都伏見)
▲高射砲座?

工兵第十六聯隊 出土遺物 (2)(京都伏見)
▲銃剣類

工兵第十六聯隊 出土遺物(京都伏見)
▲火炎投射機


⑤ 架橋材料庫
大東亜戦争停戦に伴い大蔵省に移管、その後の経緯は不明ですが、民間に払い下げられた様で現在は民家、道路になり遺構は何も遺されていない様です。
工兵第十六聯隊 ⑤架橋材料庫跡 南西から(京都伏見)
▲現在の架橋材料庫跡


⑥ 鉄舟庫
上記、架橋材料庫と同様の経緯を辿ったと思われ、現在は児童公園、駐車場になり遺構は何も遺されていない様です。
工兵第十六聯隊 ⑥鉄舟庫跡 南東から(京都伏見)
▲現在の鉄舟庫


⑦ 架橋漕舟演習場(渡河訓練場)
工兵第十六聯隊 近鉄宇治川鉄橋 北東から(京都伏見)
▲現在の架橋漕舟演習場(渡河訓練場)全景

工兵第十六聯隊 五節舟四舟門橋による戦車の漕渡試験(昭和6)(京都伏見)
▲同地における五節舟四舟門橋による戦車の漕渡試験(昭和6年)

近鉄京都線の無橋脚鉄橋
昭和3(1928)年10月、昭和天皇の御大典記念に合わせ建設されます。
建設に際し橋脚を建てると宇治川の流量が変わり演習に支障をきたすため、無橋脚として建設されます。


衛戍・編成部隊
工兵第十六聯隊(垣六五五九、中部第四十一部隊)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

明治38(1905)年7月17日、工兵第十大隊留守中隊に工兵第十六大隊の編成下令、工兵第五(広島)、第十二(小倉)大隊留守中隊において本部、第二中隊、工兵第四(伏見)、第十(福知山)大隊留守中隊において第一中隊が編成され、27日、編成完結(三橋嘉之太工兵少佐)します。
8月10日、第十六師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され大阪を出発、15日、工兵第十六大隊本部、第二中隊、19日、第一中隊がそれぞれ宇品港を出航、大連に上陸、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。
10月9日、大隊本部、第一中隊は大楽地、第二中隊は旅順に移駐、18日、第十六師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入、工十六は旅順要塞司令部(伊地知幸介少将)指揮下に編入され同地の警備にあたり、第十六師團の帰国に伴い、明治39(1906)年4月、旧天王寺俘虜収容所(大阪)の仮兵営に入ります。

6月15日、工兵第四大隊において第三中隊が編成、平時編成を完結(下山筆八工兵大佐)します。

明治42(1909)年3月31日、京都府紀伊郡伏見町(現、京都市伏見区)の旧工兵第四大隊兵営に転営します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團(梨本宮守正王中将)に滿洲駐箚が下令、4月20日、師團とともに大阪港を出航、26日、遼陽の警備にあたります。

大正9(1920)年5月6日、大隊にシベリア派遣が下令され、大連を経由、17日、浦塩(ウラジオストック)上陸、浦塩派遣軍司令官(大谷喜久蔵大将)指揮下に編入され臨時鐵道聯隊長の指揮下、尼港付近で鉄道・電信の修理・保線、ウスリー付近で鉄道・鉄橋修理等にあたります。

大正10(1921)年4月15日、師團に帰国が下令され、21日、大連に集結、27日、伏見に帰還します。

大正12(1923)年9月1日、關東大震災が発災、東京では戒厳が発令され国内の工兵大隊に東京への集結が下令、3日、大隊は赤羽に到着、道路、東海道線の復旧、第三中隊は工兵第十五大隊第二中隊(豊橋)とともに相模川に仮橋架橋を実施、9月末、伏見に帰還します。

昭和2(1927)年11月、昭和天皇の御即位大礼の準備、警備にあたります。

昭和4(1929)年3月22日、第一中隊(金原定一郎大尉)が滿洲遼陽に駐箚、昭和6(1931)年4月9日、伏見に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、伏見を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に到着し第十六師團とともに關東軍の指揮下に入ります。
9月4日、斉斉哈爾に移駐し警備にあたり、9月6日から11月にかけてハイラル特設隊を編成、満蒙国境において築城を実施、昭和11(1936)年4月、任務を終了し伏見に帰還します。

