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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

野砲兵第二十二聯隊

京都府伏見区深草に野砲兵第二十二聯隊がありました。

兵営ではのちに野砲兵第百二十二聯隊、野砲兵第五十三聯隊、迫撃第二百十六聯隊、第三百十六師團噴進砲隊が編成されます。
野砲兵第二十二聯隊 イ境界石標 (2)(京都深草)
▲道路に遺る境界石標

【探索日時】
平成23年3月2日、平成26年1月7日

【改訂情報】
平成30年4月30日、体裁改正、遺構追加





第十六師團関連諸施設の配置
第十六師團司令部 第十六師團 現在位置のみ(京都深草)
▲現在の地図に施設を転写
① 第十六師團司令部
② 第十六師團兵器部
③ 第十六師團経理部 被服庫
④ 露天馬場
⑤ 第十六師團経理部 糧秣倉庫
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊
⑨ 騎兵第二十聯隊
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
⑪ 輜重兵第十六聯隊
⑫ 京都陸軍病院
⑬ 京都陸軍拘禁所
⑭ 京都偕行社
⑮ 師團長附当番兵宿舎
⑯ 第十六師團長官舎
⑰ 京都陸軍練兵場
⑱ 大亀谷陸軍練兵場
⑲ 配水場
⑳ 伏見陸軍射撃場
㉑ 京都陸軍射撃場
㉒ 京都憲兵隊
㉓ 京都陸軍墓地
A 師團街道
B 第一軍道
C 第二軍道
D 第三軍道
※名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、4月26日、深草村付近への師團設置が決定します。
第四師團経理部は随時用地を買収、既存の練兵場甲は騎兵営用地として臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月18日、野砲兵第二十二聯隊、30日、第十六師團司令部が大阪から移駐して来ます。

大正8(1919)年3月3日から大正10(1921)年4月27日、昭和4(1929)年3月22日から昭和6(1931)年4月9日、聯隊の滿洲駐箚、昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変出征に際し野砲兵第二十二聯隊留守隊が編成され、昭和13(1938)年5月15日、野砲兵第百二十二聯隊を編成(中支へ)します。

10月5日、聯隊のフィリピン出征に伴い野砲兵第五十三聯隊、昭和18(1943)年12月19日、同師團のビルマ出征に伴い野砲兵第五十三聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年4月1日、同補充隊は京都師管區砲兵補充隊に改編され、5月17日、迫撃第二百十六聯隊、23日、第三百十六師團噴進砲隊を編成し決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、同日、砲兵営も接収されます。

砲兵営は米第16通信中隊の兵舎に転用されたのち大蔵省に返還され、昭和23(1948)年、兵営北側の兵舎を転用し新制藤森中学が開校(のち区画整理により東側は青少年科学センター、青風幼稚園に)、南側の砲廠、厩舎地区は公務員住宅となり現在に至ります。

野砲兵第二十二聯隊 第十六師團 10(京都深草)
▲遺構の配置

ア 桃山城址記念石
青風幼稚園内に遺ります。
裏側に「明治四十一年十月十八日入本兵營」と刻字されており、聯隊が大阪から転営して来た日を記念して将校集会所付近に建立された様です。
野砲兵第二十二聯隊 ア桃山城址記念石(碑?)(京都深草)
▲表側

野砲兵第二十二聯隊 ア桃山城址記念石(碑?)裏(京都深草)
▲裏側

見学については直接幼稚園の方にお声掛け下さい。


イ 境界石標
師團街道から営門に続く道の入口、民家の壁際にあります。
この境界石標については軍跡探索の第一人者・祐実総軍二等兵様『戦争遺跡データベース』を参考にさせて頂きました。
野砲兵第二十二聯隊 イ境界石標 (2)(京都深草)
▲殆ど埋まっています

野砲兵第二十二聯隊 イ境界石標(京都深草)
▲近影
  辛うじて「陸」の刻字が見えます


ウ 板塀支柱
兵営南側を流れる小川沿いにコンクリート製の支柱が遺ります。
野砲兵第二十二聯隊 ウ板塀支柱 (2)(京都深草)
▲板塀を差し込んだ穴があります


エ 板塀支柱
同上。
野砲兵第二十二聯隊 エ板塀支柱 東側(京都深草)

野砲兵第二十二聯隊 エ板塀支柱 西側(京都深草)
▲分かりにくいですが3本あります



衛戍・編成部隊
野砲兵第二十二聯隊(垣六五五八、中部第四十部隊)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

