当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第九聯隊 ・ 第十九旅團司令部

京都市伏見区深草に所在する京都教育大学は、レイテ島で20倍の敵上陸部隊を迎え撃ち玉砕した事で知られる歩兵第九聯隊の跡地にあり南端に歩兵第十九旅團司令部京都聯隊區司令部がありました。

兵営では後に歩兵第百九聯隊、歩兵第百二十八聯隊、歩兵第四百四十二聯隊、歩兵第四百四十四聯隊、歩兵第五百二十二聯隊、歩兵第三百四十九聯隊が編成されます。
歩兵第十九旅團司令部 正面玄関(京都深草)
▲京都教育大学「まなびの森ミュージアム」として再生された旅團司令部庁舎

【探索日時】
平成23年3月1日

【改訂情報】
平成30年4月30日、体裁改正





第十六師團関連諸施設の配置
第十六師團司令部 第十六師團 現在位置のみ(京都深草)
▲現在の地図に施設を転写
① 第十六師團司令部
② 第十六師團兵器部
③ 第十六師團経理部 被服庫
④ 露天馬場
⑤ 第十六師團経理部 糧秣倉庫
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊

⑨ 騎兵第二十聯隊
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
⑪ 輜重兵第十六聯隊
⑫ 京都陸軍病院
⑬ 京都陸軍拘禁所
⑭ 京都偕行社
⑮ 第十六師團長官舎
⑯ 師團長附当番兵宿舎
⑰ 京都陸軍練兵場
⑱ 大亀谷陸軍練兵場
⑲ 配水場
⑳ 伏見陸軍射撃場
㉑ 京都陸軍射撃場
㉒ 京都憲兵隊
㉓ 京都陸軍墓地
A 師團街道
B 第一軍道
C 第二軍道
D 第三軍道
※名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、特にソ連の脅威に対する自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

明治29(1896)年7月、京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)に新設の歩兵第三十八聯隊設置を決定、一部の地権者は反対しますが、隣接の伏見町は軍の消費による収入増加を期待するなど大勢は兵営設置を歓迎、第四師團監督部は兵営・旅團司令部、練兵場甲(兵営北側、後の騎兵第二十聯隊)、練兵場乙(大亀谷)、射撃場(伏見城北堀)、埋葬地用地を買収、臨時陸軍建築部大阪支部により営舎の建設が開始されます。

12月1日、歩兵第九聯隊(大津)において歩兵第三十八聯隊が編成完結、明治30(1897)年7月28日、京都府深草村の新兵営が竣工したのに伴い転営、10月18日、歩兵第十九旅團司令部、11月8日、京都聯隊區司令部が開庁します。
歩兵第九聯隊 兵営(京都深草)
▲歩兵第三十八聯隊 兵舎

明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、4月26日、既に歩兵第三十八聯隊が衛戍する深草村付近への師團設置が決定します。
第四師團経理部は随時用地を買収、臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月30日、第十六師團司令部が大阪から移駐して来ます。

大正8(1919)年3月3日から大正10(1921)年4月27日、聯隊の滿洲駐箚に伴い歩兵第三十八聯隊留守隊が編成されます。

大正14(1925)年5月4日、歩兵第三十八聯隊は奈良に転営、6日、歩兵第九聯隊が大津から転営して来ます。
歩九聯隊本部 昭和10年頃(京都深草)
▲歩兵第九聯隊 本部庁舎

昭和4(1929)年3月22日から昭和6(1931)年4月9日、聯隊の滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変出征に際し歩兵第九聯隊留守隊が編成され、昭和13(1938)年5月15日、歩兵第百九聯隊を編成(中支へ)します。

昭和15(1940)年7月10日、『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』により昭和16(1941)年9月16日、歩兵第十九旅團司令部は復帰、津から歩兵第三十旅團司令部から改編された第十六歩兵團司令部が移駐して来ます。

昭和16(1941)年10月1日、歩兵第九聯隊のフィリピン出征に伴い歩兵第百二十八聯隊が編成、昭和18(1943)年12月19日、聯隊のビルマ出征に伴い歩兵第百二十八聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年4月1日、歩兵第百二十八聯隊補充隊は京都師管區歩兵第一補充隊に改編され、10日、歩兵第四百四十二聯隊、5月10日、歩兵第四百四十四聯隊、6月10日、歩兵第五百二十二聯隊、8月15日、歩兵第三百四十九聯隊を編成します。

なお、第十六歩兵團司令部のフィリピン出征に伴い、第五十三歩兵團司令部が編成されますが、昭和19(1944)年6月15日、同司令部は第五十三師團のビルマ出征に際して復帰、庁舎は隣接する京都聯隊區司令部に移管されます。

昭和20(1945)年3月24日、決號作戰(本土決戦)に向け、本土における軍を中核とした有機的作戦組織を強化、決戦に総力を結集し戦場態勢を確立すべく軍令陸甲第四十七號により京都聯隊區司令部は復帰、同日、京都聯隊區司令部及び京都地區司令部(聯隊區司令官兼務)が臨時編成され、既存の(特設)警備隊を隷下に編入、地区防衛の準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
歩兵第九聯隊 営門(京都深草)
▲歩兵第九聯隊 営門

