当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

工兵第十六聯隊(垣六五五九、中部第四十一部隊)、工兵第百十六聯隊(嵐六二二五)他

今日は先週探索してきた京都市伏見区にあった第十六師團隷下の工兵第十六聯隊の兵営跡を紹介します。






※青文字は地図にリンクしています。
兵営の場所
工兵第十六大隊 210724
~昭和21年7月の聯隊兵営跡

京都府伏見区の片桐、西奉行所、東奉行所に①聯隊兵営、桃陵町に②南練兵場、常盤町、桃山町立売に③東練兵場(作業場)、奉行前町、弾正町の近鉄線東側に④作業基礎訓練場がありました。

また、醍醐山南西麓(宇治CC周辺)に木幡作業場、深草大亀谷に射撃場、兵営南側の宇治川河畔に⑧架橋漕舟演習場(渡河訓練場)、宇治川上流(宇治橋南側、塔の島付近)に急流渡河訓練場、城陽市に長池演習場がありました。
⑤架橋材料庫⑥鉄舟庫⑦奈良線宇治川鉄橋
※大亀谷射撃場、長池演習場は他隊と共同使用。

遺構について
工兵第十六大隊地図-
~現在の地図と兵営の敷地、遺構配置

現在、大規模な開発により壊滅的に破壊されてしまい殆ど聯隊の遺構はありませんが、①聯隊兵営、③東練兵場(作業場)、④作業基礎訓練場周辺「陸軍省所轄地」と「陸軍用地」の標柱(上掲地図中▲・●あ~は/▲印の向きは標柱の向き)が多数、塀や石垣(青線アルファベット)の一部、当時の石碑等(◎アルファベット)が僅かに残されています。

遺構探索
今回は電車での移動が便利そうなので京阪を利用しました。
当地を訪れるのは平成20年11月の桃陵団地建て替えに伴う「伏見城遺構発掘調査現地説明会」以来2度目です。
前回は全く事前調査しなかったので、軽くしか探索していませんでした。

京阪「観月橋駅」下車、まずは宇治川河畔を探索します。
鉄橋の東側一帯が⑧架橋漕舟演習場(渡河訓練場)です。
冬季は水位が下がり川原が広がっています。
近鉄宇治川鉄橋 北東から
~鉄橋手前の川原が架橋漕舟演習場(渡河訓練場)

敵前渡河訓練(昭和6)
~架橋漕舟演習場における敵前渡河演習(昭和6年)

この場所には「有名」な無橋脚の⑦近鉄鉄橋(当時は奈良電鐡)が架かっています。
当時の演習の写真にも度々登場します。
五節舟四舟門橋による戦車の漕渡試験(昭和6)
~五節舟四舟門橋による戦車の漕渡試験(昭和6)

近鉄宇治川鉄橋 北西から
~上掲写真とほぼ同位置から撮影

この鉄橋ですが、サヨク団体が「奈良電が鉄橋を架けようとしたところ、軍が“橋脚を建てると河川の流れが緩くなり訓練に支障をきたすため、無橋脚で造るように”と命令された」=「軍の横暴」と言った宣伝がされています。
しかし、暗に隠されている時系列、敷地の所有順を見ればこの様な話が明らかな捏造なのが分かります。
明治25(1892)年6月、工兵第四大隊(のち高槻に転営)の兵営が設置され、周辺は陸軍の演習地になります。
鉄橋が架橋されたのはそれから36年後の昭和3(1928)年10月に昭和天皇の御大典記念に合わせて建設されました。
つまり、「元々陸軍の土地に後から奈良電が無理に線路を通した」ということで、陸軍の指示は当然であり何ら問題はありません。

この渡河訓練場の北側(京都外環状線の高架下一帯)に⑤架橋材料庫⑥鉄舟庫がありました。
現在は民家、児童公園、駐車場になっています。
⑤架橋材料庫跡 南西から
~⑤架橋材料庫跡(駐車場、児童公園、民家になっています)

⑥鉄舟庫跡 南東から
~⑥鉄舟庫跡(駐車場になっています)

次に奈良電(現、近鉄京都線)沿いにあった④作業基礎訓練場を探索します。
当時は対戦車訓練用の軽便軌道が敷かれ模擬戦車や狭窄射朶がありました。
④作業基礎教練場 北東から
~④作業基礎教練場跡(塀で囲まれて入れません)

