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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

輜重兵第十六聯隊

京都府伏見区深草に輜重兵第十六聯隊がありました。

兵営ではのちに輜重兵第百十六聯隊、輜重兵第五十三聯隊、第三百十六師團輜重隊が編成されます。
輜重兵第十六聯隊 ア南門門柱、哨舎、陸軍省所轄地(移転) (2)(京都深草)
▲京都教育大学内に移設されている南門門柱、歩哨舎、境界石標

【探索日時】
平成23年3月2日、平成26年1月7日、平成30年4月20日

【改訂情報】
平成30年4月30日、体裁改正、遺構追加





第十六師團関連諸施設の配置
第十六師團司令部 第十六師團 現在位置のみ(京都深草)
▲現在の地図に施設を転写
① 第十六師團司令部
② 第十六師團兵器部
③ 第十六師團経理部 被服庫
④ 露天馬場
⑤ 第十六師團経理部 糧秣倉庫
⑥ 第十九旅團司令部
⑦ 京都聯隊區司令部
⑧ 歩兵第九聯隊
⑨ 騎兵第二十聯隊
⑩ 野砲兵第二十二聯隊
⑪ 輜重兵第十六聯隊
⑫ 京都陸軍病院
⑬ 京都陸軍拘禁所
⑭ 京都偕行社
⑮ 師團長附当番兵宿舎
⑯ 第十六師團長官舎
⑰ 京都陸軍練兵場
⑱ 大亀谷陸軍練兵場
⑲ 配水場
⑳ 伏見陸軍射撃場
㉑ 京都陸軍射撃場
㉒ 京都憲兵隊
㉓ 京都陸軍墓地
A 師團街道
B 第一軍道
C 第二軍道
D 第三軍道
※名称は昭和16(1941)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑪ 輜重兵第十六聯隊
明治40(1906)年2月29日、陸軍省は京都府下に第十六師團の衛戍を決定、4月26日、深草村付近への師團設置が決定します。
第四師團経理部は随時用地を買収、既存の練兵場甲は騎兵営用地として臨時陸軍建築部大阪支部により施設が建設され、10月30日、第十六師團司令部、輜重兵第十六大隊が大阪から移駐して来ます。

大正8(1919)年3月3日から大正10(1921)年4月27日、昭和4(1929)年3月22日から昭和6(1931)年4月9日、大隊の滿洲駐箚において留守隊が編成されます。、

昭和11(1936)年6月1日、輜重兵第十六大隊から輜重兵第十六聯隊に改編します。

昭和12(1937)年8月25日から昭和14(1939)年8月22日、支那事変出征に際し輜重兵第十六聯隊留守隊が編成され、昭和13(1938)年5月15日、輜重兵第百十六聯隊を編成(中支へ)します。

10月5日、聯隊のフィリピン出征に伴い輜重兵第五十三聯隊、昭和18(1943)年12月19日、同師團のビルマ出征に伴い輜重兵第五十三聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年4月1日、同補充隊は京都師管區輜重兵補充隊に改編され、5月17日、第三百十六師團輜重隊を編成し決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、10月4日、輜重兵営も接収されます。

輜重兵営は米第990、第3143輜重隊の兵舎に転用されたのち大蔵省に返還(時期不明)され、昭和25(1950)年1月、京都市消防学校が南西隅に移転、昭和32(1957)年9月1日、京都学芸大学(昭和41年4月1日、京都教育大学に改称)が残りの敷地に移転、昭和41(1966)年、京都教育大学附属高校が京都教育大学内に移転、平成21(2009)年4月、京都市消防学校は転出し現在に至ります。

輜重兵第十六聯隊 輜重一六(京都深草)
▲兵営見取図(昭和14年頃)
  『私説 輜重兵第百十六聯隊誌』より

輜重兵第十六聯隊 第十六師團 現在11(京都深草)
▲遺構の配置

ア 建物
京都教育大学農場内に遺ります。
上掲の見取図によると輓馬具庫の付属建物の様です。
輜重兵第十六聯隊 ア挽馬具庫 南西から(京都深草)
▲全景

輜重兵第十六聯隊 ア挽馬具庫 北西から(京都深草)
▲南側の屋根は長くなっています

輜重兵第十六聯隊 ア挽馬具庫 天井(京都深草)
▲内部の洋小屋組

輜重兵第十六聯隊 ア挽馬具庫 天井 (2)(京都深草)
▲壁面は木造です


イ 南門門柱、歩哨舎、陸軍省所轄地
京都教育大学内に移設されています。
門柱と歩哨舎は元々ここにありましたが、京都市消防学校の移転に伴い現在地に移設されました。
輜重兵第十六聯隊 ア南門門柱(移転)(京都深草)
▲門扉は戦後の物の様です

