当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所

京都府宇治市には東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所と、その東隣に大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠がありました。
まずは火薬製造を行っていた東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所を紹介します。

131「第一脱脂工場」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲第一脱脂工場(明治期築、宇治駐屯地内)

【探索日時】
平成20年10月5日、11月1日、平成22年10月30日、平成23年3月30日
(10月5日、10月30日は宇治駐屯地創立記念行事)

【更新情報】
平成23年10月24日・・・写真追加、遺構追加、地図訂正






施設の場所と名称
※青字は地図にリンクしています。
京都府宇治郡宇治村五ヶ庄、伏見區大島、現在の京都府宇治市及び伏見区には大東亜戰争終結まで陸軍の火薬関連施設が2ヶ所設置されていました。
宇治製造所(本工場 昭和21年7月)
▲昭和21年7月の「東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 本工場」跡周辺
A:東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
C:射場
D:大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
E:芝東借上地

宇治製造所(分工場 昭和21年7月)
▲昭和21年7月の「分工場」跡周辺
A:東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
B:同 分工場 
F:木幡駅借上地
G:高射砲陣地(部隊不明)

宇治火薬製造所(全図)
▲現在の地図
A:東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
B:同 分工場 
C:射場
D:大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
E:芝東借上地
F:木幡駅借上地

当時の施設は現在は以下のようになっています。
A「東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
 陸上自衛隊宇治駐屯地、京都大学宇治キャンパス、市立東宇治中学、同幼稚園

B「分工場
宇治市五ヶ庄西田、雲雀島、木幡熊小路、伏見区桃山町大島、南大島の住宅、団地

C「射場
宇治少年院跡の一部

D「大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠 」(宇治郡宇治村五ヶ庄)
五ヶ庄三番割の黄檗公園、宇治おうばく病院、京大運動場、宇治少年院跡

E「芝東 借上地
宇治病院

F「木幡駅 借上地
住宅

※施設名称は昭和20年の停戦時

当施設はどちらも上級組織が度々改編や名称の変更を行っているので、現在でも名称が混同されたりしています。
一般には「東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 本工場」が「宇治火薬製造所」、「東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 分工場」が「木幡分工場」や「向島分工場」、「大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠」が「宇治火薬庫」、「宇治火薬貯蔵庫」などと呼ばれているようです。
名称の変遷は後述します。

今回は「東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所」を紹介します。


施設の概要
東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
黒色火薬、茶褐薬(TNT)など軍用、猟用無煙火薬、及び鉱山用綿火薬など民間用火薬の化成、成形

同分工場
硝化綿火薬、黄色火薬、帯状薬などの化成、成形

射場
火薬の性能試験

芝東借上地」(工員技能養成所)
火薬製造職工の教育養成

木幡駅借上地」(貨物積卸場)
分工場行きの貨物の管理

要目
東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
・用地:706023.2㎡(213,572坪)
・建物:461棟

同分工場
・用地:399967㎡(120,990坪)
・建物:165棟

射場
・用地:92205㎡(27,892坪)
・建物:10棟

芝東借上地
・用地:13505㎡(4,085坪)
・建物:10棟

木幡駅借上地
・用地:3804㎡(1151坪)
・建物:4棟


遺構について
東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
【本工場】
[陸上自衛隊宇治駐屯地]
・建物:明治期(煉瓦)25棟、大正期(煉瓦)10棟、昭和期(コンクリート製)26棟(平成17年時点)
・殉職碑、忠霊堂
・大阪砲兵工廠、陸軍省所轄地、陸軍省用地、陸軍用地 石標


[京大宇治キャンパス]
・明治期(煉瓦)2棟、昭和期(コンクリート製)4棟

[周辺]
・奏任官・判任官官舎、宿舎6棟

【分工場】
・側線土堤、跨道橋、電柱
・陸軍用地 石標

【射場】
・隧道


遺構詳細
まずは宇治製造所 本工場の遺構です。
陸上自衛隊宇治駐屯地内には上記のように多数の建物が残され、現役で使用されています。
一部改築されていますが、非常に保存状態も良く(一部には当時の迷彩が施される)質、量ともに旧火薬製造所の中でも他を圧倒する遺構群です。

