当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所

京都府宇治市五ケ庄に所在する陸上自衛隊 宇治駐屯地、京都大学 宇治キャンパス、市立東宇治中学校、東宇治幼稚園は東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所の跡地にあります。
宇治製造所 36「第二脱脂工場」 北西から(京都宇治)
▲陸上自衛隊 宇治駐屯地に遺る第二脱脂工場

【探索日時】
平成20年10月5日、11月1日、平成22年10月30日、平成23年3月30日

【更新情報】
平成23年10月24日・・・写真追加、遺構追加、地図訂正
平成30年5月5日・・・遺構追加、記事分割





宇治市五ケ庄周辺の陸軍施設
宇治製造所 宇治 全体(京都宇治)
▲現在の地図に施設を転写
① 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
② 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 分工場
③ 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 射場
④ 芝東借上地
⑤ 木幡駅借上地
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
⑦ 高射砲陣地
※緑文字が当記事の紹介施設

要目・製造品目
① 宇治製造所
用地 : 706023.2㎡(213,572坪)
建物 : 461棟
製造品目 : 軍用の黒色火薬、茶褐薬(TNT)、民間用の狩猟用無煙火薬、鉱山用綿火薬など火薬の化成、成形

④ 芝東借上地
用地 : 13505㎡(4,085坪)
建物 : 10棟
用途 : 工員技能養成所として職工の教育養成


遺構について
① 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、陸軍省は火薬の需要急増に対応すべく、前線に近い西日本に4ヶ所目の火薬製造所新設を決定、11月1日、宇治火藥假製造所が開所、明治29(1896)年4月14日、正式に宇治火藥製造所が開所します。

昭和15(1940)年4月1日、東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所に改称します。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、10月10日、米軍に接収され、火薬、製造設備の処理の後、大蔵省に返還、現在は陸上自衛隊宇治駐屯地、京都大学宇治キャンパス、市立東宇治中学、東宇治幼稚園になっています。

宇治の陸軍施設は上級組織が度々改編、名称変更を行っているため、現在でも度々名称が混同されたりしており、宇治製造所は主に「宇治火薬製造所」と呼ばれている様です。


④ 芝東借上地
大東亜戦争停戦に伴い東宇治町に返還され、昭和22(1947)年5月3日、養成所教室を転用し1階に東宇治町役場、2階に東宇治中学校が開校します。
昭和26(1951)年3月1日、東宇治町は周辺自治体と合併し宇治市が発足、昭和37(1962)年10月、東宇治中学校は宇治製造所跡に移転、跡地は現在宇治病院になっています。

宇治製造所 宇治製造所(本工場)現在(京都宇治)
▲遺構の配置
1~60代・・・陸上自衛隊 宇治駐屯地(42除く)
70代・・・京都大学 宇治キャンパス
80代・・・民有
橙 : 明治期 25棟
黄 : 大正期 10棟
緑 : 昭和期 26棟
桃・水 : 不明 12棟

-陸上自衛隊 宇治駐屯地-
現在、駐屯地内には多数の建物が遺され、一部、増改築はされているものの、驚異的な保存状態で一部には当時の迷彩も残るなど質、量ともに他を圧倒する遺構群です。

見学については、毎年4月に2日間(桜祭り)、10月に1日(駐屯地創立記念行事)の合計3日間一般開放されます。
駐屯地内なので当然軍事機密もあり、立ち入り範囲は制限されますがかなりの建物の外観(一部は内部も)見学が可能です。
また事前連絡による個人見学も可能です。

明治期の建物
※施設名称は『東京第二陸軍造兵廠建物配置圖』(昭和17年3月作成)による

1 第一事務所
現在は半分が彰史館(資料館)として開放されているため、内部の見学も可能です。
宇治製造所 1「第一事務所」(彰史館) 南西から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 1「第一事務所」(彰史館) 玄関(京都宇治)
▲玄関

宇治製造所 1「第一事務所」(彰史館) 内部(京都宇治)
▲内部

彰史館は展示品こそ少ないですが幕末から現代にいたる宇治製造所、宇治駐屯地の歴史が明瞭簡潔に展示されています。
また、深草に所在した第十六師團関連の展示もあります。
宇治製造所 1 公式図(京都宇治)
▲『東京第二陸軍造兵廠建物配置圖』

