当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十六師團司令部

京都市伏見区深草田谷町に所在する学校法人聖母女学院は第十六師團司令部の跡地にあります。
同司令部は後に第五十三師團司令部となり、第百十六師團司令部、第百五十三師團司令部、第二百十六師團司令部、第三百十六師團司令部が編成されます。

また司令部に隣接して第十六師團経理部 被服庫、北側に第十六師團兵器部がありました。
第十六師團司令部 庁舎正面 (南西から)(京都深草)
▲聖母女学院本館に転用された第十六師團司令部庁舎

【探索日時】
平成23年3月1日

【改訂情報】
平成30年4月30日、体裁改正





第十六師團関連諸施設の配置
第十六師團司令部 第十六師團 現在位置のみ(京都深草)
▲現在の地図に施設を転写
① 第十六師團司令部
② 第十六師團兵器部
③ 第十六師團経理部 被服庫

④ 露天馬場
⑤ 第十六師團経理部 糧秣倉庫
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊
⑨ 騎兵第二十聯隊
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
⑪ 輜重兵第十六聯隊
⑫ 京都陸軍病院
⑬ 京都陸軍拘禁所
⑭ 京都偕行社
⑮ 第十六師團長官舎
⑯ 師團長附当番兵宿舎
⑰ 京都陸軍練兵場
⑱ 大亀谷陸軍練兵場
⑲ 配水場
⑳ 伏見陸軍射撃場
㉑ 京都陸軍射撃場
㉒ 京都憲兵隊
㉓ 京都陸軍墓地
A 師團街道
B 第一軍道
C 第二軍道
D 第三軍道
※名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
① 第十六師團司令部
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

8月10日、第十六師團は第四軍戦闘序列に編入され大阪を出発、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結したため、10月18日、師團は關東總督隷下に編入され滿洲の警備にあたり、明治40(1906)年3月、逐次大阪府下の浜寺、天王寺の旧俘虜収容所の仮兵営に帰還します。

明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、候補地として深草村、愛宕郡上賀茂・大宮村、葛野郡花園村の3ヶ所が挙がり、軍の需要による地域経済の活性化、繁栄を期待する各地域の有力者が誘致運動を開始、4月初旬、深草村に師團誘致期成会(伊東熊夫)、愛宕郡にも同会(堀田康人)が発足し葛野郡は脱落、26日、既に歩兵第三十八聯隊が衛戍する深草村付近への師團設置が決定します。

9月2日、京都市議会が誘致運動の際に決定した献納金150,000円の供出問題(誘致に失敗した愛宕郡派による妨害)が決着、第四師團経理部は石田吉左衛門村長との補償交渉により地価の2倍近い1円80銭~2円50銭/坪(外に小作補償20銭)を提示、村長の協力により用地買収を進めます。

6月下旬、150,000坪(残り80,000坪)を買収、明治41(1907)年中には反対する一部の地権者も用地売却に応じ、臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月18日、野砲兵第二十二聯隊が大阪から移駐、24日、京都陸軍兵器支廠が開庁、30日、第十六師團司令部、輜重兵第十六大隊が大阪から移駐、11月1日、京都衛戍病院、京都衛戌監獄、10日、京都憲兵隊本部が開設、16日、騎兵第二十聯隊が移駐、京都陸軍練兵場、京都陸軍射撃場、伏見陸軍射撃場、配水場の供用が開始されます。

大正8(1919)年3月3日から大正10(1921)年4月27日、昭和4(1929)年3月22日から昭和6(1931)年4月9日、師團の滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変出征に際し留守第十六師團司令部が編成され、昭和13(1938)年5月15日、第百十六師團を編成(中支へ)します。
昭和16(1941)年10月1日、第十六師團のフィリピン出征に伴い第五十三師團司令部が編成、昭和18(1943)年12月19日、師團のビルマ出征に伴い留守第五十三師團司令部が編成され、昭和20(1945)年2月28日、第百五十三師團を編成、4月1日、留守第五十三師團司令部は京都師管區司令部に改編され、2日、第二百十六師團、第三百十六師團を編成し決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
昭和16年の記念写真 第十六師團(京都深草)
▲昭和16年9月、比島出征を前に庁舎前で撮影された司令部職員

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、同日、深草村の各陸軍施設も接収されます。

昭和24(1949)年、米軍施設に転用されなかった師團司令部、偕行社、騎兵営の北側がメール・マリー・クロチルド・リュチニエ女史に払い下げられ、聖母学院小・中学校、昭和26(1951)年、同幼稚園、昭和27(1952)年、同高等学校、昭和43(1968)年、同短期大学新学科が開校し、現在に至ります(他の兵営は各記事で記載)。

現在、師團司令部は学校法人聖母女学院、及び小さき花の聖テレジアのカトリック伏見教会になっています。

第十六師團司令部 第十六師團 ①(京都深草)
▲遺構の配置

ア 司令部庁舎
現在は聖母女学院本館として整備、活用されています。
正面にイオニア式石柱(2本の白い柱)、マンサード屋根(中央頂部)を、両側の屋根上にドーマー窓(屋根上丸窓)を配し非常に華麗で華やかな外観をしています。

-庁舎要目-
建設 : 明治41(1908)年
設計 : 陸軍省(英国人説あり)
施工 : 松村組
面積 : 1階 875.57㎡、2階 883.07㎡
第十六師團司令部 庁舎正面 (西から)(京都深草)
▲正面側

昭和24年払い下げ時 第十六師團(京都深草)
▲壁面に黒色塗装がされている庁舎(昭和24年、払下げ時)

