当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第九聯隊(垣六五五四、中部第三十七部隊)他/第十九旅團司令部/京都第一陸軍病院

京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)一帯に衛戍した第十六師團隷下部隊の遺構探索、続いて歩兵第九聯隊他兵営跡、第十九旅團司令部(のち第十九歩兵團司令部→京都地區司令部)、京都第一陸軍病院を紹介します。

正面
~第十九旅團司令部 正面玄関






第十六師團隷下部隊の配置
第十六師團 210724
~昭和21年7月の師團隷下部隊、及び軍施設配置

第十六師團
~現在の地図に上記施設を写したもの

※緑文字が当記事の施設
①第十六師團司令部
②京都偕行社
③師團長付き当番兵宿舎
④師團長官舎
⑤騎兵第二十聯隊
⑥京都陸軍刑務所
京都第一陸軍病院
歩兵第九聯隊
京都聯隊區司令部
第十九旅團司令部→第十六歩兵團司令部→京都地區司令部
⑪陸軍兵器廠京都支廠→京都陸軍兵器支廠
⑫京都練兵場
⑬馬場
⑭第十六師團糧秣部
⑮野砲兵第二十二聯隊
⑯輜重兵第十六聯隊
⑰京都地區憲兵隊伏見分隊
⑱北(伏見)射撃場
⑲南(大亀谷)射撃場
⑳大亀谷演習場
21配水場
22陸軍墓地
23旧射撃場
A師團街道
B第一軍道
C第二軍道
D第三軍道

歩兵第九聯隊他兵営跡、第十九旅團司令部、京都第一陸軍病院の場所
聯隊兵営は現在、京都教育大学、⑩旅團司令部同大まなびの森ミュージアム(今夏開館予定)、⑦京都第一陸軍病院京都医療センター、同公務員宿舎、同看護助産学校になっています。
また、旅團司令部の西隣には⑨京都聯隊區司令部がありましたが、現在は京都教育大学の講堂が建っており痕跡はありません。

遺構について>(カタカナは上掲地図のモノ、場所詳細は後述
藤森神社
チ 京都歩兵聯隊跡、灯籠?

京都教育大学
テ 旅團司令部庁舎

国立京都病院
ソ 京都陸軍病院跡碑 
タ 行啓記念

遺構探索
まずは⑧聯隊兵営跡(京都教育大学)を探索します。
京都教育大が移転してきた当時は数棟の建物が残っており、教室として使用していたようですが、その後随時建て替えられてしまいました。

余談ですが、聯隊兵営跡は終戦後、米軍により接収、返還後に航空自衛隊幹部候補生学校と教育大の双方の移転先の候補になったようですが、結局教育大が当地に、空自は奈良の西部國民勤労訓練所跡に移転しました。
当地に空自が来ていたらもしかしたら未だ建物が残っていたかもしれません。

建物等は全て撤去されているようなので恒例の「兵営の境界探査」を行いますが、兵営の北西側は民家が密接しており近づけません。

回れる範囲でに沿って歩いてみましたが、当時の遺構は痕跡すら残っていませんでした。
数年前までは大学の敷地南東端に「陸軍用地」の標柱が残っていたようですが、南側外周(大学正門付近)生け垣改修の際に撤去されてしまったようです。
歩九聯隊本部 昭和15年頃
~歩兵第九聯隊聯隊本部(昭和15年頃)

歩9兵営
~歩兵第三十八聯隊兵舎(明治41年頃)

歩九営門
~歩兵第九聯隊営門

営門付近
~現在の営門跡(京都教育大西門)
 上掲の写真同様、門を入ってすぐ土地が高くなっています。

兵営の営門近くの藤森神社境内に「京都歩兵聯隊跡」碑が建てられており、その傍らに灯籠が建っています。
この灯籠、特に銘などはありませんが結構古い物なのでもしかしたら将校集会所等にあった物かも知れません。
チ京都歩兵聯隊跡
~藤森神社境内に建つ「京都歩兵聯隊跡」碑チ