歩兵第九聯隊 営門付近(京都深草)
▲現在の営門跡

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、同日、歩兵営、聯隊區司令部も接収されキャンプ・フイシャーに改名、レンジャー歩兵大隊の兵舎として転用されます。

昭和30(1955)年11月、キャンプ・フイシャーの用途廃止、返還予定の情報を得た防衛庁は航空自衛隊幹部候補生学校、厚生省は京都病院の拡張用地、京都学芸大学は移転先として夫々が大蔵省に申請、最終的に学芸大学に決定、昭和32(1957)年9月1日、京都学芸大学(昭和41年4月1日、京都教育大学に改称)が移転開校し現在に至ります。

歩兵第九聯隊、及び京都聯隊區司令部ですが、残念ながら遺構は皆無です。

第十六師團 8(京都深草)
▲遺構の配置

ア 歩兵第十九旅團司令部
明治30(1897)年10月18日、歩兵第十九旅團司令部が開庁、昭和16(1941)年9月16日、歩兵第十九旅團司令部は復帰、津から歩兵第三十旅團司令部を改編した第十六歩兵團司令部が移駐して来ます。
昭和16(1941)年10月5日、第十六歩兵團司令部の出征に際し第五十三歩兵團司令部が編成され、昭和19(1944)年6月15日、同司令部は復帰、庁舎は隣接する京都聯隊區司令部に移管されます。

米軍接収を経て京都学芸大学に移管され、洋個室4、和個室1(本来の玄関部分)、会議室、入口は裏側(北側)に改造され外部講師や外来宿舎として使用されます。
平成23(2011)年、当時の姿に修復、復元され京都師範學校時代(明治9年設立)からの史料、実験機材、標本等を展示するまなびの森ミュージアムとして一般開放されています。

詳細は京都教育大学までお問い合わせ下さい。075-644-8175
歩兵第十九旅團司令部 南西から(京都深草)
▲歩兵第十九旅團司令部庁舎 全景
  残念ながら植栽が邪魔で見通せません

歩兵第十九旅團司令部 正面(京都深草)
▲玄関付近
  現存する旅團司令部庁舎(第六、第三十)とほぼ同じ仕様です

歩兵第十九旅團司令部 北東から(京都深草)
▲側面

歩兵第十九旅團司令部 北側(京都深草)
▲裏側

歩兵第十九旅團司令部 西側(京都深草)
▲窓

歩兵第十九旅團司令部 内部(京都深草)
▲玄関から内部

歩兵第十九旅團司令部 玄関(京都深草)
▲玄関

歩兵第十九旅團司令部 壁内の構造(京都深草)
▲壁の断面

歩兵第十九旅團司令部 壁内の材料(京都深草)
▲改修時に出てきた遺物

歩兵第十九旅團司令部 灯籠(京都深草)
▲外にある灯籠
  当時の物か不明です


イ シロマツ
藤森神社境内に第16代第十六師團長・石原莞爾中将が師團長着任時に奇進したと言われるシロマツがあります。
イ白松 石原莞爾中将寄進  第十六師團(京都深草)
▲立て札には「昭和10年頃」となっていますが、その当時の師團長は第11代・蒲穆中将です・・・


ウ 京都歩兵聯隊跡 碑
営門前道路脇、藤森神社境内に建立されています。
昭和43(1968)年4月18日、京都歩兵聯隊記念碑建設会により建立されました。
歩兵第九聯隊 ア京都歩兵聯隊跡(京都深草)


衛戍・編成部隊
歩兵第九聯隊(垣六五五四、中部第三十七部隊)
明治6年(1873年)1月9日、仙臺、東京、大阪、熊本に加え名古屋、廣島鎭臺が発足、全国を6軍管にに分割します。

10日、『徴兵令』が施行され、9月、鳥取、豊岡、北條、足羽、石川各県より壮兵を召集し、歩兵4個中隊から1個大隊を編成、豫備兵(隊長心得・吉田道任大尉)と呼称し大阪鎭臺隷下に編入され、大阪備前邸(天神橋筋)に仮営します。

12月25日、大阪鎭臺隷下の歩兵第五大隊は御親兵として東京に移駐したため、豫備兵は第五大隊に改称、明治7(1874)年2月1日、佐賀の乱に際し大阪の警備にあたります。
4月19日、伏見(奉行所跡の旧御親兵屯所)に移駐します(第一営)。

20日、初の徴兵者となる新徴募兵を大阪備前邸に召集し1個大隊(吉田章文大尉)を編成、6月1日、伏見の歩兵第五大隊を第一大隊、備前邸の1個大隊を第二大隊として歩兵第九聯隊が編成、聯隊長・竹下彌三郎中佐が着任、同日、聯隊役所(のちの本部)を備前邸に設置します。
8月27日、聯隊役所を旧大阪府庁に移設、10月1日、第一大隊は知恩院の仮兵舎に移駐、12月18日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第九聯隊 軍旗(京都深草)
▲歩兵第九聯隊 軍旗