庁舎正面 (南西から) (2) 第十六師團(京都深草)
▲現在、校章のある場所に本来は菊の御紋を頂いていました

第十六師團司令部 庁舎裏側 (東から)(京都深草)
▲裏側

第十六師團司令部 庁舎裏面 (北東から)(京都深草)
▲南側側面の入口は簡素なのに対し

第十六師團司令部 庁舎南側入り口 (南西から)(京都深草)
▲北側側面の入口は凝った意匠です

第十六師團司令部 庁舎正面 (西から) (2)(京都深草)
▲夜の庁舎

平成21(2009)年に行われた周辺整備の際、遺されていた門柱や塀が惜しくも破壊されてしまいました。
第十六師團司令部(改装前)
▲整備前の状況

-庁舎内部-
見学の際は部屋 ①で簡単な解説を受け、下記見取り図の番号順に見学して行きます。
見取り図 第十六師團(京都深草)
▲庁舎内の見取り図
 
1階廊下 第十六師團(京都深草)
▲1階廊下

1階廊下 天井の装飾 第十六師團(京都深草)
▲廊下の装飾

部屋 ②
床材は当時のまま(リノリウム貼り?)で、軍刀の鐺(こじり)で突いた傷が多数遺されています。
部屋2の床(軍刀の跡) 第十六師團(京都深草)

正面玄関 ③
乗馬のまま書類の受け渡しができる様に窓が高くなっており、また馬が回れるように広くなっています。
玄関の高い窓(部屋2の窓) 第十六師團(京都深草)

玄関 第十六師團(京都深草)
▲玄関

正面階段
当時のまま使用されています。
中央階段 第十六師團(京都深草)

階段下の両側は下駄箱になっています。
中央階段右下のげた箱 第十六師團(京都深草)

階段横に置いてある鏡台も当時の物だそうです。
階段横の当時の鏡台 第十六師團(京都深草)

師團長室 ⑤
現在は理事長室として使用されており、理事長が不在の際は見学ができます。
この部屋で帝國陸軍随一と言われる戦略家・石原莞爾中将が執務していたと思うと感慨深いものがあります。
師團長室(現理事長室) 第十六師團(京都深草)

師團長室扉 第十六師團(京都深草)
▲他の部屋の扉より重厚な師團長室の扉

窓からは深草一帯が見渡せ、また窓下には「星章」の木製螺鈿細工が施工されるなど格調高い仕上がりになっています。
師團長室窓側下の木製螺鈿細工 第十六師團(京都深草)
▲木製螺鈿細工

師團長室暖炉 第十六師團(京都深草)
▲師團長室暖炉

部屋 ⑥
ルネサンス風の装飾が施された窓枠が付いています。
部屋6の西側窓 第十六師團(京都深草)

2階廊下、当時の床 第十六師團(京都深草)
▲当時の床材が遺る2階廊下

部屋 ⑦
大きさ、窓の配置、装飾など他の部屋と造りが違う部屋になっています。
第四師團司令部庁舎の例から軍法会議を開廷する「公判廷」ではないでしょうか?
部屋7 パノラマ写真 第十六師團(京都深草)

部屋 ⑧
部屋に扉が3ッ付いた特異な部屋と言うことで御真影を奉安する部屋と言われているようですが、御真影を階下に置くはずは無く、また部屋も広すぎる事から奉安室では無いと思います。
なお通常、御真影は師團長室の奉安庫に収められます。
部屋8の扉 第十六師團(京都深草)

部屋 ⑨
部屋9の暖炉 第十六師團(京都深草)
▲暖炉

部屋 ⑩
第十六師團司令部 部屋10(京都深草)

炊事場 ⑪
ここは当時から炊事場で、現在も給湯室として使用されています。
部屋11(厨房) 第十六師團(京都深草)

屋根裏 第十六師團(京都深草)
▲改装時の屋根裏の様子(紹介映像より)

見学については完全予約制で、事前に電話連絡のうえ日程を調整、見学申請書の提出が必要になります。
詳しくは聖母女学院 法人事務局 075-641-0507 までお問い合わせ下さい。


イ 厩舎
庁舎裏に遺りますが、かなり改築され倉庫の様になっています。
第十六師團司令部 イ厩舎 北東から(京都深草)
▲全く面影がありませn

第十六師團司令部 イ厩舎 北から(京都深草)
▲全景

当時の空撮を見ると、この厩舎の対面に自動車庫と思われる同じ様な大きさの建物が写っています。


カ 門柱の笠石と門灯
庁舎前にあった築山跡の花壇に、改修の際に撤去された門柱の傘石と門灯が置かれています。
イ門柱上部 第十六師團(京都深草)


オ 陸軍用地五
第十六師團司令部 オ陸軍用地五(京都深草)
▲司令部と民家の境に遺る境界石標


ウ 倉庫
聖母女学院に隣接する小さき花の聖テレジアのカトリック伏見教会に遺ります。
コンクリート製で鉄扉がついている事から、衛兵所の武器庫と思われます。
こちらは事前連絡は必要なく、直接「司教室」で許可を頂き見学できます。
第十六師團司令部 ウ倉庫 東から(京都深草)
▲カーポートがあり見づらいです

第十六師團司令部 ウ倉庫 扉(京都深草)
▲鉄扉


エ 建物
同じくカトリック伏見教会に遺ります。
「衛兵所」と言われている様ですが、改修により破壊された南側にあった建物が位置的に衛兵所と思われます。
第十六師團司令部 エ建物 南東から(京都深草)
▲壁面は教会と同様の仕様に改修されています

第十六師團司令部 エ建物 西側(京都深草)
▲縦長の窓に当時の面影を感じます


② 第十六師團兵器部
明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、4月26日、深草村付近への師團設置が決定、明治41(1907)年、臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月24日、京都陸軍兵器支廠が開庁します。