昭和11(1936)年5月30日、軍令陸第四號により工兵第十六大隊は工兵第十六聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令(第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入)、9月7日、聯隊は伏見を出発、太沽に上陸し天津に集結、11月10日、白夘口に上陸、12日、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、常熟、無錫、丹陽、句陽道を進撃し道路補修、クリーク架橋、湿地渡河にあたります。
12月10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、聯隊は南京城東側の要地・紫金山の攻略に参加、12日、歩三十三が同山を攻略、13日、師團が攻撃中の中山門攻撃に参加します。
0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、14日、聯隊は南京城に入城、17日、入城式が挙行され、聯隊は周辺の残敵掃討、警備にあたります。

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月24日、聯隊は上海に集結、28日、秦皇嶋に上陸、2月7日、京漢線の修復、警備にあたり、11日、河北戡定作戰において道路補修に従事、4月24日、徐州會戰に参加し帰徳付近の戦闘において橋梁爆破を実施しますが、支那軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。

6月12日、敗走する支那軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流したため、尉氏において道路補修、黄河氾濫地帯において通過作業にあたります。

7月15日、第十六師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、聯隊は武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、20日、蚌阜付近の渡河、9月2日、道路補修作業に従事、8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰において第二中隊は爆薬投擲機による攻撃を実施、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦に参加します。

昭和14(1939)年2月20日、安陸攻撃、4月1日、襄東會戦に参加し孝感の警備にあたり、7月11日、第十六師團に復員が下令されたため漢口に集結、8月9日、宇品に上陸、22日、伏見に凱旋し復員完結します。

昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。
当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。
9月16日、第十六師團に臨時編成、25日、動員が下令、10月10日、聯隊(加藤善元中佐)の動員完結、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

17日、第三中隊は敵飛行場、及びルソン島北西部の攻略を任務とする木村支隊(第十六歩兵團長・木村直樹少将。歩三十三(第一大隊欠)、野砲兵二十二、獨立工兵第六聯隊各1個中隊)に編入され、20日、名古屋港を出航、26日、パラオに上陸、戦闘訓練を実施します。

11月23日、聯隊主力は伏見を出発、24日、第十六師團(歩三十三欠)は大阪港に集結、輸送船24隻に分乗して出航、奄美大島付近で集結します。

12月8日、第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸、第一航空艦隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)により大東亜戦争が開戦します。

12月8日、第五飛行集團(小畑英良中将)、第十一航空艦隊(塚原二四三中将)の空襲により在比島の敵飛行場、航空機の無力化に成功、同日、木村支隊はパラオを出航、12日、レガスピーに上陸し飛行場を攻略、米比軍陣地を突破しつつ北上、18日、ナガ、21日、ダキトを攻略、22日、第十四軍主力(第四十八師團(土橋勇逸中将)基幹)がリンガエン湾に上陸、24日、第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、27日、カラワグで師團は木村支隊を掌握、昭和17(1942)年1月2日、第十四軍はマニラを攻略、聯隊はマニラ南方60kmのタガイタイ付近の警備にあたります。

しかし、マニラ、タルラックの米比軍は作戦通りバターン半島に撤退、大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第十四軍隷下にあった第四十八師團(土橋勇逸中将)を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。

聯隊はバターン半島に撤退した米比軍攻撃のため敵砲撃下、半島縦断道路を構築します。

1月9日、第六十五旅團(奈良晃中将、第九聯隊を配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地、激烈な砲撃、逆襲に阻まれ進撃は遅滞、13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令します。

師團は歩二十(第一大隊欠)を基幹とし木村支隊を編成、聯隊から第三中隊が編入されます。
15日、支隊はマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け進撃は遅滞、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

25日、第十四軍は第十六師團主力にバターン半島攻略を下令、26日、第六十五旅團は敵第二線陣地に進撃しますが、敵の包囲を受けた歩二十が玉砕寸前になるなど大損害を受け、2月7日、師團は歩二十に転進を下令、8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令、15日、歩二十は歩三十三に収容されます。

