当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十六師團司令部(垣六五五一)他

先週探索してきた京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)一帯に衛戍した第十六師團隷下部隊の遺構を随時紹介していきます。

まずは第十六師團司令部庁舎、及び司令部の付帯施設を紹介します。
庁舎正面 (西から)






第十六師團隷下部隊の配置
第十六師團 210724
~昭和21年7月の師團隷下部隊、及び軍施設配置

第十六師團
~現在の地図に上記施設を写したもの

※緑文字が当記事の施設
第十六師團司令部
②京都偕行社
師團長付き当番兵宿舎
師團長官舎
⑤騎兵第二十聯隊
⑥京都陸軍刑務所
⑦京都第一陸軍病院
⑧歩兵第九聯隊
⑨京都聯隊區司令部
⑩第十九旅團司令部→第十六歩兵團司令部→京都地區司令部
⑪陸軍兵器廠京都支廠→京都陸軍兵器支廠
⑫京都練兵場
⑬馬場
⑭第十六師團糧秣部
⑮野砲兵第二十二聯隊
⑯輜重兵第十六聯隊
⑰京都地區憲兵隊伏見分隊
⑱北(伏見)射撃場
⑲南(大亀谷)射撃場
⑳大亀谷演習場
21配水場
22陸軍墓地
23旧射撃場
A師團街道
B第一軍道
C第二軍道
D第三軍道

第十六師團司令部の場所
現在は司令部聖母女学院師團長付き当番兵宿舎民家師團長官舎は平成11年4月に解体されてしまいました。

司令部庁舎要目
・建設:明治41(1908)年
・設計:陸軍省(英国人との説あり)
・建設:松村組
・面積:1階-875.57㎡、2階-883.07㎡

遺構について>(カタカナは上掲地図のモノ、場所詳細は後述)
聖母女学院
ア司令部庁舎
イ撤去された門柱の部材
ウ陸軍用地五(厳密には敷地外)
エ厩舎

小さき花の聖テレジアのカトリック伏見教会
オ建物(衛兵控室か?)
カ倉庫

民家
シ師團長付き当番兵宿舎
ス馬繋柱

遺構探索
※青字は地図、サイトにリンクしています。
第十六師團司令部庁舎は現在は聖母女学院の本館として保存活用されています。
庁舎正面 (南西から)
~現在の庁舎

昭和16年の記念写真
~昭和16年9月、庁舎前での職員記念写真(紹介映像より)

昭和24年払い下げ時
~昭和24(1949)年の払下げ当時の写真(紹介映像より)
 空襲から護るため建物全体に黒色の塗装が施されています。

見学については完全予約制で、事前に電話連絡のうえ日程を調整(現役で使用中のため学院側の都合で見学できない日があります)、見学許可証の記入が必要です。
(問合せ先:学校法人 聖母女学院 法人事務局 075-641-0507)

以前、見学された方なら上掲の写真を見てお分かりと思いますが、平成21年(2009)年に敷地外からも本館が見えるように本館前広場が大幅に改装され、その際に完存していた門柱、周囲の塀、庁舎前の築山などが惜しくも撤去破壊されてしまいました。
第十六師團司令部(改装前)
~昭和50年代の状況

見取り図
~館内見取り図
 ①→⑪の順で案内していただきました(⑧は外のみ)。

見学は部屋①でまず映像を使って建物についての簡単な説明を受け、下記見取り図の番号順に各部屋を案内して頂きながら解説を受けます。
運が良ければ理事長が不在で師團長室(理事長室)の見学ができます。

1階廊下
~1階廊下

1階廊下 天井の装飾
~廊下上部の装飾

部屋②
この部屋は床材が当時のまま(リノリウム貼り?)で、軍刀の鐺(こじり)で付いた傷が多数残されています。
部屋2の床(軍刀の跡)

正面玄関③
乗馬のまま書類の受け渡しができる様に窓が高くなっており、また馬が回れるように広くなっています。
玄関の高い窓(部屋2の窓)

玄関
~玄関

・正面階段
当時のまま使用されています。
中央階段
~中央階段

階段下には両側に下駄箱があります。
中央階段右下のげた箱
~中央階段右下の下駄箱

階段横に置いてある鏡台も当時の物と言われています。
階段横の当時の鏡台

師團長室⑤
現在は理事長室として使用されています。
この部屋で帝國陸軍随一と言われる戦略家・石原莞爾中将が執務していたと思うと感慨深いものがあります。
師團長室(現理事長室)
~師團長室

師團長室扉
~師團長室扉
 他の部屋の扉より重厚です。

窓からは深草一帯が見渡せるようになっており、窓の下には「星章」の木製螺鈿細工が施され、格調高い仕上がりになっています。
師團長室窓側下の木製螺鈿細工
~木製螺鈿細工