明治38(1905)年7月18日、野戰砲兵第六大隊補充中隊(熊本)において野戰砲兵第二十二聯隊が編成(庄司四郎中佐され)、臨時動員された第十六師團(山中信儀中将)隷下に編入されます。

8月10日、師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され大阪を出発、15日、逐次宇品港を出航、大連に上陸、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。

10月18日、師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入、滿洲の警備にあたり、明治40(1906)年3月、逐次大阪府下の天王寺の旧俘虜収容所の仮兵営に帰還します。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い野砲兵第二十二聯隊に改称、18日、深草村の新兵営に転営します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團(梨本宮守正王中将)に滿洲駐箚が下令、4月20日、師團とともに大阪港を出航、26日、遼陽の警備にあたります。

大正10(1921)年4月15日、師團に帰国が下令され、21日、大連に集結、27日、京都に帰還します。

昭和4(1929)年3月22日、師團とともに滿洲に駐箚し遼陽の警備にあたり、昭和6(1931)年4月9日、京都に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、京都を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に集結し關東軍司令部(菱刈隆大将)の指揮下に入ります。
9月4日、斉斉哈爾に移駐し警備にあたり、昭和11(1936)年7月、任務を終了し京都に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入され、27日、聯隊に動員下令、5日、動員完結し、9月9日、京都を出発、大阪港に集結し、15日、塘沽に上陸、13日、北寧鉄道に沿って天津に集結、16日、子牙河沿岸、石家荘などの戦いに参加、11月9日、大連に上陸、12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、13日、大連を出航、15日、中支長江岸徐六口に上陸し、15日、常熟、26日、無錫を攻略、丹陽、句陽道を進撃します。

12月1日、大本營は南京攻略を下令、10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、師團は南京城中山門の攻撃を開始、12日、歩三十三が南京城東側の要地・紫金山を攻略、13日0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、13日、南京に入城し城内の残敵、便衣兵掃討にあたり、17日、入城式が挙行され周辺の残敵掃討、警備にあたります。

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月26日、鎮江を出発、30日、大連に上陸、2月7日、順徳に移駐し、3月2日、同地周辺の粛正、臨清付近の警備にあたります。

4月23日、臨清を出発、5月2日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、18日、徐州の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加するも蒋介石軍は我が軍の間隙を突いて撤退、21日、帰徳付近で敗走する支那軍を砲撃します。

6月7日、尉氏付近に屯営、12日、支那軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流したため、黄河氾濫地帯において被災民救助にあたり、25日、安庄に移駐、7月6日、邸閣南方地区の戦闘に参加します。

7月15日、師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、9月8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦を実施します。

12月9日、第二軍の内地帰還に伴い師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、孝感に移駐、昭和14(1939)年2月23日、安陸攻略戦に参加後、漢水東方地区の警備にあたり、4月30日、

第十一軍の襄東會戦に参加、天門付近の戦闘に参加、5月29日、徳安、孝感付近の警備にあたるなか、7月11日、師團に復員が下令、14日、師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、8月1日、長江を出発、4日、上海を出航、8月10日、宇品に上陸し京都に凱旋します。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに、常設師團のうち第一、第八、第九、第十、第十一、第十二、第十四、第十六師團の8個師團を滿洲永久駐屯師團に定めます。

昭和16(1941)年、当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航、9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。

9月16日、第十六師團に臨時編成下令、聯隊は輓馬から自動車に改編、25日、師團に動員が下令、10月3日、動員完結(伊藤章大佐)、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将)、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将)とともに比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

11月26日、聯隊は京都を出発し大阪港に集結、12月3日、奄美大島に上陸、17日、大島を出航、12月8日、第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸、第一航空艦隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)により大東亜戦争が開戦します。

同日、第五飛行集團(小畑英良中将)、海軍第十一航空艦隊(塚原二四三中将)により敵飛行場、航空機の無力化に成功、24日0240、第十六師團はラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつタヤバス山系を突破しマニラに進撃、昭和17(1942)年1月1日、村部隊(歩二十第一大隊(木村三雄中佐))はマニラ市街地に突入(一番乗り)、2日、第十四軍はマニラを攻略します。

4日、聯隊はマニラに入城、サントトマス-リバ間の警備にあたります。

1月9日、歩兵第六十五旅團(第九聯隊を配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地、激烈な砲撃、逆襲に阻まれ進撃は遅滞、13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令します。

師團は歩二十(第一大隊欠)を基幹とし木村支隊を編成、15日、支隊はマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け進撃は遅滞、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