師團長管理兵器が漸次増加、複雑化するなか、兵器支廠長は隷属関係に無く不都合が生じるため、大正7(1918)年5月30日、勅令第百七十六號『陸軍兵器部令』制定により、6月1日、京都陸軍兵器支廠は廃止され、第十六師團兵器部が新設され兵器の管理を引き継ぎます。
昭和16(1941)年9月16日、第五十三師團司令部が編成された事に伴い、第五十三師團兵器部に改称、昭和20(1945)年4月1日、留守第五十三師團司令部の京都師管區司令部改編に伴い京都師管區兵器部に改称、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後、米軍接収を経て、昭和23(1948)年12月1日、北側に京都府警察学校が開校、昭和35(1960)年、南側に龍谷大学深草学舎が開校し現在に至ります。

近年まで警察学校内に「兵舎」と言われる(兵器部なので兵舎のわけが無く、恐らく倉庫)木造建物が遺されていましたが、現在は破壊され遺構は何も遺されていない様です。

以下の写真はBESAN様よりお借りした、最後まで遺されていた倉庫です。
第十六師團兵器部(京都)
※写真はBESAN様の許可を得て掲載、トリミング、色彩調整など加工しています。


③ 第十六師團経理部 被服庫
師團司令部に隣接して所在し、司令部と同じ経緯を辿り、現在は聖母女学院短期大学になっています。
残念ながら遺構は何も遺されていない様です。


白松
藤森神社境内に第16代第十六師團長・石原莞爾中将が師團長着任時に奇進したと言われるシロマツがあります。
イ白松 石原莞爾中将寄進  第十六師團(京都深草)
▲立て札には「昭和10年頃」となっていますが、その当時の師團長は第11代・蒲穆中将です・・・


衛戍・編成・補充師團
第十六師團(垣六五五〇/司令部:垣六五五一)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

明治38(1905)年7月18日、第十六師團は留守第四師團の担当で西国の留守第四(大阪)、同第十(姫路)、同第十一(香川)、同第五(広島)、同第六(熊本)各師團より将兵を抽出し大阪において臨時動員(山中信儀中将)、8月10日、第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され大阪を出発、15日、逐次宇品港を出航、大連に上陸、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。

10月18日、師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入、工十六は旅順要塞司令部(伊地知幸介少将)指揮下に編入され夫々の警備にあたり、明治40(1906)年3月、逐次大阪府下の浜寺、天王寺、天下茶屋の旧俘虜収容所の仮兵営に帰還します。
第十六師團
第十六師團司令部
歩兵第三十一旅團司令部
 歩兵第六十一聯隊(大阪)
 歩兵第六十二聯隊(善通寺)
歩兵第三十二旅團司令部
 歩兵第六十三聯隊(広島)
 歩兵第六十四聯隊(熊本)
騎兵第二十聯隊(姫路)
野戰砲兵第二十二聯隊(熊本)
工兵第十六聯隊(福知山)
輜重兵第十六大隊(大阪)
第十六師團電信隊

明治39(1906)年、陸軍省はロシアの兵備強化に備えるべく、戦役中に臨時動員した4個師團を常設師團に改編するとすると伴に、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1906)年2月29日、京都府下に第十六師團の衛戍を決定、9月17日、軍令陸四百號により『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正し各師團の編合を定めます。
第十六師團
第十六師團司令部
歩兵第十八旅團司令部(敦賀)
 歩兵第九聯隊(大津)
 歩兵第十九聯隊(敦賀)
歩兵第十九旅團司令部(京都)
 歩兵第三十八聯隊(京都)
 歩兵第五十三聯隊(奈良)
騎兵第二十聯隊(京都)
野戰砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六大隊(京都)
工兵第十六大隊(京都)

10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い、野戰砲兵第二十二聯隊は野砲第二十二聯隊に改称します。

明治41(1907)年10月30日、第十六師團司令部は大阪から京都に移駐します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團(梨本宮守正王中将)に滿洲駐箚が下令、4月20日、大阪港を出航、26日、遼陽の警備にあたります。
大正9(1920)年5月6日、工兵第十六大隊にシベリア派遣が下令され、大連を経由、17日、浦塩(ウラジオストック)上陸、浦塩派遣軍司令官(大谷喜久蔵大将)指揮下に編入され臨時鐵道聯隊長の指揮下、尼港付近で鉄道・電信の修理・保線、ウスリー付近で鉄道・鉄橋修理等にあたります。

大正10(1921)年4月15日、師團に帰国が下令され、21日、大連に集結、27日、京都に帰還します。

大正12(1923)年9月1日、關東大震災が発災、東京では戒厳が発令され国内の工兵大隊に東京への集結が下令、3日、工十六は赤羽に到着、道路、東海道線の復旧、第三中隊は工兵第十五大隊第二中隊(豊橋)とともに相模川に仮橋架橋を実施、9月末、伏見に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)、軍令陸甲第一號により隷下の歩兵第五十三聯隊の復帰(5月1日、復帰)、及び編合更改が公布されます。
第十六師團
第十六師團司令部
歩兵第十九旅團(京都)
 歩兵第九聯隊(京都)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
歩兵第三十旅團(久居)
 歩兵第三十三聯隊(久居)
 歩兵第三十八聯隊(奈良)
騎兵第二十聯隊(京都)
野砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六大隊(京都)
工兵第十六大隊(京都)
飛行第三聯隊(八日市)

昭和4(1929)年3月22日、滿洲に駐箚し遼陽の警備にあたり、昭和6(1931)年4月9日、京都に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、京都を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に集結し關東軍司令部(菱刈隆大将)の指揮下に入ります。
9月4日、斉斉哈爾に移駐し警備にあたり、昭和11(1936)年7月、任務を終了し京都に帰還します。