見学については、毎年4月に2日間(桜祭り)、10月に1日(駐屯地創立記念行事)の合計3日間一般開放されます。
駐屯地内なので当然軍事機密もあり、立ち入り範囲は制限されますがかなりの建て物の外観(一部は内部も)見学が可能です。
また事前連絡による日程調整のうえ見学も可能です。
僕は10月の創立記念行事しか行った事がありませんが、毎年秋雨前線の真っ最中なので天候が悪いものの、他の駐屯地と比べ部隊の特性上、行事の規模が小さく来場者が少ないので建物の撮影には向いています。
ただ、雑草が未だ枯れていないので、駐屯地外の遺構を探索するには桜祭りの方がお勧めです。

遺構については展望塔内資料(現在は撮影不可)と実地調査でおおよそ下図のように残されています。
宇治火薬製造所(本工場)
▲宇治製造所 本工場 遺構配置図
茶色:明治期の煉瓦建物
黄色:大正期の煉瓦建物
緑色:昭和期のコンクリート建物
赤線:宇治製造所敷地
紫線:現在の施設の境界
※番号は資料に合わせ便宜上ふった物です。
 外観撮影できた建物のみ番号を記入しています。

[明治期の建物]
※「」内名称は昭和17年3月時点のものです
 (『東京第二陸軍造兵廠建物配置圖』参照)
130  明治期(倉庫)~宇治
▲130「倉庫」
 手前の「水溜」も当時のものです。

133  明治期(??工場)~宇治
▲133「○○工場」(○は判読不能、以下同様)

115「機械工場」北から~宇治(本工場・陸自)
~115「機械工場」

157「発電所」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲157「発電所」(一般開放地区外、京大から撮影)

26  明治期(第八號倉庫)~宇治
▲26「第八號倉庫」

25「第七号倉庫」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲25「第七號倉庫」

114「棉工場」(レンガ・木造とも) 北西から~宇治(本工場・陸自)
▲114「棉工場」

153「煮洗裁断工場」 北西から(宇治製造所)
▲153「煮洗裁断工場」
 (一般開放地区外、体験試乗時撮影)

15「第四号倉庫」 南西から~宇治(本工場・陸自)
▲15「第四號倉庫」

14「第五号倉庫」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲14「第五號倉庫」

96「第二二号倉庫」、(奥98「第二三号倉庫」) 北から~宇治(本工場・陸自)
▲96「第二二號倉庫」、(奥)98「第二三號倉庫」

95「第二一号倉庫」、(奥97「第二四号倉庫」) 北西から~宇治(本工場・陸自)
▲95「第二一號倉庫」、(奥)97「第二四號倉庫」

97「第二四号倉庫」(右)、98「第二三号倉庫」(左) 北西から(宇治製造所)
▲97「第二四号倉庫」(右)、98「第二三号倉庫」(左)

1「第一事務所」(彰史館) 南西から~宇治(本工場・陸自)
▲1「第一事務所」(彰史館=資料館)

宇治駐屯地・彰史館は展示品こそ少ないものの、幕末から現代にいたる製造所、駐屯地の歴史が明瞭完結に展示されています。
また、深草の第十六師團関連の展示も写真、地図を中心に展示がされています。
地図、写真、展示品の全てが調査上非常に貴重で、必見です。

宇治 彰史館内部
▲彰史館内部

公式図-本工場
▲『東京第二陸軍造兵廠建物配置圖』

火薬製造所 鬼瓦 (2)~彰史館
▲宇治製造所で使用されていた鬼瓦

火薬製造所 鬼瓦~彰史館
▲宇治製造所で使用されていた鬼瓦

火薬製造所 制水弁蓋~彰史館
▲宇治製造所で使用されていた制水弁蓋




1「第一事務所」前の築山~宇治~宇治(本工場・陸自)
▲1「第一事務所」前の築山
 この池と築山も当時のものです。
 手前に建っているのは昭和19年11月1日に建立された「製造所五十周年記念碑」です。

55「事務所付属家」 西から(宇治製造所)
▲55「事務所付属家」

269  明治期(水槽棟)~宇治
▲289「水槽棟」(明治28年4月、築)
 現在は展望塔として使用されています。

火薬製造所内使用の軽便貨車(縮小模型)とレール (展)~彰史館
▲展望塔内にある宇治製造所内で使用されていた軽便貨車模型(約3分の1)と
 軽便軌条(実物)・・・(平成20年撮影、現在は撮影禁止)