現在は高架の橋脚ギリギリに民家が密集、また橋脚間も倉庫に使用されており境界は殆ど見れません。
この場所には境界標柱「陸軍省(所轄地、カッコ内は埋没または欠損部分)」あ、上部が折れた「(陸軍省所)轄地」い、殆ど埋没した「う」があります。
本来は敷地の南西角にあるため南か西に向くはずの「標柱あ」ですが、なぜか東を向いています。
※標柱の写真は最後にまとめて掲示します。

続いて①聯隊兵営営門跡Eから時計回りに探索します。
工16 兵営配置図
~昭和16年頃の兵営配置図(『全員玉砕によって幕を閉じた工兵第十六大[連]隊史』参考)

当時営門があった場所は団地の入口になっています。
昭和50年代には門柱は既に無かったようですが、両側の塀が残っていたようです。
現在はさらに塀も撤去され酒蔵を模した塀が新設されています。
営門
~当時の営門付近

E営門跡 西から
~現在の営門付近

営門跡には「伏見工兵第十六大隊跡」碑「桃陵団地の歴史」碑があり、当時と同様に坂道になっています。
伏見工兵第十六大隊跡碑
~伏見工兵第十六大隊跡
 特に碑文などはありません。

敷地説明板と塀の飾り石
~桃陵団地の歴史
 江戸時代、明治時代の周辺の様子が書かれています。

「桃陵団地の歴史」碑の上に載っている石材(巾165×奥108㎝)は当時営門門柱から続く塀の角を飾っていた装飾石(上掲の「当時の営門」写真の正門左側にある哨舎の左側、塀の切れ目にある石)です。

当時はこの門を入った左側に聯隊本部がありましたが、現在は痕跡すらありません。
聯隊本部と第一中隊兵舎
~聯隊本部と第一中隊兵舎

ここから南に進むと「常盤就捕處」碑があります。
常盤就捕處の碑
~常盤就捕處の碑

源義経の母・常磐御前がこの辺りで平家の追手に捕まった事を示す碑です。
前回(平成20年)訪ねた「言説」時には桃陵団地の真ん中に建っていたのですが、建て替えに伴い現在地に移設されたようです。
塀際に建てられているため裏面の碑文が非常に見にくいですが、工兵第十六大隊第3代大隊長・佐藤正武工兵大佐により建立されたものです。
常盤就捕處の碑 裏面
~平成20年の現地説明会時の「常盤就捕處」の碑(裏面)

この碑の周囲には兵営南西端の石垣Gが僅かに残っています。
G兵営南西端の石垣 南西から
~現在の兵営南西端の石垣G
 「残された」と言うより装飾のため「組みなおされた」ようです。

平成20年の探索時、この石垣は東西、南北それぞれ約80m程がほぼ完存しており、石垣上にはコンクリートの塀も残っていました。
南西端石垣とコンクリート塀
~3年前の上掲写真と同じ場所

南端石垣とコンクリート塀 (2)
~現在は撤去された南側の塀と石垣

南端石垣とコンクリート塀
~現在は撤去された南側の塀と石垣

現在は住民にとってはきれいに整地?僕らにとっては無残な姿になっています。
仕方ないのかも知れませんが残念です。

兵営の南門付近から団地内を進むと石垣Fが東西100m程残っていますが、団地の駐車場になっており住民の車がビッシリ並んでいます。
F兵営中央の石垣

石垣
~言説時の石垣F

兵営南側(石垣Fより南)は現在でも一段低くなっており、当時は機械講堂、機械庫、兵器庫、火薬庫が並んでいました。
(以下4枚は平成20年の言説時に撮影)
A地区~武器庫 遺構
~発掘により出土した武器庫の遺構