昭和11(1936)年5月30日、軍令陸第四號により工兵第十六大隊は工兵第十六聯隊に、6月1日、輜重兵第十六大隊から輜重兵第十六聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入され、9月7日、京都を出発、大阪港に集結し塘沽に上陸、13日、北寧鉄道に沿って天津に集結、石家荘、常熱、無錫などの戦いに参加、11月10日、大連に上陸、12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、13日、大連を出航、18日、中支長江岸常熱市滸浦鎮に上陸し常熟、26日、無錫を攻略、丹陽、句陽道を進撃します。

12月1日、大本營は南京攻略を下令、10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、師團は南京城中山門の攻撃を開始、12日、歩三十三が南京城東側の要地・紫金山を攻略、13日0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、14日、師團は南京城に入城、17日、入城式が挙行され周辺の残敵掃討、警備にあたります。
中島今朝吾中将
▲第14代師團長・中島今朝吾中将(在任 昭和12年8月2日~昭和13年7月15日)

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月24日、上海に集結、28日、秦皇嶋に上陸、2月7日、京漢線の警備にあたり、11日、河北戡定作戰を実施します。

4月20日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、5月18日、徐州の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加するも蒋介石軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。

6月12日、敗走する支那軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流したため、黄河氾濫地帯において被災民救助にあたります。

7月15日、師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、9月8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦を実施します。

12月9日、第二軍の内地帰還に伴い師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、昭和14(1939)年5月1日、第十一軍の襄東會戦に参加、7月11日、師團に復員が下令、14日、師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、漢口に集結、8月末、京都に凱旋します。
石原莞爾中将
▲石原莞爾中将(在任 昭和14年8月30日~3月1日)
  陸軍きっての戦略家と言われます

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに、常設師團のうち第一、第八、第九、第十、第十一、第十二、第十四、第十六師團の8個師團を滿洲永久駐屯師團に定めます。
同日、軍令陸乙第二十二號第十五條により、12月6日、騎兵第二十聯隊は捜索第十六聯隊に改編されます。

昭和16(1941)年4月1日、關東軍隷下に戦略予備師團である第二十九師團(上村利道中将、名古屋)が臨時編成され、隷下の歩兵第三十八聯隊が隷属転移(4月16日、奈良出発)します。

当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。
昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。

9月16日、第十六師團に臨時編成下令、歩兵第十九旅團司令部は復帰、歩兵第三十旅團司令部は第十六歩兵團司令部に改編され、25日、師團に動員が下令、10月3日、動員完結、夏服が支給されます。
第十六師團
第十六師團司令部
第十六歩兵團司令部
 歩兵第九聯隊(京都)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
 歩兵第三十三聯隊(久居)
捜索第十六聯隊(京都)
野砲兵第二十二聯隊(京都)
輜重兵第十六聯隊(京都)
工兵第十六聯隊(京都)

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将)、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将)とともに比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

20日、敵飛行場、及びルソン島北西部の攻略を任務とする木村支隊(第十六歩兵團長・木村直樹少将。歩三十三(第一大隊欠)、野砲兵二十二、獨立工兵第六聯隊各1個中隊)は名古屋港を出航、26日、パラオに上陸、戦闘訓練を実施します。

23日、師團主力は京都を出発、24日、大阪港を出航、奄美大島付近で集結します。

12月8日、第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸、第一航空艦隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)により大東亜戦争が開戦します。

同日、第五飛行集團(小畑英良中将)、海軍第十一航空艦隊(塚原二四三中将)により敵飛行場、航空機の無力化に成功、また木村支隊はパラオを出航、0750、第二根拠地隊(広瀬末人少将、山雲、第二十一水雷艇ほか)麾下の横須賀第特別陸戦隊がバタン島バルアルト湾に進入し同島を攻略、10日、田中支隊(臺灣歩二基幹)がルソン島北端のアパリとコンサガ、菅野支隊(同第三大隊基幹)がビガンに上陸し北部の飛行場を攻略します。

12日、木村支隊はレガスピーに上陸し飛行場を攻略、米比軍陣地を突破しつつ北上、18日、ナガ、21日、ダキトを攻略、22日、第十四軍主力(第四十八師團基幹)がリンガエン湾に上陸、24日、第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、27日、カラワグで師團は木村支隊を掌握、昭和17(1942)年1月1日、村部隊(歩二十第一大隊(木村三雄中佐))はマニラ市街地に突入(一番乗り)、2日、第十四軍はマニラを攻略します。

しかし、マニラ、タルラックの米比軍は作戦通りバターン半島に撤退、大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第十四軍隷下にあった第四十八師團(土橋勇逸中将)を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。

1月9日、歩兵第六十五旅團(第九聯隊を配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地、激烈な砲撃、逆襲に阻まれ進撃は遅滞、13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令します。

師團は歩二十(第一大隊欠)を基幹とし木村支隊を編成、15日、支隊はマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け進撃は遅滞、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

25日、第十四軍は第十六師團主力にバターン半島攻略を下令、26日、歩兵第六十五旅團は敵第二線陣地に進撃しますが、敵の包囲を受けた歩二十が玉砕寸前になるなど大損害を受け、2月7日、師團は歩二十に転進を下令、8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令、15日、歩二十は歩三十三に収容されます。

4月3日、大本營からの増援(第四師團、永野支隊(第二十一師團歩六十二基幹))を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。