輜重兵第十六聯隊 ア哨舎(移転)(京都深草)
▲歩哨舎

輜重兵第十六聯隊 ア陸軍省所轄地(移転)(京都深草)
▲境界石標
  輜重兵営外周の境界石標は「陸軍用地」なのに対し、移設されている物は「陸軍省所轄地」で、どこにあった物か不明

見学について事前に京都教育大学に問い合わせたところ、「ご自由にどうぞ」との事でした。


ウ 陸軍用(地?)
敷地外周の路地の角に遺ります。
下部は埋まっていますが、「地」と思われます。
輜重兵第十六聯隊 ウ陸軍用地(京都深草)


エ 陸軍(用地?)
敷地外周の民家横に遺ります。
下部は埋まっていますが、「用地」と思われます。
輜重兵第十六聯隊 エ陸軍用地(京都深草)

輜重兵第十六聯隊 エ奥の排水溝(京都深草)
▲境界石標奥の水路
  こちらの水路も当時のままと思われます


オ 営門両側の植樹
師団街道から営門に伸びる道路両側の植樹は当時のままの様です。
輜重兵第十六聯隊 オ営門前の並木(京都深草)

輜重兵第十六聯隊 輜重十六 営門 史料(京都深草)
▲輜重兵第十六聯隊 営門


衛戍・編成部隊
輜重兵第十六聯隊(垣六五六一、中部第四十三部隊)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團が臨時動員されます。

明治38(1905)年7月18日、輜重兵第十大隊補充中隊(姫路)において輜重兵第十六大隊が編成(庄司四郎中佐)、臨時動員された第十六師團(山中信儀中将)隷下に編入されます。


8月10日、師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され大阪を出発、15日、逐次宇品港を出航、大連に上陸、遼陽に集結しますが戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。

10月18日、師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入、滿洲の警備にあたり、明治40(1906)年3月、逐次大阪府下の浜寺の旧俘虜収容所の仮兵営に帰還します。

明治40(1907)年10月30日、深草村の新兵営に転営します。

大正8(1919)年3月3日、第十六師團(梨本宮守正王中将)に滿洲駐箚が下令、4月20日、師團とともに大阪港を出航、26日、遼陽の警備にあたります。

大正10(1921)年4月15日、師團に帰国が下令され、21日、大連に集結、27日、京都に帰還します。

昭和4(1929)年3月22日、師團とともに滿洲に駐箚し遼陽の警備にあたり、昭和6(1931)年4月9日、京都に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團(蒲穆中将)に滿洲駐箚が下令、4月3日、編成着手、7日、編成完結、11日、京都を出発し、大阪港を出航、新京・吉林に集結し關東軍司令部(菱刈隆大将)の指揮下に入ります。
9月4日、斉斉哈爾に移駐し警備にあたり、昭和11(1936)年7月、任務を終了し京都に帰還します。

昭和11(1936)年6月1日、軍令陸第四號により輜重兵第十六大隊から輜重兵第十六聯隊(柄澤畔夫中佐)に改編します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月25日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入され、27日、聯隊に動員下令、5日、動員完結し、9月9日、京都を出発、大阪港に集結し、15日、塘沽に上陸、13日、北寧鉄道に沿って天津に集結、16日、子牙河沿岸、石家荘などの戦いに参加、11月9日、大連に上陸、12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入、13日、大連を出航、15日、中支長江岸徐六口に上陸し、15日、常熟、26日、無錫を攻略、丹陽、句陽道を進撃します。

12月1日、大本營は南京攻略を下令、10日、中支那方面軍司令官・松井大将は支那国民政府軍首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、南京城の攻撃命令が下令されます。
10日、師團は南京城中山門の攻撃を開始、12日、歩三十三が南京城東側の要地・紫金山を攻略、13日0440、歩二十第八中隊は敵の激烈な攻撃を突破し中山門を攻略、同日、唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、13日、南京に入城し城内の残敵、便衣兵掃討にあたり、17日、入城式が挙行され周辺の残敵掃討、警備にあたります。