[大正期の建物]
127  大正期(第二脱脂工場)~宇治
▲127「第二脱脂工場」

126「修理工場」 北東から~宇治(本工場・陸自)
▲126「修理工場」

152「工員浴室」、151「浴室」(右奥)、157「発電所」(奥) 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲152「工員浴室」、(右奥)151「浴室」、(奥)157「発電所」
 工員浴室は当時は両側に建物が接続(痕跡のある場所)
 していましたが、現在は撤去されて有りません。
 (一般開放地区外、京大から撮影)

19「第八会食場」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲19「第八会食場」

204「用途不明(大正期)」(配置図に無し) 北東から(宇治製造所)
▲204「用途不明」(配置図に無し)

237「圧延圧伸工場」、243「圧延圧伸工場」(奥)南東から~宇治(本工場・陸自)
▲243「圧延圧伸工場」、243「圧延圧伸工場」(奥)
 (一般開放地区外、京大から撮影)

243「圧延圧伸工場」 南西から(宇治製造所)
▲243「圧延圧伸工場」
 (一般開放地区外、体験試乗時撮影)

239「捏和工場」 南東から(宇治製造所)
▲239「捏和工場」
 (一般開放地区外、体験試乗時撮影)


[昭和期の建物]
140「仕上工場」 北東から~宇治(本工場・陸自)
▲140「仕上工場」

139  昭和戦前期 (合成填実工場)~宇治
▲139「合成填実工場」

136「混和乾燥工場」 北東から~宇治(本工場・陸自)
▲136「混和乾燥工場」

226 青写真室 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲226「青写真室」

224「病室」 南西から~宇治(本工場・陸自)
▲224「病室」

225「診療所」 北西から(宇治製造所)
▲225「診療所」

60「屯○掛場」 北から(宇治製造所)
▲60「屯○掛場」

51「用途不明(昭和期)」(配置図に無し) 北西から(宇治製造所)
▲51「用途不明」(配置図に無し)

304「理化学試験場」 北東から(宇治製造所)
▲304「理化学試験場」

433「理化学試験場」 南東から(宇治製造所)
▲433「理化学試験場」

194「炸薬収函工場」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲194「炸薬収函工場」(一般開放地区外、外周道路から撮影)

196「乾燥工場」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲196「乾燥工場」(一般開放地区外、外周道路から撮影)

188「乾燥工場」 南西から~宇治(本工場・陸自)
▲188「乾燥工場」(一般開放地区外、外周道路から撮影)

この他にも駐屯地西側には昭和期に建てられた建物数棟が残されているようですが、残念ながら一般人立ち入り禁止区域になるため、見学はできません。

また、駐屯地正門北側(駐屯地内)には門柱qがあります。
現在は塀の内側にあり閉鎖されていますが、製造所開設当初の表門はこの場所にあり、その後は通用門として使用されていたようです。


上掲地図のように宇治製作所の南東部分は東宇治幼稚園、東宇治中学校、京都大学になっています。

京大宇治キャンパス内にも当時の建物が6棟残されています。
見学については事前に「総務・企画広報グループ(0774-38-3333)」に連絡、送られてくる所定の用紙を記入し許可を取って下さい。
401「第二予乾燥工場」 南東から~宇治(本工場・京大)
▲401「第二豫乾燥工場」(建設時期不明)

402「第四予乾燥工場」 南西から~宇治(本工場・京大)
▲402「第四豫乾燥工場」(建設時期不明)

上記2棟は有名ながら結構傷んでいますが、耐震工事が実施されるようで今後の保存に期待が持てます。

403「裁断工場」 南西から~宇治(本工場・京大)
▲403「裁断工場」
 京大内最大の建物で、迷彩が施されるなど貴重な建物ですが、
 かなり傷みが激しく今後の対策が求められます。

404「浸洗室」 北東から~宇治(本工場・京大)
▲404「浸洗室」
 平成20年に訪れた際は南側に殆ど崩壊した当時の物と思しき
 庇や電灯が着いていましたが、新しい物に替っていました。

404「浸洗室」 北側の油槽? 南西から~宇治(本工場・京大)
▲404「浸洗室」の北側にある油槽?
 鉄製の槽の周囲を煉瓦で囲みコンクリートが塗られています。
 東側に木が根づいてしまい残念ながら煉瓦が崩落しています。