9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、バターン南端のマリベレスに突入、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。
5月7日、第四師團らがコレヒドール島を攻略、比島攻略戦は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、第十六師團は同島の警備にあたり、訓練、匪賊討伐を実施します。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、また当初米軍に敵対していた共産匪賊も現地華僑を通じ支那共産党の指示を受け米軍側に加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

昭和18(1943)年11月、第十四軍(黒田重徳中将)は師團(大場四平中将)にレイテ島の戡定を下令、歩二十をビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に編入、先遣隊として第一大隊がレイテ島南部マリトボックに、12月2日、聯隊主力がタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、歩三十三主力(第一大隊欠)、野砲二十二第三大隊、捜索十六、輜重十六主力(第二中隊欠)、師團衛生隊、同第一野戦病院、病馬廠を残置し、サマール島を経由し歩九を残置、13日、レイテ島に上陸(18,949名)、師團司令部をタクロバンに開設、陣地築城を開始します。
牧野四郎
▲牧野四郎中将(在任 昭和19年3月1日~昭和20年7月15日、散華)
  「小西郷」と言われる人格者で作戦上手でも知られ、圧倒的な戦力差があるなか第十六師團が長期に渡り持ち堪える事ができたのは牧野師團長だったからと言われます。

5月、大本營は第十一號作戰準備により逐次比島方面の防備強化、及び戦力を整備、6月15日、第十六歩兵團司令部が復帰、7月28日、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に改編、8月4日、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ。主力:ミンダナオ島)が臨時編成され、第十六師團は第三十師團とおもに第三十五軍戦闘序列に編入されます。

7月7日、絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、大本營はフィリピン、8月24日、大本營は来寇する米軍を比島、台湾、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とし陸海軍共同で撃滅し戦争終結の発端を企図すべく『陸海軍爾後ノ作戰指導大綱』(26日、「捷號作戰」と呼称)を策定、作戦準備を発令します。

7月19日、歩九(第二大隊(第六中隊欠)、第二中隊は残置)、9月19日、歩三十三主力がレイテ島に進出してきます。

第十六師團はレイテ島に移駐後、内陸部のダガミに複郭陣地を築城、敵上陸1日で逐次水際陣地から転進し長期持久に転じる作戦を立案しますが、敵の主目標と目されるブラウエン飛行場群を防衛するには島東側の50Kmに及ぶ海岸線に兵力を分散配置する必要があり牧野中将は陣地配置に苦慮、最終的に長大な海岸線に北から歩兵第三十三聯隊(鈴木辰之助大佐、津)、歩兵第九聯隊(神谷保孝大佐、京都)、歩兵第二十聯隊(鉾田慶次郎大佐、福知山)の順に布陣、水際防御態勢を固め、敵上陸後は逐次複郭陣地に転進する事にします。
第十六師團の配置
第十六師團司令部 ・・・ タクロバン→サンタフェ
歩兵第九聯隊本部・主力 ・・・ カトモン山
 第一・第三中隊 ・・・ カトモン山-サンホセ間
 第六中隊 ・・・ カトモン山
 第九中隊 ・・・ タナウアン
 第十中隊 ・・・ トロザ
 第十一中隊 ・・・ サンフアキン

歩兵第二十聯隊本部・主力 ・・・ ドラッグ
 第一大隊 ・・・ ダガミ
 第九・十・十一中隊 ・・・ ドラッグ
 第五中隊 ・・・ リサール
 第六中隊 ・・・ リサール-ビンカイ間
 第七中隊 ・・・ アブヨク
タラゴナ、ビンカイに各1個小隊、ブラカン、ラバスに各2個分隊、ブラウエンに1個分隊

歩兵第三十三聯隊本部・主力 ・・・ パロ
 第二大隊 ・・・ タボンタボン
 第三大隊 ・・・ サンフアキン南西
 第三・第九中隊 ・・・ パロ

野砲兵第二十二聯隊本部 ・・・ キリン
 第一大隊 ・・・ パロ北方
 第六中隊 ・・・ カトモン山-サンホセ間(歩九)
 第四中隊 ・・・ ドラッグ(歩二十)
 第五中隊 ・・・ リサール(〃)
 第一中隊 ・・・ タラゴナ(〃)

工兵第十六聯隊本部・主力 ・・・ タクロバン(師團)
 第三中隊 ・・・ ドラッグ

輜重兵第十六聯隊 ・・・ 各部隊間の輸送業務

獨立戰車第七中隊 ・・・ ブリ

当初、大本營はルソン島決戦を策定していましたが、10月12~16日の臺灣沖航空戰の結果(所謂幻の大戦果)を受け、海空の援護のない敵上陸部隊を殲滅する好機とし第十四方面軍司令官・山下大将の反対意見を退けレイテ島決戦を決定します。

10月17日、米軍(D・マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

19日1200、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇でサンホセ海岸に接近、敵の上陸と誤認した野砲兵第二十二聯隊第一大隊は零距離射撃で舟艇を撃破しますが火点を暴露してしまいます。
同日、師團戦闘指揮所をタクロバンから南西15kmのサンタフェに移動します。

20日0600、米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がタクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始、ドラッグの敵上陸正面にあった歩二十、タクロバン方面のパロにあった歩三十三は水際陣地に拠り敵上陸部隊を迎撃、それぞれ相当の戦果を挙げますが、圧倒的な兵力、火力、物量を誇る敵の攻撃に通信線が寸断され状況の把握、命令伝達ができないまま各地で大損害を受けてしまいます。

21日、師團戦闘指揮所はサンタフェからダガミに移駐、22日、パロを失陥、牧野中将は各部隊に内陸部の第二線陣地への転進を下令しますが、敵は急速に浸透、23日にはタクロバン、カトモン山西側に侵攻、23日、パロ付近で歩三十三聯隊長・鈴木大佐が自決、ホリタで歩二十聯隊長・鉾田大佐が散華してしまいます。