チ京都歩兵聯隊跡 灯籠
~「京都歩兵聯隊跡」碑の横にある灯籠


京都教育大学内には⑩第十九旅團司令部の庁舎が残っています。
見学については外観のみ(内部は準備中の為不可)になりますが、特に事前連絡は不要で直接守衛室で入校理由等を記入すれば見学可能です。

この庁舎は最近まで外部講師や来校者の宿舎として使用されていました。
内部は洋個室4、和個室1(本来の玄関部)、会議室1部屋、入口は本来(南側)の逆側(北側)に改造されていましたが、用途廃止によりできるだけ当時の姿に復元されています。

内部は「まなびの森ミュージアム」として同大学の師範學校時代(明治9年設立)からの史料、実験機材、標本等を展示、今年夏に開館、一般開放、北側の棟に設置された視聴覚、実験室と連動した多角的な展示施設になる予定だそうです。
内部見学を希望する場合は今年の夏以降、同校のサイトで開館を確認して問い合わせてみて下さい。
京都教育大学 イベント情報

南西から
~外観(正面側)
 
北東から
~外観(裏面側)
 当時は裏側の出入り口は無かったと思われます。
 現在は淡い黄色とくすんだ赤に塗装されていますが、恐らくこちらも当時の色彩とは異なると思います。

玄関
~玄関
 職員宿舎に改造時はこの玄関が和室だったようです。

灯籠
 ~庁舎前の灯籠
 当時の物のようです。

本来は庁舎の正面入り口に面した場所に門がありましたが、現在は閉鎖されています。
 植樹や道縁の煉瓦には「×」印の刻印(岸和田煉瓦)が見られます。

米軍時代のシャワー室
~この庁舎の裏にある建物は米軍接収時のシャワー室だそうです。

この旅團司令部について、僕は「聯隊區司令部」と思い込んでいました。
こちらのブログ管理者の方からの指摘で「旅團司令部」と気づきました。

よく写真を見れば、今まで見てきた第三十旅團司令部(久居)や第六旅團司令部(金沢)と同型で、しかも事前に明治期の地図で旅團司令部の印(○内に★)を見ていたので間違える事は無かったのですが・・・
思い込みとは怖いモノで、以後気をつけたいと思います。
⑫第三十旅團司令部 西南
~第三十旅團司令部(久居)

第六旅團司令部庁舎
~第六旅團司令部(金沢)


続いて⑦京都第一陸軍病院に向かいます。
数年前までは敷地北側に「陸軍用地」の標柱が残っていたようですが、生け垣改修の際に撤去されてしまったようです。

敷地の南側の通路沿いに「京都陸軍病院跡」碑ソと 皇后陛下(香淳皇后陛下)の「行啓記念」碑タが並んで建てられています。
ソ京都陸軍病院跡
~京病会(京都陸軍病院関係者)により昭和59年8月に建立

タ行啓記念
~院長・三浦大三郎軍医大佐により昭和16年5月18日に建立

「行啓記念」碑には無数の引っ掻き傷がついていますが、停戦時占領軍に辱められるのを恐れた傷病兵が縄をかけて倒し土中に埋めた際に着いたものです。
戦後、土中より発見され建てなおされました。

この両碑の南側の用水路沿いには当時の物と思われる塀の基礎が残っています。
歩九との境にある塀跡

また敷地北側の河沿いにも当時の物と思われる石柵の残骸が多数転がっています。


衛戍部隊
歩兵第九聯隊(垣六五五四、中部第三十七部隊)
明治7(1874)年6月1日、大阪鎮薹第五大隊を基幹に第一、第二大隊が編成、12月18日、軍旗拝受、明治8(1875)年3月19日、大津の兵営に移駐、明治9(1876)年4月、第三大隊編成、聯隊の編成完結(竹下彌三郎中佐)、大阪鎮薹に隷属(三好重臣少将)します。
歩九軍旗
~歩兵第九聯隊 軍旗