405「第二煮洗工場」 南西から~宇治(本工場・京大)
▲405「第二煮洗工場」

406「倉庫」 北東から~宇治(本工場・京大)
▲406「倉庫」
 『配置圖』によると「倉庫」となっていますが、建物西側に
 煙突や排水設備があり、食堂のようにも思えます。

406「倉庫」南西の水道バルブ~宇治(本工場・京大)
▲406「倉庫」南西に付属する水道バルブ
 「愛知時計電機」製の水道量計です。
この愛知時計の社標は昭和22年まで使用されていたので、この建物が宇治製造所時代の物と判断しました。
ちなみに愛知時計と言えば海軍の名機「九九艦爆」や「零式水偵」の製造で有名です。

鉄道門は現在、京大北門として使用されていますが、門扉のレールの下にコンクリートで塗り込められた軽便鉄道の軌条4本が確認できます。
京大内にはこの場所以外にも軽便軌条があったようですが、殆どがアスファルト舗装されてしまい残っていません。
m「鉄道門」軽便軌条~宇治(本工場・京大)
▲門扉のレールの下に埋設されている右から4本が軽便軌条m

n基礎?~宇治(本工場・京大)
▲京大北門を入った場所にある煉瓦構造物n
 英国積みで造られた紛らわしい単なる花壇か?

駐屯地北側の一画は当時、製作所に勤務する奏任官(士官)、判任官(下士官)の官舎や宿舎、警備に当たる歩兵第九聯隊の番舎がありました。
建物は製造所長や奏任官は戸建て、判任官は二戸連棟になっています。
現在は民有地になっていますが官舎地区の外周の塀、6棟の建物が現存しています。
それぞれの建物は現在もeを除き人が住んでいるので増改築されていますが、d・e・f・gは比較的当時のままで、特にeは殆ど完存です。
またe・h・iは二戸連棟の半分が取り壊されています。

d:判任官官舎二等(二戸連棟完存)保存度★★★★☆
e:判任官官舎二等(二戸連棟の一戸)★★★★★…空家
f:判任官官舎二等(二戸連棟完存)★★★★☆
g:第一號官舎(戸建て)★★★★☆
h:官舎(二戸連棟の一戸)★☆☆☆☆
i:官舎(二戸連棟の一戸)★★☆☆☆
c官舎門柱 北東から~宇治(本工場・陸自)
▲官舎地区の塀と「門柱」c

e「判任官官舎二等」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲「判任官官舎二等」e
 他の建物は現在も住人がいてるので写真掲載は控えます。

a「病室」 西から~宇治(本工場・陸自)
▲官舎地区の東側にある「建物」a
 『配置圖』では「224 病室」から渡り廊下で連結されており、この建物も病室と思われます。

b「水溜」 南東から~宇治(本工場・陸自)
▲「水溜」b
 この水溜は当時のものです。

北門~宇治(本工場・陸自)
▲「宇治製造所 北門」k(現、宇治駐屯地北門)

j「殉職碑」と忠霊堂~宇治(本工場・陸自)
▲駐屯地内にある「殉職碑」と「忠霊堂」j



製造所の外周は北門から官舎地区正門鉄道門から南東角まで「混凝土塀」(コンクリート塀)が用いられていましたが、それ以外は全て「生垣」と「鉄線柵」で囲われていました。
現在も当時の混凝土塀は完存しており、鉄線柵は全てフェンスになっています。
南東の塀~宇治(本工場・陸自)
▲宇治製造所南東端付近の「混凝土塀」

製造所北側の京阪電鉄線路沿いに軍用地の境界を示す「石標」が4本残っています(位置は上掲の図を参照)。
駐屯地北側の道路は製造所当時は陸軍の敷地で、戦後になって一般道化されました。
陸軍用(地)ロ 石標(宇治製造所)
▲「陸軍用(地)」ロ
 京阪電鉄「五ケ荘踏切」の南側にあります。
 この石標の西側にある3本の石標は全てブロック塀に埋まっており、
 辛うじて頂部の境界線表示が見える程度です。