明治8(1875)年1月19日、大津に新兵営(第七営)が竣工したため、3月8日、聯隊役所、第二大隊は大阪から転営、4月1日、第一大隊の徴兵前に召集した兵卒(壮兵)を解除、第二大隊の半分により第一大隊を再編、明治9(1876)年4月1月、第一、第二大隊から第三大隊が編成され編成完結、第三大隊は伏見の第一営に分屯します。

10月20日、熊本において神風連の乱が発生、聯隊は待命しますが、数日のうちに乱は平定されたため復帰します。
10月31日、山口において萩の乱が発生、歩兵第八聯隊(大阪)が出動したため、11月3日、第三大隊は第三営(大阪)、第二大隊は第一営(伏見)の警備にあたります。


明治10(1877)年2月15日、鹿児島で西郷隆盛が挙兵し西南の役が勃発、20日、第一大隊は征討第二旅團(三好重臣少将)、第二大隊は征討第一旅團(野津鎭雄少将)に配属され神戸港から博多へ、25日、第三大隊は征討第三旅團(三浦梧楼少将)に配属され鹿児島に向かいます。

3月4日、征討第一、征討第二旅團は熊本城の重囲を解くべく田原坂の薩軍に攻撃を開始しますが、地形を利用した堅陣・薩軍の猛攻に損害が続出し攻撃は頓挫、7日、二股口より突破を計り、20日、激戦ののち遂に突破に成功します。
31日、半高山、4月3日、三岳を攻略、15日、八代湾い上陸した背面軍が熊本城と連絡、16日、聯隊も熊本城に到着します。
20日、聯隊は征討第一旅團に編入され岩迫、谷、鳥越を出発、21日、大津を攻略、さらに南下し31日、椎葉山を攻略、6月30日、稲葉崎、7月9日、高崎口、28日、紙屋口で薩軍を撃破、31日、佐土原、8月13日、延岡を攻略します。
19日、可愛岳西北で薩軍を撃破、9月3日、城山に迫り、24日、西郷隆盛が自刃、西南の役は終結、10月1日、聯隊は大津、伏見に凱旋します。

明治17(1884)年6月28日、第三大隊は伏見から大津に移駐します。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発、11月26日、聯隊に動員下令、明治28(1895)年3月24日、第四師團(山澤靜吾中将、大阪)は第二軍戦闘序列に編入され、28日、聯隊は大津を出発、29日、広島に集結、4月11日、宇品を出航、14日、大連に到着、19日、上陸を開始しますが、17日に休戦条約が締結されたため軍命令により上陸を中止、22日、柳樹屯に上陸、5月17日、師團は第二軍戦闘序列を解かれ、遼東半島に移駐、海城の守備にあたり、12月、第四師團に復員が下令っされたため、12月25日、大津に帰還します。

明治29(1896)年1月4日、師團に台湾北部で蜂起した土匪討伐が下令、聯隊は歩兵第八聯隊とともに新兵を除いた古参兵のみで夫々混成2個大隊を編成、大久保混成旅團(歩八、歩九各2個大隊、砲四、工四各1個中隊)に編入され、7日、大津を出発、8日、宇品を出航、13日、台湾基隆に到着します。
16日、宜蘭に進出、17日から匪賊討伐を開始、26日、台北に進撃し討伐を終了、6月28日、台北を出発、7月6日~11月5日、大津に凱旋します。

明治30(1897)年9月23日、台湾守備に臨時編成1個中隊を派遣します(明治36年、帰営)。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、3月6日、第四師團に動員下令、15日、大阪に集結、22日、大阪を出発し大阪港を出航、鎮南浦に停泊待機ののち、5月10日、遼東半島の孫家咀子に上陸、師團は第二軍戦闘序列に編入されます。
第二軍はロシア軍の南下を防ぎ、滿洲方面と旅順要塞の連絡を遮断すべく金州城、南山の攻略を企図、を15日、聯隊は普蘭店を攻略、25日、歩三十八とともに金州城を攻略、26日、激戦ののち南山を攻略し、旅順要塞を孤立化させます。
6月5日、第二軍は旅順要塞救援に南下して来たシベリア第一軍団を迎撃すべく北上、15日、第五師團に撃破された露軍を得利寺において退路を遮断、敵の逆襲に苦戦しながらも撃破、露軍は蓋平に退却します。