24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊がブラウエン地区に侵入、25日、ドラッグを失陥、第一線・第二線陣地を失陥した師團は脊梁山地東麓のサンタフェ-バストラナ-ダガミ-ブラウエン飛行場周辺の線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行し防戦にあたりますが敵の侵攻を拒止する事は能わず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、師團司令部は脊梁山地に転進し防戦にあたります(師團戦力は3,000名程(2/3は傷病兵))が、同日、歩三十三が玉砕、11月、工十六が玉砕、この頃には第十六師團の防衛線は寸断されてしまいます。

米軍は断続的に戦力を増強、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸(第一次多號作戦)、その後も多號作戦は続行され増援兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の強行輸送により海上で人員、兵器、物資が大損害を受け戦力的には低下していきます。

第三十五軍は増援兵力、物資の海上補給路を確保すべく敵占領下の飛行場制圧を企図、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團混成部隊(11月末時点総兵力2,030名、内歩兵1,400名)は歩兵第九聯隊長・神谷大佐の指揮のもとブラウエン飛行場に進撃(和號作戰)、一時飛行場の制圧に成功しますが、7日、米第77歩兵師団が西海岸のオルモック(第十六師團の背後)に上陸、8日、態勢を建て直した敵の包囲攻撃を受け歩九・神谷大佐が散華、11日、師團は敵中に孤立し作戦は中止され、敵の重囲を突破し脊梁山地に転進します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を下令、第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に集結させ、持久態勢に移行します。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島への転進(地號作戰)を下令、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、1月20日、敵の妨害により稼働舟艇が払底し作戦は停止、以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月23日、ロビ山中から第十六師團(牧野中将以下80名)が歓喜峰に到着します。

3月下旬、伝馬船によ第三十五軍司令部がセブ島へ転進、4月19日、永久抗戦指揮のため丸木舟でミンダナオ島へ移動途中米軍の銃撃により鈴木中将が散華してしまいます。

レイテ島は補給が途絶、師團は悪疫の蔓延する中で追撃の米軍、匪賊と交戦、7月15日、シラド湾東方地区において牧野中将が散華、9月3日、第十四方面軍司令官・山下大将がD.マッカーサー大将との降伏調印式に臨みます。
第十六師團は18,949名でレイテ島の守備に就きますが、停戦時の生存者は620名でした。

歴代師團長
山中信儀 中将 : 明治38(1905)年7月18日~
長岡外史 中将 : 大正2(1913)年1月15日~
松川敏胤 中将 : 大正3(1914)年8月8日~
山口勝 中将 : 大正5(1916)年8月18日~
梨本宮守正王 中将 : 大正6(1917)年8月6日~
志岐守治 中将 : 大正8(1919)年11月25日~
山田良之助 中将 : 大正12(1923)年8月6日~
南次郎 中将 : 大正15(1926)年3月2日~
松井兵三郎 中将 : 昭和2(1927)年3月5日~
山本鶴一 中将 : 昭和5(1930)年8月1日~
蒲穆 中将 : 昭和8(1933)年3月18日~
渋谷伊之彦 中将 : 昭和10(1935)年8月1日~
児玉友雄 中将 : 昭和10(1935)年12月2日~
中島今朝吾 中将 : 昭和12(1937)年8月2日~
藤江恵輔 中将 : 昭和13(1938)年7月15日~
石原莞爾 中将 : 昭和14(1939)年8月30日~
森岡皐 中将 : 昭和16(1941)年3月1日~
大場四平 中将 : 昭和17(1942)年8月1日~
牧野四郎 中将 : 昭和19(1944)年3月1日~昭和20(1945)年7月15日散華 玉砕


第百十六師團(嵐六二一七/司令部:嵐六二〇〇)
昭和13(1938)年5月15日、留守第十六師團(中岡弥高予備役中将)に第百十六師團の臨時編成下令、5月27日、編成完結(清水喜重予備役中将)します。
第百十六師團
第百十六師團司令部
歩兵第二十旅團司令部
 歩兵第百九聯隊(京都)
 歩兵第百二十聯隊(福知山)
歩兵第百三十旅團司令部
 歩兵第百三十三聯隊(久居)
 歩兵第百三十八聯隊(奈良)
野砲兵第百二十二聯隊(京都)
工兵第百十六聯隊(京都)
輜重兵第百十六聯隊(京都)
騎兵第百二十大隊(京都)

6月19日、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入され、同日、大阪港を出港、22日、上海に上陸、25日、杭州に移駐し同地の警備にあたります。
9月13日、安慶に移駐、長江沿岸の警備にあたり、18日、隷下の歩兵第百二十、百三十三、野砲兵第百二十二聯隊より歩兵4個・砲兵1個大隊を抽出し石原支隊(歩兵第百十九旅團長:石原常太郎少将)を編成、10月16日、石原支隊は武漢作戰に参加、(単斤)春付近に上陸し黄白城付近の戦闘を経て漢口攻略戦に参加します(11月5日、師團に復帰)。
12月8日、歩兵第百三十旅團(高橋為一郎少将)を基幹として大通南方地区作戰に参加、師團司令部は青陽に前進し作戦指導にあたります。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。
12月16日、支那軍10個師が揚子江を遮断すべく冬季攻勢により大通に侵攻、師團は第百一、第百六師團とともに激戦ののち支那軍を撃破(長江岸冬期作戦)します。

