当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第二十聯隊 (のち捜索第十六聯隊)

京都府伏見区深草に騎兵第二十聯隊がありました。

兵営ではのちに騎兵第百二十大隊が編成され、騎兵第二十聯隊は捜索第十六聯隊に改編、捜索第五十三聯隊を編成します。
ア騎兵第二十聯隊跡(京都深草)
▲住宅地に建立された石碑と馬繋柱

【探索日時】
平成23年3月2日

【改訂情報】
平成30年4月30日、体裁改正





第十六師團関連諸施設の配置
第十六師團司令部 第十六師團 現在位置のみ(京都深草)
▲現在の地図に施設を転写
① 第十六師團司令部
② 第十六師團兵器部
③ 第十六師團経理部 被服庫
④ 露天馬場
⑤ 第十六師團経理部 糧秣倉庫
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊
⑨ 騎兵第二十聯隊
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
⑪ 輜重兵第十六聯隊
⑫ 京都陸軍病院
⑬ 京都陸軍拘禁所
⑭ 京都偕行社
⑮ 師團長附当番兵宿舎
⑯ 第十六師團長官舎
⑰ 京都陸軍練兵場
⑱ 大亀谷陸軍練兵場
⑲ 配水場
⑳ 伏見陸軍射撃場
㉑ 京都陸軍射撃場
㉒ 京都憲兵隊
㉓ 京都陸軍墓地
A 師團街道
B 第一軍道
C 第二軍道
D 第三軍道
※名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑨ 騎兵第二十聯隊
明治29(1896)年7月、京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)に新設の歩兵第三十八聯隊設置を決定、一部の地権者は反対しますが、隣接の伏見町は軍の消費による収入増加を期待するなど大勢は兵営設置を歓迎、第四師團監督部は兵営・旅團司令部、練兵場甲(兵営北側、後の騎兵第二十聯隊)、練兵場乙(大亀谷)、射撃場(伏見城北堀)、埋葬地用地を買収、臨時陸軍建築部大阪支部により営舎の建設が開始されます。

明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、4月26日、深草村付近への師團設置が決定します。
第四師團経理部は随時用地を買収、既存の練兵場甲は騎兵営用地として臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月30日、第十六師團司令部、11月16日、騎兵第二十聯隊が大阪から移駐して来ます。
騎兵第二十聯隊営門(京都深草)
▲騎兵第二十聯隊営門

騎兵第二十聯隊跡(市営団地)(京都深草)
▲現在の兵営跡

大正8(1919)年3月3日から大正10(1921)年4月27日、昭和4(1929)年3月22日から昭和6(1931)年4月9日、聯隊の滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変出征に際し騎兵第二十聯隊留守隊が編成され、昭和13(1938)年5月15日、騎兵第百二十大隊を編成(中支へ)します。

昭和16(1941)年4月1日、騎兵第二十聯隊は捜索第十六聯隊に改編されます。

10月5日、聯隊のフィリピン出征に伴い捜索第五十三聯隊、昭和18(1943)年12月19日、同師團のビルマ出征に伴い補充隊は編成されず(補充は歩兵第百二十八聯隊補充隊が担当)、兵営は第五十三師團通信補充隊(中部四十二)の兵舎に転用、昭和20(1945)年4月1日、通信補充隊は京都師管區通信補充隊(中部百四十二)に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、30日、通信隊兵営(旧騎兵営)も接収されます。

昭和23(1948)年11月、兵営西側に藤森中学内にあった新制深草中学校が移転し開校、昭和24(1949)年、北側の一角は師團司令部、偕行社とともにメール・マリー・クロチルド・リュチニエ女史に払い下げられ、昭和27(1952)年、聖母学院高等学校が開校します。
詳細は不明ですが昭和30年代、南東側は市営住宅、南西側は住宅地として払い下げられ現在に至ります。

残念ながら遺構は殆ど遺されていません。

第十六師團 現在9(京都深草)
▲遺構の配置

ア 騎兵第二十聯隊跡碑、馬繋柱
昭和50(1975)年4月17日、騎兵二十連合会により建立されました。
ア騎兵第二十聯隊跡(京都深草)

石碑の横に聯隊の唯一の遺構と言える馬繋柱が移設されています。
ア騎兵第二十聯隊跡 横の馬繋柵(京都深草)