4月3日、大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。

9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、バターン南端のマリベレスに突入、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。
5月7日、第四師團らがコレヒドール島を攻略、比島攻略戦は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、第十六師團は同島の警備にあたり、訓練、匪賊討伐を実施、聯隊は橋梁修理等に従事します。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、現地華僑を通じ支那共産党の指示を受けた共産匪賊も加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

昭和18(1943)年11月、第十四軍(黒田重徳中将)は師團(大場四平中将)にレイテ島の戡定を下令、歩二十はビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に編入され、先遣隊として第一大隊をレイテ島南部マリトボックに、12月2日、聯隊主力はタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、26日、聯隊はレイテ島に上陸、聯隊本部、第二中隊(鈴木康孝中尉)を師團司令部と同じタクロバンに、第一中隊(萱原勝大尉)を師團直轄としてタクロバン、第三中隊(森利信大尉)をドラッグに配置、島内交通路の整備、陣地築城、及び僚隊の築城指導を開始します。

7月、第二中隊はルソン島の陣地築城のためルソン島に移駐します。

7月7日、我が国は絶対国防圏の要所であるサイパン島、8月3日、テニアン島、8月11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥してしまいます。

19日、歩兵第九聯隊(神谷保孝大佐、京都。第二大隊欠)がサマール島からレイテ島に進出して来ます。

7月28日、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に改編、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ)が新設され、第十六師團は第三十五軍戦闘序列に編入されます。

8月24日、大本營は来寇する米軍を比島、台湾、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とし陸海軍共同で撃滅し戦争終結の発端を企図すべく『陸海軍爾後ノ作戰指導大綱』(26日、「捷號作戰」と呼称)を策定、作戰準備を発令します。

9月19日、歩兵第三十三聯隊(鈴木辰之助大佐、津)主力がレイテ島に進出してきます。

10月17日、米軍(D・マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

19日、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇でレイテ島東岸に接近、敵の上陸と誤認した野砲兵第二十二聯隊(近藤嘉名男大佐)が零距離射撃で撃退しますが、火点・陣地状況を暴露してしまいます。

20日0600、レイテ湾口の米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がタクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始、ドラッグの敵上陸正面にあった第三中隊は歩二十とともに、タクロバン方面のパロにあった歩三十三は水際陣地に拠り敵上陸部隊を迎撃、それぞれ相当の戦果を挙げますが、圧倒的な兵力、火力、物量を誇る敵の攻撃に大損害を受けてしまいます。

21日、牧野中将は師團戦闘指揮所をサンタフェからダガミに移動、22日、パロを失陥、23日、歩三十三聯隊長・鈴木大佐が自決、歩二十聯隊長・鉾田大佐が散華してしまいます。

23日、工十六第三中隊はドラッグ―ブラウエン道上で侵攻してきた敵戦車群に対し、五十瓩爆薬にて数量を擱座させたのを始め、聯隊は各地で対戦車攻撃、道路破壊を実施し敵の侵攻拒止にあたりますが、敵の急速な浸透に師團の防衛線は寸断され、23日には聯隊主力の守備するタクロバン、歩九の守備するカトモン山西側に敵が侵攻、24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊がブラウエン地区に侵入、25日、ドラッグを失陥してしまいます。

26日、牧野中将はハロ-ダガミ-ブラウエンの線で防衛線を展開すべく隷下部隊に転進を下令、聯隊はハロに転進、各地で夜襲を決行し防戦にあたりますが敵の侵攻を拒止する事は能わず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、師團司令部はさらに脊梁山地に転進し防戦にあたります(師團戦力は3,000名程(2/3は傷病兵))。

11月頃、工兵第十六聯隊長・加藤善元中佐が散華、生存者は師團主力とともにカタンベラン山に転進、聯隊主力はリモン、第三中隊はオルモックに布陣し敵の侵攻拒止にあたります。
工兵第十六聯隊長・加藤善元中佐(京都伏見)
▲第14代工兵第十六聯隊長・加藤善元中佐

米軍は断続的に戦力を増強、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸(第一次多號作戦)、その後も多號作戦は続行され増援兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の強行輸送により海上で人員、兵器、物資が大損害を受け戦力的には低下していきました。