昭和15(1940)年4月4日、第十五師團の南陵繁昌地区進攻に策応し九華山を突破、青陽方面の支那軍を殲滅(春季皖南作戦)、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戦に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、24日、第十三軍の南京南方作戦に策応し皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵飛行場撃滅を下令(浙贛作戦)、師團は歩兵第百十九旅團を守備に残置、第十三軍の最右翼として建徳、蘭谿を進撃、衡州城を攻略し同飛行場を破壊、次いで玉名に進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備にあたり、12月21日、第十一軍に策応し大別山作戦に参加、歩兵第百十九旅團が桐城潜山の支那軍を撃破します。

昭和18(1943)年5月1日、歩兵第百三十八聯隊は第三十一師團に隷属転移、歩兵第二十、同百三十旅團司令部は復帰し3単位師團に改編されます。

10月1日、常徳殲滅作戦に参加、5日、第十一軍の指揮下に編入され漢口付近に集結、沙市南方より常徳に進撃、11月下旬、常徳城を攻略し周辺の支那軍を撃破、昭和19(1944)年1月10日、武昌に集結し、同地の警備にあたります。

昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)の戦闘序列に編入されます。
4月22日、一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戦(湘桂作戦)に参加、敵飛行場の制圧を企図し岳州に集結、新檣河を渡河し泊水湖畔株州付近で支那軍を撃破、続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を攻略、宝慶西方に進撃し敵の退路を遮断、軍の宝慶攻略を容易にし、10月3日、湖南省宝慶に駐留します。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戦(芷シ-草冠に止-江作戦)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、藷迯]河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。

8月16日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結します。
4日、支那軍により武装解除され、昭和21(1946)年4月29日、孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出航(一部は20日)、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。

歴代師團長
清水喜重 予備役中将 : 昭和13(1938)年5月15日~
篠原誠一郎 中将 : 昭和14(1939)年5月19日~
武内俊二郎 中将 : 昭和16(1941)年10月15日~
岩永汪 中将 : 昭和18(1943)年6月10日~
菱田元四郎 中将 : 昭和20(1945)年3月9日~


第五十三師團(安一〇〇一六/司令部:一〇〇一七)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに、常設師團のうち第一、第八、第九、第十、第十一、第十二、第十四、第十六師團の8個師團を滿洲永久駐屯師團に定め、内地に常設師團として各留守師團を基幹とした新設師團の設置を決定します。

7月10日、第五十一、第五十二、第五十四、第五十五、第五十六、第五十七師團の6個師團が編成され、昭和16(1941)年10月1日、第十六師團に第五十三師團の編成が下令、5日、編制完結(馬場正郎中将)し中部軍司令部(藤井洋治中将、大阪)隷下編入されます。
第五十三師團
第五十三歩兵團司令部(京都)
 歩兵第百十九聯隊(敦賀)
 歩兵第百二十八聯隊(京都)
 歩兵第百五十一聯隊(津)
捜索第五十三聯隊(京都)
野砲兵第五十三聯隊(京都)
工兵第五十三聯隊(京都)
輜重兵第五十三聯隊(京都)
京都陸軍病院
津陸軍病院
敦賀陸軍病院

昭和18(1943)年11月19日、臨時動員下令、12月5日、動員完結、12月25日、南方軍の直轄となり、12月19日、師團司令部は第一梯団として歩百二十八の一部とともに宇品を出航、昭和19(1944)年1月5日、サイゴンに上陸、第二十九軍(石黒貞蔵中将)指揮下に編入され同地で訓練にあたります。
第一梯団(12月19日、宇品出航-昭和19年1月5日、サイゴン上陸)
師團司令部の一部
歩百二十八の一部

第二梯団(12月29日、門司出航-昭和19年2月2日、サイゴン上陸)
歩百二十八主力
野砲兵五十三第一大隊
工兵五十三第一中隊
輜重兵五十三
師團衛生隊1/3
同防疫給水部1/4
病馬廠

第三梯団(昭和19年1月6日、大阪出航-1月29日、昭南上陸)
師團司令部
師團通信隊
歩百十九本部・第一大隊
工兵五十三主力
同防疫給水部1/4
師團兵器勤務隊

第四梯団(昭和19年3月6日、宇品出航-4月16日、昭南上陸)
歩百十九第二大隊
歩百五十一
野砲兵五十三本部・第二大隊
捜索五十三
師團衛生隊主力
同第一・第二・第四野戦病院
同防疫給水部主力

第五梯団(昭和19年8月18日、出航-比島沖にて輸送船被雷沈没のため比島へ上陸)
野砲兵五十三第三大隊

※昭和19(1944)年6月15日、第五十三歩兵團司令部はビルマ出征の際に復帰

3月27日、師團主力は隷下部隊の集結を待たずしてラングーンに移駐、30日、緬甸方面軍(河邉正三中将)指揮下に編入、次いで、4月29日、4月7日に緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)指揮下に編入されます。

連合軍は「レド公路」(蒋援ルート:レド-ミイトキーナ-昆明)の打通を企図し、英ウィンゲート空挺部隊が北部ビルマ一帯に降下、師團はモール付近の敵空挺部隊の殲滅を下令され、5月2日、インドウに集結、10日、モールにおいて英軍を撃退、19日、ポピンに移駐、アナクインを攻略します。
25日、米支軍侵攻中のミイトキーナ増援のためメムクインからイラワジ川沿いに北上、29日、同地南方5kmの七一五橋梁付近に達し米支軍攻撃を準備しますが、支那新編第一軍が師團後方のフーコン、モガウンで米支軍拒止にあたる第十八師團の側背・カマイン方面に侵攻、補給路遮断にかかったため、6月10日、軍はミイトキーナ攻撃を中止、師團に転進を下令、モウガンに進出し第十八師團の側背を援護、同師團のラシオ沿線方面への転進援護にあたります。
20日、米支軍は師團への攻勢を激化、損害が増加するに及びサーモ、タウニー地区に転進、蒋援ルート遮断にあたります。
7月26日、師團は敵の追撃を受けつつ同地を出発、8月5日、ピンポウ、ホーピンに到着、9月10日、モーハンに転進しますが、敵の包囲攻撃を受けるに至り、10月25日、ピンウエに転進し米支軍の拒止にあたります。