A地区~高射砲?遺構
~発掘により出土した高射砲座?の遺構

出土遺物 銃剣類
~発掘により出土した銃剣類

出土遺物 火炎放射機
~発掘により出土した火炎放射機

石垣Fに沿って兵営東側(国道24沿い)に出ると小さな公園があります。
ここはかつて将校集会所がありました。
将校集会所跡

将校集会所
~将校集會所

現在は何の痕跡もありませんが、集会所前にあった庭園に使われていた庭石は兵営北側にある御香宮に移設されたようです。

そのまま兵営東側を北上すると民家との境に塀Dがあります。
D兵営東側塀 南西から

さらに兵営外郭のフェンスに沿って北上すると、右側(東側)上の民家との境に「陸軍省所轄地」こ「陸軍用地」けが並んで建っています。
さらに兵営北端をフェンス沿いに西側に進むと石垣B「陸軍省所轄地」く「陸軍用地」きがあります。
「陸軍用地」きには「七」の番号が刻印されています。
B兵営北端 南から
~兵営北端の石垣B
 近畿中央信金の裏にあります。

この先、兵営北西端には「愛馬の碑」Aがあり、その左奥の民家との間(民家内)標柱か(形状、周囲の状況から「陸軍用地六」か?)があります。
A愛馬の碑
~愛馬の碑A

さらにフェンス沿いに南下、「陸軍用地」お「陸軍用地五」え石垣と塀Cがあります。
え 五 陸軍用地 東から
~「陸軍用地 五」え

C兵営西端塀 北西から
~兵営西端の石垣と塀C

兵営周囲にある境界標柱は本来は外側に向けて建っているのですが、当地のものは何故か殆どが内側を向いて建っています。
当兵営は我が国の近代陸軍建軍当初に設置されたのですが、初期の境界はこのように建てたのでしょうか?

続いて兵営南側の②南練兵場に向かいます。
当時は爆破教練用の鉄橋模型がありました。
現在は桃陵中学、伏見公園になっていますが、ある意味最も当時の状態に近い場所と言えます。
南練兵場跡 南東から
~②南練兵場の面影が残る伏見公園

周囲に標柱はありません(紛らわしい建設局が3本ありますが)が、中学運動場内に「愛馬の碑」I(昭和14年6月 石川部隊建立)と「工兵第十五聯隊第二中隊再興・・・」の碑Hがあります。
両方とも中学敷地内、しかも180㎝程の高台にあるので見学は困難です。
フェンスに捕まり、コンクリート擁壁を登り何とか撮影しました。
I愛馬の碑
~愛馬の碑I

I愛馬の碑とH工兵第十五聯隊第二中隊再興(以下不明)
~愛馬の碑Iと工兵第十五聯隊第二中隊再興H

次に兵営東側の③東練兵場(作業場)に向かいます。
当時は敷地西南端(個人マンションと観月橋団地の境界辺り)に「戊辰戦争記念碑」(現在はありません。御香宮にある「伏見之戦碑」か?)が建てられ、その北側には「築城用具倉庫」がありました。
伏見之戦碑
~御香宮にある「伏見之戦碑」

この東練兵所では築城教練、基礎作業教練、200㎏以下の土工爆破訓練が行われていました。
土工基礎教練(昭和6)
~土工基礎教練(昭和6)

まずは東側の伏見区検察庁前に「陸軍省(所轄地)」さがあります。
この場所の少し南側の団地入口から敷地に入り練兵場南端を進みます。
当地の遺構を紹介する資料やサイトでは触れられていませんが、地図を見る限り最も当時の状態が残っているのでは?と考え探索します。

予想通り団地駐車場と民家の境の民家側に「陸軍用地」し、南向きの為確認できない標柱す、民家との間の斜面に「陸軍省所轄地」せがありました。
そのまま南下すると団地の公園(放置され草だらけ)があり、その南端のフェンス外側にも南向きの為確認できない標柱そ「陸軍省所轄地」ちつ(半分埋没)があります。
つ陸軍省所轄地 南から (2)
~「陸軍省所轄地」つ
 急斜面に建っています。

この練兵場南端は20mほどの急斜面になっており、フェンスも高く外に出るのは困難です。
標柱は現在でも境界として使用されており所々「赤いヒモ」で印が付いていますが、標柱が無い所もあるので注意が必要です。
行けそうな場所は何とか行ってみましたが、余りお勧めできません。

そのまま外周に沿って大光明寺陵まで行くと、南東端に「陸軍省所轄地」(半分埋没)てがあります。

練兵場東端には標柱は見当たりません。

北側の境界が空中写真でも不明なため、団地内道路、団地北側の道路と2回探索してみました。
団地と民家の境に「陸軍省所轄地」な、北向きのうえフェンスの支柱に転用されている為確認できない標柱にが、団地外周の民家沿いに「陸軍省所轄地」ねがありました。
な陸軍省所(轄地) 南東から
~「陸軍省所(轄地)」な