西側の道路沿いには有名な軍人湯があります。
軍人湯 看板
▲入口にある看板

軍人湯
▲路地の奥にありますが、外観は普通の町の銭湯です


衛戍・編成部隊
騎兵第二十聯隊(垣六五五七/中部第三十九部隊)
捜索第十六聯隊(垣六五五七)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

明治38(1905)年7月18日、騎兵第十聯隊補充中隊において騎兵第二十聯隊が編成(安田徐次郎中佐)、臨時動員された第十六師團(山中信儀中将)隷下に編入されます。
騎兵第二十聯隊軍旗(京都深草)
▲騎兵第二十聯隊 軍旗

8月10日、師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され大阪を出発、15日、逐次宇品港を出航、大連に上陸、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。

10月18日、師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入、滿洲の警備にあたり、明治40(1906)年3月、逐次大阪府下の天王寺の旧俘虜収容所の仮兵営に帰還します。

明治40(1906)年11月16日、騎兵第二十聯隊は深草村の新兵営に転営します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團(梨本宮守正王中将)に滿洲駐箚が下令、4月20日、師團とともに大阪港を出航、26日、遼陽の警備にあたります。

大正10(1921)年4月15日、師團に帰国が下令され、21日、大連に集結、27日、京都に帰還します。

昭和4(1929)年3月22日、師團とともに滿洲に駐箚し遼陽の警備にあたり、昭和6(1931)年4月9日、京都に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、京都を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に集結し關東軍司令部(菱刈隆大将)の指揮下に入ります。
9月4日、斉斉哈爾に移駐し警備にあたり、昭和11(1936)年7月、任務を終了し京都に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入され、9月7日、師團とともに京都を出発、大阪港に集結し塘沽に上陸、13日、北寧鉄道に沿って天津に集結、石家荘、常熱、無錫などの戦いに参加、11月10日、大連に上陸、12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、13日、大連を出航、18日、中支長江岸常熱市滸浦鎮に上陸し常熟、26日、無錫を攻略、丹陽、句陽道を進撃します。

12月1日、大本營は南京攻略を下令、10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、師團は南京城中山門の攻撃を開始、12日、歩三十三が南京城東側の要地・紫金山を攻略、13日0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、14日、師團は南京城に入城、17日、入城式が挙行され周辺の残敵掃討、警備にあたります。

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月24日、上海に集結、28日、秦皇嶋に上陸、2月7日、京漢線の警備にあたり、11日、河北戡定作戰を実施します。

4月20日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、5月18日、徐州の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加、西方に撤退する蒋介石軍の退路に周り機動力を生かし残敵の掃蕩を実施しました。

7月15日、師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、長江北岸の師團前衛において敵主力を追撃、京漢線西方の応城から徳安南方に進撃し、敵を捕捉撃破し退却する敵の退路に進出しますが、兵力僅少のため殲滅することはできませんでした。

12月9日、第二軍の内地帰還に伴い師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、昭和14(1939)年5月1日、第十一軍の襄東會戦に参加、聯隊は騎兵第四旅團(小島吉蔵少将)指揮下に編入され敵の後方に機動、包囲戦を実施し敵を殲滅します。
7月11日、師團に復員が下令、14日、軍司令官より感状を授与され、漢口に集結、8月末、京都に凱旋します。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)、軍令陸乙第二十二號第十五條により、12月6日、騎兵第二十聯隊は捜索第十六聯隊に改編、聯隊本部・乗馬1個中隊・装甲車1個中隊の編制(松田哲人中佐)となり、軍旗を奉還します。

昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。
当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。

9月16日、第十六師團に臨時編成下令、聯隊は乗馬中隊が廃止され装甲車2個中隊(2個小隊、九七式軽装甲車8(本部2・各小隊3))、自動車2個中隊、通信1個小隊、単車1個小隊に改編され、25日、師團に動員が下令、10月3日、動員完結(松田哲人中佐)、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将)、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将)とともに比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

23日、師團主力は京都を出発、24日、大阪港を出航、奄美大島付近で集結します。

12月8日、第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸、第一航空艦隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)により大東亜戦争が開戦します。

同日、第五飛行集團(小畑英良中将)、海軍第十一航空艦隊(塚原二四三中将)により敵飛行場、航空機の無力化に成功、24日0240、第十六師團はラモン湾アチモナン付近に上陸、聯隊は師團先遣隊として米比軍の反撃を排除しつつタヤバス山系を突破しマニラに進撃、昭和17(1942)年1月1日、村部隊(歩二十第一大隊(木村三雄中佐))はマニラ市街地に突入(一番乗り)、2日、第十四軍はマニラを攻略します。