この間の昭和19年5月16日、隷下の歩兵第百五十一聯隊が第三十三師團(田中信男少将、宇都宮)指揮下に編入され、ウ號作戦(インパール作戦)に参加、大損害を受け、8月24日、師團へ復帰します。

10月5日、師團は第十五軍指揮下に編入、11月28日、ウ號作戦の中止に伴う英軍の侵攻を拒止すべく、マンダレーへの転進を下令され、12月10日、イラワジ川、メザ河を渡河、昭和20(1945)年1月上旬、キャウセ-マンダレー間に集結、10日、第十五師團正面のシングー付近に敵が渡河侵攻を指向して来たため、マダヤ付近に前進、第十五師團のタベイキン方面進出に伴いシングー付近の守備を継承、14日、敵が渡河を開始、師團は敵の侵攻拒止にあたりますが戦線は各地で突破されてしまい、2月1日、軍命により再び第十五師團に守備を移譲、キャウセ、ハミンボンに移駐、軍の機動予備兵団に指定されます。

2月13日、敵主力と対峙する第三十一師團の増援のためミヨサに集結しますが、突如敵は我が最左翼・パコックの第三十三師團正面に渡河を強行、ピンピンからメイクテーラに侵攻して来たため、2月24日、師團はミンヂャンに前進、タウンタ北方高地を占領し敵の侵攻を拒止します。
3月1日、敵は増援部隊、及び戦車を投入して来たため師團の損害は増加、戦線の維持が困難になるに至り、3月28日、第三十三軍指揮下に編入され転進命令を受領、同夜半、タウンタを離脱し、4月6日、マラインを経てヤナウン、21日、ピンマナ、24日、シッタン川を渡河、26日、トングーに集結、29日、第十八師團を先頭に第三十三軍司令部、第五十三師團、第四十九師團の順でシッタン川に沿って南下、シッタン防衛計画に基づきカイウエ付近に布陣、河畔の要点を占領、7月上旬、ミッチョーを占領強化し爾後の攻勢準備にあたるなか停戦を迎えました。

歴代師團長
馬場正郎 中将 : 昭和16(1941)年10月1日~
河野悦次郎 中将 : 昭和18(1943)年9月25日~
武田馨 中将 : 昭和19(1944)年4月27日~
林義秀 中将 : 昭和20(1945)年2月20日~停戦


第百五十三師團(護京二二六五一/司令部:二二六五二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第五十三師團司令部に臨時動員下令、4月8日、動員完結(稲村豐二郎中将)し、8日、大陸命第千二百九十七號により第十三方面軍(岡田資中将、名古屋)戦闘序列に編入(沿岸配備師團)されます。

第百五十三師團
第百五十三師團司令部(京都)
歩兵第四百四十一聯隊(敦賀)
歩兵第四百四十二聯隊(京都)
歩兵第四百四十三聯隊(敦賀)
歩兵第四百四十四聯隊(京都)
第百五十三師團砲兵隊
   〃   速射砲隊
   〃   輜重隊
   〃   通信隊
   〃   兵器勤務隊
   〃   野戦病院

動員完結後、師團は司令部を三重県宇治山田に開設、作戦地である伊勢湾の沿岸防御陣地の築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第二百十六師團(比叡一〇二五一/司令部:一〇二五二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、京都師管區司令部に臨時動員下令、30日、動員完結(中野良次中将)し、第十六方面軍(横山勇中将、福岡)戦闘序列に編入(機動打撃師團)されます。

第二百十六師團
第二百十六師團司令部(京都)
歩兵第五百二十二聯隊(京都)
歩兵第五百二十三聯隊(敦賀)
歩兵第五百二十四聯隊(姫路)
野砲兵第二百十六聯隊(京都)
迫撃第二百十六聯隊(京都)
第二百十六師團速射砲隊
   〃   機關砲隊
   〃   工兵隊
   〃   輜重隊
   〃   通信隊
   〃   兵器勤務隊(7月20日、動員)
   〃   第四野戰病院(6月4日、動員)

動員完結後、師團は司令部を熊本県宇土町に開設、作戦地である熊本平野において敵上陸部隊を粉砕すべく陣地築城、訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

余談ですが僕の祖父は停戦時この師團の迫撃第二百十六聯隊に属していました。


第三百十六師團(山城二八二二五/司令部:二八二二六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、京都師管區司令部に臨時動員下令、7月10日、動員完結(柏徳中将)し、第五十三軍(赤芝八重蔵中将、名古屋)戦闘序列に編入(沿岸配備師團)されます。
第三百十六師團
第三百十六師團司令部(京都)
歩兵第三百四十九聯隊(京都)
歩兵第三百五十聯隊(敦賀)
歩兵第三百五十一聯隊(敦賀)
第三百十六師團噴進砲隊
   〃   工兵隊
   〃   通信隊
   〃   野戰病院

動員完結後、師團は司令部を神奈川県伊勢原に開設、作戦地である相模湾において敵上陸部隊を粉砕すべく陣地築城、訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『あの戦争(下) 太平洋戦争全記録』 (平成13年10月 産経新聞社)

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Webサイト
大東亜戰争研究室 

・「歩兵第百二十連隊 中支作戦に生還して」(柏谷富二雄 平和祈念展示資料館)

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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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