23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、昭和13(1938)年1月26日、鎮江を出発、30日、大連に上陸、2月7日、順徳に移駐し、3月2日、同地周辺の粛正、臨清付近の警備にあたります。

4月23日、臨清を出発、5月2日、徐州會戰に参加、25日、天津を経て津浦線を南下、29日、獅子山二百五十高地の敵陣を攻略、18日、徐州の要地・大狐山の敵陣を攻略、19日、徐州包囲に参加するも蒋介石軍は我が軍の間隙を突いて撤退してしまいます。

6月12日、支那軍が我が軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流したため、黄河氾濫地帯において被災民救助にあたり、25日、安庄に移駐、7月6日、邸閣南方地区の戦闘に参加します。

7月15日、師團(藤江恵輔中将)は再び第二軍に隷属転移、19日、武漢作戰に参加のため開封を経て蘭封に集結、9月8日、商城攻撃、16日、大別山系突破作戰、沙窩付近の戦闘、河口鎮、花園への追撃戦に参加します。

12月9日、第二軍の内地帰還に伴い師團は第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、昭和14(1939)年5月1日、第十一軍の襄東會戦に参加、7月11日、師團に復員が下令、14日、師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、漢口に集結、8月末、京都に凱旋します。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに、常設師團のうち第一、第八、第九、第十、第十一、第十二、第十四、第十六師團の8個師團を滿洲永久駐屯師團に定めます。

昭和16(1941)年、当時我が国は米国との関係が日に日に悪化、度重なる米国の強硬姿勢に和平交渉は難航、9月6日、我が国は『帝國國策遂行要綱』を策定、和平交渉と同時に戦争準備を開始します。

9月16日、第十六師團に臨時編成下令、聯隊は輓馬1個(第一)、自動車2個(第二・第三)中隊に改編、25日、師團に動員が下令、10月3日、動員完結(岸上又由中佐)、夏服が支給されます。

11月5日、政府は新『帝國國策遂行要綱』を策定し、和平交渉を続行しつつも自存自衛のため対米戦を決定、6日、第十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将)、歩兵第六十五旅團(奈良晃中将)とともに比島攻略任務の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入されます。

11月26日、聯隊は京都を出発し大阪港に集結、12月3日、奄美大島に上陸、17日、大島を出航、12月8日、第二十五軍(山下奉文中将)の馬来奇襲上陸、第一航空艦隊(南雲忠一中将)の布哇海戦(真珠湾攻撃)により大東亜戦争が開戦します。

同日、第五飛行集團(小畑英良中将)、海軍第十一航空艦隊(塚原二四三中将)により敵飛行場、航空機の無力化に成功、24日0240、第十六師團はラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつタヤバス山系を突破しマニラに進撃、昭和17(1942)年1月1日、村部隊(歩二十第一大隊(木村三雄中佐))はマニラ市街地に突入(一番乗り)、2日、第十四軍はマニラを攻略します。

4日、聯隊はマニラに入城、爾後周辺の警備、匪賊討伐にあたります。
フィリピンは米国植民地時代より共産匪賊が跋扈、米軍は降伏直前に親米匪賊、米軍指揮の匪賊に徹底抗戦を命令したため各地に米式装備の強力な匪賊集団が拠点を構え、また当初米軍に敵対していた共産匪賊も現地華僑を通じ支那共産党の指示を受け米軍側に加わりその総数は約5,000と言われ、我が軍にとり看過できない物でした。

1月9日、歩兵第六十五旅團(第九聯隊を配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍に攻撃を開始しますが、敵の頑強な陣地、激烈な砲撃、逆襲に阻まれ進撃は遅滞、13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令します。

師團(捜砲、野砲兵、輜重兵はルソン島に残置)は歩二十(第一大隊欠)を基幹とし木村支隊を編成、15日、支隊はマニラを出発、16日、オロンガポに集結、18日、モロンに到着、19日、歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受け進撃は遅滞、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

25日、第十四軍は第十六師團主力にバターン半島攻略を下令、26日、歩兵第六十五旅團は敵第二線陣地に進撃しますが、敵の包囲を受けた歩二十が玉砕寸前になるなど大損害を受け、2月7日、師團は歩二十に転進を下令、8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令、15日、歩二十は歩三十三に収容されます。

