当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

野砲兵第二十二聯隊(垣六五五八、中部第四十部隊)他

京都府紀伊郡深草村(現、京都市伏見区深草)一帯に衛戍した第十六師團隷下部隊の遺構探索、続いて野砲兵第二十二聯隊を紹介します。






第十六師團隷下部隊の配置
第十六師團 210724
~昭和21年7月の師團隷下部隊、及び軍施設配置

第十六師團
~現在の地図に上記施設を写したもの

※緑文字が当記事の施設
①第十六師團司令部
②京都偕行社
③師團長付き当番兵宿舎
④師團長官舎
⑤騎兵第二十聯隊
⑥京都陸軍刑務所
⑦京都第一陸軍病院
⑧歩兵第九聯隊
⑨京都聯隊區司令部
⑩第十九旅團司令部→第十六歩兵團司令部→京都地區司令部
⑪陸軍兵器廠京都支廠→京都陸軍兵器支廠
⑫京都練兵場
⑬馬場
⑭第十六師團糧秣部
野砲兵第二十二聯隊
⑯輜重兵第十六聯隊
⑰京都地區憲兵隊伏見分隊
⑱北(伏見)射撃場
⑲南(大亀谷)射撃場
⑳大亀谷演習場
21配水場
22陸軍墓地
23旧射撃場
A師團街道
B第一軍道
C第二軍道
D第三軍道

野砲兵第二十二聯隊の場所
聯隊兵営は現在藤森中学京都市青少年科学センター青風幼稚園府営住宅合同宿舎民家になっています。

遺構について>(カタカナは上掲地図のモノ、場所詳細は後述
ナ 板塀支柱?

遺構探索
まずは⑮聯隊兵営跡を探索しますが、歩兵第九聯隊並みに何も残っていません。
今回の探索で終始思った、「京都市は軍の遺産を徹底的に破壊、隠滅を謀っている?」と思えるほど何も残っていません。
営門付近
営門付近の現況(中央の交差点付近)

建物等は全て撤去されているので恒例の「兵営の境界探査」を行います。

南側の川沿いに当時の物と思われる「柵(板塀)の支柱」ナが点在しているのみでした。

支柱の裏側(南側)には角材を差しこむ穴が開いています。

ここに1本、ここに2本(1本は倒れる)、ここに3本あります。
ナ板塀支柱1
~柵の支柱(裏側)

ナ板塀支柱3
~別の支柱
 分かりにくいですが樹木に同化した支柱が3本あります。

・・・実に素っ気ない探索、結果で申し訳ありません。


衛戍部隊
野砲兵第二十二聯隊(垣六五五八、中部第四十部隊)
明治38(1905)年、7月18日、熊本において野戰砲兵第二十二聯隊の編成完結(庄司四郎中佐)、第十六師團(山中信儀中将)隷下み編入されます。
8月、第十六師團に従い滿洲に出征しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は終結したため、10月18日、關東総督(大島義昌大将)の隷下に編入され滿洲の警備に当り、明治40年、内地に帰還し新設された京都深草の兵営に入ります。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い野砲兵第二十二聯隊と改称します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團は南滿洲鉄道守備のため滿洲駐箚を命ぜられ、4月、大阪港出港、遼陽の警備に就き、大正10(1921)年4月、京都に帰還します。

昭和4(1929)年4月、滿洲に駐箚し警備に就き、昭和6(1931)年4月、京都に帰還、昭和9(1934)年8月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲派遣が下令され、9月4日、斉斉哈爾の警備に就き、昭和11(1936)年7月、京都に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月、京都を出発、塘沽に上陸し北寧鉄道に沿って天津に進み、北支戦線において石家荘、常熱、無錫などの戦いに参加、11月、第十六師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列となり、常熟、無錫、丹陽、句陽道を進み、12月13日、支那国府軍の首都南京城紫金山、中山門、和平門の攻撃に参加します。

南京攻略後、昭和13(1938)年1月、第十六師團の北支那方面軍(寺内寿一大将)転属により、上海に終結、海路山海関へ移動、5月9日、徐州會戰に参加、、7月、第十六師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍隷下となり武漢作戰に参加、昭和14(1939)年2月、安陸作戰、4月1日、襄東會戦に参加、7月11日、復員が下令され、8月、京都に復員します。

昭和16(1941)年9月、南方作戦に備え一部自動車化され、12月8日、大東亜戰争が開戦に伴い、24日、第十六師團主力とともに第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、昭和17(1942)年1月2日、マニラを占領しました。