7月9日、師團左翼として蓋平に進撃、23日、攻撃を開始、25日、蓋平を攻略、敗走する敵を追撃し石橋子において露軍を撃破、8月3日、牛荘を攻略、8月26日、師團予備隊として露軍が第一期作戦の主陣地とする遼陽に進撃、27日、宝石山を攻略します。
30日、済二台東方の第六師團の左翼に増援、9月1日、敵は退却を開始したため聯隊は師團前衛として第二大隊を先頭に追撃、遼陽停車場付近で敵の逆襲に苦戦するも前進し太子河に進撃します。
聯隊主力(第三大隊欠)は秋山支隊(秋山好古少将)に配属され、第三大隊は師團左翼として三家子に屯営し敵の右側背を牽制、10月8日、聯隊主力は黒溝台に集結、古家子、北台子を攻略し、13日、軍左翼を防御しつつ敵を牽制、遂に敵は総退却し転じます(沙河会戦)。
聯隊は狐家子、北台子において防御陣地を築城、明治38(1905)年1月初旬、騎兵・砲兵を伴う露軍3個軍が黒溝台の秋山支隊正面に侵攻、26日、激戦ののち敵を撃破します(沙河の対陣)。
3月1日、師團左翼として進撃を開始、2日、沈旦堡塁、北台子村落を攻略、6日、大蘇家堡西北端に敗敵を追撃します。

8日、聯隊は小格鎮堡の敵陣を攻撃、敵の強力な銃砲火に苦戦しながらも攻略、9日、聯隊は師團予備隊として胡家甸子に進撃、10日、渾河を渡河、小路官堡に進撃、歩三十七(大阪)が奉天城に突入、敵兵1,000を捕獲、同城を攻略、追撃に移りします。
9月5日、講和条約が締結され、8日、停戦命令を受領、12月8日、鉄嶺に集結、21日、大津に凱旋します。

明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、歩兵第九聯隊は第四師團から第十六師團に隷属転移、第十九旅團隷下に編入されます。

明治42(1909)年6月12日、第一中隊を天津に派遣します(明治43年6月29日、帰営)。

明治44(1911)年4月1日、第八中隊を臨時朝鮮守備として派遣します(大正2年4月29日、帰営)。

大正8(1919)年3月20日、聯隊にシベリア派遣が下令、4月6日、大津を出発し大阪港を出航、11日、ウラジオストクに上陸、浦塩派遣軍司令官(大谷喜久蔵大将)指揮下に編入され、同地の警備にあたります。

大正9(1920)年4月5日、ウラジオ革命軍の武装解除を実施、9月14日、奉天、遼陽に移駐し師團に復帰、同地の警備にあたります。
大正10(1921)年4月9日、大津に帰還します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十三聯隊(奈良)が復帰、歩兵第三十八聯隊(京都)は奈良に移駐が決定、6日、歩兵第九聯隊は第三大隊を大津に残置し旧歩兵第三十八聯隊兵営に転営します。

昭和4(1929)年4月22日、滿洲に駐箚し遼陽の警備にあたり、昭和6(1931)年5月1日、京都に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、聯隊は師團とともに京都を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に集結し關東軍司令部(菱刈隆大将)の指揮下に入ります。
9月4日、北安鎮海倫・黒河に分屯し警備にあたり、昭和11(1936)年7月、任務を終了し京都に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入され、9月7日、聯隊は京都を出発、大阪港に集結し、13日、塘沽に上陸、17日、北寧鉄道に沿って天津に集結、子牙河作戰に参加し、10月1日、激戦ののち小範鎮を攻略します。
、11月12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、13日、聯隊は大連を出航、15日、師團は白卯江に敵前上陸を敢行、26日、無錫を攻略、丹陽、句陽道を進撃します。

12月1日、大本營は南京攻略を下令、10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、聯隊は南京城中山門の攻撃を開始、12日、歩三十三が南京城東側の要地・紫金山を攻略、13日0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、14日、師團は南京城に入城、17日、入城式が挙行され周辺の残敵掃討、警備にあたります。

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月24日、上海に集結、海路山海関へ移動、28日、秦皇嶋に上陸、2月7日、京漢線の警備にあたり、11日、河北戡定作戰を実施します。

4月20日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、5月18日、徐州の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加するも蒋介石軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。

6月12日、敗走する支那軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流したため、黄河氾濫地帯において被災民救助にあたります。

7月15日、師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、9月8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦を実施します。

12月9日、第二軍の内地帰還に伴い師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、昭和14(1939)年5月1日、第十一軍の襄東會戦に参加、7月11日、師團に復員が下令、14日、師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、漢口に集結、8月末、聯隊は京都に凱旋します。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに、常設師團のうち第一、第八、第九、第十、第十一、第十二、第十四、第十六師團の8個師團を滿洲永久駐屯師團に定めます。

昭和16(1941)年9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。
当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航します。

9月16日、第十六師團に臨時編成下令、25日、師團に動員が下令、10月3日、動員完結、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将)、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将)とともに比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入、聯隊(上島良雄大佐)は第十四軍直轄としてとして師團を離れ上島支隊を編成します。