4月3日、大本營からの増援(第四師團、永野支隊(第二十一師團歩六十二基幹))を受け第二次バターン攻撃を開始、第十六師團は敵第一線陣地攻略の歩兵第六十五旅團・増援の第四師團(北野憲造中将、大阪)に続き、損害が出るであろう第一線部隊に代わり第二線陣地攻略を担当しますが、敵は1月の籠城で食料・弾薬欠乏に加えマラリヤの蔓延で士気が低下、第一線部隊は難なく敵陣を突破したため、第十六師團は予定を変更し戦果拡大にあたります。

9日夜、第十六師團は第四師團に続きリマイ山西麓から南下、バターン南端のマリベレスに突入、遂に米比軍指揮官キング少将は降伏します。

昭和18(1943)年11月、第十四軍(黒田重徳中将)は師團(大場四平中将)にレイテ島の戡定を下令、歩二十をビサヤ諸島警備の任にあった獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)の指揮下に編入、先遣隊として第一大隊がレイテ島南部マリトボックに、12月2日、聯隊主力がタクロバンに上陸し、付近の警備・匪賊討伐にあたります。

昭和19(1944)年4月5日、第十四軍は第十六師團(牧野四郎中将)にレイテ島進出を下令、聯隊(牧野文一中佐)は第二中隊(木村實海大尉・自動車)を先遣、サマール島を経由し、13日、中隊はレイテ島に上陸、師團隷下各部隊間の輸送にあたります。

5月、大本營は第十一號作戰準備により逐次比島方面の防備強化、及び戦力を整備、6月15日、第十六歩兵團司令部が復帰、7月28日、第十四軍は第十四方面軍(黒田重徳中将、9月26日から山下奉文大将)に改編、8月4日、隷下に第三十五軍(鈴木宗作中将、セブ。主力:ミンダナオ島)が臨時編成され、第十六師團は第三十師團とおもに第三十五軍戦闘序列に編入されます。

7月7日、絶対国防圏の要所・サイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、大本營はフィリピン、8月24日、大本營は来寇する米軍を比島、台湾、南西諸島、本土の海洋線を決戦場とし陸海軍共同で撃滅し戦争終結の発端を企図すべく『陸海軍爾後ノ作戰指導大綱』(26日、「捷號作戰」と呼称)を策定、作戦準備を発令します。

19日1200、艦砲射撃の支援のもと米軍の水中破壊班が上陸用舟艇でサンホセ海岸に接近、敵の上陸と誤認した野砲兵第二十二聯隊第一大隊は零距離射撃で舟艇を撃破しますが火点を暴露してしまいます。
同日、師團戦闘指揮所をタクロバンから南西15kmのサンタフェに移動します。

20日0600、米軍は6隻の戦艦を中心に艦砲射撃を開始、1000、艦砲射撃の支援のもと第10軍団第24師団(アービング少将)と第1騎兵師団(マッジ少将)がタクロバンに、第24軍団第7師団(アーノルド少将)と第96師団(ブラッドレー少将)がドラッグに上陸(約60,000名)を開始、ドラッグの敵上陸正面にあった歩二十、タクロバン方面のパロにあった歩三十三は水際陣地に拠り敵上陸部隊を迎撃、それぞれ相当の戦果を挙げますが、圧倒的な兵力、火力、物量を誇る敵の攻撃に各地で大損害を受けてしまいます。

21日、師團戦闘指揮所はサンタフェからダガミに移駐、22日、パロを失陥、牧野中将は各部隊に内陸部の第二線陣地への転進を下令しますが、敵は急速に浸透、23日にはタクロバン、カトモン山西側に侵攻、23日、パロ付近で歩三十三聯隊長・鈴木大佐が自決、ホリタで歩二十聯隊長・鉾田大佐が散華してしまいます。

24日、戦車約40両を先頭に米軍2個大隊がブラウエン地区に侵入、25日、ドラッグを失陥、第一線・第二線陣地を失陥した師團は脊梁山地東麓のサンタフェ-バストラナ-ダガミ-ブラウエン飛行場周辺の線で防衛線を展開する一方、各地で夜襲を決行し防戦にあたりますが敵の侵攻を拒止する事は能わず、30日、敵第7師団第17連隊・第24師団第19連隊がダガミに侵攻、師團司令部は脊梁山地に転進し防戦にあたります(師團戦力は3,000名程(2/3は傷病兵))が、同日、歩三十三が玉砕、11月、工十六が玉砕、この頃には第十六師團の防衛線は寸断されてしまいます。