「の」と「は」の標柱は睦美幼稚園の外周花壇にありますが、幼稚園の方によると本来はこの場所の下にあり、花壇建設時に埋まってしまうため一度抜いて、再度元の位置より上げて建てなおしたそうです。
の陸軍省所(轄地) 北から
~「陸軍省所(轄地)」の
 睦美幼稚園の花壇に建っています。
 右側には陸軍省所轄(地)「は」が建っています。

東練兵場北側(北東付近)には工部省の標柱1本のみで陸軍の標柱は見当たらず、当時の境界は不明ですが京都府の境界から上掲図の緑枠の範囲と推定されます。

以上で探索を終えましたが、最後に回った③「東練兵場」には今回紹介した標柱以外にも、未だあるかも知れません。

※その他の「陸軍用地」「陸軍省所轄地」標柱
工兵第十六大隊地図-
~配置図

陸軍用地、陸軍省所轄地標柱
~今回見つけた全標柱
あ:民家の車庫の前
い:京都南労働基準監督署の裏(上部が欠損)
う:観月橋米穀の店舗と駐車場の間、多分標柱?
お:民家の裏庭
か:「愛馬の碑」の左奥、民家の敷地
き:駐輪場の横
く:民家の裏
け:民家の裏(高台の上)
こ:同上
さ:伏見検察庁と民家の間
し:民家の裏
す:民家と団地の境界
せ:団地敷地の斜面
そ:団地を囲むフェンスの外(フェンスが高く、斜面が急峻)
た:同上
ち:フェンスの外にあるもフェンスが低く獣道があり
て:大光明寺陵の参道脇
と:同上
に:団地敷地側にあるもフェンスの支柱として転用
ぬ:団地と民家と民家の境界、塀に埋まっている
ね:民家と睦美幼稚園の境界
は:睦美幼稚園の花壇

「開け」架橋指揮官小畑中尉(昭和6)
~架橋訓練(昭和6)

衛戍部隊
工兵第十六聯隊(垣六五五九、中部第四十一部隊)
明治三十七八年戰役(日露戦争)中の明治38(1905)年7月17日、工兵第五(広島)・第十二(小倉)大隊各留守隊(担任は工兵第五大隊)に本部・第二中隊、工兵第四(伏見)・第十(福知山)各補充隊(担任は工兵第十大隊)に第一中隊の編成下命、27日、本部及び2個中隊により編成完結(三橋嘉之太工兵少佐)、8月15日、本部・第二中隊、8月19日、第一中隊がそれぞれ宇品港を出港、滿洲遼陽にて合流、当地の警備に就きます。
明治39(1906)年4月、第十六師團(山中信儀中将)の凱旋に伴って帰還、旧天王寺俘虜収容所(大阪)の仮屯営に入り、6月15日、工兵第四大隊で編成中の第三中隊を加え平時編成を完結(下山筆八工兵大佐)します。
明治42(1909)年4月15日、工兵第四大隊の高槻転営に伴い伏見に衛戍します。

大正8(1919)年3月3日、南滿洲鉄道守備のため滿洲駐箚を命ぜられ、4月20日、第十六師團(梨本宮守正王中将)と共に大阪港出港、26日、遼陽の警備に就きます。
大正9(1920)年5月6日、大隊はシベリア派遣の命を受け大聯を経由し17日、浦塩(ウラジオストック)上陸、浦塩派遣軍司令官(大谷喜久蔵大将)の隷下に入り臨時鉄道聯隊長の指揮の元、尼港付近で鉄道・電信の修理・保線、ウスリー付近で鉄道・鉄橋修理等に当ります。
大正10(1921)年4月15日、滿洲駐箚を終え、27日、伏見に帰還します。

大正12(1923)年9月1日、關東大震災が発生、東京では戒厳が発令され国内の工兵大隊は東京に集中するよう命ぜられます。
大隊は道路、東海道線の復旧、工兵第十五大隊(豊橋)とともに相模川架橋を実施、9月末、伏見に帰還します。