製造所南側にも「石標」が7本残っています(位置は上掲の図を参照)。
大阪砲兵工廠所轄地 レ~宇治(本工場・陸自)
▲「大阪砲兵工廠所轄地」レ

陸軍省所轄地 ル~宇治(本工場・陸自)
▲「陸軍省所轄地」ル

陸軍省用地 ヤ~宇治(本工場・陸自)
▲「陸軍省用地」ヤ

陸軍省用地 ヨ・陸軍省所轄地 ラ~宇治(本工場・陸自)
▲陸軍省用地「ヨ」と「陸軍省所轄地」ラ

敷地南東端の京大職員宿舎内には巾180x奥行180x高70㎝の水槽があります。
コンクリートの状態から当時の物と思われます。
南東隅の水槽(180x180x70)~宇治(本工場・陸自)


続いて分工場の遺構です。
宇治製造所(分工場)
▲分工場の現在
A:東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
B:同 分工場 
F:木幡駅借上地

こちらは宇治駐屯地分倉庫として使用されていた時期は、多数の煉瓦倉庫や建物が本工場同様に使用されていましたが、昭和52(1977)年7月、用途廃止により大蔵省に移管後、大規模な開発により壊滅的に滅失してしまい現在は何も残っていません。
分工場1~宇治(史料・分工場)
▲在りし日の分工場の建物

分工場2~宇治(史料・分工場)
▲在りし日の分工場の建物

宇治火薬製造所分工場 側線 側線部分
▲側線周辺の遺構              ▲側線分岐部(現在の緑道付近)
F:木幡駅 借上地(区画も滅失)

唯一、分工場に鉄道により資材を搬入するために敷設された「側線」の土堤(地図中水色部分)、跨道橋⑫(⑪と⑬は橋台のみ)、電柱⑭3本と境界を示す石標24本(サ~メ:上図参照、▲は石標の向き)が残っています。
側線の分岐部は上記のように複線になっていました(『配置圖』より)。
鉄道ファンの方なら「なるほど」と思うのかも知れませんが、生憎そちらの知識は皆無なので僕には良く分かりません。
側線跡 木幡駅付近 南から~宇治(分工場)
▲当時3本の線路が並んでいた部分です。
 現在は緑道になっています。

側線跡 分岐部~宇治(分工場)
▲現在は待避線がありますが、この付近で側線と接続していたようです。

側線 ⑪跨道橋 付近から東を~宇治(分工場)
▲側線は土堤上に敷かれていました。

⑪跨道橋 北から~宇治(分工場)
▲跨道橋⑪
 現在は橋が撤去され橋台のみが残ります。

⑫跨道橋 南から~宇治(分工場)
▲跨道橋⑫
 唯一橋が残っています。

⑬跨道橋(京阪)北西から~宇治(分工場)
▲京阪を跨ぐ跨道橋⑬
 こちらも橋は撤去されています。

⑭ヒ 電柱~宇治(分工場)
▲跨道橋⑫付近には当時の木製電柱3本が残っています。

陸軍用地セ 石標 六~宇治(分工場)
▲陸軍用地「六」セ
 許波多神社境内に裏にあります。

陸軍用地ソ 石標 一一~宇治(分工場)
▲陸軍用地「一一」ソ
 道路の脇にあります。 

陸軍用地メ 石標 二一~宇治(分工場)
▲陸軍用地「二一」メ
 畑の中にあります。

他の石標は(「」内は番号刻印)
サ「三」:緑道と民家との境のフェンスギリギリ。正面見えず。鏡で見ると「陸軍用地」。
シ「四」:民家の敷地。
ス「五」:民家の敷地。上にモノが乗っているので確認できませんが、元々の向きと違うようです。
タ「一二?」:道路を挟んでソの対面。「陸軍」のみ判読可能。
チ「一三」:塀に埋没。番号のみ判読可能。
ツ「一四」:民家の敷地。
テ「二〇」:畑の中。
ト「二三」:トと同じ畑の中。
ナ:大半が欠損。
ニ「三三」:塀に埋没。番号のみ判読可能。
ヌ「三四」:塀に埋没。「陸軍用地」の右半分と番号の判読可能。
ネ:塀に埋没。頂部の境界方向矢印のみ判読可能。
ノ:塀に埋没。
ハ:塀に埋没。
ヒ:塀に埋没。「陸軍用地」の右半分のみ判読可能。
フ:塀に埋没。
ヘ:畑の中。殆ど埋没。頂部の境界方向矢印のみ判読可能。
ホ「四七」:駐車場と道路の間。
マ:塀に埋没。
ミ:塀に埋没。
ム「二六」:番号のみ判読可能。
モ「二?」:塀に埋没。頂部の境界方向矢印、側年の番号10の位のみ判読可能。