宇治製造所 1 火薬製造所遺構(京都宇治)
▲宇治製造所で使用されていた鬼瓦

宇治製造所 1 火薬製造所 制水弁蓋(京都宇治)
▲宇治製造所で使用されていた制水弁蓋


イ 築山と池
陸軍時代のものです。
宇治製造所 イ「第一事務所」前の築山と池(京都宇治)

ウ 製造所五十周年記念碑
上記池の端にあり、昭和19年11月1日に建立されました。
宇治製造所 ウ「第一事務所」前の築山『五十周年記念碑(昭和十九年十一月一日)』 (京都宇治)


2 第一事務所
上記1と渡廊下で繋がっています。
宇治製造所 2「第一事務所」 南西から(京都宇治)
▲西側

宇治製造所 2「第一事務所」 南東から(京都宇治)
▲東側

宇治製造所 2西側にある標識(京都宇治)
第一事務所西側にある石標


3 第一事務所 
渡廊下で上記2と繋がっています。
宇治製造所 3「第一事務所」 南西から(京都宇治)


4 第一事務所
渡廊下で上記3と繋がっていますが、位置的に一般開放地区から見えません。


5 建物
『配置圖』の判読が不能です。
位置的に一般開放地区から見えません。


6 水槽棟
明治28(1895)年4月に竣工しました。
現在は展望塔として使用されています。
宇治製造所 6「水槽棟」 南から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 6「水槽棟」 南から (2)(京都宇治)
▲近影

宇治製造所 1 火薬製造所内使用のトロッコ(縮小模型)とレール (展)(京都宇治)
▲展望塔内にある軽便貨車模型(約3分の1)と軽便軌条(実物)
宇治製造所内で使用されていた貨車の模型です。
※平成20年撮影、現在は撮影禁止


7 事務所付属家
宇治製造所 7「事務所付属家」 西から(京都宇治)


8 第一圧延裁断工場
宇治製造所 8「第一圧延裁断工場」 北西から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 8「第一圧延裁断工場」 北側の壁(京都宇治)
▲近影
  壁は白く塗られていますが煉瓦です

キ 水溜
宇治製造所 キ「第一圧延裁断工場」西側の水溜(京都宇治)


9 第五號倉庫
宇治製造所 9「第五号倉庫」 南東から(京都宇治)

宇治製造所 9「第五号倉庫」 南東の換気口(京都宇治)
▲特徴的な換気口


10 第四號倉庫
宇治製造所 10「第四号倉庫」 南西から(京都宇治)
▲南側

宇治製造所 10「第四号倉庫」 北西から(京都宇治)
▲北側

ク 水溜
宇治製造所 ク「第四号倉庫」北側の水溜(京都宇治)


11 第二一號倉庫
宇治製造所 11「第二一号倉庫」、(奥13「第二四号倉庫」) 北西から(京都宇治)
▲奥は13第二四號倉庫


12 第二二號倉庫
宇治製造所 11「第二一号倉庫」(右)、12「第二二号倉庫」(左) 南西から(京都宇治)
▲奥は11第二一號倉庫


13 第二四号倉庫
宇治製造所 14「第二四号倉庫」(右)、13「第二三号倉庫」(左) 北西から(京都宇治)
▲右側は14第二三号倉庫


14 第二三号倉庫
宇治製造所 14「第二三号倉庫」 北西から(京都宇治)


15 第七號倉庫
宇治製造所 15「第七号倉庫」 南東から(京都宇治)


16 第八號倉庫
宇治製造所 16「第八号倉庫」 南西から(京都宇治)


17 棉工場
宇治製造所 17「棉工場」 南東から(京都宇治)
▲南側の煉瓦棟

宇治製造所 17「棉工場」(レンガ・木造ともに) 北東から(京都宇治)
▲南側の煉瓦棟(奥)と北側の木造棟(手前)


18 浴室
宇治製造所 18「浴室」 北西から(京都宇治)


19 機械工場
宇治製造所 19「機械工場」北から(京都宇治)
▲北から

宇治製造所 19「機械工場」南東から(京都宇治)
▲南東から

宇治製造所 19「機械工場」西側出っ張り 北西から(京都宇治)
▲西側の突き出た部分

ケ 陸軍省
境界石標が移設されていますが、元々どこにあった物か不明です。
宇治製造所 ケ「機械工場」東の「陸軍省」石標(京都宇治)