昭和2(1927)年、昭和天皇の御即位大礼の準備、警備に当ります。

昭和4(1929)年3月22日、第一中隊(金原定一郎大尉)が滿洲遼陽に駐箚、昭和6(1931)年4月9日、桃山に帰還します。

昭和9(1934)年8月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲派遣が下令され、9月4日、斉斉哈爾の警備に就きます。
架橋材料中隊(昭和9、滿洲)
~架橋材料中隊(昭和9、滿洲)

昭和11(1936)年9月6日から11月にかけてハイラル特設隊を編成、満蒙国境において築城を行います。
同年、伏見に帰還、同年、工兵第十六大隊は工兵第十六聯隊と改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発により、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令(第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入)、9月7日、伏見を出発、太沽に上陸し天津に集結、北支戦線を経て、11月、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、常熟、無錫、丹陽、句陽道を進み道路補修、クリーク架橋、湿地渡河に当ります。
12月13日、支那国府軍の首都南京城紫金山、中山門の攻撃に参加します。
南京攻略後、昭和13(1938)年1月、第十六師團の北支那方面軍(寺内寿一大将)転属により聯隊は24日、上海に終結、28日、海路山海関へ移動、昭和14(1939)年2月7日、京漢線の修復、警備に就き、11日、河北戡定作戰において道路補修に従事、5月24日、徐州會戰に参加し帰徳付近の戦闘において橋梁爆破を実施します。
6月12日、敗走する支那国府軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させたため、尉氏において道路補修、黄河氾濫地帯において通過作業に従事します。
同年7月、第十六師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍隷下となり武漢作戰に参加、19日、聯隊は開封を経て蘭封に集結、蚌阜付近の渡河、道路補修作業に従事、9月8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦に参加します。
昭和14(1939)年4月1日、襄東會戦に参加、7月11日、第十六師團に復員が下令され、8月22日、復員完結します。

昭和16(1941)年」10月、大東亜戰争準備のための動員下令、11月6日、第十六師團は第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入、工兵第十六聯隊(加藤善元中佐)も比島攻略作戦に参加します。
12月10日・12日、先遣部隊、22日、第四十八師團(土橋勇逸中将、海南島)を主体とした第十四軍主力がリンガエン湾に上陸、24日、第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、昭和17(1942)年1月2日、マニラを占領しました。

バターン半島に後退した米比軍攻撃のため、米比軍の砲撃を受けながらも半島縦断道路を構築しバターン半島に進撃します。

1月12日、第一次バターン攻撃に聯隊から1個中隊が木村支隊(歩兵第二十聯隊基幹)に参加するも、敵の強力な反撃を受け我が攻撃は中止、4月3日、大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、9日夜、第十六師團は第四師團とともにバターン南端のマリベレスに突入、米比軍指揮官キング少将は降伏します。

ルソン島攻略後、第十六師團は同島の警備に就き、訓練、匪賊討伐を実施、工兵第十六聯隊は橋梁修理等に従事します。

昭和18(1943)年10月、第十六師團隷下の歩兵第二十聯隊(鉾田慶次郎大佐、福知山)が匪賊討伐の為、レイテ島に進出します。
昭和19(1944)年4月5日、第十六師團(牧野四郎中将)主力、歩兵第九聯隊(神谷保孝大佐、京都)とともに工兵第十六聯隊にレイテ島進出が下令され、13日、同島に上陸、聯隊本部を師團司令部と同じタクロバンに置き島内交通路の整備、陣地構築を開始、師團隷下部隊は防衛(約20,000名)に就きます。

7月7日、絶対国防圏の要所であるサイパン島守備隊が、8月3日、テニアン島守備隊が、8月11日、大宮島(グアム)守備隊がそれぞれ玉砕、マリアナ諸島を失陥してしまいます。
大本營は比島、臺灣、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とする「捷號作戰」を策定、米軍に対し一大決戦を実施、戦争終結の発端を企図、7月24日、作戰準備を発令します。

9月19日、第十六師團隷下の歩兵第三十三聯隊(鈴木辰之助大佐、久居)がレイテ島に進出してきます。

10月17日、米軍(マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、大本營は米軍の本格的進攻と判断し10月18日夜「捷一號作戰」を発動します。