25日、第十四軍は第十六師團主力にバターン半島攻略を下令、26日、歩兵第六十五旅團は敵第二線陣地に進撃しますが、敵の包囲を受けた歩二十が玉砕寸前になるなど大損害を受け、2月7日、師團は歩二十に転進を下令、8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令、15日、歩二十は歩三十三に収容されます。
第一次バターン半島攻撃に際し聯隊は2月2日、師團直轄の臨時通信隊(田畑少尉)を抽出します。

4月3日、大本營からの増援(第四師團、永野支隊(第二十一師團歩六十二基幹))を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。

9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、バターン南端のマリベレスに突入、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。
5月7日、第四師團らがコレヒドール島を攻略、比島攻略戦は終了、聯隊は米比軍俘虜の後送にあたったのち、第十六師團は同島の警備にあたり、訓練、匪賊討伐を実施します。

フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、また当初米軍に敵対していた共産匪賊も現地華僑を通じ支那共産党の指示を受け米軍側に加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

昭和18(1943)年11月、第十四軍(黒田重徳中将)は師團(大場四平中将)にレイテ島の戡定を下令、歩二十をビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に編入、先遣隊として第一大隊がレイテ島南部マリトボックに、12月2日、聯隊主力がタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、聯隊(近藤嘉名男大佐)は第三大隊を残置、サマール島を経由し、13日、レイテ島に上陸、聯隊本部・主力をキリン、第一大隊(豊上正一少佐、第一中隊欠)を歩兵第三十三聯隊に配属しパロ北方、第六中隊(増田達郎中尉)を歩兵第九聯隊に配属しカトモン山-サンホセ間、第二大隊本部(前田長蔵少佐)・第四中隊(後藤佐武郎中尉)を歩兵第二十聯隊に配属してドラッグ、同じく第五中隊(中山誠一大尉)をリサール、同じく第一中隊(山内岩海中尉)をタラゴナに配置し陣地築城を開始します。

当初、大本營はルソン島決戦を策定していましたが、10月12~16日の臺灣沖航空戰の結果(所謂幻の大戦果)を受け、海空の援護のない敵上陸部隊を殲滅する好機とし第十四方面軍司令官・山下大将の反対意見を退けレイテ島決戦を決定します。

10月17日、米軍(D・マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、18日、艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁した米軍がレイテ湾口に侵入、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。

19日1200、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇でサンホセ海岸に接近、敵の上陸と誤認した第一大隊は射程500mまで引き付け一斉に射撃を開始、舟艇を撃破しますが火点を暴露してしまいます。

20日0600、米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がタクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始、第一大隊は艦砲射撃により約半数の火砲を破壊されますが、米第19歩兵連隊の上陸用舟艇を第4波までやり過ごし、第5波が海岸に達着すると火点を集中し、零距離射撃により上陸用舟艇4隻を撃破するなど歩三十三とともに、またドラッグの敵上陸正面にあった第二大隊本部・第四中隊も歩二十とともに水際陣地に拠り敵上陸部隊を迎撃、それぞれ相当の戦果を挙げますが、圧倒的な兵力、火力、物量を誇る敵の攻撃に通信線が寸断され状況の把握、命令伝達ができないまま各地で大損害を受けてしまいます。

21日、師團戦闘指揮所はサンタフェからダガミに移駐、22日、パロを失陥、牧野中将は各部隊に内陸部の第二線陣地への転進を下令しますが、敵は急速に浸透、23日にはタクロバン、カトモン山西側に敵が侵攻、23日、パロ付近で歩三十三聯隊長・鈴木大佐が自決、ホリタで歩二十聯隊長・鉾田大佐が散華、聯隊各中隊は火力戦闘を継続しつつダガミに転進します。

24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊がブラウエン地区に侵入、25日、ドラッグを失陥、第一線・第二線陣地を失陥した師團は脊梁山地東麓のサンタフェ-バストラナ-ダガミ-ブラウエン飛行場周辺の線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行し防戦にあたりますが敵の侵攻を拒止する事は能わず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、残存の野砲2門も遂に破壊され生存者約300名は徒歩部隊化、師團司令部とともには脊梁山地に転進し防戦にあたります(師團戦力は3,000名程(2/3は傷病兵))が、同日、歩三十三が玉砕、11月、工十六が玉砕、この頃には第十六師團の防衛線は寸断されてしまいます。