20 便所
宇治製造所 20「便所」 北西から(京都宇治)


21 煮洗裁断工場
一般開放地区外のため体験試乗で見学可能。
宇治製造所 21「煮洗裁断工場」 南西から(京都宇治)


22 発電所
一般開放地区外のため京大から、もしくは体験試乗で見学可能。
宇治製造所 22「発電所」 南東から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 22「発電所」 南西から(京都宇治)
▲近影


23 倉庫
宇治製造所 23「倉庫」 北西から(京都宇治)

コ 水溜


24 第一脱脂工場
宇治製造所 24「第一脱脂工場」 南東から(京都宇治)


25 ○○工場(○は判読不能、以下同様)
宇治製造所 25「○○工場」 北から(京都宇治)


大正期の建物
30 第八会食場
宇治製造所 30「第八会食場」 南東から(京都宇治)
▲ほぼ当時の姿でしたが・・・

宇治製造所 30改装されてしまった「第八会食場」 南東から(京都宇治)
▲最近、改装されてしまいました

シ 工員会食場 基礎
コンクリートの基礎のみ遺ります。
宇治製造所 シ「工員会食場」の基礎跡(京都宇治)


31 木造建物
『配置圖』に無く用途は不明です。
宇治製造所 31「用途不明(大正期)」(配置図に無し) 北東から(京都宇治)


32 捏和工場
一般開放地区外ですが、体験試乗で見学可能。
宇治製造所 32「捏和工場」 南東から(京都宇治)


33 圧延圧伸工場
下記34と同一規格の建物です。
一般開放地区外のため京大から、もしくは体験試乗で見学可能。
宇治製造所 33「圧延圧伸工場」 南東から(京都宇治)


34 圧延圧伸工場
一般開放地区外のため京大から、もしくは体験試乗で見学可能。
宇治製造所 34「圧延圧伸工場」 北東から(京都宇治)


35 工員浴室
工員浴室の両側には建物が接続していましたが、現在は撤去されて有りません。
一般開放地区外のため京大から、もしくは体験試乗で見学可能。
宇治製造所 35「工員浴室」、18「浴室」(奥) 南東から(京都宇治)
▲奥は18浴室


36 第二脱脂工場
宇治製造所 36「第二脱脂工場」 北西から(京都宇治)


37 修理工場
宇治製造所 37「修理工場」 南西から(京都宇治)


昭和期の建物
40 診療所
宇治製造所 40「診療所」 北西から(京都宇治)


41 病室
宇治製造所 41「病室」 南西から(京都宇治)


90 コンクリート建物
宇治駐屯地の敷地外にあり、みんなに転用されています(空家?)。
『配置圖』に記載が無く用途は不明ですが、41病室から渡り廊下で連結されいる事から病室、もしくは隔離病室と思われます。
宇治製造所 90「病室」 北東から(京都宇治)
▲外周から

宇治製造所 90「病室」 西から(京都宇治)
▲官舎地区から

L 水溜
宇治製造所 L「水溜」 南東から(京都宇治)


ア 通用門
宇治製造所開設時の表門で、のちに南側に新たに表門ができたため、通用門として使用されていました。
現在は塀の内側にあり閉鎖されています。
宇治製造所 ア旧正門(京都宇治)
▲内側から

宇治製造所 ア旧正門 北側門柱(京都宇治)
▲門扉に遺る蝶番

宇治製造所 41「病室」 南東付近の塀(京都宇治)
▲通用門周辺の塀


42 蓄電池室
一般開放地区外にあり、位置的に見えません。


43 第二事務所
宇治製造所 43「第二事務所」 南東から(京都宇治)


44 木造建物
『配置圖』の判読が不能です。
宇治製造所 44(判読不明)東から(京都宇治)


45 青写真室
宇治製造所 45「青写真室」 南東から(京都宇治)


46 回○掛場
宇治製造所 46「屯○掛場」 北西から(京都宇治)


47 木造建物
『配置圖』に無く、用途は不明です。
宇治製造所 47「用途不明(昭和期)」(配置図に無し) 北西から(京都宇治)