8日、聯隊は第十四軍直轄となり師團を離れマニラの警備にあたり、9日からのバターン攻略戦において助動部隊としてマニラ湾口南岸キャビテにおいて敵を牽制し離脱を防ぎます。

4月9日夜米比軍指揮官キング少将が降伏しバターン半島を攻略、5月7日、第四師團らがコレヒドール島を攻略、比島攻略戦は終了します。
8日、聯隊は師團に復帰、比島全島の戡定作戦、及び第二期粛正討伐を実施、匪賊討伐にあたります。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、また当初米軍に敵対していた共産匪賊も現地華僑を通じ支那共産党の指示を受け米軍側に加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

昭和19(1944)年2月上旬、ミンドロ島に移駐、同島北部バダンガス州内の討伐中、バルアン、バダンガス北部において匪賊無線局6基を探索、無線機多数を鹵獲し敵無線を遮断、師團長・大場四平中将より賞詞を授与されます。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、輸送力の関係から歩三十三主力(第一大隊欠)、野砲二十二第三大隊、捜索十六、師團衛生隊、同第一野戦病院、病馬廠を残置し、サマール島を経由し歩九を残置、13日、レイテ島に上陸(18,949名)、師團司令部をタクロバンに開設、陣地築城を開始します。

7月1日、聯隊(日比知大佐)は第十四軍直轄となりマッキンレイに移駐、第三期粛正討伐としてマニラ市周辺の匪賊を討伐、パシツクにおいて匪賊集団を殲滅し方面軍司令官・黒田重徳中将より賞詞を授与されます。

7日、絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、大本營はフィリピン、8月24日、大本營は来寇する米軍を比島、台湾、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とし陸海軍共同で撃滅し戦争終結の発端を企図すべく『陸海軍爾後ノ作戰指導大綱』(26日、「捷號作戰」と呼称)を策定、作戦準備を発令します。

10月17日、米軍(D・マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がルソン島リンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始、聯隊は方面軍司令部援護のためバギオにおいて陣地築城にあたります。

3月10日、敵は我が戦線の間隙を突いてアグノ河谷に侵攻してきたため、聯隊は戰車第二旅團の峰松大隊、石川隊を編入し日比支隊を編成、リンガエン湾東側地区の第二十三師團(西山福太郎中将)指揮下に編入され、21日、サンタローザ西北方鞍部南方高地の敵を夜襲し、高地の一部を奪還しますが、迫撃砲による集中射撃を受け大損害を受けたため陣地を堅守し敵と対峙、22日、峰松大隊にサンタローザ東方高地の攻撃を下令しますが、またも迫撃砲射撃を受け攻撃は頓挫、25日、支隊は攻勢転移の戦機を伺いつつ敵の侵攻を拒止、26日、丸尾大隊を指揮下に編入します。

4月16日、支隊はバギオへの転進を下令され、20日、バギオ西方のイリサンに転進、方面軍司令部、第二十三師團の転進を援護します。
29日、イリサンにおいて敵の侵攻拒止にあたっている獨立混成第五十八旅團(佐藤文蔵大佐)の指揮下に編入され支隊はバギオ-ボンドック道30Km付近に進出、獨立重砲第四大隊、臨時歩兵第六大隊を指揮下に編入し、右地区隊としてアトツクに布陣、陣地を死守し敵の侵攻を阻止、6月24日、第一中隊(奥田博司中尉)は道24Km付近において戦車3両を伴う敵に夜間切り込みを敢行し殲滅、一時敵を撃退します。
7月14日、戦車を伴う敵の侵攻により旅團前進陣地(獨歩三百七十九大隊)が突破されたため、聯隊は敵の侵攻を拒止しつつ転進を開始、8月上旬、シンガカルサンに転進、陣地占領にあたるなか、9月3日、停戦を迎えました。
ルソン島決戦を790名で迎えた聯隊の生存者は聯隊長・日比大佐以下89名でした。


騎兵第百二十大隊
昭和13(1938)年5月15日、騎兵第二十聯隊留守隊に騎兵第百二十大隊の臨時編成下令、24日、編成完結、第百十六師團(清水喜重予備役中将)隷下に編入されます。
編制は本部・乗馬2個中隊・機関銃1個小隊でした。
6月19日、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入され、同日、大阪港を出港、22日、上海に上陸、25日、杭州に移駐し同地の警備にあたります。
9月13日、安慶に移駐、長江沿岸の警備にあたります。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾壽造大将)に編入されます。
12月16日、支那軍10個師が揚子江を遮断すべく冬季攻勢により大通に侵攻、師團は第百一、第百六師團とともに激戦ののち支那軍を撃破(長江岸冬期作戦)します。