4月3日、第二次バターン攻撃に参加、9日夜、第十六師團は増援の第四師團(北野憲造中将、通称号:淀、大阪)とともにバターン南端のマリベレスに突入、米比軍指揮官キング少将は降伏します。
続いて、5月7日、第四師團らによってコレヒドール島も陥落し、比島作戰は終了します。

ルソン島攻略後、聯隊は同島の警備に就き、訓練、匪賊討伐の任務に就きます。

昭和19(1944)年4月5日、第十六師團(牧野四郎中将)主力にレイテ島進出が下令され、聯隊は第三大隊をルソン島に残置し、レイテ島に進出、キリンに聯隊本部(近藤嘉名男大佐)、敵上陸正面と予測される東海岸のパロ北方に第一大隊(豊上少佐、第一中隊欠)、サンホセ北方に第六中隊(増田達郎中尉)、ドラッグに第四中隊(後藤佐武郎中尉)、リザールに第五中隊(中山誠一大尉)、タラゴナに第一中隊(山内岩海中尉)を配置、陣地を構築します。

10月19日、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇で接近、敵の上陸と誤認したパロの第一大隊は射程500mまで引き付け一斉に射撃を開始、火点を暴露してしまいます。

10月20日、米軍は艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁し上陸を開始します。

0600、レイテ湾口の米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、米軍は艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がレイテ島タクロバンに、第 24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始します。

第一大隊はは火点の暴露により約半数の火砲を失いますが、米第19連隊の上陸用舟艇を第4波まで無視、第5波が海岸に近付くと一斉に砲撃を開始、零距離射撃により舟艇4隻を撃破します。

しかし、圧倒的な敵上陸部隊の攻撃に各中隊は火砲の大半を失い各地で大損害を受け、内陸部のダガミ、ブラウエンの複郭陣地に後退し火力戦闘を継続します。

11月、第十六師團の防御体制は悉く崩壊、聯隊は残存の火砲2門も遂に破壊され兵力は約300名に減少、脊梁山地へ後退します。

12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團残存部隊(11月末時点総兵力2,030、内歩兵1,400)は歩兵第九聯隊長・神谷保孝大佐の指揮下、敵占領下のブラウエン飛行場に対し攻撃(和號作戰)を実施しますが、歩九・神谷聯隊長が散華、12月11日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから作戰は中止、聯隊はパロンポン方面へ後退します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を命じ、レイテ決戦は事実上終結します。
第三十五軍命令によりレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に転進、持久態勢に移ります。

レイテ島の残存部隊は補給が途絶え、疫病の蔓延する中で米軍、匪賊と交戦、昭和20(1945)年7月15日、聯隊長・近藤大佐が散華、、9月3日、聯隊は玉砕寸前で停戦を迎えます。


野砲兵第百二十二聯隊(嵐六二二二)
昭和13(1938)年5月15日、動員下令、5月27日、動員完結(桑原荒一郎中佐)し第百十六師團清水喜重予備役中将)に隷属します。
6月19日、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入され、師團とともに大阪港を出港、6月22日、上海に上陸、25日、杭州に移駐、同地の警備に就きます。

9月、安慶に移動、長江沿岸の警備に就き、18日、1個大隊を抽出、歩兵第百二十、百三十三聯隊より抽出された歩兵4個大隊とともに石原支隊(第十九旅團長・石原常太郎少将)を編成、10月16日、石原支隊は武漢作戰に参加、キ春付近に上陸し黄白城付近の戦闘を経て漢口攻略戦に参加します(11月、師團に復帰)。

昭和15(1940)年、秋季、冬季皖南作戦、昭和16(1941)年12月24日、皖浙作戦、昭和17(1942)年4月30、浙カン作戰に参加します。

昭和18(1943)年10月1日、聯隊は滿洲事變時に鹵獲した山砲を装備した臨時山砲兵大隊を編成し常徳作戰に参加(19年1月まで)します。

昭和19(1944)年初頭、獨立山砲兵第五聯隊から山砲18門を受領し装備変更、山砲3個大隊に改編します。
4月22日、一號作戰(大陸打通作戰)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に参加、敵航空基地の制圧を目指し岳州より南下し長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日より長沙の攻撃を開始、18日、長沙を占領します。
続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那国府軍第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を占領するも終始弾薬不足に加え、火砲の半数が損傷してしまいます。
8月下旬、宝慶攻略後、聯隊は師團の測背援護に任じつつ火砲の補給を受け、山砲2個大隊、野砲1個大隊に改編、機動力と山地戦闘に即応する編成となります。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戰(シ-草冠に止-江作戰)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、沅江河畔に進撃するも米軍の空襲、米式装備の支那軍の抵抗を受け作戰は中止、5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月、宝慶に到着します。