48 木造建物
『配置圖』に名称が無く、用途は不明です。
宇治製造所 48不明(記名なし) 北西から(京都宇治)


49 理化学試験場
下記50と同一規格の建物です。
宇治製造所 49「理化学試験場」 北東から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 49「理化学試験場」 北西から(京都宇治)
▲入口


50 理化学試験場
宇治製造所 50「理化学試験場」 南東から(京都宇治)

カ 水溜
宇治製造所 カ水槽(京都宇治)


51 混和乾燥工場
宇治製造所 51「混和乾燥工場」 北東から(京都宇治)
▲東側全景

宇治製造所 51「混和乾燥工場」 南西から(京都宇治)
▲西側近影

サ コンクリート柱
両側の建物際にあり、用途不明です。
宇治製造所 サ136-139間のコンクリート柱西側(京都宇治)
▲西側の柱

宇治製造所 サ136-139間のコンクリート柱東側(京都宇治)
▲東側の柱


52 合成填実工場
宇治製造所 52「合成填実工場」 北西から(京都宇治)
▲西側全景

宇治製造所 52「合成填実工場」 北東から(京都宇治)
▲東側近影


53 仕上工場
宇治製造所 53「仕上工場」 北東から(京都宇治)


55 乾空工場
宇治製造所 55「乾空工場」 北から(京都宇治)


56 仕上収缶工場
宇治製造所 56「仕上収缶工場」 北から(京都宇治)


57 乾燥工場
一般開放地区外ですが、外周道路から見学可能です。
宇治製造所 57「乾燥工場」 南西から(京都宇治)


58 炸薬収函工場
一般開放地区外ですが、外周道路から見学可能です。
宇治製造所 58「炸薬収函工場」 南東から(京都宇治)


59 乾燥工場
一般開放地区外ですが、外周道路から見学可能です。
宇治製造所 59「乾燥工場」 南東から(京都宇治)


60 乾燥工場土塁
宇治製造所 60「乾燥工場」 北東から(京都宇治)

宇治製造所 60「乾燥工場」隧道 北東から(京都宇治)
▲60乾燥工場土塁の入口


61 溜置場土塁
宇治製造所 61「溜置場」 北東から(京都宇治)


62 熔填工場土塁
位置的に一般開放地区から見えません。


63 溶融工場土塁
宇治製造所 63「溶融工場」土塁(京都宇治)


エ 殉職碑
昭和12(1937)年7月、第9代製造所長・中島敬太郎砲中佐により建立されました。
明治29(1896)年4月14日、の宇治製造所開所から昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦まで、及び残務整理中の殉職者奉祀しています。
宇治製造所 エ「殉職碑」と64「忠霊堂」 (2)(京都宇治)
▲殉職碑(手前)と忠霊堂(奥)

64 忠霊堂
上記、殉職碑に奉祀されている英霊の英姿が飾られています。
停戦後、荒れていましたが自衛隊駐屯後、隊員により修復され、現在も大切に奉祀されています。
宇治製造所 エ「殉職碑」と64「忠霊堂」(京都宇治)
▲忠霊堂(左)と殉職碑(右)


オ 北門
宇治駐屯地の北門として使用されています。
宇治製造所 オ北門(京都宇治)


-京都大学 宇治キャンパス-
状態は悪いものの建物6棟が遺されています。
見学については事前に京都大学宇治地区事務部総務課に連絡、送られてくる見学申請用紙を記入し許可を得てから立ち入って下さい。

70 第二豫乾燥工場
見学時はかなり状態が悪かったですが、近年耐震工事が施工されました。
宇治製造所 70「第二予乾燥工場」 南西から(京都宇治)
▲南側

宇治製造所 70「第二予乾燥工場」 北東から(京都宇治)
▲北側


71 第四豫乾燥工場
同上。
宇治製造所 71「第四予乾燥工場」 南西から(京都宇治)
▲南側

宇治製造所 71「第四予乾燥工場」 北西から(京都宇治)
▲北側


72 裁断工場
こちらも見学時はかなり状態が悪かったですが、近年改修されました。
残念ながら改修の際に壁全面に塗装されていた迷彩塗装が落とされてしまいました。
宇治製造所 72「裁断工場」 南西から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 72「裁断工場」 南西から (2)(京都宇治)
▲壁面に遺る迷彩塗装