10月19日、艦砲射撃の支援のもと米軍の威力偵察部隊が上陸用舟艇で接近しますが、野砲兵第二十二聯隊(近藤嘉名男大佐)が零距離射撃で撃退します。

10月20日午前10時、米軍は艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がレイテ島タクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始します。

歩兵第三十三聯隊の水際防御により米第24師団司令部に大損害を与えますが、我が軍も大損害を受け内陸部のブラウエン飛行場周辺、ダガミ、バストラナ、サンタフェに逐次後退、防衛線を展開します。

21日、米軍は戦車、砲兵の支援のもと内陸、第10軍団はレイテ渓谷を抜けて北岸のカリガラ平原、第24軍団は中部のブラウエンやダガミへの侵攻を開始します。

23日、工兵第十六聯隊はドラグ―ブラウエン道上でM4戦車を五十瓩爆薬にて擱座させたのを始め、各地で対戦車攻撃、道路破壊を実施します。

しかし、敵の浸透は早く23日、タクロバン、カトモン山西側に到達、同日歩二十聯隊長・鉾田大佐、歩三三聯隊長・鈴木大佐が相次いで散華、24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊が、ブラウエン地区へ侵入、25日、ドラッグ守備の歩二十主力、歩九の一部が玉砕、30日、歩三三が玉砕、11月頃、工兵第十六聯隊長・加藤善元中佐以下、聯隊残存兵が玉砕してしまいます。
聯隊長・加藤善元中佐-
~第14代工兵第十六聯隊長・加藤善元中佐

この頃には第十六師團の防御体制は悉く崩壊してしまい残存部隊は脊梁山地へ後退、昭和20(1945)年8月10日、牧野四郎師團長が自決、停戦時の兵力は僅か620名でした。


工兵第百十六聯隊(嵐六二二五)
昭和13(1938)年5月15日、編成下令、24日、編成完結(清野亮作中佐)、留守第十六師團の担当で編成された第百十六師團(清水喜重中将、通称号:嵐、京都)に隷属します。
編成後、第百十六師團は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され中支那に出征します。
6月18日、聯隊は伏見を出発、24日、上海に上陸、30日より江州(嘉興、杭州)の警備に就き、9月18日、長江沿岸に移動し第百十六師團から抽出された石原支隊とともに武漢作戰に参加、作戰終了後は長江沿岸の警備に就きます。
昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止され、第百十六師團は第十三軍(西尾寿造大将)の戦闘序列に編入されます。
昭和15(1940)年5月7日、湖東作戰に参加、11月25日、北方潯陽作戰に参加します。
昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、12月24日、皖淅作戰に参加します。
昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵航空基地撃滅を下令(浙贛作戰)、聯隊は第百十六師團の先頭を建徳、蘭谿、衡州、玉名と進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備に就きます。
昭和18(1943)年5月、聯隊は2個中隊制から3個中隊に編成改編、10月1日、常徳作戰に参加(19年1月まで)します。
昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)の戦闘序列に編入されます。
4月22日、一號作戰(大陸打通作戰)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、敵航空基地の制圧を目指し師團とともに岳州より南下し長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日より長沙の攻撃を開始、18日、長沙を占領します。
続いて師團とともに衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那国府軍第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、8月4日と総攻撃を実施、聯隊は攻撃陣地の補修、陣地菅道路の整備に従事、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を占領、10月3日、湖南省宝慶に駐留します。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。
昭和20(1945)年4月1日、湘西作戰(芷江作戰)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、沅江河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。
8月16日、停戦の大詔を拝受し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除、4月29日、内地に向け孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港、7月15日、復員完結しました。