昭和15(1940)年4月4日、第十五師團の南陵繁昌地区進攻に策応し九華山を突破、青陽方面の支那軍を殲滅(春季皖南作戦)、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戦に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、24日、第十三軍の南京南方作戦に策応し皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵飛行場撃滅を下令(浙贛作戦)、師團は歩兵第百十九旅團を守備に残置、第十三軍の最右翼として建徳、蘭谿を進撃、衡州城を攻略し同飛行場を破壊、次いで玉名に進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備にあたり、12月21日、第十一軍に策応し大別山作戦に参加、歩兵第百十九旅團が桐城潜山の支那軍を撃破します。

25日、歩兵第百三十旅團司令部は第十六歩兵團司令部に改編されます。

昭和18(1943)年5月1日、軍備改編のため騎兵第百二十大隊は復帰します。


捜索第五十三聯隊(中部第三十九部隊)
昭和16(1941)年10月1日、捜索第十六聯隊に捜索第五十三聯隊の編成が下令、4日、編制完結(梁瀬泰中佐)し第五十三師團(馬場正郎中将)隷下に編入されます。

昭和18(1943)年11月19日、臨時動員下令、12月10日、動員完結(奥仲壽蔵中佐)します。
編制は聯隊本部・乗車1個中隊・装甲車1個中隊でした。

昭和19(1944)年3月23日、京都を出発、27日、師團第四梯団として宇品を出航、4月16日、昭南に上陸、5月6日、昭南を出航、12日、サイゴンに上陸、6月22日、芒市に到着、23日、歩兵第百十九聯隊第一大隊(野中正雄少佐)を指揮下に編入し龍陵北方高地より滇緬公路を猛昌街に進撃し第二次怒江反撃作戦に参加、7月12日、芒市に帰還します。

15日、歩兵第百十四聯隊(丸山房安大佐)の転進援護のため芒市を出発、ナンカンを経由し、20日、バーモに到着、27日、ミヨヂットを出発、8月2日、ナムサンヤ、カンタオパン付近において遭遇した英軍前衛を撃破、9月3日、ナロンに転進して来た歩百十四を収容、9月10日、バーモを出発、16日、クッカイに到着、同地の警備にあたります。
12月12日、クッカイを出発、13日、ラシオに到着し警備にあたり、24日、モンヨウ付近の米支軍遊撃隊を討伐、昭和20(1945)年1月8日、ラシオを出発、13日、マンダレーにおいて師團に復帰します。

10日、第十五師團正面のシングー付近に敵が渡河侵攻を指向して来たため、師團はマダヤ付近に前進、14日、敵が渡河を開始、聯隊はエシン北方高地を占領し英軍の拒止にあたりますが戦線は各地で突破されてしまい、2月1日、軍命により再び第十五師團に守備を移譲、2月4日、ミンユンラインに移駐、師團は軍の機動予備兵団に指定されます。

12日、敵主力と対峙する第三十一師團の増援のため聯隊はレパンジャンに集結しますが、突如敵は我が最左翼・パコックの第三十三師團正面に渡河を強行、ピンピンからメイクテーラに侵攻して来たため、22日、師團とともにはミンヂャンに前進、24日、タウンタ北方、本道上一三六三高地を占領、3月1日、聯隊は師團の後方連絡線を確保すべくミンチャンを経てマラインを確保します。

28日、師團の損害は増加、戦線の維持が困難になるに至り、第三十三軍指揮下に編入され転進命令を受領、同夜半、タウンタを離脱、31日、聯隊はマラインを徹しサベゴンを経て、4月7日、ヤナウン北方8kmのヤナウンに転進、南侵してきた戦車を伴う英軍と交戦、18日、マジジンを占領し、24日、イエ付近においてシッタン川を渡河、26日、トングー東方において師團と連絡、シッタン川左岸を南下、5月19日、クンセイを占領強化し爾後の攻勢準備にあたるなか停戦を迎えました。


主要参考文献
『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『日本騎兵史 上巻・下巻』 (昭和54年 佐久間亮三・平井卯輔編 原書房)

『京都の歴史 8・9』 (昭和50、51年 京都市史編さん所)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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