73 浸洗室
平成20年の見学時には南側に殆ど崩壊した当時の物と思しき庇や電灯がありましたが、改修されていました。
宇治製造所 73「浸洗室」 北東から(京都宇治)
▲北側全景

宇治製造所 73「浸洗室」 南東から(京都宇治)
▲南側

北側に鉄製の槽の周囲を煉瓦で囲みコンクリートが塗らた油槽?があります。
宇治製造所 73「浸洗室」 北側の油槽? 南西から(京都宇治)
▲木が根付き煉瓦が崩落するなど、状態は最悪です


74 第二煮洗工場
宇治製造所 74「第二煮洗工場」 北西から(京都宇治)
▲北西から

宇治製造所 74「第二煮洗工場」 南東から(京都宇治)
▲南東から


75 倉庫
建物西側に煙突や排水設備があります。
宇治製造所 75「倉庫」 北東から(京都宇治)
▲全景

宇治製造所 75「倉庫」 北西から(京都宇治)
▲西側にある煙突


タ 軌条
京大北門は東側にあった大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠に向かう運搬軌条が出入りした鉄道門の跡にあります。
門扉のレール下に軽便鉄道の軌条4本が遺ります。
近年の改修で撤去されてしまいました。
京大内には他にも軽便軌条が遺っている様です。
宇治製造所 タ「鉄道門」軽便軌条(京都宇治)
▲門扉のレール下の右から4本が軽便軌条


チ レンガ積みの基礎?
京大北門を入った左側にあります。
単なる花壇?
宇治製造所 チ基礎?(京都宇治)


ツ 水槽
京大職員宿舎内に巾180x奥行180x高70㎝のコンクリート水槽が遺ります。
宇治製造所 ツ 南東隅の水槽(180x180x70)(京都宇治)


-外周に遺る遺構-
陸軍時代、製造所の外周は北門から正門、鉄道門から南東角まで混凝土塀(コンクリート塀)が建てられ、それ以外は全て生垣と鉄線柵で囲われていました。
現在も当時の混凝土塀は完存しており、鉄線柵は全てフェンスに代わっています。
宇治製造所 南東の塀(京都宇治)
▲南東端付近の混凝土塀

宇治製造所 東面の塀(京都宇治)
▲東側の混凝土塀

【境界石標】
A~Gは駐屯地南側の外周フェンスに沿ってあります。
A 陸軍省用地
宇治製造所 A陸軍省用地(京都宇治)

B 陸軍省用地
宇治製造所 B陸軍省用地(京都宇治)

C 陸軍省用地
宇治製造所 C陸軍省用地(京都宇治)

D 陸軍省所轄地
宇治製造所 C陸軍省用地・D陸軍省所轄地(京都宇治)

E 境界石標
欠損しており刻字は不明です。
宇治製造所 E無記名(京都宇治)

F 陸軍省所轄地
宇治製造所 F陸軍省所轄地(京都宇治)

G 大阪砲兵工廠所轄地
非常に珍しい境界石標ですが、倒れかけているため残念ながら肝心の刻字が見えにくいです。
宇治製造所 G大阪砲兵工廠所轄地(京都宇治)

H 陸軍用(地)
製造所北側の京阪電鉄線路沿いに遺ります。
この道路は陸軍時代は製造所の敷地内、戦後一般道化されました。
宇治製造所 H陸軍用(地)(京都宇治)

I  境界石標
ブロック塀に埋まっており、辛うじて頂部の境界方向表示が見える程度です。
宇治製造所 I(陸軍用地)(京都宇治)

J 境界石標
同上。
宇治製造所 J(陸軍用地)(京都宇治)

K 境界石標
同上。
宇治製造所 K(陸軍用地)(京都宇治)


東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 略歴
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、陸軍省は火薬の需要急増に対応すべく東京砲兵工廠 板橋火藥製造所(東京)、同目黒火藥製造所(東京)、同岩鼻火藥製造所(群馬)に加え、火薬原料の硫酸、硝酸が大阪から安定供給できる目処が付いた事もあり、前線に近い西日本に4ヶ所目の火薬製造所新設を決定します。