8月16日、停戦の大詔を拝受し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除、昭和21(1946)年4月29日、内地に向け孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。


野砲兵第五十三聯隊(安一〇〇二七、中部第四十部隊)
昭和16(1941)年9月16日、編成(湯屋繁治大佐)され第五十三師團(馬場正郎中将)に隷属します。

昭和18(1943)年11月、南方軍予備として第五十三師團に臨時動員下令、12月13日、編成完結(高見量太郎大佐、昭和19年7月8日~横田武夫大佐)、第一大隊は編成完結直後、門司へ、聯隊本部、第二大隊、第三大隊は高師ヶ原演習場(豊橋)に、次いで饗庭野演習場(滋賀)に移り、昭和19(1944)年3月25日に宇品へ出発します。
第3大隊は残置・待命となる。

聯隊は先行している第五十三師團を追及しサイゴン、シンガポールに集結中、8月、第三大隊(川北松男少佐)は比島沖で輸送船が被雷沈没、生存者はルソン島に上陸、第十四軍(山下奉文大将)隷下となり第百五師團歩兵第八十二旅團(河嶋修少将)に編入(後同師團第八十一旅團に編入)され同島の守備に当ります。

3月30日、第五十三師團は緬甸方面軍(河辺正三中将)に編入され、4月7日、さらに緬甸方面軍隷下に編成された第三十三軍(本多政材中将)に編入されビルマに進出します。
4月、師團とともにモール付近の英印軍空挺部隊を攻撃すべく進撃を開始しますが、5月11日の攻撃開始を待たず敵が退却したので中止、ミートキーナの第十八師團(田中新一中将、通称号:菊、久留米)救援に向かいます。
6月末、緬甸方面軍は戦局の悪化から北ビルマからの転進を決定、追及してきた第二大隊を加え、師團とともに第十八師團の撤退援護に当ります。
10月、師團は第十五軍(片村四八中将)隷下となりマンダレーに転進、昭和20(1945)1月11日、攻勢を強める英印軍を食い止めるべくイラワジ會戰(盤作戰)に参加します。
師團はタウンタ付近の陣地を占領、英印軍のメークテーラ方面への侵攻を阻止すべく横田聯隊長以下1個大隊(野砲6門)を配置します。
3月下旬、英印軍の侵攻に対し砲測襲撃、対戦車戦闘を実施し多数の敵戦車を擱座させますが、野砲を失った第七中隊は挺身斬込みを敢行し玉砕、生存者は敵の包囲を突破してヤナウンに転進します。
3月29日、克作戰、5月18日、シッタン作戰に参加、カイウエ付近に陣地を構築し友軍の渡河支援に当り、英印軍との戦闘を交える中で停戦を迎えました。


迫撃第二百十六聯隊(比叡一〇二五六)
昭和20(1945)年5月17日、編成完結(幡川錬治大佐)、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」(4月2日)により4月30日に新設された機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、兵團文字符:比叡、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である熊本平野に展開、宇土地区において作戦準備中に停戦を迎えます。


第三百十六師團噴進砲隊(山城二八二三〇)
昭和20(1945)年5月23日、編成完結、1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」(5月23日)により7月10日に新設された沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、兵團文字符:山城、京都)に隷属します。

編成完結後、師團の作戦地である神奈川県伊勢原に展開、茅ヶ崎地区において相模湾沿岸の防御陣地構築中に停戦を迎えます。

主要参考文献
・『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

・『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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No Title

詳しい捜索結果、ありがとうございます。
何も無い、それが重要な情報だと思います。

Re: No Title

性格的に「何かあるかもしれない」と気になり、歩きまわっては疲れるだけの事も多々ありますが、まれに掘り出し物を見つける事もあり、無ければ無いで納得できるので良いかなと思っています(笑)。

No Title

野砲第22連隊は祖父が参加していた連隊です。祖父は生還しましたが、戦死した方のお墓や慰霊碑の一部が京都、久御山町・森・観音寺に現存しています。

Re: No Title

コメント、ありがとうございます。
野砲第二十二聯隊はレイテ島で壮絶な戦闘を行い、玉採寸前で停戦を迎えた部隊だけに、聯隊を偲ぶ物が皆無なのは残念に思っていました。

観音寺に一度訪ねてみようと思います。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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