師團長室暖炉
~師團長室暖炉
 こちらも最も重厚な暖炉です。

部屋⑥
ルネサンス風の装飾が施された窓枠が付いています。
部屋6の西側窓

2階廊下、当時の床
~当時の床材が残る2階の廊下

部屋⑦
職員の方曰く「大きさ、窓の配置、装飾等など他の部屋と造りが違う部屋」と言っていました。
僕が「この下に同じ大きさくらいの小さい部屋が3ッ程無いですか?」と聞いたところ、
「部屋に扉が3ッ付いた部屋がります」との事。
恐らく、この部屋は軍法会議を開く公判廷、下の扉が3ッ付いた部屋⑧が被告人の控室ではないでしょうか?
部屋7 パノラマ写真

部屋⑧
学院では「部屋に扉が3ッ付いた特殊な部屋」と言うことで「御真影を奉安する部屋では?」と言われているようですが、陛下の御真影を階下に置くはずは無く、また部屋も広すぎます。
通常御真影は師團長室の奉安庫に収められるので、奉安室では無いと思います。
部屋8の扉
~1つの中部屋に扉が3枚ついています。

部屋⑨
部屋9の暖炉
~暖炉

炊事場⑪
ここは当時から炊事場(当時司令部で働いていた方談)で、現在も給湯室として使用されています。
部屋11(厨房)
~炊事場

屋根裏
~改装時の屋根裏の様子(紹介映像より)

以上で内部の見学は終了(所要時間約1時間)です。
案内していただいた職員の方にお礼を言って、外を散策します。
庁舎正面 (南西から) (2)
~中央上部の聖母女学院校章の付いている場所に当時は菊の御紋が燦然と輝いていました。
 正面の2本の白い柱:イオニア式石柱
 中央頂部:マンサード屋根
 左側の屋根上丸窓:ドーマー窓

庁舎裏面 (西から)
~庁舎裏面(東面)

庁舎正面 (西から) (3)
~ライトアップされた庁舎

庁舎前の築山があった場所は現在花壇になっており、撤去された司令部の門柱上部イ(傘石2、門灯2)が置かれています。
イ門柱上部

庁舎裏側にはかなり改築されていますが、厩舎エが残されています。
ヱ厩舎 北東から
~厩舎

当時の空撮を見るとこの厩舎の対面に同様の建物が写っています。
自動車庫と思われますが、現在は既に無く運動場になっています。

ウ陸軍用地 五
司令部と民家の境にある「陸軍用地」標柱


続いて聖母女学院北東に隣接する小さき花の聖テレジアのカトリック伏見教会内にある建物オ、倉庫カを見学します。

こちらは特に事前連絡は必要なく、直接当教会の「司教室」を訪ねて許可を貰って下さい。

建物オは教会内の他の建物と調和を取るため、外壁土壁のような塗装がされていますが、辛うじて外観を保っています。
オ衛兵所 南東から

本来はこの建物の南側(現、聖母女学院駐車場)にもう1棟同様の建物が現存していましたが、平成21年の改装で惜しくも破壊されてしまったようです。

またこの建物オは「衛兵所」と言われているようですが、場所からして破壊されたほうが「衛兵所」で、こちらは「衛兵の控室」ではないでしょうか?

建物オの南側には鉄製の扉が付いたコンクリート製の小さな倉庫カがあります。
用途は不明です。
カ倉庫 東から


聖母女学院の敷地を出て南側に行くと③師團長付き当番兵宿舎があります。
シ宿舎 北西から
~木造の師團長付き当番兵の宿舎

近所の方の話によると3年ほど前まで住民が住んでいたようですが、現在は空屋になっています。
ただ、私有地ですので敷地内には入れません。

敷地北側には土堤とカラタチの生け垣があり、出入口には煉瓦の土抑えがあります。
シ宿舎全景 北から
~北から見た宿舎敷地

また庭先には師團長の愛馬を繋いでいたと思われるコンクリート製の馬繋柱スが2本あります。
ス馬繋柵


当時はこの宿舎の東側に隣接して④師團長官舎がありましたが、平成11(1999)年4月、建物の老朽化と維持管理費の問題で所有者の大蔵省(現、財務省)が解体と撤去を条件とし、敷地と建物を聖母学院に売却、惜しくも破壊されてしまいました。
現在はさらに民間に売却され新興住宅地になっています。
16D師團長官舎
~在りし日の師團長官舎玄関


この場所から少し離れていますが、藤森神社境内には石原莞爾中将が第十六師團長に就任した際に奇進した「白松」ツがあります。
ツ白松(石原莞爾中将寄進)
~白松
 立て札には「昭和10年頃」となっており、当時の師團長は蒲穆中将です。
 どちらが正しいか不明です。


第十六師團、隷下部隊設置
明治29(1896)年12月1日、歩兵第九聯隊(大津)内において歩兵第三十八聯隊が編成され、第四師團第十九旅團(大阪)に属します。
同年、歩兵第三十八聯隊の京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)の転営が決定、兵営、衛戍病院(兵営北側に隣接)、練兵場甲(兵営北側、後の騎兵第二十聯隊敷地)、練兵場乙(万帖敷)、射撃場(伏見城北堀)が設置されます。
明治30(1897)年、歩兵第三十八聯隊が深草村に転営してきます。