上記の側線周辺以外に本工場と分工場が接続する辺りの畑に折れた「陸軍省所轄地」の石標が倒れていました。
陸軍省所轄地 あ(宇治製造所)


こちらのサイトに、昭和51年4月(自衛隊から大蔵省に移管される前年)の写真が掲載されていますが、当時は線路や荷捌場の建物等が残っていたようです。


次に射場です。
宇治製造所・宇治分廠(火薬庫・射場)
▲現在の地図にC宇治製造所 射場とD宇治分廠の地図を転写したもの
 D宇治分廠の詳細については別ページで解説します。

射場は近年まで宇治少年院の敷地となっていましたが、現在少年院は閉鎖されています。
射場は東側の高峰山の麓を削り、その土を西側に積む事により防爆土堤を造りました。
遺構としては砲廠や火薬取付場から射場に入る隧道⑧が残されています。
現在、残念ながら見学は一切出来ません。


東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所の歴史
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、火薬の需要が急激に増加したため東京砲兵工廠板橋火藥製造所(東京)、同目黒火藥製造所(東京)、同岩鼻火藥製造所(群馬)に加え、火薬の原料である硫酸、硝酸を大阪から供給できる見通しがついた事もあり、前線に近い西日本に4番目の火薬製造所を新設することとなりました。
4月、建設班長に島川文八郎砲兵中佐が任命されます。
明治8(1876)年に京都府宇治郡宇治村五ヶ庄に宇治火藥庫が設置されている事、人家密集地から離れている事、宇治川の水運が利用できる事から、9月、五ヶ庄に新設が決定します。
村長、役場職員、尚武義會役員、地元名士による誘致、協力のもと陸軍省は各地主に対し法定地価の約2倍を提示、地主側も挙国一致で国難に当たるべき時とし僅か2日で50町歩(約15万坪)の用地の買収が完了します。
11月1日、大阪砲兵工廠 宇治火藥「仮」製造所が開所され火薬の製造を開始します。
明治28(1895)年4月17日、講和条約が成立、明治二十七八年戰役が終結します。
明治28(1895)年5月、宇治火藥製造所の建設工事(総工費630,000円)が本格的に開始され、明治29(1896)年4月14日、陸相・元帥大山巌大将、宮内相・土方久元伯爵、周辺府知事、他軍官関係者約200名出席のもと製造所の開所式が挙行されます。
宇治製造所(新聞挿絵)~宇治(史料)
▲当時の新聞に掲載された宇治火藥製造所の挿絵

大阪砲兵工廠 宇治火薬製造所(明治30)
▲設立当初の宇治火藥製造所
『大阪砲兵工廠 宇治火藥製造所 全圖』(明治30年)
 
製造所からは東隣の大阪陸軍兵器支廠 宇治火藥庫まで軽便軌条が敷設され、効率的に製造した火薬を貯蔵できるようになっていました。
明治38(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、再び火薬の需要が増加したため、8月、製造所北側の京都府紀伊郡伏見町向島に硝化綿火薬工場(分工場)の建設工事が開始されます。
1月18日、圧延裁断機室から出火し死者が1名出てしまいます。
9月5日、講和条約が成立、明治三十七八年戰役が終結します。
明治39(1906)年3月、分工場が完成します。

大正3(1914)年6月28日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発します。
大正6(1917)年、職工は3,000名となり増産体制が敷かれます。
大正7(1919)6月28日、大正三四年戰役が終結します。
大正12(1923)3月30日、『陸軍造兵廠令』(勅令第八十三號)により陸軍東京砲兵工廠と同大阪砲兵工廠は統合され陸軍造兵廠となり、宇治火藥製造所は新設された陸軍火工廠(東京)の管下となります。
4月、世界的な軍備縮小が大勢となるなか、我が国でも加藤友三郎内閣の陸軍大臣・山梨半造大将は「第二次軍備整理(山梨軍縮)」を実施、宇治火藥製造所の縮小廃止が決定されます。
9月1日、関東大震災が発災、板橋火藥製造所、目黒火藥製造所が甚大な被害を受けてしまいます。
大正13(1924)年、宇治火藥製造所の職工は400名に削減されますが、関東大震災による板橋火藥製造所の壊滅を受け生産拡張に転換します。