米軍は断続的に戦力を増強、一方我が軍は10月31日、第一師團(片岡薫中将)が無傷でオルモック湾に上陸(第一次多號作戦)、その後も多號作戦は続行され増援兵力は最大75,000名に達しますが、敵制空権下の強行輸送により海上で人員、兵器、物資が大損害を受け戦力的には低下していきます。

第三十五軍は増援兵力、物資の海上補給路を確保すべく敵占領下の飛行場制圧を企図、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團混成部隊(11月末時点総兵力2,030名、内歩兵1,400名)は歩兵第九聯隊長・神谷大佐の指揮のもとブラウエン飛行場に進撃(和號作戰)、一時飛行場の制圧に成功しますが、7日、米第77歩兵師団が西海岸のオルモック(第十六師團の背後)に上陸、8日、態勢を建て直した敵の包囲攻撃を受け歩九・神谷大佐が散華、11日、師團は敵中に孤立し作戦は中止され、敵の重囲を突破し脊梁山地に転進します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を下令、第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に集結させ、持久態勢に移行します。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島への転進(地號作戰)を下令、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、1月20日、敵の妨害により稼働舟艇が払底し作戦は停止、以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月23日、ロビ山中から第十六師團(牧野中将以下80名)が歓喜峰に到着します。

レイテ島は補給が途絶、師團は悪疫の蔓延する中で追撃の米軍、匪賊と交戦、7月15日、シラド湾東方地区において牧野中将、聯隊長・近藤大佐が散華、9月3日、第十四方面軍司令官・山下大将がD.マッカーサー大将との降伏調印式に臨みます。


野砲兵第百二十二聯隊(嵐六二二二)
昭和13(1938)年5月15日、野砲兵第二十二聯隊留守隊に野砲兵第百二十二聯隊の臨時編成下令、26日、編成完結(桑原荒一郎中佐)、第百十六師團(清水喜重予備役中将)隷下に編入されます。

6月19日、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入され、同日、大阪港を出港、24日、聯隊本部・第二大隊、26日、第一大隊、聯隊段列が上海に上陸、8月22日、第二大隊は第二十二師團に配属され杭州の警備にあたり、26日、第一大隊は萩港付近の戦闘に参加、28日、聯隊本部、第三大隊は南京に移駐します。

9月9日、第一大隊は大通付近の戦闘に参加、13日、第二大隊は南京に移駐、16日、第三大隊は石原支隊(歩兵第百十九旅團長:石原常太郎少将、歩兵第百二十、百三十三の歩兵4個大隊基幹)に配属され、10月16日、石原支隊は武漢作戰に参加、(単斤)春付近に上陸し黄白城付近の戦闘を経て漢口攻略戦に参加します(11月5日、師團に復帰)。

12月8日、聯隊本部、第一大隊、昭和14(1939)年1月8日、第二大隊は安慶に移駐、9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。
12月16日、支那軍10個師が揚子江を遮断すべく冬季攻勢により大通に侵攻、師團は第百一、第百六師團とともに激戦ののち支那軍を撃破(長江岸冬期作戦)します。

昭和15(1940)年3月16日、第二大隊は第二次香口南方地区戦闘に参加、4月18日、第一・第三大隊は春季皖南作戦、11月17日、聯隊本部・第二大隊は北部潯陽作戦に参加します。

昭和17(1942)年11月18日、第三大隊は安慶に移駐、昭和18(1943)年5月16日、第三大隊は廣竹園に移駐、10月1日、聯隊は滿洲事変時に鹵獲した山砲を装備した臨時山砲兵大隊を編成し常徳作戰に参加、羅家嶺付近の討伐にあたります(19年1月まで)。

昭和19(1944)年2月15日、獨立山砲兵第五聯隊から山砲18門を受領し編制更改、山砲3個大隊に改編されます。

4月22日、一號作戦(大陸打通作戰)第二段のト號作戦(湘桂作戰)に参加、敵飛行場覆滅を企図、岳州より南下し長沙に進撃(第四次長沙會戰)し、6月16日、長沙の攻撃を開始、18日、長沙を攻略します。
続いて衡陽に進撃、30日、衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那第一〇軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第一〇軍を降伏させ衝陽を攻略しますが弾薬不足に悩まされ、また火砲の半数が損傷してしまいます。