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、内地の常備師團全てが出征してしまったため、戦役後の軍備増強の一環として新たに第十三~十六師團の4個師團が臨時動員されることとなりました。

明治38(1905)年7月18日、第十六師團(山中信儀中将)は大阪において新設され(歩兵第三十一旅團:歩兵第六十一-大阪、六十二聯隊-善通寺/歩兵第三十二旅團:歩兵第六十三-広島、六十四聯隊-熊本)、8月10日、第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され滿洲に出征しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結したため、10月18日、關東総督(大島義昌大将)の隷下に編入され滿洲の警備に当り、明治39~40年にかけ逐次内地に帰還します。

明治40(1907)年、第十六師團は常設師團となり、内地帰還にともない衛戍地の選定が行われ、大規模な施設と人員による需要が地域経済の活性化・繁栄に繋がるとの期待から、紀伊郡深草村と愛宕郡上賀茂・大宮村との間で激烈な誘致合戦が行われます。

既に歩兵第三十八聯隊が深草村に衛戍していることから深草村に師團司令部、及び隷下部隊の設置が決定し、用地買収が進められます。

師團隷下部隊の設置には広大な用地が必要であり、当初地権者である地主は反対します。
しかし、石田吉左衛門村長と陸軍省の補償交渉により、1円80銭~2円50銭/坪(外に小作補償20銭)で売却することで交渉が成立しました。

これにより明治41(1908)年10月、深草村に第十六師團司令部を始め、騎兵第二十聯隊、野砲兵第二十二聯隊、輜重兵第十六大隊、陸軍兵器廠京都支廠、第十六師團糧秣部、京都練兵場(西浦)、北射撃場(鞍ヶ谷)、南射撃場(大亀谷)京都衛戌病院、京都憲兵隊、京都衛戌監獄、配水場が設置され、閑散とした農村は一気に発展しました。

大東亜戰争後の昭和24(1949)年、庁舎及び司令部敷地の西側一帯が聖母女学院に払い下げられ、学院により整備保存され現在に貴重な庁舎が残されています。


第十六師團>(兵團文字符:垣
明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、内地の常備師團全てが出征してしまったため、戦役後の軍備増強の一環として新たに第十三~十六師團の4個師團が臨時動員されることとなりました。

明治38(1905)年7月18日、第十六師團(山中信儀中将)は大阪において新設され(歩兵第三十一旅團:歩兵第六十一-大阪、六十二聯隊-善通寺/歩兵第三十二旅團:歩兵第六十三-広島、六十四聯隊-熊本)、8月10日、第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され滿洲に出征しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結したため、10月18日、關東総督(大島義昌大将)の隷下に編入され滿洲の警備に当り、明治39~40年にかけ逐次内地に帰還します。

明治39(1906)年、戦役中に臨時動員された4個師團を常設師團に変更、明治40(1907)年9月18日、『軍令陸四百號』により平時編成が改編され第十六師團隷下には
歩兵第十八旅團(敦賀)
 歩兵第九聯隊(大津)
 歩兵第十九聯隊(敦賀)
歩兵第十九旅團(京都)
 歩兵第三十八聯隊(京都)
 歩兵第五十三聯隊(奈良)
騎兵第二十聯隊(京都)
野砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六大隊(京都)
工兵第十六大隊(京都)
が編入されます。

大正8(1919)年3月3日、南滿洲鉄道守備のため滿洲駐箚を命ぜられ、4月20日、大阪港出港、26日、遼陽の警備に就きます。

大正14(1925)年3月7日、軍令陸甲第一號により隷下の歩兵第五十三聯隊の廃止(宇垣軍縮)、改編が行われ第十六師團隷下には
歩兵第十九旅團(京都)
 歩兵第九聯隊(京都)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
歩兵第三十旅團(敦賀)
 歩兵第三十三聯隊(久居)
 歩兵第三十八聯隊(奈良)
騎兵第二十聯隊(京都)
野砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六大隊(京都)
工兵第十六大隊(京都)
飛行第三聯隊(八日市)
高射砲第三聯隊(大津)
が編入されます。

昭和4(1929)年4月、滿洲に駐箚し警備に就き、昭和6(1931)年4月、京都に帰還、昭和9(1934)年8月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲派遣が下令され、9月4日、斉斉哈爾の警備に就き、昭和11(1936)年7月、京都に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月、京都を出発、塘沽に上陸し北寧鉄道に沿って天津に進み、北支戦線において石家荘、常熱、無錫などの戦いに参加、11月、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、常熟、無錫、丹陽、句陽道を進み、12月13日、支那国府軍の首都南京城紫金山、中山門、和平門の攻撃に参加します。
中島今朝吾中将
~中島今朝吾中将(在任 昭和12年8月2日~昭和13年7月15日)