明治10(1877)年2月~9月、西南の役に参加、田原坂などで薩軍と交戦します。
明治28(1895)年3月~12月、大阪鎮薹から改編された第四師團(山沢静吾中将、大阪)に属し明治二十七八年戰役(日清戦争)に参加、金州、大孤山、柳樹屯の警備に従事します。
明治29(1896)年1月~7月、臺灣土匪討伐に参加します。
明治37(1904)年4月~38年12月、明治三十七八年戰役(日露戦争)に出動、金州、南山、蓋平、大石橋を占領、遼陽、沙河、奉天會戰に参加、我が国の勝利に貢献します。
12月21日、大津に凱旋します。

大正8(1919)年4月~9年9月、シベリアに出兵に参加。
大正9(1920)年9月~10年4月、滿洲の警備に従事します。

大正14(1925)年5月6日、所謂宇垣軍縮による軍制改革により京都深草の歩兵第三十八聯隊が奈良に移駐、その兵営に移駐(第三大隊は引き続き大津に屯営)し歩兵第十九旅團に属し第十六師團(山田良之助中将)に編入されます。

昭和4(1929)年4月、滿洲に駐箚し警備に就き、昭和6(1931)年5月、京都に帰還、昭和9(1934)年8月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲派遣が下令され、9月4日、斉斉哈爾の警備に就き、昭和11(1936)年7月、京都に帰還します。
北安鎮兵営の営門
~北安鎮兵営の営門

北滿の黒河防衛隊営門(昭和9)
~北滿の黒河防衛隊営門(昭和9年)

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月、京都を出発、塘沽に上陸し北寧鉄道に沿って天津に進み子牙河作戰に参加し順徳を占領、北支戦線に参加、11月、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、12月13日、支那国府軍の首都南京城攻撃に参加します。
南京攻略後、昭和13(1938)年1月、第十六師團の北支那方面軍(寺内寿一大将)転属により、上海に終結、海路山海関へ移動、5月9日、徐州會戰に参加、、7月、第十六師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍隷下となり武漢作戰に参加、昭和14(1939)年4月1日、襄東會戦に参加、7月11日、復員が下令され、8月、京都に復員します。

昭和16(1941)年11月1日、日米開戦に備え動員下令(上島良雄大佐)、18日、屯営を出発し、19日、第十六師團(森岡皐中将)とともに大阪港より比島攻略に向け出港します。
12月22日、聯隊は第十四軍(本間雅晴中将)直轄部隊として師團を離れフィリピン・ルソン島北部リンガエン湾に敵前上陸を敢行、多大な犠牲を出しながらもマニラに進撃、30日、タルラック付近で米比軍と交戦中聯隊長・上島良雄大佐が敵弾を受け散華してしまいます。
タルラックより南進する歩九軍旗(昭和17年1月1日)
~軍旗とともにタルラックより南進する歩兵第九聯隊(昭和17年1月1日)

昭和17(1942)年1月2日、後任の聯隊長・武智漸大佐が着任します。
同日、マニラ占領後、1月12日、聯隊は第六十五旅團(奈良晃中将、通称号:夏、福山)に臨時編入され、米比軍の籠るバターン半島に向けナチブの密林を伐開しながら進撃、28日パランガ付近に進出します。
27日、カポット台に進出し5日間に渡り米比軍と激戦を展開、聯隊は全滅に近い甚大な損害を受けてしまいます(第一次バターン攻略戦)。
バターン半島の密林に設置された聯隊本部(昭和17)
~密林に設置された「武智部隊(歩兵第九聯隊)」聯隊本部

4月3日、大本營からの増援を受け第二次バターン攻撃を開始、9日、米比軍指揮官キング少将を降伏させます。
続いて、5月7日、第四師團らによってコレヒドール島も陥落し、比島作戰は終了します。