18日、京都を出発し大阪港に集結、22日、大阪港を出航、12月22日、ルソン島北部リンガエン湾に敵前上陸を敢行、軍主力とともにマニラに進撃、30日、タルラック付近で米比軍と交戦中聯隊長・上島良雄大佐が敵弾を受け散華してしまいます。
歩兵第九聯隊 タルラックより南進する歩九軍旗(昭和17年1月1日)(京都深草)
▲軍旗を先頭にタルラックより南進する歩兵第九聯隊(昭和17年1月1日)

昭和17(1942)年1月2日、後任の聯隊長・武智漸大佐が着任、同日、マニラを攻略します。

しかし、マニラ、タルラックの米比軍は作戦通りバターン半島に撤退、大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第十四軍隷下にあった第四十八師團(土橋勇逸中将)を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。

1月9日、聯隊は第六十五旅團(奈良晃中将、福山)指揮下に編入され、バターン半島入り口のナチブ山東側周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な複郭陣地、激烈な砲撃、逆襲に阻まれ進撃は遅滞、13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令します。

第十六師團は歩二十(第一大隊欠)を基幹とし木村支隊を編成、15日、支隊はマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、ナチブ西側のモロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け進撃は遅滞、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

25日、第十四軍は第十六師團主力にバターン半島攻略を下令します。

26日、聯隊は敵第一線陣地を攻略しパランガ付近に進出、27日、カポット台に進出し5日間に渡り米比軍と交戦しますが敵の激烈な砲撃を受け甚大な損害を受け、またナチブ山西側でも敵の包囲を受けた歩二十が玉砕寸前になるなど大損害を受け、2月8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令します。

4月3日、大本營からの増援(第四師團、永野支隊(第二十一師團歩六十二基幹))を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。

9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、バターン南端のマリベレスに突入、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。
5月7日、第四師團らがコレヒドール島を攻略、比島攻略戦は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、聯隊はカマリネス州ナガ市に聯隊本部を設置、ルソン島南部ビサヤ地区諸島の警備にあたり、匪賊討伐、治安維持に従事しますが、11月1日、匪賊の襲撃を受け聯隊長・武智大佐が散華してしまいます。
11日、 聯隊長・神谷保孝大佐が着任します。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、また当初米軍に敵対していた共産匪賊も現地華僑を通じ支那共産党の指示を受け米軍側に加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

昭和18(1943)年11月、第十四軍(黒田重徳中将)は師團(大場四平中将)にレイテ島の戡定を下令、歩二十をビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に編入、先遣隊として第一大隊がレイテ島南部マリトボックに、12月2日、聯隊主力がタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、聯隊は師團主力(歩三十三主力(第一大隊欠)、野砲二十二第三大隊、捜索十六、師團衛生隊、同第一野戦病院、病馬廠は残置)とともにマニラを出航、サマール島に上陸し陣地築城を開始します。

5月、大本營は第十一號作戰準備により逐次比島方面の防備強化、及び戦力を整備、6月15日、第十六歩兵團司令部が復帰、7月28日、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に改編、8月4日、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ。主力:ミンダナオ島)が臨時編成され、第十六師團は第三十師團とおもに第三十五軍戦闘序列に編入されます。

7月7日、絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、大本營はフィリピン、8月24日、大本營は来寇する米軍を比島、台湾、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とし陸海軍共同で撃滅し戦争終結の発端を企図すべく『陸海軍爾後ノ作戰指導大綱』(26日、「捷號作戰」と呼称)を策定、作戦準備を発令します。

第十六師團はレイテ島に移駐後、内陸部のダガミに複郭陣地を築城、敵上陸1日で逐次水際陣地から転進し長期持久に転じる作戦を立案しますが、敵の主目標と目されるブラウエン飛行場群を防衛するには島東側の50Kmに及ぶ海岸線に兵力を分散配置する必要があり牧野中将は陣地配置に苦慮、最終的に長大な海岸線に北から歩兵第三十三聯隊(鈴木辰之助大佐、津)、歩兵第九聯隊、歩兵第二十聯隊(鉾田慶次郎大佐、福知山)の順に布陣、水際防御態勢を固め、敵上陸後は逐次複郭陣地に転進する事にします。

7月19日、聯隊は第二大隊(第六中隊欠)、第二中隊をサマール島に残置(マスバテ島に一部派遣)しレイテ島へ進出、聯隊本部・主力をカトモン山、第一・第三中隊をカトモン山-サンホセ間、第九中隊をタナウアン、第十中隊をトロザ、第十一中隊をサンフアキンに配置し陣地築城を開始します。

当初、大本營はルソン島決戦を策定していましたが、10月12~16日の臺灣沖航空戰の結果(所謂幻の大戦果)を受け、海空の援護のない敵上陸部隊を殲滅する好機とし第十四方面軍司令官・山下大将の反対意見を退けレイテ島決戦を決定します。