第三十五軍は増援兵力、物資の海上補給路を確保すべく敵占領下の飛行場制圧を企図、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團混成部隊(11月末時点総兵力2,030名、内歩兵1,400名)は歩兵第九聯隊長・神谷大佐の指揮のもとブラウエン飛行場に進撃(和號作戰)、一時飛行場の制圧に成功しますが、8日、態勢を建て直した敵の包囲攻撃を受け歩九・神谷大佐が散華、11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから師團は敵中に孤立、作戦は中止されます。

12月初旬、第二中隊が多號輸送によりオルモック湾に上陸、歓喜峰(カンキボット)の師團司令部を追求します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を下令、第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰に集結させ、持久態勢に移行します。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島への転進(地號作戰)を下令、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、1月20日、敵の妨害により稼働舟艇が払底し作戦は停止、以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月23日、ロビ山中から第十六師團(牧野中将以下80名)が歓喜峰に到着します。

レイテ島は補給が途絶、悪疫の蔓延する中で米軍、匪賊と交戦、7月15日、シラド湾東方地区において牧野中将が散華、9月3日、第十四方面軍司令官・山下大将がD.マッカーサー大将との降伏調印式に臨みます。
第十六師團は18,949名でレイテ島の守備に就きますが、停戦時の生存者は620名、聯隊は1,133名でレイテ島に進出、生存者は0名でした。


工兵第百十六聯隊(嵐六二二五)
昭和13(1938)年5月15日、工兵第十六聯隊留守隊に編成下令、24日、編成完結(清野亮作中佐)、第百十六師團(清水喜重中将、京都)隷下に編入されます。

6月18日、聯隊は伏見を出発、20日、第百十六師團の中支那派遣軍(畑俊六大将、南京)戦闘序列に編入、24日、上海に上陸、30日より江州(嘉興、杭州)の警備にあたり、9月18日、長江沿岸に移動し第百十六師團から抽出された石原支隊(第百十九旅團長・石原常太郎少将。歩百三十三基幹)とともに武漢作戦に参加、作戦終了後は長江沿岸の警備にあたります。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍は支那派遣軍に改編、第百十六師團は支那派遣軍戦闘序列の第十三軍(西尾壽造大将)戦闘序列に編入されます。
昭和15(1940)年5月7日、湖東作戦に参加、11月25日、北方潯陽作戦に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、24日、皖淅作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵飛行場撃滅を下令(浙贛作戦)、聯隊は第百十六師團の先頭を建徳、蘭谿、衡州、玉名と進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備にあたります。

昭和18(1943)年5月、聯隊は2個中隊編制から3個中隊に改編、10月1日、常徳作戦に参加(19年1月まで)します。

昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)戦闘序列に隷属転移します。
4月22日、一號作戦(大陸打通作戦)第二段のト號作戦(湘桂作戦)に参加、敵飛行場の制圧を企図し師團とともに岳州より南下、長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日より長沙の攻撃を開始、18日、長沙を攻略します。
続いて師團とともに衡陽に進撃、30日、衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那第一〇軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、8月4日と総攻撃を実施、聯隊は攻撃陣地の補修、陣地間道路の整備に従事、激戦ののち8月8日、ついに第一〇軍を降伏させ衝陽を攻略、10月3日、湖南省宝慶に移駐します。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)戦闘序列に隷属転移します。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戦(芷江作戦)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、沅江河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。

8月16日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除、4月29日、内地に向け孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港、7月15日、復員完結しました。


工兵第五十三聯隊(安一〇〇三〇、中部第四十一部隊)
昭和16年(1941)年9月16日、工兵第十六聯隊補充隊に編成下令、10月4日、同補充隊を改編し編成完結(福地真三郎中佐)、第五十三師團(馬場正郎中将、京都)隷下に編入されます。
聯隊は4個中隊編制で伏見において教育訓練を実施、工兵第十六聯隊の補充を担当しました。

昭和18(1943)年11月19日、聯隊に臨時動員下令、宇治レーヨン内において編成、12月11日、動員完結(田中誠中佐)、昭和19(1944)年1月15日、宇治出発、24日、昭南島(シンガポール)に上陸、2月9日、クアラルンプール西方のクランに到着、第五十三師團は第二十九軍(石黒貞蔵中将)戦闘序列に編入され同地で訓練に当ります。