南京攻略後、昭和13(1938)年1月、第十六師團の北支那方面軍(寺内寿一大将)転属により、上海に終結、海路山海関へ移動、5月9日、徐州會戰に参加、、7月、第十六師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍隷下となり武漢作戰に参加、昭和14(1939)年4月1日、襄東會戦に参加、7月11日、復員が下令され、8月、京都に復員します。

石原莞爾中将
~石原莞爾中将(在任 昭和14年8月30日~3月1日)

昭和15(1940)年7月10日、『軍備改編要領 其二』により、昭和16(1941)年4月、隷下の歩兵第三十八聯隊が關東軍隷下の戦略予備師團である第二十九師團(上村利道中将、名古屋、通称号:雷)に編合されます。
これにより第十六師團(森岡皐中将)は4単位から3単位師團に改編が行われ隷下には
歩兵第十六歩兵團司令部
 歩兵第九聯隊(京都)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
 歩兵第三十三聯隊(久居)
捜索第十六聯隊(旧騎二十、京都)
野砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六聯隊(京都)
工兵第十六聯隊(京都)
が編入され、衛戍地の京都から滿洲への変更が決定されます。

当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。
昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。
9月16日、第十六師團は臨時編成され、10月、戦争準備のための動員下令、11月5日、新『帝國國策遂行要綱』を策定し和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、11月6日、第十六師團は比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に第四十八師團(土橋勇逸中将、通称号:海、臺灣)、第六十五旅團(奈良晃中将、通称号:夏、福山)とともに編入されます。

12月8日、海軍機動部隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)、陸軍第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸により大東亜戰争が開戦します。

同日、第五飛行集團(小畑英良中将)、海軍第十一航空艦隊(塚原二四三中将)により敵飛行場、航空機の無力化に成功、12月10日、先遣部隊がルソン島北端のアパリとビガンに、12日、ルソン島南端のレガスピーに上陸、22日、第四十八師團(土橋勇逸中将、海南島)を主体とした第十四軍主力がリンガエン湾に上陸、24日、第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、昭和17(1942)年1月2日、マニラを占領しました。

大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第四十八師團を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。
しかし、米比軍のマニラ放棄、バターン半島撤退は既定路線であり強力な米比軍に第十四軍は苦戦します。
1月12日、第六十五旅團(第十六師團から歩兵第九聯隊を臨時編入)がバターン半島入り口のナチブ山周辺に攻撃を開始しますが、敵砲兵の攻撃と猛烈な逆襲のため損害が続出、戦線は膠着します。
16日、第十六師團から歩兵第二十聯隊基幹で編成された木村支隊を投入、米比軍を第二線に後退させますが我が方の損害も甚大で本間中将は攻撃停止を指示します。

4月3日、大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、9日夜、第十六師團は増援の第四師團(北野憲造中将、通称号:淀、大阪)とともにバターン南端のマリベレスに突入、米比軍指揮官キング少将は降伏します。
続いて、5月7日、第四師團らによってコレヒドール島も陥落し、比島作戰は終了します。

ルソン島攻略後、第十六師團は同島の警備に就き、訓練、匪賊討伐の任務に就きます。

昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦、昭和18(1943)年2月、ガダルカナル島攻防戦に敗れ、自力で劣る我が国は次第に退勢に転じて行きます。

昭和18(1943)年10月、第十六師團隷下の歩兵第二十聯隊(鉾田慶次郎大佐、福知山)が匪賊討伐の為、レイテ島に進出します。
昭和19(1944)年4月5日、第十六師團(牧野四郎中将)主力、歩兵第九聯隊(神谷保孝大佐、京都)にレイテ島進出が下令され、サマール島を経由(歩九は同島に残置) 13日、同島に上陸、師團司令部をタクロバンに置き陣地構築を開始、同島の防衛(18,949名)に就きます。
牧野四郎
~牧野四郎中将(在任 昭和19年3月1日~昭和20年8月10日 自決)

5月、大本營は「第十一號作戰準備」により逐次比島方面の戦力を整備、7月28日、第十四軍(黒田重徳中将)を第十四方面軍(9月26~日山下奉文大将)に昇格、8月4日、隷下に新たに第三十五軍(鈴木宗作中将、司令部:セブ島、主力:ミンダナオ島に展開)を臨時編成(第十六師團、第三十師團が第三十五軍に移管)します。

7月7日、絶対国防圏の要所であるサイパン島守備隊が、8月3日、テニアン島守備隊が、8月11日、大宮島(グアム)守備隊がそれぞれ玉砕、マリアナ諸島を失陥してしまいます。
大本營は比島、臺灣、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とする「捷號作戰」を策定、米軍に対し一大決戦を実施、戦争終結の発端を企図、7月24日、作戰準備を発令します。