10月17日、米軍(D・マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

20日0600、米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がタクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始、ドラッグの敵上陸正面にあった歩二十、タクロバン方面のパロにあった歩三十三、またサンホセにあった第一・第三中隊は野砲兵第二十二聯隊第六中隊とともに水際陣地に拠り敵上陸部隊を迎撃、それぞれ相当の戦果を挙げますが、圧倒的な兵力、火力、物量を誇る敵の攻撃に通信線が寸断され状況の把握、命令伝達ができないまま各地で大損害を受け、第三中隊は玉砕してしまいます。

21日、師團戦闘指揮所はサンタフェからダガミに移駐、22日、パロを失陥、聯隊砲中隊がタクロバン南方のタナウアン付近、第二機關銃中隊がロングン付近で玉砕、牧野中将は水際の各部隊に内陸部の第二線陣地への転進を下令しますが、敵は急速に浸透、23日にはタクロバン、カトモン山西側に侵攻、23日、パロ付近で歩三十三聯隊長・鈴木大佐が自決、ホリタで歩二十聯隊長・鉾田大佐が散華してしまいます。

聯隊は強固なカトモン山の陣地に依って陣地を死守しますが、24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊がブラウエン地区に侵入、25日、ドラッグを失陥しカトモン山は敵中に孤立する恐れが出たため師團命令により転進を開始、27日、ダガミに集結、第一線・第二線陣地を失陥した師團は脊梁山地東麓のサンタフェ-バストラナ-ダガミ-ブラウエン飛行場周辺の線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行し防戦にあたりますが敵の侵攻を拒止する事は能わず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、聯隊は敵の侵攻阻止にあたりますが甚大な損害を受け、師團司令部は脊梁山地のロビ山に転進し防戦にあたります(師團戦力は3,000名程(2/3は傷病兵))。
10月30日、歩三十三が玉砕、11月、工十六が玉砕、この頃には第十六師團の防衛線は寸断されてしまいます。

11月4日、米第1騎兵師団、騎兵第8連隊がサマール島に上陸、、14日、第二大隊、第二中隊はカタバロガン南方のカルピカにおいて敵の侵攻を拒止しますが次第に損害が増加、12月初旬、殆どの陣地を失陥してしまい、島北部に転進し遊撃戦に移行します。

米軍は断続的に戦力を増強、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸(第一次多號作戦)、その後も多號作戦は続行され増援兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の強行輸送により海上で人員、兵器、物資が大損害を受け戦力的には低下していきます。

第三十五軍は増援兵力、物資の海上補給路を確保すべく敵占領下の飛行場制圧を企図、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊がドラッグ飛行場に突入します(義號作戦)。

さらに12月5日早朝、高千穂空挺部隊(挺進第三・第四聯隊)による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團混成部隊(11月末時点総兵力2,030名、内歩兵1,400名、聯隊550余名)は聯隊長・神谷大佐の指揮のもとブラウエン北飛行場に進撃(和號作戰)します。
師團混成部隊の奇襲は成功し飛行場の制圧に成功しますが、7日、米第77歩兵師団が西海岸のオルモック(第十六師團の背後)に上陸、8日、師團長・牧野中将は聯隊に転進を下令しますが態勢を建て直した敵の包囲攻撃を受け歩九・神谷大佐が散華、11日、作戦は中止され、聯隊生存者約100名が軍旗とともに離脱に成功、師團は敵の重囲を突破し脊梁山地に転進します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を下令、第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に集結させ、持久態勢に移行します。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島への転進(地號作戰)を下令、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、1月20日、敵の妨害により稼働舟艇が払底し作戦は停止、以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月23日、ロビ山中から第十六師團(牧野中将以下80名)が歓喜峰に到着します。

3月下旬、伝馬船によ第三十五軍司令部がセブ島へ転進、4月19日、永久抗戦指揮のため丸木舟でミンダナオ島へ移動途中米軍の銃撃により鈴木中将が散華してしまいます。

レイテ島は補給が途絶、師團は悪疫の蔓延する中で追撃の米軍、匪賊と交戦、7月15日、シラド湾東方地区において牧野中将が散華、同じ頃、聯隊生存者はこれ以上の軍旗の安全な捧持は困難と判断、遂に軍旗を奉焼、追撃の米軍に切り込み玉砕してしまいます。


歩兵第百九聯隊(嵐六二一三)
昭和13(1938)年5月15日、歩兵第九聯隊留守隊に歩兵第百九聯隊の臨時編成下令、23日、宮中において軍旗を拝受、24日、編成完結(坂口靜夫大佐)、27日、第百十六師團が編成完結(清水喜重予備役中将)、隷下に編入されます。
5月31日、青野原陸軍演習場において野営訓練を実施します。

6月20日、大阪港を出港、24日、上海に上陸、26日、杭州に移駐、同地の警備にあたります。
8月29日、江蘇省鎮江に移駐、9月9日、安徽省香口馬檣鎮湖口付近、12月2日、第二次湖口-東流間の警備にあたり、8日、大通南方地区作戦に参加、12月16日、支那軍10個師が揚子江を遮断すべく冬季攻勢により大通に侵攻、師團は第百一、第百六師團とともに激戦ののち支那軍を撃破(長江岸冬期作戦)します。