昭和5(1930)年、茶褐薬(TNT)製造工場の建設を開始します。
昭和7(1932)年、分工場の増設を開始します。
昭和8(1933)年、茶褐薬の製造を開始します。
昭和9(1934)年5月、分工場において黄色薬の製造を開始します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発します。
8月16日2310頃、黄色薬熔融作業中に爆発事故が発生、作業場や倉庫に引火し大火災となります。
さらに2350、2回目の爆発が発生、五ケ庄野添、寺界道、大八木島の民家や茶小屋に飛火、付近4km四方の建物は尽く倒壊し火災が発生します。
17日0000過ぎ、3回目の爆発が発生、宇治川を越えた槇島にも飛火し火災が発生します。
直ちに第十六師團(京都)が出動、消火、負傷者の救助にあたり、近隣の住民は黄檗山方面に避難し、負傷者は京都陸軍病院などに搬送され、0230頃火災は鎮火します。
この爆発事故で職工、消防人夫8名が死亡、4名重傷、14名軽傷、家屋142戸が全壊、139戸半壊、700戸小壊してしました。
爆発直後の製造所~宇治(史料)
▲爆発事故直後の宇治火藥製造所
 奥に水槽棟が見えます。

時節柄、政府(近衛文麿内閣)は一般会計から400,000円、特別会計から829,244円を支出し直ちに復旧に着手します。
10月、『支那事變陸軍軍需動員』が下令され、製造所内全設備の昼夜連続運転が開始されます。
昭和14(1939)年7月15日、今後の事故防止を計るべく火薬の化成、及び成形作業を分離するとともに、前年に勃発した支那事変の火薬需要に対応すべく枚方町(現、枚方市)の香里丘陵に分工場である香里工場(今力衞大尉)が開設されます。

昭和15(1940)年4月1日に、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍造兵廠は陸軍兵器廠と統合され、陸軍火工廠管下の各火薬製造所は東京第二陸軍造兵廠の管下となり、宇治火藥製造所は東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所となります。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が勃発します。

昭和17(1942)年3月1日、香里工場が宇治製造所から独立し、東京第二陸軍造兵廠 香里製造所(小野秀夫中佐)に昇格します。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の職員数は4,682名でした。

停戦に伴い宇治製造所は操業を停止、11月、東京第二陸軍造兵廠が復帰、第一復員省東京第二造兵廠残務整理部が発足し、宇治製造所は同部宇治出張所となり復員官数10名が残留し、残務処理に当たり、施設は大蔵省近畿財務局の管理下に置かれました。

昭和22(1947)年、宇治製造所跡の南側に京都大学木材研究所が開校、芝東借上地跡に東宇治中学校が開校されます。
昭和25(1950)年8月10日、警察予備隊が発足、昭和26(1951)年2月15日、警察予備隊唯一の補給部隊として宇治管理補給部隊が宇治製造所跡の北側、及び向島分工場跡に宇治駐屯地が開設されます。
9月、宇治管理補給部隊は宇治管理補給廠に改編されます。
昭和27(1952)年10月15日、宇治管理補給廠は保安隊関西地区補給処に改編されます。
昭和29(1954)年7月1日、保安隊関西地区補給処は陸上自衛隊関西地区補給処に改称されます。
昭和37(1962)年、東宇治中学校が宇治製造所跡の南側に移転してきます。
昭和52(1977)年7月、分工場跡にあった陸上自衛隊関西地区補給処分倉庫地区が用途廃止になり、大蔵省へ移管されます。
平成10(1998)年3月26日、中央補給処の整理統合により関西補給処に改称され、現在に至ります。


主要参考文献
・陸上自衛隊宇治駐屯地彰史館展示

「砲ニヨリ宇治火薬庫地所増地ノ件ニ付伺」(明治18年4月6日 アジ歴)

「陸密第八七八號 陸軍兵器補給廠ノ分廠ノ名称及位置ノ件」(昭和15年5月10日 アジ歴)

『大阪砲兵工廠沿革史』(明治35年7月 大阪砲兵工廠)

『歴史地理教育 636』(平成15年3月) 

『宇治市史 4』(昭和53年2月 宇治市)

・米軍撮影空中写真(昭和21年7月 国土地理院)

・Yahoo!の地図
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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