4月、建設班長として島川文八郎砲兵中佐が任命されます。

9月、郡長、村長、役場職員、尚武義會役員、地元名士等による誘致を受けた陸軍省は新設火薬製造所敵地として、明治8(1876)年に既に宇治火藥庫が設置されており、人家密集地から離れ、また宇治川の水運が利用できる事から、京都府宇治郡宇治村五ヶ庄を選定します。

陸軍省経理局は郡長、村長等の協力を得て各地主に対し用地買収条件として、法定地価の約2倍を提示したため、地主側も挙国一致で国難に当たるべき時とし僅か2日で50町歩(約15万坪)の用地の買収契約が成立、臨時陸軍建築部大阪支部により造成、建設が開始されます。

11月1日、宇治火藥「假」製造所が開所(石藤豐太陸軍技師)、砲兵第二方面本署内砲兵支廠の管下に編入され火薬の製造を開始します。

明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。

5月、宇治火藥製造所の建設工事(総工費630,000円)を本格的に開始、明治29(1896)年4月14日、陸相・元帥大山巖大将、宮内相・土方久元伯爵、周辺府知事、他軍官民関係者約200名出席のもと製造所の開所式が挙行されます。
宇治製造所(新聞挿絵)~宇治(史料)
▲当時の新聞に掲載された宇治火藥製造所の挿絵

大阪砲兵工廠 宇治火薬製造所(明治30)
▲設立当初の宇治火藥製造所
『大阪砲兵工廠 宇治火藥製造所 全圖』(明治30年)
 
製造所からは東隣の大阪陸軍兵器支廠 宇治火藥庫まで軽便軌条が敷設され、製造した火薬を効率的に貯蔵できるようになっていました。

明治30(1897)年10月10日、砲兵第二方面本署内砲兵支廠は大阪砲兵工廠に改称します。

明治38(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、再び火薬の需要が増加したため、8月、陸軍省は硝化綿火薬製造のため製造所北側、伏見町向島の水田を買収、分工場建設を開始します。

1月18日、圧延裁断機室から出火し1名が殉職してしまいます。

9月5日、日露間に講和条約が締結され、明治三十七八年戰役が終結します。

明治39(1906)年3月、分工場が竣工します。

大正3(1914)年6月28日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発します。

大正6(1917)年、職工は3,000名を超え、増産体制が取られます。

大正7(1919)6月28日、ヴェルサイユ条約が締結され大正三四年戰役が終結します。

大正12(1923)年3月30日、『陸軍造兵廠令』(勅令第八十三號)により東京砲兵工廠と同大阪砲兵工廠は統合され陸軍造兵廠となり、宇治火藥製造所は陸軍造兵廠管下に新設された陸軍造兵廠火工廠(東京)の管下に編入されます。

3月25日、第一次世界大戦後の世界的な軍備縮小が大勢となるなか、加藤友三郎内閣の陸相・山梨半造大将は「第二次軍備整理(山梨軍縮)」を実施、宇治火藥製造所の縮小、もしくは廃止を決定、宇治火藥製造所の職工は400名に削減されます。

9月1日、関東大震災が発災、板橋火藥製造所、目黒火藥製造所が甚大な被害を受けてしまったため、大正13(1924)年、宇治火藥製造所の存続、及び板橋火藥製造所の壊滅を受け拡張、生産増強が決定します。

昭和5(1930)年、茶褐薬(TNT)製造工場を建設、昭和7(1932)年、分工場を増設、昭和8(1933)年、茶褐薬の製造、昭和9(1934)年5月、分工場において黄色薬の製造を開始します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が勃発、我が国の早期解決の方針は支那国民党政府の度重なる不法行為により尽く反故にされ、事変は長期化していきます。

8月16日2310頃、黄色薬熔融作業中に爆発事故が発生、作業場や倉庫に次々と引火し大火災が発生、さらに2350、2回目の爆発が発生、五ケ庄野添、寺界道、大八木島の民家や茶小屋にも飛火、爆風により付近4km四方の建物はことごとく倒壊し火災が発生します。
続いて17日0000過ぎ、3回目の爆発が発生、宇治川を飛び越え槇島にも飛火し火災が発生します。

連絡を受けた第十六師團長・中島今朝吾中将は直ちに隷下部隊に出動を下令、消火、負傷者の救助にあたり、近隣の住民は黄檗山方面に避難し、負傷者は京都陸軍病院などに搬送され、0230頃火災は鎮火します。