昭和14(1939)年3月15日、東流-老爺廟間の警備、6月14日、殷家[シ雁]-澎澤間の警備にあたります。

9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾壽造大将)に編入されます。

昭和15(1940)年2月1日、澎澤-東流間の警備、東流-老爺廟間の警備にあたります。

4月4日、第十五師團の南陵繁昌地区進攻に策応し九華山を突破、青陽方面の支那軍を殲滅(春季皖南作戦)、29日、長江岸の警備にあたります。
5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戦に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、24日、第十三軍の南京南方作戦に策応し皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵飛行場撃滅を下令(浙贛作戦)、聯隊は歩兵第百十九旅團とともに長江岸の守備にあたり、12月21日、第十一軍に策応し大別山作戦に参加、桐城潜山の支那軍を撃破します。

昭和18(1943)年1月21日、安徽省東流に移駐、昭和19(1944)年1月11日、湖北省武昌油坊嶺付近の警備にあたります。

2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)の戦闘序列に編入されます。

4月22日、一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戦(湘桂作戦)に参加、敵飛行場の制圧を企図し岳州に集結、新檣河を渡河し泊水湖畔株州付近で支那軍を撃破、続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第一〇軍を降伏させ衝陽を攻略、宝慶西方に進撃し敵の退路を遮断、軍の宝慶攻略を容易にし、10月3日、湖南省邵陽県賓慶付近の警備にあたります。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戦(芷江作戦)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、藷迯]河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。

8月16日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し戦闘行動を停止、25日、復員下令、9月30日、湖南省岳陽県忠信郷呉伏付近に集結します。
10月4日、武装解除、昭和21(1946)年5月23日、内地に向け上海到着、6月11日、上海出港、21日、佐世保に上陸、復員完結しました。


歩兵第百二十八聯隊(安一〇〇二一/中部第三十七部隊/中部第百三十七部隊)
昭和16(1941)年10月1日、歩兵第九聯隊に歩兵第百二十八聯隊の編成が下令、5日、編制完結(岡田博二大佐)し、11月21日、軍旗を拝受、第五十三師團(馬場正郎中将)隷下編入されます。

昭和18(1943)年11月19日、聯隊に臨時動員下令、12月13日、動員完結、12月19日、師團第一梯団(先発隊)として貫井兵吉大尉以下185名が宇品を出航、昭和19(1944)年1月5日、サイゴンに上陸します。
12月29日、聯隊主力は師團第二梯団として門司出航、上海において師團から分離、昭和19(1944)年2月10日(第一・第二大隊)、3月5日(第三大隊)、サイゴンに上陸します。
サイゴンにおいて聯隊は師團第二梯団(2月2日、上陸)の野砲兵五十三第一大隊、工兵五十三第一中隊、輜重兵五十三第一中隊、師團衛生隊1/3同防疫給水部1/4を配属され岡田支隊を編成、印度支那駐屯軍司令部(町尻量基中将、サイゴン)の指揮下に編入されビンホア周辺の警備、及び訓練にあたります。

1月29日、第三梯団として昭南に上陸した師團主力は3月27日、隷下部隊の集結を待たずしてラングーンに移駐、30日、緬甸方面軍(河邉正三中将)指揮下に編入、次いで、4月29日、4月7日に緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)指揮下に編入されます。
聯隊は師團復帰を下令され、3月下旬、数梯団に別れプノンペン、バンコクを経由し、4月下旬、マンダレーに集結、師團は北部ビルマのモール付近に降下した英ウィンゲート空挺部隊の殲滅を下令されます。
5月2日、聯隊はインドウに集結、モール南東6kmのナッコキンにおいて英空挺部隊と不規則遭遇戦となり、第一中隊の突撃により撃破、10日、モールを攻撃し英軍を撃退、23日、ポピンの敵陣を攻撃しますが、強力な銃砲火に損害が増加、3度の突撃により25日、遂にポピンを攻略します。

25日、師團はミイトキーナ増援のためメムクインからイラワジ川沿いに北上、29日、同地南方5kmの七一五橋梁付近に達しミイトキーナ包囲中の米支軍攻撃を準備しますが、敵は師團後方のフーコン、モガウンで作戦中の第十八師團の側背・カマイン方面に侵攻、補給路遮断にかかったため、6月10日、軍はミイトキーナ攻撃を中止、師團に北上を下令、聯隊はモガウンに進出し第十八師團の右側背を援護、同師團のラシオ沿線方面への転進援護にあたります。
20日、米支軍は師團への攻勢を激化、損害が増加するに及び、7月8日、聯隊はナンバタング-トップの線に転進、戦力の回復、敵の交通路遮断にあたります。