11月初旬、聯隊主力は多號作戦により海路で師團を追及しますが、マニラ湾外において第一中隊(佐藤暢一大尉・挽馬)を載せた輸送船が敵機の空襲を受け擱座、中隊は船舶部隊の救援を受けマニラに引き返し(昭和20年7月12日、内山兵站地區隊に編入され、ルソン島アンチボロで停戦)、聯隊主力はオルモックに上陸、脊梁山地・ロビ付近で師團に復帰します。

第三十五軍は増援兵力、物資の海上補給路を確保すべく敵占領下の飛行場制圧を企図、11月26日、台湾高砂族により編成された薫空挺隊の突入、さらに12月5日、空挺部隊による挺進攻撃(テ號作戰)に呼応し第二十六師團(山県栗花生中将)とともに第十六師團混成部隊(11月末時点総兵力2,030名、内歩兵1,400名)は歩兵第九聯隊長・神谷大佐の指揮のもとブラウエン飛行場に進撃(和號作戰)、一時飛行場の制圧に成功しますが、7日、米第77歩兵師団が西海岸のオルモック(第十六師團の背後)に上陸、8日、態勢を建て直した敵の包囲攻撃を受け歩九・神谷大佐が散華、11日、師團は敵中に孤立し作戦は中止され、敵の重囲を突破し脊梁山地に転進します。

12月25日 大本營と南方軍は第三十五軍の持久作戦への転換を認可、第十四方面軍は第三十五軍に自活自戦を下令、第三十五軍は隷下部隊をレイテ島西部の歓喜峰(カンキボット)に集結させ、持久態勢に移行します。

昭和20(1945)年1月中旬、鈴木中将は残存部隊を大発等小型舟艇によりセブ島への転進(地號作戰)を下令、第一師團を中心に約800名が転進に成功するも、1月20日、敵の妨害により稼働舟艇が払底し作戦は停止、以後は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されます。

2月下旬、脊梁山地から第二十六師團が、3月23日、ロビ山中から第十六師團(牧野中将以下80名)が歓喜峰に到着します。

レイテ島は補給が途絶、師團は悪疫の蔓延する中で追撃の米軍、匪賊と交戦、7月15日、シラド湾東方地区において牧野中将、聯隊長・牧野中佐が散華、9月3日、第十四方面軍司令官・山下大将がD.マッカーサー大将との降伏調印式に臨みます。


輜重兵第百十六聯隊(嵐六二二七)
昭和13(1938)年5月15日、輜重兵第十六聯隊留守隊に輜重兵第百十六聯隊の臨時編成下令、27日、編成完結(岡田虎太郎中佐)、第百十六師團(清水喜重予備役中将)隷下に編入されます。
編制は挽馬4個中隊と馬廠1でした。

6月19日、師團は中支那派遣軍戦闘序列に編入され、同日、大阪港を出港、22日、上海に上陸、25日、杭州に移駐し同地の警備にあたります。

9月13日、安慶に移駐、長江沿岸の警備にあたり、18日、隷下の歩兵第百二十、百三十三、野砲兵第百二十二聯隊より歩兵4個・砲兵1個大隊を抽出し石原支隊(歩兵第百十九旅團長:石原常太郎少将)を編成、10月16日、石原支隊は武漢作戰に参加、[単斤]春付近に上陸し黄白城付近の戦闘を経て漢口攻略戦に参加します(11月5日、師團に復帰)。
12月8日、歩兵第百三十旅團(高橋為一郎少将)を基幹として大通南方地区作戦に参加します。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が廃止、支那派遣軍戦闘序列第十三軍(西尾寿造大将)に編入されます。
12月16日、支那軍10個師が揚子江を遮断すべく冬季攻勢により大通に侵攻、師團は第百一、第百六師團とともに激戦ののち支那軍を撃破(長江岸冬期作戦)します。

昭和15(1940)年4月4日、第十五師團の南陵繁昌地区進攻に策応し九華山を突破、青陽方面の支那軍を殲滅(春季皖南作戦)、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戦に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争開戦、24日、第十三軍の南京南方作戦に策応し皖浙作戦に参加します。

昭和17(1942)年4月30、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の敵飛行場撃滅を下令(浙贛作戦)、師團は歩兵第百十九旅團を守備に残置、第十三軍の最右翼として建徳、蘭谿を進撃、衡州城を攻略し同飛行場を破壊、次いで玉名に進撃、9月30日、作戦を終了し南京、安慶の守備にあたり、12月21日、第十一軍に策応し大別山作戦に参加、歩兵第百十九旅團が桐城潜山の支那軍を撃破します。