8月下旬、聯隊は師團の測背援護にあたりつつ火砲の補給を受け、山砲2個大隊、野砲1個大隊に改編、機動力と山岳戦に即応する編成となります。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戦(シ-草冠に止-江作戦)に参加、師團は第二十軍の基幹師團として雪峯山系を踏破、沅江河畔に進撃するも米軍の空襲、米式装備の支那軍の抵抗を受け作戰は中止、5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月、宝慶に帰還します。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、戦闘行動を停止します。

25日、聯隊に復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結、4日、武装解除され、昭和21(1946)年4月29日、孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出港、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。


野砲兵第五十三聯隊(安一〇〇二七、中部第四十部隊/中部第百四十部隊)
昭和16(1941)年10月1日、野砲兵第二十二聯隊に野砲兵第五十三聯隊の編成が下令、5日、編制完結(湯屋繁治大佐)し第五十三師團(馬場正郎中将)隷下に編入されます。

昭和18(1943)年11月19日、臨時動員下令、12月13日、動員完結(高見量太郎大佐)、25日、師團は南方軍の直轄となり、12月28日、第一大隊は歩百二十八主力・工兵五十三第一中隊・輜重兵五十三・師團衛生隊1/3・同防疫給水部1/4・病馬廠とともに師團第二梯団として門司を出航、昭和19(1944)年2月2日、サイゴンに上陸します。

聯隊本部・第二大隊・第三大隊は高師ヶ原陸軍演習場(豊橋)、次いで饗庭野陸軍演習場(滋賀)において訓練にあたり、3月6日、聯隊本部・第二大隊・第六中隊は歩百十九第二大隊・歩百五十一・捜索五十三・師團衛生隊主力・同第一・第二・第四野戦病院・同防疫給水部主力とともに師團第四梯団として宇品を出航、4月16日、昭南に上陸します。

同日、先行の第一大隊はビルマ・ペグーに到着、「レド公路」(蒋援ルート:レド-ミイトキーナ-昆明)の打通を企図し北部ビルマ一帯に降下した英ウィンゲート空挺部隊の殲滅を下令された師團とともにモールに北上したため、聯隊長・高見大佐は戦闘指導のため飛行機にて大隊を追求します。

第三大隊(川北松男少佐)・第七中隊は師團第五梯団として8月18日、出航しますが、比島沖で輸送船が被雷沈没、生存者はルソン島に上陸、第十四軍(山下奉文大将)隷下の第百五師團歩兵第八十二旅團(河嶋修少将)司令部指揮下に編入(のち同師團第八十一旅團司令部指揮下に編入)されルソン島の守備にあたります。

4月29日、聯隊長・高見大佐は第一大隊を掌握、5月2日、師團とともにインドウに集結、10日、モールで英空挺部隊を撃退、14日、付近の高射砲、高射機関砲1個中隊を指揮下に編入されポピン北方地区に陣地占領し歩百二十八の攻撃を援護、続いて歩百五十一第二大隊を指揮下に編入され高見支隊を編成、ナンモンを攻撃します。

25日、師團は米軍侵攻中のミイトキーナ増援のためメムクインからイラワジ川沿いに北上、29日、聯隊はミイトキーナ包囲中の米軍攻撃を準備しますが、支那新編第一軍が師團後方のフーコン、モガウンで米支軍拒止にあたる第十八師團(田中新一中将、久留米)の側背・カマイン方面に侵攻、補給路遮断にかかったため、6月10日、軍はミイトキーナ攻撃を中止し師團に第十八師團救援を下令、師團(第四中隊は芒市に派遣され第五十六師團指揮下に編入)はモガウン西方、南方に進出し支那軍を撃破、第十八師團の側背を援護、同師團のラシオへの転進援護にあたります。

20日、米支軍は師團への攻勢を激化、26日、師團後方の陣地偵察に向かった聯隊長・高見大佐がパホク南方4㎞ 付近で敵機の爆撃を受け頭部を負傷、師團第二野戦病院に入院してしまいます(8月4日、横田武夫中佐着任)。

7月5日、聯隊はタウニー北方地区に陣地占領し敵の侵攻拒止にあたりますが、攻勢は激化、損害が増加するに及び、7月下旬、サーモ付近の第一大隊の戦闘を援護しつつ、ホピンに転進を開始、9月上旬、モーハン、次いでピンウエに集結、聯隊は残存野砲1門により臨時野砲中隊を編成、他の将兵は輸送隊(第二大隊長・渡邉少佐指揮)として重材料、弾薬のマンダレー付近への後送にあたりますが、悪天候によりマラリアが蔓延、各歩兵聯隊より50名づつの配属を受けます。
10月5日、敵がピンウエに侵攻、聯隊は歩兵の防御戦闘に協力、中隊長・伊藤中尉が散華するなど損害を受けますが、野砲1門ながら敵の侵攻を1ヶ月に渡り拒止、師團長・武田馨中将より賞詞を授与されます(断作戦)。