3月30日、第五十三師團は緬甸方面軍(川邊正三中将)戦闘序列に編入され、5月2日、聯隊は鉄路ビルマに進出、6月6日、マンダレーに到着します。

5月30日、第一中隊(野吾清一大尉)はイエウにおいてインパール方面への増援が決定、6月13日、中隊はインド国境を越え、19日、第三十三師團(田中信男少将、仙台)隷下の歩兵第二百十三聯隊(河原右丙大佐、水戸)温井大隊に配属されインパール南方50Kmのバレル攻撃に参加、21日、バレル東方2kmの一本木高地に進撃、22日、一本木高地を攻略し陣地を構築します。
しかし、25日、強力な英印軍が一本木高地に侵攻、歩兵第二百十三聯隊は圧迫され中隊は敵中に孤立、野吾中隊長以下玉砕してしまいます。
生存者約20名は敵の重囲を突破しカレワに転進、9月27日、聯隊主力に収容されます。

聯隊主力は師團の先頭をイラワジ川沿いにミイトキーナに向け進撃、突撃作業、側防機能の制圧に従事、5月1日、モガウンにおいて英印軍と交戦、5月21日、第三中隊長・奥村勇大尉が散華、6月10日、師團はミイトキーナ攻撃を中止、転進を開始します。

英印軍の追撃を受けながら豪雨と食料途絶の中の転進は困難を極めるも聯隊は他の工兵隊と協力しつつイラワジ、シッタン、サルウィン河の渡河作戦に従事、昭和20(1945)年1月6日~10日にかけて聯隊はマンダレーに集結、2月12日、第二中隊長・野田宗男中尉が散華、3月28日、タウンギー着、6月、トングーに到着、シッタン川付近で英印軍と交戦中、8月16日、停戦命令を受領します。

昭和21(1946)年8月4日、ラングーン到着、昭和22(1947)年7月20日、宇治到着、25日、伏見において復員完結します。
聯隊は914名でビルマに出征、141名が生還します。


獨立工兵第十二聯隊(第一次)
昭和12(1937)年9月11日、工兵第十六聯隊留守隊に編成下令、23日、伏見を出発、27日、上海に上陸、明光-臨淮関の道路補修に従事します。

昭和13(1938)年3月18日、懐遠付近において淮河の架橋を実施、4月29日、第十三師團(荻洲立兵中将、仙台)、続いて第九師團(吉住良輔中将、金沢)指揮下に編入され徐州会戦に参加、宿県攻撃に参加、作戦終了後、巣県の警備にあたります。
爾後、第一軍(梅津美治郎中将)に配属のため九江に向かい、8月28日、第二十七師團(本間雅晴中将、北平)指揮下に編入されます。
9月20日、徳安周辺で支那軍に包囲された第百六師團(松浦淳六郎中将、熊本)を第二十七師團と共に救援、奥漢鉄道遮断のため漢口に向かい、支那軍の貨物列車を捕獲します。

昭和14(1939)年1月20日、復員下令、2月25日、宇品港到着、3月12日、復員完結します。


獨立工兵第七十七大隊(中部第一〇二七二部隊)
第二百十六師團工兵隊(比叡一〇二五九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、工兵第五十三聯隊補充隊(中部第四十一部隊)により獨立工兵第七十七大隊が編成(浅利義成少佐)、3月上旬、宇治陸軍演習廠舎に移駐し、訓練を開始します。

3月中旬、「第二次兵備」として、第二百十六師團工兵隊への改編の内命を受け姫路に移駐、4個中隊編制の師團工兵隊として改編準備にかかります。

4月23日、『軍令陸甲第六十一號「第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領」』に基づき、第二百十六師團(中野良次中将、京都)の臨時動員とともに第二百十六師團工兵隊に改編されます。

5月、師團は第二總軍戦闘序列の第十六方面軍直轄となり作戦地の熊本県に進出(司令部は宇土)、作戦準備を開始します。
工兵隊は有佐駅近郊の八代郡鏡町の青年學校に本部、各中隊は近傍の國民学校にそれぞれ中隊本部を設置します。

7月、空襲の激化に伴い工兵隊は破壊された幹線道路に代わり新たに軍道構築にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『全員玉砕によって幕を閉じた工兵第十六大[連]隊史』(平成元年9月 伏見工兵会)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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