師團長の前線視察を迎える本部付将校(左から2人目が武智聯隊長)
~師團長の前線視察を迎える本部付将校(左から2人目が武智聯隊長)

作戦終了後、聯隊はカマリネス州ナガ市に聯隊本部を置き、南部ルソンとビサヤ地区諸島の警備に従事、匪賊討伐、治安維持に従事しますが、11月1日、匪賊の襲撃を受け聯隊長・武智漸大佐が散華してしまいます。
11月11日、 聯隊長・神谷保孝大佐が着任します。

昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦、昭和18(1943)年2月、ガダルカナル島攻防戦に敗れ、自力で劣る我が国は次第に退勢に転じて行きます。

昭和19(1944)年4月、聯隊主力はサマール島へ転進、7月19日、レイテ島へ進出(第二大隊主力はサマール島残置、マスバテ島に一部派遣)、第十六師團(牧野四郎中将)は北から歩兵第三十三聯隊、歩兵第九聯隊、歩兵第二十聯隊の順に布陣、防御態勢を固めます。

10月20日、米軍は艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁し上陸を開始します。
聯隊は強固なカトモン山の陣地に依って頑強に抵抗しますが、圧倒的な敵兵力に我が軍は各地で壊滅的損害を出してしまいます。
23日、敵はタクロバン、カトモン山西側に到達、同日ドラグ飛行場守備の歩二十聯隊長・鉾田大佐、パロ付近で歩三三聯隊長・鈴木大佐が相次いで散華、24 日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊が、ブラウエン地区へ侵入、25日、ドラグ守備の歩二十主力、歩九の一部が玉砕、27日、聯隊は師團命令によりダガミに集結、ロビ山陣地において防御線を展開、連日挺身切り込みを実施、30日、歩三三が玉砕、11月、工兵第十六聯隊が玉砕、この頃には第十六師團の防御体制は悉く崩壊してしまい残存部隊は脊梁山地へ転進します。

12月2日、敵占領下のブラウエン飛行場奪還を奪還すべく「和號作戰」が発令、5日、聯隊残存兵力550余名は神谷聯隊長の指揮下、ブラウエン北飛行場に進撃を開始、来援の空挺部隊とともに飛行場の奪還に成功します。
しかし、次々に増援部隊を投入、反撃に転じた敵の逆襲に損害は増加、聯隊は敵中に孤立、8日、神谷聯隊長が散華、11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから作戰は中止、約100名が軍旗とともに敵の包囲網を突破し脱出に成功、マナフグ山に転進します。

昭和20(1945)年1月15日、第三十五軍(鈴木宗作中将、第十六師團の上級部隊)命令により、聯隊はレイテ島西部喜峰(カンキボット)に終結、持久態勢に移ります。
聯隊生存者は補給が途絶え、疫病の蔓延する中、遂に軍旗を奉焼、追撃の米軍、匪賊と交戦、玉砕しました。


歩兵第百九聯隊(嵐六二一三)
昭和13(1938)年5月23日、編成完結(坂口静夫大佐)、軍旗を拝受し、5月27日、編成された第百十六師團が動員完結(清水喜重予備役中将)に隷属します。

6月19日、第百十六師團とともに大阪港を出港、6月24日、上海に上陸、25日、杭州に移駐、同地の警備に就きます。
9月13日、安慶に移動、長江沿岸の警備に就き、12月8日、大通南方地区作戰に参加、12月16日、長江岸冬期作戰に参加します。
昭和15(1940)年4月4日、春季皖南作戦、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戰に参加します。
昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、24日、皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵航空基地撃滅を下令(浙カン作戰)、師團は建徳、蘭谿、衡州、玉名と進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備に就き、12月21日、大別山作戰に参加します。