工兵第五十三聯隊(安一〇〇三〇、中部第四十一部隊)
昭和16年(1941)年9月16日、工兵第十六聯隊補充隊に編成下令、10月、編成完結(福地真三郎中佐)、第五十三師團(馬場正郎中将、通称号:安、京都、留守第十六師團を基幹に編成、中部軍に隷属)に隷属します。
聯隊は4個中隊で編成され伏見において教育訓練を実施、工兵第十六聯隊の補充を担当しました。
昭和18(1943)年11月19日、臨時動員下令、宇治レーヨン内において編成、12月11日、動員完結(田中誠中佐)、昭和19(1944)年1月15日、宇治出発、1月24日、昭南島(シンガポール)に上陸、2月9日、クアラルンプール西方のクランに到着、第五十三師團とともに第二十九軍(石黒貞蔵中将)に編入され同地で訓練に当ります。
3月30日、第五十三師團とともに緬甸方面軍(河辺正三中将)に編入され、5月2日、鉄路ビルマに進出、6月6日、マンダレーに到着、その間、第一中隊(野吾清一大尉)は5月30日、イエウに到着後インパール方面に転用、6月13日、インド国境を突破、19日、第三十三師團(田中信男少将、通称号:弓、仙台)歩兵第二百十三聯隊(河原右丙大佐、水戸)温井大隊に配属されインパール南方50Kmのバレル攻撃に参加、21日、バレル東方2kmの一本木高地攻撃の為前進、22日、一本木高地を占領し陣地を構築します。
しかし、25日、強力な英印軍の攻撃を受け歩兵主力が後退したため中隊は敵中に孤立、野吾中隊長以下玉砕してしまいます。
生存者約20名はカレワに後退、9月27日、聯隊主力に合流します。

一方、聯隊主力は師團の先頭をイラワジ川沿いにミイトキーナに向け進撃、突撃作業、側防機能の制圧に従事、5月1日、モガウンにおいて英印軍と交戦、5月21日、第三中隊長・奥村勇大尉が散華、6月10日、師團はミイトキーナ攻撃を中止、転進を開始します。
英印軍の追撃を受けながら豪雨と食料途絶の中の転進は困難を極めるも聯隊は他の工兵隊と協力しつつイラワジ、シッタン、サルウィン河の渡河作戦に従事、昭和20(1945)年1月6日~10日にかけて聯隊はマンダレーに集結、2月12日、第二中隊長・野田宗男中尉が散華、3月28日、タウンギー着、6月、トングーに到着します。
シッタン川付近で英印軍と交戦中、8月16日、停戦命令を受けます。
昭和21(1946)年8月4日、ラングーン到着、昭和22(1947)年7月20日、宇治到着、25日、伏見において復員完結します。聯隊の戦力は141名(出征時914名)となっていました。


獨立工兵第十二聯隊
工兵第十六聯隊留守隊(後の補充隊)により編成、昭和12(1937)年9月9日、動員下令、23日、伏見出発、27日、上海に上陸、明光-臨淮関の道路補修に従事します。
昭和13(1938)年3月18日、懐遠付近において淮河の架橋を実施、4月29日、第十三師團(荻洲立兵中将、通称号:鏡、仙台)、続いて第九師團(吉住良輔中将、通称号:武、金沢)に配属され徐州會戰に参加、宿県攻撃に参加、
作戰終了後、巣県の警備に就きます。
後、第一軍(梅津美治郎中将)に配属のため九江に向かい、8月28日、第二十七師團(本間雅晴中将、通称号:極、北平)に配属されます。
9月20日、徳安周辺で支那軍に包囲された第百六師團(松浦淳六郎中将、熊本)を師團と共に救援、奥漢鉄道遮断のため漢口に向かい、支那軍の貨物列車を捕獲します。
昭和14(1939)年1月20日、復員下令、2月25日、宇品港到着、3月12日、復員完結。


第二百十六師團工兵隊
昭和20(1945)年2月28日、本土決戦第一次兵備により獨立工兵第七十七大隊として中部第四十一部隊(工兵第五十三聯隊補充隊)によって編成され(浅利義成少佐)、3月上旬宇治演習廠舎に移動し、訓練を開始します。
3月中旬、本土決戦第二次兵備として、第二百十六師團工兵隊に改編の内命を受け姫路に移動、4個中隊の師團工兵隊として編成準備にかかります。
4月2日、第二百十六師團の動員(中野良次中将、通称号:比叡、京都)とともに師團工兵隊となります。
5月、師團は第二總軍第十六方面軍の直轄となり熊本県に展開(司令部は宇土)、米軍の上陸に備えます。
工兵隊は有佐駅近郊の八代郡鏡町の青年學校に本部、各中隊は近傍の國民学校に分散配置します。
7月に入ると敵機の空襲が熾烈となり、工兵隊は破壊された幹線道路に代わり新たな軍道の構築を実施する中、8月15日、停戦を迎えます。

参考文献
『全員玉砕によって幕を閉じた工兵第十六大[連]隊史』(伏見工兵会 平成1年9月)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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