7月19日、歩兵第九聯隊がレイテ島へ進出してきます。

9月19日、第十六師團隷下の歩兵第三十三聯隊(鈴木辰之助大佐、久居)がレイテ島に進出してきます。

第十六師團は移駐後、内陸部のダガミに複郭陣地を構築、敵上陸1日で逐次後退し防御に徹する作戦を立てます。
しかし、敵の主目的地である飛行場群を防衛するには敵上陸正面と予測される島東側の50Kmに及ぶ海岸線に兵力を配置する必要があり牧野中将は陣地配分に苦慮、最終的に敵上陸正面の海岸に北から歩兵第三十三聯隊、歩兵第九聯隊、歩兵第二十聯隊の順に布陣、防御態勢を固め、敵上陸後は逐次複郭陣地に後退する事になりました。

当初、大本營は地上軍の決戦は「ルソン島」を予定していましたが、10月12~16日の臺灣沖航空戰の結果(所謂幻の大戦果)を受け、海空の援護のない敵上陸部隊を撃破する好機とし第十四方面軍司令官・山下大将の反対意見を退けレイテ島での決戦を決定します。

10月17日、米軍(マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、大本營は米軍の本格的進攻と判断し10月18日夜「捷一號作戰」を発動します。

10月19日、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇で接近、敵の上陸と誤認した野砲兵第二十二聯隊(近藤嘉名男大佐)が射撃を実施、火点を暴露してしまいます。

10月20日、米軍は艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁し上陸を開始します。

0600、レイテ湾口の米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、米軍は艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がレイテ島タクロバンに、第 24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始します。

長大な海岸線に部隊を分散配置していた師團隷下部隊は、圧倒的な敵上陸部隊の攻撃に歩兵第三十三聯隊以外は有効な反撃ができず通信線が寸断され状況の把握、命令伝達ができないまま各地で大損害を受けてしまいます。

21日、米軍は戦車、砲兵の支援のもと内陸、第10軍団はレイテ渓谷を抜けて北岸のカリガラ平原、第24軍団は中部のブラウエンやダガミへの侵攻を開始します。

22日、牧野中将は各隷下部隊に後退を指示、内陸部のドラグ、ブラウエン両飛行場周辺、ダガミ、バストラナ、サンタフェに後退、防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行しますが戦果は挙がりませんでした。

23日、敵はタクロバン、カトモン山西側に到達、同日ドラグ飛行場守備の歩二十聯隊長・鉾田大佐、パロ付近で歩三三聯隊長・鈴木大佐が相次いで散華、24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊が、ブラウエン地区へ侵入、25日、ドラグ守備の歩二十主力、歩九の一部が玉砕、30日、歩三三が玉砕、11月、工兵第十六聯隊が玉砕、この頃には第十六師團の防御体制は悉く崩壊してしまい残存部隊は脊梁山地へ後退します。

米軍は断続的に戦力を増強、、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸します。
その後も我が軍の増援は行われ兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の輸送により海上で兵力、物資が大損害を受け戦力的には低下していきました。
兵力、物資の安全補給のため地上部隊は敵飛行場への攻撃が必要となり、11月26日、臺灣高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團残存部隊(11月末時点総兵力2,030、内歩兵1,400)は歩兵第九聯隊長・神谷保孝大佐の指揮下、敵占領下のブラウエン飛行場に対し攻撃(和號作戰)を実施しますが、歩九・神谷聯隊長が散華、12月11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから作戰は中止、我が軍はパロンポン方面へ後退します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を命じ、レイテ決戦は事実上終結します。
第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に終結させ、持久態勢に移ります。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島に転進(地號作戰)、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、稼働舟艇が壊滅し1月20日、作戰は停止されます。
以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月上旬、ロビ山中から第十六師團が歓喜峰に到着します。

3月下旬、伝馬船によ第三十五軍司令部がセブ島へ転進、4月19日、永久抗戦指揮のため丸木舟でミンダナオ島へ移動途中米軍の銃撃により鈴木中将が散華してしまいます。

レイテ島の残存部隊は補給が途絶え、疫病の蔓延する中で米軍、匪賊と交戦、昭和20(1945)年8月10日、牧野四郎師團長が師團壊滅の責任を取り自決、9月3日、第十四方面軍司令官・山下大将がマッカーサーに降伏、第十六師團の停戦時の兵力は僅か620名でした。

― 歴代師團長 ―
山中信儀 中将:明治38(1905)年7月18日~
長岡外史 中将:大正2(1913)年1月15日~
松川敏胤 中将:大正3(1914)年8月8日~
山口勝 中将:大正5(1916)年8月18日~
梨本宮守正王 中将:大正6(1917)年8月6日~
志岐守治 中将:大正8(1919)年11月25日~
山田良之助 中将:大正12(1923)年8月6日~
南次郎 中将:大正15(1926)年3月2日~
松井兵三郎 中将:昭和2(1927)年3月5日~
山本鶴一 中将:昭和5(1930)年8月1日~
蒲穆 中将:昭和8(1933)年3月18日~
渋谷伊之彦 中将:昭和10(1935)年8月1日~
児玉友雄 中将:昭和10(1935)年12月2日~
中島今朝吾 中将:昭和12(1937)年8月2日~
藤江恵輔 中将:昭和13(1938)年7月15日~
石原莞爾 中将:昭和14(1939)年8月30日~
森岡皐 中将:昭和16(1941)年3月1日~
大場四平 中将:昭和17(1942)年8月1日~
牧野四郎 中将:昭和19(1944)年3月1日~昭和20(1945)年8月10日自決