この爆発事故で職工、消防人夫8名が殉職、4名重傷、14名軽傷、家屋142戸が全壊、139戸が半壊、700戸が小壊してしました。
爆発直後の製造所~宇治(史料)
▲爆発事故直後の宇治火藥製造所
 奥に水槽棟が見えます

戦時中と言う事もあり、政府(近衛文麿内閣)は一般会計から400,000円、特別会計から829,244円を支出し製造所の復旧に着手します。

10月、『支那事變陸軍軍需動員』が下令され、製造所の昼夜連続運転が開始されます。

昭和14(1939)年7月15日、陸軍省は今後の事故防止を計るべく火薬の化成、及び成形作業を分離するとともに、支那事変の火薬需要に対応すべく枚方町(現、枚方市)の香里丘陵に分工場である香里工場(今力衞大尉)を開設します。

昭和15(1940)年4月1日に、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍造兵廠は陸軍兵器廠と統合され、陸軍造兵廠火工廠管下の各火薬製造所は東京第二陸軍造兵廠の管下となり、宇治火藥製造所は東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所に改称します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年3月1日、香里工場が宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠 香里製造所(小野秀夫中佐)に改編され、火薬製造にあたるなか、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦時の所長は飯田孝作少将、職員数は4,682名でした。

停戦に伴い宇治製造所は操業を停止、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、10月10日、米第33歩兵師団第130歩兵連隊130名により宇治製造所は接収され、火薬の処分が開始されます。

11月9日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により東京第二陸軍造兵廠は復帰、陸軍省(12月1日、第一復員省に改編)陸軍造兵廠殘務整理部が発足し、宇治製造所は陸軍造兵廠殘務整理部 宇治出張所となり飯田少将以下復員官数十名が残留し、残務処理に当たります。

昭和21(1946)年1月20日、GHQにより製造機械類は賠償指定物件に指定され、米軍管理下に可動状態にあった製造機械、資材は諸官庁、機関に転換され搬出されます。

その後、製造所は大蔵省に返還され(時期、全面かどうか詳細は不明)大阪財務局の管理下に置かれ、昭和22(1947)年4月、宇治製造所跡の南側に京都大学木材研究所が開校します(昭和25年5月、宇治分校が開校)。

昭和22(1947)年5月3日、芝東借上地跡に東宇治中学校が開校します。

9月、製薬会社が医薬品製造のため、また日本窒素肥料㈱が工場用地として製造所全域の払下げを申請、同年、設備を間借りし日本薬品化成㈱が設立(昭和24年、閉鎖)されますが、国は製造所跡を国有地として存続する事を原則とします。

昭和25(1950)年8月10日、警察予備隊が発足、昭和26(1951)年2月15日、製造所跡の北側、及び分工場跡に宇治駐屯地が開設され、警察予備隊唯一の補給部隊として宇治管理補給部隊が発足、9月、宇治管理補給部隊は宇治管理補給廠に改編されます。

昭和27(1952)年10月15日、宇治管理補給廠は保安隊関西地区補給処に改編、昭和29(1954)年7月1日、保安隊 関西地区補給処は陸上自衛隊 関西地区補給処に改称します。

昭和37(1962)年10月、芝東借上地跡にあった東宇治中学校が製造所跡の南側、京大宇治分校内に移転してきます。

昭和52(1977)年7月、分工場跡にあった陸上自衛隊 関西地区補給処 分倉庫地区が用途廃止になり、大蔵省へ移管され、宅地開発公団(現、都市再生機構)により住宅地として開発されます。

平成10(1998)年3月26日、陸上自衛隊 関西地区補給処は中央補給処の整理統合により関西補給処に改称し、現在に至ります。


主要参考文献
陸上自衛隊宇治駐屯地彰史館展示

「砲ニヨリ宇治火薬庫地所増地ノ件ニ付伺」 (明治18年4月6日 アジ歴)

「陸密第八七八號 陸軍兵器補給廠ノ分廠ノ名称及位置ノ件」 (昭和15年5月10日 アジ歴)

『大阪砲兵工廠沿革史』 (明治35年7月 大阪砲兵工廠)

『歴史地理教育 636』 (平成15年3月) 

『宇治市史 4』 (昭和53年2月 宇治市)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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