8月8日、聯隊は豪雨のなかナンバタングを出発、9月上旬、モーハンに集結し陣地占領、9月10日、師團主力はモーハンに集結、31日、聯隊はパーパンにおいて米支軍の拒止にあたりますが師團は敵の包囲攻撃を受けるに至り、10月25日、ピンウエに転進、聯隊は挺進パーパン方面の敵に逆襲を敢行するなど米支軍の拒止にあたります。

10月5日、師團は第十五軍指揮下に編入、11月28日、ウ號作戦の中止に伴う英印軍の侵攻を拒止すべく、マンダレーへの転進を下令されますが、12月2日、ピンウエ南方において作戦指導中の聯隊長・岡田大佐が散華してしまいます(8日、菊池芳之助大佐着任)。
10日、聯隊はイラワジ川を渡河、昭和20(1945)年1月上旬、マンダレーに集結、10日、第三十一師團指揮下に編入され、自動車にてイラワジ河畔ミンギャンに到着、陣地築城を実施します。

10日、第十五師團正面のシングー付近に敵が渡河侵攻を指向して来たため、師團はマダヤ付近に前進、第十五師團のタベイキン方面進出に伴いシングー付近の守備を継承、14日、敵が渡河を開始、21日、聯隊はミンギャンにおいて英軍と戦闘中でしたが師團復帰を下令され、戦場を離脱し北上、23日、コッコウにおいて師團に復帰、渡河侵攻中の敵に対し、第二大隊はクレー高地、第三大隊はイエジン高地を攻撃、聯隊主力は師團予備隊としてミンガンにおいて敵の拒止にあたります。
2月1日、軍命により師團は再び第十五師團に守備を移譲、3日、聯隊は第三大隊を残置しキャウセに移駐、師團は軍の機動予備兵団に指定されます。
師團はイラワジ河畔ミンムに渡河を企図する敵を阻止すべく機動を開始、14日、聯隊はミヨサに前進、20日、ミンム西方地区の第三十三師團指揮下に編入されイワホーに前進、イラワジ川を渡河侵攻して来た英軍を撃破、第三大隊を掌握し敵の侵攻拒止にあたりますが、戦線は各地で突破されてしまい、3月8日、転進命令を受領、10日、第一大隊を残置し、18日、キャウセ南方に到着し陣地占領します。
3月30日、ミヨサ、ハミンボー周辺に敵が侵攻、聯隊は敵の侵攻を拒止すべく転進を開始、ボングイン付近において第三十三師團の転進を援護、4月5日、ナグーに集結、6日、聯隊は第三十三軍直轄となりザジ東方地区への前進を下令され、7日、マンダレー街道は敵に抑えられているため、シャン高原踏破を決し、ナグーを経由、14日、カロー街道インマビンに到着、第二輸送司令部指揮下に編入され、友軍の転進援護にあたります。
20日、追尾して来た英軍を攻撃しつつカロー街道を転進、5月2日、第五十六師團に任務を移譲、カローに集結、7日、カローを出発、シャン高原を踏破しケマピューを経由、6月4日、パプンに到着、シッタン河畔において英軍拒止を準備中の師團へ復帰を下令されます。
24日、ウインガンにおいて師團に復帰、聯隊は師團右翼隊としてサロッキーに布陣、7月1日、第二十八軍の転進援護のためシッタン川を渡河、8日、大湿地帯を踏破しミッチョウを攻略しますが、聯隊長・菊池大佐が敵機の爆撃により散華してしまいます。
10日、サロッキーに復帰、シッタン河畔において第二十八軍の転進援護にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第四百四十二聯隊(護京二二六五四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第百二十八聯隊補充隊に臨時動員下令、4月10日、動員完結(坂本喜四郎大佐)、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、4月8日、動員完結した沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豐二郎中将、京都/第十三方面軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である三重県に移駐、志摩半島地区において防御陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第四百四十四聯隊(護京二二六五六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第百二十八聯隊補充隊に臨時動員下令、5月5日、宮中において軍旗を拝受、10日、動員完結(西川正行大佐)します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、4月8日、動員完結した沿岸配備師團である第百五十三師團(稲村豐二郎中将、京都/第十三方面軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である三重県に移駐、志摩半島地区において防御陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第五百二十二聯隊(比叡一〇二五三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、京都師管區歩兵第一補充隊に臨時動員下令、6月10日、動員完結(富田實中佐)、11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月23日、軍令陸甲第六十一號に基づき、30日、動員完結した機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、京都/第十六方面軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である熊本宇土地区に移駐、作戦準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第三百四十九聯隊(山城二八二二七)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、京都師管區歩兵第一補充隊に臨時動員下令、7月5日、宮中において軍旗を拝受、8月15日、編成完結(神宮祐太郎大佐)します。

5月23日、軍令陸甲第八十四號に基づき、7月10日、動員完結したした沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、京都/第五十三軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である神奈川県伊勢原の茅ヶ崎地区において相模湾沿岸の防御を担当予定でしたが、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』 (昭和53年10月 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』 (平成2年9月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『史料京都の歴史16 伏見区』 (平成3年1月 平凡社)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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