第十五師團>(兵團文字符:祭
明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、内地の常備師團全てが出征してしまったため、戦役後の軍備増強の一環として新たに第十三~十六師團の4個師團が臨時動員されることとなりました。

明治38(1905)年4月1日、第十五師團(沖原光孚中将)は愛知県豊橋市において動員下令、7月17日新設され、8月、第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され滿洲に出征しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結したため、10月、韓國駐箚軍(長谷川好道大将)の隷下に編入され韓國北部の警備に当り、明治40(1907)年3月、内地に帰還します。
編成時の第十五師團隷下には
歩兵第二十九旅團
 歩兵第五十七聯隊(弘前)
 歩兵第五十八聯隊(東京)
歩兵第三十旅團
 歩兵第五十九聯隊(金沢)
 歩兵第六十聯隊(仙台)
騎兵第十九聯隊(仙台)
野砲兵第二十一聯隊
輜重兵第十五大隊
工兵第十五大隊
が編入されます。

明治39(1906)年、戦役中に臨時動員された4個師團を常設師團に変更、明治40(1907)年9月18日、『軍令陸四百號』により平時編成が改編され第十五師團隷下には
歩兵第十七旅團(豊橋)
 歩兵第十八聯隊(豊橋)
 歩兵第六十聯隊(豊橋)
歩兵第二十九旅團(静岡)
 歩兵第三十四聯隊(静岡)
 歩兵第六十七聯隊(濱松)
騎兵第十九聯隊(豊橋)
野砲兵第二十一聯隊(豊橋)
輜重兵第十五大隊(豊橋)
工兵第十五大隊(豊橋)
が編入されます。

大正10(1921)年3月、滿洲駐箚に就き、大正12(1923)年4、豊橋に帰還します。

大正14(1925)年5月1日、加藤高明内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」により4個師團の廃止が決まり、第十三、第十七、第十八師團と共に第十五師團も廃止されました。


昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発、事變の長期化と戦域拡大により大正14(1925)年に廃止された師團は再編成され、昭和13(1938)年4月4日、第十五師團(岩松義雄 中将、のち兵團文字符:祭、京都)も留守第十六師團の担当で動員下令、7月15日、再編成されます。
第十五師團隷下には
第十五歩兵團司令部
 歩兵第五十一聯隊(京都)
 歩兵第六十聯隊(名古屋)
 歩兵第六十七聯隊(東京)
野砲兵第二十一聯隊
輜重兵第十五大隊
工兵第十五大隊
師團捜索隊
が編入されます。

師團は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され8月、上海に上陸、首都警備師團として南京、蕪湖一帯に屯営し警備に就きます。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。

昭和15(1940)年4月4日、春季皖南作戦、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戰に参加します。

昭和16(1937)年2月、蘇北作戰開始に際し、各隊から抽出編成された1個中隊(野田別働隊)が高郵、興化、揚州地域で活躍します。
昭和16(1941)年4月、浙東作戦、12月8日、大東亜戦争が開戦、24日、皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年、湘カン作戰に参加、5月28日、乗馬が地雷を踏み師團長・酒井直次中将が散華してしまいます。
昭和17(1942)年6月2日、山内正文中将が新師團長として着任します。

昭和18(1943)年3月、師團は第十五軍(牟田口廉也中将、ビルマ)に編入され、6月、バンコクに上陸、昭和19(1944)年3月8日、ウ號作戦(インパール作戦)に参加します。

3月15日、師團はチンドウィン河の奇襲渡河に成功、3月17日、国境を突破してインド国内に進撃し、英印軍と交戦を開始します。
4月1日、アラカン山脈を突破してインパール北方15km地点まで到達し主要高地を奪取しますが英印軍の度重なる逆襲を受け、アメーバー赤痢も重なり戦力の損耗が増加し次第に守勢に回ることとなりました。
5月に入ると敵の圧迫を受け逐次後退を始め、さらに例年より早く訪れた雨季のため河川が至る所で氾濫、補給が完全に絶たれてしまい敵中に孤立、飢餓、疫病との戦いが続きます。
6月1日、第三十一師團(佐藤幸徳中将、兵團文字符:烈、甲府)が食料・弾薬の途絶、自滅を防ぐため軍命を無視し退却を開始、佐藤幸徳中将は牟田口中将により師團長を解任され、同様の意見具申した第三十三師團長・柳田元三中将、胸部疾患と作戦不徹底から第十五師團長・山内中将も相次いで解任(後任は柴田夘一中将)されてしまいます。