11月28日、師團はウ號作戦の中止に伴う英軍の侵攻を拒止すべく、マンダレーへの転進を下令され、聯隊はナバに前進し敵の侵攻を阻止、12月上旬、師團のマンダレー集結のためテジャインより水路イラワジ川を下航、シングーにおいて師團の重材料、弾薬を収容、昭和20(1945)年1月上旬、マンダレー南方のアマラプラに集結します。

10日、第十五師團正面のシングー付近に敵が渡河侵攻を指向して来たため、聯隊(野砲6門)は自動車機動によりシングーに前進、同地東側に陣地占領し付近の十五糎榴弾砲中隊を指揮下に編入、左砲兵隊として敵の渡河を阻止、2月上旬、メイクテーラ北方守備のためアマラプラ、次いでイワシエに移駐、14日、ミンムの第三十一師團援護のためミヨサ次いでガズンにに前進、第一大隊はガズンにおいて敵戦車数十両を撃破します。

敵は我が最左翼・パコックの第三十三師團正面に渡河を強行、ピンピンからメイクテーラに侵攻して来たため、2月24日、師團はミンヂャンに前進、タウンタ北方高地を占領し敵の侵攻を拒止します。
聯隊は付近の十糎加農砲中隊、十五糎榴弾砲中隊、十糎榴弾砲中隊、九〇式野砲中隊等を合わせて指揮、タウンタ付近において敵機甲部隊を迎撃、戦車数十両を撃破、擱座させ敵の侵攻を拒止しますが、ミンギャン方面から新手の敵戦車部隊が侵攻、聯隊は包囲され十糎榴弾砲の第七中隊長は最後の1門で残弾が尽きるまで砲戦を継続、中隊長・大森中尉は砲とともに散華、第三十三軍司令官・本田政材中将より感状が授与されるとともに中隊の勇戦は天聴に達します。

3月14日、第一大隊は第三十一師團の指揮下にキャウセ北方のニャングエ付近で敵の侵攻を拒止、28日、師團は第三十三軍指揮下に編入され転進命令を受領、同夜半、タウンタを離脱し、4月6日、マラインを経てヤナウン、21日、ピンマナにおいて山砲1門を受領、24日、シッタン川を渡河、5月中旬、ウイングンに陣地占領、20日、敵の侵攻を撃退し山砲兵第五十五聯隊の一部を指揮下に編入、ミーチョ付近の匪賊を掃討し第二十八軍の転進援護にあたるなか、停戦を迎えました。


迫撃第二百十六聯隊(比叡一〇二五六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、京都師管區砲兵補充隊に臨時動員下令、6月10日、動員完結(幡川錬治大佐)、4月30日、動員完結した機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、京都/第十六方面軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である熊本平野に移駐、宇土地区において軍道開設にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

因みに僕の祖父は停戦時、この部隊に所属していました(野砲兵第四聯隊(現役)→復員→迫撃第二百十六聯隊(臨時召集))。


第三百十六師團噴進砲隊(山城二八二三〇)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、京都師管區砲兵補充隊に臨時動員下令、8月15日、編成完結、7月10日、動員完結したした沿岸配備師團である第三百十六師團(柏徳中将、京都/第五十三軍戦闘序列)隷下に編入されます。

隊は師團の作戦地である神奈川県伊勢原に展開にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』 (平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

アジ歴各種史料
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No Title

詳しい捜索結果、ありがとうございます。
何も無い、それが重要な情報だと思います。

Re: No Title

性格的に「何かあるかもしれない」と気になり、歩きまわっては疲れるだけの事も多々ありますが、まれに掘り出し物を見つける事もあり、無ければ無いで納得できるので良いかなと思っています(笑)。

No Title

野砲第22連隊は祖父が参加していた連隊です。祖父は生還しましたが、戦死した方のお墓や慰霊碑の一部が京都、久御山町・森・観音寺に現存しています。

Re: No Title

コメント、ありがとうございます。
野砲第二十二聯隊はレイテ島で壮絶な戦闘を行い、玉採寸前で停戦を迎えた部隊だけに、聯隊を偲ぶ物が皆無なのは残念に思っていました。

観音寺に一度訪ねてみようと思います。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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