昭和18(1943)年10月1日、常徳殲滅作戦に参加、5日、第十一軍の指揮下に編入され漢口付近に集結、沙市南方より常徳に進撃、11月下旬、常徳城を攻略し周辺の支那軍を撃破、昭和19(1944)年1月10日、武昌に集結し、同地の警備にあたります。

昭和19(1944)年2月10日、第百十六師團は第十一軍(横山勇中将)の戦闘序列に編入されます。
4月22日、一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戦(湘桂作戦)に参加、敵飛行場の制圧を企図し岳州に集結、新檣河を渡河し泊水湖畔株州付近で支那軍を撃破、続いて衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那第十軍(方先覚)の防御陣地に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、激戦ののち8月8日、ついに第一〇軍を降伏させ衝陽を攻略、宝慶西方に進撃し敵の退路を遮断、軍の宝慶攻略を容易にし、10月3日、湖南省宝慶に駐留します。

昭和19(1944)年12月1日、第百十六師團は第二十軍(坂西一良中将)の戦闘序列に編入されます。

昭和20(1945)年4月1日、湘西作戦(芷シ-草冠に止-江作戦)に参加、師團は第二十軍の中核として雪峯山系を踏破、藷迯]河畔に進撃するも5月上旬、反転命令を受け追撃してきた10倍超の支那軍の重囲を突破し、6月10日、宝慶に到着します。

8月16日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し戦闘行動を停止、25日、復員下令、10月1日、湖南省岳陽県孫武付近に集結します。
4日、支那軍により武装解除され、昭和21(1946)年4月29日、孫武出発、6月6日、上海到着、28日、上海出航(一部は20日)、7月6日、浦賀に上陸(一部は15日、佐世保に上陸)、25日、復員完結しました。


輜重兵第五十三聯隊(安一〇〇三二/中部第四十三部隊/中部第百四十三部隊)
昭和16(1941)年10月1日、輜重兵第十六聯隊に輜重兵第五十三聯隊の編成が下令、5日、編制完結(川上不二夫大佐)し、第五十三師團(馬場正郎中将)隷下に編入されます。

昭和18(1943)年12月1日、臨時動員下令、13日、動員完結(高見量太郎大佐)、25日、師團は南方軍の直轄となり、29日、聯隊主力は師團第二梯団として門司出発、昭和19(1944)年1月3日、上海に上陸、1月16日、第二中隊主力は同第一梯団に移乗、上海を出航、2月10日、サイゴンに上陸、同日、第一中隊主力は同第二梯団に移乗し上海を出航、3月1日、サイゴンに上陸、2月26日、聯隊本部・第三中隊は上海を出航、3月14日、サイゴンに上陸、16日、聯隊はサイゴン、次いでバンコクに集結します。
27日、ビルマ・ラングーン付近への前進を下令された師團進路の偵察、補修にあたります。

連合軍は「レド公路」(蒋援ルート:レド-ミイトキーナ-昆明)の打通を企図し、英ウィンゲート空挺部隊が北部ビルマ一帯に降下、師團はモール付近の敵空挺部隊の殲滅を下令され、5月2日、インドウに集結、10日、モールにおいて英軍を撃退、19日、ポピンに移駐、アナクインを攻略します。
25日、米支軍侵攻中のミイトキーナ増援のためメムクインからイラワジ川沿いに北上、29日、同地南方5kmの七一五橋梁付近に達し米支軍攻撃を準備しますが、支那新編第一軍が師團後方のフーコン、モガウンで米支軍拒止にあたる第十八師團の側背・カマイン方面に侵攻、補給路遮断にかかったため、6月10日、軍はミイトキーナ攻撃を中止、師團に転進を下令、モウガンに進出し第十八師團の側背を援護、同師團のラシオ沿線方面への転進援護にあたります。
20日、米支軍は師團への攻勢を激化、損害が増加するに及びサーモ、タウニー地区に転進、蒋援ルート遮断にあたります。
7月26日、師團は敵の追撃を受けつつ同地を出発、8月5日、ピンポウ、ホーピンに到着、9月10日、モーハンに転進しますが、敵の包囲攻撃を受けるに至り、10月25日、ピンウエに転進し米支軍の拒止にあたります。