7月5日、遂に退却命令が下り、7月10日には作戦の中止が正式に決定、師團はアメーバー赤痢、悪性マラリア、飢えと疲労、英印軍の襲撃のなか後退を開始しますが兵力の半数を失ってしまいました。

昭和20(1945)年1月、イラワジ河畔の会戦、3月、マンダレー城の攻防などに参加し、8月、タイ国に転進し、停戦を迎えました。

― 歴代師団長 ―
岩松義雄 中将:昭和13(1938)年7月15日~
渡辺右文 中将:昭和15(1940)年3月9日~
熊谷敬一 中将:昭和15(1940)年5月28日~
酒井直次 中将:昭和16(1941)年8月20日~昭和17(1942)年5月28日 散華
山内正文 中将:昭和17(1942)年6月2日~
柴田夘一 中将:昭和19(1944)年6月10日~
(心得)山本清衛 少将:昭和20(1945)年2月30日~
山本清衛 中将:昭和20(1945)年3月1日~
渡左近 中将:昭和20(1945)年7月25日~


第百十六師團>(兵團文字符:嵐
昭和13(1938)年5月15日、留守第十六師團(中岡弥高予備役中将)に動員下令、5月27日、第百十六師團が動員完結(清水喜重予備役中将)します。
隷下には
歩兵第百十九旅團
 歩兵第百九聯隊(京都)
 歩兵第百二十聯隊(福知山)
歩兵第百三十旅團
 歩兵第百三十三聯隊(久居)
 歩兵第百三十八聯隊(奈良)
野砲兵第百二十二聯隊(京都)
工兵第百十六聯隊(京都)
輜重兵第百十六聯隊(京都)
騎兵第百二十大隊(京都)
が編入されます。

6月19日、中支那派遣軍戦闘序列に編入され、大阪港を出港、6月22日、上海に上陸、25日、杭州に移駐、同地の警備に就きます。
9月13日、安慶に移動、長江沿岸の警備に就き、18日、隷下の歩兵第百二十、百三十三、野砲兵第百二十二聯隊より歩兵4個・砲兵1個大隊を抽出し石原支隊(第十九旅團長・石原常太郎少将)を編成、10月16日、石原支隊は武漢作戰に参加、キ春付近に上陸し黄白城付近の戦闘を経て漢口攻略戦に参加します(11月5日、師團に復帰)。
12月8日、大通南方地区作戰に参加します。
昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。
12月16日、長江岸冬期作戰に参加します。
昭和15(1940)年4月4日、春季皖南作戦、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戰に参加します。
昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、24日、皖浙作戦に参加します。
昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵航空基地撃滅を下令(浙カン作戰)、師團は建徳、蘭谿、衡州、玉名と進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備に就き、12月21日、大別山作戰に参加します。
昭和18(1943)年10月1日、常徳作戰に参加(19年1月まで)します。

昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)の戦闘序列に編入されます。
4月22日、一號作戰(大陸打通作戰)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、敵航空基地の制圧を目指し岳州より南下し長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日より長沙の攻撃を開始、18日、長沙を占領します。
続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那国府軍第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を占領、10月3日、湖南省宝慶に駐留します。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。
昭和20(1945)年4月1日、湘西作戰(シ-草冠に止-江作戰)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、藷迯]河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。
8月16日、停戦の大詔を拝受し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除、昭和21(1946)年4月29日、内地に向け孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港(一部は20日出港)、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。

― 歴代師團長 ―
清水喜重 予備役中将:昭和13(1938)年5月15日~
篠原誠一郎 中将:昭和14(1939)年5月19日~
武内俊二郎 中将:昭和16(1941)年10月15日~
岩永汪 中将:昭和18(1943)年6月10日~
菱田元四郎 中将:昭和20(1945)年3月9日~


第五十三師團>(兵團文字符:安
昭和15(1940)年7月10日、『軍備改編要領 其二』により、常設師團のうちの第一、八~十二、十四、十六師團の8個師團が滿洲永久駐屯師團と定められます。
そのため内地に常設師團として各留守師團を基幹とした新設師團の設置が決定されます。
同年7月10日、第五十一、五十二、五十四~五十七師團の6個師團が編成、翌16(1941)年9月16日、留守第十六師團を基幹に第五十三師團が編成(馬場正郎中将)され中部軍(藤井洋治中将、大阪)に隷属します。
第五十三師團には
第五十三歩兵團司令部
 歩兵第百十九聯隊(敦賀)
 歩兵第百二十八聯隊(京都)
 歩兵第百五十一聯隊(久居)
捜索第五十三聯隊
野砲兵第五十三聯隊
工兵第五十三聯隊
輜重兵第五十三聯隊
京都陸軍病院
津陸軍病院
敦賀陸軍病院
が編入されます。