昭和18(1943)年10月1日、常徳作戰に参加(19年1月まで)します。

昭和19(1944)年4月22日、一號作戰(大陸打通作戰)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、敵航空基地の制圧を目指し岳州より南下し長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日より師團隷下の他隊とともに長沙の攻撃を開始、18日、長沙を占領します。
続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那国府軍第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を占領、10月3日、湖南省宝慶に駐留します。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戰(シ-草冠に止-江作戰)に参加、師團とともに米支軍都激戦を展開しながら雪峯山系を踏破、竜澤司を目指しますが敵機の攻撃に苦戦、5月16日、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。
6月15日、反撃に転じるべく澄水橋、拓木田地区に陣地を構築、8月16日、停戦の大詔を拝受し戦闘行動を停止、25日、師團に復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除、昭和21(1946)年4月29日、内地に向け孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港(一部は20日出港)、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。


歩兵第百二十八聯隊(安一〇〇二一)
昭和16(1941)年9月5日、編成完結(岡田博二大佐)、11月21日、軍旗を拝受、9月16日に編成された第五十三師團(馬場正郎中将)に隷属します。

昭和18(1943)年11月、師團に臨時動員下令、12月、南方軍予備として12月29日、門司港を出港、昭和19(1944)年2月10日、サイゴンに到着、ビンホア周辺の警備に就きます。
3月30日、師團は緬甸方面軍(河辺正三中将)に編入され、4月7日、緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)に編入、5月2日、ビルマに進出します。

連合軍が蒋援ルート「レド公路」の打通を計画、蒋援ルート遮断継続のため第三十三軍は北ビルマ(ビルマ支那国境付近)に展開、聯隊は師團とともにモガウンにおいて英印軍と交戦ののち5月13日、モールを占領、イラワジ川沿いにミイトキーナに向け進撃します。
しかし、空輸による増援を受ける英印軍、米式装備の支那軍の圧倒的な兵力に拉孟、騰越の守備隊が玉砕してしまう等第三十三軍は苦戦、6月10日、師團はミイトキーナ攻撃を中止、転進を開始、昭和20(1945)年1月、レド公路の打通を許してしまいます。

昭和20(1945)1月11日、攻勢を強める英印軍を食い止めるべくイラワジ會戰に参加、キャウセ東南付近の戦闘、カロー・ピンヤンの戦闘を経て、7月、シッタン作戰に参加、シッタン河クンセイクにおいて英印軍との戦闘を交える中で停戦を迎えました。


歩兵第三百四十九聯隊(山城二八二二七)
昭和20(1945)年7月5日、編成完結(神宮祐太郎大佐)、軍旗を拝受、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」(5月23日)により7月10日に新設された沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、兵團文字符:山城、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である神奈川県伊勢原に展開、茅ヶ崎地区において相模湾沿岸の防御陣地構築中に停戦を迎えます。


歩兵第四百四十二聯隊(護京二二六五四)
昭和20(1945)年4月2日、編成完結(坂本喜四郎大佐)、5月5日、軍旗を拝受、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」(2月28日)により4月8日に新設された沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豊二郎中将、兵團文字符:護京、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である三重県に展開、志摩半島地区において防御陣地構築中に停戦を迎えます。


歩兵第四百四十四聯隊(護京二二六五六)
昭和20(1945)年4月23日、編成完結(西川正行大佐)、5月5日、軍旗を拝受、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」(2月28日)により4月8日に新設された沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豊二郎中将、兵團文字符:護京、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である三重県に展開、志摩半島地区において防御陣地構築中に停戦を迎えます。


歩兵第五百二十二聯隊(比叡一〇二五三)
昭和20(1945)年4月23日、編成完結(富田實中佐)、6月11日、軍旗を拝受、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」(4月2日)により4月30日に新設された機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、兵團文字符:比叡、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である熊本平野に展開、宇土地区において作戦準備中に停戦を迎えます。

歩兵第五十一聯隊
こちらの記事参照

主要参考文献
・『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10月 ノーベル書房)

・『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

・『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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