10月5日、師團は第十五軍指揮下に編入、11月28日、ウ號作戦の中止に伴う英軍の侵攻を拒止すべく、マンダレーへの転進を下令され、12月10日、イラワジ川、メザ河を渡河、昭和20(1945)年1月上旬、キャウセ-マンダレー間に集結します。

6日、師團の転進に伴い聯隊は兵器・資材の後送にあたりつつ南下しマンダレーに集結、師團作戦地のコッコー付近に北上、マンダレー-コッコー間の補給にあたり、第一中隊はハーミンボーに位置し師團の残置資材の後送にあたります。

10日、第十五師團正面のシングー付近に敵が渡河侵攻を指向して来たため、マダヤ付近に前進、第十五師團のタベイキン方面進出に伴いシングー付近の守備を継承、14日、敵が渡河を開始、師團は敵の侵攻拒止にあたりますが戦線は各地で突破されてしまい、2月1日、軍命により再び第十五師團に守備を移譲、8日、キャウセ、ハミンボンに移駐、軍の機動予備兵団に指定されます。
聯隊はサヨサ付近に弾薬交付所を開設、20日、第二中隊は第二輸送司令部の指揮下に編入され、メイクテーラ付近の集結地輸送にあたります。

2月13日、敵主力と対峙する第三十一師團の増援のためミヨサに集結しますが、突如敵は我が最左翼・パコックの第三十三師團正面に渡河を強行、ピンピンからメイクテーラに侵攻して来たため、2月24日、師團はミンヂャンに前進、タウンタ北方高地を占領し敵の侵攻を拒止します。

24日、師團は聯隊に臨時歩兵中隊の編成を下令、26日、編制完結、中隊は師團直轄となりタウンタの戦闘指揮所に移動、聯隊主力はナトギーに前進しキャウセ-タウンタ間の物資集積、補給にあたります。
3月1日、敵は増援部隊、及び戦車を投入して来たため師團の損害は増加、6日、ミヨラが突破され敵戦車がナトギー東方20kmに侵攻、夜間行動中の第三中隊第二分隊が奇襲を受け自動車6台を焼失してしまいます。
聯隊主力はナトギーよりオボンドウに前進、引き続き第一源補給にあたります。

3月28日、師團は第三十三軍指揮下に編入され転進命令を受領、同夜半、タウンタを離脱、聯隊は師團の車両部隊を合わせて指揮、ヤメセンに転進南下中、ヤナウンにおいて敵戦車部隊の奇襲を受け師團司令部との連絡が途絶してしまいます。

4月14日、聯隊はピンマナに到着、師團との連絡を模索しつつ師團用に交付された火砲・弾薬の集積にあたり、16日、軍命令により聯隊長・緒方俊夫大佐はピンマナ防衛司令官として防御陣地の占領を指揮、集結する師團隷下部隊に武器弾薬を交付します。

21日、師團司令部がピンマナに到着し聯隊を掌握、24日、シッタン川を渡河、26日、トングーに集結、29日、第十八師團を先頭に第三十三軍司令部、第五十三師團、第四十九師團の順でシッタン川に沿って南下、5月15日、シッタン防衛計画に基づき師團はシッタン川左岸シエンジン-キャウカラ間の陣地を占領、20日、聯隊はピリンに師團後方連絡所を開設し主力をメヨンカレーに配置し同地-シビヨン間の輸送にあたります。
25日、聯隊は転進中の第二十八軍収容のため配属部隊を指揮し物資輸送にあたります。
7月2日、聯隊主力はドンセイ、クンザイクに前進、第二十八軍収容時の糧秣、被服、衛生材料の集積輸送にあたるなか、停戦を迎えました。


第二百十六師團輜重隊(比叡一〇二六一)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、京都師管區輜重兵補充隊に臨時動員下令、6月10日、動員完結(竹内一郎中佐)、4月30日、動員完結した機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将、京都/第十六方面軍戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である熊本平野に移駐、宇土地区において軍道開設にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』 (平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『私説 輜重兵第百十六聯隊誌』 (平成12年 佐藤又三)
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御無沙汰しております。
私が訪ねた昨年の6月には、境界石は哨舎の後ろに放置されていましたが、今はちゃんと展示されているのですね。良かった良かった。

お久しぶりです

Kan様のブログでは放置されてる感があったので、今後の状況が心配でしたが、しっかり「展示」されていて安心しました。
カタチはどうあれ保存されている事は良かったと思います。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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