昭和18(1943)年11月、臨時動員下令、南方軍予備として昭和19(1944)年1月、サイゴン、シンガポール等に到着、第二十九軍(石黒貞蔵中将)に編入され同地で訓練に当ります。
3月30日、緬甸方面軍(河辺正三中将)に編入され、4月7日、緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)に編入、5月2日、ビルマに進出します。

連合軍が蒋援ルート「レド公路」の打通を計画、蒋援ルート遮断継続のため第三十三軍は北ビルマ(ビルマ支那国境付近)に展開、師團はモガウンにおいて英印軍と交戦ののち5月13日、モールを占領、イラワジ川沿いにミイトキーナに向け進撃します。
しかし、空輸による増援を受ける英印軍、米式装備の支那軍の圧倒的な兵力に拉孟、騰越の守備隊が玉砕してしまう等第三十三軍は苦戦、6月10日、師團はミイトキーナ攻撃を中止、転進を開始、昭和20(1945)年1月、レド公路の打通を許してしまいます。
この間の昭和19年5月16日、隷下の歩兵第百五十一聯隊が第三十三師團(田中信男 少将、通称号:弓、宇都宮)隷下となりウ號作戰(インパール作戰)に参加、英印軍との激戦で大損害を受け8月24日、師團へ復帰します。

昭和20(1945)1月11日、攻勢を強める英印軍を食い止めるべくイラワジ会戦、3月29日、克作戦、5月18日、シッタン作戰に参加、英印軍との戦闘を交える中で停戦を迎えました。

― 歴代師團長 ―
馬場正郎 中将:昭和16(1941)年10月1日~
河野悦次郎 中将:昭和18(1943)年9月25日~
武田馨 中将:昭和19(1944)年4月27日~
林義秀 中将:昭和20(1945)年2月20日~停戦


第百五十三師團>(兵團文字符:護京
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」(2月28日)により動員下令、4月8日、新設(稲村豊二郎中将)された沿岸配備師團で、第十三方面軍(岡田資中将、通称号:秀、名古屋)戦闘序列に編入されます。
隷下部隊は
歩兵第四百四十一聯隊(敦賀)
歩兵第四百四十二聯隊(京都)
歩兵第四百四十三聯隊(敦賀)
歩兵第四百四十四聯隊(京都)
第百五十三師團砲兵隊
第百五十三師團速射砲隊
第百五十三師團輜重隊
第百五十三師團通信隊
第百五十三師團兵器勤務隊
第百五十三師團野戦病院
が編入されます。

編成完結後、司令部を三重県宇治山田に配置、作戦地である伊勢湾の沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎えます。


第二百十六師團>(兵團文字符:比叡
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」(4月2日)により動員下令、4月30日、新設(中野良次中将)された機動打撃師團で、第十六方面軍(横山勇中将、通称号:睦、福岡)戦闘序列に編入されます。
隷下部隊は
歩兵第五百二十二聯隊(京都)
歩兵第五百二十三聯隊(敦賀)
歩兵第五百二十四聯隊(姫路)
野砲兵第二百十六聯隊(京都)
迫撃第二百十六聯隊(京都)
第二百十六師團速射砲隊
第二百十六師團機關砲隊
第二百十六師團工兵隊
第二百十六師團輜重隊
第二百十六師團通信隊
第二百十六師團兵器勤務隊
第二百十六師團第四野戰病院
が編入されます。

編成完結後、司令部を熊本県宇土町に配置、作戦地である熊本平野において敵上陸部隊を粉砕すべく陣地構築、訓練中に停戦を迎えます。

余談ですが僕の祖父は停戦時この師團の迫撃第二百十六聯隊に属していました。


第三百十六師團>(兵團文字符:山城
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」(4月2日)により動員下令、7月10日、新設(柏徳中将)された沿岸配備師團で、第五十三軍(赤芝八重蔵中将、通称号:断、名古屋)戦闘序列に編入されます。
隷下部隊は
歩兵第三百四十九聯隊(京都)
歩兵第三百五十聯隊(敦賀)
歩兵第三百五十一聯隊(敦賀)
第三百十六師團噴進砲隊
第三百十六師團工兵隊
第三百十六師團通信隊
第三百十六師團野戰病院
が編入されます。

編成完結後、司令部を神奈川県伊勢原に配置、作戦地である相模湾において敵上陸部隊を粉砕すべく陣地構築準備中に停戦を迎えます。


主要参考文献について
・『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

・『あの戦争(下) 太平洋戦争全記録』(平成13年10月 産経新聞社)

・聖母女学院 本館のご案内(学校法人 聖母女学院)

・米軍撮影空中写真(昭和21年7月 国土地理院)

・googleの地図

-Webサイト-
大東亜戰争研究室 

・「歩兵第百二十連隊 中支作戦に生還して」(柏谷富二雄 平和祈念展示資料館)

学校法人 聖母女学院
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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